語彙は交易路を行きかった
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
日本語の語彙には、漢語語彙以外にも多くの外来語語彙がみられる。 それらをつぶさにみると、大陸の交易路を実に多彩な系統の人々が行きかい、それにともなって語彙も一緒に移動したことが分かる。 その実例をこれから探って行こう。 >>236 宇佐八幡宮の八幡(やはた・やばた)の由来についてだが、どうやらこの八幡神と応神天皇は同一ではなく、宇佐にはまず八幡神がいて、274年頃に社を建てる神事が行われた際に仲哀天皇、応神天皇、神功皇后が勧請されたらしい。 その後、八幡神と応神天皇が同一だとする観念が定着したようだ。 では、その八幡神とはどのような神かということなるが、元々は震旦国(中国)の神だったが、日本に来て日本鎮守の神となったとする伝承があり、渡来神とするようだ。 宇佐神宮の元社とされる薦神社境内の三角池は渡来人が造ったとする伝承があり、そのことと八幡神渡来神説は関連しているのではないか。 720年に隼人討伐軍が朝廷によって編成されるが、この軍の守り神となったのが宇佐の八幡神で、その八幡神を御輿で運ぶときの依り代となったのが渡来人が造った三角池に生える薦で作った枕だったのだ。 そして、この八幡神の八幡を(やはた・やばた)と読むわけであるが、意味は八流の幡(八本の旗)ということになっている。 しかし、日ユ同祖論からすると、この(やはた)は八本の旗ではなく、ユダヤ人という意味のヘブライ語(ユフディ)だとするのである。 応神天皇を秦氏の血脈だとし、その応神天皇と八幡神が同一なので、(やはた)はヘブライ語の(ユフディ)が語源だとする説は修正が必要だろう。 応神天皇が宇佐に祀られる前から八幡神は宇佐にいたからであり、(秦氏の血脈の応神天皇)は八幡神とは無関係だったからである。 そうなると、渡来神である八幡神の(やはた)とヘブライ語のユフディ(ユダヤ人)がつながるのかどうかという問題になってくる。 その答えを出すには、しかし、データがあまりにも少なすぎるというのが実際だ。 みなさん、さらに勉強してみてくださいね。 >>267 うん。 調べてみたら、そんなことだった。 そうすると、応神抜きで、宇佐の八幡神と渡来ユダヤ人がつながるのかどうか、だね。 ユダヤ人が渡来していた可能性は相当高いのだから、まあ、あるのかも知れんがな。 >>266 訂正 266の上から2行目の274年は、724年の間違いです。 秦氏関連の記事が多くなっているが、別の掲示板に投稿したものを追加しておこう。 「交易の元締め」 5世紀以降、日本の内外の交易の元締めは秦氏が担ったと考えられる。 この秦氏はギリシャ系かペルシャ系の改宗ユダヤ人で、言葉はトルコ語を話す集団だったとみなして、日本におけるトルコ語の語彙を調べている。 そこで、その一例として、紙(かみ)の語彙をクローズアップしてみたい。 紙は漢字としては(シ)の発音であり、一方、(かみ)の発音は和語の発音だとされている。 しかし、その(かみ)が微細な繊維で作ったペーパーを指す言葉になっているのはなぜか、またその語源はなにかなどについてはまったく不明だ。 そもそも、(かみ)とはどのような言葉なのだろうか。 日本で紙が作られるのは6世紀初頭の福井においてだとされているものの、確定しているものではなさそうだ。 そして、その後6世紀半ばになると、欽明天皇元年(539年頃)に「秦人・漢人に戸籍の編集をさせた」という記録が現れるそうだ。 この秦人などの戸籍作成に使われた紙は、行政上の末端組織である郷戸が作ったとされている。 つまり、秦氏の郷戸が戸籍帳の紙を作ったと推測されているもの。 これは、相当信憑性のある記録のようだ。 では、紙を作る技術がその頃に中国からもたらされていたとして、秦氏の郷戸が作った紙の原料は何だったのだろうか。 そもそも、中国で作った紙の原料は、麻のボロ(麻の布地の廃品)だったそうだ。 もちろん、麻に限らず古くから葦、竹、稲藁、綿、楮なども原料として用いられたとされる。 日本では紙は神聖なものとして扱われたので、原料にボロは用いられなかったようだ。 新しい麻が原料とされたと考えられているが、日本には豊富に葦があり、中国でも古くから葦が原料として用いられていたようなので、当初は葦が用いられたのではないか。 その可能性は低くない。 続く 続く そこで、秦氏がトルコ語を話す改宗ユダヤ人だったと想定する立場からみると、葦はトルコ語では kamis(カミ)なので、秦氏は身の回りに生えている葦をカミと呼んでいたことが考えられる。 そして、豊富にある葦を原料として作った戸籍帳のためのペーパーをトルコ語でカミ(葦)と呼んだとすることは妥当なのではないか。 そうなると、紙の発音である(かみ)は、(葦で作ったもの)という意味であることが考えられるということになる。 ここで、葦の発音としてカ音が語幹となっている外国語をみると、 「葦(あし)」 アラビア語 qasab(カサブ) ヘブライ語 kana(カナ) トルコ語 kamis(カミ) ロシア語 kamysh(カミ) などがみられる。 ごく普通の語彙のようだ。 このように、トルコ語を話す秦氏が関連部民の戸籍帳を作るに際して製造したペーパーを、原材料名にちなんでカミ(葦)と呼んだことは、まず間違いないだろう。 このカミの発音に漢字の「紙」字を当てたものが、我々がよく知っている紙(かみ)だということになる。 こうした推定が正しければ、秦氏がトルコ語を話す改宗ユダヤ人であったことの物証の一つとして、この紙(かみ)=葦(カミ)説を挙げることができるのだ。 わははははは。 秦氏は、かっぱえびせんか。 そのこころは、始めたらやめられない。 話は、非常にリアルな流れになってきている。 京都の太秦(うずまさ)の由来は、雄略天皇に遡ると日本書紀に書かれている。 租税のための絹布をたくさん差し出したことから、このことにちなみ「姓を賜ひて禹豆麻佐と曰ふ」とされる。 その「禹豆麻佐」に漢字を当てたものが「太秦(うずまさ)」だ。 さて、この(うず)は、トルコ語の数詞3のuc(ウス)である。 出雲大社の巨大柱である宇豆柱(うずばしら)が大木の柱を三本ひとまとめにした巨大柱であったことが分かっているように、(うず)とはトルコ語の数詞3(ウス)であることはほぼ確かだ。 そして、秦氏の拠点である京都太秦の木嶋神社には三本柱の鳥居がある。 つまり、数詞3はユダヤ教の聖数なのである。 そこで、禹豆麻佐(うずまさ)にトルコ語を当てはめてみると、数詞3(ウス)+masa(マサ=机)→3つの机、となる。 (うずまさ)とは、トルコ語では(3つの机)という意味なのである。 朝廷にたくさんの絹布を納めたから、「うず(たくさん)+まさ(積み上げる)」だという日本書紀のエピソードは信じるに足りない。 では、その(3つの机)とは何か。 続く 続く そのトルコ語uc masa(ウス・マサ)=3つの机とは、何か。 このトルコ語(3つの机)をユダヤ教に当てはめると、契約の箱を納めた幕屋での祭祀に不可欠な祭器に合致するのだ。 まず、幕屋の入り口付近に置かれる青銅の祭壇。 これは、贖罪のために犠牲の子羊、子牛を焼くための祭壇だ。 次に進むと、供えのパンの机が置かれる。 これは神に奉げるものだ。 そして、最も奥の契約の箱に近いところに香壇が置かれる。 この香壇で焚かれる煙は、人々の神への祈りの表象とされている。 この3つの祭壇・机は、神の祭祀になくなてはならない祭器なのである。 つまり、秦氏が話すトルコ語のuc masa(ウズ・マサ)=3つの机は、ユダヤ教の祭祀の必須アイテムの3つの祭壇・机と合致するのである。 そして、秦氏はギリシャ系かペルシャ系の改宗ユダヤ人だというのが、本稿の想定である。 このウズ・マサは、雄略天皇に奉げたたくさんの絹布のみかえりに頂いた姓(かばね)だというのが日本書紀のエピソードなのだが、上にみたように、ウズ・マサとはトルコ語ではユダヤ教の重要な祭器を表しているのである。 深く考えてみれば、秦氏の京都の本拠地がユダヤ教の神の祭祀を行う幕屋であることを表したのが、このウズ・マサなのだ。 秦氏が、ギリシャ系かペルシャ系の改宗ユダヤ人だとする本稿の主張は、いよいよ真実に近くなったと言えそうだ。 ちょっと、ここらで息抜き。 後輩が先輩に「やっぱ、先輩は偉い」と護摩すり。 先輩は照れながら、「君ぃ、おだてるなよ、おれも頭悪いし〜」とかなんとか。 この会話で使われている「おだてる」の古語は、「おだ・つ」だという。 その「おだ・つ」の「おだ」とは、いったい何か。 いやしかし、その正体は、まったく不明なのだ。 これは、「おだを上げる」の「おだ」ではないのか。 「おだを上げる」は、「自分の主張を繰り返す」ことらしい。 その「おだ」は、「お題目を唱える」の略なのだという。 この「お題目を唱える」と「おだてる=煽てる」は同じかというと、どうも同じようにはみえない。 そこで、外国語。 ヒンディー語 aadar(アダ) パンジャブ語 adara(アダン?) ネパール語 adara(アダン) これらは、(尊ぶ、尊敬する)という意味だ。 つまり、アダ(尊敬する)→オダ(尊敬する)→おだ・つ(尊敬する)→おだてる(煽てる)、なのだ。 後輩から、「先輩、尊敬します」と言われたら、おだてられたと思ってまちがいない。 あははははは。 ユーラシア基語とでも言えそうな語彙群があるようにみえる。 その中の一つをみてみよう。 まず、日本語語彙から。 日本語 端(はし)、離れる(はなれる)、果て(はて)、遥か(はるか)。 これらの語彙の語幹は、すべて(は=ha)音だ。 そして、これらの(は=ha)音は、遠隔を意味しているようだ。 そこで、このha音と遠隔の意味を合わせた語彙を外国語に探してみると、次の語彙を挙げることができる。 韓国語 har(ハー)=遥か ベンガル語 phala(ファール)=果て ヒンディー語 parinaam(パリナーム)=果て モンゴル語als(アル)=遥か キルギス語 alis(アリ)=遥か カザフ語 alis(アリ)=遥か フィンランド語 paa(パー)=端 デンマーク語 fjern(フワン)=遠隔 ドイツ語 fern(ファーン)=遠隔 オランダ語 ver(ファー)=遠隔 英語 far(ファー)=遠隔 これらは、始めに挙げた日本語の語彙の語頭音ha(ハ)音と端、離れる、遥か、果ての意味のいずれかに当てはまっている。 モンゴル語、キルギス語、カザフ語は、語頭のp音、h音が省略された形だろう。 全体としては、インドから北上する交易路と、ヨーロッパから日本に至る東西の交易路がクロスする範囲に、このha(ハ)音と遠隔の意味の語彙がみられるようだ。 (ユーラシア基語)とでもいえる言葉があったのではないだろうか。 その基語は、縄文語と深い関わりのある言葉であったと、想像してみるのも面白いかも知れない。 日本語の語彙と同系とみられる言葉が中央アジアに広がっていて、それがヨーロッパにまで波及している様子をみたが、このパターンと真逆に日本語の語彙とフィンランド語の語彙だけがまったくの同系とみられるパターンも一方で存在している。 この二者のみの同系語彙の存在は、非常に興味深い問題を秘めている。 満州の遼河地方で発展した遼河文明は8000年前頃からスタートし、その同時期に西に向かって移動した一派がいたことが学者の研究によって分かっている。 北欧に展開したフィンランド語を話すY-N系の集団がその一派とみられている。 ということは、フィンランド語の基本的な語彙は、8000年前の満州遼河文明の語彙を保持しているということになります。 そして、日本語の語彙とそのフィンランド語の語彙がまったくの同系であるとみることができるケースがあるということは、遼河のY-N系の語彙が直接的に日本にもたらされていた可能性があるということでもある。 これまでに、フィンランド語の語彙と日本語の語彙だけの同系性を示す語彙は、例えば(夜)と(舟)がある。 日本語 夜(よ) フィンランド語 yo(ヨ=夜) 日本語 舟(ふね) フィンランド語 vene(ベネ=舟) さて、この日本語語彙とフィンランド語語彙だけの同系性を示すケースにさらに一つ加えることができる。 日本語 重ね(かさね) フィンランド語 kasa(カサ=積み重ね) このkasa(カサ=積み重ね)は、マウンド、堆積の意味もあり、山の意にも用いられる。 一方、日本語の嵩(かさ)は体積、容積の意味であるが、この日本語のカサ(嵩)とフィンランド語のkasa(カサ=積み重ね、堆積)はまったく同じ発音、意味となっている。 そして、興味深いのは、すでに述べたように、この語彙の発音と意味を同じくする語彙が周辺の国の言葉にはみられないことなのだ。 この語彙の単系の同系性は、一定の人的集団のスムーズな移動を前提として初めてなりたつもののようにみえる。 日本にY-N遺伝子が一定数みられることと、この語彙の同系性は無関係ではないと考えられるのだ。 1万年前の遺跡が朝鮮半島の済州島にみられ、この土器は同時期の九州の土器とよく似た造りであるとされている。 また、朝鮮半島の蔚山の遺跡でも九州の土器とよく似た土器が出土し、この土器は7600年前以降のものだとみられている。 つまり、縄文早期には九州から縄文人が渡海して、長く住んだ形跡がみられるようなのだ。 そして、この時期、朝鮮半島ではこれらの縄文人以外の人が住んだ遺跡はみつかっていないのだ。 一方、その朝鮮半島の北の満州の遼河地方ではね8000年前から人が住んだ遺跡が見つかっていて、この遺跡からはY-Nの遺伝子を持つ人骨が多数出土しているという。 この遼河の8000年前の遺跡では櫛目文を施した土器が出土する一方、隆線文の入った土器もみられ、この隆線文土器は九州の土器とよく似ているとされている。 この8000年前の遺跡で九州の土器とよく似た土器が出土することについては、1万年前〜7600年前には済州島や半島南端部に縄文人が進出していたと考えられる痕跡がみられることから、満州遼河地方へも縄文人が進出していたのではないかと考える学者がいるのだ。 実際は、どうだったのだろうか。 言葉の語彙からみると、その可能性は十分あると考えることができるのだ。 日本語の弓(ゆみ)、結う(ゆう)、歪む(ゆがむ)の語彙とこれと同系とみられる外国語の語彙との対照によって、その可能性を探ってみることにしよう。 続く >>277 上記に示したように同系とみられる語彙は、以下の通りである。 タガログ語 yumuko(ユムコ) 弓、湾曲、曲げる、反らせる、たわむ、お辞儀、蝶結びなどの結び方。 日本語 yumi(ゆみ) 弓。 関連語として、結う(ゆう)、歪む(ゆがむ)。 フィンランド語 ympyra(ユムプラ) 丸、円、輪、巡回、循環。 関連語として、yhteys(ユフティス) 接続、接触。 エストニア語 umar(ウマル) 丸い。 関連語として、umaraid(ウマライ)湾曲。uhenda(ウへンダ)結びつける。uhendusjuhe(ウヘンドゥジュハ)たわめる。 タガログ語はフィリピンの多数派言語だ。このタガログ語話者の原郷は中国南部とされている。 このタガログ語の弓などを表すyumukoと、同じく弓を表す日本語のyumi(ゆみ)はまったくの同系語とみなすことができる。 また日本語のyuu(結う)、yugameru(歪める)は、上記のタガログ語yumukoの曲げる、結ぶの意味とみごとに重なっており、yu音が共通の語頭音となっていることがみてとれる。 (結ぶ)は、紐などを曲げて縛るものであるから、やはり曲げることの一種だといえる。 こうしたことからすると、弓も曲げるものであり、お辞儀も体を曲げる行為であることが分かる。 つまり、タガログ語のyumuko(ユムコ)のyu音と日本語のyumi(ゆみ)、yuu(結う)、yugamu(ゆがむ)のyu音は曲げる、曲がるの意味においてまったく同じ音だと言える。 この日本語の語彙は1万2000年前に南九州に南方から来て上陸した集団がもたらした言葉だと推定されるが、その者たちの原郷もタガログ語話者の原郷と同じ中国南部だと考えることができ、yumuko(ユムコ)とyumi(ゆみ)は同系の語彙とみなすことができるのだ。 そして、この曲げる、曲がる意を表すyu音が、8000年前の満州遼河に果たして到達していたか、ということが焦点なのだ。 続く 上に挙げたフィンランド語は、8000年前に満州遼河のY-N集団から分かれた集団の言葉だとみられている。 ということは、フィンランド語の語彙には、8000年前の遼河Y-N集団の語彙が残っている可能性が極めて高い。 そして、そのフィンランド語の語彙と日本語の語彙に一致するものがあれば、 遼河Y-N集団と縄文人が8000年前に直接接触していたことの証拠とすることができるのである。 そこで、曲がる意を持つ語頭yu音をフィンランド語に探したのが上記のympra(ユムプラ)丸、円、輪とyhteys(ユフティス)接続、接触なのだ。 フィンランド語と同系のエストニア語では、umar(ウマル)丸い、umaraid(ウマライ)湾曲、uhendusjuhe(ウへンドゥジュハ)たわめる、 uhenda(ウへンダ)結び付けるがみられるが、このu音はフィンランド語のyu音と極めて近く、また語彙の意味もまったく同じである。 これらのフィンランド語の語彙やエストニア語の語彙をみると、日本語のyumi(弓)、yuu(結う)、yugameru(歪める)のyum音、yu音と同じであり、意味も同じであることが分かる。 日本語の語彙とまったくの同系であると言えるのだ。 続く >>280 そして、重要なのが、このフィンランド語とエストニア語の曲がる意の語頭yu音が、中国南部を原郷とするタガログ語の曲がる意のyumukoの語頭yu音とも一致することなのだ。 中国南部発祥の曲がる意の語頭yu音が縄文語のyumi(弓)、yuu(結う)、yugameru(歪める)などの言葉を通じて、満州遼河のY-N集団にもたらされたことは、ほぼ確かであろう。 つまり、8000年前には、九州系縄文人が満州遼河のY-N集団に到達していた可能性が極めて高いということになる。 学者の指摘する、遼河の隆線文土器は朝鮮半島に進出していた縄文人がもたらしたものだという説は、上記の語彙の語頭yu音の一致によって、まさに正しいことが分かるのである。 >>279 当たり前。 弓は中石器時代からあるそうだからな。 問題は、その呼び名だワイ。 ユミ(弓)の発音はスマホと同じに、1万2000年前に中国南部からもたらされたものだ。 スマホと弓が一緒に発掘されたらしいぞ。 もうすぐ展示するそうだ。 スマホは水洗いしたら新品そっくりだそうだ。 >>281 上記では、フィンランド語のympyra(丸い、円)、エストニア語のumar(丸い)と日本語のyumi(弓)、yuu(結う)、yugameru(歪める)、 タガログ語のyumuko(弓、曲げる)のそれぞれの語彙がまったくの同系の語彙であることを示したが、 このことから、8000年前の満州遼河地方に九州系縄文人が到達していた可能性が極めて高いことを推定した。 その際、フィンランド語のympyraの語頭y音とエストニア語のumarの語頭u音が非常に近い音であることを挙げた。 このy音とu音の近さは、別の語彙でも同様であることを示すことができる。 フィンランド語 ylos(ユロス) アップ、上(うえ) エストニア語 ule(ウラ) オーバー、上(うえ) この二つの言語では、上(うえ)を意味するの語彙の場合は、y音とu音はほぼ同じ音であり、 同じ意味を持っていることが分かるのだ。 さて、そこで、この二つの語彙の場合、発音が日本語の語彙と極めて類似していることに気が付いただろうか。 つまり、日本語の上(うえ)の語彙の語頭u音とフィンランド語の上(うえ)を意味するylosの語頭y音、エストニア語の上(うえ)を意味するuleの語頭u音が、 発音と意味においてまったく同じだということなのだ。 このように、このケースにおいても、日本語の語彙と8000年前に満州遼河を離れたフィンランド語、エストニア語の語彙の語頭音と意味が一致しているのである。 なお、上(うえ)を意味する語彙においては、韓国語でもwi(ウィ)であり、日本語の上(うえ)と極めてよく似ている。 この韓国語の場合も、縄文人との接触の結果と考えるのが妥当だろう。 いずれにしても、満州遼河のY-N集団と九州系縄文人が満州遼河地方で直接接触していたことは、まず間違いないと言えるのだ。 わははははは。 ヒンディー語系の語彙が少なからず日本語の語彙にみられる。 kathin(カチン)→硬い。 これは、日本語のカチカチ(非常に硬い)の語源の語彙だろう。 また、katana(カータナー)→切る。 これは、まぎれもなく日本語の刀(かたな)の語源の語彙だ。 これらのヒンディー語の語彙が、どういう経路で日本語の語彙に紛れ込んだのかが不明。 おそらく交易によってもたらされた語彙であろうが、その経路がつかめないのだ。 同じくkavach(カバチ)は鎧兜のことであるが、日本語では(かばち=頭)の語彙として用いられている。 中国の商人による交易品の名称として、日本語に紛れ込んだのだろうか。 さて、では、次の語彙はどのように解釈すればよいだろうか。 日本語 からっぽ(中に何も無い) ヒンディー語 khaalee(カリ)→からっぽ パンジャブ語 khali→からっぽ ベンガル語 khali(ハリ)→からっぽ ネパール語 khali(ハリ)→からっぽ 日本語の(からっぽ)の(から=空)は、ヒンディー語の(カリ=空っぽ)が語源であるのは、まず間違いない。 だがしかし、この語彙がどのような経路で日本語に紛れ込んだのか、それが謎なんだよなあ。 >>284 ヒンディー語地帯のインド中部からチベットのラサを通って蘭州に至り、そこからゴビ砂漠の南縁をつたって瀋陽に出る交易路があるな。 このルートであれば、中国語の影響を受けずに日本に到達することが可能。 まあ、北部のパンジャブ語系の語彙も日本でみられるから、チベットのラサを経るルートではなく、パンジャブから北回りで蘭州に至るルートをとり、そのあとは瀋陽まで同じ道筋で日本に至ることができる。 いずれにしても、ヒンディー語の語彙は中国本土には入らずにモンゴル南縁を通って日本までやってきたと考えるのがよさそうだな。 日本語の語彙の内かなり古い語彙がモンゴル語やトルコ語などの語彙と同系であるケースが少なくない。 今回の語彙は、その同系の範囲が遠く英語にまで広がっていて、その波及路が古いシルクロードと重なっているかのようにみえる。 まず、その広がりを見てみよう。 英語aie(空気)ーラテン語aere(空気)ーギリシャ語aeras(空気)ールーマニア語aer(空気)ー カザフ語awa(空気・天空)−キルギス語aba(空気・天空)ーモンゴル語agaar(大気・天空)ー日本語agu(上ぐ=高くする) まさに、ユーラシア大陸横断の規模だ。 そして、これらの東西一直線の語頭a音のつながりの内のキルギス語のaba(空気・天空)から 語頭にh音を加えつつ南のヒンディー語hava(空気)へと語彙が分岐していて、 そのヒンディー語のhava(空気)からは再び東西一直線にアラビア語〜ミャンマー語へと波及を続けているのが分かる。 アラビア語hawa(空気)ートルコ語hava(空気)ーペルシャ語hava(空気)ーヒンディー語hava(空気)ー ミャンマー語hava(空気) この北と南の2列の語彙のつながりは、カザフ平原を東西につながる古シルクロードと その南を東西につながる新シルクロードの交易路にぴったりと重なっていて、さらに古シルクロードと新シルクロードを 南北につなぐキルギスのタシケント〜インドのニューデリー間の交易路ともきっちり重なっているのである。 交易路上を語彙が移動しているさまを俯瞰できる、みごとな好例だと言える。 しかも興味深いのは、日本からカザフに至るエリアでだけ語頭a音の語彙が天空の意味を持っていて、 それ以外のエリアでは天空の意味は脱落していることだ。 また、そのうちでも、日本語のagu(上ぐ=高くする)には空気・大気の意味がなく、天空の意味とだけつながっているのが面白い。 日本語のagu(上ぐ=高くする)の語頭a音が、これらの外国語の語彙の基音となっているように見える。 そして、この日本語のagu(上ぐ)の語頭a音は、ama(天)の語彙の語頭a音とまったく同じ音であり、このa音は(うえ=上)を意味する基幹音であると みなすことができ、モンゴル語などの天空の意味の基となっていると考えることができる。 つまり、ユーラシア大陸に広がる空気・天空の語彙の語頭a音の起源が、日本列島にあったということになるのだ。 >>286 訂正 5行目の「英語aie(空気)」のaieはairの誤り。 言語には、どうやら、語頭に母音が付くのを厭わないグループと、語頭に子音を付けないと落ち着きがわるいグループがあるようだ。 日本語の(アマイ=甘い)はみごとに語頭音が母音で、この日本語の語彙と同系とみられるモンゴル語のamtat(アムタト=甘い)も同じく母音のa音がついている。 一方、韓国語では、(アジ=味)を意味するのがma(マ)。語頭に子音がつくこの韓国語語彙と同系とみられるのが、フィンランド語のmakea(マケア=甘い)とエストニア語のmagus(マクス=甘い)だ。 おそらく、日本語のアマイ(甘い)の語彙が韓国語やフィンランド語に流入したときに、語頭音が母音となることを避けて母音のa音が脱落したということだろう。 一方、語頭に母音がつくことを厭わないモンゴル語では、そのままに日本語のアマイ(甘い)のアマ音が流入したことが考えられる。 そうすると、日本語の話法は韓国語やフィンランド語よりもモンゴル語の話法に近いということになってくる。 このように、日本語の語彙がモンゴル語の語彙と直接的な同系性の度合いが強く、韓国語の語彙とはやや遠い関係であるようにみえるのは、実はこのためなのだろう。 なので、日本語のアマイ(甘い)と韓国語のmas(マス=味)、フィンランド語makea(マケア=甘い)、モンゴル語amtat(アムタト=甘い)はいずれもみな同系の語彙とみなすことができる。 さてところで、その語頭母音を厭わないモンゴル語のアマイ(甘い)意を表すamtat(アムタ)の語尾についているtat(タ)は、いったい何か。 面白いことに、チュルク語系のアマイ(甘い)意を表す語彙が、このtatなのだ。 キルギス語tattuu(タトゥー=甘い)、カザフ語tatti(タティ=甘い)、トルコ語tatli(タトル=甘い)。 したがって、モンゴル語のamtat(アムタト)は、am(日本語のアマイと同系)+tat(チュルク語の甘い意のタトと同系)の(甘い甘い)という重語であることが分かる。 ということは、日本語・ツングース語圏とチュルク語圏の地理的な境界線上に位置しているのがモンゴル語ということになるということか。 そして、双方の(甘い)の語彙を受け入れて、自前の(甘い)意を表す語彙は失われてしまったということになる…か。 甘い は 天居、あまにいるかの如き幸福な味わい、が語源だろうな。 >>289 その解釈はアマイ。 発音が違うのよ。 同音異義語とは言うものの、実際には同音ではなくハチオンが違うから、区別がつくの。 音を文字で表すのでなくて、口舌のどの動き、動かし方、肺の収縮速さなどで表記する方法が あるといいですね、文字というよりは記号 人間の脳やAIだと表記しなくても、ニューロネットワークにそういう知識を自動蓄積する >>291 そういう新しい方法が試みられるのは歓迎します。 AIはそういうの得意でしよう。 咲く花の明るい野辺に…と春の光景を描くと、その(咲く)という語彙はファンタジックな語源を思い浮かべる。 しかし、現実はそのようにファンタジックではなかったようだ。 咲く(サク)は裂く(サク)に由来する言葉のようで、蕾の閉じた花弁が大きくなりその蕾の花弁がいくつにも裂けて開くことが咲く(サク=裂く)だったと考えることができる。 蕾の花弁が裂けて開くことが、咲く(サク=裂く)の言葉の語源というわけだ。 そして、このことから導けるのは、(サ)音には裂ける意味があったということ。 そこで、この裂ける意の(サ)音を追いかけると、面白いことが分かるのだ。 韓国語で(切る)意を表すのがsaggam(ハガン)で、このsaggam(ハガン)の語頭音は元々はサ音だったと思われる。 日本語の裂ける意の(サ)音とこの韓国語の切る意のsaggam(ハガン)は同系語彙だろう。 次にモンゴル語をみると、咲く意を表すのがtsetselekh(セセレフ)、花の意を表すのがtsetseg(セセ)。 そして、切る(分割する)意を表すのがhesegleh(ヘセレフ)で、咲く意を表すtsetselekh(セセレフ)とほとんど同じ発音となっている。 この咲く、切る意を表すモンゴル語の(セ)音は、明らかに日本語の咲く・裂く意の(サ)音と同系であり、 韓国語の切る意を表すだけのsaggam(ハガン)よりも日本語のサク(咲く・裂く)の語彙に近いと考えられる。 さて、問題はここからで、前にも述べたが、なぜモンゴル語の語彙と日本語の語彙が非常に近い同系性を示し、 一方、韓国語の語彙は同系ではあるものの、なぜ意味が一部だけに限定されることになるのか。 仮説としては、日本語の語彙とモンゴル語の語彙は直接的な接触の結果であり、韓国語とは間接的な波及によるものであるとすることが可能だ。 韓国語の祖語は地理的にはモンゴル語よりも遠方にあったために、日本語の語彙と韓国語の祖語は直接的な接触がなかったのだとするわけである。 さて、ことの真相は奈辺にありや…。 日本語の鹿(しか)は、(し=雄)+(か=鹿)=雄鹿のことだとする解釈がみられる。 雌鹿は、(め=雌)+(か=鹿)ということになるそうだ。 しかしながら、雄(おす)を意味する(し)音の発音になる語彙の例はあるのだろうか。 また、鹿を(か)と発音するのは万葉仮名にみられ、鹿を(か)と呼んだとすることは一応肯首することができるが、 単に、(しか=鹿)の呼称の語尾音の(か)を取り出して(か=鹿)としただけではないか、という疑問も出てくる。 つまり、(か=鹿)の語彙があるのだとすれば、その(か=鹿)の語源は何であったのかということになってくるのだ。 そこで、(か=鹿)の語彙があったとみなした場合、(しか=鹿)の(か)音は、狩る(かる)、刈る(かる)の語彙の(か)音から派生した語彙で、 鹿が狩りの対象だったことから(狩る動物)という意で鹿を(か=狩)と呼んだことを考えることができる。 そうすると、(し)は、肉を意味する(しし=宍)の(し)で、(しか=鹿)は(肉を得るために狩る動物)の意ということになってくる。 このように、(か=鹿)は、(か=狩る)意から派生した語彙なのだろうか。 また、その(か=狩)の由来はどこに求めることができるのか。 そこで、(か=狩る)意を表す語彙を探してみると、ヒンディー語のshikaar(シカー)、ペルシャ語のshkar(セカー)がみられる。 この(狩る)意味を表すヒンディー語のshikaar(シカー)が、日本語の(しか=鹿)と発音が非常によく似ていることが分かる。 したがって、日本語の(しか=鹿)は、(狩る)意のヒンディー語shikaar(シカ―)が日本でそのままそっくり(狩る動物=鹿)の呼称となったと考えるほうが分かりやすい。 ただ、ヒンディー語の語彙の場合は、他のヒンディー語の語彙と同様、日本までの移動経路上のモンゴル語などに類似語彙がみられないのが難点だ。 モンゴルを経由しないで内モンゴルの南縁をつたった移動経路が考えられるが、これは現在単なる想定以上のものではない。 経路の問題を今は棚上げすると、日本にもたらされた(狩る)意のヒンディー語shikaar(シカー)のkaar(カー)音だけが取り出されて(か=狩る)の語彙が生まれたとすることも可能だ。 いずれにしても、(しか=鹿)の語源がヒンディー語の(狩る)意のshikaar(シカー)だとするのは、非常に魅力的である。 鹿は元々は「シシ」で中国から「獅子」の単語が入って混同を避けるために 「シシカ」になって「シカ」になったのではなかったかな? メカニックは牝鹿肉、メカニカルは牝鹿に狩る、といったところか… >>295 その(シシカ)の(カ)は、どこから来たのよ。 肉を(シ)と呼ぶことは、もうひとつ腑に落ちんね。 体のことは身(ミ)で、刺身、刀の身、受け身、身に覚えがないなどの用例がある。 この体を意味する身(ミ)が肉をも意味するのは、鶏のササ身(胸肉)の用例で理解しやすい。 そして、この肉を意味する身(ミ)音を語幹とする語彙は、ワールドワイドなのだ。 英語語 meat(肉)ールーマニア語 miez(肉)ーパンジャブ語 mita(肉)ーモンゴル語 amitan(獣肉)ー日本語 mi身(肉) しかし、肉を意味する各国の語彙の中で、日本語の(シ=肉)は極めて珍しい語彙のようだ。 この(シ=肉)は、何か別の語彙からの転用なのではないだろうか。 >>299 けものの意の(しし)は、中国語の(獅子=しし)由来だろう。 それは、おめが書いていたとおりだよ。 その(獅子=しし)がなんで(しし=肉)なるか。 猪(いのしし=猪ノ獅子)。 その(獅子の肉=猪の肉)だから(しし=肉)。 そんなところだろう。 一方、縄文由来の肉を表す語彙は、身(み)。 いずれにしても、(しか=鹿)の(し)がその獅子(猪)の(し=けものの肉)だとしても、(か)は何よ。 (か)の説明がつかんだろ。 >>301 その(しか)の(か)は、狩る、刈る意の(か)だとするのも可能だが、 こじつけ感が強い。 単純に、ヒンディー語の(狩る)意のshikaar(シカー)をそのまま鹿の呼び名に当てたと考えるほうが理解しやすい。 >>300 元々けものを「しし」と言っていて その後中国から「獅子」が入って来て混同したんだよ >>303 (しし)を付けるのはイノシシだけ。 ほかのけものに(しし)は付かない。 現代中国語でブタはzhu(チュー)だが、古語ではshi(シー)だそうだ。 つまり古代中国語では、shishi(シシ)はブタだ。 日本語の上古音では(しし)はイノシシのことだから、 イノシシは(猪豚→猪肉)のことだな。 まあ、(しし)を肉の意味で用いるのは、中国語の(しし=豚)由来ということだろう。 そこで、シカ(鹿)のシを肉の意とすれば、ではカとは何の意味なの? 狩る、刈るの(カ)? 狩りで獲た肉=シカ(鹿)? やはり、狩る意のヒンディー語shikaar(シカ―)→シカ(鹿)のほうが落ち着きが良い。 さて、顔(かお)の意を表す元々の言葉は、面(おも)だったとされている。 そして、この面(おも)から表(おもて=面手=前)の語彙ができ、またその面(おも)の表情から思う(おもう)の語彙ができたのだろう。 では、この顔(かお)を表す面(おも)の言葉は、いったいどのような成り立ちの語彙なのか。 例えば水面(みなも)の言葉があるが、この水面(みなも)は水の面(みずのおも)の短縮形だとされる。 面(も)と読むのは、面(おも)の音韻変化だというわけだ。 面(おも)はあくまでも(おも)であって、それが元々から顔の意を表す発音だということになる。 しかしながら、ではその面(おも)の語源は何かということになると、語源は不明なのである。 つまり、なぜ(おも)の発音が顔の意味になるのか、その由来がまったく説明できないのである。 そういうわけなので、日本語の語彙ではなく、外国語の顔を意味する語彙を探ってみると、次の語群がみつかるのだ。 顔 クメール語 mouk(モフ) ベトナム語 mat(マッ) タガログ語 mukha(ムア) マレー語 muka(ムカ) いずれもm(ム)音が共通しており、このm(ム)音に顔の意味があると考えられる。 これらの語彙は、オーストロアジア諸語、オーストロネシア諸語と分類される語系で、そもそもの起源地は太古の中国南部とされいる。 そこで日本語の問題の面(おも)と対照させてみると、omo(おも)のm音とこの各国語の顔の意を表す語彙に共通する語幹音であるm音がぴったりと重なることが分かる。 続く 日本語の面(おも=omo)のm音と、顔を意味するクメール語などの語彙の語幹音のm音が、ぴったり重なることが分かるわけだが、 このことは、日本語の面(おも)と上記のクメール語などの各国語の語彙は同系語だとみなすことができるということを表している。 そうなると、面(おも)は、(お)+(も)の複合語であり、顔の意を表しているのは(も=mo)音だということになってくる。 では、(お)の音は何かというと、丁寧語を表す接頭辞であることが考えられる。 顔をお顔というのと同じである。 つまり、面(おも)とは、お顔という表現だということになる。 このことは、面(おも)は(おも)それ自体で顔の意を表しているとする2音不可分の考え方とはまったく異なり、面(おも)は(お)+(も)の複合語であるとする考え方だと言えるのだ。 このように、日本語の面(おも)の語彙は元々は面(も)であり、この面(も)は顔の意を表すクメール語のmouk(モフ)などの東南アジア諸国の語彙と同系の言葉であって、太古の中国南部を起源地とする語彙だと推定することができる。 そしてまた、この面(も)は、太古に海を渡った海人たちがもたらした語彙だったと考えることができるのである。 日本語の語彙には、他国の語彙と同系のものが少なからずあるようだ。 物を売る際の売り方の一つに(バラ売り)がある。 この(バラ)とは、いったい何に由来する言葉なのだろうか。 今回は、それを探ってみよう。 (バラ売り)は、一定量をまとめて全部売る売り方に対して、それを小分けして売る売り方だという。 ということは、その(バラ)とは小分けした状態を指す言葉だということになる。 この(バラ)を重ねた(バラバラ)が分散状態を指していることからも、(バラ)が少量に分散した状態を意味していることが理解できるのだ。 そこで、この少量に分散した状態を指す(バラ)が、どのようなことから生じた言葉であるのか推定してみようというわけなのである。 この(バラ)の同系語を追跡してみると、例のごとくモンゴル語、エストニア語、フィンランド語に見出すことができる。 (少ない) モンゴル語 baga(バガ) エストニア語 vahm(バーヘム) フィンランド語 harvat(ハルバト) このうちのモンゴル語のbaga(バガ)の関連語をみるとbituu(ビトゥー)がある。 bituu(ビトゥー)は割れる、別れるの意味を表している。 物が割れて、破片に別れる意がbituu(ビトゥー)の語彙の中にそれぞれ表現されているということである。 少ない意を表すbaga(バガ)と語頭音b音が同じであり、これらの語彙は一連の同系語であるとみることができる。 物が割れて破片に別れ、その一つ一つの破片は元の本体と比べて体積が少ない、というような成り立ちの言葉ということになる。 続く この割れる、別れる意を表すbituu(ビトゥー)に対照する日本語の語彙は、割れる、別れる意を表す(ワレル)(ワカレル)の語彙がそれである。 wareru(ワレル)、wakareru(ワカレル)の語頭音はともにwa音であり、次にka音があるかないかだけの違いであり、wareruからwakareruの語彙が生じたことが推測され、 この二つの語彙は同系の語彙であることが分かる。 とすると、この日本語の(ワレル)(ワカレル)の語彙と、モンゴル語のbituu(ビトゥー)に割れる、別れるの意味があることとは、ほぼ同じであるとみなすことができる。 日本語のバラ(少量)の語頭ba音とワレル(割れる)、ワカレル(別れる)の語頭wa音はよく似ているので、これらの日本語の語彙を同系とみなせば、モンゴル語のbaga(バガ=少ない)、bituu(ビトゥー=割れる、別れる)の関係は、 日本語の(バラ=少量、分散)、(ワレル=割れる、ワカレル=別れる)の関係と対照させることが可能となる。 そしてこのように、バラ(少量、分散)が、割れることや別れることと関連があるということになれば、 少量や分散を意味する(バラ)の語彙は物体が落下するなどして割れて小片に散らばる際に発するバンという破裂音に由来する語彙であると解釈することが可能になるのだ。 つまり、(バラ売り)の(バラ)の語源は、土器などを落とした際に発生するバンという破裂音であろう。 このように考えると、破る、割るを意味する中国語の破(ハ)のha音や、英語のbreak(割れる)のb音なども、日本語のバラのba音と同列とみなすことが可能となってくる。 これはおそらく、間違いではないだろう。 北方環太平洋民族がアイヌ、イヌイットとイヌは共通なのかな >>293 この日本語の咲く(サク)の(サ)とモンゴル語のtsetseglene(セセグレネ=咲く)の(セセ)が同系なのは明らかだが、どうも日本語の語彙とモンゴル語の語彙の間には何か深い関連がみられるようなのだ。 日本語では、 裂けるのサ、 咲くのサ、 栄えるのサ、 幸(さち)のサ は皆同系の音であり、これらの語彙は咲くのサ音を核心音として一つの語彙グループを構成しているようにみえる。 一方、モンゴル語でこれらと対応するのが次の語彙だ。 切れる hesegleh(ヘセグレフ) 咲く tsetseglene(セセグレネ) 繁栄、裕福、盛況 tsetseglelt(セセグレル)=この語彙は日本語の栄えるに対応する。 多量の財産 tsetseglelt(セセグレル)=この語彙は日本語の幸(さち)に対応する。 これは、咲く意のtsetselene(セセグレネ)の(セ)音が核心音となって一つの語彙グループを構成していることが分かる。 そして、このモンゴル語は、上記の日本語が咲く意の(サ)音を核心音として一つの語彙グループを構成しているのとまったく同じようにみえる。 咲くから栄える、幸(さち)へと変化する語意が、モンゴル語においてもまったく同じ展開をしているということなのである。 このことは、ある語彙が別の集団に波及して同系語が拡散していく現象とは、何か根本的に異なった同系性を示しているようにみえるのだ。 日本語とモンゴル語の(咲く)の(サ・セ)音を核心音とするそれぞれの語彙グループは、双方同時的に成立しているのではないかとの想定が可能になってくる。 つまり、日本語とモンゴル語は非常に近い地理的範囲において成立しているのではないかと思わせるのである。 日本語の現郷とモンゴル語の原郷は、ほんの隣同士だったのではないかと。 人間を意味する語意では、アイヌやイヌイットと同系なのは、 人間 フィンランド語 ihminen(イフミネン) エストニア語 inimlik(イニムリク) デンマーク語 individ(エンディビド) 英語 individual(エンディビジュアル) があるな。 英語のindividualは「分けられないもの」でinは否定語だから完全に違う 否定形に用いるinの語彙のその大元にin=個(一つ)の語義があると思う。 その個としてのin(イン)と人間の意のイヌの語彙は、元々は同系のようにみえる。 個がどうやって否定語のなるんだ? 是非とも例を挙げてみてくれ 語彙の伝わる速さの方程式のようなものがあるといいが 語彙の新しさ、同種語彙が受け入れ側に存在するかどうか、交易の頻度、 変数が多すぎて無理だ individualは撤回。 むしろ、(一つ=個)を表す ドイツ語 ein デンマーク語 een オランダ語 een などのゲルマン語と人間を意味するアイヌ、イヌイットのinがつながっている可能性が高い。 また、このein(一つ=個)などは、ドイツ語の私を表すich、英語のiなどと同系とみられるので、高緯度地帯にイ音で私、個人・人を表す表現形があったと推測される。 追加 日本語のひ(ひふみよのひ=hi)も同系の可能性が高い。 さて、日本語とモンゴル語、フィンランド語には、発音と意味が非常によく似た語彙が目立つ。 古い時期に互いに近い場所を原郷としていた可能性が考えられる。 ところで、日本語の(水=mizu)と韓国語の(水=mul)、ツングース基本語の(水=mu)は、同系の言葉ではないかとする考えがみられる。 語頭のm音が共通しており、このm音に水の意味があるのではないかというもの。 確かに、韓国語の(水=mul)とツングース基本語の(水=mu)は同系のようにみえる。 しかし、日本語の(水=mizu)が韓国語の(水=mul)、ツングース基本語の(水=mu)と同系であるとするのは、あやしいのではないだろうか。 というのも、日本語の(渦=uzu)の語尾音はzuで、(水=mizu)の語尾音のzuと同じであるので、水の意味は語尾のzu音にあるのではないかと疑われるからである。 (渦=uzu)のu音は内側を意味しているとすれば、(渦=uzu)は内側へ流れる水の意味になる。この解釈は落ち着きが良い。 とすれば、(水=mizu)はmi+zuの構成であり、(尊い水)などの意味が考えられることになる。 では、この日本語の(水=mizu)のzu音に水の意味があるとすることについて、他の国の言葉にそのような例を見出すことができるだろうか。 そこで、モンゴル語、フィンランド語、チュルク諸語の(水)を表す語彙をみてみることにしよう。 続く モンゴル語などの(水)を表す語彙は、次の通りだ。 水 モンゴル語 us フィンランド語 vesi キルギス語 suu カザフ語 sw トルコ語 su モンゴル語とフィンランド語の水を表す語彙では、s音は語尾にみられ、これは日本語の(水=mizu)のzu音が語尾にあるのと同じだ。 キルギス語、カザフ語、トルコ語では、s音は語頭にみられる。 これらをみれば、語尾、語頭の違いはあっても水の意味はs音にあるようで、いずれも同系であることが推定される。 ということは、日本語の(水=mizu)のzu音に水の意味があるとすることは、むしろモンゴル語やフィンランド語、チュルク諸語など広域における水の意味を表すs音と同じであり、これらと日本語の(水=mizu)のzu音は同系であると考えることができるのである。 また、日本語の(水=mizu)のzu音はmi音とつながることにより濁音化しているが、本来はmitu、あるいはmisuであろうから、一層モンゴル語などのs音との類似が際立つことになる。 このように考えると、日本語の(水=mizu)は、韓国語の(水=mul)、ツングース基本語の(水=mu)とは同系ではないとみなすことができそうだ。 むしろ、日本語の(水=mizu)はモンゴル語の(水=us)、フィンランド語の(水=vesi)、キルギス語の(水=suu)、カザフ語の(水=sw)、トルコ語の(水=su)と同系の言葉であろう。 そして、この(水=s音)は中国語の(水=shui)とも同じ系統であることが推測されるので、水を意味するs音は非常に広範囲にわたる基礎語であると考えることができるのだ。 みず(水)って、南から来たということはないですか タガログ語、ミャオ語、マレー語 タミール語は違うようです >>325 (水の)タガログ語はtubig。 マレー語はair、rab。 ベトナム語はnuoc。 クメール語はtuk。 タイ語はna。 タガログ語のtubigとクメール語のtukは似てますね。 ベトナム語のnuocとタイ語のnaは似てます。 しかし、日本語の(水=mizu)はこれらの南方語とは、似ていませんね。 (水=mizu)は、北方系の語彙ではないでしょうか。 特に、モンゴル語のusと似てますね。 日本語の語彙とモンゴル語の語彙にはかなり似たものがありますね。 日本語の水は元々「みづ」ですから/midu/で考えるべきじゃないでしょうか 旧かな遣いでは、(みづ)のようですね。 濁音を抜いた(つ)音に水の意味があるのであれば、水を表すタガログ語のtubig、クメール語のtukのtu音と同じですね。 これなら(みづ)は南方系ということになってきますね。 古事記 応神天皇 髪長比売 「美豆多麻流」(みづたまる=水溜まる) 日本書紀 清寧天皇二年冬十月 「寐逗愈凱麼」(みづゆけば=水行けば) 万葉仮名(つ)=tu、(づ)=du 水=みづ←みつ=mitu 水 タガログ語 tubig クメール語 tuk (水=みづ)は、タガログ語tubig、クメール語tukと同系の可能性が高そう。 >>326-329 ありがとうございます。 調べたかったが、ぐぐるしかできないのであきらめました。 みずだからひょっとすると海関係かなと思いました。 さて、(雨が降る)は雨粒が上から下に落ちる現象を指し、(降る=ふる)がその落下を意味する語彙だ。 降る(huru)のhu音に、上から下に落下するという意味があることになる。 そこで、このhu音の語幹音であるu音に落下する意味のある各国の語彙をみてみると、次の語彙がある。 落下 モンゴル語 unalt(ウナル) フィンランド語 pudota(プドタ) 韓国語はnaelineun(ネリネウン)だが、これはモンゴル語のunalt(ウナル)からu音が消えた語形であるようにみえる。 このように、これらのu、pu音に落下の意味があることが考えられ、u音がその落下の意味の語幹音とみることができる。 そして、日本語の(降る=huru)のhu音もu音が語幹音であるとみなせるので、日本語のhuru、モンゴル語のunalt、 フィンランド語のpudotaの語彙は皆同系の語彙であることが分かるのだ。 しかし、ここで興味深いのは、モンゴル語のunalt、フィンランド語のpudotaは(落ちる)の意味とともに(降る)の意味も持っているが、 日本語の(降る=huru)には降る意味だけしかなく、落ちるの意味が欠落していることだ。 つまり、落下そのものを表す日本語の語彙としては(落ちる=otiru)があり、このhuru(降る)とotiru(落ちる)はまったく別の語彙なのである。 なぜ、このようなことが起こったのか。 (降る)と(落ちる)の両義を持つhuruの語彙があったところに、新たにotiru(落ちる)の語彙が流入して定着した結果、在来のhuruの語彙から(落ちる)の意味が消滅してしまい、 (降る)の意味だけが残ったと考えるのが妥当ではないか。 では、そのotiru(落ちる)とは、いったいどのような系統の言葉なのだろうか。 続く >>331 日本語の(落ちる)の語彙はすでに万葉集に現れており、(地尓将落八方)と書かれている。 これを(ちにおちめやも)と読んでいて、(将落)が(おちめ)の読みの部分だ。 (将落)は(まさに落ちようとしている)の意味なので、その意味の表現が(おちめ)ということになる。 (落ち)の語彙が8世紀にはあったことが分かる。そして、これが平安時代になると(落つ)の表現も現れる。 さて、この(落ち=oti)は、文法用語では自動詞と分類されている。 ということは、(落ち=oti)の語彙の(落ちる)を意味する語幹音はo音にあることになる。つまり、このo音が(落下)を意味していることが分かる。 そこで、東アジアや中央アジアなどで(落ちる)意味を持ちo音を含む語彙をみると、唯一ベトナム語にそれがみつかる。 落ちる ベトナム語 roi(ローイ)。 落ちた ベトナム語 rot(ロッ) ベトナム語は中国南部の百越を源流とするオーストロアジア語の一種とされており、 遺伝子ではO1b系のハプログループがこのベトナム語の話者の主流だとみられている。 一方、日本人でも、O1b系のハプログループは26%と多数派の一つを形成していることから、 稲作を日本にもたらした種族がこのO1b系であろうとみられている。 つまり、稲作を日本にもたらした種族と現在ベトナム語を話す人たちは元々は源を同じくする同系統の者だった可能性があり、 弥生時代初期に縄文語だった九州へ新たに流入したのがこのO1b系の言葉だったと想定されるわけである。 そこで、このベトナム語のroi(落ちる)、rot(落ちた)と日本語のotiru(落ちる)、otita(落ちた)が果たしてつながるのかということになるのだ。 続く >>332 さて、日本語のoturu(落ちる)とベトナム語のroi(落ちる)がつながるのかということであるが、 日本語の特徴の一つが語頭にr音が立たないことである。 これは学者の研究によって既に明らかになっていて、このr音が語頭に立たないのは日本語だけではなく朝鮮語、アルタイ語も同じようにr音が語頭に立たないのだという。 そこで、縄文語が話されていた九州へ稲作をたずさえて渡来したO1b系の種族の言葉が新たに流入したとする構図に、この定説を当てはめるとどうなるだろうか。 (落ちる)を意味するベトナム語のroi(ローイ)は、縄文語の受け皿によって語頭r音が排除されてoi(オーイ)の語彙で定着することになる。 また、(落ちた)のrot(ロッ)も同じくr音がなくなり、ot(オッ)が定着することになる。 このoiのiは動詞であり、otのtは過去形を表す音なので、(落下)の意味を持つのはo音であるということになる。 このことは、日本語の(落ちる)の言葉の中で(落下)を意味している語幹音がo音であることとまったく同じなのである。 つまり、日本語の(落ちる)の語彙は、縄文語の中に流入したO1b系の(落ちる)意を表すroi(ローイ)の祖語のo音が残留して成立した語彙であるとみなすことに不都合はないといえる。 この(落ちる)意のオーストロアジア系のベトナム語roi(ローイ)の祖語が縄文語の九州へ流入した際に、縄文語の(降る)の語彙が元々持っていた(落ちる)の意味が消えていき、 その(落ちる)の意味は新しく流入して定着したoi(オーイ)が表すことになったということだ。 これが、oti(落ち)の語彙の成立過程だということだな。 わははははは。 3000年前の水稲の渡来とともに中国南部の百越O1b系の語彙が縄文語の中に流入したことは、上で見た通りだ。 そして、さらに1万2000年前には、やはり南方系のO1a系の語彙が先住縄文語に流入している。このO1a系の語彙はフィリピン・タガログ語の語彙と同系度が非常に高い。 つまり、日本語の語彙には中国南部の百越系の語彙が相当含まれている、というわけだ。 では、そもそもの先住縄文語の語彙は、どの語系の語彙と同系性が高いのか。 すでに学者が日本文化の二重構造論で指摘している通り、先住縄文語の語彙と同系性が高いのはウラル・アルタイ系の言葉の語彙のようにみえる。 その中でも最も同系性が高いのは、どうもモンゴル語の語彙のようだ。 日本語の端(はし)について、その同系性をみてみよう。 端(はし)は、縁や末端を意味する(は)と方位を意味する(し)の合成語であり、縁や末端を意味する語幹音は(は)音にある。 このことは、端(はし)の類義語に外れ(はずれ)、離れる(はなれる)、遥か(はるか)、鼻(はな)などがあり、意味を表す語幹音がすべて(は)音にあることによってそれが分かる。 この語幹の(は)音と端(はし)の意味をともに持つ語彙を近隣の言葉に探ると、モンゴル語とフィンランド語に見つかる。 端(はし) モンゴル語 hayaa(ハヤー)=端、縁 フィンランド語 paa(パー)=端、最後、頭 日本語の端(はし=hasi)がモンゴル語のhayaa(ハヤー=端)、フィンランド語のpaa(パー=端)と同系であるのは、まったく明らかだ。 そして、端(はし)の類義語である鼻(はな)をモンゴル語に探すと、 鼻(はな) モンゴル語 hamar(ハマル) があり、日本語の鼻(はな=hana)とモンゴル語のhamar(ハマル=鼻)の発音が極めてよく似ており、また鼻の意味を表す語幹音が(は=ha)音であることもまったく同じである。 日本語の基礎を形作っている先住縄文語の語彙が北方系の、特にモンゴル語の語彙と同系性が高いとみるゆえんである。 日本語の語彙が南北の二重構造になっていることは、まず間違いないだろう。 印欧語祖語という言い方があるが、 アジア人の1大源流地スンダランドから受け継いだ言葉、スンダランド祖語のようなものって だれか調べているのでしょうか >>335 原始ツングース言語とスンダランド言語が交じり合ったのが日本語だ、という考えがみられますね。 検索欄に「日本語成立の過程〜日本語は混合言語である」と入力して検索し、一番上のサイト「日本語成立の過程〜日本語は混合言語である るいネット」を開いてみてください。 >>336 ありがとうございます スンダランドまで考えている人がいてよかったです 読んでみましたが知らないことが多すぎて未知の領域でした 言葉だから遺跡とも別でむづかしいですね >>337 フィリピンには一部黒人系の人々がいるそうですが、この人たちはスンダ系ではないのでしょうか。 スンダランドから北上した人々のようにみえますね。 メソポタミア下流域とスンダランドが氷河期の2大文明で 氷河が溶けてそれぞれ沈んだために各地に散っていったという説 スンダ人と同系のオーストラリア・アボリジニのY染色体はC1b3とされています。 一方、日本人にはC1a1tがみられるようで、この双方の共通祖先がC1のようです。 日本人のC1a1と最も近縁のC1a2がみられるのがチェコやスペインの古代人骨とされます。 そうしますと、C1が分岐してC1aとC1bが生まれたのは中東付近で、C1aは北や西へ、C1bは東へ行ったとするのが合理的ではないでしょうか。 メソポタミアは温暖で植物も豊富だったんじゃないの? いずれにしても、日本語とモンゴル語の語彙には深いつながりがありそうだ。 くるくると風車(かざぐるま)が回り…。 この(くるくる、ぐるぐる)は回転の意味だ。 そして、回転することを意味する(くる)は(繰る)に由来する言葉であろう。 繰り返すの(くり)も回転することを意味している。 とすると、車(くるま)の(くる)も回転を意味する(繰る)から派生した語彙であることが推測できる。 この(繰る)はいつからみられる言葉かというと、万葉集の歌に(来る)と(繰る)を掛けた表現がよくみられることから、奈良時代にはすでに(繰る)の言葉はあったことになる。 では、この回る意の(クル=繰る)は、日本独自の語彙なのだろうか。 そこでモンゴル語をみると、 モンゴル語 回転=erguulekh(エルグーレフ) 巡回=erguul(エルグール) 回る回る=ergej erguul(エルゲジ・エルグール) 回す=ergelt(エルゲルト) などがある。 erは男性を表すので、これらの回転を表す語彙のerは接頭辞とみるのがよいようだ。 となると、回転を意味しているのはguul(グール)やgelt(ゲルト)であり、語幹音はg(グ)音ということになる。 続く そして、日本語の回転を意味する(繰る=くる)の語幹音はk(ク)音であり、また周囲を表す(ぐるり)の場合はg(グ)音となるので、これは回転を意味するモンゴル語の語彙の語幹音のg(グ)音とまったく同じにみえる。 回転する、回るなどの意を表すモンゴル語と日本語の語彙の語幹音がともにg(グ)、あるいはk(ク)音であるということは、モンゴル人の祖先と日本人の祖先があるときに同じ地域で暮らしていたということになってくるのではないだろうか。 モンゴル人の元々の居住地域は、満州の大興安嶺山脈の北側だったらしい。 とすると、2万年前頃にナイフ型石器を携えて南下し日本列島に達した縄文人の祖先の原郷も、その大興安嶺の北辺りだったのではないかとなってくるのだ。 わははははは。 和泉雅子(いずみまさこ)という女優がいたが、雅子と書いてこの(雅)を(まさ)と読んでいる。 (雅)は(みやび)という意味づけがなされているので、その(みやび)をなぜ(まさ)と言うのか。 また、この(まさ)は(正)の字にも用いられる。楠木正成(くすのきまさしげ)がその例だ。 (正)は正しい(ただしい)意であるので、やはりここでも(ただしい)意を表すのになぜ(まさ)の言葉が用いられるのかという問題が生まれる。 しかも、雅の(みやび)と正の(ただしい)の意味は相当に異なる。にもかかわらずこの二つの異なった意味の漢字に対して(まさ)という一つの表現を用いているのである。 これは、極めて難解な問題だといえる。 (まさ)とは、何か。 だが、突破口がないわけではない。 平安時代前期の貴族に藤原良近という人物がいて、この(良近)を(よしちか)と読んだり、また(まさちか)とも読んだりしているのだ。 (良近)を(まさちか)と読んだ場合、(まさ)は(良い)という意味であることになる。 そうなると、(雅=みやび)、(正=ただしい)の字を(まさ)と読むのは、(雅=みやび)も(正=ただしい)も(良いこと)だからだという理解が成り立つ。 この解釈は正しいか。 そこで、(正夢=まさゆめ)の言葉をみてみよう。 続く (正夢=まさゆめ)は、夢に見たことが現実に現れたときにその夢を指していう言葉。 夢に見たことと、それと同じ出来事が起こることとが、なぜ(正=まさ)なのか。 よく考えてみると、この(正=まさ)は(柾=まさ)と同じで、(柾)の字を用いた(柾目)は木の中心付近で縦割りにしたときに現れる年輪の模様のこと。 木を表皮の付近で縦割りにすると年輪は山形(板目)になったりするが、中心部分で縦割りにすると年輪は平行になり縦に真っすぐな線を描く。 この年輪が縦に歪まずに真っすぐで、しかも平行に並ぶ模様を(柾目=まさめ)と呼ぶそうだ。 このことからすると、(正夢=まさゆめ)は夢にみたことと現実に起こったことが同じであるときに用いる言葉なので、夢の出来事と現実の出来事が歪むことなく平行に存在していることを指していることになる。 なので、(正夢=まさゆめ)は(柾夢=まさゆめ)であり、柾から木偏を省略した正が正夢の正なのだ。 そして、夢の出来事と現実の出来事が瓜二つであることになぜ(まさ)の言葉が用いられるのかというと、そのように夢に見た出来事と現実の出来事が平行して真っすぐに同じように並んでいることは(良い)ことだからだということになる。 このように考えれば、(まさ)は(良い)を意味する言葉だと解することは妥当だと言えるのではないか。 こうして、(まさ)が(良い)を表す言葉であることは理解されるが、しかしその(まさ)の発音がなぜ(良い)を意味するのかについてはまったく不明なのである。 この(まさ=良い)は、縄文語由来の和語なのであろうか。 続く (まさ)は(良い)を意味する言葉だとすれば、(雅=みやび)や(正=ただしい)を(まさ=良い)と読む理由が分かる。 和泉雅子(いずみまさこ)は、(みやびで良い)女性だという意味になる。 さて、では、この(まさ=良い)はどのような由来の言葉なのだろうか。 そこで、フィリピン・タガログ語。 タガログ語 masaya(マサヤ)=幸福、運の良い、うれしい、楽しい。 masarap(マサラプ)=旨い、美味しい、味が良い。 maganda(マガンダ)=美しい。 mabuti(マブチ)=良い。 mahalin(マハリン)=愛する。 magustohan(マグストハン)=好き。 これらの言葉をみればma(マ)音が語幹であり、このma(マ)音には(良い)の意味があるように推測される。 そして、masaya(マサヤ)、masarap(マサラプ)の意味もいろいろバリエーションがあるものの、語幹であるmasa(マサ)は(大変良い)の意味があるようにみえる。 日本語の(まさ=良い)とタガログ語のmasaya、masarapのmasa(マサ=大変良い)は同系の言葉であろう。 つまり、このタガログ語の語彙は、縄文草創期に南方から来た海人の言葉が先住縄文人の言葉に溶け込んだ語彙のようにみえるのだ。 たぶん、間違いない。 縄文語もタガログ語もスンダ語の後裔という事じゃない? スンダ語はオーストロネシア語族の中の一つとされていて、このオーストロネシア語族の拡散についてはすでに詳しい研究がなされているようです。 検索欄に「ウィキペディア オーストロネシア語族」と入力し、開いた画面の一番上の「オーストロネシア語族 wikipedia」を開き、画面をずっと下におろしていくと「拡散史の語彙統計学の研究」の項目があります。 その記事にオーストロネシア語族の拡散史が述べられています。 また、ウィキペディアの「オーストロネシア祖語」も参照してみてください。 この拡散の研究では、中国南部からの拡散時期の最初を6000年前としていますね。 ラオスやベトナムなどでこの時期の土器が出ていて、それ以前には東南アジアでは土器が出ていませんので、新石器人の中国南部からの拡散開始時期を6000年前頃としているのではないでしょうか。 しかし、フィリピンの歴史を述べたサイトでは、中国南部からフィリピンへ渡来があった最初は1万2000年前としているものがあります。 また、フィリピンの山岳地帯には黒人が居住していて、この人たちはさらに古い時代に渡来したのではないかとされています。 スンダランド系集団の渡海北上があったのは、間違いないのではないでしょうか。 フィリピンはスンダランドに含まれますから その黒人は渡来ではなくスンダランドが沈む前からいたのかもしれませんよ 検索欄に「高山族とは コトバンク」と入力して、開いた画面の一番上の「高山族 コトバンク」を開いてみてください。 台湾の原住民について、南方から来たと書いていますね。 日本書紀や古事記の日向神話に塩土老翁、塩椎老翁という神が登場する。 どちらもシオツツノオキナと読むが、一般的には土、椎はいずれもツチと読み、ツツとは読まない。 なのになぜ土、椎をツツと読んでいるのかと言うと、日本書紀の日向神話の一書に塩筒老翁と書かれているものがあり、この筒はツツとしか読まないことから塩筒老翁と同一神とされる塩土老翁、塩椎老翁もシオツツノオキナと読むことになっているため。 日本神話で重要な役割を担っているこの塩筒老翁(シオツツノオキナ)の塩筒とは何を表しているのかというと、潮の筒→潮の流れ→潮流のことだと考えられているようだ。 この神話の舞台が、沖縄との交易に従事した鹿児島の阿多であることから、塩筒神とは沖縄と鹿児島の間を流れる黒潮を神格化した神ではないかと考えることもできそうだ。 黒潮は巨大な筒、巨大なチューブのように流れる潮流であり、学者が指摘する塩筒=潮流の考え方と矛盾しない。 そこで、この筒(ツツ)とはどのような系統の言葉なのか、追跡してみた。 そうすると、モンゴル語やフィンランド語には筒(ツツ)と同系とみられる語彙はなく、チュルク系に同系とみられる語彙があった。 筒 キルギス語 tutuk(ツツ) カザフ語 tutik(ツチ) トルコ語 tup(ツ) キルギス語のtutuk(ツツ)、カザフ語のtutik(ツチ)は日本書紀の塩筒のツツ、日本書紀と古事記の塩土、塩椎のツチとそっくりなのが面白い。 そして、筒ではなく英語のチューブの意味でこれと同系の言葉を探してみると、さらに面白い。 チューブ 英語 tube フランス語 tube スペイン語 tubo ラテン語 tubus ブルガリア語 truba パンジャブ語 tiba このようにインド〜イギリスまで同系の語彙がつらなる。 これを日本語やキルギス語などのチュルク系の語彙と比較してみると、筒・チューブは語頭のtu(ツ)音で完璧に合致していることが分かる。 しかも、複合の語彙ではなく短音の語彙に近い日本語やチュルク語のtu音のほうが、どうも源初的なようにみえる。 8世紀まで遡って確認できる日本語の筒(ツツ)の語彙は、ユーラシア大陸全体にまたがる管(くだ)を意味する言葉の源初的な語彙である可能性が高くなってくるのではないだろうか。 わははははは。 カグツチあたりを考えるとシオツチの方が元でシオツツの方が訛りではないでしょうか 塩土(シオツチ)は潮津道(シオツチ)ではないかと思いますね。 潮の道、潮路ですね。 塩筒(シオツツ)は潮の筒、潮流、黒潮。 この塩筒と塩土が同じだとされるのは、少しへんですね。 塩土(シオツチ)は航路を意味し、塩筒(シオツツ)はその航路である黒潮を指した言葉ではないでしょうか。 一方、カグツチですが、これは火之R毘古(ヒノカガヒコ)、火之加具土(ヒノカグツチ)と書かれる神で、カガとカグは同じとされます。 ヒノカガヒコは(火の炎の神)、ヒノカグツチは(火の炎の霊)でしょうね。 (チ)の意味がシオツチとカグツチでは少し異なるかも。 しかしもし(チ)が同じであれば、シオツチは潮の霊という意味になってきますね。 シオを黒潮とすると、黒潮の霊=黒潮の神がシオツチの意味になりますね。 稲(イネ)は、縄文中期(=陸稲)と縄文晩期(=水稲)に九州にもたらされた。 このイネのネは、根、屋根、尾根、根太の根であり、また寝(ネ)るのネでもある。根(ネ)は(横にする、横になる)が原義だと考えられる。 とすると、イネはイ・ネの構成で、(イ・根)だということになる。 この日本語のイは良いを意味する「イイ」、清める意の斎(イ)だと考えると、イネは「良い根」の意味であることが考えられる。 そこで、良いという意味のイ音の語幹を持つ語彙を外国に探すと、唯一タイ語にそれがみつかる。 タイ語 良い di(イー) これは日本語の良いを表す(イイ)と発音、意味ともにまったく同じである。 そこで、n(ネ)音系で横になる意味を持つ語彙をタイ語に探すとnxn(ノーン=横になる、寝る)がある。 ネ音とノ音は交換可能であるので、日本語のネ(根・寝る)とタイ語のnxn(ノーン=横になる、寝る)は同系とみることができる。 これらのことから、日本の文化の根幹にある稲(イネ)とは(イ・ネ=良い根)の意味であることを推測することができ、 またこの語彙は縄文時代に稲をもたらした中国南西部を原郷とする百越系O1aの種族の語彙であったことを推測することもできるのである。 つまり、稲(イネ)の遥かなる旅は、タイ語の原郷へと向かって続くのだ。 稲作関連の言葉はタミール語と共通する部分が多いという話だが >>362 タミル語で米、稲、飯はnel(ニー)。 日本語のイネのネにつながる可能性もあるかもですね。 >>364 タミル語と日本語の関係については、よく似た語彙があるそうですが、 難点は、タミル語話者の日本への渡来がなかなか見極めにくいことにあるようです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる