この世のすべてはガチャである
出生ガチャ、遺伝子ガチャ、容姿ガチャ、知能ガチャ、身体能力ガチャ、
国ガチャ、肌の色ガチャ、近所ガチャ、隣人、近隣ガチャ、時代ガチャ、
家族、親類ガチャ、自然災害ガチャ、コロナ罹患ガチャ、ワクチン副反応ガチャ、
性癖ガチャ、犯罪被害ガチャ、ストーカ、パワハラ、セクハラ被害ガチャ、
親ガチャ、子供ガチャ、買ったIT製品ガチャ、職場と人間関係ガチャ、
交通事故ガチャ、疾患、障害ガチャ、寿命ガチャ、運の良し悪しガチャ、
性格ガチャ、才能ガチャ、キラキラネームガチャ
このように、世の中の大半は自分で選択できないガチャの差配でほぼ決まっている
ことが分かる。つまり、物事を決定している主体は、ランダム性や偶然性に
委ねられたガチャシステムの方にあり、我々個人は、そのシステムの従属者の
位置にあることが自ずと明らかである。
哲学は、この理不尽で不条理なガチャシステムに対して何ができるのだろうか?
ガチャはまるで気儘な神のようではあるまいか 現代の中国や北朝鮮で生まれると、それだけで政治的な発言は自由にできなくなる。
これは、人間の身体や精神の機能が一部、機能不全を起こしているような状態を
強いられるのにも似ており、国ガチャだけで、こうした不自由さを強いられるわけで
ある。
つまり、ガチャには全面的に倫理に反した要素があるということだ 哲学板には、決定論のスレが長年あったが、そこでの決定論は物理的な唯物論志向で
あったように思う。
だが、実際に物事を決定しているのは、ガチャシステムなのではあるまいか。
ガチャシステムがランダムであるのか、実はそう見えながら、どこかに因果律が隠蔽されて
いるのかは定かではないが たとえば、自分から見て、境遇なり、容姿、才能、性格などで、とても魅力的に
見える他者がいたとする。でも、その他者はおおよそガチャシステムによって
作られたに過ぎない他者であり、自己選択を続けてそうなったわけでもないだろう。
背が低くて、全米でバスケットボールのプロ選手になれるわけがないように 資本主義が隠れた因果律なのかもしれないが、
宗教がそれを隠蔽しているのかもしれない。 LGBTqに入る者は、別にそれを自己選択の結果でそこに帰属することになった訳では
ないだろう。タリバンは、イスラム圏のLGBTqの者を虐殺対象にすることを公言
しているが、そうした原理主義者や宗教上の断罪や決定もLGBTqと同じように
ガチャである。
すべてはガチャが決めていることが分かる つまり、ガチャシステムの特徴は、それが自己決定の及ばない範囲にある、と
いうことだ。自己回避できない。遺伝子ガチャや家族ガチャをどう制御できるのか
ダウン症で生まれてきたら、死ぬまでずっとダウン症で、本人の責任は0である
ストーカーに滅多刺しされて殺されたり、傷つけられたりする者もいるが、
それも無差別通り魔殺人の被害者と同じで、本人の責任はほぼ0であろう
つまり、ガチャは手に負えない悪魔的な要素を持っている でもどの宗教も教義を信仰すれば救われるって言ってるから結構類似してないか >>18
日本を相対化して言っただけやで
在日じゃないからわからん だからガチャというのはロシアンルーレットのようなものである
自分が悪い弾を引いたら終わりであり、致命傷になったり、
一生続くトラウマや後遺症を負う
認知症の高齢者が運転する車が公道を猛スピード逆走してきて衝突したら、
それもガチャである 国ガチャだけでなく、人種ガチャもあるかもしれない
これは偏見を生みがちなので、あまり、いい例えではないかもだが
アフリカ部族の方が、むしろ忙しい先進国よりも幸せなケースもあるだろうし この世は、ガチャという危うく理不尽な構造で出来ていることに、まず多くの人々が
気づくことが大事だろう
自己決定論や実存主義、意識高い系や新自由主義は、このガチャシステムの構造を
直視しないようにしているのだ あらゆるガチャの差配もまたガチャで決められているということか 学校や職場でのイジメもガチャであり、別のクラスや学校、職場であれば、
そうしたイジメはなかったかもしれない。たったそれだけの違いなのに、
そこでのイジメで死んでしまう人もいる
ここで改めて、ガチャの有する理不尽さが理解されることだろう >>24
恐らくはトーラス体だろう
もしそうであるならば宇宙の果てを知覚出来ない様な構造になっているという事 電通に入った東大女子の高橋まつりさんは、そこでの長時間労働などブラック環境で
鬱にされ、自殺にまで追い込まれたが、もし、NTTに入っていたり、公務員であれば、
そういう事態にならなかった可能性が大である。
つまり、就職先職場ガチャで若くして命を失ってしまったのである。
ガチャが運命や人生を決定するという恐ろしさ つまり、問題は物事の主導権は我々の側ではなく、正体不明のガチャの側にある、
ということである。これに脅威を感じないだろうか。自分のコントロールが全く
きかない領域にこそ、人生の真実の鍵があるのだから 実際、ガチャを不条理と感じる事はガチャである
大半の人間は、我身に降りかかる事態を自己との関連性において必然と捉えるのであるから、ついにガチャを認識するに至らない
ガチャのせいに出来るのはガチャをガチャであると認識する事が可能な人間だけである ガチャのせいに出来たなら助かっていたかもしれない命が山程にある ここまでは、人間の中のガチャを扱ってきたが、生まれる、生まれないもガチャで
あり、生まれたとしても魚に生まれたり、虫に生まれたり、寄生虫として誕生したり、
猿や人間、宇宙人に生まれる者もいて、これらもすべてガチャの差配と決定による
これが単なる偶然性によるランダム性による帰結なのか、何らかの必然性があって
そうなっているのかは定かではないが。これはアポリア(難問)でもある つまり、此れまでは意思決定を下す主体(自由意志)と客体の関係として描かれたり、或は単に唯物論的な見方であったりしたのが、新しい主体(乱数)と客体(乱数)の関係性によって、それまでのある種必然的な関係性ではなく、疎外し受容し合う偶然的な関係性に変化していくと見るべきだろう
それは決して「開かれた」関係性ではないが、合意点を見出だせなず常に収束しない関係性である いいガチャに転んでも結局それはそれで苦労するんじゃないか
中動態 回帰辺りでいかがか
サーフィンだと波は海の勝手でまぁしょうがないと、ボードもまぁ選べないと
自由度は良さげな波待ちとボードの操作くらいで、そのあたりで楽しむくらいか つまり、人生の操縦桿を操作しているのは人間自身である、と人間は
皆誤解しているのだ。真実は、こうだ。
人々の人生の操縦桿を真に握っているのは、得体の知れぬガチャである この世はガチャである、と言う時、そこに構造を見出していることが分かるだろう
つまり、ガチャはこの世界に対する構造主義的な見方を提示している
そこで問題は、ガチャが完全乱数のランダムネスなのか、疑似乱数で、なにか
隠れたアルゴリズムがあるのか、または因果律的な決定性を有しているのか、など、ガチャシステムがいわばブラックボックスと化している問題もそこに横たわっている。
そして、ガチャが作る不公平な運命の差配は、大きな倫理的な問題を孕んでいると
言えるだろう。 つまり、ガチャシステムはそれを想定することは出来るが、それが具体的に
どうなっているのかが定かではないのだ。
その意味で、カントのもの自体と、この世界のガチャシステムはよく似ていると言える だから、この世界を貫通しているガチャシステムはヌーメノンと同じである、
と表現しても良さそうだ。出生から死に至るまで、このガチャシステムという
篩の力に影響なり、支配を受けぬ者は、ほとんど考えられないくらいである。
哲学的にものを考える傾向性であっても、こうしたガチャシステムの強い影響力
や作用が考えられる。つまり、私はガチャによって作り出された気質に従って、
このようにガチャそれ自体について考察しているのである。 人が何かを選択したり、決定する時、人は自分がそれを決めたのだ、と思いがちである
が、事実はそうではない。
人々は、その傾向性に沿って選択をする。その根幹である傾向性がガチャの差配で
既に決まっていて強制的に与えられているので、事後の選択や決断はすべてそれの
派生系に過ぎないようなものとなっている。ある者は、利害や利得を重視して決断し、
ある者は直感や気分で選択し、ある者はデータを分析して決め、ある者は親しい者の
アドバイスに従ったり、宗教や占い、サイコロの出目で決める者もいるだろう。
が、それらの手段の選択自体が、既に傾向性というガチャの支配下にあるものなのである。 ガチャ = この世界、それ自体
であるということに、まず、気づくこと。今度の選挙でどこへ投票しようが、
棄権しようが、そこには傾向性が作用している。そして、その傾向性を作っている
のは本人ではなく、その根幹にあるガチャであるに過ぎない。
人々は、ガチャが作り出した傾向性が決められた駒のようなものである。
将棋やチェエスの駒が、その動き方を予め決められているように、
人々もその傾向性が予め決められている。慣習や好みが変わることさえ、
それもガチャによる突然変異であると言ってよいだろう たとえば、私はアルコール類を一切飲まないが、私とは逆に、身体を壊すほど
アルコールを愛する者もいる。
これは別に私が優れていて、後者が劣っている、ということでもあるまい。
私は単にアルコールが好きでないだけで、後者はアルコールが死ぬほど好きなだけで
ある。そうした傾向性の違いは当人が決めているのでなく、ガチャである遺伝子、
あるいは環境などが決めているのであろう。 ガチャとか努力したくない人の言い訳
事故や病気は仕方ないけど 本当に悲惨なのは努力、忍耐すら出来ない状況の時だけです。ガチャって言っている人は生まれながらに悲惨な性格が変えられない可哀想な人なのでしょう。 つまり、多くの人間は何をやっているのかと言うと、なんのことはない
ガチャによって差配されたそれぞれの傾向性や好みに従って、操り人形の
ように動かさられているだけである。
もっと端的に言えば、己の欲望のために、奴隷のように日々働かされているだけである。
つまり、主体は私たち自身の側にあるのではなく、ガチャやそれが差配している
傾向性の側にこそあるのである。愚劣な人間は、多分愚劣な傾向性が配られており、
それに素直に従っているだけである。ちょうど賢者が逆の傾向性を持っているのも
同じことである。
ベクトルの向きが逆になっているだけのことであり、それは自ら選択した傾向性では
ない。双葉より芳しだ。 たとえば、君がある異性なり、同性を好きになったり、嫌いになったりしたとしよう。では、ここで聞くが、その好みなり、忌避感情は、君自身が自身で用意して
作り出したものなのか?
それはアプリオリに自動的に与えられているのが真相なのではないか。
つまり、己の好みさえ、ガチャや自然によって予め決まっており、
我々は、その傾向性に従ったり、木の葉のように翻弄されているに過ぎない
つまり、ここでも主導権があるのは、自分のコントロールが全く及ばない領域で
ある、ガチャシステムの方なのである。 このように考えていくと、人間の自由などという概念が、いかに頼りにならない
希望的な観念論であるに過ぎないものかが分かるだろう。自分の食事の好みさえ、
自分で決められないのが真相だ。遺伝子や環境変数による介在やメディアによる
洗脳や社会潮流の影響も諸々あるだろうが、それでも、人の傾向性は自分が決めて
いるのでなく、ガチャや自然、場合によっては社会が決めているということは
理解しやすいことだろう。 このように考えていくと、自分や自我という概念も疑わしいものであることが
見えてこないだろうか。なぜなら、それは自分で形成したり獲得したのではない、
ガチャによる傾向性が作り出してきたものであり、また、そのガチャを自分が
意識的に選択して引いた訳でもなく、生まれた時には、もう遺伝子という形で
何らかの傾向性を問答無用で強制付与されているのだから。 つまり、この世界を真に司っている支配者はガチャシステムであり、人間はただの
奴隷に過ぎないというのが真相なのである。君は、寿命を500歳までに伸ばせるだろうか。不老不死を今すぐ実現出来るだろうか。重度の障害がある者や末期ガンの者が、直ちに回復出来るであろうか。不慮の死を被った者がキリストのように復活できる
であろうか。
奴隷に過ぎぬ人間に、はなからそんな自由度がある訳がなく、奴隷として働き、
差配された傾向性に従って、将棋の駒のようにパターン化した状態で苦労して
生きて死ぬだけのことである。
つまり、我々は所詮はガチャが作り出している不自由な奴隷に過ぎないのである。 ただ、これだと単なる現状追認であり、大した新規性も趣向も感じられないので、
哲学としてこうした宇宙の強制ガチャシステムを考えた場合、果たして
人間にこの不条理な悪魔的なガチャシステムを超越する方途があるのか否かを
考察していくことであると考えられる。 たとえば、今、私はブラックコーヒーを飲んでいる。これは、私がそれを今、
飲みたいと思ったから、それを用意したのだろうか。厳密に言うと、そうではない。
私に先行してある傾向性が私の自我に対して、今ブラックコーヒーを用意せよ、
あるいは、今飲みたいと命じてきたので、自我である私はその傾向性様の命に
従って、それを用意し、飲んでいるである。
これが別の人間の傾向性であれば、アルコールであったり、ホットミルクやココアで
あったりするだろう。
たまたま私の今の傾向性がブラックコーヒーを要求したので、そのしもべの自我で
ある私は、それに奴隷や給仕のように従ったまでである。学習や仕事、家事、雑用、
全てについても事情は同様であり、鍵を握っているのはガチャで差配された傾向性
の方である。 つまり、これが欲しい、ああしたい、こうしたい、これは避けるべきだ、
何かしたい、あるいは、これはしたくない、は実は自分から出ている真の要求
なのではなく、ガチャシステムで差配された傾向性からのニーズに過ぎないので
あって、それをよく考えない人間は自分自身のニーズだと誤解しているのである。
だから、差配されている傾向性が異なれば、そこから出てくる要求なり欲望も
別のタイプのものとなる。人間は、自分のものでない、たまたま差配された
傾向性を満たすように常に唆されている奴隷か給仕のようなものである。
つまり、ガチャシステムや宇宙は、人間にそうしたある傾向性を与えることに
よって、支配者である自分の目的のために、ある作用なり、効果、仕事を人間に
させている可能性があるのである。人間はそれを知らずに、自分自身がそれを
望んでいると思い込まされている可能性があるのである。
それはまるで搾取された悪徳宗教の信者が、教祖のために我知らず働くような
ものである。 反出生と一緒で
頼りにしてるのが不幸とか不条理とかいう
主観的感情なんだよね
その感情は構成されてるものでいわばガチャ
同じ事象について良い悪いも決定しないわけ
だからただこの世は非決定的だと言ってるだけ
実用的には全く無意味な概念 >>56
それは極論だよ。君や君の愛する家族が明日、通り魔に滅多刺しにされたとする
君はそれに痛みや苦、不条理や怒りを感じることだろう。なぜ、自分が、
自分の家族がそんな目に遭うのだ?と一度くらいは問うことになるはずだ。
そんなのは主観だから全然不幸じゃないぜ、なんて君は決して思わないことだろう。 たとえば、自分が愛する者が誰かに傷つけられたり、殺されたりして
それを喜ぶ人間がほぼいないように、感情一つとってもそこに自由はない。
アプリオリでほぼ決まっている。
自分が好きな人に告白されて激怒する人間はいないように、情動反応もその人間の
傾向性に従って、ガチャでほぼ決まっている。 >>58
ああ。
その場合、瑣末な憎悪がいつまでも燻り続けて火種抱えたまま時間経過して、いつか辛いことが全部に波及する風になってるけど。 嘘ついたり物事秘密にして時間経過して人が死ぬと癌になる。相手が自分を好きになってそれを放置しながら利用すると乳癌とかになったり、間接的に他人を傷つけたり気持ちを踏みにじると心筋梗塞とかになる。
大事なことを放置し続けると脳梗塞になったり、それが原因で他人が死ぬと脳溢血になふ。 当然、他人を自分の手で殺めると、殺人と縁が繋がってそれにより、死んだ他人の縁で成り立っていていなくなったことによって惹き起こされる諸々の事が痛みも含めて全部殺害した人に来る。 でも菅原道真は最期に酷いことされて亡くなったけど、それを先導した官僚を何百年も輪廻して殺せる風にはなっているけど。
酷いことされて後々に殺されても仕方ないようにはなってはいるが仇があっても殺すのがいいかはわからない。ただ死角になってそいつら殺せる風にはなっている。 >>57
入ってきた信号に対して過去の経験などから
痛み怒りを構成してるだけ
その経験が無ければ痛みも怒りというものもわかない
事象自体に良いも悪いもない
○ガチャについても良いも悪いもない
例えばある大発見をして嬉しいとなったとき
過去の不幸だと思っていた経験はこの結果のための
良い経験に変わってしまう >>64
ニュアンスは分かるが、でも極論だよ
だから、君や君の愛する家族が明日、通り魔に滅多刺しにされて、
その事件に対して、「現象に良いもの悪いもない」なんて悟り風の台詞が出てくることは
ないだろう。あとから考えて、壮絶な通り魔被害に遭ったのは、いい体験だったとかもないだろう、
塞翁が馬ではあるまいし 竹内まりやは大変なことが自分の縁の連環で起こったけど、彼女は最後自然によってそれを見事に解決して助けた女神。 >>64の指摘は、良い部分もある。悟り風に言うと、そうなる
が、大半の人間は言語的に社会化されているので、ある程度は、価値観を埋め込まれている。
先進国や資本主義国にいながら、一文無しになって、その状態に幸せや喜びを感じるのは
困難であるように、ある程度、価値観は社会化されて我々に埋め込まれている。
病気よりも健康の方が良く思えるのも、不細工より、イケメン、美女がいいと思えるのも、
シワシワの老人よりも、子供や若者が良く見えるのも、そういう社会的な価値の埋め込みがある
ので、それらから完全に逃れるのは大変だと考えられる。
ただ、厳密に考えていくと、これらも社会的な洗脳や傾向性のもたらしている帰結
であり、真にそうである、ということでもないだろう 信号というのは、なかなか良い言い方だ。そして、信号は本来、ニュートラルであり、そこに良い悪いの価値は内属していない、というのもその通りだろう。
ある特定の信号や刺激、現象に対して、良い、悪い、普通だとラベリングするのは、
その人が持っている傾向性であったり、社会的な価値観であったり、するだろう。
だが、言語を使って対象を解釈している時点で、そこにはもう何らかの価値観が
入っている。良い、悪い、普通というように信号や刺激、対象を分節化する言語を
人間は持っているので、すべては信号だから本来はニュートラルである、と悟り風に言うのは、実際はそのようにはなかなか実感できまい。
自分が事故でユニークフェースになったり、失明したり、手足を失ったりして、
それをただの信号や刺激、現象の現れ方の違いに過ぎないと、簡単に悟り風には
言えないことだろう。 ○ガチャてのは今の社会の価値基準に従ってやると
良し悪しが宿命的に決まってしまうてことだけど
それはその価値基準を肯定してしまってんだよ
でも問題はその価値基準の固定にあるわけ
他ならともかく哲学板なら実存主義から始まる構成主義学んどけで終わりでいいでしょ
実存主義は本質ではなく構成的であることを
構造主義はいかに構成されてしまうかということを
ポスト構造主義はいかに構成されないようにするかを
言ってるわけだけど
いかに構成するかについては哲学はまだ何も言っていない
この世は全てガチャだなていう宿命論に懐古してんじゃなくて
いかに都合の良いように構成するかを考えろてことだ 宿命論というよりは、システム論を言っているんだよ。
それを今流行りのガチャにしただけで、分かりやすいので
社会格差とかそういう現代的な価値観レベルだけのガチャでなく、
もっと宇宙的なレベルのシステム論を語っていく予定だよ 受け取り方は自由でいいよ
たとえば、サルトルの実存主義だと、実存は本質に先立つと定義されているが、
現実は逆であろう。ガチャによって差配された傾向性が、実存に先立っている。
だから、哲学的な傾向性や本質を強く持つ者が哲学者になるのであり、
アイドルや女優の性質や傾向性を持つ者が哲学者になることはない。
それはちょうど、ヘテロセクシャルな者がLGBTqになることがないように、
傾向性は自分で選んだり、投企して獲得したものではなく、ガチャの偶然性や
ランダムネスによって差配されたものの効果-帰結に過ぎない。
つまり、人間は傾向性のもたらすパペットであり、奴隷に過ぎない そしてここが肝心なのだが、ガチャシステムは様々な傾向性を人間に差配することで
なにかそこから大きな便益を引き出している可能性が考えられるのである。
恣意的な傾向性を強制付与されている我々は、苦労させられるだけで何の便益もないが、ガチャシステムの方はそのことで利得を得ていたり、大きな便益を引き出している可能性があるのである。
それはちょうど、悪徳宗教家が、その洗脳した信者にただ働きをさせて、己の
利益にしている構図と似ているのだ。 たとえば、人間という種は何のために存続しているのかは我々には意味不明だが、
ガチャシステムはそれを自らの目的のために、それを存続させるために、
性欲なりの本能を与えて、つまり目先の快楽というルアーを与えて、種を存続させるよう仕向けることにこれまで成功している。
人間社会を見れば、どの時代も不幸や悲惨だらけのは分かることなのだが、
性欲なり、本能なり、社会的体裁などの力によって、人間という種は存続している。
つまり、人間から見て人間存続には何のメリットもないが、ガチャシステムの側から
見るとそうでもないため、このように種が存続する仕掛けを巧妙に用意したものだと
考えられる。すなわち、我々はガチャシステムに欺かれていることが考えられるのだ いかに構成するかって書いてあったけど、人生の意味を自己が決定出来るのは自己の便益に叶う様な仕方でしかない
つまりは実存主義で例えるなら、実存は実存自体にしか寄与しない事になる為、その一点に於いてのみ本質存在に対する見かけ上の優位性が担保されているに過ぎない事になる
人生に意味があるかどうかを問うのはその問いそのものに対する解答しか齎さないのであり、そうであるならば人生は本質的に無意味である ガチャシステムていう神を立ててるだけ否定神学的に
仮にそのシステムが構築できたとしても
遺伝ガチャのせいで今お金がないという人に
対してそれで何ができるかっていったら
黄色い財布を持ちなさいていうような風水的なことが言えるだけ
前近代的な神頼み 幸福と不幸の関係
宇宙は不幸という苦しみの状況を基本として人間に与え、
人間が宇宙の思惑通りに何かを達成した時だけ、幸福という
エサを与える事にした。
幸福というエサは人間の大好物だが、食べたら直ぐになるなってしまう、
常に少量しか与えてもらえない。 そしてすぐに幸福がなくなって
お腹が減り、次の幸福を食べたくなってしまう。
幸福というのは麻薬であり、人間は幸福という感覚に飢えた
麻薬中毒者なのだ。だが、例え麻薬中毒者であったとしても、
それが人間を構成する根源要素であるならば、人間は自分が
幸福の麻薬中毒者である事を受け入れていくしかない。 また例えば、人間の感じる幸福と不幸の割合とはどの様なものだろうか。
幸福の方が多いのか、不幸の方が多いのか、人によって違うのか、
自分自身でコントロールができるものなのか。
人間にとっては幸福が重要、宇宙にとっては不幸の基本状態が重要、
宇宙は人間よりも強い、という事から考えてこの問題の本質は
不幸の存在にあると考えられる。 恐らく、不幸がこの問題の本質であり、
幸福は副次的な役割を果たしているのだろう。
そもそも人間は幸福というものを感じているのだろうか。
もしかしたら、幸福を感じているのではなく、その先にある
不幸を見据えているのかもしれない。 人間は何かを実行し物事を処理する機械なので、常に何かをしたくなる様に
出来ており、何かを達成する事に意義を見出す様になっている。
とするならば、人間は幸福感を感じている時、今回獲得したものに
よって次の不幸をいかに乗り越えようか、という事を考えているのではないか。
幸福そのものを感じているのではなく、次に訪れる不幸を今回の幸福と
いう収穫物によって、いかに上手に乗り越えようかという未来の不幸を
感じているのではないだろうか。 そうするならば、この世に幸福は
存在せず不幸だけが存在するという事になる。
人間は充足して満たされる感覚を幸福と名付けてはいるが、
幸福の構造とは、次の不幸を乗り越える為の道具の獲得、を意味して
いるのではないだろうか。 人間は幸福の奴隷であるが、
もしかしたらその幸福さえ実は感じていないのかもしれない。 長ったらしく中身のないこと書いて楽しいかね?運命論者の言いそうなことばかり。読み手が楽しくなるように論じてみれば?さて、子供を永遠と教育していくと運命論だけでは片付けられない反応を示して面白いものだよ。 人生で自分自身とは真摯に向き合って来なかったことが良く分かる文章だね。 宇宙や世界は、基本、不幸ベースや苦で出来ているのだが、それだけだと種がすぐに
途絶えてしまうので、種を絶えないようにするために、幸福という麻薬やルアーの
ようなもので騙して、あるいは、釣って、種を存続させ、それをガチャシステムは
己の何らかの目的のために用いている可能性がある、ということだ。
この構造は、ちょうどブラック企業のオーナーが、その社員を搾取し続けている構造とよく似ている。賞与や昇給という餌をチラつかせ、己の目的のために長年搾取して過酷に過労死するまで働かせようとしているのだ
つまり、宇宙がブラックなのは、偶然でもなさそうだ 優劣の惨めさ
人間は他人より優れていると実感した時にも幸福を感じる。
それは宇宙の前進に最大限貢献し、今後も優れた遺伝子を残して
宇宙に貢献する事が、人間の役目とされているからである。
人間の幸福とは、宇宙に奉仕した時に感じるのである。それは人間は
宇宙の完全な奴隷である事を意味する。人間は自ら望んで宇宙の奴隷
として働くのである。幸福という設計、幸福という呪いである。
男が女に美しさを求めるのも、女が男に腕力や金を求めるのも、
他人より優れるのに有利だからである。 スポーツで競争したり、
勉強で頭の良い人間を重視したり、美男美女を広告で使ったり、
性能の良い商品を作ったり、人間が何かをするのは常に
他人より比較して優れる為である。 他人より優れる事が人間の幸福として設計されているから、
人間はその通りに機械的に優れようと動いているだけである。
依って、優れた人間で在ろうとする行為は、幸福という餌に
餌付けされた、奴隷的行為である。
美しくあろうとする行為、社会で表彰される行為、学び知的である行為、
金を稼ぐ行為、快適に生活する行為、全ては奴隷的行為である。
人間が何かを望む時、心の内側から湧き上がってくる衝動として
その望みを望まされているのであって、自分で何を望むのかを
決断しているのではない。 人間がやっているのは、望みという目的を与えられ、それを
獲得する手段を思考し到達の為の努力をさせられているだけである。
人間は己の幸福の為に死ぬまで働く奴隷労働者に過ぎないのである。
幸福という一時的にだけ得られる満足感という脳内麻薬の為に、
死ぬまで苦悩して涙して働いているだけなのである。 こんなものは、自立した生命ではなく、虚ろに涎を垂らしながら
殺し合うゾンビの様なものである。 他人に勝つというのは惨めな行為である。
幸福を求めるという行為は惨めな行為である。だが尊厳を求めて
何かをするという事も、人間には出来ない様に造られている。
人間は結局、死ぬまで幸福を求め続けるだけの惨めな奴隷、
完全なる奴隷なのである。 自分と向き合うのが怖いから外にしか因果を求められないですね。よく分かります。 飽きるという呪い
人間は直ぐ飽きる。 それはこの世の全ては前へ前へと進行しているからである。
宇宙には進行方向があって、そちらへ向かう為の流れの小さなほんの一部が人間だからである。
人間の知的活動とは宇宙の最終到達地点に向かう原動力なのであり、遠くまで進まねばならないからである。
人間は1つの事をしたら次は別の事を、それが終わったら別の事を、と無限に
次を求めて動かねばならない。人間は死ぬまで無限に宇宙の進行に奉仕する為に
動き続けねばならない。その仕組みを人間は、飽きる、と呼んでいる。 人間はこの飽きるという仕組みによって、色々な事をする様になる。
広範囲な活動を積極的に継続し、宇宙世界の発展へと貢献する形となる。
飽きる、退屈、という心から発生し続ける衝動は人間の根源的な仕組みであり、
これにより人間を毎日奴隷的に半永久的に動かす事が可能となっている。
人間は日々を飽きた、退屈だと感じると苦痛を感じる。すると別の活動へと
移行して行き、より広範囲な活動へと繋がる。このサイクルがどこまでも続くと、
最終的には人生をやり尽くした、もう人生の全てを知ってしまった、と感じる しかし自分という1人の人間が人生で得た情報量と、ほぼ同じ量の異なる情報を
持った1人1人の人間がこの世には大量にいるのであって、1人の人間が
この世の全ての他人を知ると言う事は在り得ない。依って、最終的には人生に
全て飽きるという事は不可能で、必ずどこかに興味を惹く未知の何かを見つける
事ができる。
人間は直ぐ飽きる。 人間はこうした自分自身の衝動の発生をコントロール出来ず、
問答無用で従順に従うしかない。 飽きて次へ、飽きて次へ、飽きて次へ。
人間は自分自身のこうした衝動の仕組みを理解した上で生きて行くしかない。
飽きるという果ての無い呪いを受けているのである。 つまり、これらの機制はすべてガチャシステム側の設計図によるものであり、
なんのことはない、我々個々人は、この設計図の仕様通りに機械や奴隷のように
毎日死ぬまで働かされ続けているだけである。
快や幸福、性欲、脳内麻薬という餌に釣られて、脳を破壊された薬物ジャンキーの
ように振り回されているだけである。いわば、我々は薬物ジャンキーとそれほど
基本構造は変わりない
こうした悲惨を生み出しているガチャシステムの存在に気づくことが、まず
肝要になる。我々は、搾取の原因となっている幸福や快楽に盲目的であってはならないのだ。 なんだろう?運命論を長々屁理屈で語っているだけで、物凄く頭悪い。IQの低さが出すぎて可哀想。 望みに支配される
人間は自分自身の望みに支配されている。人間の内側から望みが発生し、
その望みを叶えると、その望みは自分の中から消滅する。
そして次の望みが自分の内側から発生する。その望みも、叶えたら消滅する。
その繰り返しだ。
人は何故何かを望むのか。原因は、生理的な欲求、過去の出来事の解消、
外部刺激の影響、などである。 人は次々と何かを望む、次々と叶える、
すると次々とその望みという欲求は消え去ってしまう。 人が望みを叶えるのは、その瞬間に幸福感を感じるからだ。幸福感という、
脳内からの化学物質を射出させる為だけに、人は望みを叶える。
よく考えると、人は自分の望みを、自分で決める事はできない。
心から自然発生する流れに受け身でいるだけだ。自動的に望みが発生して、
望みを解消すると脳に快楽物質が出る、生きているというのは、それを
繰り返すだけの作業だ。 それが人の行動原理。
そう考えるならば人の本質は機械や昆虫と何も変わらない。
ただの単純なシステムだ。 人は、湧き上がる望みは自分自身のものだと考えているが、それは自分ではなく
生物のシステムによって作業的に決められたものだ。 楽園についても考えて
みよう。 楽園とは、人の望みが無限に叶う世界だ。無限に望みが湧いて、
無限に望みを叶え続ける。
宇宙というシステムがあって、その意向が人間を通して望みという形で
現れる、人間は望みを叶えて快楽物質を得て、宇宙システムの意向を満たす。
そう考えるなら、望みを叶える事は、人間にとって何の意味があるのだろう?
人間はただの媒介なのに。 そう考えるなら、楽園に何の意味があるのだろう。 「望み」って何だろう。
人間は色々な事を望んでいるが、どうして望んでいるのか?
どうして望まなければいけないのか? ならば、楽園は存在しなくても
構わないのだろうか。いいや、人間には楽園が必要だ。
宇宙によって、幸福を求める様に造られているから、自動的に楽園を
望むのだ。人間は望みが無限に叶うという楽園を望まされている。 望みを叶えるという行動は、宇宙への奉仕労働を意味する。
ならば楽園とは、人間が無限に働き続ける為の牢獄という事になるのだろうか。 もし人間が今のままの人間であるというのなら、そうなる。
人間という生命の存在形式が今と同じままであるならば、
例え楽園に到達してもそこは牢獄だろう。つまり「望み」という
システムを越えた、新しい生命存在へと人間は進化しなければならない。
人間が人間である限り、人間は楽園に到達できない。
次の生命存在に進化しなければ人間は楽園に到達し得ないのだ 人間の地球上での地位について
人間は何ら特別な存在ではない。地球という大きな生命体から見れば、
それを構成する大量の微生物であり、人間とは1匹のミジンコに過ぎない。
人間は石ころや猿などに比べると、比較して複雑な構造をしているという
だけに過ぎず、地球や宇宙という大きな生物からすればそれを構成する
一細胞に過ぎない。
また、宇宙を進行させる役割、という点に置いても、人間も石ころも猿も
何ら変わりはない。全ての存在物は宇宙に奴隷奉仕する為だけに存在している、
その複雑さが多少変わろうとも、存在目的は全く一緒なのである。
量子的に見れば、人間の内側の複雑さと、石ころの内側の複雑さに
どれだけの差があるというのだろうか。 また、人間は自分自身について
常に不満を抱き続け、自分自身について何らコントロール出来ていない。 自分の感情の発生方法について自分で決めれず、体の痛みの発生を
コントロール出来ず、脳や目や心臓やあらゆる体の欠損を再生させる事も出来ず、
認知能力や思考速度は制限されており、寿命もコントロール出来ずいつか死に、
退屈さに死ぬまで追いかけられ続け、運命という力に常にコントロールされ続け、
自分個人という認識と感覚の牢獄に封印されたままで抜け出せない、
自由に思考している様に感じているが実際は思考させられているだけである。
人間は自分自身について、何一つ自分のものとして所有していない。
地球上で人間は他の多くの生物を支配管理している。多くの家畜を育てて
食料として食っている。
同じ様に、宇宙も多くの生物を支配管理し、それら家畜を食料として
食っている。人間は、その心や行動による成果物、もし魂があるのなら
それも、命も人生で積み上げた物全てが、全ては宇宙の食糧とされているのだ 人間は宇宙の家畜に過ぎない。人間は神の家畜に過ぎない。
人間の下に多くの家畜が居るからと言って、人間は王でも神でもなく、
人間もまたより大きな存在にとっての家畜なのだ。
そして例えば、鶏や豚が人類に反旗を翻して逆に支配する事が不可能な様に、
人類が宇宙に反旗を翻して逆に支配する事も、また不可能なのかもしれない。
神が奴隷(宇宙)を管理し、奴隷(宇宙)が奴隷(人類)を管理し、
奴隷(人類)が奴隷(家畜)を管理している、ただのそれだけに過ぎない。
人間の地位とは、奴隷に過ぎない。 人間の目的は幸福であるが、時に、幸福を受け入れる事は奴隷的行為である。
何故なら、幸福とは宇宙から各生物に与えられる生命活動への報酬だからである。
宇宙の望み通りに人間が動いた時のみ、人間は幸福感という報酬が己の内側から
溢れ出る様に設計されているのでる。つまり、全ての幸福とは奴隷的行為である。
幸福を求める事は、宇宙と神に屈し、自分が完全に奴隷であり、従順な
浅ましい奴隷である事を認める事である。そう考えるならば、
もしかしたら、人間は幸福になってはいけないのではないか?
幸福を目指す事は、宇宙の思う壺ではないのか?
少なくとも、最低限は、どの幸福を得るか、自分自身の意志で
選ばねばならないのではないか?
そうしなければ、無制限に宇宙からの報酬を浅ましく要求するだけの
惨めな飼い慣らされた奴隷へと成り下がってしまうのではないか? 幸福とは麻薬である
一度幸福の味を覚えたら、何度でもその幸福を味わいたくなる。
人間は幸福への欲求からは逃れられない。幸福への中毒者となって
しまうのである。 しかしながら、人間の生存目的は幸福なのである。
人間は永遠に、自己の幸福を追求する欲求からは逃れられない。
人間とは、恐怖から逃げ惑い幸福を追求させられている、完全な奴隷である。
宇宙による支配は完全であり、人間は完全な奴隷であり、希望は一切無い。
人間は完全に宇宙に封じ込められた、完全無欠の奴隷であり、我々に希望は無い 現実とはあまりに恐ろしく救いが無く、もし人間が徹底的に
ただ現実だけを見続けた場合、ストレスのあまり狂気に陥ってしまうだろう。
だから人間はできる限り現実を隠し、空想に生きようとする。
人間は人間の死体を見るのを嫌う。例えば、人間は人間の死体を
見て心地良くなったりできない。人間が死んでその写真を飾る時、
蛆の湧いた死体写真を選んだりしないし、街中のポスターに
グロテスクな死体の写真を使ったりしない。それは、やがて
自分も死ぬという恐ろしい現実を突き付けられるからだ。
死体写真も笑顔の写真も、両方とも現実である筈なのに、
あえて綺麗な写真を選ぶ、時には加工して空想の状態をすら選ぶ。 人間は外見に気を使う。健康の為に清潔に気を使うというだけでなく、
お洒落な服を着たり、髪型を綺麗に整えたり、女性はメイクもする。
そうする事で、現実の状態よりも優れた人間である事を演出できるからだ。
優れた遺伝子を持つ個体である様に見せかけ、性交渉の相手選びで
有利になりたいからだ。現実には実際の遺伝子情報には何の変わりも
ないというのに、嘘、空想で良いから優れていたいと願う。
ウンコする姿を人に見せたりもしない。全ての人間はウンコや
小便をするのに、その姿を人に見られる事を禁忌としている。
話題にする事すら嫌う。自分がウンコをするのは現実なのに、
まるで排泄行為など自分には存在していないかの様に振る舞ったりもする。 小説や絵画や音楽も空想だ。現実ではない物語や世界観を
まるで現実であるかの様に描き、人はその空想世界に浸る事を望む。
現実の出来事を描いたニュースやドキュメンタリーですら、配慮や
簡略化をしてまろやかに仕上げてしまう。どんな残虐で悲惨な事件が
あったとしても、見る人がショックを受けない様に規制をかけてしまう。
或は、制作者達も無意識に残虐さから目を背け、まろやかにしてしまう 神が人間を愛していて、宇宙が素晴らしいものであるというのも空想だ。
現実的、論理的に考えれば、神と宇宙が人間に好意的である筈がない。
人間が自分の人体の1細胞に奉仕したり、路上の砂の1粒を愛したり
しない様に、神や宇宙もそうしない。
神には神の目的や理由があり、神は自分の目的の為に宇宙や人間を造り、
利用しているだけだ。人間の感情や自我や意志がただの造られた
システムであり、人間がロボットや泥人形の様なものだという事は考えれば解る だがこの現実を受け入れる事は自己のアイデンティティの危機に晒される為、
人間は都合のよい空想の物語や思考方法を編み出し、その空想にすがって
生きている。人間は自分達が素晴らしい存在だと思い込まずには
居られない生き物だ。
毎日人間が死んで腐って蛆が湧き、みんなウンコをしていて臭く、
顔も体も元は醜く、人間は神に保護されず、人間は自由意志すら持っていない。
そんな状態に人間は耐えられない。 或いは、そんな現実を心の奥底では
知っていながらも、空想の中に生きようとする。 見方を変えれば、現実とは宇宙の提供する世界であり、空想とは
人間の提供する世界、とも言える。人間は人間にとって都合の
よい世界を選びたい。宇宙の提供する「現実」という世界は、
人間の望む「空想」という世界とは相容れない。
人間は宇宙に100%依存して存在している。ならば人間の作る
「空想」も宇宙という「現実」に100%依存して存在している。
しかしながら「空想」と「現実」は対立するのだ このスレ見ても分かるけど
ガチャていうより自己評価スキル次第
自己評価する機能がぶっ壊れてると
何が良くて何が悪いかも分からないから
ガチャのせいにもできない まず自分で制御できないことを思い悩むことが無駄
自分で制御できることに施行のリソースを避け
嘆いたところで誰も助けないんだからな
まさか神様がいると思って天に向かって嘆いているのか
それとも泣けば親以外の誰かが救いの手を差し伸べるかと期待して乞食みたいにすがるつもり?
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r'⌒ヽ. .|::: ン -==-∴-==- < :|
_(´: ..日本廼敵安芸屍埜廼彌耶一過杜小室陰茎一禍把眞杜芽手殺処分煮簾婁鹿内蛇露炉
ゝ,:.. ノ 》ヽ_`⌒,,ノ.(、_, )ヽ⌒_ノ
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、ヘヽ. .. .. . :. .. .. ... ; .′ . :/ i .: , !
ヽ. :'.} :: (( }:/ /: :. . ' .: ‘/ /)):. : ::. . : :
.,'. :. ! Y´ ̄`丶/、__,,../:_:_,.。../.., /ー彡'
{. :. :ゝ。.. __i',. :. :. : ,'. : :. : /:::. :. : ,':: :,'. :, ':. : ::::.
‘'‐=。._. :. :. :. :  ̄¨ヽ. :. :,'::.. :. : ,':: :, イ :. : : :::. . : :
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¨ …‐-―`¨ :ァ=ー-":::: :: ::. :.: :.: :.ヽ . :ここだよ?
. :. :. :. :. :. :. :. :. ::! . : :. :. :. :. : ::::. . : : : ', :. : :
. :. :. :. :. :. :. :. :. :;; . :. :. :. :. :. : ::::. . :. :. :; :. 純一君w
≦. :. :. :. :. :. :. :. :. :. :. :. :. :. : ::::: . : : : / . ___
. :. :`ミ、,. :. :. :. :. :. :. :. :. :. :. : , '. :. : , ′ :. ./.∵∴∵.\
. :. :. :. :ヽ.`≧z- ...,__,..イ`'‥ ’ :. . /-= =-:',-= =-\
\: : :. :. :丶 ∨. :. : } :. : . . . (.... . "ー=〓=-.'` )
.. \. :. :. :‘, ∨. :. : ヽ ::: . : : \ .../
. \: : : : ' 、 ∨. :. : { . : : / ...\ 自己評価が低い=すべてはガチャ
その自己評価能力も遺伝と環境で決まるわけだけど
その環境の中に含まれるのが哲学
哲学は言語的に自己評価機能を補助してくれる
ただ人によっては下がることもある 人間は自分が何をするかを自分で決める事は出来るが、その結果を自分で
決める事は出来ない。結果は運命が決める。結果について人間は報酬を
受け取る事は出来るが、責任も負わねばならない。人間は強く願って、
どうしても何かをしたい、何としてでも達成しなければならな何かがある時でも、
行動の結果については運命が最終的な決定権を持つ。
人間は結果について自分で何も決める事は出来ない。
いつ死ぬか、いつ障害者になるか、いつ愛する人を失うか、
いつ幸福の絶頂に達していつ絶望のどん底に落ちるか、自分で決定権を持たない 何を食べるとか、何のTVを見るだとか、何時に寝るだとか、どうでも
いい事は自分で決められるが、人生を決める肝心な事項の決定権は
全て運命が握っている。人間は自分の未来を予測できない。
それは夢や希望があるという前向きな意味では良いが、障害や重病や
虐待や貧困や無知などマイナスの面と常に隣り合わせで人生という
恐怖に翻弄されながら生きている者達にとっては、未来と言うのは暗黒でしかない。
人間は自分の行動の結果を自分で決められない。しかしその結果に
対して人間が自分で責任を負い、罰として痛みを受けねばならない。
これは不条理である。この様な不条理な宇宙の摂理は許されない。
人類は宇宙摂理を修正する必要がある。 運命による人間支配 運命とは神の行使する、人間への実行力である。
神は運命を使って人間を操り支配する。人間は運命に逆らえない。
だが時として、人間は抗わねばならない様な過酷な運命を与えられる。
時として、運命とは人間の最大の敵である。
神は知っている、大いなる苦しみの運命を与えれば人間が成長するという事を。
神の目的はこの宇宙という、自身の造ったこの巨大な農場を実りで充実させる事だ、
人間はその農場の労働者であり、人間自身もそれ自体が収穫物に過ぎない。 幸福とは人間への報酬であり、苦しみこそが人間を突き動かす原動力であり、
神にとって苦しみこそが重要な提供物だ。人間はどうやって運命に抗えば
良いのだろうか? だが神はこれもまた知っている。
過酷過ぎる運命を与えて人間を殺してしまっては勿体無い、神にとって
非効率となる。依って、神は人間に、乗り越えられる運命しか与えない。
人間はどれ程過酷な運命に晒されようとも、必死に足掻いて最後まで
諦めずに戦えば、最終的には何かを失ったとしても何らかの形で
乗り越える事が出来る。 神はそう調整している。生かさず殺さず、ギリギリの境界線で足掻いて
くれる事こそが神にとって最も都合が良いからだ。人間を熟れた果実へと
成熟させ、過酷な運命を乗り越えた神好みの美味しい食料、
熟れた人間の魂を頂く事が出来るからだ。
人間は神の掌の上で踊っているだけの泥人形に過ぎない。
運命という糸で操られているだけの無知な玩具に過ぎない 人類はこれまでの歴史で、大小の多くの犯罪を犯して来た。
大きな所では、アドルフ・ヒトラーやポル・ポトなどは大量虐殺を犯したし、
小さな所で言えば詐欺や暴行など、或いは、死の危機に瀕している他人を
助けない事や、鶏や豚などの動物を殺す事もまた犯罪である。
そういった意味では全ての人間は犯罪者であり、全ての人間は殺戮者である。
だが何故人間は犯罪を犯すのか? それは、自身の幸福を求めて行動した
結果である。人間は自分の幸福の為にしか行動が出来ない。
自分の不幸の為に行動する事が不可能な脳の仕組みになっている。
自分の幸福を必死に追求しただけなのに、どうしてそれが犯罪に
なってしまうのか? それは全ての生命は、断絶された個別の自己認識を所有しており、
感覚が完全に隔絶された存在として、この宇宙に存在しているからである。
例えば、一人の人間が本を読んで幸福を感じていても、隣に座っている
他人はその幸福を感じてはいない。二人の人間が会話をして幸福を
感じていても、その二人と関係のない他人はその幸福を感じてはいない。
幸福も、感情も、思考も、記憶も、自己認識も、全ての生物間で完全に
隔絶されており、直接の共有は一切出来ない仕組みになっている。
全ての生命は間接的にのみ、幸福感、感情、思考、記憶、自己認識、を
共有する事が出来る。しかしながら間接的な伝達では常に不十分であり、
全ての生命間の相互理解は、常に不完全である。 不完全な相互理解は常に誤解を生み、争いを生み出してしまう。
断絶された自己認識ゆえに、全ての生命は個別の個性を持つ。
しかし同時に、断絶された自己認識ゆえに、争いも産まれざるを得ない。
これは宇宙の決定したシステムであり、全ての生命は従属するしかない。
宇宙の決定した断絶システムゆえに、全生命は個性を持つと共に、
不完全な相互理解しか出来ず、ゆえに、全生命は争い合ってしまい、
罪を犯さざるを得ない。よって、人間の犯罪は宇宙に責任がある。
人間の犯した犯罪によって、人間が苦しみを得た場合、その責任は
宇宙が取らねばならない。宇宙に償いをする義務がある。
宇宙は、そしてそれを造った神は、人間の犯した罪について
人間に償わねばならない もし人間に自由意志が無く、自我や感情がただの物質的なものであり、
人間を管理する為だけの宇宙のシステムであるとするならば、
人間の憎悪は一体どの様な扱いになるのだろうか。憎悪が感情である以上、
憎悪もまた自分のものではなく、自分の中に強制的に発生させられ、
宇宙が人間を操作する為のシステムとして動作している。
そうするならば、憎悪もまた、喜びや幸福と同じ様に、奴隷的行為となるだろう。
憎悪が自分を管理し支配するものであるならば、自分の中にある憎悪も分析し
理性的に扱わねばならない。人間が神や宇宙という強力な支配者を憎悪し、
その憎悪を糧に戦おうとしている時でさえも、その憎悪自体が宇宙から
与えられ宇宙に管理されているものなのだ。ならば憎悪は、人間にとって
生きていく力にならないのだろうか。いや、なると考える。ならざるを得ない。 何故なら、人間が完全な奴隷であったとしても、奴隷は奴隷なりに
戦うしか術が無いからだ。 例え全てを相手に握られていて、何もかも
相手の手のひらの上だとしても、その手のひらの上で鎖に繋がれた
奴隷として抗って暴れるしか無いのだ。
感情も、自我も、記憶も、思考も、肉体も、全てが宇宙からの
借り物で何一つ自分に所有権が無い。そういう意味では人間は
自分というものを自分自身で所有しておらず、自分という主体は
存在していないのだ。
にも拘わらず、自分は自分として戦い生きねばならない。その苦難や
不条理を憎むという憎悪さえも、相手の所有物だ。憎悪は自分のものではない、
しかし憎悪を糧に生きて行かねばならない。そういう意味でも人間は
完全な奴隷であり、その事をまた憎む、という堂々巡りとなる。
憎悪すらも自分のものではない。その事もまた、受け入れねばならない つまり、宇宙というガチャシステムは、そこへランダム性を賦与することで、
人間同士であれば、そこへ差異を導入し、争いや誤解の種を撒き、それを種全体の
成長や進化へと寄与する方向で利用している、という風に考えることも出来る。
もし、全ての人間がロボットのように同じで、同じ思考、感情、才能、属性、
運であったなら、そこには争いも動きも競争もシステム改善への必然性も革命も
起きないので、ビッグバン始まった時と同じままのように物事が停滞してしまうから、と想定することが出来るかもしれない。
が、それは種全体として見た場合の功利や便益であって、個々の不条理を背負わされる主体や生命にとって、それは悲劇であろうから、やはり、ガチャシステムは宇宙に
とっての好都合に過ぎぬので、人間はそれを非運命的な平等で公平な人間的なシステ
ムへと改変するよう努めるしかないだろう。
つまり、宇宙や神と、人間の利害はちょうど対立しているのだ。 たとえば、よくイジメの問題や過労死のニュースが大きく取り上げられる。
旭川の中学生女子イジメや電通の東大女子の高橋まつりさんなど、才能もあり、
容姿も魅力的な若い人が、宇宙の理不尽なガチャシステムによって、悲惨な死を
遂げることになる。
これも犠牲者は痛ましい限りであるが、宇宙のガチャシステムは彼女らをいわば
目立つ広報のように使って、人間社会や企業、学校に、イジメや過労死の問題を
なんとか解消するよう促す機制がある、と好意的にこの不条理なガチャシステムを
解釈することも出来る
ただ、そのガチャシステムの犠牲者やその家族にとっては、堪え難い苦しみであるので、やはり、この宇宙が有しているガチャシステムは、人間視点でみれば、
根源的な悪を有している、ということになるだろう。なぜなら、碌でもない人間や
悪人が無事に長生きしている光景も我々はまた目撃することが出来るからである。 https://news.yahoo.co.jp/articles/a7c4bc72f9bb92b2a2c048fcbbdb9d30b1de4580
熱湯かけられ男児死亡 23歳母親を暴行容疑で逮捕 大阪・摂津市
桜利斗ちゃん(3)
キラキラネームをつけられた挙げ句、虐待死の犠牲者で、本当にこの世は
理不尽なガチャシステムですべて決まっているようにみえてしまう 【電通】過労自殺の高橋まつりさん、睡眠時間が週10時間というとんでもない労働環境だった
福井労働局は10月27日、過労死防止対策の推進を図るシンポジウムを福井市の福井県国際交流会館で開いた。
長時間労働やパワーハラスメントに苦しみ、2015年に自殺した広告大手電通の新入社員高橋まつりさん=
当時(24)=の母幸美さん(58)が講演。
「社員の代わりはいても自分の代わりはいない。命より大切な仕事はない」と訴えた。
幸美さんは、まつりさんのワンピースを着て登壇。毎日のように午前2〜4時まで働き、
1週間で10時間しか睡眠時間がなかったとし 「娘を救えず悔やんでも悔やみきれない。
限界になるまで頑張らず、早めにSOSを出してほしい」と呼び掛けた。
長時間労働の見直しに伴い、残業代が減っているとの声も聞くといい、
「生活のために長時間労働をしなければならないような経済構造が問題。
過労死をゼロにする対策をしてほしい」と強調した。
http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1427366
娘のまつりさんを失った悲しみを語る高橋幸美さん=10月27日、福井市の福井県国際交流会館
http://fki.ismcdn.jp/mwimgs/8/f/600m/img_8fddf1d4dcd7a633a563648185f6eb04340340.jpg 1週間で10時間しか睡眠時間がなかった
それを知ってたら早めになんとかできたろ 恋愛格差とか経済格差なんか親ガチャだわな
容姿も収入も月並みの奴は結婚しても3人に1人は離婚
それ以下の奴等はそもそもカウントされてないだけで 私よりきついこと言ったりする人たくさんいるけど全く炎上してないし粘着されてないのよね これに巻き込まれたら嫌なことばっかり言われて病む
他の人も全然完璧でも何でもないのに ガチャとかいうより
そういう苦しみを経験したい
ってノートに書いて出てくるんじゃないかな
そこに優劣はなく
どっちが優れてるとかはなく ガチャこそ平等だよな
何者の意思も、依怙贔屓もなく、ガチャにより選ばれる ガチャっていうカオスやランダムの象徴のような物の挙動が、
決定論と同じ自由意志の否定という同じものにつながってるのは面白いな。
結局、ガチャに見えてそれは必然とあるならば、決定論的なテーゼと同じ
轍の上にいるわけだ。
だからちょいちょい「自分の努力を怠るな」だの「人のせいにするな」だの
「努力が足りない」だの言う論調の頓珍漢が沸いてるのも納得できる。
自由意思はないなんていうと、突然その手のやつが沸いてくるからな。
あと神がどうとか。
個人的にはガチャ考え方に賛同するというか、決定論押しの俺としては、
「だよね」くらいしか言うことがないんだ(100までしか読んでない)けど、
やっぱ考えるのが苦手な人間は納得させたところで
「じゃあどうすりゃいいんだよ」ってなるよな。
どっかでも書いたけど、これに関しては「思う」しかないんだよ。
何を思うかっていうと、このスレ的に言うならば
「俺の未来は狙ったガチャを引けるように決定されているはずだ」ってさ。
思うだけならタダだし、誰にでもできるからね。
そう思う事で結果、道を大きく踏み外したり、努力を投げ出したりしないという
背景が出来上がる。
「見てな。俺スゲーガチャ引くぜ。そん時の為に手は抜か無ぇ。
だって後から他人に俺の過去を漁られて変なの出てきたらか嫌じゃん」ってくらい
がいいんじゃね?
まあガチャというか、ちょっと見方変えて人類を長々のさばらせている現状を見ると、
欲や方向性、判断や受け止め方がハマってるから人間支配が長いんだろうな。
ちょっとずれてたら多分絶滅してるだろう。これから先はやばそうだけど。 ガチャの結果は10代でほぼ出ている。あとは、その消化試合
トランプなら幼少から恵まれている
一発逆転は青葉みたいなリスクあるかもよw
ガチャ引きのいい人間は、生まれた時からたいてい恵まれている。逆も然り それはそう
でも宿命転換するとかいう人たちが襲ってくる時もあるしね 山上もガチャの犠牲者だろ
統一協会に家庭環境台無しにされたんだから ロールズの「無知のヴェール」 のように弱者に配慮した社会設計を構想するのが学者の本来の仕事
ピケティ然り、サンデル、サンダース然り
日本の御用学者三浦瑠麗は、安倍の国葬賛成とかビジウヨに邁進して利権を確保しているだけ。それに追随する仔犬が東壺紀 ■人生はガチャである
奈良県警察本部長 警視長 鬼塚友章(おにづか ともあき) さん
https://www.nara-np.co.jp/dbimage/article/28/28704525abaa0e822e96f2ef9be936bf.jpg
プロフィール
出身地:福岡県
~主な経歴~
平成7年4月 警察庁採用
平成10年8月 長野県警察本部警備部警備第一課長
平成13年3月 神奈川県警察本部警務部首席管理官兼総務部首席管理官
平成20年7月 在イタリア日本国大使館一等書記官
平成23年8月 警察庁警備局公安課理事官
平成28年9月 警察庁警備局警備課警護室長
平成29年8月 警視庁第一方面本部長
令和2年8月 内閣官房国家安全保障局内閣参事官
令和4年3月 奈良県警察本部長
令和4年7月 「警察官人生で最大の悔恨」 ガチャが平等とか言ってるやつ毒されすぎだろう
そもそも宇宙の塵でしかない人間に完全なシステムなんて作れない以上、平等という前提で考える事自体烏滸がましいのでは
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/⌒ヘ_/ \/⌒\ 壺ガチャ
( ○ //∥. \ ○ )
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|」」」と) | (___)| !
ヽ _ノ | | /
\ \ (_二二二_)_/
 ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ まず自然ってやつを考えてみればわかるが、多様性ってなによ?って話
それって色んな種が存在するから様々な環境に適応するのに都合が良いってことやろ
おなじように同種の中にも多様性があって劣等でも生命にとっては
必要悪ってことになる
自然界のルールに平等とかないしむしろ嫌いだから >>166続き
たとえば毎年、河で溺れる人がでる危険だから河を全て埋めてしまおうとはならない
それは、河から受ける恩恵のほうがデカいからだよな
生物の多様性も、生命全体としては有益に他ならないのだが
劣等に生まれてくる個人にとっては単なる不幸以外の何もんでもない >>167
底辺の役回りを押し付けられたうえにその仕組みに与することで
妬んでる側まで支えちゃってるっていうとこがヘコむな 山田太一
「あきらめるな」とよく言います。だから誰でもあきらめさえしなければ夢がかなうような気がしてきますが、そんなことはあまりない。頑張れば何でもできると思うのは幻想だと僕は思う。成功した人にインタビューするからそうなるのであって、失敗者には誰もインタビューしてないじゃないですか。
人間は、生まれ落ちた時からものすごく不平等なものです。国籍も容姿も選べない。 親も子供も選べない。配偶者だって、2、3の候補の中から選ぶのがせいぜいで、 それでもいいくらいのものでしょう?つまり限界だらけで僕らは生きているわけで、 そんなにうまくいかないのが普通なんです。その普通がいいんだと思わなければ、 挫折感ばかり抱えて心を病んでしまう。
僕は一握りの成功者が「頑張れば夢はかなう」というのは傲慢だと思っています。 多くの人が前向きに生きるには、可能性のよき断念こそ必要ではないでしょうか 。 舛添要一
「僕ら官僚出身だし、頭はいいんです。ただ頭いいからって全部成功するかっていうのは我々見て分かるようにそんなことでもないので」 自分自身で制御不能な害悪や不条理に囲繞されているのがこの世界なので、生まれないことが一番のリスクマネジメントになる
自分の出生は自己選択できないので(もし出来るのなら、非出生を選択するのが合理的)、自分の子供を持たないことが次善のリスクヘッジになる だから反出生主義は単に正しいのでなく、リスクヘッジとしては、異常なほど正しい認識だと言える
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/⌒ヘ_/ \/⌒\ 壺ガチャ
( ○ //∥. \ ○ )
\/ /) (\ \/ やってみない?
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|」」」と) | (___)| !
ヽ _ノ | | /
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 ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ >>186
∧__∧
( ・ω・) いやどす いやどす
ハ∨/^ヽ いやどすねん
ノ::[三ノ :.、
i)、_;|*く; ノ
|!: ::.".T~
ハ、___|
"""~""""""~"""~"""~" + * * 。゚ o + * 。
* ゚ ★ + o . * + ゚
* . ゜ . . | | |
ヽ / | | | ヽ l / ☆ 「♪ ジングルベル
. ⌒\|/ | | | r 「バケラッタ!」 ∧ ジングルベル ♪」
/´  ̄ ̄`\ | | /´  ̄ `\ ∠: * ゝ __
/ / ⌒ヽ ⌒ヽヽ / (・ ・) ヽ ∠: : ::丿ゝ /ヽヽ、 `\
l | ・|・ | | _l ヽ、__ノ l /o :://:\ /ヘ ヘヽ\ ヽ<
| l l、 j | \ ヽ_/ /) _∠: ://: : :ノノヽ || ^| |^ | l-、ノ
| /⌒`ー ⌒ ー⌒ヽ ヽ__,─、_ノ´/  ̄ ̄ `ヽ / * : ノノ: ゝ l ーc ー 丿
| \ \二⌒二ノ ノ / /)ノ)ノ: : O/ノ::)):\ヽ└、-フ ノ
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| / ``ヽ / ヽ、 ヽ_ ┌─, : : //: : :○ ゝ |二二二|
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