北京の歴史 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>328
五代・後唐の荘宗は初め長安を都にしようと思ったが、
瓦礫だらけの廃墟だったので諦めて洛陽を都にしたくらい。 >>360
その洛陽を首都にしたのも、「時代錯誤だ」とさんざん批判されたようだな
もはや、中国北部の中心は、業とか開封とか、太行山脈の東側に完全に移っていた 開封は水陸交通の要衝だから栄えた。
そのかわり、水害にも悩まされた。
現在の開封市の5メートルも下に、北宋時代の開封が埋まってる。 北京帝国の特徴としては、皇帝の権力がやたら強かった
明代ですでに、近代ヨーロッパの絶対王政の域に到達していた 明の領土は、ほぼ今でいう「内中国」に限られ、チベット・ウイグル・モンゴル・満州には明の統治が及ばなかった 先日も、左翼評論家が「中国は、歴史的に西のシルクロードへの領土拡張を目指してきた。
東の日本や朝鮮には、さほどの関心を示してこなかった」とブログに書いていた。
中国共産党の「一帯一路」構想に心酔し、それを称賛する文章なのだが、
それにしても、文系の大学教授にして、この認識レベルの低さには驚かされる。
やはり、日本人にとって、中国の歴史といえば、思い浮かぶのは漢や唐のイメージ。
とくに、シルクロードに交易圏が広がった唐の長安のイメージが強いようだ。
モンゴル帝国以後の、圧倒的に東の沿海部が中心になってからの、北京帝国の印象があまりにも薄い。
でも、日本でいえば鎌倉時代、ていうか、平安時代の末期くらいからそうなんだよ?
いまだに日本の首都が飛鳥奈良だと勘違いしてるくらいの、ひどい錯覚だ。 その点、朝鮮人は、さすがにここまで平和ボケしていない。
北京帝国にとって、首都の目と鼻の先にある朝鮮半島は、常に重点管理地域であり、逆らえば容赦なく武力制裁を加えてきた。
韓国では、最近も「丙子胡乱」(清の朝鮮侵攻)をテーマにした本がベストセラーになった。 内田樹
東アジア共同体について (抜粋)
2019-01-06
いまは「一帯一路」や「21世紀海洋シルクロード」の構想が示されています。
あまり言う人がいませんけれど、これはきわめて「中国的」なアイディアだと僕は思っています。
いずれも中国人の「中華思想」のコスモロジーにぴったりと合っている。
中国の基本的な趨勢はやはり「西漸」なのです。漢代から、中華皇帝は国内統一が済むと、まず西に向かった。
張騫や李陵や霍去病や衛青といった、われわれが中学生くらいのときから学ぶ人たちのたどったコースはいまの「一帯一路」とほぼ重なります。
「西」へ向かう強い趨向性を持ちながら、その一方で、「東」については、中国人はコスモロジカルな強い物語を持っていない。
朝鮮半島、日本列島、台湾というのは、王化の対象である「東夷」にカテゴライズされます。
「東」について、中国人は特に強い領土的野心を示したことがない。歴史的にそうなんです。
例えば、鄭和の船団は七回にわたって大航海をするわけですけれど、ついに一度も東へ向かわなかった。
・・・韓国の人口が六〇〇〇万人ですから、日本と合わせると二億近い人口をもつ、巨大な経済圏ができる。
生産力も開発力も両国ともにレベルは高いですから、日韓が連携すれば、一気に政治的にも経済的にも世界的なプレイヤーになれる。
ですから、東アジア共同体を立ち上げる場合には、まず文化的に最も近い韓国との連携をうち固めることから始めるのが合理的だろうと僕は思います。 ・・・と内田樹は言うのだが、実態はむしろ逆だ。
中国の歴史は、古代には重心が西にあったが、その後は東に移動して、現代はますます東高西低になっている。
北京の政府は、そりゃ西の中央アジアにも興味はあるんだろうけど、東の日本や韓国・朝鮮・台湾の動向に神経を尖らせるのと比べたら、遥かに深刻さの度合いが低い問題だ。
「日本人の中国史観は、漢や唐のイメージが強すぎ。これが中国に対する見方を歪め、大きな錯覚を生んでいる」と以前から思っていたが、やはりそうだった。 いっそのこと、高校の世界史での中国の扱いを、モンゴル帝国から始めたらどうかと思う。
その方が、現代の中国を理解する上では、よほど役に立つ。 北京帝国による朝鮮半島侵略の歴史も、タブー視して避けているのか、時間がなくて割愛してるのかは知らないが、取り上げるべきだ。
先日も、左翼の知人が「中国は歴史的に、他国を侵略したことがない」と真顔で語るのを聞いて、あきれてしまった。
これじゃ、現在の東アジア情勢がわからないだろう。 明の十三陵
https://static.retrip.jp/article/10441/images/1044117f2ee0e-47ea-475d-bddb-dada3d06e8ee_m.jpg
観光客の感想
・明帝国の栄華をしのばせる広大な陵墓です
・中国のすごさを感じました
ここは北京ツアーでは定番の世界遺産です。万里の長城と結ぶバスが走っているので、先に北京市内から長城への直通バスで向かい、後に十三陵に行くのがおすすめです。 景山公園
・北京で一番好きな場所
・北京に行かれた際にはぜひ!訪れて頂きたいスポットです。
天安門を入りちょうど出口から道を渡った場所にあります。公園を一周しながら階段を上ると360度北京の街が見渡せる名所です。
上から見下ろす天安門方向はまさに映画ラストエンペラーの世界!映画をおさらいして行きましょう。
https://static.retrip.jp/article/10441/images/1044172905860-c813-4c54-bd57-45fd038d8381_m.jpg >「中国は歴史的に、他国を侵略したことがない」
中華人民共和国が今の領域なのも歴代帝國による度重なる侵略の結果だもんな >>334
札幌のような豪雪地帯を首都にするには無理がある。
除雪のコストが半端ないよ。
北京も東京も冬季に乾燥して雪が降らないから、除雪の問題が無い。 でも首都のように頭脳集団が集まる地を北方に置くのは一理ある。
熱い場所なら頭がボオッとしてしまうからな。
近年における東南アジア地域の成長は、冷房の普及も大きいと思う 寒いとこだと、暑いとこから食糧を持ってこないと生きていけないから、全国制覇に乗りだそうとする意欲の強さが違う 天安門から景山公園までどんだけ歩くと思ってんだよw
わざわざ天安門を出発地に設定する意味ないわw >>357
正月の祝いの席に出たフビライの話とかも残してるから
北京でもフビライとマルコ・ポーロが揃ってたのは間違いない
北京は避寒地として設置されてるから正月の催しの記録は必然的に北京になる
何故か北京が都になったとか勘違いしてる書籍や人が多いけど
モンゴル帝国の都はずっと上都
北京は上都が寒い時と遊牧民以外が草原に入らないための物置だったりする >>380
まあ確かにそうだけど、当時の北京の繁栄ぶりは、数々の伝説に彩られている
中華史観のおかげで軽視されてるが、まさに全盛期だ 大都は、冬の3ヶ月の都だったんだな
残りの9ヶ月は上都だ >>379は>>373へのレスね
なんか間が空いてしまった 大都は積水潭という内陸港で天津方面や
江南への運河とつながっているから、
夏場でも物資の中継地・集積地として重要だっただろう
積水潭はまた什刹海(北から西海・後海・前海と連なる三つの池)の
北の入り口であり、前海の南にはさらに北海・中海・南海(明代に新たに掘削)
と池が連なっている
元のフビライが大都を造るにあたっては、北海の瓊華島を中心にしたとも言うが、
その北の什刹海と積水潭を重視したともいう
後者なら物流を重視したとも考えられる
大運河ははるか南方の物産を運ぶが、その終点が首都になったのだ
一気に運河を軸にした経済活動が活発になり、
漢人商人にとっては大都こそ重要な拠点だっただろう
上都は蒙古人が区画ごとにゲルを張って羊を養ってくつろぐためのでっかい田舎だろう
漢人でそこまで毎年移動したのは使用人と御用商人ぐらいだろう
元は後の時代になるほど上都の重要性が減り、草原を離れた蒙古人は
大都に常駐するようになったのではないか >>384
モンゴル人は草原で暮らすのが一番楽しい
現代モンゴル人ですらその行動様式は変わっておらず
ウランバートルに住居を構えてても春夏は草原で楽しんでる
ちなみに元明清で漢人商人にとって一番大事なのは南京
ここが漢人商人の中心地 >>385
南京の重要性はもとからだろうけど、
元で北京の比重が一気に上がっただろ
最大のお得意さんが運河のそばで待ち構えてるんだから
大都の異名カムバリクが元々は具体的にどこを指したかというと、
北京の南のほう、牛街礼拝寺、モスクの辺り
今も北京の回族が集中する町だ(西城区)
元明清とイスラム商人はここを拠点にした
対して漢人の商人は、清朝期の場合これよりちょっと東に行った
前門のあたりを中心としたあたり(西城区と東城区の境目付近)
北京は北方の街にしてはよくがんばって運河をたくさん引いたほうだろう
地図をよく見ると長安門大街の南側のこのあたり(つまり城壁の南外)
にもよく運河が通っていたことがわかる
これも南方の商人がよく活躍していたことが原因だろう 北京っていうと、灰色の石造りの街って印象が強かったな。
牌楼とかデカイ金文字の看板とかビルの上に中華風の屋根が乗った建築とか。 >>387
最近の北京は見てないが、ネットショップが盛んなせいか、リアル店舗がなくなってきてるらしいな スーパーも飲食店も、ネットで注文して宅配というのが主流になってきてるらしい
もはやSF映画の世界だ、現代の北京 キャッシュレス化がよく言われるけど、並行してショップレスになってきていたのか
元々中国は「欲しいものを手に入れる」というのが困難な国で、90年代から00年代は、
「こんな品物がほしい」というのは割と簡単に叶えられるが、
「この会社のこの商品がほしい」というのは実現困難だった
経済発展しても流通と在庫確保がガタガタ
だから通販が主流になるというのはわかる
あと出前もその頃から多く、人件費が安いからどんどん伸びていきそうだった
外食は宴会中心で豪華にやるのはまだまだ続きそうだが 北京は外海と繋がってたのに繋がんなくなったとは何で >>391
いつの時代の話かはよくわからないが、
鉄道、自動車など陸上交通の効率が上がってきて
運河の交通は徐々に衰退していったのだろう 意外とモンゴル帝国は北京をアップグレードしてるよね >>391
モンゴル帝国が、北京と天津を大運河でつなげて、海運を強引に北京まで引っ張ってきた
でも、北京周辺の運河には、「冬になると凍結する」という欠点がある。
明朝が海禁政策で海運を嫌ったこともあって衰退した。 江戸時代の日本は、長崎の出島でオランダ商人に限定して西洋貿易を行った、
清代の中国は、広州でイギリス商人に限定して西洋貿易を行った。 オランダが、長崎でアヘンを売るようなヤバい国でなくて、日本は幸運だった >>397
現代中国SF、評判いいね。
今度読んでみようっと。 景山公園を日本語うぃきぺでぃあでみると
「崇禎帝が李自成軍に攻められたとき首吊り自殺をした槐の木がある」とあるが
中文版のうぃきぺでぃあの方を確かめると
この日本語版の説明は不完全で正しくないことがわかる 日本が、北京を昭和12年から昭和20年まで8年間占領したことは凄いことだが、
習近平、中国国民にしてみれば、最大の屈辱だ チャイナの周辺勢力って必ず一度は首府侵攻やってるよね 北京の地名に残る「胡同」(フートン)という言葉は、横町を意味するが、
もとはモンゴル語で井戸を表す「フトゥク」に由来するのだとか >>407
根絶やし失敗して禍根を残したな。
街を攻撃するときには、一人残さず殺しておかないと。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています