インドの起源は古代ギリシャ文明
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001世界@名無史さん
垢版 |
2012/10/02(火) 15:03:33.390
仏教はオルペウスとピュタゴラスが起源
輪廻転生の概念も彼らが起源
0102世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/11(日) 16:33:33.020
アルテミス(!ArtemiV)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/artemis.html

 アルテミスはまた熊と特別の関係にあったらしく、女神の怒りをかって牝熊に変じられたカッリストーは、本来アルテミス自身(アルテミス・カリステーKalliste《もっとも美しい》)であったと思われる。
オレステースが姉のイーピゲネイアとともにタウリスTaurisのケルソネーソスCbersonesos(クリミア)からハライHalaiにもたらしたアルテミス像は、人身御供を要求する恐ろしい女神で、
これはブラウローンBrauronで祭られて、ブラウローニアーBrauroniaと呼ばれ、アテーナイのアクロポリス山上にも神域をもち、少女たちが熊をまねて、黄色い衣を着て踊った。

女神に対する人身御供の風習の名残りは他のところにも見いだされる。
アルテミスはアポッローンが太陽と同一視されたと同じように、月の女神セレーネーおよび月と関係があるヘカテーとしばしば同一視あるいは混同されているが、
これはこれらの女神の支配の範囲や性格がたがいに重なりあっている部分があるからである。

さらにアルテミスはスパルタのオルティアOrtheiaとも同一視されているが、
オルティアは明らかにドーリス人が北方からもたらした印欧語源を有する女神で、もとはまったく異るものである。


Ortheia, Goddess of Sparta
in the Archaic Period, 600s bce
http://www.sourcememory.net/art/greece/oldgreek.html

鳥女神だけど蛇もいるよ

http://www.sourcememory.net/art/greece/ortheia.jpg
http://www.sourcememory.net/art/greece/sparta.png
http://www.sourcememory.net/art/greece/hekate_artemistmpl.png
0103世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/12(月) 04:47:22.970
>>101
中国側のワハン人はサリコール人と並んで中国の少数民族「タジク族」として知られているが
彼らは実際にはイラン語派とはいえパミール諸語のワハン語・サリコール語を話す別民族
隣国タジキスタンのタジク語(実質ペルシャ語)は地域共通語としてたしなみ程度に話せるというだけ
つまり本当のタジク族は中国にはいない
0104世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/13(火) 23:23:26.500
>>103
ほっほう

ちなみに自分がみたのはアフガニスタンとしての記事だったかな
0107世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/18(日) 00:37:16.220
ウィリアム・テル
http://en.wikipedia.org/wiki/Palnatoke

ヴィルヘルム・テル/ウィリアム・テル(ドイツ語:Wilhelm Tell 、フランス語:Guillaume Tell〔ギヨーム・テル〕、
イタリア語:Guglielmo Tell〔グリエルモ・テル〕、英語:William Tell)は、
14世紀初頭にスイス中央部のウーリ州のアルトドルフに住んだとされる伝説の英雄。

彼の名が記された史料が見つかっていないため実在性は証明されていないが、スイス人の6割はテルが実在の人物であると信じている[1]。
彼はスイスのみならず世界的に有名で、日本でも弓の名手として知られている。
日本では長らく英語名に基づいた表記「ウィリアム・テル」が使われており、他にドイツ語名に即した表記「ヴィルヘルム・テル」も用いられている。

当時ハプスブルク家は、神聖ローマ皇帝アドルフの時代に強い自治権を獲得していたウーリの支配を強めようとしていた。
ヘルマン・ゲスラー(ウーリのアルトドルフにやってきたオーストリア人の代官)は、その中央広場にポールを立てて自身の帽子を掛け、その前を通る者は帽子に頭を下げてお辞儀するように強制した。
しかし、テルは帽子に頭を下げなかったために逮捕され、罰を受ける事になった。
ゲスラーは、クロスボウの名手であるテルが、テルの息子の頭の上に置いた林檎を見事に射抜く事ができれば彼を自由の身にすると約束した。
テルは、息子の頭の上の林檎を矢で射るか、それとも死ぬかを、選択することになった。
1307年11月18日、テルはクロスボウから矢を放ち、一発で見事に林檎を射抜いた。
0110世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/18(日) 21:58:02.480
遺伝学: サハラ以南のアフリカにおける遺伝的多様性
Nature 517, 7534
2015年1月15日

http://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/60002

アフリカゲノム多様性プロジェクト(AGVP)では、アフリカの遺伝的疾患研究に重要な情報を提供すべく、アフリカ人のゲノム構造についてのデータを収集している。
現在、サハラ以南アフリカ全域からの1481人の高密度遺伝子型と320人の全ゲノム塩基配列が得られている。
これらのデータを用いてM Sandhuたちは、マラリアや高血圧に関係する遺伝子座など、現在選択を受けている遺伝子座を新たに明らかにした。
彼らは、最新のインピュテーションパネル(参照用遺伝子型群で、研究で観察されない、あるいは欠失した遺伝子型を推測するのに使う)によって、
サハラ以南アフリカのヒト集団間で高度に分化した遺伝子座についても、関連シグナルが明らかにできることを示した。

また、全ゲノム塩基配列解読を使えば、インピュテーションの精度がより改善されることも実証した。
さらに著者たちは、アフリカに広く見られる遺伝的変動を捉えられる、効率の良い遺伝子型アレイを初めて設計した。
0111世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/18(日) 22:15:09.22ID:40AoiHAA0
ゴッドファーザー?

Y chromosome super-fathers

http://dienekes.blogspot.jp/2015/01/y-chromosome-super-fathers.html

This is a very exciting paper. Most of these lineages are so young that there are good chances that their founders were figures from history or mythology.

The most interesting one is DC2 which was also found in south Siberian Kurgans,
belongs to haplogroup R1a1 and is given an age of 3,284 years by the authors (with some almost impossibly wide confidence intervals).

Based on its distribution, and if a Bronze Age date is right,
it is difficult to see in it anything other than a patrilineage that was present in Proto-Indo-Iranians.


http://3.bp.blogspot.com/-jmZRvSt1kaU/VLaeIe2CDvI/AAAAAAAAJ38/8inWntfBShQ/s1600/Figure4.jpg
http://1.bp.blogspot.com/-w7ny-VqU2Fw/VLaeNlk440I/AAAAAAAAJ4E/T1FYBQu7Rcs/s1600/Table1.jpg
0113世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/21(水) 01:22:32.970
>>111
ふっふーん


DC5(700BC) 新アッシリア時代

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2
http://en.wikipedia.org/wiki/Neo-Assyrian_Empire

いわゆるアッシリア帝国と呼ばれる時代に入るのはティグラト・ピレセル3世の時代である。
彼はバビロニアやヘブライ人の記録でプル(Pul)と呼ばれた(シリア・エフライム戦争(英語版)、バビロニア遠征(フランス語版))。

被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から憎まれてこの蔑称で記録されたとされる。
アッシリアはこの帝国を維持するために各種の方策を講じた。最も有名なものの一つが大量捕囚政策としてしられる被征服民の強制移住である。
強制移住自体はオリエント世界に広く見られた手段であるが、アッシリアのそれはその組織性と規模において史上例を見ないものである。
特にティグラト・ピレセル3世の治世以降は、急激に拡大した領土での反乱防止と職人の確保を目的としてたびたび行われた。

3 Tiglath-Pileser III, 744?727 BC
3.1 Invasion of Israel (738 BC)
4 Sargonid dynasty
4.1 Sargon II, 721?705 BC
4.2 Sennacherib, 705?681 BC
4.3 Esarhaddon, 681?669 BC
4.4 Ashurbanipal, 669?627 BC
4.4.1 Legacy of Ashurbanipal
0114世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/21(水) 02:05:35.660
>>111
はっはーん

DC11(300BC) マウリヤ朝

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/4/43/Maurya_MAP.png

成立[編集]

いわゆる十六大国の中でも最も有力であったマガダ国ではナンダ朝が支配を確立していた。
しかしナンダ朝はシュードラ(カーストの中で最下位)出身であったことからバラモン教の知識人たちによって忌避されていた。
こうした状況下にあって、マガダ国出身の青年チャンドラグプタがナンダ朝に反旗を翻して挙兵した。

これに対しナンダ朝は将軍バッサダーラ(Bhadrasala)を鎮圧に当たらせたが、チャンドラグプタはこれに完勝し、
紀元前317年頃に首都パータリプトラを占領してナンダ朝の王ダナナンダ(英語版)を殺し(ナンダ朝の滅亡(英語版))、新王朝を成立させた。
これがマウリヤ朝である。

こうしてガンジス川流域の支配を確立したチャンドラグプタはインダス川方面の制圧に乗り出した。
インダス川流域はマウリヤ朝の成立より前にマケドニアのアレクサンドロス大王によって制圧されていたが、
アレクサンドロスが紀元前323年に死去すると彼の任命した総督(サトラップ)達の支配するところとなっていた。

ディアドコイ戦争中の紀元前305年、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指したセレウコス1世がインダス川流域にまで勢力を伸ばした。
チャンドラグプタはその兵力を持ってセレウコス1世を圧倒して彼の侵入を排し(セレウコス・マウリヤ戦争(英語版))、
セレウコス朝に4州の支配権を認めさせてインダス川流域からバクトリア南部にいたる地域に勢力を拡大した。
これが直接的な戦闘の結果であるのかセレウコス1世が戦わずしてマウリヤ朝の領域を認めたのかについては諸説あり判然としない。
0115世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/21(水) 02:08:11.880
>>114続き

紀元前293年頃チャンドラグプタが死ぬと、彼の息子ビンドゥサーラが王となり更なる拡大を志向した。ビンドゥサーラの治世は記録が乏しい。
彼はデカン高原方面へ勢力を拡大したとする記録があるが、実際には既に制圧済みだった領内各地で発生した反乱を鎮圧する一環だったとする説もある。
ビンドゥサーラの息子に史上名高いアショーカがいた。ビンドゥサーラはアショーカと不和であり、
タクシラーで発生した反乱に際してアショーカに軍を与えずに鎮圧に向かわせたが、アショーカは現地の人心掌握に成功して反乱を収めたという伝説がある。


アショーカ王[編集]

紀元前268年頃ビンドゥサーラ王が病死すると、アショーカは急遽派遣先から首都パータリプトラに帰還し、長兄(スシーマ?)を初めとする兄弟を全て(仏典によれば99人)殺害して王となったと伝えられる。
しかしこれは王位継承の争いが後世著しく誇張されたものであるらしく、実際にはアショーカ王治世に各地の都市に彼の兄弟が駐留していたことが分かっている。
とはいえ、彼の即位が穏便に行かなかった事は、彼が戴冠式を行ったのが即位の4年後であったことや、大臣達の軽蔑を受け忠誠を拒否するものが続出したという伝説などからも窺われる。

アショーカ王は国内での反乱の鎮圧や粛清を繰り返しながら統治体制を固め、紀元前259年頃、南方のカリンガ国への遠征を行った。
カリンガ国はかつてマガダ国の従属国であったが、マウリヤ朝の時代には独立勢力となっていた。

ギリシア人メガステネスの記録によればカリンガ国は歩兵6万・騎兵1千・戦象7百を擁する一大勢力であったとあり、
マウリヤ朝の中央インド統治にとって最大の障害であった。

激戦の末カリンガを征服したが、この時の戦争で多数の人命が失われた(当時の記録によれば多数の徳のあるバラモンが死に、
捕虜15万人のうち10万人の人が死に、その数倍もの人々も死んだとある。)。
カリンガ国の征服によってマウリヤ朝は南端部を除く全インドと現在のアフガニスタンを含む巨大帝国となったが、
アショーカ王はカリンガ戦争のあまりに凄惨な被害を目にして自らの行いを悔い、
それまで信者ではあっても熱心ではなかった仏教を深く信奉するようになり、ダルマ(法)による統治を目指すようになったという。
0116世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/21(水) 02:12:32.450
>>115まだ続く

滅亡[編集]

アショーカ王は晩年、地位を追われ幽閉されたという伝説があるが記録が乏しくその最後はよくわかっていない。
チベットの伝説によればタクシラで没した。アショーカ王には数多くの王子がいた。

彼らは総督や将軍として各地に派遣されていたがその多くは名前もはっきりとしない。
そして王位継承の争いがあったことが知られているが、その経緯についても知られていない。
いくつかの伝説や仏典などの記録があるが、アショーカ王以後の王名はそれらの諸記録で一致せず、その代数も一致しないことから王朝が分裂していたことが想定されている。

いくつかのプラーナ文献によればアショーカ王の次の王は王子クナーラであったが、彼はアショーカ王の妃の1人ティシャヤラクシターの計略によって目をえぐられたという伝説がある。
クナーラ以後の王統をどのように再構築するかは研究者間でも相違があって容易に結論が出ない問題である。
しかし分裂・縮小を続けたマウリヤ朝はやがて北西インドで勢力を拡張するヤヴァナ(インド・ギリシア人)の圧力を受けるようになった。
『ガールギー・サムヒター』という天文書には、予言の形でギリシア人の脅威を記録している。


マウリヤ朝最後の王は仏典によれば沸沙蜜多羅[1](プシャヤミトラ)、プラーナ聖典によればブリハドラタ(英語版)であった。
これはブリハドラタとする説が正しいことがわかっている。

プシャヤミトラはブリハドラタに仕えるマウリヤ朝の将軍であり、北西から侵入していたギリシア人との戦いで頭角を現していった。
そして遂にはブリハドラタを殺害してパータリプトラに新王朝シュンガ朝を建て、マウリヤ朝は滅亡した。その時期は紀元前180年頃であったと考えられている。
0117世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/24(土) 18:53:05.310
未盗掘の首長級墓から大量の副葬品 宮崎県えびの市・島内地下式横穴墓群 [宮崎県]
2015年01月19日(最終更新 2015年01月20日 01時13分)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/miyazaki/article/140283

 宮崎県えびの市教育委員会は19日、同市島内(しまうち)の島内地下式横穴墓群から、
2体の人骨と武具や装飾付き馬具など大量の副葬品を納めた
古墳時代中期末−後期初頭(5世紀末〜6世紀初頭)の未盗掘の墓が見つかったと発表した。

副葬品が土に埋もれずほぼ完全な状態で見つかるのは極めて珍しい。

朝鮮半島製とみられる大刀(たち)や、大和政権との関係を示す甲冑(かっちゅう)一式も出土しており、首長級の有力者が埋葬されたとみられる。

 遺体を安置する墓の玄室(奥行き2・25メートル、高さ0・94メートル、幅3・1メートル)には、
女性の遺骨1体と男性とみられる遺骨1体とともに、矢羽根周辺に黒漆を塗ったものを含む約300本の矢や、
箱に入った状態の鏡など計400点を超える副葬品があった。

 銀メッキでさやなどを装飾した銀装円頭大刀が出土したのは九州で初めて。
朝鮮半島=百済(くだら)ないしは伽耶(かや)=で作られたものと様式が酷似しており、半島製と判断できるという。

また、衝角付冑(しょうかくつきかぶと)と短甲(たんこう)、肩甲(かたよろい)などが完全にそろって出土した甲冑は、
他の国内遺跡から出土した大和政権下で作られたものと様式が似ており、大和政権との政治的関係を示している。

 玄室が土に埋まらなかったため、馬具や大刀のつかに繊維や革など有機物も残っており、当時の製法や使用法の解明についても期待できる。
 調査に当たった鹿児島大総合研究博物館の橋本達也准教授(考古学)は「武器や馬具の特徴から、
埋葬された人物は朝鮮半島で軍事や交易の交渉に関わるなど、大和政権と政治的関係を持っていた可能性がある」と話している。

=2015/01/20付 西日本新聞朝刊=
0118世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/29(木) 17:48:14.020
>>114
カンボージャってカンボジアと同じ?
0120世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/29(木) 20:35:25.160
>>118
らしい

【同じ語源の世界史用語】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1408804414/89

89 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 00:47:58.62 0
東南アジアのカンボジア王国は、バラモン僧のカンブー(Kambu)が建国者とされることからその名があるが、
ヴェーダや仏典によれば現アフガニスタン南部にカンボージャという蛮族がおり、
インド西部のキャンベイ(カンバート)湾もカンボージャ族に由来するといわれる。
またアケメネス朝ペルシアの大王カンビュセス(ペルシア語名カンブージヤ)も同じ語源ともいう。
0121世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/29(木) 21:45:48.390
中国の新石器文化の一覧

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%96%B0%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

すっきり
0122世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/29(木) 23:07:28.370
>>111
ほんまかいなww

DC6(900BC)


呂尚
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E5%B0%9A

呂尚(りょ しょう)は、紀元前11世紀ごろに活躍した周の軍師、後に斉の始祖。
姓は姜、氏は呂、字は子牙[2]もしくは牙[3]、諱は尚とされる[4]。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる[3]

在位期間 前1021年頃? - 前1000年頃


西戎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%88%8E

西戎(せいじゅう)あるいは戎(じゅう)および犬戎(けんじゅう)は、四夷の一つ。
中国西部に住んでいた牧畜民族で、たびたび中国の歴代王朝に侵入して略奪を行ったことから、西戎という言葉に蔑んだ意味合いを込めている。

周代には現在の陝西省・四川省から甘粛省・チベット自治区の付近にいた。
周の十二代王幽王は暴政を布いたので諸侯の恨みを買い、諸侯の一人申公の誘いを受けた犬戎(けんじゅう)は紀元前770年に周の首都鎬京を陥落させて西周時代の終わりを告げた。
これ以降は春秋時代に入る。
0123世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/30(金) 18:52:19.710
>>120
しかし矢印のさす向きは
アフガンに向いてるんだよね
0124世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/31(土) 17:56:30.090
>>109
加藤九祚によれば

ペルセポリスの彫刻では全部の23の従属民族代表団のうち
8つの代表が馬、5つの代表がラクダを献上している。

13番目がパルティア
15番目がバクトリアの住民とされている
20番目はヒトコブラクダでアラブからの代表団であった。

ラクダは、メソポタミアに「ヒトコブ」と「フタコブ」として現れた。
シュメルのテキストには、タムムズ神がラクダの乳を飲んだことが書かれている。
前2000年紀の印章にはフタコブラクダに乗った人物像が見える。

ヒトコブラクダが記録に登場するのはサルマナサル3世(前858-824)の銘文で
イビリ(ibili、アラブ語のイズル、イビリンに由来)という名前で登場している。
フタコブラクダの名称はイドゥル(idulu)で、サロネン(A.Salonen)によればバクトリア方面んに由来するという。
0125世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/31(土) 18:08:49.360
>>124

中央アジアには金石併用時代にヒトコブ、フタコブラクダが出現している。
トルクメニスタンのアナウ遺跡では前5000年紀の層からラクダの粘土模型や彫刻がみつかっている。

フタコブラクダが家畜化されたあきらかな証拠としてトルクメンのコペトダーク山麓平野で
前3000-2000年紀の初めの層から発見された4輪車を引くラクダの多数の粘土模型あげられる。
マルギアナでもこの時期の資料からラクダが見つかっている。

サパリテパで発見された前2000年紀中ごろの首飾りにもフタコブラクダがあった。

リトヴィンスキーは、タフティ-サンギンの飾板のラクダがヒトコブとフタコブのラクダの交雑種であり、
七宝の技法はアケネメス朝の時代に属し、
描かれているのはオスク神殿に捧げるためにラクダを連行している光景だろうと考えている。
作成もバクトリアであろうとしている。
0126世界@名無史さん
垢版 |
2015/01/31(土) 18:22:27.160
>>124

青銅器時代の遺跡サパリテパ、ジャルクタン、
編むダリや中流部左岸(アフガン)ティリャ-テペ、ダシュリ1号と3号

マルギアナの青銅器文化と、はるか北東方にある
前3000年紀末の古代ソグドにおける青銅器文化の大中心サラズム(約100ヘクタール)
とのつながりも指摘されている。
サラズムは古代ペシケントの西15km、ゼラフシャン川の岸辺にある。

発掘者イサコフ(A.Isakov)は、この文化をマルギアナからの移住者によるものとしている。
0129世界@名無史さん
垢版 |
2015/02/01(日) 00:36:02.540
ばれましたwっつっても加藤九祚って書いてるやん
たまたま俺の手元にある二冊のうち一つにヒットしただけで・・・
そんで、ちょっと上に同じサイトのリンクあったのなスマソ
自分でググった気になってたが、それ踏んで見ただけなのか自信がなくなってきた
0131世界@名無史さん
垢版 |
2015/02/07(土) 00:54:48.670
失蝋法の最古の記録がパレスチナにあると見かけたが
おそらくこれだね。


デッドシーは、ナハール ミシュマルといった観光スポットでその名を知られています。
場所は死海の西岸


ナハル・ミシュマ(ナハール ミシュマル)の宝物庫
http://en.wikipedia.org/wiki/Nahal_Mishmar

In 1961, Israeli archaeologist Pessah Bar-Adon discovered a hoard of Chalcolithic artifacts in a cave on the northern side of Nahal Mishmar.[1]
The hoard included 432 copper, bronze, ivory and stone decorated objects; 240 mace heads, about 100 scepters, 5 crowns, powder horns, tools and weapons.[2][3]
Archaeologist David Ussishkin has suggested the hoard was the cultic furniture of the abandoned Chalcolithic Temple of Ein Gedi.[4][5]
Prominent finds from the hoard are currently on display in the archaeology wing of the Israel Museum in Jerusalem.


Dating; use of lost-wax process[edit]

Many of these copper objects were made using the lost-wax process, the earliest known use of this complex technique.

"Carbon-14 dating of the reed mat in which the objects were wrapped suggests that it dates to at least 3500 B.C.
It was in this period that the use of copper became widespread throughout the Levant,
attesting to considerable technological developments that parallel major social advances in the region."[6]

Some of the tools in the hoard were made of arsenical bronze, or perhaps arsenical copper.
Since they contain a rather high percentage of arsenic (4?12%),
they should technically be described as arsenical bronze; also such objects have a bright, silvery appearance.
Arsenic in copper makes is harder than pure copper and more easily cast.
0132世界@名無史さん
垢版 |
2015/02/07(土) 21:29:11.930
インドは中東やエジプトと同じくヘレニズム地域でしょ。古代ギリシアが起源なのは本当じゃん。
世界史の教科書にもアレキサンダー大王によるヘレニズムによって現在のそれらの地域のモデルが形成されたと書かれてる。
0133世界@名無史さん
垢版 |
2015/02/08(日) 12:23:01.860
>>132
現在のそれらの地域のモデルが形成されたのは
少なくともイスラム以後
普通に考えたら大英帝国とその後
になると思います。
0134世界@名無史さん
垢版 |
2015/02/09(月) 13:01:49.930
イスラムはアレクサンドロス三世の遠征が起源だから当然じゃん
0135世界@名無史さん
垢版 |
2015/02/10(火) 00:01:42.770
 
お世話になります。
私、責任者の加茂と申します。以後、宜しくお願い致します。
http://www.apamanshop.com/membersite/27009206/images/kamo.jpg
浪速建設様の見解と致しましては、メールによる対応に関しましては
受付しないということで、当初より返信を行っていないようで、今後につい
てもメールや書面での対応は致しかねるというお答えでした。
http://www.o-naniwa.com/index.html 事務員 東条 南野
http://www.o-naniwa.com/company/ 岡田常路
このように現在まで6通のメールを送られたとのことですが、結果一度も
返信がないとう状況になっています。
http://www.apamanshop-hd.co.jp/ 加茂正樹 舟橋大介
http://s-at-e.net/scurl/nibn-apaman.html 大村浩次
私どものほうでも現在までのメール履歴は随時削除を致しております
ので実際に11通のメールを頂戴しているか不明なところであります。
  
 ・ハンガー・ゲーム   http://s-at-e.net/scurl/TheHungerGames-Aircraft.html
 ・スタートレック     http://s-at-e.net/scurl/StarTrek-Aircraft.html
 ・アバター        http://s-at-e.net/scurl/Avatar-Shuttle.html
 
 ・T   http://s-at-e.net/scurl/ia-T.html
 ・Zle  http://s-at-e.net/scurl/ia-Zle.html
 
  http://s-at-e.net/scurl/Batman.html
 
大阪府八尾市上之島町南 4-11 クリスタル通り2番館203
に入居の引きこもりニートから長期にわたる執拗な嫌がらせを受けています。
この入居者かその家族、親類などについてご存知の方はお知らせ下さい。
hnps203@gmail.com
0136世界@名無史さん
垢版 |
2015/02/11(水) 09:45:22.260
アレキサンダー、バクトリア、大月氏、クシャーナ朝と、特に北西部は西方のイラン・ギリシャの影響がでかいな
0137パピルス
垢版 |
2015/02/18(水) 21:51:12.200
パ・エン・ペアルルで「ファラオのもの」しかしこれは俗説

結局のとこ古代エジプトでは
メヒトmehyt→湿地に生える植物の総称
あるいは以下のようによばれたようだ
チュウフィイtjufy→特定の植物
0138世界@名無史さん
垢版 |
2015/02/19(木) 13:34:04.040
まずシュメールがあってインダス文明もフェニキアもギリシャも起こる これが凄い 
ギリシャの前にはフェニキアがあるが、シュメールの前には素朴な農耕文化しかない
メソポタミア:好戦的シュメール都市国家成立→以降は遊牧民侵入の繰り返し→最初から他地域より好戦的
エジプト:温和なエジプト王国成立→ヒクソス以降は遊牧民侵入の繰り返しで好戦的文化に 
インダス:好戦的なシュメール都市国家の影響→温和なインダス都市文明成立→遊牧民侵入の繰り返しで好戦的文化に
中原:長江に農耕文明成立→遊牧民侵入による黄河王国成立で好戦的文化に→以降は遊牧民侵入の繰り返し 
0139世界@名無史さん
垢版 |
2015/02/19(木) 22:35:15.630
>>138

シュメールはなんで最初から好戦的なの?
0141世界@名無史さん
垢版 |
2015/02/20(金) 01:34:07.020
http://en.wikipedia.org/wiki/Sistan_and_Baluchestan_Province

イランの州(オスターン)。イラン南東部にあってパキスタンおよびアフガニスタンと国境を接する。
州都は人口42万のザーヘダーン。面積は181,600km2でイラン第二位。人口は210万。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6e/Major_ethnic_groups_of_Pakistan_in_1980.jpg/620px-Major_ethnic_groups_of_Pakistan_in_1980.jpg

名称[編集]

「バルーチェスターン」とはペルシア語でバルーチの地という意味であり、パキスタンにはバローチスターン州がある。
またスィースターンは古くは「スィジスターン」 Sijist?n ?????? と呼ばれていたもので、これは中世ペルシア語の「サカスターナ」すなわちサカの地に由来する。


スィースターン[編集]

ビーストゥーンおよびペルセポリスに碑文では、スィースターンはダーラヤワウ大王の東方領域であると記されている。
先述のようにスィースターンの名はサカ族に由来する。サカ族はアーリア人の支族で、紀元前128年にこの地域の支配権を握った。
現在のスィースターンはサカ族支配地域の極西部であった。スィースターンに住んだサカ族はアルシャク朝期(紀元前63年 - 220年)にパンジャーブへと放逐された。
サーサーン朝から初期イスラーム期まで、スィースターンは相当に繁栄したようである。スィースターンがサーサーン朝の統治下に入ったのはアルダシール1世の時である。

スィースターンの地はゾロアスター教との関わりが非常に強い地であり、サーサーン朝期にはハームーン湖(英語版)(Dary?cheh-ye S?stan)はゾロアスター教徒の二大巡礼地の一つであった。
ゾロアスター教伝承において、ハームーン湖はゾロアスターの種の保持者である。
これは世界の最終的刷新の直前に三人の処女が湖に入り、それぞれが世界の最終的刷新において人類の救世主となるサオシュヤントを生むというものである。
スィースターンにおける最も著名な考古学遺跡にクーヘ・ハージェフ(英語版)(ペルシア語: ??? ?????? - Kuh-e Khv?jeh)があるが、これはハームーン湖の中央に島となっている丘である。
その後644年、サーサーン朝は最終的に崩壊し、アラブ・イスラーム勢力下に入った。
0143世界@名無史さん
垢版 |
2015/02/22(日) 01:31:00.560
http://www.mikeo410.5com.info/cms/~otherhistoryphoenicia
より


15フェニキアとカナン

フェニキアはギリシア語・ギリシア文字の文献で地域の名称として使用されました。カナンと領域に区別はないようです。フェニキアは自称でも近隣の呼称でもなくギリシア語です。
カナンはBC3000頃のシュメール語・楔形文字の粘土板にも見られると言うことです。アマルナ文書(前14世紀)には、フェニキア人の都市王国ティルスからファラオに宛てた書簡が10通(EA146-155)残されました。
このうち、EA151 は、ファラオのカナン情勢に関する問いに答えるものです。
少なくとも軍事上のカナンは、ヒッタイト、ミタンニと接するところまでで、ウガリットも含まれていました。また、ガデシュなどの内陸も含まれていました。

ダヌナ(Da-nu-na)はエジプトのラムセス3世(BC1185-BC1155)が海の民として記録した Denye のこととされています。
後には、ギリシャ語でDanaoi、ホメロスのDanaans と同じでアカイア人を指しました。また、Denye はキプロス島の住人でもあります。
さらに、キリキア(ウガリットより北のアナトリア半島南東部沿岸)の人々でもあります。キリキアはルウィ語を話すキリキア人がいました。いずれにしても、印欧語族の人々の地でした。
ガデシュにはエタッカマ王がいました。ダマスカスにはブリヤワザ王がいました。

EA151

a-bi-LUGALは、名前と見て、AbiMilki王であるらしい。
アビメレク(Abimelech)は聖書の人名にある。abi abiはアッカド語の祖父だがここでは名前の一部。
カナン語の王の語根はMLKでLUGALをMilkiの音に使用していると解釈したもののよう。



とすると、シュメールの起源
0145世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/14(土) 00:17:46.030
>>126

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%A0

サラズム (ラテン文字: Sarazm, タジク語: Саразм) はタジキスタン北西部の古代都市である。
サラズムはソグド州のパンジャケント地区(英語版)に位置する[1]。

サラズムの原始都市はソグド州とウズベキスタンとの国境付近、ザラフシャン渓谷内に位置する街ドゥルマン(英語版)の付近に位置する。

サラズムの位置はザラフシャン渓谷の初期のステップの存在を示している。
約5000年前、サラズムは中央アジアにおける金属製品生産の中心地となり、周辺地域に輸出を行なっていた[2]。
インド・イラン語派の民族が侵入した紀元前2000年頃に都市としての役割を終えたと考えられている[3]。

その後、サラズムは付近にあるトルコ石の産出地から集積を行う鉱山地域として復活したと考えられている[4]。
紀元前1500年以前に建設されたサラズムは周辺地域の農業、銅生産の中心地として重要な役割を果たしていた[5]。

サラズムは1976年、地元の農家アシュラリ・タイロノフが考古遺跡の付近から突き出ている銅の短剣を見つけたことで発見された[6]。
アブドゥロ・イサコフ (Abdullo Isakov) により発掘調査が行われ、フランスの考古学者による調査隊が1977年に調査を行った。
0146世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/14(土) 00:35:32.980
>>125


アナウ (ラテン文字:Anau, Annau, トルクメン語: Anew) はトルクメニスタンの都市であり、アハル州の州都である。
1989年時点の人口は9,332人[2]、2012年時点の人口は30,865人となっている[1]。

概要

アナウは首都アシガバートの約8km南東にあり、街にはアシガバートへと続く高速道路M37(英語版)が通っている。
アナウ付近にあるアナウ遺跡は紀元前3000年にまでその歴史を遡り、人類最古の農耕集落の一つとされている[3][4]
他、青銅器時代から初期鉄器時代にかけた時期の彩文土器が見つかっている[5]。

アナウという都市名はペルシア語で「新しい水」を意味するアビナウ (ペルシア語: ?? ???) に由来している[6]。

http://4travel.jp/travelogue/10838482

http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/500/31/62/78/500_31627823.jpg?1386601473
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/500/31/62/78/500_31627824.jpg?1386601473
0147世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/14(土) 00:44:42.900
>>126>>125

トルクメニスタンのマルグッシュ遺跡(テペ・ゴヌール)
http://blog.livedoor.jp/saiyutravel-silkroad/tag/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%96

現在も発掘が続く、トルクメニスタンのマルグッシュ遺跡(テペ・ゴヌール)。
新しい発見が続き、まだ資料なども十分に出版されておらず、現場で考古学者の説明を聞きながら遺跡をめぐります。
遺跡では、トルクメニスタン考古学の権威ヴィクトール・サリアディニ先生とそのチームが発掘を続けています。

考古学者ヴィクトール・サリアディニ
ロシアの考古学者でトルクメニスタンの考古学の権威。1972年よりマルグッシュ遺跡を発掘を指揮しています。
遺跡に到着して先生がいらっしゃると、ごあいさつ。
「私はこの紀元前3,000年にもさかのぼる遺跡を40年発掘してきていますが、何にもわかっていません」、という謙虚な言葉は印象的でした。
「今言えるのは、四大文明に匹敵する高度な文明を持ち、ゾロアスター教の前身となる、
火・水・空・大地を崇拝した宗教を持った人々、独特の埋葬方法を発達させた人々が暮らしていた、ということです」と。


テペ・ゴヌール復元想像図
アシガバードの博物館に展示されていたテペ・ゴヌールの最盛期の神殿・王宮エリアを復元した想像図。
http://livedoor.blogimg.jp/saiyutravel-silkroad/imgs/6/7/67695161.jpg

ロバ、青銅製の瓶、車輪、王杓などが発券された墳墓(人7人、 犬7匹、ロバ2頭、ラクダ2頭の埋葬)
http://livedoor.blogimg.jp/saiyutravel-silkroad/imgs/3/b/3b717672.jpg


骨で作られた羊です。
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/31/62/77/src_31627713.jpg

4輪馬車用の車輪です。同時期の他の文明ではまだ2輪車だったという。
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/31/62/77/src_31627714.jpg
0148世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/14(土) 02:28:36.530
>>140
もっとも好戦的だったのはフン・匈奴じゃないか
直接的に侵略されていないにもかかわらず、フーナの名はインドにも轟いていた
0149世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/14(土) 09:57:15.780
匈奴はインドにも攻め込んだべ。「彼らは崖の上から象を落とし、
落ちるとき面白い鳴き声を上げたなどといって、何匹も象を落とした」なんて
すごい話があった。

つうかヒッタイトといい5000年前の文明といい、どうやって金属を
取り出せるほどの高火力をだせたんだろ。レバノン杉か。
0150世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/14(土) 12:07:55.190
>>149
それってエフタル(白匈奴)じゃなくて?いつくらいのことかな
インドにも攻め込んだのか
0151世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/14(土) 14:08:26.250
>>149

レバノン杉は高価すぎてそんな用途には使えないよ

やっぱパオーンって泣くのかな
0152世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/15(日) 16:41:24.430
http://rcwasia.hass.tsukuba.ac.jp/kaken/NL/newsletter04/NL.04.pdf
ラニアより


テル・シムシャラ(Tell Shimshara)

1957年から1959年にデンマーク隊とイラク隊によって調査され、
イスラム期、前2千年紀前半の「フリ時代」、そして土器新石器時代の文化層が確認された(Ingholt 1957)。

前2千年紀前半の層位では、宮殿と思われる大型建築遺構が検出され、
粘土板文書が計246点出土している。この文書資料の研究により、テル・シムシャラはクワリなる人物が統治
し、その後アッシリア王国に制服されたシュシャッラ市(?u?arra)であったことが明らかにされている。


サトゥ・カラ(Satu Qala)

ラニア平原を流れる小ザブ川のより下流には、エルビル県になるが、サトゥ・カラ(Satu Qala)が位置している。
この遺跡は2010年から2011年にかけて新規に発掘調査が行われ、
新アッシリア王アッシュルナツィルパル2世銘の釘状彩釉製品や新アッシリアの土器が、
宮殿と思われる建築遺構から出土している(van Soldt et al.2013)。

この遺跡はアッシリアの支配下に入る前は、古代イドゥ国(Idu)の中心地であったことが明らかとなっている。
0153世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/16(月) 02:37:57.350
>>152

アンナクムが、イラン高原やその向こうのアフガンから持ってこられていたことを
推測させる記述が粘土板にあったとあるが見つからず。


http://en.wikipedia.org/wiki/Tell_Shemshara

The texts were written in Akkadian.
These texts revealed that during this period the site was called Shusharra, that it was the capital of a polity called m?t Utem or "land of the gatekeeper" and that it was ruled by a man named Kuwari.[17]

Chronologically, the archive can be divided in two parts,
one covering the period during which Shemshara was the capital of a small semi-independent kingdom,
and one covering the period after Kuwari became a vassal of Shamshi-Adad, who at that time had already conquered Mari and Shubat-Enlil and was now campaigning in the Zagros Mountains.
Together, these two periods do not last longer than 3 years.

The letters in the Shemshara archive show that during this period, Kuwari had to deal with Turukkean refugees coming from the east and fleeing a war with Guteans;
events which are also mentioned in the much larger archives found in Mari on the Syrian Euphrates.
0154世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/16(月) 02:59:06.160
>>143
>とすると、シュメールの起源

何が?その時代にはシュメール人なんてとっくに影も形もないよ
文字だけを置き土産に言語もろとも消え失せている

バビロニア人アッシリア人その他のセム人はシュメール文字のLUGALを
milkiとかmelekとかmalikとかのそれぞれのセム語の
MLKという3子音語根の単語に「訓読み」してたんだよ
それに更にmlkという子音文字を追加したり(振り仮名)
abi-のような前後の派生接辞などを書き足して単語の識別に役立てたり(送り仮名)していた
シュメール文字・訓読み・振り仮名・送り仮名の原則はヒッタイト語など他の系統の言語でも行なわれていた
0155世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/16(月) 18:22:40.930
>>154
詳しい人キタァああああ!!
色々と聞きたいことがwww

LUGAL以外の他尊称はどうだったのか、とか
アッカド語(共通語?)だとどうなのか、とか
MLKとメルカルトに関係があるのか、とか

他にも色々と気になう
0156世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/17(火) 21:47:41.720
インド世界のヴァルナとジャーティーが分業制度から階級制度に移行してしまったのは
いつ頃からでしょうか
0157世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/24(火) 00:14:14.580
>>145

さて、状況的にR1a第二の故郷っていうのは間違いなさそうなんだが、、、
0158世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/24(火) 00:17:24.330
>>156
まぁ、おいらも似たようなエジプトのスレで質問したから
気持ちはわからんでもないが

ここで質問しても無駄なんじゃww
0159世界@名無史さん
垢版 |
2015/03/25(水) 06:32:36.760
インドの制度はカーストとあるように、分業である。これは英語のクラスでは「ない」。
彼らはいつからシュードラやバイシャを下賤だからと言う理由で殺し始めたんだろ?
0160世界@名無史さん
垢版 |
2015/05/03(日) 23:11:34.240
五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%96%97%E9%95%B7%E5%9E%A3%E5%86%85%E9%81%BA%E8%B7%A1

兵庫県淡路市黒谷にある弥生時代後期の国内最大規模の鉄器製造群落遺跡である。
本遺跡は2001年(平成13年)に発見され、2007年(平成19年)から発掘調査が実施された。

遺跡は淡路島の西側海岸線から三キロの丘陵地にあり、東西五百メートル、南北百メートル。
弥生時代後期・1世紀ごろのおよそ100年間にわたり存在したと考えられる。
遺跡には竪穴式住居や鍛冶工房などが復元されている。

弥生時代後期の鉄器製造施設跡が23棟から成っており、うち12棟から鉄を加工した炉跡の遺構が確認された。
遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、鏨(たがね)、切断された鉄細片など75点が出土した。
また石槌や鉄床石(かなとこいし)、砥石など、鉄を加工するための石製工具も数多く出土した。
1棟の中に10基の鍛冶炉がある建物も発見され、これまで発見された弥生時代の鉄器製造遺跡としては、最大規模であった。
住居は少なく、鉄器製作に特化した特異な遺跡である事が分かった。

淡路島のような人口の少ない小規模の島で、生活のためにこれほど大量の鉄器は必要ない。
魏志に記された倭国大乱邪馬台国の時期に重なり、大和王権成立にいたる戦乱期の中でこの施設が軍事利用されていた可能性もある。
古事記・日本書紀にも国生み神話は淡路島から始まっており、今上天皇にいたる大和王権成立との関係が窺える。
0161世界@名無史さん
垢版 |
2015/05/04(月) 14:35:10.160
>>121

紅山文化
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96

中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、
遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃[1])に存在した新石器時代の文化。

万里の長城より北方、燕山山脈の北から遼河支流の西遼河上流付近にかけて広がり、農業を主とした文化で、
竜などをかたどったヒスイなどの玉から、現在の中国につながる文化や宗教の存在の可能性が考えられている。

玉石と精神文化、牛河梁遺跡

ヒスイなどの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。
ブタ、トラ、鳥のほか、龍を刻んだものも見つかっている。
工芸の水準は高く、紅山文化の大きな特徴となっている。
「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」と呼ばれる紅山文化の玉龍(龍を彫った玉)の造形は単純であり
龍が円形になっているものが多いが、後期になると盤龍・紋龍などの区別がはっきりとしてくる。

遼河文明

2015年1月に合衆国科学アカデミー紀要に発表された中国科学院のXiaoping Yang、
合衆国ニューメキシコ大学のLouis A. Scuderiと彼らの共同研究者による
内モンゴル自治区東部の渾善達克砂丘地帯の堆積物の検討によれば、
従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は
12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、
約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した[10]。
このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、のちの中国文化へと発達した可能性が指摘されている[11]。

なお遼河文明時代の古人骨のY染色体ハプログループ分析によると、
ウラル系諸族やヤクート人に高頻度で観察されるハプログループNが約70%という結果が出ており[17]、
遼河文明の担い手がウラル系民族やヤクート族と関連する可能性も考えられる。
0162世界@名無史さん
垢版 |
2015/05/09(土) 21:25:52.180
さて、Y染色体ハプログループN
おいらはあんまり知らなかったせいもあるのか
かなりおもしろかった

ちなみにこの>>161の地域もけっこうホット

Structure of Y-haplogroup N
arXiv:1504.06463 [q-bio.PE]

http://dienekes.blogspot.jp/2015/05/structure-of-y-haplogroup-n.html


The dichotomy structure of Y chromosome Haplogroup N

Haplogroup N-M231 of human Y chromosome is a common clade from Eastern Asia to Northern Europe, being one of the most frequent haplogroups in Altaic and Uralic-speaking populations.
Using newly discovered bi-allelic markers from high-throughput DNA sequencing, we largely improved the phylogeny of Haplogroup N
, in which 16 subclades could be identified by 33 SNPs.

More than 400 males belonging to Haplogroup N in 34 populations in China were successfully genotyped,
and populations in Northern Asia and Eastern Europe were also compared together.

We found that all the N samples were typed as inside either clade
N1-F1206 (including former N1a-M128, N1b-P43 and N1c-M46 clades), most of which were found in Altaic, Uralic, Russian and Chinese-speaking populations,
or N2-F2930, common in Tibeto-Burman and Chinese-speaking populations.

Our detailed results suggest that Haplogroup N developed in the region of China since the final stage of late Paleolithic Era.
0164世界@名無史さん
垢版 |
2015/05/18(月) 23:06:01.860
これどうなんだろう

>>54

イスラエルにおけるソロモン王の鉱山の新発見
September 3, 2013.
http://jp.sciencenewsline.com/articles/2013090319450001.html

Tel Aviv UniversityのDr. Erez Ben-Yosefによってリードされた考古学発掘チームは、
紀元前13世紀の古代エジプト人によって作られたとされてきたイスラエルの銅鉱山の起源は、
実際にはそれよりも3世紀後のものでソロモン王の治世期のものである証拠を発見した。

この新しい事実は、イスラエルのAravah DesertのTimna Valleyにある
新しい発掘現場から採取された試料を放射性同位体分析で解析することにより判明したもので、
これまで数十年間に渡って信じられてきたこれまでの考古学的見解を覆すこととなる。

発掘現場から採取された試料の学術調査により、
この鉱山はエドム人(Edomites)によって運営されていた可能性が示唆された。
聖書の記述では、エドム人は、半遊牧民の部族連合体であり、イスラエルと交戦状態にあったとされている。

「この鉱山は疑いようもなくソロモン王の時代のものとなる」と Dr. Ben-Yosefは述べる。
「この鉱山の調査を通じて、私たちは、当時の地方社会について理解を深めることができるようになるでしょう。」

現在、Timna Valleyは国立公園に指定されているが、古代においてはここは、
鉱山や製錬所などが立ち並ぶ銅生産の拠点だった。
2013年2月にDr. Ben-Yosefを中心とする考古学発掘チームは、
この谷における「奴隷の丘(Slaves' Hill)」として知られてきた未発掘の場所の発掘に着手した。
この場所には、銅精錬の過程で生じた銅スラグや廃棄物などの他に、何百もの古代人の遺骨が散乱している場所だった。
0167世界@名無史さん
垢版 |
2015/05/29(金) 21:34:29.620
【考古学】スキタイの黄金の埋葬品を発掘、「世紀の大発見」 服の縫い目までわかる装飾に、麻薬の儀式の痕跡も。ロシア南部 [転載禁止](c)2ch.net
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1432768677/1


ハオマは大麻じゃない説があった気がするんだけど
これはアヘンと大麻だったそうだ
0168世界@名無史さん
垢版 |
2015/05/30(土) 08:30:44.930
>>167

ロシア南部のカフカス山脈にあるクルガン
「シンギリェフスコエ-2(Sengileevskoe-2)」と名付けられたクルガン
2400年前にこの墓に安置された黄金の宝物

バケツ型の黄金の器が2つ、逆さまに伏せられていた。
その中には、黄金の杯が3つ、ずしりと重たい指輪が1つ、首輪2つ、腕輪1つが入っていた。
保存状態の良い黄金の埋葬品の数々は、合わせて3.2キロもの重量があった。

黄金の器に残された黒い物質の分析、そこにはアヘンと大麻が含まれていることが判明

これは古代ギリシャの歴史学者ヘロドトスが記録に残した内容と一致する。
ヘロドトスは、スキタイ人が植物を燃やして発生させる煙が
「ギリシャの蒸し風呂とは比べ物にならないほど強烈なもので
……その煙で興奮した人々は、大きな叫び声を上げる」と書いている。
0169世界@名無史さん
垢版 |
2015/05/30(土) 12:44:16.920
>>159
アーリア人がカイバル峠超えた時から。つまり最初から。
征服したら子供以外の男は全員殺すのが基本。
0170世界@名無史さん
垢版 |
2015/05/31(日) 03:59:42.670
ギリシャ人ってお前らが考えるほどヨーロッパ的ではなく
むしろ昔からアジア的だよ
0171世界@名無史さん
垢版 |
2015/05/31(日) 22:15:35.580
>>170
エジプトやペルシアの影響は強く受けてるけど、
中身はコテコテのインド・ヨーロッパ語族。対立してたと言われるスキタイの方が西アジア系よりずっと近い。
0172世界@名無史さん
垢版 |
2015/06/01(月) 07:46:16.340
ペルシアもスキタイもインド・ヨーロッパ語族なんだが
それに西アジアも印欧語族の領域
0174世界@名無史さん
垢版 |
2015/10/28(水) 22:57:56.870
古代エチオピア人のゲノム解析
http://sicambre.at.webry.info/201510/article_11.html

この研究は、エチオピア高地のモタ(Mota)と呼ばれる洞窟で発見された4500年前頃の男性のゲノムの解析に成功しました。

 4500年前頃のモタ人のゲノムは、現代のアフリカ人とも比較されました。
その結果、じゅうらいより想定されていた、
3000年前頃のユーラシア西部からアフリカへの人間の移住(ユーラシアに進出したアフリカ起源の人間がアフリカに進出したということで、
「逆流」と呼ばれています)の規模が、じゅうらいの推定よりも大規模で広範なものだったのではないか、との見解が提示されています。

西ユーラシアからアフリカへと「逆流」した集団は、小麦や大麦のような西アジアの穀物がアフリカ東部にもたらされていることから、
新石器時代農耕民と密接に関連する集団だろう、と推測されています。

西ユーラシアからアフリカへの「逆流」は、「アフリカの角」と呼ばれるアフリカ東部から始まったと考えられています。
3000年前頃の「逆流」により、現代のアフリカ東部集団の遺伝子プールの25%ほどは西ユーラシア集団に由来するのではないか、と推測されました。
さらに、アフリカ東部だけではなく、アフリカ西部・中央部・南部の現代人集団にも、この「逆流」の遺伝的影響が及んでいることが明らかになりました。
比較的交雑が少なかったと以前には考えられていた、ヨルバ(Yoruba)やムブティ(Mbuti)のような集団も、
その遺伝子プールの6〜7%は「逆流」してきたユーラシア人に由来する、と推定されています。


参考文献:
Llorente MG. et al.(2015): Ancient Ethiopian genome reveals extensive Eurasian admixture throughout the African continent. Science.
http://dx.doi.org/10.1126/science.aad2879
0175世界@名無史さん
垢版 |
2015/12/13(日) 13:40:46.590
バイオ一口話:日本人がお酒に弱いわけ
http://www.life-bio.or.jp/school/oneshot_02.html

ALDH2の場合は、ヒトの第12染色体にその遺伝子があり、
この遺伝子に基づいて作られたALDH2酵素タンパク質は細胞中のミトコンドリアという場所に運ばれて働きます。

 遺伝子は両親から受け継ぎます。ですから、
日本人の中には両親から共に*1の遺伝子を貰った*1/*1の人と
両親から共に*2の遺伝子を貰った人(*2/*2)、
それからそれぞれ*1と*2の遺伝子を貰った人(*1/*2)がいるわけです。

 *2/*2の人はALDH2の活性が全くありません。
*1/*2の人は*1/*1の人の半分の活性を持つと思われるでしょうが、
ALDH2という酵素はこの遺伝子からできてくるものが4個集まって作られています。

この中に1つでも*2の遺伝子から作られるものが混じっていると活性がないため
両親から*1と*2をそれぞれ貰った*1/*2の人のALDH2の活性はALDH2*1の活性の1/16すなわち約6%になってしまいます。
0177世界@名無史さん
垢版 |
2016/01/25(月) 23:45:30.950
農耕の開始により変化した人間のゲノム

http://sicambre.at.webry.info/201512/article_27.html
続きはウェブで


集団遺伝学:230人の古代ユーラシア人に見られるゲノム規模の選択パターン

集団遺伝学:古代DNAから推定される選択圧

 約8500年前のヨーロッパにおける農耕文化の到来は人類進化の極めて重要な事象の1つである。
今回その経緯を探る手掛かりとして、古代DNAを用いた研究が行われた。
紀元前6500〜300年の西ユーラシア人230人からゲノム規模のスキャンデータが得られ、
その中に含まれる、新石器時代のアナトリアの新石器時代農耕民26人の標本は、
地中海東部地域の人々に由来するものとしては最初のゲノム規模の古代DNAである。

著者たちは、食餌、体色および免疫に関連する座位に選択がかかったことを示す証拠を見いだした。
最も強い選択シグナルは、乳糖分解酵素の活性持続(乳糖耐性)を担う対立遺伝子に存在し、
ヨーロッパで乳糖耐性の頻度が大幅に増えたのはわずか4000年前のことだとする見方が裏付けられた。


参考文献:
I. et al.(2015): Genome-wide patterns of selection in 230 ancient Eurasians. Nature, 528, 7583, 499?503.
http://dx.doi.org/10.1038/nature16152
0178世界@名無史さん
垢版 |
2016/01/25(月) 23:53:48.770
>>177
これちょっと前に見たときに気になってたんだけど
シンタシュタ/アンドロノブォ載ってるんだよね

http://www.nature.com/nature/journal/v528/n7583/images/nature16152-f1.jpg

a, Locations colour-coded by date, with a random jitter added for visibility (8 Afanasievo and Andronovo samples lie further east and are not shown).

b, Principal component analysis of 777 modern West Eurasian samples (grey),
with 221 ancient samples projected onto the first two principal component axes and labelled by culture.

E/M/LN, Early/Middle/Late Neolithic;
LBK, Linearbandkeramik;
E/WHG, Eastern/Western hunter-gatherer;
EBA, Early Bronze Age;
IA, Iron Age;
LNBA, Late Neolithic and Bronze Age.
0179世界@名無史さん
垢版 |
2016/04/18(月) 20:00:23.050
仏陀がヨガ修行者になる前の応じ時代にペルシャからバビロンまで拠点にしていたという
主張をする英語圏の学者がいる模様
0181世界@名無史さん
垢版 |
2016/08/20(土) 22:06:15.370
さて、久しぶりに確認してみようか
ブランクが長すぎていろいろと怪しいが
0182世界@名無史さん
垢版 |
2016/08/20(土) 22:27:53.040
前にちらっと見てたときにこれが気になっていたのだが、、、

December 29, 2015
Bronze Age people from Ireland had steppe ancestry and R1b
http://dienekes.blogspot.jp/2015/12/bronze-age-people-from-ireland-had.html
http://4.bp.blogspot.com/-JfgKsVo0O5M/VoG4-5v6wcI/AAAAAAAAKN8/rT-ik1ORFDA/s1600/cassidy.png


Neolithic and Bronze Age migration to Ireland and establishment of the insular Atlantic genome
http://www.pnas.org/content/113/2/368.abstract
http://www.pnas.org/content/113/2/368.full

Fig. 3.
http://www.pnas.org/content/113/2/368/F3.medium.gif

Comparison of Irish and Central European ancient genomes for haplotype-based affinity to modern populations.
Interpolated heatmaps comparing relative haplotype donations by two Irish (Ballynahatty, Rathlin1) and two Hungarian (NE1, BR2) ancient genomes.
0184世界@名無史さん
垢版 |
2016/08/20(土) 23:36:43.790
>>182

(1). The two most transformative are the arrival of agriculture (?3750 BC) followed by the onset of metallurgy (?2300 BC).
The Neolithic package characterized by animal husbandry, cereal crops, ceramics, and timber houses reached the shores of Ireland some 5,000 years after its beginnings in the Near East.
The second great wave of change starts with the appearance of copper mines, associated with Bell Beaker pottery,
which are quickly followed by Bronze tool-making, weaponry, and gold-working, with distinct Food Vessel pottery succeeding from the earlier beakers

(2). This period coincides with the end of the large passage graves of Neolithic Ireland in favor of single burials and smaller wedge tombs.

To address this controversy, we present here the first, to our knowledge, genome-wide data from four ancient Irish individuals,
a Neolithic woman (3343?3020 cal BC) from Ballynahatty, Co. Down, found in the context of an early megalithic passage-like grave,
and three Early Bronze Age men from a cist burial in Rathlin Island, Co. Antrim (2026?1534 cal BC) with associated Food Vessel pottery (16) (SI Appendix, Section S1).


ラスリン島
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2d/Wfm_rathlin.jpg/250px-Wfm_rathlin.jpg


中世の年代記アンナルズ・オブ・アルスター(en)によれば、ラスリン島はアイルランド島で初めてヴァイキングの略奪に遭った地である。
795年、ヴァイキングは島の教会を略奪し、建物に火を放ったという。

1575年、悪名高い虐殺事件が起きた。初代エセックス伯ウォルター・デヴルーはアイルランド攻略を命じ、
命を受けたフランシス・ドレークとジョン・ノリーズが島へ上陸した。
イングランド軍は、マクドナルド氏族が避難していた島を襲い、数百人の女性と子供を殺害した。

ラスリン島のアイルランド語方言は現在絶えてしまったが、かつては、アイルランドのどこよりもスコットランド・ゲール語に近いとされていた。
0185世界@名無史さん
垢版 |
2016/08/21(日) 00:29:47.160
R1b1a2a1a2c (R1b-L21)/M529ぽいのだが
イマイチ該当しているのか正確なところがわからない

>>182

Molecular sex determination agreed with archaeological results (SI Appendix, Section S7),
and whole mitochondrial chromosome haplogroups were assigned (Table 1 and SI Appendix, Section S7).

The Neolithic individual, Ballynahatty, belongs to HV0,
a clade with highest frequencies seen in Early and Middle Neolithic (MN) groups from Germany and France (9, 17, 18)
and which has not been identified in any Mesolithic Europeans.

The Bronze Age individuals belonged to the haplogroups U5 and J2b. Notably,
the three Bronze Age males each belong to the Y chromosome haplogroup R1b1a2a1a2c (SI Appendix, Section S8).
This lineage is characterized by a modern east?west frequency gradient in the British Isles, and is almost fixed (94%) in the West of Ireland (19, 20).

R1b haplotypes have been argued as first appearing with steppe incursion in the central European Bronze Age (9).
0186世界@名無史さん
垢版 |
2016/11/21(月) 19:50:19.690
私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組みの官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。

別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化して使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄へ落ちる、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。

それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全部自分の出来心から起きたことで、どこに訴えると言うわけにもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切って新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。
0187世界@名無史さん
垢版 |
2017/06/02(金) 08:41:01.020
ギリシャ文明はエジプト文明のパクリである
0188世界@名無史さん
垢版 |
2017/06/03(土) 13:15:25.160
【遺伝】古代エジプト人のミイラのゲノム解析ブックマーク
http://www.natureasia.com/ja-jp/ncomms/pr-highlights/11918


この論文の中で、Johannes Krauseたちの研究グループは、
エジプト中部のアブシール・エル・メレク遺跡から出土した3体のミイラ(それぞれプトレミー時代以前、プトレミー時代、ローマ時代のものとされる)に由来する
ゲノムワイドのデータセットだけでなく、ミトコンドリアゲノム(90件)を新たに調べた結果を示している。

そこで分かったのは、古代エジプト人と近東人(西アジアと中東に居住する人々)との遺伝的類似性が高いということで、
現代のエジプト人に見られるサハラ以南の人々の遺伝的要素は、最近加わったものであることも明らかになった。

ただし、この遺伝的データがエジプト中部の単一の遺跡から得られたものであり、
古代エジプト全体を代表していない可能性のあることをKrauseたちは指摘している。
0189世界@名無史さん
垢版 |
2017/06/03(土) 13:18:57.950
これは見れる
しっかりかかれてます

>>188

Figure 3: Analysis of 90 ancient Egyptian mitochondrial genomes.
https://www.nature.com/article-assets/npg/ncomms/2017/170530/ncomms15694/images/w926/ncomms15694-f3.jpg

(a) Mitochondrial DNA haplogroup frequencies of three ancient and two modern-day populations,

(b) Principal Component Analysis based on haplogroup frequencies:
(sub-Saharan Africa (green),
North Africa (light green),
Near East (orange), Europe (yellow),
ancient (blue),

(c) MDS of HVR-I sequence data: colour scheme as above; note that ancient groups were pooled,

(d) Skygrid plot depicting effective population size estimates over the last 5,000 years in Egypt.
Vertical bars indicate the ages of the analysed 90 mitochondrial genomes (three samples with genome-wide data highlighted in red).
Note that the values on y axis are given in female effective population size times generation time and were rescaled by 1:14.5 for the estimation of the studied population size
(assuming 29-year generation time and equal male and female effective population sizes) (images by Kerttu Majander).
0190世界@名無史さん
垢版 |
2017/06/03(土) 13:23:33.040
>>188

Figure 4: Principal component analysis and genetic clustering of genome-wide DNA from three ancient Egyptians.
https://www.nature.com/article-assets/npg/ncomms/2017/170530/ncomms15694/images/w926/ncomms15694-f4.jpg

(a) Principal Component Analysis-based genome-wide SNP data of three ancient Egyptians,
2,367 modern individuals and 294 previously published ancient genomes,

(b) subset of the full ADMIXTURE analysis (Supplementary Fig. 4).



Figure 5: Shared drift and mixture analysis of three ancient Egyptians with other modern and ancient populations.
https://www.nature.com/article-assets/npg/ncomms/2017/170530/ncomms15694/images/w926/ncomms15694-f5.jpg

(a) Outgroup f3-statistics measuring shared drift of the three ancient Egyptian samples and other modern and ancient populations,
(b) The data shown in a, compared with the same estimates for modern Egyptians, ordered by shared drift with modern Egyptians,
(c) Admixture f3-statistics, testing whether modern Egyptians are mixed from ancient Egyptians and some other source.
The most negative Z-scores indicate the most likely source populations.
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況