数学を初めとした理系の学問と哲学について 16
論理の本質規定の萌芽
新哲学入門 板倉聖宣 仮説社
スピノザの規定は否定が本質だと考えます ゼノン4つの逆理 講談社
山川偉也
自然は<一>である、数は認識には必要だが自然には存在しないということ 吉本隆明は自著「言語にとって美とはなにか」を手に取り、勝利だよ、勝利だよと呟いた
新約聖書学、数学、マルクス主義は自己の意図と真逆の結論に茫然自失となった
科学もそんな結論が待っているんじゃないかなと
勝利だよ、勝利だよと言えるのだろうかという不安がある
結論を最初に確認した科学者はコペルニクスのように死の後で発表するんじゃないかな、なんて思ったりする 正直自分でもこの結論は受け付けるのがちと
ハイネは死の床で帰教する
ドイツ古典哲学の本質の冒頭でマルクスに呼び掛けた 個人的には自分の生涯に悔いはないが
悔いはあるかな
解りたいことが解ったが・・・
自己満足で良い 笑
知人で兄弟、子供、両親潰すというか利用して、自己満足している人がいる
自分のことは判らないだなと怖くなる事例 さて、とりあえずまとめなきゃな
あと一つ未解決問題があるが見切り発車しないと
先が短い予感があるので
フラットアース説と地球球体説論争で前進出来たのは意外望外
球体説は認識の地動説だが光速度一定の原理ではない 科学は未だ基本が確定していない
だからこそ個々の理解は徹底的には否定できる段階じゃないのかも
いろいろあっても良いのだから、自由にやろうよ
わたしは自然の無矛盾な理解と理解とは何かを追究したい
超ヒモ理論もビッグバン仮説も認識する自然がそのままの自然という天動説の誤謬から逃れていないとわたしは理解している
「ここ」からなど無い
「ここ」までもまた無い
終わりは始まり、始まりは終わり
矛盾は規定するから
光速度一定の原理は自然における絶対座標、つまり始まりを否定している
ならば自然は無限で永遠ということではないだろうか
終始で規定するが終始は存在しないということかと だからさ、数式で観測問題は解決しないよね
重力概念も未だ未解決
いろいろ考えなおした方が良いんじゃないかなと横目で見る立場から思えるんだ
光速度一定の原理が何を示すのかはまったくの放棄状態
基本に還った方が良いんじゃないかなと思うんだ
ファイアアーベントは専門家の過ちを素人が正すことは良くあることと語る
それはともかく納得できる自然観を構築して欲しい
素人には何が何やら 変わることは変わらない
変わらないというのは規定するから
知は対象の否定
決定不能が決定している 現代学問は革命が必要な段階
まだまだ天動説の尾を引き摺っている
貴方もコペルニクスに成れるかも 笑 古代ギリシャはいろいろ面白い考え方が花開いたようだ
地動説も進化論もそうだし、フロイト心理学の祖型もあるとか
でコペルニクスとか典型に古代ギリシャに還ったりする
パルメニデス、ピタゴラスとかもあるし
数の定義である大きさが無いというのはパルメニデスの弟子ゼノンが師の自然観擁護で展開したことから
で飛ぶ矢は飛んでいないという逆説が生まれたりする
万物は流転するとか、もういろいろ
ルクレティウスのは古代ギリシャのエピクロスの祖述であり、著作が失われたから重宝されている
快楽主義という批判はキリスト教と対立するから貼られたレッテルとか
個人的にはエピクロスはパルメニデスりが認識の相対化可能にする地点にいるのに比べて本質的ではないように思える
ある地点まではとても有効な視点ではあるが
現代に必要なのはパルメニデスとスピノザだと考えている
クレタ人の逆説が対象と規定の関係の本質を示しているというのがわたしの理解 自力でそういうことを学ばれたのは凄いと思います。
私は下村寅太郎に頼ろうかなと。 凄いかどうかは分かりませんが w
高校時代、理数系の論理が理解できずに脱落しました
板倉さんが「科学と方法」で科学は自然を無矛盾に理解することと書いています
また東大理数系に基本概念、重力などを理解しているかテストしたら半分近くが×で驚いたとありました
教科書を調べたら、これでは丸暗記するしかないという叙述だったと書いています
論理的に理解しようとすると挫折してしまうとも
吉田さんの「零の発見」では無限関係の数学者の論理に疑問を呈していました
この著作がわたしの理数系理解の躓きの石でした
その前に先輩からゼノンの逆説を教えられ混乱状態にこの著作はダメージでした
数学が駄目ならと物理の教科書を開いたら重力でお手上げ
自分の能力の無さと自信を失いました
後年、重力概念がじつはまだはっきりしていないと知らされ愕然としました
つまり自分以上に学問の現在は基本が未確立だったわけです 三浦さんの言語学に触れ、その説明の明晰さに惹かれました
特に観念的な自己分裂という概念は面白かったです
ただ、カント、ヘーゲル、ゼノンの逆説の説明は解りにくかった
文法が苦手だったので、言語過程説は魅力的でした
マルクス主義者でしたが、お弟子さんが政治学者で三浦さんの社会科学の論文から共産主義は成立しないと結論を出しました
七十年代には左翼的雑誌にポルポト政権の実態のレポートが載せられたり毛沢東時代の実情、新左翼の人と話したら不利になると脅しにかかるので驚いたりしました
浅間山山荘事件、日本共産党の内ゲバ殺人
かの政治学者はソ連崩壊を予想します
リドレー「進化は万能である」は自然、文化の展開の本質から共産主義を否定します
かの政治学者はマルクスの学的方法でマルクス主義を否定します
新約聖書学、数学、共産主義は自分で自分を始末しました
論理と思想は違うのだと政治学者は語ります
たぶん科学は共産主義からも宗教からも忌避される結論を導きそうです 板倉さんは論理の性格について触れていましたが、スピノザ理解のきっかけに成りました
山川さんは自然と論理の関係理解に導きました
三浦さんは真理は単純だと述べています
わたしなりに納得できる自然観、論理観ができました
他人はともかく w
自然は単純ですし、論理もまた単純だとわたしは考えています
観測問題、光速度一定の原理の納得できる理解を求め、自分なりに達成しました
実感としては解らないのですが、論理としてなら了承できますし、無矛盾という観点からは納得したりします
いろいろわたしはハンディがありましたが、それがかえって良かったと思っています
自分で納得出来りゃ良いって思っています
それがどんなに現代の主流学説とかけ離れていたとしても
あまり時間は無い気がしますが、満足しています
バカボンパパ風に、これで良いのだ、と 自然過程説さん的にその視点で意識の生成について納得できる説はあります?まだ志半ばかな。 何故何故と遡及すると終わりはありません
つまりこの物理状態に成ると理由は無いが意識という付随現象が発生する
意識はある条件で発生し消滅します
生滅しますから物理ではありません
自然の存在理由は在りません
何故この物理状態に成るとこう成るのかは解らないということです 自然はただ在るだけです
理由、理解は人間の側です
ふと「地球へ・・・」の最後のコマを想起します >>554
そうでした思い出しました、理由はないで納得してましたね 正直言いますと、生成にはある考えがあるんですが
まだもやもやしていて形がとれません
まあ根源は解らないとは思っています
フラットアース説を考えたら新たに展開できたので
いろいろ読むとインスパイアーされることがありますので雑読しています
「科学の終焉」読んでいます
「進化は万能である」の生命の起源の探究読んでいるともやもやします
これは卵が先か鶏が先かという問題が絡みますが、意識もそんな問題が出てきそうな予感があります ああ、これもやはり根源としては親和反発の過程に理解は収斂しますね
「進化は万能である」の進化の章でも感受しました
タレブもそうなんですが、終始は自然に在るって理解している
この本でかなり啓蒙されましたが、認識の在り方自体はやはり相対化はしていない
科学の終焉のブリゴジンの弟子が時間には終始がないと結論していました
説明が面白かった
ただ著者は、やれやれ、と感想を漏らしていたので安心しました
まだ彼らは気づいていない かなり前に理系の方々と話していた時の思い出
お前は生死がどこからどこまでか解るのかと言われた
いやいや物理として生死は無いからと答えたら沈黙したというか
理系ばかりの住人は皆黙ってしまった
四次元が三次元の無限集合で実在していたらどうなるのか
そしてなによりもわたしという人間も無限に実在しなければならない
次元が自然に実在する・・・
さて科学はそれを証明したのだろうか
理系の方々はもう少し認識のあり方を追究しても良いのではないのだろうか 対象に自然非自然と矛盾しては理解不能
何も生まれない無くならない
絶対座標、つまり静止、終始は存在しない
運動が自然の存在形態
真空はディラックの海でわかるがエネルギーの基底状態
粒子は波が渦の状態 地球の内核、逆回転し始めた可能性 英科学誌に論文
https://news.yahoo.co.jp/articles/43120503ec7eb78bb9b170d8acac46a15c9da801
【AFP=時事】地球の中心部に存在する高温の鉄などでできた「内核」の回転が止まり、逆回転している可能性があると結論づけた論文が23日、英科学誌ネイチャージオサイエンス(Nature Geoscience)に掲載された。 理数系はまだまだの学問
貴方がコペルニクスに成るチャンス! 科学はこれからの学問
「科学の終焉」という本がある
現代科学が行き詰まっていることはあるが終焉ではない 中国は科挙が主な原因
(知識人が試験科目以外は学ばなくなったため)
インドは科学や技術は低カーストのやることと見なされたことが主な原因
(現在でもコンピューターサイエンスなどは高カーストのやるようなことじゃないという偏見がある)
ヨーロッパでも科学は錬金術と同等で下等なものと見なされたが、上流階級の趣味のひとつになっていたため発展できた
(科学教育が始まったのは19世紀後半以降のことで、それまでは基本独学でした)
日本もヨーロッパと似ていて、科挙もなかったためアジアの中では例外的に発展したけど、極東の島国という地理的条件が災いして限界があった
近代化で諸外国との情報交通が盛んになったことで一気にトップレベルになったということは周知の通り キリスト教的反合理主義と西欧の科学的合理主義はやはり弁証法的関係にあるわけで、魔女裁判のような中世的非合理の極みみたいな事件が起きると、その反合理主義の反対物への転換がはじまるわけであるねw 現代でも西欧世界では、信仰と知識の対立ということが言われたりするわけで、そのような対立は弁証法的相転換により大いなるエネルギーを生じさせたりするわけであるねw 近世前半は中世並みにキリスト教の影響力があった、その中で生きた西洋の科学者哲学者はキリスト教が全ての土台になってることが多い(この辺で実証してデータを積み重ねていくみたいな自然科学的思想が飛躍的に発達したのだが)
18世紀になって啓蒙主義全盛期になると学者間では特に無神論が席巻するようになって人間こそ偉大という反動か下手に文明レベルが上がったゆえの厨二病かはわからない思想が形成されてキリスト教は勢力に陰りを見せるようになった
西洋の人は基本的に人間の力は凄いみたいに信じてるところが大きい 中世は暗黒だと言われるがそんなことはなく寧ろローマだけではなくスコラ学のおかげで自然科学が発展できたと思う
むしろ後者の方が貢献が大きいと思う 貴族が科学後押ししたのはある。
天文観測とか貴族が道楽でやってたり、金出したりしてたしな。 科学者は哲学を軽視する
その実最も粗悪な哲学に縛られている
ある学者の言葉
真理だ 自然に存在しない座標原点で自然を理解するということが何を意味するのか現代科学は考えてみるべきかと 自然に存在しない座標原点で自然を理解するということに、現代科学者が問題にすべき必要性がある意味とはなにか?
あなたはそれを理解しているから考えてみるべきと言ってるわけですから「#現代科学者に問題提起!!」
といったタイトルでyoutubeにそれがなんなのかUPすれば、現代科学者からのコメントが期待できると思います。
5ちゃん哲学板という的外れな場に書き込んでるだけじゃ現代科学者にはまったく届かないですよ。 半世紀ほど前から古今東西現代科学は新しい観点が必要と主張する科学者たちがいる
問題意識が無いなら仕方ない 〇「問題意識が何なのか意識できないという問題意識しかないのだから仕方ない」 自己矛盾
×「問題意識がないなら仕方がない」 自己欺瞞
科学者無関係でした。 科学はその基礎が未だしだからなあ
それが解らなければ仕方ない 〇「科学はその基礎が未だしなのが何故かは僕も解らないから仕方ない」 自己矛盾
×「それが解らなければ仕方ない」 自己欺瞞
科学無関係でした。 自然が無矛盾、つまり理解可能だということは規定は否定、つまり理解すること自身の否定で示される
理解すること自身が様々な問題を引き起こす
カントの二律背反、ヘーゲルの運動規定、ゼノンの逆説などなど
不確定性原理、不完全性定理
ウイルスの分類困難性
生死の分かちがたさ
観測問題は認識の在り方の問題で二律背反に繋がる 米国史上最悪の爆弾魔 81歳 ユナボマー死去、数学者、IQ167、テクノロジー・産業社会批判 ユナボマーはなかなか興味深い天才だね。まず、ルソー的な自給自足、エコロジー重視で、
テクノロジーや経済社会を否定している。それは人間の疎外を生み、人間を体制に順応的な
思考停止のロボットにする、という観点があるので、これは資本主義批判にも繋がっている。
あと、ユナボマーは遺伝子工学も同様の理由で批判している。また、電通的な広告による
洗脳装置も批判している。右翼も左翼も批判している。