なぜ東ローマは西より1000年長持ちしたのか [転載禁止]©2ch.net
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>>377
マグナ・グラエキアはローマ征服後にラテン化してる
https://i.imgur.com/deToyko.png
現在シチリアや南イタリアに残るギリシア語やギリシア典礼や建築などは
中世ビザンツ時代やノルマン王朝時代に移民や再導入によるもの シチリア東部はまだギリシャ語圏だったようだね
580年頃だとバルカン北部がスラブ化し始めていた
鐙がない時代にはバルカン北部とアルメニアの住民が
カタフラクトを担当していた
鐙が普及するとギリシャ人もカタフラクトが
出来るようになった
ちょうどこの頃にアヴァール族の真似をして
鐙を使うようになり始めた アナトリア東部にはイサウリア人やケルト系のガラチア人がいたけど
カラチア人は先住民じゃなくてヘレニズム時代にビチニア王国が
セレウコス朝との緩衝国にする為にバルカンから招き入れた
マンジケルトの戦い後に生き残ったノルマン人傭兵がガラチアで
自立しようとしたけどドゥーカス朝は自ら鎮圧する事に失敗して
セルジューク朝に鎮圧を依頼したのでアナトリア全土を失った
ドゥーカス朝はノルマン人傭兵を緩衝国にする知恵がなかった ロマノス4世はアルメニアをイスラム教徒の支配から解放し
アルメニア正教徒のアルメニア人をギリシャ正教に改宗させるだけでなく
セルジューク朝の本国イランにまで遠征しようとした
ロマノス4世は第二のアレクサンドロス大王になろうとしたようだ
コンスタンティノープルの宮廷に居場所がないロマノス4世は
東方に自分の王国を築きたかったようだ
ドゥーカス朝はマンジケルトでロマノス4世を見捨てなくても
ロマノス4世を厄介払い出来るはずだった
イラン遠征の為に大勢引き連れていた城攻め用の作業員が
足手まといになった事もマンジケルトでの敗因の一つだけど ロマノス4世は馬鹿正直にマンジケルトで会戦したけど
アルプ・アルスラーンは本国で反乱が起きていて
急いで本国に帰国しようとしていたのだから
ロマノス4世はアルプ・アルスラーンと講和して
敵が帰国してからアルメニアに進軍すれば良かったね >>382
ちな、この敗戦の後、「中世のドル」ソリドゥス金貨の純度が一気に低下。
地中海世界にインフレ圧力を生み出し、ジェノヴァ、ヴェネツィアなど商業都市国家台頭の一因となる。 けど別王朝でも同じ国と考えるなら
エジプトの古代王国はアッシリアに征服されるまで2500年ぐらい続いてるよな >>376
シリア、エジプトは単性論派が主流で、正教会ともカトリックとも反りが合わなかった。
もともと、そういう下地があったところへ来て、ササン朝ペルシアとの戦いの最前線になり、疲弊してたところにイスラム教徒が大挙して攻め込んできたので、ひとたまりもなかった。 >>386
面白そうやけど
Kindle版無いから待つわ
講談社の『生き残った帝国 ビザンティン』もKindle版が出次第すぐ買い直すんやけどはよしてくれ コンスタンティノープルを
日本に例えると淡路島だな
なぜ今そこに本拠を移さないのか?
技術革新で橋も立派にできるしね
いざとなったら爆破して守りもできる >>384
プトレマイオス朝もギリシア人だけど
古代エジプト風の恰好してたりしたし、
プトレマイオス朝までは古代ギリシアじゃないの イベリア半島はヨーロッパに復帰し、
アナトリア半島はヨーロッパから脱落した >>390
古代のギリシア人はアナトリアをアシア(アジア)と呼んでいたんだが >>376
イスラム教徒も案外イタリア人やギリシャ人
みたいな性質があるからではないかな
洋服着たら外見まで似てるし ピザンツ帝国は1000年続いたが、文明の発展が停止したまま続いた印象がある。
中世の西ヨーロッパがよく「暗黒時代」「停滞期」とか言われるのと同じ印象。
東欧史に疎いのですまん。 世界史上最長の王朝って日本皇室になってるけど
幕府はある集団の長が政治の権利を朝廷から預かって政治しているという構造だから
鎌倉・室町・江戸幕府が滅んでも、代理人が滅んだだけで
日本の王朝の存続には変わりはないということだよね?
なら、西ローマとか真似できる余地あったのだろうか?
西ローマ皇室から預かって政治しているという
構造なら、どこの勢力が支配しても王朝は存続できたってころになるな
逆に日本はなんでそれがまかり通ったのだろうかは不思議 >>395
オドアケルは東ローマ皇帝ゼノンの代官ということになっていたし、
東ゴート王テオドリックも東ローマ皇帝の臣下というタテマエだった >>394
西ヨーロッパとはちがってゆっくりとした衰退だな >>398
自由が存在しなかったから
ビザンツ人にとっては皇帝専制以外の政治体制は考えられなかった >>395
やはりゲルマン人の最有力者が
西ローマ帝国の皇帝になるようになる可能性のほうが高いんじゃない?
まあ日本の場合もなんで天皇の権威がずっと長持ちしたのか府市ではあるけどな >>400
日本の場合、ローマ教皇に相当する存在がなかったからな
中国の易姓革命思想も根付かなかったし ローマの場合、他国でいう王朝が成立したのが東ローマ後期になってからで、
それまでは王朝といえるものがなかったっぽい >>400
江戸幕府は、秀忠の時代くらいまで「東朝」とも呼ばれ、京の朝廷に対する
新王朝という意識も有ったようなのだが、家光の時代には早くも「天皇の臣下」と
自己規定をし、松平定信は「政権委任論」を自明の理として受け入れており、
これが後々「大政奉還」の発想につながる。天皇制はしぶとい >>404
秀忠軍が関ヶ原に来れなかったのが
徳川家が天皇家にとって代われなかった最大の原因だろうな
とはいえ、中国とからなら史実での徳川家くらいの勢力でも
新王朝になっていたはず >秀忠軍が関ヶ原に来れなかったのが
徳川家が天皇家にとって代われなかった最大の原因
んなわけない ビザンツ帝国がアラブの大征服運動の時代を生きのびることができたのは、
陸上での敗退とは対照的に、ビザンツ海軍が健在だったことによる
ビザンツ海軍は、ドロモーン型大型戦艦と「ギリシアの火」を投入して、
二度にわたるアラブ海軍の首都への猛攻撃をしのぎ、8世紀半ばに
東地中海海域での制海権を奪回できた
一方の西地中海海域での制海権は、シラクサやタオルミナをはじめとする
シチリアの諸軍港を中心に揺らぐことはなかった >8世紀半ば
その時期はイスラム海賊にずいぶんやられたんじゃね? 当時の西地中海はイスラム教徒が制海権を握っていたよ 近年の発掘により、7-9世紀の西地中海ではビザンツ帝国の影響が意外に残っていたことがわかってきている
サルディーニャ島では9世紀までビザンツ軍がいてギリシア語も話されていた
8世紀半ばの碑文では、撃退したのはランゴバルドの侵攻であってイスラム海賊ではなかった
バレアレス諸島も8世紀はまだビザンツ領土だったことが発掘からも裏付けられている
698年にカルタゴが陥落して以降イスラム海賊が活動するようになったのはその通りだが
9世紀になるとノルマンの襲撃も活発化してくる(塩野はイスラム襲撃ばかり強調してノルマン襲撃をスルーしてるが
9世紀後半に入るとビザンツ艦隊の活動が西地中海で見られるようになる
7世紀は確実ビザンツが制海権を持っており、その後9世紀は後ウマイヤ朝とビザンツの艦隊対立の
間を縫ってイスラム海賊ノルマン海賊が跋扈し、9世紀後半再びビザンツが制海権を得た後
10世紀に最終的にファーティマ朝の制海権に移った
8世紀の西地中海でビザンツが制海権を維持していたかはまだ未解明のところがあり、
9世紀初頭に後ウマイヤ艦隊の興隆を許し、イスラムやノルマン海賊も跋扈していたので
弱体化していたのは確かだがこの時期はどの陣営も制海権を持つほどの勢力ではなかった 「ローマ帝国が東西に分裂して、西ローマ帝国が滅亡した」
というのは、後世から見た解釈であって、当時の人々がそう受け止めていた可能性は低い
3世紀だって、群雄割拠の軍人皇帝時代で「ガリア帝国」が事実上の独立国、
ディオクレティアヌス帝による再統一だしなあ イスラーム勢力が勃興した後も、ビザンツ帝国は地中海制海権の鍵ともいうべき
シチリア島、サルデーニャ島、南イタリアを保持し、アドリア海の支配権を
確保していた
9世紀になると地中海の大部分がムスリムの支配下に置かれ、ビザンツ帝国が
支配できた海は、エーゲ海・黒海周辺だけとなる
この交易圏は基本的に自給自足的な性格を持っていたが、ロシアの商人たちが、
北から毎年船団を組んでやってきて、毛皮・ワックス・奴隷を奢侈品や製品と
交換していた >「ローマ帝国が東西に分裂して、西ローマ帝国が滅亡した」
>というのは、後世から見た解釈であって、当時の人々がそう受け止めていた可能性は低い
そもそも西側の王も当時の認識じゃローマの軍司令官でしかないしな
古代ならローマに皇帝がいて東方に皇帝の代官がいたのが皇帝がコンスタンティノープルに移って西方に皇帝の代官がいるようになっただけの話だし ・ゲルマン人の侵入が激しかった
・東ローマみたいな専制君主制がしけなかった 東側のがゲルマン人の侵入は激しいやろ
というかゲルマン人の割合やゲルマン化の度合いも東側のが多いし ・ローマ理念と皇帝理念が常に対立していた
・東ローマみたいにゲルマン人と同化できなかった 結局大砲でも潰せなかった壁
そもそも西側と対立せず貿易でうまくいっていた(ジェノヴァなど)
西と比較して生活水準や知的水準の低下、喪失がなかった >>1
ゲルマン民族の大移動
イスラム勢力の侵入
など西ローマは問題続きだったから >>419
>西と比較して生活水準や知的水準の低下、喪失がなかった
無かったは言い過ぎ
東もユスティニアヌスの再統一瓦解後に大混乱時代になって
歴史記録もほとんど無い暗黒時代がしばらくあった
正確に言うなら
「西に比べると生活水準や知的水準の低下、喪失は小さかった」 そらキリスト教の嘘を覆い隠すために書いては燃やし書いては燃やししてたら疲弊するわ
しかも紙がなく羊皮紙の高級品を書いては燃やししまくってたんだろ
書くのも手作業で何ヶ月も時間かけて一冊作って
異端になったから燃やされました~ なぜ朝鮮王朝は江戸幕府より長持ちしたのか
と
そのこころは同じ 現代の歴史学において西ローマ帝国の「滅亡」なるものは確認されていない。
そもそも単一のローマ帝国などというものは初めから存在しなかった。エルヴェ・アングルベールが強調したように、その権威の下に多様な人々をまとめあげることで成り立っていたローマ帝国には地域ごとに複数のローマ帝国があった。
帝国が拡大するにつれ帝国は次第に「発散」していった。どの部分が真のローマ帝国であったのかといった議論は無意味である。 ダニエルの第4の獣が滅ぼされた時だろう
コンスタンティノープルをイスラムが滅ぼした ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています