なぜ鎌倉時代の日本は世界最強国になれたのか?
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
モンゴル帝国に勝利するなど同時代に比類なき軍事力を誇った
鎌倉時代の日本。
広大なユーラシア大陸の諸民族が極東の島国に過ぎない日本に
軍事面の進歩で後れを取った理由は何か? 世界最強と言われた米帝に勝利するなど同時代に比類なき軍事力を誇ったベトナム。
軍事面の進歩で後れを取った理由は何か? 世界2強と言われたソ連に勝利するなど同時代に比類なき軍事力を誇ったアフガン。
軍事面の進歩で後れを取った理由は何か? >>5>>6
ベトナムもアフガンも自力で勝ってねーじゃん。
しかも国土を蹂躙されまくり。
日本はモンゴル軍を正面からワンサイドゲームで粉砕していて数段高い
レベルの軍だったことは明白なのね。 >>9
マムルークが戦ったモンゴル軍なんて雑魚だからね
モンケ崩御で主力が東へ帰還した後の残りカス
兵力も弘安の役の10分の1以下で元寇とは比較にならないローカルな戦いだよ 指揮官が中国人で兵士が朝鮮人の元寇なぞ撃退できて当然じゃね
あれが指揮官がチンギス一族の誰かで兵士が蒙古・西域人だったら
正真正銘の本土決戦だったろ >>11
元寇は指揮官がモンゴル人で兵士がクビライの親衛隊という超精鋭だよ。
クビライもわざわざ自分の娘を元寇に合わせて高麗王に嫁入りさせてるわけで
帝国の威信をかけた戦いだって示してる。
つまり元寇は正真正銘の覇権国決定戦。 世界最強とは思わんけど武士のモチベーションの高さは良く分からないかなあ 南宋のから情報は何年も前から来てるので
モンゴルに対する危機感は凄かったらしいね またーサムライ厨の妄想が始まったよ(笑)
東シナ海や日本海の荒海を渡ってきた元軍を沿岸で迎え撃って
どうにか撃退しただけなのに(笑)
サムライが強かったら、文永の役直後に高麗くらい征服できてるだろ。
それが高麗遠征を中止して代わりに元軍の再来を迎え撃つために、高麗
遠征に負けない労力と富をかけて元寇防塁を作るくらいだから、日本海を
渡っての高麗遠征に勝算がなかったんだろう。 >>15
高麗みたいな貧しい国を征服しても意味ないじゃん。
日本が高麗遠征中止したのは、南宋滅亡が決定的となったため
高麗に出兵しても江南方面からの侵攻を阻止できないからだよ。
つまり遠征に戦略的価値が無くなったから。
高麗自体は倭寇のせいで衰亡しちゃう程度の雑魚ね。 元寇でのモンゴル兵の大半はモンゴル人でなく朝鮮人なんだが。
朝鮮人に勝って世界一ということはなかろう。 >>17
それ嘘ね。
例えば文永の役の兵員構成は蒙漢軍2万5000と高麗軍8000。
元寇でのモンゴル兵の大半はモンゴル本国から派遣された精鋭だよ。 >>15
仮に中世の侍とその軍が強かったとしても、外洋船の技術がお粗末で
大軍をロスなく送り込めない 日露戦争に勝利した、よってロシアより日本は強い。
間違いない。さすが、偉大な大日本帝国。 >>21
元史·卷一百三十二
「十六年,日本商船四艘,篙師二千餘人至慶元港口」
日本は1279年に4艘の商船で2000人も慶元に送り込んでる。
1艘約500人。
日本の当時の外洋船の技術なら大軍の輸送なんて余裕なんだが。 >>16
当時、安芸国の守護である武田信時充てに北条時宗が出した異国征伐に
関する関東御教書にも本来なら記載しているはずの南宋との連携について
記載してはいない。
それに弘安の役直後の1281年8月にも高麗征伐が企だてられたがこれなんか
南宋は全く関係ないんだが(笑) 武田信時充てに北条時宗が出した異国征伐は単なる動員令だろ。
もともと何の目的で高麗遠征を行うのかは書かれてないわけで、
南宋情勢との関連が書かれてないのも当然じゃん。
当時の状況考えたら南宋滅亡以外に理由は考えられないよ。 高麗征伐が三月に計画されてたから、一月に南宋が
滅亡したゃったんで止めたんだろうな。
25のいう通り、高麗征伐を実行しても江南方面からの
モンゴル軍の侵入は南宋滅亡で防げなくなって、高麗征伐
自体価値が無くなってるし。 秀吉のように大陸深部まで進攻する計画ならともかく
ただ高麗を潰すだけでは幕府にとってメリットは少ないな >>28
当然中国、日本それぞれにおいて日宋同盟による
作戦計画についてのソースはあるんだろうな。 >>30
呑み込みが悪いね。
日本の対モンゴル戦略もモンゴルの対日戦略も同時に進行してる対南宋戦の
状況によって影響されるって当たり前のこと言ってるだけ。
モンゴル側だって文永の役の後で一旦日本遠征を延期して、先に対南宋戦を
終わらせるって選択してる。
そうすれば、朝鮮半島と江南地方の2方向から日本に侵攻できるからね。
当然日本側もそれに備える必要がある。
つまり日本が高麗遠征を中止したのも、モンゴルが日本遠征を延期したのも
同じ理由ってこと。 日本に攻め込む選択肢を増やすために南宋を滅ぼすとか
蒙古帝国の世界戦略はスケールでか過ぎだろw >>15
>東シナ海や日本海の荒海を渡ってきた元軍を沿岸で迎え撃って
どうにか撃退しただけなのに(笑)
その日本海の荒波を超えて、元寇から1000年も前に極東の超弱小勢力の半島から日本へ侵略し半島人が大和朝廷を興したとかいつもは言ってるくせに。
人類史上最強の世界帝国ですらヘロヘロになったものをどうやってマヌケな朝鮮人が倭を征服するんだよ 崖山の戦いで南宋の大艦隊叩き潰したモンゴル人が海戦に弱いとか無いわ 弘安の役は南宋を破ったとゆうか南宋を裏切った蒲寿庚の仕込みだし
本気だよね 南宋滅ぼされたのに高麗に出兵なんてしたら
九州がガラ空きになるわな。
高麗駐屯のモンゴル軍を壊滅させても、それじゃあ
日本遠征の予防にはならんわ。 >>33
「其国主疑奉表講和。会々宋人使僧曰瓊林者、来渝平。以故和事不成。」
『元朝名臣事略』
もともと日本とモンゴルの外交も南宋戦の進行状況を睨みながら行われていた。
鎌倉幕府が最終的に返書拒否したのも南宋との関係があったから。
だから、高麗遠征が中止になったのも南宋情勢の激変が原因としか考えられない。 >>32
でも、それがモンゴル帝国のもともとの対日戦略なんだよ。
1269年11月に枢密院で行われた議論
「馬亨はまた述べた『(前略)日本に遣使して親仁善隣の道を説くのも、
また同じ意味だ。
南宋を平定してから、彼らに他心が無いか明らかにし、兵を送って
平定するというのも、決して遅くはない。むしろ一挙にして両得である。
全勝の策である。
今すぐに兵を発したりしたら、敵を作るだけのことだ。』
他に賛同する者もおり、枢密院は、馬亨の意見を詳しく聞いた。」 >>39
弘安の役直後の1281年8月にも高麗征伐が企だてられたがこれなんか
南宋は全く関係ないんだが(笑) >>41
つまり文永の役の後で高麗遠征が中止になったのは外洋遠征能力の問題じゃないっことだな。
外洋遠征能力の問題なら弘安の役の後でまた高麗遠征の話が出るわけないからな。 >>41
一概に関係ないとは言えないよ
幕府は引き続き間諜を出してる
弘安の役では南宋の艦隊は壊滅したけど高麗艦隊は7割くらい生還してる
つまり3次侵攻があるとしれば次ぎの拠点は
高麗からだと判断したんじゃない?
だとすると高麗の艦隊を先手を打って攻略するのは戦略として常道じゃん >>43
馬鹿の相手をするのは疲れるよ【笑】
じゃあ、なんで中止になったんだよ。 いや、二回目の高麗征伐はただの追撃戦でしょ。
半島まで追撃するか、しないかの話でしょ。 鎌倉幕府による高麗征伐は1276年、1281年、1291年と三度も
企てられながら結局一度も実施していない。
文永の役、弘安の役とも幕府側はほとんど得ていない状況で
御家人の元軍を撃退した働き(奉公)に対して、恩賞(ご恩)に不足していた
幕府としては、高麗から土地と人を手に入れることを強く希望していたに違いない。
それでも実行に移さなかったのは、対馬海峡を当たって敵地に攻め込むことのリスク
に及び腰にあったからだろう。 >>47
>御家人の元軍を撃退した働き(奉公)に対して、恩賞(ご恩)に不足していた
>幕府としては、高麗から土地と人を手に入れることを強く希望していたに違いない。
これ、単なる妄想じゃん。
幕府からの恩賞は不足していない。
それに高麗の土地は貧し過ぎて恩賞としての価値が無い。 そりゃあ、大陸に攻め入って半島のモンゴル軍を
撃滅しても
言葉も通じない民族を統治する労力と
モンゴル軍といつ終わるともしれない
戦争に突入するリスクは考慮されている
でしょう。
ただ、一番鎌倉幕府が本腰を入れていた
一度目は明らかに南宋の滅亡が中止理由だ
とする説が説得力あるね。
高麗に出兵しても、南宋滅亡により江南ルートから
からの侵攻ルートが開かれている。
ここで出兵する戦略的価値は皆無。
二回目は弘安の役の延長。
大陸に逃げ帰ったモンゴル軍の撃滅が
目的だろう。
ただ、逃げ帰ったモンゴル軍を壊滅させても
それはいつまで続くかわからない戦争に突入に
することを意味する。鎌倉幕府の判断は正しかった
と思うよ。
目先の戦果より、長期的な戦略で中止した。 高麗征伐は土地を得るのが目的じゃなくて
半島のモンゴル軍を撃滅して日本遠征の予防を
することにあるよね。 不満を持った九州の豪族達が
だったら艦隊なんてつくらせねーよ!
って倭寇が沿岸荒し回るようになったじゃない? 恣意的な解釈に基づいて論説する前に
解釈を論証してくれ 倭寇は他に選択肢が無かった。
九州で劣勢になった南朝勢は対馬とかに追い詰められたんだけど人口過多で
食糧不足が深刻化。
九州で調達できないから高麗を襲撃して調達するしかない。 馬鹿を相手にするのも疲れるなー(笑)
伊勢平氏を相手に戦った源平合戦では平氏の領地を
奥州藤原氏を相手にした奥州征伐では藤原氏の領地を
京都の朝廷を相手にした承久の乱では朝廷の領地を
それぞれ手に入れたので御家人に恩賞を配れたけど
文永・弘安の役では大元国の領地を寸土も手に入れら
れないのに恩賞はどうするんだ。 >>49
>ただ、逃げ帰ったモンゴル軍を壊滅させても
それはいつまで続くかわからない戦争に突入に
することを意味する。鎌倉幕府の判断は正しかった
現日本政府や戦前のバカ政府と比べ物にならんほどお利口だったんだね昔の日本人は >>54
岩門合戦で手に入れた領地を分配したんだよ アメリカでさえ尻込みした日本列島征服を
モンゴロイドごときが出来るわけがない >>4
馬鹿ネトウヨがまたオナニーしとる wwwwww
首都圏が放射能危険地帯になってる
バカ国家が何をいっても、滑稽なだけ wwwww 維新(笑)が、植民地化だったという証拠あがる w
論文「長州出兵下における長州藩とイギリスの関係 ―イギリス側の視点を中心として― 」より
http://www.oshima-k.ac.jp/kakari/tosho/kiyou/kiyou44/contents/10.pdf
>このようなクラレンドン卿からの情報をパークスに知らせたハモンド自身は、日本の体制変革について、
>次のような意見を述べている。
>The change of system, if change can be brought about, must appear to originate with the Japanese alone:
>it may indeed be brought about in a way different from our wishes, but to be really permanent and beneficial,
>it must bear throughout the imprints of the Japanese character.
試訳
「(日本の)体制の変革は、変革が可能であるならば、 日本人だけによってもたらされた、と見えなければならない。
その変革は、我々の希望とは異なった方法で、もたらされるかもしれない。
しかし、その変革が永続的で有益であるために、
その変革は、日本人的な性格をもったものという印象を完全にそなえてなければならない。」
------------
さあジャップの猿ども、がんばって、
無様なオナニーをこれからも披露してくれ wwww
「世界のニッポン!」wwwwwwwwww2 全く関係ないことを書き出したということは論破されたってことだな >>56
>岩門合戦で手に入れた領地を分配したんだよ
弘安の役から3年後である1285年11月の
内乱で手に入れた領地を分配に充てたってことは、
やっぱり恩賞が足りてなかったてお前も認めるんだな(笑) >>61
1281年の高麗遠征の史料は、大和・山城の悪徒や寺僧を動員しようとした
記録だけじゃん。
御家人でもなく弘安の役と直接関係があったわけでもない地域で動員って
恩賞問題とは全く無関係としか考えられない。 >>61
>1281年の高麗遠征の史料は、大和・山城の悪徒や寺僧を動員しようとした
>記録だけじゃん。
>御家人でもなく弘安の役と直接関係があったわけでもない地域で動員って
>恩賞問題とは全く無関係としか考えられない。
その後、弘安の役が発生し、1281年(弘安4年)8月には再度高麗遠征論が
唱えられ、九州の有力武士であった少弐経資と大友頼泰を大将とし、彼らが
支配する九州北部の御家人たちを動員し、更に山城国や大和国の悪徒(僧兵)
にも協力を要請するもであった。 >>63
ところが九州の御家人に動員をかけられた史料は一切存在しない。
あるのは公家とか僧が残した間接的な記録だけ。
つまり御家人も恩賞も無関係。 恩賞のためなら、弘安の役で全く戦っていない山城と大和国の悪徒に
動員をかける説明が全くつかないな。
二回目はそもそも御家人に動員をかける前の計画段階で中止された
のだろう。 そもそも元寇なんてもともとの作戦自体が無謀だったんじゃないの?
日本が震え上がって自分から降伏しない限り、鎌倉武士団がもう少しだらしなければ元軍がもう少し九州の奥深くまで一時的に進軍できるかどうかってだけで、どの道最後はああいうことになるのはやる前から決まっていたも同然な気がする。
20世紀に入って、当時世界最強の海洋帝国のはずのイギリスもガリポリで格下のトルコ相手にボロ負けしてるし、敵前上陸作戦なんて余程の圧倒的な海上輸送能力や航空支援がない限りめったに成功するものじゃないってことでは? 敵前上陸なんてしてないよ。
元寇は文永の役にしろ弘安の役にしろ
上陸してから戦闘が始まっている。
例えば、秀吉の朝鮮出兵なんて文永の役より
兵力の少ない小西隊1万8700がたった20日で朝鮮の首都
漢城まで進撃している。
元寇はただ単に元軍が日本軍に比べて戦力で劣っていた
ってだけの話なんだよ。 >>64
二回とも同じところに上陸していないよ。
一回目は博多の西方の百道原から上陸し
二回目は防塁の無い陸繋島であり、博多の
北方にある志賀島から上陸している。
いづれも日本軍の妨害を受けること無く
難なく上陸している。
で、上陸してからの戦闘で海に叩き出された
のが元軍。 >>69
上陸に成功したのに撃退される方がよほど問題だろ
蒙古軍もこの頃には完全に並みの軍隊に逆戻りだな 並の軍隊では無く、間違いなく元軍は
強かったよ。
同じ渡海侵攻でも、三別抄の珍島、済州島を
落としているし、樺太の渡海侵攻でもアイヌを樺太から
駆逐し、ジャワ島のクディリ王国を渡海侵攻で滅ぼしてる。
渡海作戦でも元軍は強かった。 野戦砲も固定砲台もない時代なんだから、上陸自体は簡単だろ 博多と下関に同時上陸し六波羅からの増援を阻止しつつ
その間に九州諸侯軍を各個撃破すればよかった
全盛期のモンゴル軍ならこの程度の戦略は朝飯前だったろ 文永の役って後詰めはともかく戦場ではモンゴル側の数的優勢だよな >>74
モンゴル軍の全盛期は弘安の役だよ。
チンギス汗死亡時には総兵力12万9000騎でしかなかったんだから。
博多と下関に兵力二分したらモンゴル軍の方が六波羅軍と九州諸侯軍に
各個撃破されちゃうな。 鍛冶屋の生産能力の差だろう、モンゴリアンに勝ったのも露西亜に勝ったのも 飛鳥奈良時代に一応まともな軍隊があっただけで
平安時代に元寇があったら死んでただろう >>1
明に完全にボコボコにされて無様に撤退した戦国時代よりはマシだな
モンゴルを退けたタイレベルの軍事力はあったわけだし >>82
唐入りはむしろ日本が明と朝鮮をボコボコにしてた訳だが
あの戦役の問題は戦術的勝利を戦略的進捗に結びつける事ができず、秀吉の死でタイムアップになった事
当の明史に「秀吉が死ななきゃ俺等負けてた(意訳)」って明記されてる訳で >>84
戦略目標達成できなきゃ負け
まさか損害大きいから独ソ戦はソ連の負けとか言い出さないだろうな ドイツはソ連に占領され、女は全員強姦されたけど日本は明に占領もされてなければ賠償金も払ってないよね >>86
じゃあベトナム戦争はアメリカが勝ったんだな
お前の理屈だとそうなる 同規模の軍を動員し、同じ対馬海峡越えの作戦なのに秀吉軍は短期間で漢城平壌を占領し、
7年間も朝鮮半島に居座って、一方のモンゴル軍は大宰府にも到達できずにフルボッコ。
何でこんなに差があるのかね。 ベトナムは負けなかったって感じじゃん?
ベトナムっていっつもああゆう勝ち方だよね 申し訳ないが唐入りと称しておきながら明の直轄地にすら侵入出来なかった秀吉をディスるのはNG 温暖地域の軍隊が乾燥した寒帯地域に深入りするのは自滅行為だって
ばっちゃんが言ってた >>85
秀吉という再興権力者が死んだ時点で戦略目標がリセットされてるんで負け認定は詭弁。
これで日本側を負け呼ばわりするんなら、
ワールシュタットの戦いのモンゴル軍や七年戦争のロシア軍は負けという事になるが、
これらのモンゴルやロシアを負け認定してる史家は寡聞にして聞かん。 >>87
勝ってもないけど敗けてもない。引き分けってとこ >>92
七年戦争のロシアは戦略的大敗北って評価は割とされてる
外交的成果については評価分かれるけど >>93
……えーと、多分永久にお前とは話が合わないから、もういいや
多分お前に同調するやつは、いたとしてもごく少数だ >>92
もしその最高権力者が戦場で戦死なり陣没したってんなら負けかも知れんが、
秀吉もオゴタイもエカチェリーナもずっと本国にいて、最期は戦争と無縁の病没だったから負けじゃないな >>96
別に最高権力者が陣没しようが、三十年戦争のスウェーデン戦争のスウェーデンは勝者
逆に、天命は全うしたけど、ハプスブルクのフェルディナント親子は敗者だな 両者ガッツポーズで勝利をアピールしています!
原田さんの判定はどうですか?
私は118対115でチャンピオンの防衛ですね
では小泉さんはどうでしょう?
僕は116対117でチャレンジャーの勝利です
両者割れましたね
さて集計がそろそろ終わりますね
116:116ドローですか?チャンピオン防衛です 日本を完全に屈服させたのは唯一西洋のスーパーパワーアメリカだけ。モンゴルでも明でもあの大英帝国すら日本に勝てなかった
日本は本当に凄い国だった。イギリスみたいに日本人がオーストラリアでもいいから新大陸へ大量移住してれば超大国になれた。 日本軍にことごとく破れてた明が勝利なわけないだろ笑
秀吉の死という偶発的な出来事で中止になっただけ。
これで秀吉が敗北なら、クリルタイのたびに戦闘を中止して
本国に引き上げてたモンゴル軍は、連戦連敗の軍ってことに
なるわw 中国王朝=強い、というイメージは
日本の歴史作家やゲーム会社の影響 明軍に連戦連勝しているはずの日本軍は何故、当初の目的である明の征服はおろか、明の領土にすら侵入出来なかったのか・・・
これはミステリーですね 一つは第一回の戦役は朝鮮半島内の戦いに留まるうちに講和へと向かったから
一つは第二回の戦役において朝鮮半島内の戦いに留まるうちに秀吉が死んだから このスレって
「なぜ鎌倉時代の日本は世界最強国になれたのか?」
じゃあなかったのか(笑)
文禄・慶長の役についてならそっちのスレでやれ!! 公卿に寄生しながら国司の美味い汁を吸ってた屑みたいな平安時代の武士共と
鎌倉時代の武士が上手く結びつかない 世界最大の地上軍を擁する国・モンゴル帝国
世界最強の地上軍を擁する国・鎌倉幕府 >>108
ところがモンゴル帝国の明州城は1309年に日本からの襲撃で焼け落ちてるんだな >107
>世界最強の地上軍を擁する国・鎌倉幕府
東シナ海や対馬海峡(日本海)の荒海を渡ってきて本調子じゃない
元軍や高麗軍相手に防衛戦争に勝っただけで世界最強とか(笑) 日本が最強?かっこいい?世界中でもてはやされて大人気?
そんなの認めねえし許せねえ
by オレにも文化クレクレ名誉クレクレ乞食民族 >>110
元軍も高麗軍も東シナ海や対馬海峡(日本海)の荒海を渡ってきて本調子じゃない
日本からの襲撃に全く歯が立たなかったんだけど・・・
『いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。
さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。
(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、
城郭を燔ゼツして居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。』
(論倭)
『結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の財宝を奪い取り、
官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく
荒れにけり。』(太平記) >>112
そりゃ、倭寇による襲撃は、
いつ、どこからくるかわからないから
対策の取りようがないしな。
元寇のように敵の待ち構えているところに
襲撃してくるのとは違うだろ。 >>113
いつ、どこからくるかわからなくないよ。
日本と元との交易は基本慶元府でしか行われてなかったから、
元側も軍を置いて備えていた。
倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落としたんだよ。 >>114
へー、そりゃ初耳だな(笑)
でそのソースは(笑) モンゴルも日本もほとんど弓騎兵オンリーの兵制だったから、軽装にしてもたいして機動力を稼げない日本の地形ではより重装の鎌倉武士のほうが有利だっただろう。
同じく地形の問題で飛距離が長い複合弓の効果は限定的で、矢が重く殺生力の高い和弓のほうが有利。
さらに攻撃三倍の法則を考慮すると、兵の補充もきかない元軍にはどのみち全く勝ち目のない勝負だったと思われ。 モンゴルの馬は扱いやすくするために去勢されていたのに対して、日本には馬を去勢する習慣はなかった(そもそも武士は気性が荒々しい暴れ馬ほど名馬として好んだらしい)
そういうの乗り回していた割に落馬事故死の話をあまり聞かないってことは、実は鎌倉武士の乗馬技術は本家騎馬民族以上だったのかも。 そりゃあ、小さい時から日々流鏑馬と犬追物漬けの
毎日を送っていたから、鎌倉武士の馬術は相当なもん
だったでしょう。
鎌倉武士並に個々の戦闘レベルが高く武具も独自に発達
した民族は世界広しといえども、少数だろうし
モンゴル軍が敗北するのも不自然でもない。 >>115
元史 巻020 成宗三 大徳六年
「冬十月甲子,改浙東宣慰司為宣慰司都元帥府,徙治慶元,鎮遏海道。」
元史 巻021 成宗四 大徳八年
「夏四月丙戌,置千戶所,戍定海,以防歲至倭船。」
元史 巻021 成宗四 大徳十年
「夏四月甲子,倭商有慶等抵慶元貿易,以金鎧甲為獻,命江浙行省平章阿老瓦丁等備之。」 >>117
和式馬具の鐙はユーラシア大陸で使用されてる鐙より大幅に進歩してるからね サムライは異常な攻撃力と防御力を持つ中世のガルキマセラ
皮の鎧を纏っただけの兵士では一撃でゲームオーバー >>121
お前がソースとして提示した文章のどこに
>倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落としたんだよ。
って書かれてるんだ? >>124
>>121は元側が日本からの襲撃に備えて慶元府に軍を置いていたソース。
その慶元府が日本からの襲撃で焼き落とされた記事は↓
『島夷歳以土物互市。郡境吏卒侵漁之、不堪以忿、持所賚流黄等薬火城中。官府・故家・民居幾尽、
観亦与。至大二年也。』(慶元府玄妙観碑銘)
『倭人入市慶元、有司不能用公前後持之道、而利其貨宝刧之以兵、反被殺略焼焚之禍』(程雪楼文集)
程雪楼文集には「兵をもちいたら反って殺略焼焚の禍にあった」と書いてあるわけで
もろに「倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落とした」だろ。 >>125
それってことだろ
>大徳11年(1307)、実際には至大2年(1309)のことであるが、寧波にて日本
>の商人が暴動を起して放火し、寧波の城中がすべて焼失する事件が起こって
>おり、これにより日本僧の摘発が天童寺にも及び、龍山徳見(1284〜1357)
>を含めた十数人が逮捕されて大都に送られている(『東海一オウ集』巻5、真源大照禅師行状)。
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page003f.html
交易に来た日本の武装商人(倭寇)が商いに不満をもって慶元府内で暴れまわったってことだろ。
俺が聞いてるのは、
>倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落としたんだよ。
ていうお前の主張の裏付けとなるソースなんだけど!?
だいたいお前が出してきた「程雪楼文集」でも倭人入市慶元って日本人が慶元府内に入ったて
記されてるじゃん(笑) >>126
日本の武装商人(倭寇)が商いに不満をもって慶元府内で暴れまわった
どころじゃないだろ。
元が軍を駐屯させていた慶元が全焼した上、住民が虐殺されてるんだから。
思いっきり焼き落とされてるじゃん >>127
>元が軍を駐屯させていた慶元が全焼した上、住民が虐殺されてるんだから。
>思いっきり焼き落とされてるじゃん
だから軍が駐留しているところに、商取引装った海賊が入り込んで、だまし討
ちをしたんだろ。
その結果、慶元府が全焼した上、住民が虐殺されたんだろ。 ちなみに慶元府ってのは南宋時代の呼び名で元代だと慶元路だからな >>126
あと、補足すると当時の慶元は日本人入城禁止だから単なる暴動じゃなく
外部から攻め落とした以外の可能性はないよ。 >>130
>あと、補足すると当時の慶元は日本人入城禁止だから単なる暴動じゃなく
>外部から攻め落とした以外の可能性はないよ。
AD1306 日本商船、元の慶元(寧波)に到り貿易
AD1309 日本商船、異賊蜂起する
日本の交易・文化史_2
http://www.geocities.jp/yasunobuogawa/rekisi_3.htm >>131
日本人入城禁止と貿易はずっと並行して行われてたんだよ
つまり日本人は慶元の城の外で貿易させられてたってことね 慶元で日本人入城禁止と貿易が並行して行われていたソース
「郡城に入れるなかれ、貿易を止めるなかれ」だからね
「舶有定制。輸其物以上干官、勿入郡城、勿止貿易、則得以永遠。」(馬元帥防倭記) スカイリムでカジートが城壁内に入れてもらえないようなもんか・・ 商人でさえちょっとカッとしたら荒ぶって街一つ壊滅させてしまう人間凶器揃いの日本人w 維新(笑)が、植民地化だったという証拠あがる w
論文「長州出兵下における長州藩とイギリスの関係 ―イギリス側の視点を中心として― 」より
http://www.oshima-k.ac.jp/kakari/tosho/kiyou/kiyou44/contents/10.pdf
>このようなクラレンドン卿からの情報をパークスに知らせたハモンド自身は、日本の体制変革について、
>次のような意見を述べている。
>The change of system, if change can be brought about, must appear to originate with the Japanese alone:
>it may indeed be brought about in a way different from our wishes, but to be really permanent and beneficial,
>it must bear throughout the imprints of the Japanese character.
試訳
「(日本の)体制の変革は、変革が可能であるならば、 日本人だけによってもたらされた、と見えなければならない。
その変革は、我々の希望とは異なった方法で、もたらされるかもしれない。
しかし、その変革が永続的で有益であるために、
その変革は、日本人的な性格をもったものという印象を完全にそなえてなければならない。」
------------------
・天皇親政の統一政権を日本人が日本人の手によって打ち立てた明治維新、というのは、
フィクションだ、ということ wwwwww
・独立を保った!とかも大嘘だったwwwwwww >>133
>慶元で日本人入城禁止と貿易が並行して行われていたソース
>「郡城に入れるなかれ、貿易を止めるなかれ」だからね
ふーん、じゃあ日本人が交易の為に慶元府に訪れていたことを
認めるんだな。
じゃあ俺が主張している
>軍が駐留しているところに、商取引装った海賊が入り込んで、だまし討
>ちをしたんだろ。
>その結果、慶元府が全焼した上、住民が虐殺されたんだろ。
でことでいいな(笑) >>139
だから日本人の商人は慶元の城の中には入れてもらえないんだよ。
城の外で貿易するしかないの。
商取引を装ってもだまし討ちとかできないわけ。
つまり慶元は外から攻め落とされたってこと。 139の頭の悪さに絶句。
まぁ、笑なんて付ける奴にロクなのはいないけど。 >>140
>だから日本人の商人は慶元の城の中には入れてもらえないんだよ。
門番に金でも渡して城内に侵入したんじゃね!
あるいはそのまま切り込みをかけて城内に押し入ったかじゃね。
>AD1309 日本商船、異賊蜂起する
>日本の交易・文化史_2
>http://www.geocities.jp/yasunobuogawa/rekisi_3.htm
てことだから、すくなくてもお前が言
>倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落としたんだよ。
てことはないだろうな(笑) 古都橿原の伝統階級 地主(本人) 億万長者(個人)
だけど何か質問ある? 30歳 不労所得400万円 独身
同じレベルの資産家の主、お嬢様キボンヌ 朝鮮製船(高麗)は頑丈で帰還できた船もあったことを後で知る無知な俺 まあ朝鮮の船は度々日本に海賊に来て実戦に裏付けられてるもんな 台風がなくても日本征服は無理だったよ、それだけ日本の武士の能力は秀でていた
てか日本人は手先が器用で武器等の技術力にも秀でていた
今に至って世界に冠たる誇れるのが刀工だ。鎌倉時代の刀は美術品価値は最高ランクだ
これを忘れてもらっては困るな まあ世界最強のモンゴル軍に勝ったのはすごいが、向こうは足手まといの高麗兵が相当数くっついてた分かなりのハンデはもらってるなw それを朝鮮人のおまえが言うのか。日本人を認めたくないが余り 確かに日本は勝ったがモンゴルみたいに征服活動できたのかっていうと 高麗兵自体は平均的な大陸の兵士に劣るもんじゃないと思うけどね 戦国時代の戦乱を生き残った安土桃山期の武士って
千年におよぶサムライの歴史上「最強の世代」て言ってもいいだろう。
その「最強の世代」のサムライでさえ朝鮮半島すら征服できなかったのに
鎌倉時代の武士ごとき実戦経験豊富な高麗軍相手に対馬海峡の荒波を超えて
征服できるはずないよな(爆笑) 対馬に拠点をつくってじっくり攻められれば無理だった 蒙古は例え緒戦に勝てたとしても武器食料の補給が心配
包囲されて全滅、兵糧攻めで全滅、逆上陸されて結局全滅では? >>153
あの時代に長期的な兵站を組織的に行うとか無理だし、対馬には大軍を養う生産力も無いから無理
そもそもモンゴルに限らず、大規模な渡海作戦で、対岸に支援してくれる勢力が無い状況で勝利するとか無理 >>155
浅学ですまんスレチだけど豊臣秀吉は支援がないのになんで朝鮮に上陸できたの? >>157
あの時代としてはかなり大規模かつ計画的な兵站の存在、李朝自体の内部空洞化
もちろん、補給あったにせよ、基本は現地調達なんで、明軍の焦土作戦は効果的だった模様 実際半島が焦土になったのって焦土作戦が原因だもんね・・ >>159
ロシアは外敵の侵略に対して戦略的に焦土作戦を行なったが
朝鮮のは泡吹いて逃げ出す王族軍民の逃避行が後生から見て焦土作戦のように見えただけだろw >>157
あの時代っていっても元寇から300年以上たって大航海時代の西洋船とも接触した後だからな。
船の速度・安全性・輸送能力も大分違ったんでは? 逆に、鎌倉幕府が蒙古に攻撃していたら、蒙古は滅んでいた。
つまり、日本が世界最強。 >>158
>>161
ありがとうございます勉強になりました 当時の鎌倉幕府に
超巨大軍事国家との戦いという自覚はあったのかな でもモンゴル本体はそんな数多くないしなぁ・・
勢いは勿論あるけど海を越えるのはやっぱり難しいよね 蒙古帝国を完全に滅ぼすには完全武装の侍が最低でも50万は必要じゃね
東蒙古帝国を倒すのに15万
蒙古帝国中枢部を倒すのに25万
西蒙古帝国を倒すのに10万 >>165
当時の日本はモンゴル帝国について正確に認識してたよ。
だから牒状が届いた段階で重大な国家的危機として大問題になった。
「麗しき御賀の儀、いかばかりの事にてか有んずらんと覚えしに、蒙古国とかやより牒状を奉る。
高麗の牒を相副たり。宰府よりまづ関東へつげて、関東より二月六日牒状をまゐらせたり。
これに依て御賀止めらる。
公私本意なき御事也。蒙古国もとは契丹の所属、韃靼国也。年比契丹国已下の近辺の諸国打とる。
大宋国も、三百余州のうち大略皆討とられて、僅に六十余州残れり。高麗も同せめおとされて、
臣として蒙古の朝につかふる由、牒状にも載たり。牒使には趙良弼と云ものわたれり。
高麗の使を副たり。牒状二通あり。一通は高麗の牒也。蒙古状は文永三年丙寅九月の状也。
至元三年と載たり。高麗国、同彼年号をうけて至元となせり。去年八月の状也。
数多の方物を相副て、正月一日大宰府に着たり。 」
【五代帝王物語】 モンゴル帝国軍の戦略も戦術も当時としては妥当なものだったが
幕府軍は文字通り個の力で元寇に打ち勝ったんだな >>162
むりむり(笑)
鎌倉武士を過大評価しすぎ。
だいたい高麗への遠征さえ1276年、1281年、1291年と三度も
企てられながら結局一度も実施できなかった鎌倉幕府が大元国を
征服するなど夢のまた夢だな(笑) 元軍は歩兵が多かったようだから、ユーラシア各地での「モンゴル騎馬弓兵に翻弄される歩兵主体の各国の軍隊」という構図が局地的に逆になってたんだよな。
半島の馬鹿連れてこないで、その分本物の馬を増やしたほうが良かったんでは? >>173
弘安の役ではモンゴル騎兵増やしたけど鎌倉武士に完敗してる。 過疎板なのはわかるけど、なんで6つしかスレがないの?移転でもあったの? >>174
>弘安の役ではモンゴル騎兵増やしたけど鎌倉武士に完敗してる。
船から上陸したばかりでの戦闘じゃ、人も馬の能力を発揮出来るわけ
ないだろ(笑) 江南軍10万は平戸島にしか上陸できてない
まともな戦闘はひたすら日本軍に海上襲撃されてただけ >>175
ちゃんとあるよ
でも鯖の調子悪いと上位しか表示されないことあるね >>180
いや、明らかにモンゴル軍の実力は鎌倉武士より数段劣っている。 蒙古の軍勢がそのまま攻めてきたら勝てない
地続きでなくて良かった 後詰めはともかく戦場では数的優勢なのに
足並み揃わぬ武士の暴走気味の先鋒に突っ込まれて押し切られたわけだが >>182
蒙古の軍勢をそのまま船に乗せて攻めてきてるじゃん
陸続きと何も変わらないぞ 今の航海・航空技術ですら陸続きか海を隔ててるかと言うのは防衛上大きな違いになる
当時考えればお察し それなのに古代の弥生時代に半島から攻めてきた朝鮮人が日本列島を制圧して建国したとか嘘付いてるコリアン しかし朝鮮から対馬海峡に船の橋をかけられないかマジで検討していたというぞ >>189
木造船繋いで使うんでは放火されて赤壁の戦いみたいなことにw >>186
今は鉄道とかトラックとか陸運の手段が発達してるからな。
当時は物資の大量輸送といえば船しか無かったわけで、海から攻めた方が楽だろ。 >>191
そんなわけはない
ものを輸送するだけなら海使った方が早いがね いや我が国は、アジア大陸からは日本海という大海により離隔されて
いるので、元寇の役のときであっても自国の防衛に成功しているでは
ないか、と反論する人々がいる。そのとおりであろう。
旧軍時代は、日本海は50個師団にも匹敵する価値があると、巷間
言われていた。しかし現代戦は、すでに海洋の存在を無視できるほど
に発達した兵器類で闘われるので、海洋の存在を当てにして50個師団
の価値があると強弁する妥当性はとうに失われているのであるが、この
ような現実論を考慮せずに、仮に日本海は50個師団の価値があると
仮定しても、我が国の防衛のためには、これに携わる人員が95万〜100万人
あっても不思議ではないと判断される。
ttp://www.jpsn.org/opinion/word/436/ >>193
つまり旧軍時代は日本海という50個師団にも匹敵するハンデを抱えたまま
清朝やロシアに勝ったわけか・・・ 徳川幕府はたった4隻の黒船による砲艦外交に屈して開国を余儀なされたわけで、
ちょっと考えれば海に囲まれてることは防衛上のリスクでしかないって解るのに 攻めるほうも大変だが、守るほうも海上撃破なんて出来ないのも事実 脳筋の蒙古がケンチャナヨで馬鹿な半島民にそそのかされて杜撰な計画で攻め込んできた、元祖「ジンギスカン作戦」 当時お隣の朝鮮半島の高麗も武臣政権という一種の武断政治が行われたが日本の幕府政治と違ってわずか11代100年余りで終了
日本のように幕府政治を行って王権に制限を加えることができなかった
・文治主義の伝統から文官に比べて武官の地位が極めてひくかった
・日本の幕府は封建的な土地支配権を紐帯とした主従関係が将軍と御家人との間になされたのに対し高麗の武臣政権では軍事的奉仕への見返りとしての土地の安堵や給与が制度的に行われなかった
・そのため武臣政権では下克上の風潮が強く前政権を武力によって倒したため一つの家系が連続的に武士の棟梁を占めることが出来ず世襲的な権力的基盤はついぞ構築出来なかった
・総じて武臣政権の長は身分的に低く金俊のように奴隷階級からのし上がってきたものもいた(一方に日本の場合武家の棟梁は源氏、摂関家、皇族など貴種が制度の安定から求められた)
・武臣政権の地方における自立性は極めて脆弱で相次ぐ反乱も地域ごとの独立性から大規模化したこともあったが中央集権的な官僚制を主軸とした高麗王朝を武臣政権が
凌駕することはなかった(一方日本の幕府は京都の朝廷から離れた東国で行われることがしばしばあり朝廷からの自立性が保たれた)
・外敵モンゴル民族の度重なる侵攻 高句麗から李氏朝鮮に至るまで半島の戦争って降伏してからが本番って
戦いするから結局奴隷にされるまで終わらないんだよね・・
毎回毎回ホント同じ事してる
使者切って相手怒らせて開戦して降伏して帰る相手を追撃
怒った相手がまた報復って感じで何度も何度も歴代政権が同じ事してる 元寇
ナポレオンとヒットラーのロシア侵攻
日本軍の大陸侵攻
一見それなりに勝算ありそうに見えて、後から振り返って冷静に考えてみると(戦闘ではなく戦争に)勝てる現実的なシナリオが思いつかない戦争って結構多い。
急に強力な軍隊を持つとと「俺ツエ〜」って舞い上がってしまうものなのか。 大量に軍備を整えると
使わない訳にはいかないんじゃね?
軍隊の維持費・強大な軍隊を用意するのに無理した金を取り戻すのに
更に侵略戦争を行わないと国家が破産する仕組み 戦争で獲得された権力は戦争を続ける事でしか維持できないんだよ。 >>200
朝鮮半島は大陸と国境を接しているからそれは仕方ないよ
我が国は海という自然国境のおかげで独自の武断政治が確立されたんだろうな >>201
元寇はそもそも戦闘で勝ててないんだから、他の二つとは根本的に違うだろ。 >>205
朝鮮半島は海を隔ててる日本から何度も侵略されてるんだから海とか無関係だろ。
陸続きの唐すらわざわざ海路で攻め込んでるのを見れば海はむしろリスク要因。 名称こそモンゴル帝国軍だが
軍の内容は指揮官・中国の軍官僚、兵士・朝鮮農民では何とも心もとないなw >>208
中国の軍官僚ってメチャ使えるよ。
フレグの西方遠征で暗殺教団壊滅とかバグダード攻略とかの時に中核となって
活躍したのが郭侃だろ。
モンケが死んで中国人がゴソッと東方へ帰還した途端に勝てなくなってるし。 徳川なんてその気になれば京都の朝廷潰して日本国王になれたのに何でしなかったんだろ? 権威と軍事の分離は卑弥呼以来の伝統だけど
この伝統って日本にしかないしね 権威と軍事が分離されてた時期もあれば統合してた時期もあるし・・・ 権威と軍事の分離とか、割と珍しくないというかメジャー
教皇や後期アッバース朝カリフなんかもろだな 蒙古軍はドイツ兵を恐れていた
ドーソンによると、ハンガリーにおいても、エステルゴムの内城
Albe-Julie Saint-Martinの三城は陥落せず、本国よりオゴタイ
崩御の報を得て囲みを解いたという。これとは別に蒙古軍は
オーストリア に侵寇し、ウィーン南部のノイシュタイン城を包囲した。
この攻城戦は、『ローマ帝国衰亡史』のエドワード・ギボンが次の
ように叙述している。
一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声と武勇に恐れを
なしていて、オーストリアのノイシュタインの町への彼らの攻撃は
五十人の騎士と二十丁の石弓兵で勇敢に防衛され、彼らはドイツの
一部隊の来援で包囲を解いた。 (「ローマ帝国衰亡史」巻10)
このようにギボンは蒙古人がドイツ人(フランク族)の勇猛さに
恐れをなしていたと記している。
たった五十人の騎士で一城が守れるとは信じがたいがノイシュタット
の防衛はドーソンも、 ノイシュタットには僅かに五十人の守備兵と
二十人の石弓兵とを備える のみなりしが、蒙古兵はオーストリア公、
ボヘミア王、カリンチア公、 バーデン侯Agrar管長の連合軍近けるを
以て退却したり。(「蒙古史」)
今村明著 『封建制の文明史観』P60-P61 どこの世界にも狂信的兵士たちに手こずらされた話は存在するからな
その類じゃね 1241年8月初め、バトゥの命により、モンゴルの先遣隊はオーストリアに侵入
し、ウィーン近くのノイシュタットまで侵攻した。しかし、オーストリア公、
ボヘミア王、その他の君侯、アクレイアの総主教ら率いる強力な合同軍に迎撃
され、退却した。モンゴル勢はそれ以上西方に踏み込むことは出来なかった。
またハンガリー王から皇帝に宛てた書簡で、「領土奪還のあかつきには、神聖
ローマ帝国に臣従する」とまで明言して救援要請を訴えるとw
彼はすぐさま 嗣子コンラートに軍団を委ねて派遣した。同軍団は、タタール勢
とその傘下に入ったキプチャック勢の合同軍を迎え撃ち、ドナウ川の一支流河
畔で激戦の末に撃退した。
モンゴル vs.西欧 vs.イスラム 13世紀の世界大戦 (講談社選書メチエ) モンゴル軍は最初から連戦連勝だった訳じゃないからな
一時は撤退を余儀なくされてもすぐに態勢を立て直し外交戦情報戦で骨抜きにし
最後に精鋭部隊の偽装撤退半包囲戦術で息の根を止める でもヨーロッパでモンゴル軍は連戦連勝だったろ。
当時のヨーロッパは辺境の後進地帯。 モンゴル軍が戦っていたのはヨーロッパじゃなくて東欧と中欧だけだろ・・・ バカネトウヨのオナニースレを専門板に立てるなクズ >>1 死ね wwwww
19世紀まで米(笑)で徴税してた田舎土人国家が世界最強とか、
豆腐の角に頭ぶつけて死んでしまえ wwwww 中世は銭納だったけどな
前近代において貨幣経済を敷いても貨幣不足になるのが普通だったし
銭納にすれば農民は作物を銭に替える時に損をしやすい
貨幣で税を収めることが必ずしも合理的なわけじゃないんだよ バトゥ率いる13万人の騎馬軍団(英語版wiki参照)が全軍でヨーロッパを撤退
したのって、叔父のオゴタイ・ハーンの死語に首都カラコルムで開催される
クリルタイ(皇帝選挙)に参加する為、といわれていたが、実際はバトゥって
クリルタイに参加してないんだよね。それどころかカラコルムにももどらず、
中央アジアのサライに自主割拠してジェチウルスを興している。
また、のちのフレグ(アッバース朝を滅ぼした)がクリルタイに参加する為に
撤退する際におこなったように、一部の軍を裂いて占領地に駐留させることも
せず、ポーランドとハンガリーを完全に放棄している。
神聖ローマ軍(ドイツ騎士)の本格的な反抗に恐れをなして撤退したのが真実だろう。 では、神聖ローマ軍(ドイツ騎士)のどこを恐れたんだろうか。
この参考になる出来事が1266年にフランスの聖王ルイ9世の弟シャルル・ダン
ジューとシチリア王マンフレーディ(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の庶子)
の間で起こったベネヴェントの戦いからわかる。
「戦いは朝方に始まった。マンフレーディはまだ十分な準備が整っていなかっ
たが、彼のサラセン人部隊は橋の向こうでシャルルのフランス人部隊と交戦を
開始した。サラセン人部隊はシャルルのフランス人部隊を圧倒したが、そこに
プロヴァンスの騎兵部隊が突入すると、たちまち蹴散らされた。これを見た
マンフレーディのドイツ人騎兵部隊は命令を待たずに突撃し、シャルル・ダン
ジューは第二陣の騎兵部隊も戦線に投入した。数に劣るものの、強固な装甲に
よって武装したドイツ人騎兵は、シャルルの騎兵の剣を全く通さず、戦いの
趨勢はわからなくなった。」(日本語Wiki抜粋)
フランス騎士から見ても重装甲なドイツ騎士だから軽装のモンゴル騎兵から
みたらものすごい驚異だったことだろう。 エイジオブエンパに居たな超重装備だけど恐ろしく動きの鈍いユニットがw >>226
カラコルムにもどらず中央アジアに残ったのはバトゥだけだろ。
それ以外の主要な東欧遠征の参加者はみんなモンゴルに帰ってるじゃん。
モンゴル軍はドイツ騎士なんて屁とも思ってなかったのが事実。 >>229
じゃあ、なぜせっかく占領したハンガリーとポーランドを
放棄して全軍で撤退したんだよ? >>217
将棋とチェスの違いがもろにでとるな
チェスではキングでもバンバン攻撃に出るのに将棋の王将は逃げまくってるやん
こういったゲームにも日本と欧州の王のあり方が異なってくる 10月7日にNHK「探検ロマン世界遺産」(20:00〜20:45)でルーマニアの登録世界遺産のひとつである「トランシルヴァニア地方の要塞教会群のある集落」が放映されます。
12世紀頃のトランシルヴァニア地方はハンガリーの統治下にあって、モンゴル軍
に敗れたハンガリーは南東部の国境の防衛と土地活用のためドイツ人移民を
招致して都市を造っていきました。
その後、オスマン帝国の侵略の脅威にドイツ移民たちが命を守るため避難場所
として教会がどんどん要塞化されていきました。
16世紀には約600もの要塞協会があったようで、現在残っている教会のうち7つ
が登録されています。
http://romcafe.exblog.jp/3924750 モンゴル軍は強いって言ったりヨーロッパにビビってたと言ったり忙しいやつらだな在日は >>231
西洋の王様は日本で言えば戦国大名。
日本の天皇は西洋で言えばローマ法王。
そりゃ違うよ。 蒙古軍が実は弱いとあっては征服された欧亜大陸の連中が哀れだろw >>233
サムライ厨は実に馬鹿だな。
日本の武士(サムライ)よりは強いけど
ドイツの騎士よりは弱いってことだろ。
この馬鹿が(笑) モンゴル軍は弓が主たる武器(しかも和弓やロングボウのように貫通力重視じゃない)なんだから
1.装備が国費もしくは親分格の負担なため、コスト第一の貧弱な防具をつけた歩兵が主力の南宋や高麗などの国に対しては無敵でも
2.同僚に対する見栄もあって、無理してでも立派な鎧を自弁したであろう西欧騎士や鎌倉御家人(しかも相手が騎兵ばかりだと矢も当たりにくい)相手には殺生力が足りずに苦戦
というのはあったかもな。戦記読むと元寇のときも、日本側の主だったメンバーにもやたら負傷者が出てる割りに、そのまま死亡や戦線離脱せずに活躍してる場合が多いみたいだし。 >>237
南北朝時代頃に集団戦・接近徒歩戦が盛んになると胴丸・腹巻が多く
用いられるようになり大鎧は実戦から姿を消す。(wiki参照) 欧州は飛び道具(鉄砲)がうまれてから強くなった
西洋のただ単に突くだけの剣で中国の青龍刀や日本の日本刀に勝てるわけないだろ >>236
この時代は東から西へと行くほど弱くなる
極東のサムライが最強でドイツの騎士が食物連鎖の最下層 兵力×速さの二乗=打撃力
この法則に従えばモンゴル軍とドイツ騎士団が同規模の兵力で正面激突した場合
ドイツ騎士団に万に一つも勝利の可能性はない 一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声と武勇に恐れを
なしていて、オーストリアのノイシュタインの町への彼らの攻撃は
五十人の騎士と二十丁の石弓兵で勇敢に防衛され、彼らはドイツの
一部隊の来援で包囲を解いた。 (「ローマ帝国衰亡史」巻10)
このようにギボンは蒙古人がドイツ人(フランク族)の勇猛さに
恐れをなしていたと記している。
たった五十人の騎士で一城が守れるとは信じがたいがノイシュタット
の防衛はドーソンも、 ノイシュタットには僅かに五十人の守備兵と
二十人の石弓兵とを備える のみなりしが、蒙古兵はオーストリア公、
ボヘミア王、カリンチア公、 バーデン侯Agrar管長の連合軍近けるを
以て退却したり。(「蒙古史」)
今村明著 『封建制の文明史観』P60-P61 >>242
現実にリーグニッツでモンゴル軍にフルボッコにされてるんだから
そんなコピペ貼っても無意味。
ドイツ騎士は雑魚。 引用をコピペと呼ぶ奴が学問板でも出てくる時代か…… 現実は現実だからな。
ドイツ騎士は15世紀のタンネンベルクでもタタールとポーランドの連合軍に負けてる。
2世紀たってもモンゴル軍のレベルに到達できなかった未開地域の武将集団。 東欧やロシアでスラブ美女に慣れたモンゴル軍は、ドイツまででてきてシュワちゃんが女装したような女しかいないのを見て、やる気を無くしてそそくさと帰って行ったのであったw 平地でまともにぶつかれば19世紀のナポレオン軍ですら
危機的な状況に陥らせるほど時代を超越した軍隊だったのがモンゴル軍
腕に覚えがある程度の武装集団が太刀打ちできる相手ではない 実際ガチャガチャに鎧固めた相手にパルティアンショットって効くのかな 鎧って、がちがちに見えても実際は厚さ数ミリらしいから効くだろ >>249
遠矢は割と貫通するし、馬に当たりゃ落馬するしな
まあ、重武装云々より、欧州の騎士どもは戦術とか集団行動とか大の苦手なのから
なんとかしろと
だから半数のウェールズ弓兵に殲滅されるんだ 焼き入れしたボドキンなら抜けるし、それ以外なら鎧に負けたり、穴は空いても引っかかって抜けなかったり
再現実験の結果はいろいろ どんだけ厚着の鎧を着込んでも
矢をしこたま飛ばしてくる相手に向かっていくにはよほどの強心臓が必要だろ 第1回十字軍においてセルジュークトルコ軍はドリュラエウム付近
で野営していた十字軍の一隊に対して攻撃を仕掛けたが、トルコの
騎兵の放つ弓矢は甲冑で重武装した十字軍の騎士らに対して効果を上げず、
他の十字軍部隊が次々と救援に現れるに至って、大きな損害を出した
トルコ軍はついに敗走した。 モンゴル軍って重装備の歩兵騎兵には重騎兵が相手をするんじゃなかったか
そして軽騎兵の弓矢は罠にはまってパニくる一般歩兵がターゲットだったかと ナショジオで豚肉に鎧かぶせて刃物の打撃の実験やってたけど
刃物で鎧が裂けても中身は打撲か軽傷程度済むケースが多かった
矢が貫通しても必ずしも戦闘不能になったとは限らんからな さらに鎧の下にも衝撃吸収するような服とか着込んでるだろうし
そんなに簡単に飛び道具だけで相手を無力化できるなら白兵戦なんて必要ないからな
今の時代の戦闘はそういう状態だけど
クレシーでウェールズの射手にやられたのは騎兵がぬかるみにはまって的になったから
通常の動ける騎兵に飛び道具だけで勝てんでしょ
ちなみにモンゴルも相手を崩すときは重騎兵使うし、オスマンも重騎兵使ってたよ >>257
クレシーだけじゃなく、ポワティエでもアザンクールでもボッコボコにされてるわけだが
まあポワティエでは弓の数足りなくて、
ブーシェ小伯の騎兵突撃もしとるがね どっちも機動力そがれて負けた
重騎兵突撃は19世紀半ばまで生き残ってる
ライフルが一般化するまでは有効 >>259
中世の騎士軍の本質を無視した主張だな
俺も別に「統制の取れた重装騎兵集団の突撃戦術」が飛び道具に対し対応できないとはいっていない
むしろ、近代になっても、例えばWW1ですら抜刀騎兵の突撃は場合によっては有効だった
しかし、中世以来の騎士軍にはそれは無理 ポワティエにしても鏃が鎧に歯が立たないから馬の鎧うすいところを狙ったとある
逆にいうと強固な鎧は有効ってことだ
勝つか負けるかはどちらが相手の弱点をつきどれだけ有利な状況を作れるかによる
技術的な面で飛び道具が圧倒的有利になるのはライフル一般化以降 オットー率いるドイツ諸侯らはゲルマン人であり、ゲルマン人はコーカソイド
の中でも大柄なほうで、馬に乗ると馬体への負担が大きいのでどうしても機動性
が損なわれ、比較的小柄なマジャール人と騎馬戦闘をすればスピードで劣るの
で不利でした。そうした不利はフン族やアヴァール人のようなモンゴロイド系
遊牧民に散々やられていた頃から痛感されていたことであり、そうした不利を
補うためにゲルマン人は武装を強化して装甲を分厚くする工夫をしてきました。
装甲を分厚くすればますます重量が増えるので機動性は低下しますが、どうせ
同条件では小柄な民族には機動性では勝ち目は無いわけですから、いっそ機動性
は切り捨てて、ゲルマン人の大柄な体格を活かして、重厚な鎧をまとって
巨大な剣を振り回す、突撃力と防御力に特化した重騎兵への道が模索されたのでした。
http://kn2006.blog66.fc2.com/?mode=m&no=480 ドイツ国の軍隊がまともな戦い方をしだしたのはプロイセン以降
フン族やモンゴル軍に敗戦を重ねていた原因は機動力の差だけではない 欧州の重騎兵信仰はレヒフェルトでマジャールに勝ったから
それに遊牧国家にも重騎兵はいる
機動力が落ちるといっても歩兵よりははるかに機動力がある
大勝したイングランドの作戦も重騎兵の機動力をそぐことに重点おいてかつ成功した 対矢の再現実験だと、一概に板金が強いってわけでもなかったりする
対銃になると、もう部位を絞った分厚い板金しか手がなくなるが ディスカバリーでやってた再現実験で、焼き入れが出来てなくて鏃が曲がって弾かれるパターンは金属鎧の強みが出てるな 朝青龍なら重厚な鎧を軽々と着こなし、太い騎槍や大太刀を片手で振り回す
ファンタジーな光景を実現してくれるに違いない
とりあえず黒王号を連れて来い もしモンゴル帝国に分裂がなかったらヨーロッパ中東各地は完全に手中に収めていたかもな >>270
そのもしはあり得ない
遊牧帝国は、巨大化したら分裂するものだ おっと大太刀はぜひ背中に背負うオプションでお願いします 蒙古人が朝青龍タイプなら一都市まるごと皆殺しもあながちフィクションではないな 南トンスリア人にキムチ野郎って言ったからじゃない? >>254
十字軍の装備がセルジュークトルコ軍に有効だったのは第一回だけ。
その後にアナトリアを突破して聖地にたどり着いた十字軍は存在しない。
特に酷かったのは1101年の十字軍で3つの大規模な十字軍がセルジュークトルコ軍
によってあっさりと全滅させられてる。
つまり、第一回は単にセルジュークトルコ側が分裂してた隙を衝かれただけね。
まともに戦えば後進地帯のヨーロッパ軍はイスラム軍に勝てないよ。 >>279
身体も立派過ぎて普通のモンゴル馬では可哀相です
ブケファロスを連れて来い 文永の役における鎌倉幕府軍の犠牲者195人
文永の役におけるモンゴル軍の犠牲者1万3500余人
キルレシオは1:69 文藝春秋2013年11月号
教科書ではわからない
この国の見方が変わる 新しい日本史20
元寇の目的は中国兵のリストラだった 杉山正明
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/870 >>283
九州御家人集団と大元ウルスの交戦比率じゃないの。 九州人の精強さは島津軍、島原の乱、西南の役など数え切れないほどある 鎌倉幕府の成立以後西国の武将たちは格下に扱われだしたので
それを見返すためにも戦場で派手な武勲を立てざるを得なかった >>289
20年以上前から杉山正明が一人で言ってるんだよ。
で、今に至るまでその件について一本の学術論文も書かず、史料など根拠の提示も一切ない。
この手の雑誌とか新書とかで何も知らない一般人相手に風潮し続けてるだけ。
つまり南宋兵力削減説は完全に無根拠のほら話。 >>290
>20年以上前から杉山正明が一人で言ってるんだよ。
主張してるのは杉山一人かもしれないけど、
保守系の「文芸春秋」編集部はその主張に同意してるから掲載
させたんだろ(笑) >>292
「文芸春秋」は史学雑誌じゃない
大切なのは何が歴史の真実かであって保守系とかくだらないイデオロギー問題持ち込むな と言うかこれ、各コラムは精々1・2ページで寄稿が20本載ってるだけなのよね。
ちなみに「リストラ」に触れてるのは
「とはいえ、旧南宋兵は数は多くても、老人・愚連隊・やくざなどが大半で、武器のかわりに農具などをたずさえた移民集団というのが実態だった。
ありていにいえば、役に立たない旧南宋の職業軍人たちを海外投棄したと言ってもいいものであったかもしれない。」
と言う根拠不明の文章のみ。 >>293
>大切なのは何が歴史の真実かであって保守系とかくだらないイデオロギー問題持ち込むな
モンゴル研究の大家杉山正明の主張や天下の「文藝春秋」編集部に対して、
お前ごときが大きくでるじゃないか(笑)
たとえば弘安の役における江南軍10万なんか杉山の主張の通りなんじゃないかな。 根拠は?
どんなにえらい学者様でも史料の根拠なしに適当にぶっ放すなら
そりゃ虚名で嘘言うクソ学者だし >>296
>根拠は?
元の兵船から鋤や鍬そして種籾が発見されたんだが、それはなにに使用
するつもりだったんだろう?
普通に考えて屯田兵として九州に入植するためだろ。 >>297
元の兵船から鋤や鍬そして種籾なんか発見されてない。
火器や鏃など武器類は大量に発見されてるけどね。
つまり杉山正明の主張は鷹島沖海底遺構の調査結果とも食い違ってる。 >>298
>元の兵船から鋤や鍬そして種籾なんか発見されてない。
>火器や鏃など武器類は大量に発見されてるけどね。
>つまり杉山正明の主張は鷹島沖海底遺構の調査結果とも食い違ってる。
遠征軍の編成は弘安3年(1280)7月から蒙漢軍の再編、南宋の蛮軍の改編など
を開始。兵站物資としては、長期占領に備えて、鋤鍬などの農具、種もみ、
日用生活に使用する什器類も携行した。
文永・弘安の役の概要
http://www.ariua.org/projects/takashima/takashima3/ >>297
じゃ「リストラ」じゃなくてただの拡大だよね
リストラって普通はそういう意味じゃねーよ? サラディンの書記ベハアッディーンの記述
「彼らの歩兵は騎兵の前に壁のように固まってたち、どの兵も厚い刺し子の鎧下(詰め物入りの上着)と鎖帷子を身につけており
わが軍の矢も歯が立たなかった。矢が一本だけでなく十本も刺さっているのに隊列にとどまって進んでいる兵士を私は見た」 何でわざわざ海越えてまで山ばっかの島国取りにに来たのか謎だ
西いけよ西 西はハーンの死去がなきゃあ
ジュチとオゴダイなどの精鋭部隊に皆殺しにされてたよ 日本にはたくさんの黄金があるので、黄金狙いだったって小学校の時に先生が言ってたな。 日本侵攻とか南蛮侵攻とかは利権の獲得とかではなく
ミリタリー狂国家の趣味の領域だったような気もするが >>307
マルコ・ポーロの書いたジパング像みたいなのが元の共通認識だとしたら
銀のために大理征服したフビライが日本狙わない理由はないな 日本、最強だったん???
撃退しただけって感じがする
でも日本がかなり強かったのは同意
気合いれて日本を征服しても利益が出なそうって感じなので手を出すのをやめた部分もある
モンゴル得意の騎兵戦も日本戦ではあまり威力がないので地形的にも不利 元寇の場合はあらゆる意味で「日本の運の良さ」これに尽きる。
【モンゴル軍の災難=日本の運の良さ】
@…想定外の台風の影響(しかも停泊中の海上で)
A…渡航遠征はほぼ初体験なので船酔い多発
B…上記Aにより馬を大量に輸送できず苦手な歩兵戦で対応
C…モンゴル弓の射程距離が日本弓より短距離だった
D…高麗&南宋&モンゴルの異民族編成部隊で意思疎通が困難だった
E…日本の人口や地理をあまり把握しておらず、兵站を甘く見積もった
F…日本人の精神性を全く把握しておらず、簡単に降伏する事と思い込んだ
G…政治の中枢である京や鎌倉に攻め込まず、北九州という最も攻め難く、守り易い場所しか目を付けなかった
H…日本北方のアイヌ民族を味方に付けず、寧ろモンゴルの敵に回した(南北二方向からの日本攻略が不可能になった)
I…高麗に船を造らせたため耐久性に重大な問題が生じた 史上最強の疫病神をわざわざ味方につけたモンゴルの自業自得
先に高麗人を一人残らす血祭りにあげて、テングリへの生贄にしてから攻めてくればきっと勝てたはず >>310
>G…政治の中枢である京や鎌倉に攻め込まず、北九州という最も攻め難く、守り易い場所しか目を付けなかった
北九州を抜かずにどうやって 京 鎌倉を攻めるんだ? >C…モンゴル弓の射程距離が日本弓より短距離だった
これは「日本の運の良さ」じゃないだろ。 モンゴル弓は強力じゃなかったの?
弓道の練習見てるとあれが致死に至らせる武器とは思えん。
アーチェリーかボウガンなら分かるけど、日本の弓だと
20mも離れてると鎧とか皮ジャン貫けないだろ。 >>315
今の弓道は女性もやってるし、別に鎧武者を射抜くのが目的じゃないからだろ
確か今の練習用の弓は張力 12~18kgに対して戦国時代の強弓は30~40kgくらい。鎌倉時代のは知らん >>316
へえー、それは知らんかった
30mぐらい離れた的に当てるの見てると、ポチッと情けなくて・・・ >>310
それほとんどがモンゴル側のミスに見えるんだけど・・・
敵失も運と呼ぶなら運だけどさ >>313
>北九州を抜かずにどうやって 京 鎌倉を攻めるんだ?
簡単だ
京都攻略…若狭湾を強襲⇒琵琶湖沿いに南進⇒京都に到達
鎌倉攻略…相模湾を強襲⇒七里ヶ浜沿いに西進⇒鎌倉に到達
アイヌ民族の協力が有れば蝦夷経由で奥州を騎馬で一気に南進して関東に攻め込めた。
広大な関東平野で野戦に持ち込めばモンゴル騎馬軍団の思う壺。
最終的に大本営は全方位から侵略されて信州の高地に追い込まれただろう。
当時の大陸では日本列島の向きを逆様に認識していたのでそういう自然な発想が不可能だったのだろう。
⇒混一疆理歴代国都之図 >>299
そのサイトにある鷹島海底遺跡の調査結果で元の兵船から鋤や鍬そして種籾なんか発見されてないんだが。 >>310
それ全部嘘っぱちだよ。
@…モンゴル軍が台風に遇ったのは日本軍に負け続け、2ヶ月間も九州近海を逃げ回っていたから。
A…渡航遠征は三別抄の乱で経験済み。
B…船で馬を輸送できないというのはデマ。普通に大量の馬を輸送していた。
C…運じゃないじゃん・・・
D…モンゴル軍は異民族編成部隊が通常編成。ヨーロッパに侵攻したのも中東に侵攻したのも異民族編成部隊。
E…使者として来日した趙良弼から日本の人口や地理を詳細に報告されていた。
F…当初から日本が頑強に抵抗することを想定していた。
G…モンゴル軍の侵略戦争で首都陥落だけで降伏した国なんてまれ。京や鎌倉だけ攻めても勝てない。
H…アイヌは無関係。そもそも北方から日本に攻め込むなど不可能。
I…高麗の船は耐久性に優れ、弘安の役の台風でも大半が無事だった。
つまり運の要素なんて無いってこと。 >>322
相模湾強襲できるモンゴル帝国強すぎワロタwwwwwwwwwwwwwww いや我が国は、アジア大陸からは日本海という大海により離隔されて
いるので、元寇の役のときであっても自国の防衛に成功しているでは
ないか、と反論する人々がいる。そのとおりであろう。
旧軍時代は、日本海は50個師団にも匹敵する価値があると、巷間
言われていた。しかし現代戦は、すでに海洋の存在を無視できるほど
に発達した兵器類で闘われるので、海洋の存在を当てにして50個師団
の価値があると強弁する妥当性はとうに失われているのであるが、この
ような現実論を考慮せずに、仮に日本海は50個師団の価値があると
仮定しても、我が国の防衛のためには、これに携わる人員が95万〜100万人
あっても不思議ではないと判断される。
http://www.jpsn.org/opinion/word/436/ >>327
いやいや海とか関係ないから。
モンゴル帝国の方は日本海という大海により離隔されてるはずなのに
日本からの襲撃にまったくお手上げだから。
当時のユーラシア大陸の軍事力は話にならんほど日本より劣ってたんだよ。
日本側の史料:『太平記』
「結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の
財宝を奪い取り、官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、
浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく荒れにけり。
(中略)
賊徒の異国を犯奪事は、皆四国・九州の海賊共がする所なれば、帝都より厳罰を
加るに拠なし」
モンゴル帝国側の史料:『論倭』
「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。むかしは「至弱」と雖も、なお敢えて
中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さはまさにむかしの
十倍に当たる。さきに慶元より航海して来り、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。
(中略)
その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たさなければ、城郭を燔ゼツして
居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。」 鎌倉幕府による高麗征伐は1276年、1281年、1291年と三度も
企てられながら結局一度も実施していない。
文永の役、弘安の役とも幕府側はほとんど得ていない状況で
御家人の元軍を撃退した働き(奉公)に対して、恩賞(ご恩)に不足していた
幕府としては、高麗から土地と人を手に入れることを強く希望していたに違いない。
それでも実行に移さなかったのは、対馬海峡を当たって敵地に攻め込むことのリスク
に及び腰にあったからだろう。 >>329
1280年に高麗を襲撃した記録があるじゃん 計画されること自体、元軍が鎌倉武士から
舐められていた証じゃん笑
てか、大陸に渡って半島のモンゴル軍を皆殺し
にしても、文禄の役みたいにグダグダになる可能性が
ある以上、止めるって選択肢もありかと。 1291年の高麗征伐計画のソースは?
wikipedia見てもどのサイトみても
そんな計画載ってないんだけど。 1291年の高麗征伐計画のソースは?
wikipedia見てもどのサイトみても
そんな計画載ってないんだけど。 >331
>計画されること自体、元軍が鎌倉武士から
>舐められていた証じゃん笑
お前何か勘違いしてねえ(笑)
計画対象は高麗さ。
鎌倉幕府は元本国はおろか高麗にさえ報復攻撃
できないへたれなんだよ(爆笑) >>334
元本国には報復攻撃してるじゃん
重要都市の慶元を焼き野原にしてる >>335
>元本国には報復攻撃してるじゃん
>重要都市の慶元を焼き野原にしてる
俺は、
「鎌倉幕府は元本国はおろか高麗にさえ報復攻撃
できないへたれなんだよ(爆笑)」
て言ったんだけど、その焼討は鎌倉幕府が行ったのか? 文永の役 日本武士の一部が先走って突撃したら数的劣勢なのにそのまま追い返せた
弘安の役 日本が海上襲撃しまくってる間に台風来た >>325
つーかこの焼き討ちやったのは倭寇なんで・・・
国大いに乱れ山賊海賊だらけになった、倭寇も大暴れした
なんとかしろや!って元と高麗から文句言われた。
高麗から使者が来たけどどうにもならないから適当に物持たせて帰って貰ったって話しだよ
あともう鎌倉幕府とか無くなってる時の話
検索したらこの話は元寇の話があると良く貼られてるっぽいけど
前後の話をぶっちぎって後世の倭寇無双をあたかも鎌倉幕府の攻撃のように見せるミステリードっぽいね 横レスだけどあれだな。
調べてみたら、元や高麗が日本に倭寇をなんとかしろやなんて
言ったこと無いっぽいし、1291年に高麗出兵を計画したなんて
のもミスリードっぽい。 横レスだけどあれだな。
調べてみたら、元や高麗が日本に倭寇をなんとかしろやなんて
言ったこと無いっぽいし、1291年に高麗出兵を計画したなんて
のもミスリードっぽい。 唯一フルボッコに虐殺された九州北部の島の住人が勝手に警戒してただけだろ
倭寇のはじまり
警戒して偵察してたはずがだんだん襲撃になっていくのは単純な力関係だな >>338
明州が倭寇の襲撃受けて官舎寺院を尽く焼き払われたのは1309年。
鎌倉幕府がちゃんとある時の話だよ。
モンゴル帝国が鎌倉時代の日本より軍事力で劣っていたのはミスリード
なんかじゃなく歴史的事実。 >>336
現実に元本国にも高麗にも鎌倉幕府に対抗できる軍事力は存在しなかった。
当時の鎌倉幕府はモンゴル帝国みたいな侵略国家じゃなく仏教を重んじる
君子国だから慈悲の心で見逃してやってただけ。
「南蛮には虫を従へ、西羌には羊を従へ、北狄には犬を従へたり。
東方は君子国なりとて獣を従へず。其上天竺・震旦・日域の中には、
日本人心もたけく、弓の力餘国にすぐれたり。 故に夷の字をば名づけたる也。
夷は弓の字に大の字書入たる形なり。されば夷の字は本朝の弓箭に携る人の
眉目なるべし。」by玄恵
日本人は圧倒的な武力を持ってるけど、モンゴルみたいな野蛮人と違って
気高い君子国だからねって当時の儒学者も述べてる。 >>326
博多に上陸した元軍は一日で博多市街を灰燼に帰し
惨敗した日本軍および焼け出された膨大な避難民は大宰府まで撤退を余儀なくされた。
これがもし鎌倉で起きたなら、三浦半島という狭い地域で逃げ場を失った日本軍と
鎌倉市民はどうなっていたことか想像に難くない。 博多みたいな大都市が灰燼に帰してたら史料があるはずなんだけど
当時の人間が誰もそのことに触れていないんだよね。
全くのデタラメだろうね。 元側の史料『高麗史』によれば、文永の役で上陸した元軍は
鎌倉武士に徹底的に追い詰められて、これ以上戦かったら捕虜に
なると考えて逃げ出した。
こんな弱い元軍が、鎌倉に上陸したら、元軍の心配通り、捕虜になって
いたことは想像に難くない。 博多の豪商だった南宋人の謝国明や豪族の佐志房とか焼け出されてるし。 >>344
文永の役で博多市街を灰燼に帰したなんてことは鎌倉時代の史書、日記、手紙、
伝記、博多内の寺社仏閣の記録など信頼できる資料に一切記述がありません。
つまりガセ。
文永の役のモンゴル軍は鎌倉武士に圧倒され、博多に指一本触れられないまま
逃げ帰ったんだよ。 >>346
対馬と壱岐では徹底的に蹂躙してますが。
鎌倉を攻略する場合、海側の相模湾と内陸の大船方面の二方面から攻込むのが常套手段。
鎌倉幕府が滅亡した元弘の乱でも新田軍はその戦法で鎌倉を灰燼に帰したし。 対馬や壱岐は元軍は二桁も日本側兵力は
圧倒的少ないわけで、蹂躙できないわけ
がないだが。
日本側が九州から兵力を結集させた博多では、
たった一日で逃げ出した元軍。 >>351
博多では戦意に乏しい旧南宋人部隊(江南軍)が合流したことで
組織的な戦闘が難しかったのは否めない。
それで止むを得ず市街地に火を放った可能性が高い。
日本に味方をしている謝国明を叩くためもあっただろう(本当は戦争反対派なんだけど) >>342
>モンゴル帝国が鎌倉時代の日本より軍事力で劣っていたのはミスリード
>なんかじゃなく歴史的事実。
日本海という大海により離隔されているので、自国の防衛に成功しているだけなのに
大きくでるじゃないか(笑)
だいたいこの時代より300年後の安土桃山時代の日本は実戦経験の豊富さ、
火縄銃など飛び道具の性能でもはるかに優れていたのに、李朝(朝鮮)さえ
当初派遣された軍勢(16万〜20万)では制圧できず、秀吉自身名護屋に集めた
明征服用の兵力を総動員する状況まで追い詰められたので。
李朝よりも実戦経験も豊富で武官の地位の高かった高麗の軍勢にさえ勝てるとは
思えないのに、元軍より軍事力で勝ってるわけねえ。 情報力とか機転とか軍隊としての結束力や士気の高さを無視して謎の強さを論じてるんだから
お前らの議論なんて無意味だよ 文永・弘安の役当時の日本軍と文禄・慶長の役の日本軍では
実戦経験の豊富さ、火縄銃など飛び道具の性能など後者の方が
遥かに優れている。
対する朝鮮はどうだろう、国力の点では李朝の方が勝っているが
実戦経験の豊富さ、武官を尊重することによる士気の高さでは高麗
が勝っていたのでどちらの軍隊の方が勝っているかわからない。
文禄の役では、明征服用に秀吉が集めた30万の軍勢をその李朝の為に
投入しないといけない状況に陥っている。 >>353>>355
モンゴル帝国は日本海という大海により離隔されていても自国の防衛に
失敗してるから海とか無関係。
軍事力で日本より劣っていたからモンゴル軍は負けただけ。
で、歴史的事実があまりにも明白だから元寇とは関係ない秀吉の朝鮮出兵
持ち出して話を逸らそうとしてるわけね。 >モンゴル帝国は日本海という大海により離隔されていても自国の防衛に
>失敗してるから海とか無関係。
お前はなにを言ってるんだ。
>重要都市の慶元を焼き野原にしてる
それって、商取引装った海賊が入り込んで、だまし討ちをした事件なんだが。 あほな奴がいるなぁ。
文禄の役は軍事力云々ではなく、戦略面で失敗でしょうに。
文禄の役は補給の破綻による戦略面での失敗。
兵装や武器の質の問題ではない。 >>357
違うよ。
当時の明州は日本人入城禁止だから商取引装って入り込むことはできないの。
外から武力で攻め落とすしがない。 なぜその後の日本はフェートンとか言うイギリスフリゲート一隻にフルボッコにされるくらいに落ちぶれたのか >>359
大徳11年(1307)、実際には至大2年(1309)のことであるが、寧波にて日本
の商人が暴動を起して放火し、寧波の城中がすべて焼失する事件が起こって
おり、これにより日本僧の摘発が天童寺にも及び、龍山徳見(1284〜1357)
を含めた十数人が逮捕されて大都に送られている(『東海一オウ集』巻5、
真源大照禅師行状)。
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page003f.html なせその後の日本はアメリカ軍にキルレシオ10倍以上で一方的にやられるくらいに落ちぶれたのか >>358
>文禄の役は軍事力云々ではなく、戦略面で失敗でしょうに。
>文禄の役は補給の破綻による戦略面での失敗。
朝鮮の軍民はどうやって補給を維持してたんだ? >>361
そろそろ何の根拠も提示してないサイト貼っても意味が無いって学んだ方がいいよ。
寧波の城は当時日本人入城禁止だから城中がすべて焼失したってことは外から武力で
攻め落とされったってこと。 >>364
>そろそろ何の根拠も提示してないサイト貼っても意味が無いって学んだ方がいいよ。
大きく出るじゃないか。だったらそっちこそソースだせや(笑) >>361
>朝鮮の軍民はどうやって補給を維持してたんだ?
おいおい‥。明も朝鮮も補給維持できてないでしょ。
何のために互いに休戦に持ちこもうとしたか、それすら
知らないのかよ。 文永の役のキルレシオは約70倍
鎌倉幕府軍の犠牲者195人
モンゴル軍の犠牲者1万3500余人 >>366
>おいおい‥。明も朝鮮も補給維持できてないでしょ。
>何のために互いに休戦に持ちこもうとしたか、それすら
>知らないのかよ。
くわしく? 唐入りは秀吉が死んだから終わっただけで、死んでなければ第3次やるだけだぞ 第2次ですら半島南部で逼塞してるだけなのに
唐入りなんてとてもとても >>366
>おいおい‥。明も朝鮮も補給維持できてないでしょ。
>何のために互いに休戦に持ちこもうとしたか、それすら
>知らないのかよ。
ソースは(笑) >>364
>そろそろ何の根拠も提示してないサイト貼っても意味が無いって学んだ方がいいよ。
>寧波の城は当時日本人入城禁止だから城中がすべて焼失したってことは外から武力で
>攻め落とされったってこと。
早くソース出せ(笑) >>373
>ソースは竜山徳見行状、馬元帥防倭記
1307年とするのは入元僧龍山徳見の伝記史料によるものだが、他の史料
はすべて1309年(元側では至大2年)とするので、龍山の伝記の誤りと
思われる。
元の役人の処遇に怒った日本商人が放火し、明州城内の4分の1を焼失した。
被害としては後の寧波の乱よりも大きい。そのためこれを「至大倭寇」
と呼ぶ論者もいる。榎本2010、175-177頁。(Wiki寺社造営料唐船参照) >>374
当時の日本商人は重武装でモンゴル帝国は日本人入城禁止にした上、軍を駐屯させて
警戒していた。
でもモンゴル軍の幼稚な軍隊では全く無意味だった。
日本商人が圧倒的軍事力で外から慶元攻め落としちゃったからな。 >>375
>当時の日本商人は重武装でモンゴル帝国は日本人入城禁止にした上、軍を駐屯させて
>警戒していた。
>でもモンゴル軍の幼稚な軍隊では全く無意味だった。
>日本商人が圧倒的軍事力で外から慶元攻め落としちゃったからな。
お前の妄想は聞き飽きたよ(笑)
いいから、お前が提示した
>竜山徳見行状、馬元帥防倭記
記載の倭寇が慶元府を攻め落としたって言う部分を出せよ! 『元史』(巻一八四)王克敬伝
「延祐四年(一三一七)、四明に往って、倭人の互市(交易)を監する。
これより先に、往って監する者は外夷の情の測られないのを懼れて、
必ず厳兵して自衛し、大敵を待つがごとし。」
軍事力に劣るモンゴル帝国から見れば日本の商人でさえ「大敵」。
商取引の度に軍を動員して厳戒態勢とってたわけよ。
怒らせてまた慶元攻め落とされちゃったら大変だからな。 >>377
>「延祐四年(一三一七)、四明に往って、倭人の互市(交易)を監する。
>これより先に、往って監する者は外夷の情の測られないのを懼れて、
>必ず厳兵して自衛し、大敵を待つがごとし。」
慶元府の焼き討ちって1309年の話なんだけど。
1317年の命令文書を出してなにか関係あるのか?
>大敵を待つがごとしって
せいぜい油断するなって程度の意味だと思うが(笑) 文永・弘安の役当時の所謂「鎌倉日本軍」と文禄・慶長の役当時の所謂「豊臣日本軍」では
実戦経験の豊富さ、火縄銃など飛び道具の性能など「豊臣日本軍」の方が遥かに優れている。
対する朝鮮はどうだろう、動員兵力の点では李朝軍の方が勝っているが実戦経験の豊富さ、
武官を尊重することによる士気の高さでは高麗軍が勝っていたので、日本とは違い軍隊と
しての優劣はつけがたい。
文禄の役では、その「豊臣日本軍」が16万〜20万も投入しながら戦線が膠着し、
とうとう太閤秀吉自ら明征服用に集めた30万の軍勢の残りの兵力を率いて渡海する状況に
まで陥っている。
「豊臣日本軍」より遙かに戦力の劣る「鎌倉日本軍」が李朝軍に匹敵する高麗軍相手に
朝鮮半島において勝利できるとは思えない。
当然、鎌倉武士達も同じ様に考えたので、高麗征伐はことごとく中止されたのだろう。 戦国を経た鉄砲装備の日本軍よりも朝鮮半島勢力は強いのか >>380
補給と現地調達がもたない
兵隊がいれば戦争できるとか、子供のような戯言はもう結構 アフガンで争うソ連とアメリカの根性比べみたいなもんで、結局ソ連の経済があれで圧壊したが
秀吉が死なずに第3次第4次と繰り返したらどっちが先に音を上げたのかな 文禄・慶長の役の主要戦闘一覧
釜山鎮の戦い(日本軍の勝利)
多大鎮の戦い(日本軍の勝利)
東莱の戦い(日本軍の勝利)
尚州の戦い(日本軍の勝利)
忠州の戦い(日本軍の勝利)
泗川の戦い(日本軍の勝利)
臨津江の戦い(日本軍の勝利)
大同江の戦い(日本軍の勝利)
閑山島 の戦い(朝鮮軍の勝利)
第一次平壌城の戦い(日本軍の勝利)
第二次平壌城の戦い(日本軍の勝利)
海汀倉の戦い(日本軍の勝利)
釜山浦の戦い(日本軍の勝利)
第一次晋州城の戦い(朝鮮軍の勝利)
第三次平壌城の戦い(明軍の勝利)
碧蹄館の戦い(日本軍の勝利)
幸州山城の戦い(朝鮮軍の勝利)
第二次晋州城の戦い(日本軍の勝利)
漆川梁の戦い(日本軍の勝利)
南原城の戦い(日本軍の勝利)
黄石山の戦い(日本軍の勝利)
稷山の戦い(日本軍の勝利)
鳴梁の戦い(朝鮮水軍の戦術的勝利。日本軍の戦略的勝利)
第一次蔚山城の戦い(日本軍の勝利)
泗川の戦い(日本軍の勝利)
第二次蔚山城の戦い(日本軍の勝利)
順天城の戦い(日本軍の勝利)
露梁の戦い(双方が勝利を報告) 戦歴をみると明・朝鮮軍と日本軍の間には絶望的軍事力の差が
あったんだろうな。
軍事力が強大でも、戦略性を誤れば文禄の役みたいなことになる。
文禄の役はベトナム戦争みたいなもん。
慶長の役はまた違うが。 文禄慶長の役なんて何の参考にもならんだろ。
文永の役におけるキルレシオは約70倍。
鎌倉時代の方が遥かに大陸に対する軍事力の優越が大きい。 >>386
>文永の役におけるキルレシオは約70倍。
>鎌倉時代の方が遥かに大陸に対する軍事力の優越が大きい。
高麗征伐もできないへタレのくせに大きくでるじゃないか(笑)
もっとも李朝軍と比べても優劣つけがたい高麗軍だからそのまま
攻め込んでも無様に撃退されるのだろうな!! まあキルレシオならいつの時代でも日本が圧倒的に勝つだろうけど
制圧して統治まで持ってくのは無理だな >>387
高麗なんて倭寇に荒らされまくって滅亡してるじゃん・・・ >>388
朝鮮半島ってのは生産性低すぎて制圧して統治じゃ収支合わないんよ。
だから周囲の大国からスルーされ続けてたわけで。 >>388
>まあキルレシオならいつの時代でも日本が圧倒的に勝つだろうけど
>制圧して統治まで持ってくのは無理だな
などと意味不明な供述を繰り返しており(笑)
豊臣期の日本軍20万人も相手に戦局を泥沼化させた
李朝軍に匹敵する高麗軍相手に豊臣時代の日本軍より
遥かに弱い鎌倉期の日本軍が勝てるはずないよね(爆笑) >>391
だからその前提が大間違い。
鎌倉期の日本軍の方が大陸との軍事的優越が大きい。
高麗なんて倭寇に荒らされて滅亡するレベルの雑魚。 >>393
>だからその前提が大間違い。
>鎌倉期の日本軍の方が大陸との軍事的優越が大きい。
>高麗なんて倭寇に荒らされて滅亡するレベルの雑魚。
高麗征伐もできないへタレのくせに大きくでるじゃないか(笑)
もっとも李朝軍と比べても優劣つけがたい高麗軍だからそのまま
攻め込んでも無様に撃退されるのだろうな!! >>394
現実見ろよ。
高麗は倭寇に荒らされまくって滅亡してるんだぜ。
鎌倉幕府軍に勝てるわけないじゃん。 >>396
>現実見ろよ。
>高麗は倭寇に荒らされまくって滅亡してるんだぜ。
>鎌倉幕府軍に勝てるわけないじゃん。
高麗征伐もできないへタレのくせに大きくでるじゃないか(笑)
もっとも李朝軍と比べても優劣つけがたい高麗軍だからそのまま
攻め込んでも無様に撃退されるのだろうな!! >>398
>朝鮮の弱さは異常だな
高麗征伐もできないへタレのくせに大きくでるじゃないか(笑)
もっとも李朝軍と比べても優劣つけがたい高麗軍だからそのまま
攻め込んでも無様に撃退されただろうな!! >>398
異常なほど弱いから現実無視してファンタジー史観に逃げ込むしかないんよ >>400
>異常なほど弱いから現実無視してファンタジー史観に逃げ込むしかないんよ
そだね!
元朝へを報復はおろか、高麗征伐もできないほどのへタレだもんね。
>高麗なんて倭寇に荒らされて滅亡するレベルの雑魚。
なんてファンタジー史観に逃げ込むしかないよね(笑) 国家をあげるまでもなく、唯一元寇で虐殺された島々の住人だけで逆襲しまくって朝鮮半島ぼこぼこなわけだが
明の方は海禁が絡んだ密貿易武装商人の反乱でもあるから単純に弱いわけじゃないが 元軍の直接的な庇護が無ければ
九州北方の島々のみの戦力>朝鮮半島の戦力 >>402、>>403
などと意味不明な供述を繰り返しており(笑)
豊臣期の日本軍20万人も相手に戦局を泥沼化させた
李朝軍に匹敵する高麗軍相手に豊臣時代の日本軍より
遥かに弱い鎌倉期の日本軍が勝てるはずないよね(爆笑) 秀吉軍20万人は朝鮮半島民族の身体能力の前に
戦場での戦闘力差でボロ負けして追い返されたもんね てか、文禄・慶長の役なんてほとんど朝鮮なんて
関係無いし。日本軍の主敵は明軍。
日本軍は朝鮮を無視して、明とのみ休戦や講話交渉を
した。
朝鮮単独だった初期は、日本軍の一番隊18700に徹底的に
蹂躙・撃破される。
あまりに日本軍の進撃が早いので、明は朝鮮が日本軍と
通じているのを疑うほど朝鮮軍は弱かった。
実際、明軍と戦った日本軍は、朝鮮軍とのあまりのレベル差に
驚く始末。 >>388
アメリカ相手のキルレシオは50ぐらいで完敗してんじゃね? >>406
>てか、文禄・慶長の役なんてほとんど朝鮮なんて
>関係無いし。日本軍の主敵は明軍。
などとサムライ厨が意味不明な供述を繰り返しており(笑)
文禄の役に限って言えば明軍って大して活躍してないんだな、これが!
秀吉が肥前名護屋に集めた全国の精鋭30万人の残りの兵力を自ら率いて
朝鮮に乗り込もむ準備を始めたのが文禄元年12月
「前田勢らの渡海は朝鮮半島南部、慶尚道の要衝・晋州(日本側では
「もくそ」と表記)城攻略のための一大攻勢計画に基づくものであった。
http://www.nihonkaigaku.org/library/group/i040401a-t8.html
明軍5万弱が朝鮮に救援にきたのが文禄2年1月
つまり秀吉が渡海には明軍の参戦はほとんど関係ないんだな。 これだから朝鮮ウリナラマンセー厨は困る。
祖承訓率いる明軍が参戦したのは文禄元年7月16日だよ。
日本軍が釜山に上陸して3ヶ月後にはすでに参戦している。
7年に及ぶ文禄・慶長の役で、君の大好きな朝鮮人(笑)は
でた三ヶ月で朝鮮半島の3分の2近くと首都を日本軍に占領される
体たらく。
元寇の弘安の役で二ヶ月も元軍に橋頭堡を作らせなかった鎌倉武士と
比べると朝鮮の情けなさが際立つだけ。
実際、7年に及ぶ文禄・慶長の役で朝鮮のみが戦ったのは三ヶ月だけ笑
後は明軍と日本軍との戦いであり、交渉だった。 >>390
そんなゴミ国家に莫大な金突っ込んで結局裏切られて、それだけじゃなく1000年呪う勢いで粘着されてる日本って・・・
やっぱり無能なんじゃないか 天正二〇(一五九二)年四月一二日の侵略開始以来、北西では平壌、北東では
咸鏡道までを席巻した秀吉軍であったが、李舜臣率いる水軍に連戦連敗したことから、
全羅道・慶尚右道への西進はかなわず、当初予定した全羅道沿岸を航海して
漢城・平壌付近で兵糧を荷揚げする計画は不可能となった。
加えて、朝鮮義兵(民衆によって自発的に組織された軍隊)によって陸の
輸送路を寸断されたために、秀吉軍は飢餓の危機に陥ることとなり、こうした
情勢の打開をはかるべく、一〇月初旬、二万の大軍をもって全羅道侵入の要衝
・晋州邑城を攻撃した。
しかし、侵略戦の今後を占うこの攻防戦において、秀吉軍は官兵・義兵が一体
となった朝鮮軍の奮戦によって撃退され、結果、釜山から漢城への補給路の
確保に困難を来すことになる。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/kaidai42.html >>411
あのねぇ…
>>李舜臣率いる水軍に連戦連敗したことから、
連戦連敗とは対戦する相手がいて初めて連戦連敗というのだよ。
で、李舜臣の連戦連勝と何かというと単なる日本の輸送船の襲撃
に他ならない。李舜臣なるものが暴れだした頃には日本水軍なるものは
存在しなかった。
日本軍がプサンに上陸して、始めて秀吉が日本水軍の編成を命じたのが6月28日。
李舜臣の戦果が初期の3か月に集中しているのはそのためだ。
その後、李舜臣は8月29日の釜山浦海戦で大敗して、日本船の襲撃を停止したのを
最後に文禄元年中に目立った動きをしなくなっている。
>全羅道・慶尚右道への西進はかなわず、当初予定した全羅道沿岸を航海して
漢城・平壌付近で兵糧を荷揚げする計画は不可能となった。
あのねえ。そんな計画を示す文献は存在しない。ウリナラマンセー厨はありもしない
計画をねつ造してまで、勝ったことにしたいのかね。
そもそも、日本水軍が編成されたのは李舜臣が暴れている最中なのだから、補給船だけで北上
させるわけがないだろ。 >加えて、朝鮮義兵(民衆によって自発的に組織された軍隊)によって陸の
輸送路を寸断されたために、秀吉軍は飢餓の危機に陥ることとなり
全く違うな。日本軍が飢餓に苛まれたのは、急激に勢力圏を拡大したことにより
補給が追い付かなかったためだよ。
日本軍諸将は書状で「釜山海之御兵糧も、山坂に而御座候間、五日路六日路、
道中届かぬ可申候哉、川に付て船にてのほせ申儀も、今のつなきの御人数にては、
難届候由申候」と記している。これによれば、日本軍の進撃は容易であったが、陸の悪路に
相当な苦痛を日本軍諸将が感じていたことがわかる。
>結果、釜山から漢城への補給路の確保に困難を来すことになる。
おいおい、全羅道を残していただけでなぜ釜山から漢城からの輸送が困難になるの?
八道のうちの陸路で釜山と漢城の間に全羅道はない。
そもそも、全羅道から輸送ができないから飢えたのなら、釜山から北上した日本軍は
どうやって漢城までいったのだ?理由は簡単。全羅道を経由する必要性はなかった。
また、晋州城はその後、日本軍により徹底的に殲滅破壊されている。
日本軍が全羅道に拘ったのは、明軍と対峙するに際して後方での全羅道の存在が
邪魔だったため。全羅道と日本軍の補給はまったく関係ない。 てか、ウリナラマンセー厨は元寇と関係ない話で話題反らしに必死だな(笑) 本状は、このような情勢のもと、一一月一〇日付けで秀吉が中川秀政
に送った朱印状。秀吉は、秀政が陽智城に在番していることを了承した上で、
来春には渡海して「一揆原(官兵と義兵)を制圧するので、それまでの間城
を堅固に守備し、兵糧を備蓄し、城の普請を丈夫にせよと命じ、遠方へ
の軍事活動は一切無用としている。
その上で釜山浦から首都漢城もしくは小西行長の在城(平壌)迄の道筋
往還の確保を指示している。追而書でも兵糧の確保を繰り返し述べているこ
とが印象的である。
また、極寒の中の在陣をねぎらい、小袖二枚を送るとも書き添えている
。冒頭に見える熊谷(直盛)・垣見(一直)は、この時慰問使として
派遣された秀吉使番衆。
本状から当時秀政が陽智(京幾道)に在陣していたことがわかるが、
この日付けで秀吉は、在朝鮮の諸将にあてて一斉に本状同様のねぎらい
と指示を与える朱印状を送っていることが知られる。
そこでの指示内容は、在陣の場所や軍事面での役割によって内容に若干
の相違があるが、兵糧の確保と城の守備という点でほぼ共通し、
普州邑城攻防戦の敗北による打撃の大きさと、作戦の方向性が積極的な
侵攻から防衛戦に転換しつつあることが読みとれる。すなわち、
この時期は秀吉の侵略戦における大きなターニング・ポイントとなったのである。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/kaidai42.html まあ朝鮮はソウル当たりが近世当たりまでの稲作北限ってのが厳しいね >>416
>普州邑城攻防戦の敗北による打撃の大きさと、作戦の方向性が積極的な
侵攻から防衛戦に転換しつつあることが読みとれる
あほかと。この朱印状のどこにも「晋州城の攻城の失敗」のことなど触れられていない。
だいたい、この朱印状が出されていた頃には李如松率いる明軍が日本軍がいる朝鮮を
目指して進軍中なのだから、「作戦の方向性が積極的な侵攻から防衛戦に転換」したのは
晋州城は関係ない上に急激な勢力圏の拡大により、兵粮の確保に難が出始めているのだから
進軍を停止させ身固めの守備に入るのは当たり前の話。
それも1番隊から9番隊のうちの6番隊が行った小規模な晋州城攻めごときで、作戦を転換させる
わけがない。その後、明を牽制する意味で晋州城は日本軍に徹底的に殲滅・破壊されているしな。 さて、秀吉は戦局の推移を受けて文禄2年3月に朝鮮へ渡ることを計画する。
これに合わせて、前田利家も朝鮮に従軍することになった。
前田勢らの渡海は朝鮮半島南部、慶尚道の要衝・晋州(日本側では「もくそ」
と表記)城攻略のための一大攻勢計画に基づくものであった。
3月10日付けで秀吉が定めた攻撃計画書には「もくそ城とりまき候衆」として
「一、七千人 羽柴加賀宰相(前田利家)」と記され、利家が七千人を率いて
晋州城攻撃の一翼を担うことになっていた。
http://www.nihonkaigaku.org/library/group/i040401a-t8.html 今で言うと、朝青龍とか白鵬みたいのが一気に押し寄せてきたんだろ。
鎌倉武士ってどんな化け物だったんだよww 朝青龍とか白鵬みたいなのでも
素手じゃないから大した問題ではない >>419
そのコピペを根拠に文禄二年三月には秀吉自らが渡海する予定だった、
だから徳川、前田らを統括する総大将は秀吉の予定だったはずだと言いたいのだろうが、
残念ながらそれは無理な話だよ。何故なら秀吉の三月渡海計画があったこと自体は事実だが、
文禄二年初旬から中旬にこの計画は延期されているからだ。例えば、その後の文禄二年二月十五日付の
島津義久宛の石田正澄書状には「上様御渡海は四・五月のころたるべく候」とある。
理由は平壌の敗報がこの頃名護屋に届いたためとも、船が揃わなかったためとも言われているが、
こうして秀吉渡海が延期されたために、二月十八日付の朱印状によって
宇喜多秀家を総大将とした朝鮮侵攻軍の再編成が指示されているのだ。
つまり「3月10日付けで秀吉が定めた攻撃計画書」が出された時点で、既に秀吉の渡海は想定されていなかったのだ。 極端に世界最強か否かの議論になるけどさ、
現実的に見て、最低でも世界TOP5ぐらいに入るのかな?鎌倉時代とか戦国時代とかの日本 >>353
秀吉軍が戦ったのは明軍なんだが。明軍来る前に秀吉軍は李朝(半島)を数カ月で占領したし。
国王も逃亡し王子も清正に捕獲される惨状 >>379
>>380
>>391
秀吉軍が戦ったのは明軍なんだが。明軍来る前に秀吉軍は李朝(半島)を数カ月で占領したし。
国王も逃亡し王子も清正に捕獲される惨状
>>411
>>416
で?首都ソウルとピョンヤン占領されて王様も徒歩で逃亡して(奴隷階級朝鮮人に石投げられながらw)、王子も日本軍に捕らえられた状況で晋州城防衛自慢して何の意味が?(その晋州城も後に日本軍に占領されたが)
>>425
>ピョンヤンの敗報
だからそれは明軍と小西軍の戦いだろ。 >>426
鎌倉時代の日本との比較が成立するような国が4つもあるほど13世紀の世界は
レベル高くないぞ。
マムルーク朝とかでも動員力が鎌倉幕府の10分の1程度。
もし日本と隣接していたら瞬殺されるレベル。 中世から近世初期までの日本って、内戦ばっかりしてたのに敵を皆殺しにしない慣習で
しかも国民がクソ真面目でやたらと器用
戦のノウハウが溜まり易い条件が揃ってるな
ただ海戦とか超だだっ広い土地とか、環境だけはバリエーションが多いとは言い難いか イギリスみたいに新大陸を丸ごと領土に出来てたら今頃ロシアぐらいの
軍事超大国になってたろうな(イギリスも住民が狡猾で頭良いのに資源と領土が乏しく新大陸ゲットしてからチート化)
日本もせめてオーストラリアとNZを日本文化圏に出来たてたらな 広大な領土をゲットできたとしても
維持管理をするのは並ではないのでは
モンゴル帝国みたいに瓦解する モンゴル軍ってぶっちゃけ羊飼いの集団だからな。
鎌倉武士みたいな生粋の戦士階級とまともに戦争したら当然一溜りもないだろ。 ナポレオン戦争で活躍したジェミニも上陸戦は船酔いなどもあり
非常に不利だっていってるのに・・・
鎌倉武士の夢を抱き続けるな(笑) >>436
日本とモンゴル帝国については上陸戦とか関係ない。
日本の方は海を越えてモンゴル帝国の重要都市慶元を焼き落としてるからな。
船酔いとかで不利な状況でもモンゴル軍なんて鎧触一蹴。 >>437
それってこれのことだろ
>大徳11年(1307)、実際には至大2年(1309)のことであるが、寧波にて日本
>の商人が暴動を起して放火し、寧波の城中がすべて焼失する事件が起こって
>おり、これにより日本僧の摘発が天童寺にも及び、龍山徳見(1284〜1357)
>を含めた十数人が逮捕されて大都に送られている(『東海一オウ集』巻5、真源大照禅師行状)。
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page003f.html
交易に来た日本の武装商人(倭寇)が商いに不満をもって慶元府内で暴れまわったってことだろ。
俺が聞いてるのは、
>倭寇は敵の待ち構えているところに襲撃して慶元府焼き落としたんだよ。
ていうお前の主張の裏付けとなるソースなんだけど!?
だいたいお前が出してきた「程雪楼文集」でも倭人入市慶元って日本人が慶元府内に入ったて
記されてるじゃん(笑) >>438
「程雪楼文集」は1290年から3年間慶元で知事だった燕公楠の墓碑だよ。
つまり、燕公楠の時代には日本人が慶元府内に入って貿易していたがその後は
日本人を入城禁止にして軍事力で対抗しようとしたため、かえって日本からの
報復攻撃を招いたと記されてるわけ。
つまり、弱いモンゴル帝国が身の程知らずに軍事力で日本に対抗しようとして
粉砕されちゃったってこと。 >大徳11年(1307)、実際には至大2年(1309)のことであるが、寧波にて日本
>の商人が暴動を起して放火し、寧波の城中がすべて焼失する事件が起こって
>おり、これにより日本僧の摘発が天童寺にも及び、龍山徳見(1284〜1357)
>を含めた十数人が逮捕されて大都に送られている(『東海一オウ集』巻5、真源大照禅師行状)。
http://www.kagemarukun.fromc.jp/page003f.html 称名寺造営料唐船[編集]
嘉元4年(1306年)、称名寺(現横浜市金沢区)造営料獲得のため派遣。
鎌倉幕府の重臣であった金沢流北条氏が主体と見られ、称名寺の僧である
俊如房快誉が乗船したことが金沢文庫の古文書に見られる[3]。
なお、この時期に建仁寺の禅僧雪村友梅が入元しているが、この唐船と
関連していた可能性もある。貿易船は翌徳治2年(1307年、1309年説もあり[4])
にも再航した模様で、明州の市舶司と日本商人との間のトラブルにより街が放火
・掠奪される事件があり、間諜(スパイ)の容疑で雪村友梅が捕えられている[4]。
[4])1307年とするのは入元僧龍山徳見の伝記史料によるものだが、他の史料は
すべて1309年(元側では至大2年)とするので、龍山の伝記の誤りと思われる。
元の役人の処遇に怒った日本商人が放火し、明州城内の4分の1を焼失した。
被害としては後の寧波の乱よりも大きい。そのためこれを「至大倭寇」と呼ぶ論者もいる。
榎本2010、175-177頁。 >>440 >>441
日本の研究者が史料無視して適当なストーリーを捏造するのは元寇で実証済み。
そんな史料的根拠のない戯言いくら貼っても全く無意味だよ。 >>442
>日本の研究者が史料無視して適当なストーリーを捏造するのは元寇で実証済み。
>そんな史料的根拠のない戯言いくら貼っても全く無意味だよ。
テメエの妄想しかソースないくせに大きく出たな(げらげらげら) まあ実際19世紀の一時期と1945ー55除いて、この1500年程の間
だいたい日本は世界で2〜5番目程度の国力をもつ大国だったからな。
ちなみにスペインやオランダがが覇権国家とか言う西洋中心の歴史観があるけど
この1500年程て混乱期と産業革命後除いてはチャンコロさん所が世界のGDPの40〜60%叩き出してたわけで
本当に力関係が一変するのは18世紀終盤以降だよ。
まあここ数百年はアメリカの台頭以外大体各国の立ち位地決まってるよ。 鎌倉時代の日本は経済力も凄かった。
一回の交易で南宋の年間鋳造量に匹敵する銅銭を持ち帰ったこともあるし。
モンゴル帝国が是が非でも日本を征服したいと考えたのも当然。 鎌倉時代の日本の人口もあきらかに過小評価されてる
米作の日本が麦作のフランスの半分以下とかあり得ない ジュラ紀最強ってどんなんよ
大型肉食恐竜が一番多いとこの勝ちか? 文明的だから強いってわけでもあるまい
土器やその装飾じゃなくて武装と戦闘規模が最先端であることを示す出土品が出ないと 13世紀なら主要な文明のほとんどがモンゴル軍と戦ってるから比較検討すれば
どこが最強だったのか明確にわかる。
元寇のモンゴル軍に対する圧勝ぶりを見れば鎌倉日本って当時の世界で完全に
1ランク上の存在だった。 地理的要因は一切考慮する必要が無いことは定説だからね 戦闘力比較では文永の役のが参考になるな
弘安の役は数が多いけど江南軍10万とは海戦しただけだから >>458
バトゥが東欧に攻め込んだのは遠征出発から4年後。
フレグがバグダードを包囲したのは遠征出発から5年後。
一方の元寇では遠征出発から2週間ちょっとで博多湾に到着してる。
比較すれば元寇が如何に近距離でモンゴル軍にとって地理的要因に恵まれた遠征だったか解るな。 白人は元々潜在能力は全人種一だったが、不毛なヨーロッパな大地とカルトキリスト教のせいで能力が出せずに居た。
新大陸でアジア大陸に負けない無尽蔵の資源を手に入れて一気に追い越した 白人の造形かっこいいけど白さはかっこ悪いというか気持ち悪くね?
日焼けで調整できるところではあるけど >>461
違うだろ。全人種一能力が高いのは東アジアのモンゴロイド
白人は優秀だが能力はアジア人以下、白人を凄くさせたのは有史以来ローマ、ゲルマン、フン、イスラーム、ヴァイキング、モンゴル、など
ひたすら文明の衝突を繰り返し続け血みどろの殺し合いに明け暮れてたから。そりゃ外交力も研ぎ澄まされ技術も発達するわ
http://www.youtube.com/watch?v=bYy2W_5F27M
逆に全人種一能力があったのに東アジア内のぬるま湯だけで篭ってたせいで能力が劣化したのが東アジア人(日中韓) >>461
白人=コーカソイドと考えるなら、有史以来ずっと白人が一番じゃね どうだろう、四大文明のうち、メソポタミア、エジプトがコーカソイド(多分)文明で
インダス、黄河文明がモンゴロイド文明だから数の上では互角っぽいけど。
近代西洋が優勢になるまでは大した差は感じられないけどな。
まあ最近は四大文明論自体が古いのかもしれないけど。 記録が残る時代に入ってからは、常に人口でモンゴロイドが他を圧倒してるんじゃない? 【女性専用の寝台車両がある寝台特急あけぼのが廃止になるので大歓迎】
JR東日本が行った男性客に対する悪質な乗車拒否作戦
JR東日本の本社職員・支社職員・駅員が行った
寝台特急あけぼののレディースゴロンとシートに乗車者する男性客への乗車拒否バリケードです。
男性を侮辱した人権侵害の一連の模様をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=taqjOajeu5E&list=PLZFU6ES8QfYprxusuhSXsAQcvu5y6y40q >>471
ペルシア戦争時のペルシア軍の総兵力は陸海合わせて300万だが 中東以西の農業生産力で、東/南アジア以上の人口を食わせられるのか?
大河流域以外で、そこまで土地と水に恵まれた地域は少ないだろ 仮に日本が最強だったとして何が強かった。
・世界最強ウェポン日本刀
・180cmの日本兵
・無敵の騎馬軍 武士という職業戦士階級が存在したのが大きいな。
マムルークや騎士も職業戦士階級だけど、マムルークの動員数はせいぜい
武士の10分の1、騎士に至っては更にその10分の1だから。 1/10とか1/100とか日本側の兵力を吾妻鏡で計算したとしてもありえないんですが
つか兵力盛りすぎで有名な吾妻鏡の記述使うのもありえなすぎるんですけどね 宗教から歴史、政治経済、国際問題まであらゆる情報の宝庫!
本日の講義は『世界中から恐れられている日本』です。
今こそ日本人は真実の日本を知るべき!!
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/ 日本は質の高い兵を数多く動員できたから凄いんだよ。
鎌倉武士みたいな戦争のプロ10万騎とモンゴル軍みたいな羊飼い10万騎では
数は同じ10万でも戦力としては雲泥の差。 25万で100万の元軍打ち破るんだから大したもんだよ よく知らんが最近は元寇の両軍兵力が凄い数になってるんだな 「ナイナイw、良くある誇張だろjk」
「大変です、船の残骸を調べたら記述通りかも知れません」
「ファッ!?」 記述通り・・・?
100万なんて書いてある記述なんてあるの? >>480
オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズの『聖騎士団 その光と影』によれば、
チュートン騎士団は「1270年代後期には2000人の武装修道士を戦場に送れるようになった」
佐藤次高『マムルーク 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』によれば、
ナースィル時代のエジプトの正規軍は「スルタンのマムルークが2000、アミールと
そのマムルークが1万3000、ハルカ騎士が9000で、合計2万4000騎であった」
マムルーク朝の動員力は鎌倉幕府の1/10、騎士は1/100であってるじゃん 質問です。その当時の「騎士」ってドイツ騎士団しか居なかったんですか? >>491
バラバラに戦ってた騎士の総数に何の意味があるの? >>493
Ayalon.D. "Preliminary Remarks on the Mamlük Military Institution in Islam" 1975 Ayalon.D.の大元の情報源は何?当時の人の証言じゃないの。
証言でいいなら、カール大帝140万の兵を率いるとか。 >バラバラに戦ってた騎士の総数に何の意味があるの?
言ってる意味が分からない。
それなら「騎士は〜」と書くことに何の意味があるんですかね?
「ドイツ騎士団は1/100」なら正確かもしれませんが
ドイツ騎士団とだけ比較することに何か意味があるとも思えませんが。 >>496
最初から問題にしてるのは総数じゃなくて動員数だよ。
実際に動かせる兵数じゃないと意味ないし。 では当時の「騎士」の中で実際に動員できるのはドイツ騎士団だけだったと? >>498
当時のヨーロッパにドイツ騎士団より動員が多い騎士団なんてなかっただろ。
動員2000人でポーランドやリトアニアみたいな一国と互角に戦える軍事力だったわけで。 動員力については日本だって通常ではそれほど
動員できないだろう。
和田合戦にしろ宝治合戦にしり両軍の兵力合わせても
1〜2万程度だろう。
実際の武士(所謂一族郎党)の動員力なんてその程度だ。
承久の乱の幕府軍19万が額面どおりだとしても
その兵力のほとんどは農民を強制徴兵したものだ。
同じようにヨーロッパ各国でも大軍勢による侵略を受けたら
必要に駆られて農民を強制徴兵するだろうから結局徴兵人口の
多少が鍵になるだろう。 数字は適当だが、動員数が増えると、動員できる期間がどんどん減る
動員先で、購入・掠奪も限界がある。兵数が一定なら、不満は残るが、恐らく維持できる。
10万人動員、動員期間数ヶ月
2万人動員、動員期間1年
補給限界の壁以下の動員数、動員期間半永久 >>499
自分の知ってる例だとノルマン・コンクエスト後のイングランドで
王から封土を与えられて騎兵として従軍可能な騎士がすでに4千〜6千。
フランスとかだともっと多いんじゃないですかね。
ところでドイツ騎士団の中核となるいわゆる修道騎士は少数で
兵力の大半はサージェントや歩兵だったのは知ってますよね? ウィキぺで十字軍最後の都市アッカー陥落時のマムルーク朝軍の兵力を見たら
騎兵6万、歩兵16万とか書いてあったぞw David Nicolle "The Mamluks 1250-1517"によると(p16)
1315年のイクター検地の記録では、エジプト本土に24000のマムルーク(そのうち12400が諸武将の配下)、
その他の地方に13000のマムルークと9000のハルカ騎兵がいたという。
補助兵としてはアラブやトルクメンの遊牧部族兵や、33000の登録された村から2名ずつの騎兵を召集できたようだ。
もし本当に公文書として残っているのなら少なくとも年代記の戦闘の記述よりは信頼性があるかもしれない。 392風に言えば、33000*2は、バラバラに戦ってた騎士の総数で意味あるの? 検地記録のくせに全部数字が丸めてあるのがおかしすぎる。 イクターを貰った百騎長とかの数から逆算したんでない? 1315年ならナースィル検地。
ナースィル検地は、税制台帳、土地調査記録といった土地行政に
関わる文書史料がほとんどない。
ナースィル検地で、最高位は百騎長。
マムルーク朝で、
百騎長(官房長、侍従長、厩舎長)
四十騎長(官房次長)
とかで、本当に百騎長が100率いたのかわからないけど、40騎長がいるから
40より多いんだろう。
百騎長がどのくらいの家臣かなんとなく感覚はつかめるような。
千騎長とか四百騎長とかいない。
そこそこ、ばらばらだけどw >>509
マクリーズィーの史書に間接的に載ってるんじゃなかったっけ?ナースィル検地 >>468
世界一周
エベレスト制覇
南北極点到達
宇宙進出
マッハ速度突破
月面着陸
全て最初に達成したのは白人 紀元前から半島には倭人が居住していました。
その後560年頃まで任那や狗邪等の倭人国家が存在しています。
【実際は多民族な半島】
当時の多民族地域である半島
(当時の半島の人口は日本の数分の一で特に人口密度が低い地域。そこに中国系の棄民(渡来)20万や、倭人国家、現在の満州族に近い高句麗・百済人の渡来、更に北方系の少数民族、中国南方からの渡来と2桁以上の民族が渡来する完全な混血地域)
元々人口密度が低かった為、先住の倭人や北方系・中国系の少ない地域に各地からの難民等が流入・渡来しました。
【大規模な混血と他民族支配】
これらの民族に更に時代が下り、李氏朝鮮時代に女真族(モンゴル系)が支配するにいたり大規模な混血が発生します。
現在の朝鮮人の顔(未整形)がモンゴル人にそっくりなのはこの頃のハイブリッドが原因です。(その後、元にも支配されます)
2世紀遅れの純血思想・民族主義に酔っている朝鮮民族(韓国人)は
言わば正真正銘・混血民族でしかも近年においてモンゴル系による塗り替えを経験しています。
【古代に存在しない朝鮮人】
朝鮮民族の成立はおよそ1000年前と新しく、彼らが主張する古朝鮮民族というのは、
倭人・中国人・満州系・その他多民族を指す言葉です。古代に朝鮮民族が存在したのではなく、
現在も存在する他民族が半島にごった返していた状況に民族主義を無理やり当て嵌めたのが古朝鮮民族という捏造の人種です。
在日朝鮮民族が好む「古代半島の朝鮮系が・・・」と言うセリフは、過去に朝鮮民族が存在していないため〜系とぼかしを入れた表現です。
実際には朝鮮系すら存在せず、他民族がそれぞれの民族史を作り上げていただけです。
ちなみに、韓民族という人種は現在の韓国人とは全く別人種です。過去中国中部・北部や半島に存在しましたが、この民族を近年の朝鮮民族が偽称して盗用しているだけです。
ですので、本来の韓民族≠現在の韓国人、となります。 武装山岳民族なんだから、バスク人とかアフガン人みたいなもんだろ
そりゃ強いわ 兵力3万人以上のモンゴル軍が征服どころか首都にたどり着くことさえできない
なんて国が当時の世界にどれだけあったかね? 元寇で鎌倉武士に全く歯が立たなかったモンゴル軍が陸続きだからといって
急に強くなるとは考えられない。 逆転の発想をしてみたら?
モンゴル帝国ってのは戦闘によって領土を拡大したのでは
ないのだ、ってね。
俺はそう思ってるよ。 逆の発想をしてみたら?
日本は、地理的要因で撃退したのであって戦闘じゃないと。 >>519
最強はモンゴルで
そのモンゴルを破ったのが日本
よって日本が世界最強という
三段論法にならないから不可。 >>520
普通に戦闘やって勝ってるじゃん
それも兵力最大規模のモンゴル軍に モンゴル帝国は意外とあっちこっちで負けてるよ。
例外はバトゥくらいじゃないか?
敗北したごとに世界各地に最強の戦闘民族が生まれるってのは
すごいねえ。
日本人の歴史家の知性ってのはこんなものなんかねえ。 遠征軍の本隊が帰還した後の留守番部隊に勝ったとか、そんなのばっかね。
日本についてはモンゴル帝国自身が別格って認識していた。
「唯一征服できなかった日本」ってのが元朝の日本に関する文献の決まり文句。 決まり文句で実態と乖離しているという可能性が高いと言うことですね >>525
実態と乖離してないだろ。
実際にモンゴル帝国が渾身の力を込めて送った遠征軍が鎌倉武士にまったく
歯が立たないまま壊滅したわけで。
日本はモンゴル帝国が世界で初めて遭遇した自分より遥かに強大な軍事国家。 日本って本当に強いの?
よくわからないよ。コピペしてるだけだもの。 >>514
>兵力3万人以上のモンゴル軍が征服どころか首都にたどり着くことさえできない
>なんて国が当時の世界にどれだけあったかね?
マムルーク朝 中国はいんちき民族だから、資料は全てでっち上げ信用しちゃいけない。
現に南京大虐殺など全てでたらめ。 島津貞久
1269年 相州鎌倉で生まれる
1274年 文永の役
1275年 九州防備のため、祖父久経(鎌倉出身)、父忠宗(鎌倉出身)らとともに薩摩へ下向
1281年 弘安の役、久経ら参戦
1333年 鎮西探題を襲撃、以降は主に足利方として活動
1363年 死去 アメリカ海兵隊では、敵前上陸には守備側の3倍の兵力が必要としています。
元寇において元軍と日本軍の戦力は同程度だったので日本側の水際防衛が
成功したんだよ。 >>533
水際防衛じゃなかったからな。
博多湾から上陸し終わって完璧に布陣した状態で正面から鎌倉武士と戦い
フルボッコにされた。
モンゴル軍が鎌倉武士より数段レベルの劣る軍だったのは明白。 >モンゴル帝国が渾身の力を込めて送った遠征軍
これって西方面じゃないの
日本遠征軍は数だけは多いけどさ >>526
こういうこといってる人って、普段の仕事ぶりがどうなってるのか興味がある
日本でしか売ってないのに、「うちの商品は世界一」というコピーを作ったり
海外輸入製品が日本で売れず、日本製品が日本市場を守ったから、
「日本製品は世界一」とか言ってたりするんだろうか
海外に打って出るような製品作ってる企業ではありえないが。。。
まあ、世界最強かどうかはともかく、幕府軍が弱かったとは思っていないが。 最近の考古学で、掘が3重で最大幅が9.5mあったことが判明。
とにかく完璧だったらしい。 >>538
オゴデイ時代に行われたバトゥの東欧遠征やモンケ時代に行われたフレグの中東遠征とか
同時に行われた南宋遠征と対になった作戦。
で、クビライ時代に南宋遠征と対で行われた作戦は文永の役。
つまり、文永の役はバトゥの東欧遠征やフレグの中東遠征と同等の作戦ってと。 元本国はおろか属国の高麗にも報復できなかった鎌倉幕府(笑) >>542
それって要するに大ハーンの活動領域が中国周辺になっちゃったってことだよな >>542
日本遠征と同時期にカイドゥの反乱で中央アジアに4男派遣してるんで対になんてなってないよ 538は日本方面は数だけ多いと言ってるし質の話では?
確か征西ってモンゴルのある部族が丸々投入されて
付き従う連中を入れると30万人に上ったって聞いた モンゴルの部族ったって、下手すると千戸ぐらいだったりするぞ? >>546
ノモガンは1271年に中央アジアに駐屯しただけ。
文永の役は南宋侵攻と対になった軍事作戦だし、クビライが同時に自分の娘を
高麗王に嫁がせてることから重要度は日本遠征>南宋遠征だな。 >>1
なぜ最強のはずの日本が、ちっぽけな島国から版図を拡大できなかったのか?
胸に手をあてて考えてみるがよい。 >>553
日本が侵略国家じゃなかったからだろ。
明の洪武帝にも「世界には沢山の国があり、天下は天下の天下であって
誰か一人のものではない」って説教たれる書簡送り付けたりしてるんだし。 元寇は一定量戦闘したとされる。
神風はウソ。
でも陸戦宇宙最強のモンゴル軍でも海は無理。
上陸部隊と堂々戦ったのはエラい。
海を渡ってヘロヘロの敵相手には最強の日本。これは間違いない。 神風吹かなくても昔の船じゃ対馬海峡渡るだけで命からがらだっただろうしね 元寇は蒙古人と高麗人。高麗人はツングース系辺境人。
騎馬民族だっつってんのに舟でイクサとか強いわけないだろ。
騎馬民の優位は、速攻騎射と遊牧による補給の最強。
三日離れたところまでわざと逃げて誘い出し、囲んで倒す。
負傷した相手は食料も尽き帰郷できず全滅する。
ロシアの焦土作戦と同じ。
これらが全く使えない舟の蒙古は蒙古じゃない。
だから最強の蒙古に勝ったわけじゃない。 船とか海とか全く無関係に蒙古は弱い。
『いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。
さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。
(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、
城郭を燔ゼツして居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。』
(論倭)
『結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の
財宝を奪い取り、 官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、
浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく荒れにけり。』
(太平記)
大陸側で海を渡ってきた日本人と戦っても歯が立たず。
最強蒙古より強い日本人こそ世界最強だな。 強いか弱いかに舟とかは大いに関係あるだろう。
日本海海戦でなんでロシアに勝ったと思ってんだ。
お前の格闘能力か?そんなもん関係ないぞ。
艦隊運動と砲術能力それに尽きる。
そして日本人全員が貧困しながら備えた、
弱小国には突出した超一流の軍艦。
お前みたな妄想一途バカがその後の日本を弱くしてしまったんだ。
いっそ日本から出て行ってくれるか。 自前で作れるようになってからは、
もっと強くなれる予定だったのに、
勝ちに酔う一部の馬鹿がこのように妄想を垂れ流して、
日本の精神力を弱くしてまったのだ。
軍国主義がなぜいけないのかわかったぞ。
軍国主義は国を弱くするからだ。 >>561
だから船とか全く無関係に中国大陸で戦っても蒙古は日本人に歯が立たないって
当時の人が書いてるんだよ。
ここは学術板なんだからお前みたいに史料読まずに妄想垂れ流すの輩は向いてない。 >>564
当時の人なんていう資料は古けりゃなんでもいいってもんじゃない。
マニア知識はどうでもいいし。学問がやりたきゃ図書館に行け。
騎馬民族の武器は馬による戦闘だから陸戦だ。
そんなこともわからんで何を語って決めるのか。 知識はそれ自体が目的はなく知恵を得る手段。
知識のみで結実することが一番卑しまれる事。
無駄な知識は捨てたまえ。 >>569
馬は普通に船で大量輸送していたよ
当時の馬は脆弱な現代のサラブレッドとは違うからね >>570
だから海戦。
舟は苦手だと何遍言ったら。
草原と同様に家畜の移動が出来るわけねえだろ。
戦争を眼前の拳闘ファイトか何かだと思ってる。相撲じゃあるまいし。 人馬一対に対し家畜数十頭。
これが無けりゃ飢えて死ぬわけ。
は?体ひとつで生きて行けると思ってんの?
散歩で遭難するタイプだな。 >>571
撤退は嘘
日本側は兵船300艘で逃げるモンゴル軍を追撃してる
『歴代皇紀』
「文永十一年十月五日、蒙古賊船着岸對馬壹岐攻二島土民、廿日、大宰府以三百餘艘之兵船發向、
賊船二百餘艘漂倒、神威力云々、」 >>572
文永の役は海戦じゃないし
船から降りて馬に乗り布陣を終えた準備万全の状態で鎌倉武士と普通に合戦してボロ負けした 当時の日本人ってモンゴルとかと違って
名を上げるためには死を厭わないのが美徳とか
いうような風潮があったから
案外マジで強かったような気がする。 元の船については、以前NHKの歴史番組で朝鮮に作らせてたと言っていた。
その際、普通は3枚板で船底なんかを強くするが、1枚板にしてたりして
ちょっとした風雨でバラバラになるとても弱い舟ができたとのこと。
それをNHKが呼んだ歴史家は「元に征服された朝鮮民族の抵抗の姿勢」と結んでいて
当時は、にゃるほどと思ったものだが・・・。
今ならわかるw
奴らは単に手を抜いたのだ! >>574
歴代皇紀って元寇から数十年後に書かれてるやん
それ以外の史料はないの? >>578
文永の役について、敵側史料の高麗史には撤退の夜に嵐で難破したと書かれてる。
日本軍が大宰府まで撤退の根拠となってる八幡愚童訓には嵐についての記述がない。
一方の歴代皇紀には日本軍が追撃したら元艦隊が難破していたと書かれてる。
八幡愚童訓より歴代皇紀の記述の方が信用できるのは明白。 >>1数学と科学をまとった欧州人がくれば日本の武士なんて秒殺だわね そもそもこの時代の欧州は迷信によって科学が後退してた時期 >>575
海を渡れば無食料だから負けてなくても帰るのが当たり前。
食料とか考えないとかアホかと。 12世紀までの停滞と異なり、そもそもこの時代、欧州は躍進していた時代。
迷信が減って科学や技術が躍進していた。 躍進はしてないけどな。
趣味の時代で芸術が発達した。
思想にこだわり異端排除が加速した。
科学や軍事では、まだオスマンの足下。 兵士をロボットか何かだと考えてる
絶食での長期戦を普通と思う奴のアホさ加減。
それともテレビのアイドルばっか見てるから、
人は食事もウンコもしないのだと思ってるのだろうか。
1ヶ月の遠征をするにはその分の食料が全ている。
米で一人15kg。2ヶ月なら30kg。しかも戦争という体力消耗増大を含めば倍は要る。
だから戦国での秀吉中国遠征なんかも、実は勝たなきゃ帰れないサバイバル旅行。
食料とともに移動できるだけでも最強の強み。それが遊牧民。
これが兵站、つまり補給。 >>588
元艦隊は3ヶ月分の食糧6600トンを積んでたよ。
鎌倉武士に負けまくっても食糧に余裕があるからって九州近海をウロウロしてたら
台風に遭遇しちゃった。 >>591
台風に遭うまで日本軍から逃げ回ってただけなのに >>593
余裕があったのは食糧だけだよ
戦局は元軍の連戦連敗で指揮官たちは顔を合わせるたびに撤退の議論してた状態 ユークリッド原論を読んでた英国人が来たら両方とも指一本で負けるっつーのw 英国人なんてモンゴル帝国の使いっ走りやらされてたぞ 日本にきた主力部隊がモンゴル騎馬軍団ならもっと楽勝だった。
中国朝鮮の歩兵を大量に連れてきたから苦戦した。 >>553
実力自体は間違いなく世界トップクラスだけど、島国特有の視野(日本人自体は気づいてない)の狭さからじゃないかな >>600
特に弘安の役みたいな戦いになったら軽装弓騎兵はクソの役にも立たない。
歩兵のほうが使える。
文永の役では多少は機動余地があったけど、基本的に遊牧民の軽装弓騎兵は
巨大平野で役に立つもんだから機動力を束縛する地形の多い日本には不向きなんだよ。 鎌倉武士は世界最強だからな。
例え二次大戦の米軍が攻めてきても勝っただろう。 多少なりとも学問的センスを期待される板で
「大和魂」・・・この言葉を聞くだけで恥ずかしくなる。
ついでに書かれた>>605の釣りも乙なものだわ。 >>606
本居宣長も大和魂について考察してるが
宣長は学者ではないのか? 元には勝ったが、アメリカには負けた日本
元とアメリカ両方を撃退したベトナム
結論:歴史上の最強国はベトナム…でいいのか ベトナムは日本占領したことないけど日本はベトナム占領したことあるから
やっぱり日本最強じゃね >>610
日本はベトナムを占領したことはない
ヴィシー・フランス植民地時代のベトナムにフランスの許可を得て進駐しただけである
そして大戦末期にフランスをやっつけてベトナム帝国建立の手助けをしたのである 日本に独立の手助けしてもらってる時点でベトナムは日本より格下の国だわな 独立の手助け?
日本はベトナム戦争で米軍の手助けしてた側なんだが
それはいったいどこの異次元世界の話だ? >>613
日本が手助けして建立したベトナム帝国は日本軍が降伏後に即座に倒されてベトナム民主共和国になったのだから、
ベトナム帝国は色々と微妙なんだよ。 ベトナムで米軍が何とかしなかったら東南アジアは共産国だらけになってるわ 日本が元軍を撃退できたのは、いってみれば防衛戦争だったから。
逆に日本は海を渡って攻めて行くことも出来ないんだけど。 >>617
攻者三倍則というのがあるが、
渡洋しての侵攻なら三倍でも足りない。
ノルマンコンクェストなんてのは当時のイングランドが群雄割拠でまともに統治などされてない状態だったからできたこと。 >>617
いや、日本は海を渡って元を攻めまくってる。
『いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。
さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。
(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、
城郭を燔ゼツして居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。』
(論倭)
『結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の
財宝を奪い取り、 官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、
浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく荒れにけり。』
(太平記) >>618
さらっと嘘情報混ぜるな
ノルマンコンクエストの成功理由は群雄割拠ではないからだぞ
きちっと王を中心にした国でその王位継承者を合戦で軒並み討ち取ったから
そのまま勢いに任せてイングランド諸侯を従えちゃっただけ つうかノルマンコンクエストのすぐ後にフランスの地方政権でしかない
プランタジネットにロンドン制圧されてるじゃん >>619
前期倭寇って朝鮮の白丁とか賤民が日本人になりすましてただけだろ 前期倭寇は南朝の残党だよ。
九州で軍事的に追い詰められ食料の国内調達が困難になると、代わりに弱い半島襲撃して
調達するようになった。
李成桂が撃退した頃は存在自体もう風前の灯。 高麗に「倭寇」が頻繁に侵入するようになったのは1350年からだよ
南朝征西府の衰退どころか全盛期もそれより後 え?特に重要でもない辺鄙な国だから何度も攻撃するのも面倒になって放置されただけじゃん
他に西夏とか征服すべき先進国がいっぱいあったからでそ
頭、だいじょうぶ?
日本だけは元に勝てたとか
あまり声をかけられれないブスが高嶺の花扱いされたと勘違いしてるのと同じだよ >日本だけは元に勝てた
ジャワは? 越南は? エジプトは? クビライ自身が「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ」と言ってるんだから
日本の重要度は南宋と同格だろ。
「日本だけは征服できなかった」というのも元史とか元側文献の決まり文句。
結局朝貢を受け入れたジャワやベトナムと最後まで完全独立を守り抜いた日本では
明らかに違うからな。 日本は勝てたと言っても地理的要因と自然現象の力を借りて追い返しただけで陸地を一寸たりとも切り取ったわけではないんだがな。 >>631
エジプトは日本みたいにガチのモンゴル遠征軍に実力勝ちしたわけじゃないからな。
中東へ派遣されたモンゴル軍はモンケの死で崩壊し、兵力の大部分は帰還。
一部の残りカスが中東でフレグ・ウルスを形成した。
エジプトが戦ったのは遠征軍の残りカス。 ヒマラヤに切れ目というか南北直通できるルートがあれば歴史はどう動いてたかな
モンゴルに限らず そんなルートが存在する架空世界のインドは
現実のインドとは歴史も文化も社会の様相も言語も民族も全く違うだろう。
そんな架空世界のことを考えても仕方が無い。
「もし日本が大陸と地続きだったら」という架空世界を考えてみればいい。
大陸と地続きの日本は現実の日本とは歴史も文化も社会の様相も言語も民族も全く違うだろう.。 もし弘安の役でモンゴルの大艦隊が壊滅しなかったら元軍が海からインドへ
攻め込んでただろうな。
インドは日本のお陰で命拾いしたな。 馬から下りた騎兵って歩兵以下と証明する戦争でしたね。 >>631
>エジプトも朝貢したとは知らなかった
あそこはしてない >>642
モンゴル騎兵なんて雑魚だよ。
文永の役でモンゴル騎兵は鎌倉武士に惨敗したからな。 元寇はモンゴル人にとっては単なる口減らしだろ。
日本は使えない朝鮮人と喧嘩して引き分けただけ。
俺史観だけど。 世界中で勝ちまくっていたモンゴル軍は元寇を境にピタリと勝てなくなる。
モンゴル軍最良の部隊は日本遠征に投入された挙句、武士の掃討戦で全滅しちまったからね。 鎌倉時代
日本 VS モンゴル
○台風 VS ●モンゴル艦隊
○海 VS ●モンゴル騎馬
●日本兵 VS ○モンゴル歩兵
2勝1敗で勝利をものにしました
現代
モンゴル(白鵬、日馬富士、鶴竜、照の富士、旭天鵬)・・・・優勝43回
日本(稀勢の里、豪栄道、琴奨菊、栃煌山、妙義龍)・・・・優勝0回 台風は勝敗に関係ないよ
○日本水軍 VS ●モンゴル艦隊
○鎌倉武士 VS ●モンゴル騎馬
○鎌倉武士 VS ●モンゴル歩兵
日本軍は全ての面でモンゴル軍より優れていたから圧倒的勝利を収めた。 元寇で日本武士の強靭さにビビりまくった歴代シナ王朝は日本への侵攻はしないのが不文律となった
あの国は史書による先例主義だからな
足利義満の死後即座に朝貢取り止めた日本に激怒した永楽帝もいざ侵攻するとなると二の足踏んだのは有名な話だろ >>650
そりゃあ蒙古はアウェイだからねえ
日本はアウェイにすら行けないわけでして >>650
ちなみにあんたの論理なら、
戦国日本vsチョン
ということですがw >>653
日本は1309年にアウェイの慶元を焼き払ってるよ。 戦国日本はチョンで大敗してるんだったな。
それはアウェーゆえ補給路が伸びたことが最大の原因だが、
いくら戦に勝てても支配するのはまた別ということが一番大きい。
モンゴルが鎌倉日本に負けたというのは、戦には勝てても日本を統治することは無理ってことだ。
台風がなくても結局退却するしかないだろうが、それは日本軍が戦いに勝てるからではない。 >>658
戦国日本みたいに占領した朝鮮から年貢取り立てたりしてるんなら統治に失敗したって
話もわかるけど元寇は違うじゃん。
台風や統治云々の話の前に、モンゴル軍は戦いで鎌倉武士に勝ててないんだからさ。
モンゴル軍が鎌倉武士より弱いって根本的な問題がある訳で。 お前さんの理屈だと平壌で日本は大敗したからチョン以下ってことになるんだけど? >>660-661
スレ主によると前期倭寇も日本人らしいから
「高麗に数十年間襲撃を繰り返したあげく撃退される」
も付け足しとけば
李氏朝鮮の高官が「実際倭寇が日本人だった例は少ない」
って断言してるんだけどねえ 蒙古vs日本
白鵬 稀勢
日馬 豪栄
鶴竜 琴菊
照富 栃煌
モンゴルの圧勝ですけど 蒙古人400万人
日本人1億2000万人
蒙古人一人で日本人30人を相手にすることになる。
勝ち目などあるわけない。 【韓国】日本で長男が大事にされるのはなぜ?韓国ネット「武士道だね」「韓国で長男を大事にするのも、日本由来では?」[06/13]©2ch.net
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1434363866/
【話題】日本で長男が大事にされるのはなぜ?=韓国ネット「武士道だね」「韓国で長男を大事にするのも、日本由来では?」[6/15] [転載禁止]©2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1434365937/ >>665
鎌倉日本がモンゴルに攻めて行く前に全員半島の荒野で餓死しますけどいいでしょうか? >>660
秀吉の時に日本が平壌で戦ったのは明軍じゃん・・・ 国家犯罪確定!!豊中市の事件の容疑者は集団ストーカー犯罪・テクノロジー犯罪被害者だった!!
テクノロジー犯罪で音声送信されるとほんとに隣部屋から悪口をいわれている風に聞こえます。
私も数年間騙されました。犯人は警察です。警察による集団ストーカーやテクノロジー犯罪によってターゲ
ットをキレさせ(統合失調症に仕立て上げ)、本来起こらなかった事件を意図的に誘発させているのです。
周南市事件、淡路島事件、中央大教授刺殺事件、秋葉原事件も同様です。
集団ストーカーとは警察による監視+挑発+家宅侵入・器物破損・窃盗等を繰り返すことで、一度ターゲット
にしたら止めることはありません。警察は金儲けのためにこういったいやがらせ犯罪を行っているのです。 >>669
慶長の時は明の出る幕もなく半島南端で追い返されたけどな >>671
慶長の時は朝鮮海軍も全滅してほぼ明軍としか戦ってない状態 秀吉のあとを誰が継いでも勝てないでしょう。
結局兵站が続かない日本軍の致命的欠陥は変えようがない。 >>662
その李氏朝鮮の高官って『聖宗実録』の人物評がボロ糞で信用できる発言とは
扱われてないんだけど・・・
しかもその信用できない発言が唯一の根拠だろ。
一方、高麗史や太平記では明確に倭寇構成員は日本人とされてる。
前期倭寇が日本人だったことは間違いない。
で、略奪目的の襲撃が何十年も続いたということは、その間の日本側の収支は
プラスだったということ。
つまり日本側が勝ち続けていたということだよ。 お前が捨ててきた祖国のチョンに勝てて良かったなwww >>676
それって韓国の李領教授の受け売りだろ
その辺の専門家の村井章介の評価は
「李領の口調からは、倭寇への高麗人の関与を何としても
全面否定したいという願望が漂ってくる」だよ
実際、正史に「貪淫無節」とか学問も武芸も優れたところはなかったとか
書いてあるから発言も信用できないってのは、実にアジア的というか
前近代的な人間観だなと俺も思ったね
あと、こっちは倭寇が日本から来た武士団なら何で李成桂なんぞに
負けてるんだよってのを聞いてるんであって、勝ってる間のことは
最初から問題にしてないの。
さりげなく話をすり替えないように >>678
倭寇の発生は南北朝の騒乱って日本の国内事情が原因なんだから
それが解消されれば自然消滅するだろ。
李成桂なんて関係ないよ。 >>679
だからさ、倭寇が日本の武士団だったら李成桂に戦術レベルで負けないだろって話をしてるんで
倭寇終息の原因なんか誰も聞いてないからw
本当にあんた話をすり替えるのが好きだね・・・ >>680
終息間際なら当然倭寇だって弱体化してるだろ。
全部日本側の国内事情じゃん。 >>682
応永の外寇では対馬だけで朝鮮軍を撃退してるんだから武士の強さは圧倒的だろ。
でも肝心の倭寇になる南朝の残党が日本国内で掃討されてるわけで倭寇が弱体化
するのは仕方ないだろ。
全部日本の国内事情じゃん。 >>683
李成桂に負けた時は500艘もの船で来襲してるから対馬の戦力と同じかそれ以上だろ
てか倭寇が南朝の残党って根拠は? 海に守られただけだからな。
全力の敵と陸上で戦ったわけでなし。 幕府側が損害が出ても水際防御に徹したから
蒙古猿たちは船上待機を余儀なくされて台風でもろとも海の藻屑になったんだろ
なまじ内陸に引き込んで叩く作戦に出ていたらもっと長期化しただろうよ >>646
>世界中で勝ちまくっていたモンゴル軍は元寇を境にピタリと勝てなくなる。
>モンゴル軍最良の部隊は日本遠征に投入された挙句、武士の掃討戦で全滅しちまったからね。
それ笑うとこ? ハハハ イキデキネーヨ
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ハライテ- ゲラゲラ
( ´∀`) < >>691 わははは ∧_∧ 〃´⌒ヽ モウ カンベン
. ( つ ⊂ ) \_______ (´∀` ,,)、 ( _ ;) シテクダサイ
.) ) ) ○ ∧_∧ ,, へ,, へ⊂), _(∨ ∨ )_ ∧_∧ ○,
(__)_) ⊂ ´⌒つ´∀`)つ (_(__)_丿 し ̄ ̄し ⊂(´∀`⊂ ⌒ヽつ
タッテ ラレネーヨ 仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。
無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知。般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多呪。
即説呪曰。羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経 いや我が国は、アジア大陸からは日本海という大海により離隔されて
いるので、元寇の役のときであっても自国の防衛に成功しているでは
ないか、と反論する人々がいる。そのとおりであろう。
旧軍時代は、日本海は50個師団にも匹敵する価値があると、巷間
言われていた。しかし現代戦は、すでに海洋の存在を無視できるほど
に発達した兵器類で闘われるので、海洋の存在を当てにして50個師団
の価値があると強弁する妥当性はとうに失われているのであるが、この
ような現実論を考慮せずに、仮に日本海は50個師団の価値があると
仮定しても、我が国の防衛のためには、これに携わる人員が95万〜100万人
あっても不思議ではないと判断される。
http://www.jpsn.org/opinion/word/436/ 文永の役とか鎌倉武士は八幡愚童記によれば十万もよってたかって水際防衛してたのに
鎌倉武士の夜襲を警戒して司令部は海上に留まり、上陸したのはたかが三万の元軍相手に
水際防衛を放棄させられてるんですかねぇ……
世界最強…三倍の兵力差あるのに苦戦して?しかもホーム?世界最強ねぇ… 日本兵が世界最強と主張するネトウヨの詭弁
「日本最強!」
↓
論破される
↓
「チョンはどうなんだよwww」
つまり「日本>チョン」を主張すれば世界最強と思っているのがネトウヨ。
言いかえれば日本と朝鮮しか存在しない世界に住んでいるのがネトウヨ。 我々はチョンより優れている。故に、世界最強である。 戦争の強さで朝鮮以下のところってあるのかよwwwww 元朝末期に奇皇后が送り込んだ遠征軍が、高麗軍に撃破されたことがある。
あと陸路で高麗まで行った紅巾賊の一派が、しばらく暴れまわったあと全滅してたな。 『上り兵法下り音曲(弓馬槍剣は関東、歌舞音曲は京都)』
平安末
尾張系京都伊豆人源頼朝「日本一の猛者といえば武蔵国住人熊谷次郎直実」
藤原摂関家出身の慈円「武蔵国住人畠山重忠最強伝説」
鎌倉
最強鎌倉武士「下野の足利忠綱怪物伝説」
徒然草の吉田兼好「相州鎌倉住人安達泰盛こそ武士中の武士」
南北朝
武蔵武士系河内国住人楠木正成「ガチンコ決戦なら武蔵相模の二国>その他オールジャパン」
戦国
剣豪将軍足利義輝「剣日本一は上州の上泉信綱、西国一は肥後の丸目長恵」
奈良興福寺「やはり甲斐越後が最強」
三河者の武田家軍師山本勘助「関西侍は下の下」
戦国最強甲斐侍「関東武士は馬上戦闘&長刀、関西武士は下馬戦闘」
越後の豪族北条氏「畿内、中国侍は町人似の弱兵」
尾張の太田牛一「馬上巧者の関東衆西上野小幡党」
宣教師フロイス「島津軍は弓が多く長刀を巧みに操る」
戦国末
薩州島津家当主「信州真田兵が日本一」
ミスター三河武士大久保彦左衛門「上方奉行は口だけの腰抜け」
幕末
江戸本所の暴れん坊勝子吉&信濃の最強力士雷電「江戸の平山先生最強伝説」
豊後中津の天才剣士島田虎之助「幕臣男谷先生を筆頭に江戸の剣客は強すぎる」
陸奥の大剣豪千葉周作「江戸の高柳先生や男谷先生には生涯勝てない」
江戸の幕臣勝海舟「白井(江戸人)の剣は神の領域」
近代
東京出身の文豪芥川「千葉の山田次郎吉先生が最強」
水戸の高野茂義&岡崎の三橋鑑一郎「天下第一の名人は栃木鹿沼の下江先生」
別府の堀「水戸の門奈正最強」
京都の大日本武徳会「技の水戸人門奈、気の水戸人内藤」
昭和天皇「天覧武道大会全制覇の法神流(群馬)」 >南北朝
>武蔵武士系河内国住人楠木正成「ガチンコ決戦なら武蔵相模の二国>その他オールジャパン」
そう言った本人が山に立てこもった畿内悪党だけで幕府軍を撃退してしまうのが太平記の見せ場 楠木が幕府の大軍を撃退したのが籠城戦だったからであるように、
日本が元を撃退したのも「海」という城に守られていたがゆえのこと。 >>695
八幡愚童記は信用できる史料じゃないよ。
だから鎌倉武士は水際防衛を放棄なんてしていない。
信用できる史料では兵船300隻で逃げるモンゴル軍を追撃してる。 >>714
武士はモンゴル軍より圧倒的に強かったと言う歴史的事実がある 近代的なアメリカ・フランス連合軍を撃退した
朝鮮が前近代では
最強だと思うんだけど
有色人種で初めての列強への勝利だからね
逆に自称最強武士は列強にコテンパンwwwwwwwwwwwww >>716
朝鮮人が列強を撃退できるわけねえだろ
嘘宣伝信じる馬鹿? ↑この板で無知は恥ずかしいwwwwwwwwwwwwwwwwwww >近代的なアメリカ・フランス連合軍を撃退した
国土の利権をロシアやイギリスにうっぱらってサイマー化してただろ。 狭い土地を取り合ってずっと戦ってたから強くもなるだろ 戊辰戦争の時のガトリング砲が戦国時代の頃にあれば、完璧だったはず。黒色火薬とかあったらね。 火縄銃を束ねてクルクル回す簡易ガトリング砲があれば 和弓があるので不要。
プレートアーマーも余裕で貫通できた。 愛国心があれば竹槍で戦闘機も落とせる
これが世界最強民族 鎌倉時代より戦国時代じゃね?
なんか銃の保有率が世界一だったとか >>704
「海」は城じゃないよ。
当時の「海」は高速道路。
だから14万人もの大軍が攻め込んできたわけで。
海に囲まれてる日本は防衛上滅茶不利だったのに頑張って勝ったんだよ。 【親米涙目】 ★ 地球最強はロシア軍!! 最初に火星のテクノロジーを獲得か!? ★ 【親米逃亡】
宇宙人側からの申し入れは、とにかく核の利用と戦争をやめなさい、もう一つは宇宙人の存在を公表しなさい。
つけ足したのが、60年の猶予を与えましよう、2014年には発表しなければならなかったんですね、宇宙人の存在を。
ロシアという大国の首相がね、あれは冗談だよでは済まないですね、しかも2回も言ってるんだからね。
https://www.youtube.com/watch?v=FIRXKetUkq8
NASAは、UFOに対して長年取ってきた態度のために、無用な組織とされることを恐れています。
マイトレーヤが公に現れるにつれて、UFOが姿を表すでしょう。
世界平和の脅威は、イスラエル、イラン、アメリカです。イスラエルの役割は跪いて、パレスチナに許しを請うことです。
アメリカによる他国の虐待に反対の声を上げなければなりません。
彼らは今世紀(21世紀)をこの帝国が出来上がるアメリカの世紀と呼ぶ。しかし、そうはならないだろう。
彼らが世界中に‘民主的’制度を確立したいという衝動をコントロールするのは、マイトレーヤの任務である。
Q 経済崩壊が2015年から、テレパシー世界演説が2017年の初めなら、2016年に大戦でしょうか。A 大戦は起こりません。
【帝国アメリカ即死】 ★ マイトレーヤのテレパシーによる世界演説は英国BBCが放送 ★ 【親米ポチ土下座】
https://www.youtube.com/watch?v=6cOvo6n7NOk
マイトレーヤが世界に向かって話をする準備は良好に進行している。
25分か35分くらいかもしれませんが、歴史上で初めて、世界的規模のテレパシーによる接触が起こるのです。
テレビ中継はこの出来事のために存在するのであり、この時、初めてご自身の本当の身分を明らかにされます。 鎌倉時代の日本って、戦前もそうだけど軍事力のみの大国?って感じなんだよな。
だから崩れ始めたら早かった。 >>740
軍事力だけでなく経済力も凄かったろ。
だからモンゴルが14万もの大軍投入してまで征服したかったわけで。
それに同時代に各国で描かれたモンゴル軍の絵と蒙古襲来絵詞を比較すれば
文化水準もめちゃ高い。 経済力や文化水準ならすでに宋もペルシアも知ってるモンゴルが
当時の日本ごときでは何とも思わんよ >>745
クビライ「朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ」
モンゴルは宋と同じくらい日本が欲しかったんだってさ ウヨの妄想が爆発だな
軍事も経済も文化も優れているウヨ >>743
勝利記念だから豪華に描くだろうという事に気がつかない低能発見 >>749
豪華とかそういう話じゃなく描写が写実的なんだよね。
ヨーロッパやイスラムで描かれた子供の落書きみたいなモンゴル軍と比較すれば
当時の日本の文化水準が数段上だったとわかる。 >>743
凄かったのは経済力ではない。
生産力。
鎌倉幕府は経済には興味がなかったみたいだからね。
一切活かそうとしなかった。
まぁ武士は土地を中心に生きているのだから当然と言えば当然だが。
その生産力に目を付けたのがフビライハンだね。
多分、有力な市場が欲しかったんだろうよ。
幸いな事に現地の政府は弓を張ることにしか興味が無かったからね。
しかし、それ故に負けたって事だな。 「ヴァスタツィウスに自らを防衛する勇気があるかぎり、モンゴル人はその国に侵入できぬでしょう。
モンゴル人は暴力によってどんな国も征服したことはなく、ただ陰険な策略にうったえるだけです。
モンゴル人と和縛いたしますと、かれらはまさにその平和のかげにかくれて、せん滅の挙に出るのです。」
ウィリアム・ルブルック
つまり戦闘は大して強くないが謀略によって周辺国を征服しまくってるというのが
同時代人のモンゴル帝国に対する認識だ。
断固として「自らを防衛する勇気」を示した北条時宗の適切な対応が日本の勝因。 装備が最強クラスだった
遠距離では和弓、接近戦では日本刀と >>737
正確には火薬の材料の硝石が輸入だ。
硫黄は逆に大輸出国だからな。 剣豪の故郷として歴史上で先行するのが東国の地である。
関八州は古来尚武の地であった。
平氏政権を倒して武家政治を作り上げるのに大きな役割を果たしたのが東国武士団である。
東国はその後の日本の武家社会を支えるエネルギーの培養源であったといってよい。
武技の伝統は鎌倉、室町時代を通じて、この地に脈々と生き続けた。
その脈絡の一つの中心となるのが、古来から軍神ととして崇敬された鹿島、香取の両神宮の鎮座する常総の地であった。
(原田伴彦・大阪市立大学名誉教授) 主力が朝鮮人って元側史料と高麗側史料を比較すれば一目で嘘とわかるよね。
元側史料の『元文類』巻四十一 経世大典序録 征伐 日本
「十年、命鳳州經略使忻都高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘、載士卒二萬五千伐之、」
高麗側史料の『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年十月乙巳条
「與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本。」
どちらの史料も主力は蒙漢軍2万5000人で一緒。
高麗軍8000人は数が少ないだけじゃなく、元側史料では戦力として計算されてすらいない。 >>769
どちらが正しいとかいう話じゃない。
単にモンゴルは高麗軍を戦力とは見なしていなかったというだけの話。 >>746
元史の原文だと「或いは日本、命に逆らえば征討す」とあって仲良くする気がなければ叩くと言ってるだけ
実際に「大蒙古國皇帝奉書」でも国交を開くのであれば戦う気はないという旨が書いてある
>>754
一年間日本に滞在した使節の趙良弼は「その地は山水多く、耕桑の利はない。その地を得ても、富を加えることができない。人々は勇猛で殺し合いが多く親子の情すらない。その人を得ても、使役することができない。」と言ってるがな
それでも遠征を決行したのは娘婿の高麗王が遠征の音頭とらせろとうるさかったから 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
CSYQ3 ぶっちゃけ最盛期のチンギス・ハーンではなく、衰退期のフビライが相手だったから勝てたってのはあると思う。
モンゴルの第一次対金戦争のあとの1218年、金に属していた契丹族の一部を江東城で滅ぼすときに、モンゴルと高麗は協同してるが
この時点でモンゴルが、日本を手に入れたい協力してくれと高麗に頼んで、高麗がこれを了承してたらどうなるか。
最精鋭のモンゴル軍が、承久の乱で乱れまくってる日本に上陸するんだから、勝ち目はない。 モンゴル帝国の最盛期は元寇で日本にフルボッコにされたクビライ時代でチンギス汗の時代じゃない。
チンギスカ汗の時代のモンゴル軍なんて総兵力でも12万9000人程度。
チンギス汗時代のモンゴル帝国全軍が日本に攻め込んでも、承久の乱で19万騎を動員した鎌倉幕府なら秒殺できる。 >>224
お前らは悔しい時アイゴーって叫ぶんだよねw 文永の役に関する誤解
【嘘】主力は高麗軍だった ⇒ 【真実】主力は超精鋭の蒙漢軍で高麗軍は補助戦力として後方に配備
【嘘】元軍は日本軍を圧倒して博多筥崎を占領した ⇒ 【真実】元軍は日本軍に惨敗して今津に追い詰められていた >>188
船に乗ると蒙古軍は別の国の軍に変形しちゃうのか? 馬を船で輸送するのが難しいって、品種改良しすぎて脆弱になったサラブレッドの感覚な。
昔の馬は丈夫だから平気で船に乗せて海を輸送してたよ。 当時の記録を調べたら、元軍は日本軍を圧倒して博多筥崎を占領していた。
なんてこった・・・ >>786
嘘つけ。
元軍は日本軍に圧倒されて博多筥崎には指一本触れないまま撤退し、1万3500余人の大損害出してるぞ。 そして女真族皇帝に泣いて土下座するあわれなチョン王 モンゴルごときに席捲されるユーラシア大陸は日本に比べて文明レベルが低すぎる モンゴル帝国は本気じゃなかったけど日本に大軍を送った。
モンゴル軍は戦闘で武士に圧勝してたけど何故か1日で帰った。
洗脳教育って恐いよな。
こんな支離滅裂な話を信じちゃうんだから。
真実はもっとシンプル。
モンゴル帝国は本気で日本征服する気だから大軍を送った。
武士が戦闘でモンゴル軍に圧勝して1日で追い払った。 >>800
おまえらクソチョンが日本から出て行けよ >>802
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JQ0 チョンファン「縁を感じるニダ」
チョンファン「高麗神社に行くニダ」 色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)の挑発
色川高志「関東連合文句があったらいつでも俺を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 関東連合の糞野郎どもは俺様がぶちのめしてやるぜっ!!
賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」 (挑戦状) 鎌倉武士世界最強説に比べてフランク王国世界最強説はあまり見ないな
660年白村江<751年タラス河畔<732年トゥール・ポワチエ
日本<唐<アッバース朝<フランク王国 >>812
その不等号はどういう意味やねん
フランク王国が大きいちうことか? 日本>>>>>>>>ビザンツ帝国 [無断転載禁止]©2ch.net (21)
というスレがあるが、日本がビザンツより大きいちうことなのだろう ビザンツ帝国は文永の役の元軍の3分の1の兵数でしかない第4回十字軍に、
対馬海峡の10倍の距離の渡海遠征で征服された雑魚 ヒント3
鎌倉幕府成立時には武家法成文法が存在しておらず、公家法である律令法・公家法には拠らず、武士の成立以来の武士先例に基づく裁判をしてきた。
もっとも、鎌倉幕府初期の政所や問注所を運営していたのは、京都出身の明法道や公家法に通じた中級貴族出身者であったために、鎌倉幕府が蓄積してきた法慣習が律令法・公家法と全く無関係に成立していた訳ではなかった。
両法のいずれの方が準拠法となるかについては、地域・当事者・訴訟物を要素として準拠法選択をするルールが判例法によって形成されていた
評定書(判決文に相当)は縦書きで右から左に記載されていたが、これは律令制の判決文と同様、古代中国の様式にならったものである。
筆は紙から離して記述していくため墨が手に移る恐れがなかったこと、左から右書とすると、起案時に既存文字が目に入り精神集中が害される書道の教えに準拠している。
(当時は書道と剣術は同源と解されており、古代記法「横書きで右から左」は神社仏閣のみが用いていた) >>589
鎌倉幕府軍とオスマンがいつ勝負したんだ? >>812
唐もアッバース朝もフランク王国も廃国してこの世に存在しないから、最強説が成り立たない ベトナムがモンゴルの属国じゃなくなったのは日本のお陰な。
日本が元寇でモンゴル軍を粉砕するまで北ベトナムの陳朝と南ベトナムのチャンパは
モンゴルの従順な属国として屈辱的な待遇を受けていた。
弘安の役で圧勝した日本が使者を送り、モンゴルの属国に甘んじてることを叱ったから、
チャンパはモンゴルと戦う決意をしたんだよ。
日本がなかったらベトナムはずっとモンゴルに支配されたままだった。 それは坂東人が世界一野蛮だったから
元寇の関東武士団打線(最新の研究)
1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた
2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた
3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた
4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた
5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が)
6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた
7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま徒歩で戦ってた
8(捕) 2度目の時は夜襲しまくって眠らせなかっただけじゃなく相手の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ入れてた
9(投) 元軍が壊滅した後、取り残された元軍の内、宋人は助命したが高麗人、モンゴル人は負傷者も女性も含めて皆殺しにしてた 台風はモンゴルじゃなくて日本列島に直撃したんだから、
天候は日本にとって不利だったと言える 文永の役において博多の街がモンゴル軍に焼き払われたなんて裏付ける史料はない。
実際には九州における戦闘は日本軍の圧勝で、モンゴル軍が退散して終わったと史料に書いてある。
『五檀法日記』
仰去月(十一月)六日申刻、自鎮西飛脚上洛。去月十九日廿日両日合戦。廿日蒙古軍兵船退散了。 世界で向かうところ敵なし状態だったモンゴル軍が日本に負けて主力軍壊滅したせいで
その後勝てなくなった。
弘安の役ってマジで世界史の流れを変えた戦いだよな。 >>833
世界最強国になれたのか?
というスレタイなので世界史板がふさわしい >>833
世界最強だった日本の圧勝によってモンゴル帝国の拡張が終わったんだから
普通に世界板の話題じゃん 元寇で主力部隊が壊滅しなかったら元だってカイドゥの乱鎮圧に手間取ることも無かった。
つまりモンゴル帝国分裂も回避できた。
そうなればクビライの統一モンゴル帝国によって欧州やイスラムに新たな大遠征が
行われた可能性が高い。
東南アジアだって楽勝で征服してただろ。
欧州もイスラムも東南アジアも日本のお陰で命拾いしたな。 朝廷や幕府は、モンゴルによるワールシュタットやバグダッドの惨劇とか知りえたのだろうか?
あるいは、当時の日本における海外ってのは朝鮮と中国くらいなもんで、
インドですら今でいうアトランティス並の伝説の国で、
ペルシャやアラブやビザンツなぞ聞いた事すらなく、
日本がそれらを知るのは宣教師がやって来る戦国の世まで待たねばならないのか? >>837
蒙古から国書が来た時点で、かなり正確な知識を持っていた。
【五大帝王物語】
蒙古国もとは契丹の所属、韃靼国也。年比契丹国已下の近辺の諸国打とる。
大宋国も、三百余州のうち大略皆討とられて、僅に六十余州残れり。
高麗も同せめおとされて、 臣として蒙古の朝につかふる由、牒状にも載たり。
牒使には趙良弼と云ものわたれり。 高麗の使を副たり。牒状二通あり。
一通は高麗の牒也。蒙古状は文永三年丙寅九月の状也。
至元三年と載たり。高麗国、同彼年号をうけて至元となせり。去年八月の状也。
数多の方物を相副て、正月一日大宰府に着たり。 モンゴル軍14万人が壊滅はガチでヤバい
世界史への影響力ではアインジャールートの戦いなんかとは比較にならん >>750
実際、鎌倉時代の美術水準は当時としては世界で抜きんでた素晴らしさがある
特に彫刻は、その写実性といい、精神性の深さといい、人類史上最高峰だと言ってもいい
同時代の宋の彫刻など足元にも及ばないレベル
外国で匹敵出来るのは、ルネサンス期のイタリアぐらいじゃなかろうか >>839
モンゴル軍の兵数は14万人どころじゃなかった。
モンゴル軍40万+江南軍10万+東路軍4万の総勢54万人。
弘安の役はモンゴル帝国史上最大の作戦だわ。 >>832
ベトナムでも負けたし、エジプトのマルムークにも負けたろ? サハリンの方でも上手くいかなかったはず >>843
ベトナムが勝ったのは日本のおかげだろ。
モンゴル帝国の属国だったベトナムが弘安の役でモンゴル軍の主力が壊滅したのを見て、
翌年に反乱起こしたんだぞ。
それだけ元寇の世界的影響力が大きかったってことじゃん。 >>844
反日パヨクの常套句
日本のせい 外国のおかげ
元寇抑えたのもベトナムの抵抗のおかげとか言いだしやがるからな 当たり前の話だけど、もしもモンゴル人がごく少数の指揮官だけしかいなかったら、
台風の後、10万人もの兵士が大人しく鷹島に置き去りにされるはずがない。
モンゴル人は航海技術を持ってないんだから、南宋兵がモンゴル人を置き去りにして
逃げたはずだろ。
10万人の南宋兵を上回る兵力のモンゴル兵が参加してないと説明できない。 モンゴル兵40万人を投入した弘安の役で惨敗したんだから、モンゴル兵が鎌倉武士より
弱かったという事実は認めるしかないな 日本にやって来たのは東路軍4万+江南軍10万だけで、蒙古軍40万は自宅待機状態で出番無かったよ。 モンゴルって琉球でもインドシナ半島でもマレー半島でも負けてるよな・・・ >>849
モンゴル帝国って弘安の役で主力軍が壊滅した後は対外戦争で勝てなくなるよ。
それだけ日本に負けたのが痛かったということは。 >>848
40万人のモンゴル兵はアタカイに率いられて日本遠征に参加してるよ。
で、結果は「遇風、舟壞、喪師十七、八」。
弘安の役で28万人〜32万人のモンゴル兵が犠牲となったわけだ。
モンゴル帝国が元寇の後で対外戦争に負けまくったのも当然。 >>851
ぐぐったけど、アタカイが率いたのは江南軍10万じゃん。 >>852
江南軍10万を率いていたのは范文虎でアタカイじゃない。
『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年六月
「庚寅,以阿剌罕有疾,詔阿塔海統率軍馬征日本」
アタカイはアラカンが率いる予定だった「軍馬」を引き継いでる。
つまりモンゴル軍40万。 弘安の役とはこんな戦い。
東路軍4万、江南軍10万、蒙古軍40万が平戸に集結。
平戸に外洋艦隊を停泊させ野戦築城を行う。
東路軍と江南軍が日本水軍を殲滅し、博多湾までの制海権を確保したら蒙古軍40万が
上陸して制圧するというのがクビライの作戦だ。
江南軍の艦隊は水上戦闘部隊だから櫓こぎで帆走能力がない。
江南から平戸までは大型の外洋船に曳航され、平戸からは鷹島など九州沿岸に沿って
博多湾を目指す。
ところが東路軍と江南軍が日本水軍に手こずり制海権を取れないまま台風に遭遇。
大損害を受けた蒙古軍は江南軍を見捨てて平戸から外洋船でさっさと帰還。
鷹島の江南軍は船があっても外洋航海能力がないから帰還できないという状態に。
そこに日本水軍が押し寄せて一気に掃討したってわけ。 >>1
軍事学的にモンゴル軍は失敗した
そして現在軍であっても不慣れな遠方の違う気候条件で長時間輸送で混乱してれば失敗する
敗因は一般的な.軍事論に基づいており、日本の特別な強さをしょうめいしない
もっとも鎌倉武士ー戦国武士の果敢な戦闘力と決死的戦意は個性と強みだった
イスラムテロが栄えた現代に於いては、特攻も決死作戦も戦意と強みと再評価される >>855
遠方の違う気候条件で長時間輸送をものともせずに倭寇となってモンゴル帝国荒らしてた
当時の日本って本当に強かったんだな これに激怒した北朝側は経忠の関白職を解いて基嗣をその後任とし、子の経家・冬実は昇進停止となった 世界最強のモンゴル帝国に攻められた
↓
なんとか守り切った
↓
世界最強のモンゴル帝国に戦争で勝ったから
13世紀後半頃の日本って世界最強だったよね!
というような三段論法はちょいはずかしい >>859
「なんとか守りきった」と言う表現は正確じゃないな。
圧勝だったんだから。
モンゴル軍は鎌倉武士に全く歯が立たなかった。 モンゴル騎馬兵40万とか騒いでる奴が、まだいたのか
しかも、その40万騎馬兵が元寇で日本に攻めてきていた設定なのか!
騎馬兵が40万なら馬も40万以上必要だぞ。馬の餌も膨大なものになる
馬の餌だけで船が数万艘必要になるし、戦が長びけば馬は餓死するしかない >>860
被害甚大だったじゃん。
モンゴル方から獲ったものって、精々宋国人の捕虜くらいだったろ、それも追い返したし、
得られたものが何もない戦争で、「圧勝」って???? >>860
40万以上の馬もその餌も必要な量だけ船に載せて運べばいいだけだから全く問題ない。
世界最大の海運国だった南宋を征服した元にとっては余裕だろ。
だから現実に40万人という大軍を日本まで遠征させることができたわけで。 私鉄で輸送密度(輸送人員/路線距離、列車数/時間)がかつて日本最大だった神戸高速鉄道は自前の電車持ってなかった。
全て乗入他社から運転手ごと借りていた。
宋国の海運も、そういう感じで、自前の船とか持ってなかったんじゃないの?
市場として大きいから、他国が遠望から乗り付けてくるのを入れていただけで。 火薬、活版印刷、羅針盤は宋代に発明されたのに、日本に入ってこなかったのは何故なんだろう。
朱子学は鎌倉初期に伝わっているのに。 >>866
宗教が入って来るのは侵略の1つだから理解できるわ
火縄銃をもたらす方が逆に特殊なんだよ
南蛮からはそれぐらい下に見られてたんだろうな
宋は一応隣国だから、軍事力、知力上げられると困るってことだろうさ 南アジアや東南アジアにはイスラム経由で日本より先に火縄銃が普及してるぞ 元寇最大の脅威は「てつはう」(鉄砲)だったしな。
支那人つかえねー、儒家とか屑じゃん、官吏はペルシャとインドとチベットから呼んでくるで
ってやったから、イスラム技術も持ち込まれるの早かったよな。 元寇の際の「てつはう」(鉄砲)の使用法は、、逃げる時に煙幕をはるというもの。
脅威でも何でもないだろう。
そもそも「てつはう」(鉄砲)の殺傷力が強かったら、一番危険なのは使った本人。
重すぎて遠くまで投げられないし、投石機は機動性がなさすぎて野戦では使えない。 クビライは文永の役と同時に自分の娘を高麗王に嫁がせている。
皇帝の娘の婚姻には当然政治的な意味がある。
つまり文永の役はモンゴル帝国の威信を賭けたた絶対に負けられない戦いだったということ。
娘の婚姻で箔づけ.した遠征軍がたった1日の戦闘で惨敗して逃げ帰ったにんだから、
クビライは大恥だな。 NHK教育を見て64574倍賢くャTンキュー 鎌倉沼 横浜と言えば
カマ・クラ
鎌倉
カマ・蔵
どんだけ〜
東京で、
「カマ・苦ら、やけど」
「金持ちやん!、金持ち?」って言われるんだよwww
どんだけ〜
都内で
「ギンザ行ってた」
「Winズ?」www
「梅田行ってた」
「もしかして、Winズ?」
「基地・情事に行ってた」
「エンポリ?」
勝ち過ぎて、勝ち過ぎて、笑えるんだよ詐欺師 もしも江南軍の到着がもっと早かったら
あるいは台風が襲来するのがもっと遅かったら
日本は勝つことが出来ただろうか? 勘仲記によれば江南軍の到着は6月中。
江南軍と東路軍が合流して台風が来るまで1ヶ月以上あったのに制海権とれなかった。 朝鮮耳って言って文禄の役と慶長の役で戦死したチョンの耳切り取って塩漬けにして本国に送るんだけど(戦果確認のため)チョンの耳は独特な形で耳たぶがなく付け根が頬と一体化してる不恰好な耳だったため朝鮮耳と言われた。これは当時から日本人とチョンが外見状の差異からわかるほど異なった民族であった証拠。 海を越えて兵站に何の問題もないと考えているバカガイジが集うスレ >>880
海を越えると大量の食料を船で運べるから兵站は有利になるんだよ 兵站とか言い出す奴に限って兵站に関する基本的な知識もないから困る。
鉄道やトラックが発明されるまで、海とか大河とかの船を使える状況でしか兵站なんて
まともに成立しないから。 世界最強だろ実際
世界の他の諸民族は54万どころか5万のモンゴル軍にすら太刀打ちできなかったのに
日本人は40万50万を消滅させたわけだから
比するものさえない最強
武士という戦闘民族がいかに稀有であったか誰も気づいてない 日本に攻めて来たのは東路4万江南10万だけだろ。
蒙古40万は本国で待機状態だったんじゃね?
54万も船なんか作れんやろ。 >>884
ちゃんと日本に来てるよ。
40万人のモンゴル兵が日本で壊滅した史料がある。
鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌
「辛巳6月の半ば、元賊は四明より海に出る。大舩7千隻、7月半ば頃、倭国の白骨山に至る。
土城を築き、駐兵して対塁する。晦日(30日)に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。
舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃(蒙古)軍は半ば海に没し、舩はわずか400餘隻のみ廻る。
20万人は白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。」 世界最強戦闘民族侍に喧嘩売らなきゃ元も長持ちしただろうに どっちかって言うと和弓じゃね
習熟が必要だから臨時徴兵じゃ扱えない戦闘民族専用武器
正しく世界最強の鎌倉武士 当時の日本武士団が強かったのは間違いないが、
長期戦だとどうなったのかは気になるな 弘安の役で蒙古軍を40万人も動員したのは、その前の文永の役でモンゴル帝国自慢の
蒙漢軍2万5000人が福岡平野で普通に野戦やって鎌倉武士に瞬殺されたから。
10万や20万の蒙古兵では歯が立たないと考えたんだろう。 東路軍4万は朝鮮半島から襲来し、
江南軍10万は寧波から渡航してきたとあるが、
蒙古軍40万はどっから湧いて来たんだ? >>892
寧波だよ
『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本」 日本の弓や剣って独自の発展しているが
世界基準で見ても強い兵器だった
外国で生まれた鉄砲もすぐ取り入れたし
武士の強さはそこにあった 台風の後、鷹島掃討戦に向かった日本水軍はまず周辺海域の艦艇と海戦をやってる。
つまり台風の後でも江南軍には船があったんだよ。
じゃあ何で帰還できなかったのかって言うと、蒙古襲来絵詞の中に答えがある。
蒙古襲来絵詞に描かれた江南軍の船ってほとんど帆がない。
江南軍は南宋の河川水軍をそのまま日本に持って来ただけだから外洋航海能力がないの。
江南軍10万人を日本まで曳航したきた本隊が絶対に存在したはずなんだよ。 >>893
教科書とか動画サイトとかでは4万+10万と表記されてるけど、
ありゃあ一体何なんだ? モンゴル帝国に勝利するなど同時代に比類なき軍事力を誇った
陳朝時代のベトナムと同じぐらい強かったの? そんなレベルじゃないだろ
自然の要害とか必要なく野戦で余裕だもん
補給と移動の面以外で鎌倉武士がモンゴル兵に負けてるところ無いでしょ
主力の弓で勝ってるんだから 当時の史料にベトナムが勝てたのはは日本のお陰って書いてある
鄭思肖『心史・雑文・大義略叙』
「辛巳六月、韃兵由明州渉海、至倭口、遭大風雨作、人与船倶陥、又大敗而回。倭遣使責占城不戦而附韃。占城有悟意、始背元韃。」
(弘安の役で元軍が敗れた後、日本が南ベトナムへ使者を送り、元朝と戦わずに属国でいることを責めた。南ベトナムは元朝に背くことを決めた) 完全に日本のお陰だろ
日本がモンゴル軍に勝たなかったらベトナムはいつまでもモンゴルの属国のまま ベトナムのおかげで元軍が弱体化、第三次元寇がなくなった
もっとも鎌倉幕府は滅んだ
ベトナムは1400年までつづいた 頼朝が京都の公家のライフスタイルとは違うものを開くために、都を鎌倉に移したから。
食事改善。京都と違って仏教や陰陽道の縛りがない。
海が近いため、新鮮な魚を食べられる。
白米ばかりでない玄米も食べる。 弘安の役に参加した蒙古軍40万人の存在を否定するのって史料上無理があるよね。
元史にちゃんと書いてあるんだから。
遠征軍は台風で半数以上が溺死したと史料には書いてある。
東路軍4万は史料だと大半が高麗に帰還してる。
江南軍10万は史料だと丸々全軍が鷹島に置き去りにされている。
あれ、溺死したのは誰? 元史の弘安の役に関する記事って露骨に嘘が書いてあるよね。
「諸将未だ敵を見ざるに、全師を喪って還る」ってやつ。
日本、高麗その他もろもろの史料では、元軍は日本軍と戦いまくってるのに、元史では徹頭徹尾
戦闘をする前に台風に遭遇したことになってる。
わかりやすいのは、洪茶丘の伝。
「十八年,與右丞欣都將舟師四萬,由高麗金州合浦以進,時右丞范文虎等將兵十萬,由慶元、定海等處渡海,
期至日本一岐、平?等島合兵登岸,兵未交,秋八月,風壞舟而還。」
洪茶丘は高麗史だと日本軍に突撃されて逃げ回り、顔を合わせる度に撤退の議論をしていたと書いてある。
「兵未交」って明白な嘘じゃん。
さらに壱岐で江南軍と合流したのなら、6月29日から7月2日までの壱岐での戦闘には東路軍だけじゃなく、
江南軍も参加していたということになる。
これって逆に言えば、日本軍に戦闘で負けたという事実は隠蔽工作しなくちゃいけないほど、
元にとって痛恨のできごとだったってこと。 蒙古軍40万ってのは14万の書き間違いなんじゃねーの? >>909
蒙古軍の人数を40万としている史料は元史だけじゃない。
鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌
「辛巳6月の半ば、元賊は四明より海に出る。大舩7千隻、7月半ば頃、倭国の白骨山に至る。
土城を築き、駐兵して対塁する。晦日(30日)に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。
舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃(蒙古)軍は半ば海に没し、舩はわずか400餘隻のみ廻る。
20万人は白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。」
韃(蒙古)軍は半ば海に没し、20万人が置き去りにされたんだから総数40万人だろ。
それに置き去りされた人数が多すぎる問題がある。
元史でも台風で「士卒溺死者半」とされているのに置き去りにされた人数は10余万。
高麗史だと置き去りにされた人数は13、4万人。
何で台風で半数以上溺死したはずなのに、10万人を遙かに上回る人数が置き去りにされてるんだよ? >>911
半分が沈没して四百余のみということからすると、800~900艘くらいで来てたんではないの?
900艘に40万人って、1艘に400~500人も乗ってたことになるけど、高麗の船にそんな数の人乗せられるの? 弘安の役を上回る規模の上陸戦って歴史上何がある?
WW1のガリポリとWW2のノルマンディーは知ってるので、WW1以降の戦いは除外の方向で。 米軍の沖縄上陸 18.3万
連合国のシチリア上陸 16万
第3回ペルシア戦争(海峡を抜けただけ) 不明30万? >>912
「元賊は四明より海に出る。大舩7千隻」って書いてあるじゃん。
中国製の大船7000艘だから40万人の兵も余裕で運べる。
しかもこの数字には説得力がある。
范文虎率いる水軍3500艘は鷹島の海底遺構から河川水軍だったことが判明してる。
3500艘の河川水軍が日本に来るには、それを曳航する3500艘の外洋船が必要
つまり合計7000艘だ。
台風の夜、外洋船3500艘は壊滅状態となり、その中で沈没を免れた400余艘のみが
早々に逃げ帰ってしまった。
それで鷹島の3500艘は帰国する術がなくなり、日本軍によって壊滅させられたわけ。 スレタイだが、実証主義的な歴史観に慣れている人には見えてこないだろう。
「禅と日本文化」(岩波新書)では北条時宗が禅を信仰したことに触れている。
現代のような通信手段がない時代に日本全体の意思統一ができたこと、
武士の死をも恐れない覚悟は禅からきている。 現代でも難しいのに、当時の輸送技術じゃ馬なんて運べないらしいぞ
多くの馬が輸送中に死んだことが伺えるんだって
馬は環境の変化に敏感なんだって >>919
現在のサラブレッドは品種改良し過ぎだから環境の変化に敏感で輸送が難しいんだよ。
元寇当時の馬なら海上輸送なんて余裕。
同時代の十字軍の騎士なんて元寇の10倍から20倍の距離を船で馬輸送して戦ってた。
倭寇だって日本から元寇の逆ルートで馬輸送して朝鮮半島荒らしてたし。
元寇の主力もモンゴル騎馬部隊。
当時の輸送技術なら馬なんて簡単に運べるからな。
だからモンゴル帝国は江南から日本への航路上にある済州島に馬の牧場造ったんだよ。 >>4
スペイんとかポルトガルとかシチリアとか結構長いことモール人に支配されてたで 科研費総合スレ Part 25
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/rikei/1677560884/653
653 名前:Nanashi_et_al.[sage] 投稿日:2023/03/09(木) 16:36:52.49
京都大学の教員が株取引をやっていることを知り、強く抗議したい。
教員は学生や社会に責任を持つ存在であり、学問の向上に専念することが求められる。しかし、株取引に時間を費やし、自己の利益追求に走ることは、その使命から大きく逸脱した行為だと考える。
また、公務員である教員が株取引を行うことは、公務員倫理規程に違反する可能性がある。そのため、社会的責任を持つ者としての役割にも背を向けていると捉えることができる。
さらに、株取引にはリスクが伴い、教員が投資に失敗することで、その影響が学生や社会に及ぶ可能性がある。これは、教員としての信頼性を損ねることになるだけでなく、京都大学全体の評判にも悪影響を及ぼしかねない。
以上の理由から、京都大学の教員には、教育や研究に専念し、公務員としての責務を果たすことを求めたい。株取引など個人的な利益追求に走ることは許されず、全教員が社会的責任を自覚し、信頼を裏切るような行為を避けるよう、厳重に注意を促したい。 >>920 品種改良前の元国の馬でも持っているの? 2023年 京大合格者数 高校ランキング
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1670470712/528
528 名前:実名攻撃大好きKITTY[sage] 投稿日:2023/03/10(金) 17:47:02.53 ID:c9ojLkST0
京都大学人事審査委員会の皆様へ
私たちは、京都大学の教員が過去1年にわたって、株取引を行っていたり、Yahoo掲示板に株取引の書き込みを投稿していたことを知り、深く懸念しています。
大学教員は、社会的責任を持ち、公正かつ透明な行動を求められる立場にあります。そのため、教員が私的な目的で株式取引を行い、情報を漏洩することは、大学の信頼性に対して大きな損害を与えるものと考えられます。
また、Yahoo掲示板に株取引に関する投稿を続けていたことも、教員としての品位を損なうものと見なされます。掲示板に投稿することによって、自身の取引に影響を与える可能性があり、投稿内容が事実であるかどうかについても疑念が生じることになります。
私たちは、このような行為が大学教員にふさわしくないものであると考え、強く抗議します。京都大学は、高い倫理観と透明性を守り、社会からの信頼を維持するために、教員の行動に対して厳格な監視と規制を行っていくべきです。
今後とも、京都大学が世界に誇る優れた教育・研究機関であり続けるために、皆様のご理解とご協力をお願い申し上げます。 東路軍 兵4万 艦艇900艘
江南軍 兵10万 艦艇3500艘
蒙古軍 兵40万 艦艇7000艘
史上最大のモンゴル帝国が南宋を征服し、その軍事力が頂点に達した時、総力をあげて
実行した日本遠征で主力軍が壊滅。
その結果、モンゴル帝国は外征で勝てなくなり分裂して弱体化。
世界の戦史において元寇以上に重要な戦いなんてないだろ。 >>925
弘安の役と、シリア攻略でバフリーマムルークと休戦講和したのと、同年だよ。
この時の戦争はモンゴル方の敗北。
シリアでの勝ち戦は1258年、このときにアッバース朝は滅亡。
更に地中海方面に進軍するも、こんどはバフリーマムルーク勢に阻まれて進軍が滞る。
この時期のバフリーマムルークはパレスチナとエジプトで十字軍、シリアでモンゴルと、
二正面戦争状態。文永の役の10年以上前だよ。 >>926
弘安の役でモンゴル主力軍が壊滅しなかったらクビライとフレグが共同で新たな西征軍を編成し、
マムルーク朝なんて粉砕しただろうな >>927
逆もありなわけで。
シリア・エジプト・ルーミー(エーゲ海沿岸)を順調に獲ってれば、
おい戦上手の弟よ、日本攻めの手伝に来てくれ、兵を貸してくれ
ってクビライ皇帝がフレグ公に日本攻めを命じたかもよ。 オゴタイとモンケがあと10年長生きしてバトゥとフレグが欧州と中東・北アフリカを制圧し、
ヴァイキングやジェノバ、ベネチアの航海技術を手にしてから日本へ攻めてきたならば日本は敗北してたかもな。 >>929
地中海みたいな内海での航海技術しかないジェノバやベネチアなんかより
外洋航海しまくってる高麗や南宋の航海技術の方が遙かに上だろ。 >>928
フレグが日本攻めに協力しても40万の蒙古軍が41万になる程度の違いだろ。
ほとんど影響ないね。 これはメンタルの差だね。
戦闘だからモンゴル軍は死ぬかもしれないつもりでは戦っていただろうけど、
決死で戦ってはいなかった。
負けが濃厚になったり、何かのきっかけがあると退散するメンタルだ。
鎌倉武士は死ぬかもしれないどころか、死ぬ気で戦っていた。
その根拠となる思想はリーダーである北条時宗の後の武士道に発展していく禅だろう。 鄭思肖『心史』中興集 元韃攻日本敗北歌
「辛巳6月の半ば、元賊は四明より海に出る。大舩7千隻、7月半ば頃、倭国の白骨山に至る。
土城を築き、駐兵して対塁する。晦日(30日)に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。
舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃軍は半ば海に没し、舩はわずか400餘隻のみ廻る。
20万人は白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。」
『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕
「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本,行次慶元,卒于軍中。」
この2つの史料の内容は完全に一致する。
「四明」って「慶元」のことだし、「韃軍」とは「蒙古軍」のこと、兵数も韃軍は半数が海に沈んで20万人が置き去りにされたんだから元々40万人だったはずで、阿剌罕伝の数字と一致。
つまり蒙古軍40万人が日本遠征に参加して壊滅したことは複数史料で確認できるんだ。
その他に高麗や日本の史料でも、蒙古軍の壊滅に関する記述を発見できた。
蒙古軍40万人が日本遠征で全滅って、全世界のその後の歴史に影響するレベルの大発見じゃね? >>936
それが無かったら世界史変わってるレベルだからな
ノルマンディー上陸作戦以前では人類史上最大の作戦だろう弘安の役は
モンゴル最大の作戦が破られたことによりモンゴルの軍事的優位が消滅した
やらなければというifがあればどれだけ歴史が違ったかは計り知れない 20万人が置き去りなら全員が虐殺されるわけも無く、日本人はその時に大陸人と混血したのではないか
弥生時代に渡来した人間より多いだろう >>939
置き去りにされた20万人のモンゴル兵の内で虐殺されなかったのは、自ら降伏した2000余人だけだ。
『弘安四年日記抄』閏七月十二日条
「十二日、去夜鎮西飛脚到来云々、蒙古賊皆以滅亡、所残二千餘人、爲降人由、申上云々」
太宰府から京都までは早馬で約10日かかるから、閏7月7日に漸く鷹島上陸にできた江南軍掃討戦の結果がこんなに早く伝わるはずがない。
それに『弘安四年日記抄』は元軍のことを一貫して「異国賊」と呼んでいて、「蒙古賊」と民族を限定しているのはこの閏七月十二日条のみ。
つまりこれは間違いなく置き去りにされた20万人のモンゴル兵掃討戦の記録だ。 >>941
正史で54万になってるのもこれ以降モンゴルの対外に対する武力の優位が消滅したのもただの事実だよね 戦争は基本的に攻める側より守る側の方が有利なのは常識。往路で船酔いの元軍はもともと不利なわけで 「元軍の総司令官である阿剌罕は主力のモンゴル部隊を率いて参戦した」
これって当たり前のことだよね。
今まで阿剌罕のモンゴル部隊参加を否定し続けていたのが異常なだけで。
マルコ・ポーロ『東方見聞録』
「さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵をつけて派遣した。
将軍の一人はアバタン(アラカン(阿剌罕))、もう一人はジョンサインチン(ファン・ウェン・フー、范文虎)といい、二人とも賢く勇敢であった。」 >>
1日本がアウェイの土地で蒙古軍を撃破した奈良解るが、
中国大陸から海を挟み、ホームグランドで防衛陣地築いてた日本が相手の上陸を防いだだけで、
「世界最強国」とか、お前のオツムはおめでてーな。しかも、長い船旅による兵士の疲労や台風の影響はおめーの脳内では「無かった」ことになってるしw
おめーの理屈では、米軍追い出したタリバンが現代の「世界最強国」になるんか? >>945
モンゴル軍はホームグランドの中国大陸で防衛陣地築いていても海を渡ってくる日本に全く歯が立たなかったってさ。
日本側の史料:『太平記』
「結局此賊徒数千艘の船をそろえて、元朝高麗の津々泊々に押寄せて明州福州の財宝を奪い取り、
官舎寺院を焼き払いける間、元朝三韓の吏民是を防ぎかねて、浦近き国々数十箇国皆栖む人々もなく荒れにけり。」
モンゴル帝国側の史料:『論倭』
「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。むかしは「至弱」と雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。
いわんや今は険を恃んで、その強さはまさにむかしの十倍に当たる。
さきに慶元より航海して来り、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。
(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たさなければ、城郭を燔ゼツして居民を略奪する。
海道の兵は、猝かに対応できない。」 どう読んだら
「モンゴル軍はホームグランドの中国大陸で防衛陣地築いていても海を渡ってくる日本に全く歯が立たなかったってさ。」
になるねんw
時代も状況も違うがなw 倭寇>>>>鎌倉幕府軍という意味なら、まだわかる。 日本強いをしたいときは倭寇=日本人
倭寇=反社の時には中国人がメインだから
と使い分けるよね >>1を読んで、このスレはてっきり元寇・鎌倉武士スレだと思い込んでいたところへ、
まさかの倭寇スレだったので、ちょっと頭が真っ白になってしまった。
そこで頭の体操をして、>>946を「9・11のアルカイダ>>アメリカ」の意味に捉え直して自己解決w
946は俺の固定概念を突き破ってくれたが(笑)、>>945の反論になっていないので次回作に期待。 >>920
最近観たNHKの歴史番組では元寇で蒙古軍の馬が航海中に相当数死亡し、処理が大変だったとしていた。
一次史料を知らないので俺にその知識は無いが、このスレの国士様は自己の都合の良い史料のつまみ食いしかしてくれないのでよくわからん。
倭寇ぶっ込んでくる御仁もいらっしゃるしw >>947
日本からの襲撃で慶元が焼の原と化したのは1309年だ。
モンゴル帝国は日本の襲撃に備えて慶元で厳重な防御態勢築いていたのにその有様。
元寇でモンゴル軍が弱いとバレたから日本人は中国大陸でも我が物顔よ。 >>947
日本からの襲撃で慶元が焼の原と化したのは1309年だ。
モンゴル帝国は日本の襲撃に備えて慶元で厳重な防御態勢築いていたのにその有様。
元寇でモンゴル軍が弱いとバレたから日本人は中国大陸でも我が物顔よ。 最重要拠点である博多と慶元(どこか知らんけど)の守備兵力・防御施設の差を比較せんといかんね。
ま、倭寇が鎌倉武士より強いのは痛いほど解った。 「確かに直感表現には「死んでる,魚が」とか「きれい,この花」といった倒置文が少なくない」 「このように歴史を少しさかのぼっただけでも、人類は残酷で危険な世界のなかで進化してきた」のだが、「そういう世界でいちばん恐ろしい強敵とは、ほかの集団だった」 鎌倉幕府軍よりもベトナムの陳朝やインドのハルジー朝の方が強いんじゃね?
マムルーク朝はフレグの残存部隊に苦戦したので鎌倉幕府の方が強いかもしれんが。 だったらベトナムの陳朝やインドのハルジー朝が海を越えて日本へ侵攻してこいよ だったら、鎌倉幕府軍も大陸に渡って蒙古へ侵攻してこいよ レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。