ユングを語る 【夢、無意識、元型】 Part.2
前スレ>>189
タイプ論の第二章、「タイプ問題に関するシラーの理念について」にある話とよく似たテーマだなと思います。
上流階級からの下流階級への抑圧が、個人の中で優越機能からの劣等機能への抑圧にすり替える事で、集合的文化の成立と個人文化の縮小が為される事になったと。
集合文化の中において人は単なる機能としてしか存在せず、そこには劣等機能への抑圧による意識の肥大化、神経症の起源が存在すると。 神経症の起源ってよりはそのうちの一つって程度に収めた方が適切な表現でしたね ユングもその頁で指摘はしているけれども、上流階級による抑圧がなされている社会がイイよねって話にはならないんだよね。
だからここは神経症の一つの形の紹介として読むのが良いんじゃないかなと思う。 序論やエピメテウスの話のところとかには優越機能の抑圧による神経症が紹介されていた。 精神分析って今現在の心理的な不調の原因は過去にあると見て探っていくんでしょ
今のカウンセリングって今ここの感覚を重視してると聞いた
自分が傷ついた経験、思い込みが出来たのは確かに過去なんだけど
その時の感情はずっと残っているため今現在も続いているものとみる
内面には時間の経過がないから、過去ではなく、あくまで今起きたことということ
だからわざわざ催眠誘導などで過去を思い出す必要はなく、今ここで抑圧を外して感情を感じていけば楽になるし、その時の体験も必要なら勝手に思い出すという感じ 世相分析って100%じぶんに当てはまるわけじゃないでしょう YouTubeで検索したら、ユング心理学の「アーキタイプ」でこんな動画が発見されたぞ
https://youtu.be/j8ygI--15Zs 最近の(というほど最近でもないが)
欧州の性的志向・性自認に関して結構強い動きだと思うんだが、何かあるのかね?キリスト教で抑え込まれていたことへの反動と見るのも雑過ぎる気がして。 この星に我々の存在をもたらした、物質界に「生命」として現れる不思議な現象は、生命現象自身の拡張・拡大として現れる
エネルギーによって盲目的に推進されているように見える。そのエネルギーは、個々の生命においては本能的衝動として働き、
基本的に本能的衝動の充足は、その環境に適応した生命の拡大・拡張として機能している。
しかし生命という現象にとって、未知の環境への潜在的な可能性への拡大・拡張も重要であり、それへのエネルギーは
例外や逸脱として現れる。だから生命という巨大なエネルギーの前では、個々の生命など実験の駒にしかすぎず、個体は常に
その環境への最適化(幸福)とまだ見ぬ未知のための例外化、逸脱(不幸)という相反するエネルギーに翻弄される。
その二つの相反するエネルギーによって、地球は最初の生命からこれほど多様な生命に満ちた星になり、オレの心にも脈々と
その「生きた矛盾」が流れ込んで勝手に活動している。
・・・というイメージが浮かんだ。物質と精神との究極の根源についてはまた別のイメージがあるけど、とりあえず、きのうはカレー味の
おにぎりを食べた夢を見た。 自分を捕える大きな力。そこから分離することで自分はかけがえのない「自分」を獲得したんだけど、それは同時に
途方もない「喪失」でもあって、自分である限り、同時にそれは喪失でもある。
でもそれは見えないところで強くつなっがっているのも感じられて、安堵でもあるし、いつまた自分を飲み込むかも
しれない恐怖でもある。
そんな、矛盾そのものである自分には常にもう一つの自分である「影」が前になったり後ろになったりしながら
ついてくるのが感じられて、でもそれは影だから永遠に沈黙したまま逃げ続ける宿命で・・・。
僕は「テルーの唄」は一番と三番だけでいいような気がするけどね。 >>214
ワンネスへの希求(≒子宮回帰願望)と個性化への希求の矛盾て感じかな
わかる気もする
せめて影を迎えにいけたらと思うんだけど自分だけで取り組むのは危険なのかな >>173
自伝しか読んでいない人間が書くよ。
ドイツ観念論の行きつくところは、「すべては主体の内に先験的に潜在していて、外界からの知覚刺激が
トリガーとなってそれが発現している」となるか、「すべては主体である何者かの発現であり、それが
外界の知覚として意識化されている」となるんじゃないだろうか。
あるいは「その両者がメビウスの帯のように一体である」となるのかな。
世界を経験している「私」とは、同時に、私によって経験されている「世界」でもあるわけだから、
「私」ってのは主体と客体のどちらにでもつけられる記号となる。
ユングは子供の頃、お気に入りの石の上に座って「私はこの石だ」とか考えるのが好きだったらしいし。
晩年の夢でも、UFOを見て「私がUFOを見ているのか、私がUFOから投影されているのか」と思ったみたいだし。 >>215
昼の世界で、自分が単なる「社会的役割」の集合体でしかなくなってしまったような索漠たる思いに悩まされて、
無意識という広大な夜の世界への希求が高まるのと同時に、ちっぽけな自分が吞み込まれて消えてしまう恐怖も高まる
そんな時に無意識への通路として、自分の「影」が、危険だけどかけがえのない自分の同伴者として、得難いガイドでも
あるような気がする
テルーの唄の、特に3番の「あなた」は自分の影のような気がしてならないんだよ オカルトに逃げた弱い人間に学問や科学に闖入する隙を与えてしまったユングの罪は重い ユングはただのイカサマ師だね。心理学という名称を冠するのはおかしい そもそも、証明できないものを前提にしないと話が前に進まないというのは宗教と同じ ユングの言う無意識下のリヒドーとは、
スターウォーズで言うダークサイドのようなものかと思ってたが、
人間が顕在意識化で否定している欲望の源のようなものなのですよね。 だけど意識に埋もれて消された欲望や理性がどうなってるのかというほうがユングフロイト以上。 そんな切り捨てられたものつぶれたものが幻覚に関係あるんです。 これぐらいのことだとまだドストエフスキーがおすすめ。 相手の心を意識を潰して精神の死に追いやるといった輩が僕は好きでない。
それを殺しても法律の処罰の対象だと思えない。法的待遇を得るべきで。 繊細さがゆえに狂気に陥り、牢屋に鎖で繋がれた人をたくさん知っている。 第一加害者こそ処罰され処刑されるべきで。それだけが低級犯罪だ。 ユングもフロイトもあまり出来ていないけど将来性は買うよ。
コフートなんかの方がいいんだけど。 メラニークラインだけは忘れんなよ。サリヴァンとか。アンナフロイトのほかに。 「竜とそばかすの姫」は、いかにもユング的な解釈ができそうだけど、ユングの考えは
あまりに魅力的なので、世界のすべてを「ユング化」してしまう危険は無いのだろうか
それとも分析に次ぐ分析で、そこまでの徹底を求めるのが本来のありかたなのだろうか きのう、夢の中で「雨に歌えば」を歌いながら地下への階段をどんどん降りていった。
だんだん天井が低くなって窮屈になっていったけど、ずいぶん降りて一番下だなと思うところに
着いた。でもなんだかいたたまれない感じがして、少しだけ上にのぼりなおしたところにドアがあった。
トイレか何かのドアみたいなんだけど、ノックしたら向こうからもノックを返してきて、
「エッ、誰かいるのか」と思った。
僕の解釈じゃ、向こうにいたのは、切り捨ててきた自分だな。ずいぶん自分をいつわって来たツケかも知れない。
でもその葛藤が新たな統合への動きだととらえることもできるんだろうか。 トイレの夢は肉体的にトイレに行かねばならん緊急事態が常なのでさっさと目覚めたい
歳をとったら本当に漏らしそう
向こうにいた無意識は膀胱の発する信号でトイレに行かねばならんと理解しとっくにそう行動してて、それに自分が気づいてなかったのでは
まぁそれがトイレだったらだけど まあ、そうかも知れないね。このところ、「ドアの向こうに誰かいる」っていう夢を立て続けに見るんだよ。
でもそのたびに、扉を開ける勇気は出ないんだよね。 自分自身を狂人にして研究するってどうやるんだ?
やっぱ幼少期の孤立した体験があってのことなのか アドラーじゃなくてユングなんだ!という人はなんでユング心理学を選んだんですか?