春秋戦国時代 3
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
春秋時代における、中原情勢推移の一例
B.C.722年5月 鄭で共叔段が反乱。
B.C.722年 共叔段の子、公孫滑が衛に亡命したため、鄭が衛を攻撃。
B.C.721年 鄭が再び衛を攻撃。
B.C.720年8月 宋の穆公が薨去し、公子馮が鄭に亡命。
B.C.719年夏 衛・宋・陳・蔡の四ヵ国が鄭の東門を包囲。
B.C.719年秋 四ヵ国が再び鄭を攻撃。
B.C.718年4月 鄭が衛に報復攻撃。
B.C.718年4月 衛が南燕軍を率いて鄭を攻撃するが敗北。
B.C.718年9月 邾が鄭と連合し宋を攻撃。
B.C.718年 宋が報復し鄭の長葛を包囲。
B.C.717年秋 宋が長葛を占領
B.C.716年7月 宋と鄭が宿で講和
B.C.715年春 斉が宋と衛を垂の犬丘で非公式に会談させた。
B.C.715年7月 宋・衛両国が鄭と和平を結ぶ。
↑こんな調子で、延々と何百年もつづく。
フクザツすぎて、頭に入るわけがない。
近代ヨーロッパのほうが、まだマシだ。 >>2
こんなところで政治家や外交官をやってたら、さぞかし鍛えられて百戦錬磨になることだろう >>2
ヨーロッパもそうだが、身近な本邦の戦国時代とかもこんな感じだし
自立的な諸侯や都市や部族がたくさんいて荒れてる時代はそういうものだと思って諦めよう
>>1乙 >>1乙です
そういや春秋初期には鄭の小覇時代がありましたね カイネねーさんが活躍した春秋戦国時代スレの新たな幕開けw >>1乙
鄭の小覇の時代、中原諸国の中で鄭は最も新興の国で、
それゆえに色々と新しいことができて強国になれた
秦や斉はまだ農地開発や人口増加が進んでいなかったため
それほどの大国ではなかった >>7
近世初期はイタリアが進んでたみたいな感じだな >>9
ミラノ・フィレンツェ・ローマ・ナポリ・ヴェネチアといった、イタリアの都市国家が争ってたルネサンス期の状況に似ているな。
そうこうしているうちに、周囲ではフランスとスペイン、さらにはハプスブルク帝国と、スケールの違う大国が成長してきて、盛んにイタリア情勢に干渉するようになった。
ドイツとフランスを中心に欧州の大国が争ってた中で、超大国のアメリカとソ連が台頭してきた状況とも似てると思う。
スケールの違う超大国が登場すると、それまでの大国が、急に小さく見えてくる。
今だと、中国とインドがそれに当たるかもしれんねえ。
もっとも、中国とインドよりデカい国など、地球上にありえないから、このパターンはこれで打ち止めだが。 ↓この機会に、春秋時代が始まった経緯を振り返っておこう
周王朝の王都が鎬京(西安)から洛邑(洛陽)へ遷ったことを東遷と呼ぶ。
西周最後の王となる幽王が廃太子を行い、伯服を太子に立て、廃太子された宜臼は 同じく廃后された母・申后と共に申へ亡命した。申は申后の実家である。
そのとき、犬戎の襲撃により西周は滅亡した。
『史記』周本紀によれば、申后の父・申侯が犬戎と組んで幽王を攻め滅ぼしたとしている。
幽王の死後、申の地で宜臼が周王に即位したため(平王)、2人の周王が立った。
・・・二王並立の中で、有力者である晋の文侯と鄭の武公が平王側につき、平王が勝利した。
しかし今度は晋で御家騒動が起こり、晋侯が死んだ。
残った鄭公が周王朝の権力を独占することとなる。
そして鄭公は、周王を洛邑に遷した。
以上が東遷の顛末だ。 >>8
それはカイネじゃなあーー!!
アニメのはカイネじゃなあーーっ!!
漫画のがカイネ。これがカイネじゃぁぁあああーーーーっ!!!カイネおねーさんを尊敬しろよおまえ。
https://comic-consideration.biz/wp-content/uploads/2018/12/rrth-625x720.jpg >>13
李牧か・・・カイネほどには尊敬できんなw >>11
紀元前771年、周の幽王と太子伯盤が犬戎や署lの攻撃を受けて滅び、周が潰滅すると、
周の邦君諸正たちは幽王の弟である余臣を虢で擁立した。これが携恵王である。
「立二十又一年」(携恵王の21年、つまり紀元前750年)、携恵王は晋の文侯によって殺害された。
周が王を失って9年(紀元前741年)、邦君諸侯たちは周に朝見しなくなった。
晋の文侯は少鄂に平王を迎え、これを京師に擁立した。
3年(紀元前738年)、平王は東遷して成周にとどまった。 >>15
さすがに、あまりにも大昔のことだけに、諸説あるようだ。
それでも、古代日本史みたいに「卑弥呼が関西にいたか、九州にいたか分からない」というほど、何も分からないわけではないが 日本の戦国時代では辺境の国が天下を取ったりはしなかったし
王家が滅ぼされたりすることもなかった
戦乱の期間が短かったからか >>16
おまえ卑弥呼って若い女を想像してないか?
梅干しババアに決まってるだろがw そういや春秋戦国の方言を分類した書物みたいのがあったっけ
中原でも東と西に別れていた気がする >>20
「斉(山東省)の人なのに、莱の国(山東半島)の人と話ができるほど語学の達人だった」
とか、そういう記述が出てくる >>21
來語は中国語とは全く違う、
先住民族の言語なんだろうな >>7
鄭と覇者時代が接近してる斉って人口少なかったんやろか?
特に根拠はないけど既にカタログスペックは高そう
>>18
応仁・文明から豊臣滅亡を戦国期間とすると戦国七雄とそこまで変わらなかったり
あと秦って春秋期には既に中原を窺う勢力になってるしいうほど辺境でもない気がする >>22
どこ系の言語かって疑問点は出てくる
なぜなら、頭文字が「莱」なら、
アルタイ諸語(可能性としてのジャパニーズやコリアンも含む)の典型的特徴であるところの、
「頭子音に R, L が出ない」ことに当て嵌まらない
「蓬莱」に近い語彙の略だと考えると、また話は違ってくるかもしれないが >>23
>鄭と覇者時代が接近してる斉って人口少なかったんやろか?
岡田英弘によると、治水が発達途上だった古代においては、黄河の下流は洪水が多すぎて、人が住むところじゃなかったらしい。
そのせいで農業にはイマイチだったけど、その代わり、塩と鉄をはじめとする工業力が、斉の国力の源泉。 >>22
山東の先住民ならオーストロアジア語族の可能性がある >>20
『爾雅』か『方言』のどっちかだな
爾雅は単に同義語を並べただけの本だが、
中を読むとどれとどれがどこの方言なのか分かる仕組みになっている
方言は書名自体が現代の方言と言う言葉の語源になった書物で
前漢から後漢にかけて生きた文人・揚雄が著した
名前が残っている中で史上最古の言語学者と言えるかもしれない >>25
なるほど、ありがとう
しかしそれだけじゃ春秋初期の国力が実際どうだったか分からんな、仕方ないけど 古代の船で、東シナ海を横断するのは危険すぎた。
朝鮮半島と山東半島の間には、海峡がかなり狭くなってるところがあるので、そこを渡るしかなかった。
斉や莱は、古代の倭国にとって大陸の玄関。 四字熟語 斉東野語
読み方 せいとうやご
出典 『孟子』「万章・上」
意味
根拠がなく信じるに値しない言葉や、下品で愚かな言葉。「斉東」は中国の戦国時代の斉の国の東の東部。「野語」は下品で田舎びている言葉。斉の国の東部に住んでいる田舎者の言葉という意味から。「斉東野人の語」を略した言葉。 景公四十八年(前500年)、斉の景公は魯の定公と、夾谷(きょうこく)の地で両国の友好のための会盟を開くことになった。
定公とともに、大司寇の地位に収まっていた孔子も会盟に参加すると聞き、大夫の犂ショは景公に言った。
「孔丘は礼には明るいですが、勇には欠けています。莱の夷人どもに武器を持たせて魯公を脅かせば、会盟はこちらの思い通りになりましょう」
会合が一段落したところで、「四方の音楽を奏したい。」と言って、計画通りに莱の人々が鼓を鳴らし、手に武器を持って踊りながら魯の主従の前に現れた。
孔子はそれを見て、血相を変えて「諸侯の会盟の場に蛮夷の舞楽を奏するとは何事か!」と叫び、莱の人々を処罰しようとした。景公は泡を食って莱の人々を下がらせた。
さて、しばらくするとやはり「宮中の音楽を奏したい。」と言って、今度は俳優や侏儒(小人)が現れて戯れの踊りを披露した。孔子はやはり激怒し、今度は役人に命じて俳優たちをその場で処刑させてしまった。
景公はこれに恐懼し、定公に非礼を謝罪して、更に以前斉が魯から奪った土地を返還することを約束したのだった。 >>28
たぶんそれの中では楚の言葉は
中国語扱いになっていた
もちろん、楚の最初の言葉は別の言語だったかもしれないが 「孟子」に、
「南蛮人は鳥の舌を持つ人」「楚語と華夏語は同属だが、違いは大きい」などの記載があります。
「春秋左氏伝」には、
「楚人は、「乳」を「穀」と言い、「虎」を「於菟」という。「穀於菟」と言うことはできるが、「於菟穀」と言うことはできない」とあり、楚語と雅言の違いは認識されていたようです。
「荀子」にも、「楚は楚、越は越、夏は夏」との記載があり、「呉越」と「楚」は別の言語習俗だと認識されていたようです。
また、「孟子」の弟子「咸蒙丘」が「齊東野人の語」を理解できたとあり、東齊と齊で差があったようですし、「呂氏春秋」では、呉と齊では理解が難しいとあります。
「戦国策・秦策」に、
曰く、鄭人は、加工していない玉を「璞」といい、周人は、加工していない鼠の肉を朴といい、同じ発音だったようで、鄭人が璞を注文すると、周人が鼠の肉を差し出したという話が載っています。同じ中原地域でも言語が違っていた事が覗えます。
恐らく知識人や、士大夫層は、教養として「雅言(共通語)」を理解していたものの、重要な案件については、筆談を使っていたのではないでしょうか。
「雅言」は、当時の王朝「周(西周)」の首都があった鎬京(=長安)がある、陝西地方の言葉が基礎になっていたとされます。
漢時代は、これが「通語」と呼ばれ「雅言」に河南地方の方言が融合した言葉が共通語となったようです。
漢の都が洛陽でしたので、河南方言が加わったと思われます。 >>34
↓これのことかな?
>戦国時代末期の「爾雅」は、
全19編、2219項目、5239個の言葉が掲載されている最初の字典とされますが、
それに掲載されている方言を分類すると、
秦晋
周韓鄭(漢代趙魏含む)
衛宋
齊魯(漢代東齋海岱含む)
燕朝(漢代北燕朝鮮含む)
荊楚(漢代南楚含む)
呉越(漢代南越含む)
の7地方に分けられるとされます。
発音などに地域での相違がかなりあったようです。 >>12
絵がだいぶ下手くそになってる
もう読む気しないわ >>37
確かに初期の頃のカイネに比べて、アニメよりの顔になってきている。
このまま顔のアニメ化が進んだらイヤだなw
昔のカイネ ↓
https://i.imgur.com/GA9FfVx.jpg >>35
「楚語」といっても、
最初に楚人がしゃべっていた言語と、
あとの楚人がしゃべっていた中国語の楚方言が混同されてそう
中国では、楚の首都が陳に移った時点で、
楚の王族貴族は中国語話者になったと見なしているとか >>33
そこで手足を切り落とした話を聞いて
ああ孔子が何を言ってももう尊敬できないと思った
何の理由もないのに弟子を奪った奴を処刑した話も
しろが炊き出しをしていた鍋だかをひっくり返した話も >>40
孔子には、宗教家として一番重要な、愛と慈悲が欠如してるんだよなあ
それでいて、儀式とか祭礼とかには極端にうるさい 晏嬰を権力にしがみついた狡猾な保身家として暗愚な景公を舌先三寸で丸め込んで孔子の仕官を頓挫させたみたいな扱いしてる作品もあるしな 諸子「聖人や聖王の殺人は誅っていう立派な行いなんやで」 >>41
勘違いしてるが孔子は別に本人宗教家と思ってない
彼は政治家でありかつ、古典や葬祭、慣習の整理を行った人であって
そもそも宗教活動を行っていない 孔子ってここまで名前が残って、向こうの世界でさぞ満足でしょうね ところで、秦が統一を果たせたのは、商君の変法のおかげではないかと思っているのですが、
例えば魏が呉起を宰相に任じて改革を進めていれば、みたいに、他国に統一の可能性は
あったんでしょうか? 魏には、ほかに商鞅と孫臏もいた。
やはり、先進国なので教育も進んでいたから、人材を輩出したのだろう。
でも、魏はこの2人を追い出してしまった。
商鞅が宰相で、孫臏が軍師なら、魏は無敵だっただろう。 韓といえば、いつも戦争に負けている、戦国最弱の国というイメージがある。
でも、最初からそうだったわけではない。
韓が一方的に攻められ続けるようになったのは、秦の昭襄王の時代からの話。
なぜ、秦の昭襄王から韓は袋叩きにされるようになったのか。
それは、前340年に魏が河東にある、首都安邑から中原の大梁に遷都したためである。
秦の東の目の前、河東の地、秦から見て、黄河の向こう側の戦力が減った。
時は魏の恵王の時代である。
先代の武侯の時代は、呉起がこの河東の西、西河にあって、西から迫る秦の攻撃を跳ね返していた。
この西河というのは秦から見て、黄河西岸である。
魏の呉起が韓の「盾」だった。
呉起は、一人気を吐いて、西河の地で、秦の圧力を跳ね返していた。 無敵の強さを誇った呉起は、度重なる秦の攻撃を跳ね返すどころか、逆に攻めて城を取るほどだった。
しかし、呉起はその後国内の政争に敗れ、楚に亡命する。
その後は、魏は凋落の一途を辿る。
魏は東西から秦・斉の挟撃を受ける。
魏の恵王がいち早く王を称してから、周辺諸国から集中攻撃を受ける。
秦も魏の西河、河東の地を執拗に攻める。
前340年に秦の商鞅が西河の地を奪取。
前年の前341年には、魏は馬陵の戦い【魏の龐涓対斉の孫臏】で斉に大敗。
魏は東西で敗戦が続き、覇権を失った。 呉起を追い出したおかげで弱体化した魏は、同じく追い出した秦の商鞅と、斉の孫臏に東西から攻められ、追い込まれていった。
史上にも稀な自滅だったと言えるかもしれない。 >>39
左伝の楚人は、箇所によって周の歴史や儀礼にとても詳しい人がいたり、
逆に周の慣習を無視した蛮族そのものの振る舞いをする人がいたりで、
中華への同化の途上にいたのだろうと思われる
こういう話でよく挙げられる楚の貴人の闘穀於菟と言う人名は、
闘が姓、穀於菟が名でそのうち穀が乳、於菟が虎の意
この人は森の中で虎の乳で育てられていた
楚の土着語は所有関係(GのN)を表すのに「N-G」という語順だったことがわかる
楚のもともとの言語はオーストロネシア語か、オーストロアジア語だったのではないかと思う >>51
その3人が残っていれば、魏の天下統一、という可能性も・・・
ま、妄想ですがw 儒教の洗脳は凄いよ
親を殺しちゃいけないって教えが悪人にまで根付いている またいつの間にか三国志の話題になってしまったな。
春秋戦国時代には三国志時代と勘違いさせる何かがあるのかな?
三国志時代といえば、一番の英雄は蓮花だろw >>18
日本列島は西と東、中央と地方であまりにも技術格差がデカかったから >>36
中原が西(周)と東(宋)にわけられるけど、
これはもともとの差なのか、
東遷組と在来組の差なのか >>52
「中国化した楚人」なのか、
「楚の場所に移動してきた、もしくは楚に併合された土地にすんでいた中国人」なのかが気になるところ >>55
>春秋戦国時代には三国志時代と勘違いさせる何かがあるのかな?
魏といっても、曹操の魏じゃないよ(笑)
たしかに、三国志の話と勘違いさせる要素はあるようだ >>58
「宋は、周に滅ぼされた商王朝の遺民だ」という、宮城谷昌光が大好きな話からすると、そういうことになるんじゃないかな? >>18
戦国初期においては、周防長門の大内氏が西国の覇者となって、いち早く上洛をはたした。
あの時点では、本州西端の山口県が、天下統一に最も近いところにいた。
その数百年後、長州藩が江戸幕府を倒して天下を取った。 大内義興の頃わ未だ室町幕府に実態が有ったから
最有力は京兆尹家 モンゴル帝国が中国を統一して北京を首都にしたのは、日本に例えれば、蝦夷が天下統一して青森を首都にするようなものだ。
欧州に例えれば、北欧のバイキングが天下統一して、ストックホルムを全欧州の首都にするようなものだ。
北米に例えれば、ニューヨーク州が天下統一して、ニューヨークを首都にするようなものだ。 >>65
フランク王国がパリを首都にしたり、
後ウマイヤ朝がコルドバを首都にしたのと同じ >>52
シュメール語もフランス語も形容詞が後になる
そして、例えば犬の表現だって白い犬と言うよりも
犬、白い、って言う方が原始的で元々の言い方だったと思われる
君主の言い方も后〇、王〇、君〇って言っているし
女性の名前もあざな・姓で呼んでいた
大邑商と言っていたように名刺を後にしている
雨の神も帝雲と呼んだり
本来は名詞・形容詞の順なのだろう >.65
仮に世界の支配者になったならばどこに住むべきだろうか
環境の良いところがいいのだろうが
冷暖房が効いていれば砂漠でも寒冷地でも良いのだろうか 親を殺しちゃいけないって儒教的か?
ギリシャ悲劇の大半は親殺しだと思うのだが >>72
そりゃそうだが、程度の問題ってのがあるわな
先祖崇拝の宗教である儒教にとって、親孝行の重要性は格別であり、他宗教とは比較にならない >>71
役人が建前で言うんじゃなくて
山賊とか極悪人でも駄目
ついでに皇帝すら親の喪に服す家臣をやめさせられない >>73
家父長絶対の世襲封建制に於いて親殺しわ大罪 >>68
修飾語の形容詞(A)と被修飾語の名詞(N)の語順は、
オーストロネシア語やオーストロアジア語だけでなく、
チベットビルマ語もNAであるorだったことがわかっている
しかし修飾語の属格(所有格)名詞(G)と被修飾語の名詞(N)の語順となると、
チベットビルマ語もまた古代漢語も、つまりシナチベット語族は一律にGNだ
NGとなるのは(後置修飾の徹底した)オーストロネシア語族かオーストロアジア語族だろう
ということになる
なお肩書き+固有名の関係はまた別の話になる ふつうに古モンゴロイドと新モンゴロイドじゃないのかな なんだか春秋戦国と関係のない話になって来ていますな
先に触れましたが、秦の統一は商君の変法が一番の要因、と考えているのですが、
仮にそれがなかったとして、統一は可能だったでしょうか 不可能ではない、としか言えんのでは?
なんせ変法が具体的にどの程度秦による天下一統に寄与したのかすら分からない
それに改革は商君の専有物じゃないから商君の時代がないことでより効果的な政治が行われた可能性もある こういうのって気候変動と農業技術の進展の方が大きい >>78
言語の違いは人種の違いを飛び越えることがある
台湾の先住民の言語はオーストロネシア語の中でも最も古い特徴を保存しているが
彼らは人種的には新モンゴロイドの特徴を持っている マケドニアの戦争大好き王子が
インドの平定して攻めてくれば超面白かったろうな 商鞅は法を重視して中央集権国家にすることで秦を強国にすることを主張、孝公はそのことにいたく感激するも国内の反発を恐れていた。
そこで商鞅は「疑行は名なく、疑事は功なし(確信のない行動によっては結果は得られない)」と述べ、孝公を説得する。
商鞅は綿密に決めた法を施行し、五家、もしくは十家を単位とする相互監視組織を作り、違反者があれば積極的に密告した。この制度はのちに日本にも取り入れられ、五人組の制度として伝わることになる。
また商鞅は諸侯や貴族たちに等級を設けて財産政治を実行した。くしくもこれは古代ギリシャのソロンが行った改革に近いが、これによって強くなるのは民衆ではなく君主たる孝公の勢力である点が違った。
商鞅は法を重視する法家の代表的な人物で、法を君主の権力の上においた稀な人物だったと言える。
近代国家においては王と言えども法を順守することを求められるが、先進的と言われた西洋でさえもイギリスを除けば18世紀までこのような思想はなく、中国史においては法が皇帝位を上回ることはついぞなかった。
商鞅の変法は徹底しており、孝公の太子でさえも法律違反で処罰されるというほどであった(実際には身代わりとして後見役が処罰された)。
あまりにも急激な商鞅の変法改革は多くの者の恨みを買ったが、着実に秦という国は力をつけて行った。
紀元前352年、秦の宰相となった商鞅は最強国家であった魏に向かって侵攻を始める。結果は圧勝、魏の首都安邑は陥落し、魏は最強国家から転げ落ちることになる。勝利した秦は都を擁から西の咸陽に遷都し、本格的に中原を睨むようになる。
その後も秦は強くなり続け、魏との戦いに大勝利し、魏は東の方に追い詰められていく。都も東の大梁(後の)に移し、黄河以西の土地を秦に割譲することになる。
ちなみに商鞅は勝つためなら手段は選ばない男で、魏との戦闘の際にも偽りの和議をもちかけて魏の将軍を宴に招待し、隙を見て捕虜としてしまう。この作戦にて魏の指揮系統は乱れ、秦は圧勝することが出来た訳である。 法が冤罪だらけで誰でも罰せられるのは便利なんだろうな >>83
インドを平定したら、そこが終着駅
中国を目指すなら、途中で方向を変えないと 旬子の有能な弟子2人が何で儒家ではなくて法家として後々儒家を弾圧する政策取ったんだろう? >>87
一番弟子が、師匠と異なる方向に行って独自の一派を起こすことは、よくある。
思想的にほとんど真逆になったケースとしては、プラトンとアリストテレス。
直接の師弟関係ではないが、マルクスは、ヘーゲル哲学から出発して、それとは水と油みたいな唯物史観に到達した。
師匠がユダヤ人なのに、一番弟子がナチスのシンパになったフッサールとハイデガーの例もある。
でも、荀子と、韓非子・李斯の場合は、師匠が儒者なのに一番弟子と二番弟子が2人とも法家になってしまった珍しいケース。
このため、荀子が「実質的な法家の祖」と見る向きもある。 儒家と法家で根本的に違うのは、儒家は「性善説」で、法家は「性悪説」だというところ。
荀子は「性悪説」を唱えて、儒家から法家への橋渡しをした。
でも、荀子自身はあくまでも儒家に分類される。
この違いを端的にいえば、
孟子 「人間の性は善だが、放っておくと悪くなってしまうので、礼を学ばなければならない」
荀子 「人間の性は悪だが、礼を学ぶことにより、善くすることができる」
韓非子「人間の性は悪であるから、法で縛らなければならない」 >>84
法を君主の上においた稀な人物っていう見方はちょっと怪しいんじゃないか?
君主が交代すると失脚、殺害←寵臣功臣権臣あるある
後継者の傅役を処罰←稀によくある
商鞅さんの方向性はそこまで特異ではない気がする >>90
いやいやいや
楚、三晋、斉は秦じゃないのだから秦による天下一統云々とは別の問題でしょうよ
史記の数字を信頼すれば変法前の段階で秦は凄まじい大戦果を叩き出す能力を既に得ている
商君なしの世界線でも強秦が出現し、少し異なる歴史を辿って統一に至る可能性は否定できないかと >>89
人間の性は善か悪か?
いちがいに言えないんじゃないか?同じように育ってもチビの頃から天然でいいやつもいるし、性悪なやつもいるからな。
すべての人間を善か悪かに決めるのは無理がありすぎるw >>93
性善説では、すべての人間の性は善なのだが、その現れかたには個人差がある。
人によっては、心が悪に染まってしまったため、本来の善性が覆い隠されている者もいる。 >>92
凄まじい大戦果とか頭アベ過ぎだろwww
晋は分裂、楚わ改革を放棄、斉わ都市国家の連合体という有り様のまま まあ戦国初期の魏の人材輩出→大量流失が大きいですよねえ
自国で活用できていれば、秦・魏・楚・斉の四国並立とかにはなったかもしれませんね
吉川英治「四国志」なんてできてたりなんかしてw
それと李牧が長平より前に出現していれば・・・ >>97
それ以前に、晋が分裂してさえいなければ(笑) 中央に周王室があり、東西南北を晋秦斉楚の四強が囲んでいるという状況は、いかにも中国人好みの「東南西北中」、五行説の世界
封神演義でも、中央に商王室があり、東西南北を東淮・北燕・西岐・南楚の四大国が囲んでいる。
春秋時代ならまだしも、これほどの大昔ともなると、どこまで当時の実情を反映しているのか心もとない 晋の文公によって発展した晋はやがて分裂したが、
斉の桓公によって発展した斉は分裂しなかった
その違いはどこにあったのだろう ●春秋時代の中国は、約200もの諸侯がひしめき合い、覇権をかけて争った激動の時代
春秋時代に入ると、以前は力のあった周はとても弱体化しまいました。
一方、各地に点在する諸侯たちが力を付けて都市国家を形成し、勢力争いをするようになっていきます。
都市国家の数は200にも達したと言われていますが、中でも有力だったのが「春秋十二列国」と呼ばれる国々です。
晋・斉・楚・秦・魯・宋・衛・陳・蔡・曹・鄭・燕の12国がそれに当たります。
司馬遷は、ここに周と呉(ご)を加えて十二諸侯年表というものを作っています。
また、春秋時代末期には越という国も現れました。 >>100
斉は分裂しなかったが、その代わり、田氏に乗っ取られた
晋は韓・趙・趙の三氏に乗っ取られたから分裂したけど、斉は田氏だけだったから分裂しなかった 三晋は分裂した上主家は滅ぼされたからなー
乗っ取りいうか普通に独立したんだろう その代わり、分裂したおかげで、三晋はそれぞれがそれなりにまとまった国になった。
それに比べて斉は、春秋時代の都市国家連合からの体質転換が遅れた。
楽毅の騎馬軍団に攻め込まれたときに、その弱点が露呈した。
斉の傘下にある都市は次々に離反し、斉はあっという間に「2城を残すのみ」という状況に追い込まれてしまった。
そういう都市国家連合という体質から、強力な王権の確立へと転換しようとしたのが、呉起や商鞅の改革だろう。 日本はもともと中国大陸にいた、3600年の歴史を持っている
何故なら、中国の殷(商)朝は日本だった(殷が名古屋、商が関東)。殷商は紀元前1600年に現れた。ですから日本は3600年の歴史を持っている。
燕国と斉国も日本だった。名古屋と関東は燕国で、残りは斉国だ(燕国人は50%の中国人で、斉国人は75%の中国人だ)。
日本人は、もともと中国大陸に住んでいた、三国時代に海豚の先祖によって日本列島へ移住させられた(日本語は海豚の言葉に由来)。但し、皇室(斉国の国王)のみ、日本列島に行った、我が家(関東の国王)と名古屋の国王は中国大陸に残っていた。
PS 日本は蚊家の宇宙人が作った 、何故なら、3600年前にペンギン(つまりウルトラマン)が誕生した、日本の目的は、ペンギンにこの世に寿命というものがあることを教えるためだ。
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3664-0
アルファ・ラボ|学術掲示板群
(理系 文系 工学 語学)
ttp://x0000.net/ >>101
周の文王の9男っていう地味な開祖の衛って何で長く続いたの?
どんどん階級が下がっても跡継ぎが生まれなくなるまで始皇帝すらある程度の席を用意してたなんて
東周君は呂不韋が廃絶させたのと同じかそれ以上の扱い >>80
酷い学者が言うような歴史にもしもはないではないけど
完璧にどうなるかはわからなくても推測はできる
恵まれた状況にある国でやると抵抗勢力に元に戻される キングダムの主人公が西周の昭王の時代に楚から函谷関から西へ旅立った老子(李耳)の子孫って本当ですか? >>96
敵国がそれほど弱国揃いなら秦の躍進は必然ですね。 >>104
たしかに三晋は粘り強いね。
たとえ会戦で致命的な大敗北を喫しても持ち堪える、領土取られても取り返す。
ちょっと信じがたいレベルの兵を動員できるし国制改革が進んでいる気がする。 戦国七雄最弱と言われている韓も韓王信の子孫によって存続したし >>104
そうだね
あといくつもの山脈や山地で区切られた晋に比べると
斉は地理的に切り取ってまとまることのできる領域がない >>106
殷を2つに分けた片方が衛なんだよ、宋と違って君主は周の王族だけど 周の甲骨文では周の君主を王または方伯と書いている
そして殷の王は衣王と書いている
殷の首都の名称は大邑商で全体を呼ぶ呼び方はないか不明
紂王の子の武コウ禄父を殷侯としている
反乱後に殷を衛と宋の2つに分けて
弟の康叔封を衛伯に紂王の兄である長子口(微子啓)を宋公に封じている >>108
「名もない貧民の出」というストーリーなので、それが表に出てくる粉とはない >>113
山東省は広大な華北平原の真っ只中にあり、自然国境が乏しい
山東半島を手にいれてからは違ったが、攻略するのに何百年もかかった。
でも、楽毅の侵攻で滅びかけたときは、山東半島にこもって持ちこたえた >>110
秦は空き地だらけで雑居する貴族特権の酷い国のまま まずは、現代の世界地図からくる先入観を捨ててかからなければならない
現代人にとって、ヨーロッパがドイツ・フランス・イタリアその他に分かれているのは当たり前だ。
そこをあえて統一しようとしたナポレオンやヒトラーは、「狂人」と位置づけられている。
それと同じように、この時代の人々にとっては、中国は秦とか楚とか斉とかに分かれているのが当たり前だった。
秦の始皇帝が奇跡的に統一したが、死後はたちまち魏だの楚だの斉だのが復活した。 斉を滅ぼした時点で、韓信には「斉王になる」という選択肢もあった
そうすれは、劉邦の漢、項羽の楚、韓信の斉で三国志になったかもしれない >>107
概ね賛同する(特に二行目までは)けど、三行目に関しては一概には言えないのでは?
相対的に強力富裕または地政学的に恵まれた国が必ずしも変革に後ろ向きとは限らないし >>104
俺も同じようなことを考えたことがあるけれど
田斉の守りが脆かった原因を、未発達な城邑、すなわち防衛力の低さとみる向きもあるんだよね
首都陥落や体制中枢の混乱を衝かれてあっという間に亡国という例は斉だけではないし(集権化した秦帝国もそう)
斉を王権が弱い、体制転換が遅れていた国と断定するのはやや早計かも >>122
まあ確かにそうかも
歴史的な経緯からしても斉が先進国なのは確実
でも、先進国だからこそ、新しい時代の変化に乗り遅れることはよくある 上にも書いたけど、斉の弱点はなんといっても地形
華北平原(面積はちょうど関東平野の10倍くらい)のど真ん中
埼玉県が関東から独立するようなもんだ
防御が難しいすぎる >>125
ここで言ってるのは、山東半島を除く、山東省の大陸部の話
泰山はあるけど、それ以外はまったくの平原国家 じゃあ千葉県が独立するのは容易い&そうなると関東民は大変なことになる? 山東省から山東半島を除くの?
で、埼玉?
全く意味がわからない >>127
もちろん、埼玉よりも千葉のほうが独立はしやすいな
それは地形からして明らか 現代の中国は、華北平原に人口が集中している。
華北平原は、人口4億人。面積も人口も、関東平野を10倍にしたくらい。
凄まじい人口密度だ。関東平野より水が乏しいことを考えると、かなり無理がある。
岡田英弘によると、古代の黄河はいまより水量が多く、治水も発展途上だったことから、下流は洪水が多すぎて居住に適していなかった。
このため現代とは異なり、華北平原の人口密度は低かった。 >>122
たしかに
七十余もある城が短期間で陥落した背景には、城塞と呼ぶにはあまりに脆弱な都市が
多かったとは俺もどこかで見聞きした記憶はある
ただ斉はあまりに田氏が増え過ぎて集権化の遅れもあったとかも聞いた様な 秦の滅亡後に復活した斉も、防御は弱かった
城が多くて見た目は立派なのだが、斉に攻め込んだ漢の韓信にとっては張り子のトラだった >>122-133
臨シの城壁わ戦国期屈指の規模な厚さ高さ共に
韓信は相手が外交で防備解いた所を騙し討ち >>133
斉は田氏に乗っ取られたり強そうだけど意外と駄目だよなあ >>135
斉が強国かどうかと、主家が家臣に乗っ取られたこととは、また別の問題なのでは? 都市国家って古代日本では存在してなかったから
都市国家が並立してる状態が今一つどんな状態かわかりにくいな 古代でも小さい国みたいなのがあったら邑みたいなものじゃないかね >>133
始皇帝は統一後の事業で各地の城壁を破壊して交通網の整備を行ったりしてるので
堅固で知られた斉の城も防御コンプレックスとしてかなり骨抜き状態になっていたと推測できる >>137
確かに日本の古代には中国や西アジアのような
都市はなかったですよね
ただ、田舎のムラに村長(ムラオサ)みたいな主、
有力者がいても、それが王と呼ばれるには支配地が都市とまで行かずとも、ある程度以上人口が
集中した物流の中心で、大きな市場が出来ないといけない
日本ですらそう言う人口集中地は各地にあるから中国なら尚更ある訳で、逆にそれでよく中国各地の有力者が習親分の下で一つにまとまれるもんだなと思います 習さんにはそれだけ他の有力者を抑える軍事力があるのでしょう >>137
それはやっぱり、中東をイメージすればいいんじゃないかな
オアシス都市があちこち点在していて、人が住んでるのはそこだけ
後は無人の砂漠 >>140
有力者もみんな共産党だから、運命共同体なだけだろ 弱きを救うは仁
正しきを救うは智
得を選ばぬが義
損を選ぶが侠 >>137
むしろ中国が一つにまとまってるの方が不思議だ一人の権力が黄河下流域を超えて全土に及ぶ謎
都市国家並立こそが普通の状態ではないか? 中国には古代に黄河、長江の上、中、下流で
それぞれ別の文化が栄えた
あまりにも巨大だから東北、華北、西北、華東、華中、西南、華南と七地域に分かれてるし、
それが欧州のように独立国でもおかしくない まあ、中国共産党体制がソビエト連邦のように崩壊すれば、自然とそうなるな
ちょっと前までは夢物語だったが、今はかなり現実に近づいたように思える >>147
ただし、黄河下流域は、日本でいえば東京のように人口が集中する地域
それなりに求心力はある 近世以降の北京とは異なり、古代の燕は辺境の弱小国だった
満州や朝鮮にまで勢力圏を広げ、地味に大国だった時期もある >>148
無知無知くんの知ったかぶりが一段と酷いな
華東なんて無いし嶺南が欠けてる >>99
豊邑と鎬京の間にあるなら西岐と同じ西のはずの崇が北扱いだったり
そもそも最初の王の系図で成湯の次がいきなり太甲で太丁なぞいないなど
どこまでとか心もとないどころか、何も当時の実情なんて反映していないよ…
まじめに調べたり考えたりしたらわかるはずだが 封神演義わ後半面倒臭く成って雑にブン投げてるからな この時代をテーマにしている現存の作家って宮城谷氏だけですよね
結構いろんな人を書いていますが、まだ書いていない有名人っていますか
信陵君なんかまだですよね?
呉起もないですよね 作家さんに「現存」では失礼でしたね
申し訳ありません
存命な方でこの時代を描く可能性がありそうなのは、他に酒見賢一氏、塚本青史氏
ぐらいでしょうか
ネタ切れした北方謙三氏が参入してきたりしてw >>119
いろんな勢力が割拠してる地域が統一されることってそれなりにあるから
秦の天下統一は奇跡、統一を狙うやつは狂人ってのも少し違うんじゃないか?
古代中国より広大な地域を統合したロシアやそれなりにデカい列島を統べた日本とか
特別おかしな扱いされてへんし 東周 魯 蔡 曹 成 霍 衛 丹といった周の文王の子供達の国や呉みたいな文王の兄の国
商の末裔である宋や夏の末裔である燕や舜の末裔である陳や黄帝の末裔である楚ではなく
なんでそれらを差し置いて武王の息子の国である晋(それも分家)が強国化したんですか?
同じ武王の息子の子孫である韓や魏は長い間その晋の配下だったのに >>160
晋は姫姓と言われているが
一説には異民族であり、桓叔とかの逸話も本来は同族争いではなかったと
だから、重耳が姫姓の国で嫌われ、斉では中華でない異民族が頼ってきたから喜んだと
そして、晋は献公の時に十数ヶ国を滅ぼしたし、当時中原最強のカクも滅ぼした
有力な国は少ないのに中原のかなりの国を滅ぼしたから強大化した
更には世継ぎ以外の公子を国外に出すという状況から
貴族の合議制みたいな状態、オスマン帝国に近い、共和国みたいになった
韓や魏は配下だったのではなく滅ぼされて、お気に入りに領地として与えた
衛や宋は特別扱いされていた
衛は実体がなくなってもずっと存続していたし
宋もケッチュウ扱いしてようやく滅ぼしている >>160
晋は歴史を信じたとしても
分家の桓叔の末裔の曲沃が本家を滅ぼした
更には献公が初代桓叔、二代目荘伯の子孫、叔父等の同族を一部以外皆殺しにした
献公は同族の国を数多く滅ぼした
自分の息子も自殺に追いやったり、殺そうとした
恵公も兄の重耳を殺そうとした
文公以来、世継ぎ以外の公子は全部国外に出すようにした
後には卿の嫡子を公族とする制度をとった
こんな国だから強大化したが、家臣に乗っ取られた
ただし、周王から三晋が諸侯に封じられてからも魏侯は晋の官職である正卿の地位にあり続けた
事実上分裂した時どころか同等の侯爵になってもまだ君主扱いしていた >>160
周なんて洛陽ぐらいしか支配領域がなくなって
権威が地面にめり込んで忘れられても
まだ権力争いをして東周と西周に分裂しているような奴等だよ >>160
最強になる道に
鬼になったら鬼を斬り、親に会ったら親を斬り、仏に会ったら仏を斬りってんだから
あっ、親戚の国だ、滅ぼそう、伯父叔父・兄弟・甥なんか平気でころそって
そんな国だから強くなった >>154
西とか東とかつけて呼んでいても変なの結構あるじゃん
東晋は南だし >>162
なんか統一後の秦にも通じる生臭さですね 建康は洛陽の遥か東だし南北は南朝北朝で埋まってるからね >>132
どうも斉は大きな都市遺構が少ないらしいね、首都は他国と同じくデカいけど
まあこれから増えるかもしれないけど
あと気になるのは七十が何を意味するのかだな
田斉が半壊する少し前に秦が魏を攻めて六十余城を抜いている
単純に比較すると楽毅に降った城は魏の一地域にある城と大差ない数しかなかったことになる 無知無知くんは又想いつきでデマ垂れ流してんな
いい加減病院行け 王を名乗るのを憚るぐらい国力の無さを自覚していた趙が
邯鄲という夢を見たり歩き方踊り方を覚えようとして忘れてしまうぐらい発展していた都市を持つようになったのって恵文王の時代になってからなんですか? 王号称すの憚った説話があるイコール繁栄する都市がない、とは限らない
王号称したイコール都市が発展した、とは限らない 封神演義の悪来の生き別れの弟の開祖から当主は壮絶な人生送ってる人だらけの割にあと一歩って印象がある趙
最終的には裏切った張耳が知己のあった劉邦に重用された一方で滅ぼされてしまうし
配下になったあともその劉邦に死地に追いやられてるとしか思えない扱い受けた魏や韓の元王族よりはマシなのかもしれないが >>168
魏も大国だし
最後は城一つぐらいしか残っていない
その六十って大半だと思う 戦国期だと小国でも数十、大国なら数百の城が領内に在ったから
人口数百程度の、まあそれでも中世日本列島の所謂城(館)より規模が大きいけど たしかな数字じゃないけど
統一秦の版図で2000万あるかないかって推測されてるから
秦魏趙韓楚斉燕≒中世末日本、か >>175
記述が事実であれば、その六十余の中に王都がある魏の東部の城は含まれてないはず
なので大半ではないと思う、たぶん >>162
献公と驪妃のエピソードも我が子可愛さでお家騒動起こした身勝手な妾と色狂いの暗愚な君主と振り回された可哀想な息子達なんて単純な構図では無さそうですね >>161
晋が姫姓で無かったとしたら
春秋五覇は全員姫姓以外って事になるのか
闔呂と布差を数にいれるなら別とはいえ 分家が異姓なら乗っ取りわ成功して無いよ
未だ家門血統が大きな意味を持ってた時代 史実によるとカイネは牛裂きの刑になったらしい。
牛の数を増やしてもなかなか股が裂けず、怒り狂った民衆がナイフでカイネの内股の筋を切断して、それでやっと股が裂けたらしい。
https://comic-consideration.biz/wp-content/uploads/2018/12/rrth-625x720.jpg ところで、春秋五覇って、確定しているのは斉桓晋文の二人だけでしたっけ? 秦の穆公をカウントに入れているケースってありませんでしたっけ?
晋文擁立の立役者ですし 候補は幾つかあっても必ず入ってるのは斉桓・晋文の二人だけ
孟子の注では残りを秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王
荀子では楚の荘王、呉王闔閭、越王勾践
漢書の注では斉桓・晋文に、秦の穆公、宋の襄公、呉王は闔閭ではなく夫差に
清の全祖望は斉の桓公以外は晋の文公・襄公・景公・悼公
他にもあるみたいだけど、斉桓・晋文以外で多いのは秦の穆公、楚の荘王なのかな
鄭の荘公がはいるのもあるみたいね >>192
「オレの選ぶ名君ベスト5」くらいの意味しかないんだろうな
だからみんな好きなのを選ぶ。 宋の襄公は話のネタとしては非常に面白いキャラクターですが、覇者というと
ちょっと違う気がしますね >>193
ていうか、「三大○○」とかって、たいていそういうもんじゃないか?
たとえば、「世界三大料理」だと、まず「フランス料理と中華料理」が出てきて、これにはまず異論が出ない。
残りの1つを何にするかで、「トルコ料理だ」、「イタリア料理だ」、「いや、タイ料理だ」で意見が割れる。
「世界三大美人」も、「クレオパトラと楊貴妃」まではすぐ出てくるが、あとの1人が難しい。
「春秋の五覇」も、斉桓・晋文の2人は確定で、3人目からが難しい。 時代は遡るけど、伝説上の三皇五帝ですら誰を数えるかはそれぞれって言うね…
日本でも○○四天王で四天王に挙げられる人が同時代から五人以上いるとかもあるし
X大○○って全部いい加減なんだなって >>192
漢書という皇帝が楚出身なのに唯一荘王を選んでないのか >>197
斉の桓公も、晋の文公も、楚の脅威に対抗するため華北の諸侯を会盟したわけだからねえ
現代でいえば、世界の覇権国アメリカが、ロシア(今なら中国か)の脅威に対抗すべく、諸侯を会盟するのと同じだ。
そういう、春秋の覇者の本来の主旨からすると、楚の荘王を入れるのはおかしい。
まるで、プーチンをNATOの盟主にするようなものだ。 >>196
それも自分が好きな神や地元の神を入れた結果かも まあ、「四国」も「九州」も、古代中国では「全世界」とか「天下」を意味した言葉
五覇七雄も、そういうもんでしょう >>197
むしろ漢の歴史観では楚を低く評価するのではないか
項羽と争った劉邦が開いた王朝なのだから >>195
三大仏とかだと、
奈良と鎌倉は決まってて、
残りの一つには地元の大仏をいれる >>195
正直、フランス料理が西の筆頭というのはどうだろうと思ったりする
西洋料理の本流は歴史的にもイタリアでしょ、やっぱり イタリア→フランス(宮廷料理とか)
スペイン→フランス(チョコレートとか) フランス料理がイタリアの多大な影響を受けたことは確かだが、いわゆる大世紀以降ヨーロッパの宮廷文化がフランス中心になったことは否定できないからなあ。 広東 北京 上海 四川
有名どころの中華料理は春秋戦国時代は辺境にあるところばかりだけど
春秋戦国時代からの伝統料理って餃子と羊羹(羊肉のスープ)以外にどんなのがあるんですか? それで全部じゃね
牛わご馳走だし粟は今食って無いし 粟って粥にして食べてたのか餅にして食べてたのかパンケーキに近いものなのか? 味付けはほぼ塩だけだったのかな?
魚醤はもうこの時代あったのか?
甘味は何で作ってたんだろう
ハチミツ?桃?みかん(橘)? >>205
それは、かなり大昔のイメージだねえ
近代では、料理もファッションも圧倒的にフランスで、イタリアは田舎そのもの
国家戦略としてブランド化を進めた結果、今ではイタリアも、フランスに次ぐブランド国のイメージにまで改善したが >>214 さん
>>209 さんも書いてるけど、
春秋戦国の頃は今の河南省あたりが中心的地域で、
そこをめぐって辺境扱いだった諸国も加わって覇を競うようになっていったってわけでしょ
で、今のフランスが、料理も含めた近世宮廷文化以来の欧州文化の中心だと位置付けるなら、
それに或る程度なぞらえることができる中華料理の代表格は北京料理、その源流まで遡るとしても山東料理辺りまでってことになるけど、
江南(本来的には、南宋の首都だった杭州あたりの料理が江南の本流になるとか)、
四川、広東、それから湖南や福建あたりは、非常に独自性も強くて有名な料理も多いよね
世界的にはむしろ北京料理よりも広東料理のほうが存在感大きいしさ
フランス料理って、確かに宮廷高級料理としての存在感は大きいけど、そういう分野が突出してる感じで、
一般庶民の通常食生活まで見渡すと、イタリアやスペインのほうが裾野が広い感じだよね
中国文化圏の場合には、商品経済が古代以来大きく発達してたから、
食なども含めた文化的中心が、宮廷だけでなく一般都市住民層にもあったのが大きいのかな?
まあ、その辺りはそれこそルネサンス期のイタリア、特にフィレンツェとかにも言えるわけだけど(フランス宮廷料理の源流はフィレンツェ発だし) >>213
酒があるならほぼ当然に酢はあるでしょう
たとえば古代の中華料理でいう膾って、つまりマリネでしょ 中華は中華、フランスはフランスだ
歴史を歴史で例えるのが愚かで意味がない >>215
>フランス料理って、確かに宮廷高級料理としての存在感は大きいけど
華やかなブルボン王朝の宮廷料理が、フランス料理のバックボーンなのは間違いない。
でも、それ以上に大きいのは、19世紀から欧州でも突出した先進国となったフランスの市民社会に、
偉大なシェフが何人も登場して、高級レストランの美食が確立されたこと。
美術と同じような感じ。
中世からルネサンス期にかけての美術の中心はイタリアだったけど、19世紀から20世紀前半にかけての近代美術では、フランスの存在感が他国を圧倒している。 >>215
中華料理の本流は、清代の北京で18世紀以降に確立された「満漢全席」
現在の中華料理を考える上で、古代の河南省のことは、まあ、まったく関係ないとまでは言えないが、あんまり関係ないんじゃないかな? どっちにしても、近代のフランスを引き合いに出したのは良くなかった
やっぱり、春秋時代の河南省と状況的に似てるのは、ミラノやフィレンツェやナポリその他の都市国家が争う中で、周囲にフランスやスペインといったケタ違いの大国が登場する、15世紀末のイタリアでしょう 宋代の料理も現代中国のどの地方料理より京料理が近いとかいうしな >>220
ちょい待ち
満漢全席というのは、実は江南の周辺の富豪が趣味的にやっていた贅沢コースで、
本来のコース料理の流儀ではそれはなかったはず
袁枚も「随園食単」でそういう話をしている
というか、清の宮廷では、満洲族の様式の料理と漢族の様式の料理を同時に出すことはなかったそうな >>222
日本料理よりは韓国料理の方が近いかもよ、鳥獣肉や香味野菜の多用から見ればね
宋代には森林資源の枯渇で磁器生産用の燃料に石炭を使うようになったことから、
その副産物のコークスの生産量が増えて、それが調理用燃料として広く使用されるようになり、
そこから今のような火力調節を重視する様式ができていったってことだよね
さらに、宋の朝廷の臨安(現・杭州)への南遷で、淮北の麦食料理様式と淮南の米食料理様式が混交して、
品目全体が非常に複雑になった >>223
西太后も食事のたびにフカヒレだのサーモンの刺身だの並べさせてつまみ食いしたそうだが
後者は満洲料理じゃない? 古代中国にしろ近世近代ヨーロッパにしろ、
最初は小規模な都市国家から文明が栄え始めるのはなぜか?
また、近世中国が出遅れたのも大きすぎたのが原因か? >>225
西太后は魚介類を好まなかったという話もあるらしいけど、
フカひれやサーモンの話の出典は何だろうか
本来、漢字の「鮭」は淡水フグを指していたそうだし >>226
一定規模の人口と経済力と軍事力を持ちつつ、それらが次第に拡大していくには、
住民の階級や保有情報量について、当初の段階では或る程度の同質性が必要だからじゃないでしょうか? 北京はもともと料理の盛んな土地柄ではなく、清の上層部は満州料理(羊の串焼きとか、そういうの)
を食べていたから、漢族のいわゆる中華料理なんてものではなかった。
北京の宮廷にいる中華料理の料理人は、山東省出身者ばかりだった。
つまり、北京の宮廷料理は、満州料理と山東料理の組み合わせだった。
後には、広東料理などの要素も加わるようになったといわれている。 >>226
大都市が、いくつもの小都市を支配するようになると、大きな領域国家になる >>229
羊をよく食べるのはモンゴル系やチュルク系で、
満州人は昔から豚豚豚肉が好きだったよ
豚肉と白菜の鍋とか、
豚肉と脂肪をコンビーフのように固めたものが代表的 >>231
おそらく、満州人が羊肉料理を食べるようになったのは、北京に入ってからモンゴル料理の影響を受けたんだろうな >>229
まさに北京そのものの河北はあまり料理が発達してなかったのかな?
北京は「燕京」の美称も持つくらい歴史が長いうえに、
元のカンバリク(大都)以来の巨大都市の歴史も継続的に持っていたはずなのになあ
反対に、山東の料理が先行して発達してたのはなぜだろう? >>234
北京は寒くて乾燥地だから、食材に恵まれてない。
山東料理は、それこそ、「人肉を食べてみたい」という斉の桓公のリクエストに、易牙が子供をスープにして提供した頃からの歴史がある。
北京に料理がなかったわけじゃないけど、宮廷では山東出身の料理人が圧倒的に重用された。
なにせ、明清だけでも500年、金やモンゴルまでいれたら、もっと長いこと首都だったのだから、宮廷料理は当然に発達した。
でも、清朝が滅亡したときに、腕利きの料理人は四散し、多くが四川省や広東省に逃れたといわれている。
おかげで北京料理は衰退して、四川料理と広東料理が勃興した。 >>226
単純にモンゴル蛮族の破壊で文明レベルが300年遅れた
朱元璋が統治者として無能だった 北京が首都というのは、たとえてみれば、アイヌ人が日本を征服して、青森を首都にしたようなものだ。
いくら立派な宮殿を建てても、本質的に辺境であることに変わりはない。
宮廷の食事は当然、江戸か京都から料理人を連れてくるでしょうな。 河南あたりなら、開封とか洛陽とかの古都もあって、
しかも河北からそれほど離れておらず、そのうえ農産物もかなり多様
それでも山東の板さんたちが河南の板さんたちよりも重視されたのは・・・人脈? 政治的事情? はたまた味付けの好み?
宮廷料理っていうのが或る意味で国の治安や安全保障に関わる分野だっていうのは、
古今東西、毒味役さんが元首の絶対的腹心でもありうることからも合点が行くんではあるけれど 味付けの好みっていえば、尾張人の信長は、薄味の京料理をあまり旨いと感じてなかったんだとか・・・
現代の愛知県西部の人たちは、京都市内の料理の味をどう感じてるものかな >>233
ただし北満のホロンバイルの満州人はモンゴル人と文化的に近く、
遊牧民になっていて食生活もモンゴル風 >>240
古代と違って、洛陽は辺境の廃都、黄河の水もだいぶ枯れている
清代ともなれば、とりあえず河南省のことは忘れていいかと 話変えますね
過去の歴史で「もしも」を言っても仕方がないのですが、もし超の武霊王が
権力を維持したまま活動できていたら、秦にはかなり脅威になったのでは
ないでしょうか?
案外趙が統一に近付いたりして >>244
実際、「キングダム」の漫画でも、趙は、秦の前途に立ち塞がる最大の難敵 >>244
武霊王は即位時に幼年だったとあるんで10歳以下だったとして
死亡時はアラフォーだから横死してなけりゃ活動時期が10年くらい延びるけども
その時期恵文王の趙は四苦八苦ながらも秦を結構抑えてるからあんまり関係ないと思われ
秦の繁栄を不動のものとした昭襄王・范雎のタッグとの活動時期が数十年違うので
あんまり関係ないんでないかな 胡服騎射の一発屋だからなぁ
軍制改革は確かに立派だけど、内政面でなんも残してない 武霊王が始めたという胡服騎射って、そのあと他国も取り入れたんでしたっけ?
馬車でちんたら走るのと、騎馬集団では、機動力が全然違いますよね 荘子が荒くれ者の決闘ばかりさせて政治をしようとしない趙の王を公子に頼まれて止めさせた逸話って
王が武霊王、公子が恵文王か平原君なのかな?
恵文王じゃ時代が遅すぎるし、そういう計らいの出来た公子が孝成王ってのもなんかしっくりこない >>249
嘘の話だから架空の王だと思えばいい
聖人もそれいじょうも存在しない架空の人間の話 説話の真偽は置くとして、
孝成王にはそういう計らいは出来ない、っていうイメージが俺にはしっくりこないな
公子時代の恵文王や孝成王の人となりって全くわからんし
>>246
存命なら趙は秦に勝てたとかいうつもりはないけど
秦趙関係の史料から推測するに、武霊王代終盤の趙と秦の勢力圏は黄河付近で交錯してたのに
恵文王代に入ると大きく後退しているから、それなりに関係あるんじゃないかな?
武霊王横死後20年で、趙の盾とも言える魏韓は半壊、王都陥落の楚は東に走る、斉燕は潰し合って動けず
このころ趙が史実と違う動きして秦の東進が抑制されれば、昭王・范雎体制に山東まで押し込まれることはなかったかもしれない 楚漢戦争のころには各国ともに騎兵部隊が主力になってるよな
項羽を自害に追い詰めたのも連合軍の騎兵部隊だし 賈充はトップとして、責任を取りたくないタイプだ。保身の人である。 >>252
ということは、爆発的にってことは無いかもしれないけど、わりと速やかに
胡服騎射が広がって行ったと考えられますね 実際戦争して、あいつらつえー俺たちも真似したほうがいいんじゃ?って経験しないと
蛮族の風習なんて真似たくないもんな 胡服騎射からというよりは騎馬を得意とする民族から騎兵を供給してもらう形で運用が広まった気がする
オルドスの周縁と燕あたりで
>>255
長平において秦軍が騎兵5000を運用した記述があるのでそこそこ広まってる模様
後世の楚漢戦争(まだまだ戦車隊現役)でも1万の騎馬軍団相手の合戦とかは出てこないし相当な数 武霊王の死亡がBC295で、長平がBC260ですから、案外早く浸透したんですね 管仲、呉起、商鞅の改革だって10年で成果あげてるし そこらの改革が10年で具体的にどんだけ浸透したのかは不明な気がするが
まぁ35年以上もあれば新たな戦術も広まるだろうね 秦は武霊王の騎馬部隊相手に敗戦してましたよね
直接対決して威力を認識すれば、取り入れる気にもなるでしょうね
目にしたことがなければ、取り入れようはないでしょうが、そういった戦いの
情報って、どのぐらいで伝わったんでしょうね
垓下のあと敗走した項羽を追撃したのは、確か漢の灌嬰の騎馬隊でしたよね
長平から60年近く経過していますから、かなり広がってたんでしょうかね >>262
基本的には同意やけど
騎馬隊に敗戦みたいな、具体的な事例は史料にないかと
武霊王後半の秦vs趙は情報不足すぎて勝敗もはっきりしない 意識的に改革として胡服騎射を始めたと言うのはないな
まず漢人と異民族の交流がしばらく継続
略奪に始まって通商と通婚
その間世代が入れ替わる間もなく言葉が通じるようになる
漢語を話すけど生活習慣は異民族そのものの集団や
その逆に言葉以外は漢人そのものの集団が生まれ、モザイク状に分布する
後者はやがて看過して燕や中山国みたいになっていくが
前者は最初異民族扱いでやがて兵団として採用されていく
この兵団に徴兵された漢人が加わる
漢人が胡服騎射を始めたと言えるのはこの時 秦なんて内史以外のほとんどは宣太后の時代に義渠を滅ぼして併呑した土地だぞ
騎兵をと入れるも何ももともと遊牧民が多い土地なんだよ 晋や趙の君主は中国人と遊牧民族の混血から発生したんじゃないの? せやな、義渠人は優れた騎兵だったそうで漢代になっても活躍している
前にも書いたが初期の騎兵運用は秦・晋・燕あたり別々に始まったんやと思う、武霊王以前に 趙に併呑された楼煩や代戎、中山国の遺民が騎兵の大元になったのだろうな 中世のロシア、つまりルーシの諸公国も
遊牧民のポロヴェッツ人と婚姻関係を結んでいた
イーゴリ公の祖母もポロヴェッツ人
しかしルーシの諸侯はもともとバイキングであり、遊牧民ではない
だから、晋や趙が遊牧民と婚姻していたからといってもともと混血だったとは言い切れない >>262
灌嬰には元は秦の李必と駱甲が騎将として配属されたのが大きいな >>274
意味不明
婚姻関係を結んでいたのなら混血だろう
元々別に純粋なバイキングだったわけではなく、
現地のスラブ人と通婚して言語もスラヴ化したのだから
その意味でももともと混血だったし >>277
185aないと大将軍にはなれなかったから当時の平均身長150aを考えるとかなり大柄なのは事実
185と150じゃ基礎パワーも違うから強かったのも事実 身長150pとかそりゃ同時代の縄文人とか弥生人の身長だろ
長平の戦いで死んだ趙兵を埋葬した永禄第一尸骨坑の遺骨の平均身長は約170p
ベルツが記録した清人の平均身長が168pなので古代から近代まであまり中国人の身長は変わっていない 曹操が155で小柄扱いだから
平均150って事はない 晋の文公は43才から19年放浪した
彼は次男である
長男には同母姉がいた
彼女は文公が亡命した翌年に嫁に行った
46才で結婚したのだろうか 衛は称号を君に下げたが
君と伯はどちらが上なのだろうか 公侯伯子男の爵位は春秋時代からあった
君の称号は戦国時代に国内の功労者に
一定の権力と所領を与えたもので、
地位を与えられてからも国のために尽くす話が多く
情勢次第で同盟相手を換えたような春秋時代の君主とは違うだろう 季孫氏は一貫して子で他は伯とか叔を名乗っているのから考えさせられる 三桓は季孫、叔孫、仲孫で前2つの通称が何々子、仲孫氏が孟何々でしょ すっごくどうでもよい話なんですが、ドラゴンボールでピッコロが
悟空に向かって「孫」っと呼び掛けているんですが、実際にこういう
呼びかけはないですよね?
たとえば味方なら基本的に字(あざな)で呼びかけるんでしょうが
敵に対してはどうなんでしょう? 味方の姓氏を呼んじゃいかんという話は聞かない気がするぞ
役職じゃなければ姓氏の可能性が高いのでは?
味方であっても他人の情報は限られるだろうし、字呼び縛りとかあったらスゲー不便そう 現代人の場合、二字姓は直接の呼びかけにも親しい間でよく使うが、
大多数の人の一字姓はそのままだと短すぎて使いにくいので、
阿、小、老などを頭につけるか、
叔、姐などの親族名称に由来する一字の肩書やその畳語形、
他に社会的地位を表す各種の肩書などを姓に続ける 魏と言うか信陵君の末裔を見つけて祭祀を続けさせたり裏切った韓王信の子孫は(個々人で処刑されたケース多々あるとはいえ)重臣として使ってたのに
周や衛の末裔を見つけだしたりはしなかったのかな劉邦 >>291
朝鮮半島での慣習の場合だと、伝統的に、姓の呼び捨ては非常にぞんざいで失礼な呼び方に当たる
例えば金姓の人を「金(キム)」と姓呼び捨てにすることは、まず無い
フルネーム呼びの場合には例えば「金哲秀氏(キム・チョルス・ッシ)」と呼べば、「金哲秀さん」といった丁寧な意味になるけれども、
だからといって、この人を「金氏(キム・ッシ)」と呼ぶと、これも姓呼び捨て同様に、非常にぞんざいで失礼な呼び方になってしまう
「金とかいう人」といった、十把一絡げ的に軽視する意味合いになってしまうようだ
ただし、韓国での現代口語だと、「名+氏(ッシ)」はわりとよく使われる
上の例でいうと、「哲秀氏(チョルス・ッシ)」で「哲秀さん」といった表現になる
名に「氏」を付加するというのは、昔は不自然な用法だったそうだけれども、
現代韓国では一般化していて、ドラマやアニメの台詞でも出てきたりする
付け加えると、フルネーム呼び捨ては、「おいお前!」や「そこへ直れ!」といった強い呼び付けのニュアンスにもなる
例えば、「金家の親御さんが自分の息子の哲秀をとっさに叱る」ときに「金哲秀!」とフルネーム呼び捨てで呼ぶ、といった用例はよくある 儒礼の慣習その他の関連で、明代あたりの慣習が現代韓国に残ってたりする事例もあるから、
決して無視はできないよ 石碑とかで丞相名前とかで氏をつけないんだよな
なぜか呂不韋はフルネームだけど
トンデモなユダヤ人とか説でこれだけで名前だったのかな 本物の「西遊記」では当然のことながら悟空を「孫」と呼びかけることはなく
格上・目上の三蔵法師、お釈迦様、観世音菩薩などは「悟空」と名前呼び、
八戒、悟浄、白馬の兄弟弟子は「兄貴」、
その他の神様(たいてい悟空より弱い)は官名の「大聖」ですね >>295
>例えば、「金家の親御さんが自分の息子の哲秀をとっさに叱る」ときに「金哲秀!」とフルネーム呼び捨てで呼ぶ、といった用例はよくある
それは中国の習慣であり、朝鮮に特有のものではない。
韓国ドラマだけでなく、たまには中国ドラマも見ることをオススメする。 歴史マニアなら、韓国の時代劇など見るべきではない
中国の時代劇もファンタジー要素が満載だが、韓国ほど徹頭徹尾アナザーワールドではないから 日本の時代劇だってファンタジーだし、時代劇ってそういうものだし
それに時代劇からは、その国民が過去やれきしに抱くイメージがつかめるという意味で歴史学研究者や愛好者も見る価値はあると思う。 時代劇はあまりガチでやっても受けなかったりするからなあ >>303
>日本の時代劇だってファンタジーだし、時代劇ってそういうものだし
それはそうだが、「程度の問題」ってのがある
韓国の時代劇を見たことないんだろ?(笑) >>307
もちろん、お前が韓国に興味ないのは分かっている
こっちは、日本のも韓国のも中国のも、時代劇をさんざん見てるんだよ(笑) 寄親寄子ごとに編成されていた戦国時代の軍勢が中央集権制の中国朝鮮の軍隊のように
同じ兵装で整然と陣形を組んで戦っているさまはかなりのファンタジーだと思うけどね
https://youtu.be/cVMEvt-GahQ?t=61 >>309
だから、程度の問題だって言ってるだろ
韓国時代劇のファンタジーぶりは、そんな細かい話じゃないんだ(笑) 皇帝の専制は、古代のペルシャ帝国やバビロニア王国に由来するオリエントの伝統だな 基本的に春秋戦国のスレなのに朝鮮半島やら西遊記で例えるから収拾がつかなくなるんよ
なんとか侯(君)、官職、公子、姓氏+子、呼び捨て
戦国策あたりの会話文を見るに、主や親みたいな特別な関係除く一般の敵味方からの呼称はこんなもんでは? 私がドラゴンボールネタを出したせいで申し訳ありません かくとか実は王族じゃないのではって研究があるらしい
西州初期には記録がないとか >>302
「悟」の文字の入った悟空 悟能 悟浄の名前は師父しか呼ばないのに何故か八戒だけ猪悟能とは書かれない不思議 春秋時代の枠からは外れるけど、陝西の姜姓の諸国は諡号に十干を使ってないのに、斉は周夷王に殺された哀公以前は十干を諡号に用いてたことから、斉はもともと殷系の国家で殷末周初に周側に寝返った国という説は面白い >>329
史記などで東伯公姜桓楚にあたるのは九侯または鬼侯あたりであって斉ではないけどな >>319
西周中後期の夷王や宣王による山東諸侯への介入も気になるな >>319
落合淳思の説だろうけど、この人の主張は結構面白い
宋は殷の王族の血を継ぐ後継国となってるけど、実際は殷に服属していた微という国が周に寝返り、殷の王族の弱体化と微に対する褒美として殷の末裔としての地位を認められたという説
その根拠として、周代の殷の王系と殷代の王系では周代のものに殷代の系譜にみられない契、昭明、相土、昌若、曹圉、冥、振、微の八王が追加されていて、これは宋(微)の始祖神話を無理やり殷の王系に組み込んだからと推測している
考古学の進展で金文や甲骨文字が発掘されて、こういう仮説が出されたりすると、まだまだ大きな発見が期待できる 甲骨文では商の始祖は上甲となっている
商は都市の名前で全体の名は不明とあるけど
武王が商を伐ったとある
また周の甲骨文では殷王のことを衣王と呼んでいる
太公望は甲骨文に存在しない
帝乙も存在しなく紂王は先王を文武丁と呼んでいるが
周の甲骨文では文武帝乙とあるので間違いが伝わったのだろう
姫姓があれだけ多いのもおかしい
晋は夷狄扱いされていたという説がある
だから姫姓の諸侯に悪く扱われ異姓の諸侯に優遇された
斉は今で言えば外国から野蛮人が徳を慕って来たから喜んだのではないかと 帝タンシュとか囚堯城という言葉がセンガイキョウにあるらしい
舜は曹丕みたいなことをしたんだろうな 舜は心に愛情を持たない男だった
父も母も弟も愛してはいなかった
それどころか彼等が死んでも悲しいとは感じなかっただろう
自分の息子のことも愛してはいなかった >>322
まあ架空の人物なんだから
そういうイメージかなという話よ >>324
上甲(微) 報乙 報丙 報丁 主壬 主癸
っていう湯王天乙までの名前が羅列されてるだけの商の長も実在疑われてるんですか?
湯王の後の複雑な兄弟相続と違ってここまでは単純な父子相続だったようだし 先日NHKを見てたら「キングダム」番宣の声優さんの番組をしてたんですけど、
このアニメではもうみんな騎兵なんですねw キングダムって歴史考証ガバいからなぁ
そもそもそういう作風でもないけどさ >>330
どっかでキングダムの作者が
「騎兵が一般になるのはもうちょい後ですけど、あえてこの作品では騎兵を多くしてます」みたいなこと言ってたのをみたことあるよ
他にもにたようなケースはあって、
たとえば「チェーザレ」ではチェーザレの妹(兼恋人)の髪型を、
チェーザレの舞台の時代よりももうちょい後に生まれた髪型にしてある じゃあきっと項羽もあえて大して戦闘力高くない描写になるんだな まあ実際将軍みんな神輿に乗ってたらちょっと絵面が悪いよな >>334
秦の兵馬俑とか見ればわかるけど指揮官は戦車だよ キングダムでは李牧が趙の宰相になってるんですねw
廉頗四天王なんてのもいるようで 公的地位を変更するのは嘘の部類
名前は残って無いけど居たであろう廉頗の子飼の武将たちにキャラ付けするのは演出
まあどうでもいいか… あの漫画は将官クラスの猛者どもが得物を振り回して無双すれば決着つくんで、
御大層な戦術をいくら描いても無意味の一言っていう >>338
まさにその描写やったら最強になるはずの項羽を描かないまま終わるのかな?
理屈抜きにとんでもなく戦闘力の高い項羽が天下統一して平和になり理想的な社会を作った秦を全部ぶっ壊しましたってならないんだろうか? >>336
キングダムは明らかに誤認だろうな、っていうとこもあるが
宰相李牧については始皇本紀に「相李牧」ってあるので根拠がないわけじゃないよ
相って書いてあるから実際に宰相(戦国なら相国or丞相か)確定かと言えばそうでもないけど 李牧が宰相格ってのは別にあり得ない話じゃないし、そこは素直に(趙)相李牧と読んでも良いのでは?創作だし
>>298
秦系資料では「臣某」のように、「官名+某」が通例だけど(「呂不韋」「薛君」など例外あり、浅学ゆえ他はよく知らん)
逆に三晋系の資料においては「官名+氏名(たぶん)」、「なんとか君」表記がよく見られる
東方要素が強いと思われる人物、呂不韋や薛君が異例なのは興味深い >>329
上甲から匚(報)丁までは配偶者の祭祀がないから神話で確定。逆に言えば示(主)壬からは配偶者と共に祭祀されてるから実在したかも
祖乙以後に殷は分裂して、祖乙の子孫を名乗る勢力が複数あらわれたのを再統一したのが武丁。武丁の再統一で混乱した王統を改編した結果、殷代は兄弟相続が多くなったように見えるというのが落合淳思の主張 実在したかもとは言ったけど、中壬や沃丁みたいに甲骨文字上に現れない後代に追加された王もいる 藺相如って「刎頚の契り」のエピソードでは
武官のトップの廉頗将軍に対して文官のトップにいるような印象だけど
実際は藺相如も将軍の1人みたいだな 文武の乖離って後漢、魏晋南北朝辺りに顕著だけど
極端化するのってさらにもっと後だよね 役割分担は戦国以前から存在するだろうし、ってか古今東西どこにでもありそう
そういや韓非子は武が文を兼ねる戦国〜漢代?の現実にキレてるな
あいつら殺すのは得意かもしれんが行政はでたらめや!って 実務面での韓非ってどのぐらい評価出来るの?
李斯の讒言無くてもすぐに敵だらけになりそう >>351
仮に始皇帝の代はもっても次で処刑か自殺強要 「分化していない」のに「役割分担がある」って意味わからん
官職があるのに分化していないっていうのも意味わからん 統治エリートのライフコースとして文官も武官も経験するのが当たり前、みたいな状況なら、官職があって役割分担はあるけど分化はしていない、と言えるかもすぞ >>354
勢、法で文武に分けられてるのが分化
術だけで文武を分けた運用してるなら役割分担
官職は漢代だと上へ行く程どっちも混ざって来る感じの様な >>345
「キングダム」ではメチャクチャ強い怪物の1人 >>331
そのわりには、外せない人気キャラでも、史書にある通り忠実に死なせる
もともと架空に近い人物造形なのに、生かしといても誰も文句いわないと思うんだが >>339
作者は「秦が天下統一したら終了」と言ってる >>347
特化した文官ってのは、やっぱり科挙官僚で、儒教社会の産物だからな >>359
ええ?荊軻の仇を撃ちにきた高慚離を説得できずに殺した所も
韓非をあっさり自殺強要しといて結局取り消したけどもう自殺してたから綺麗事言ってスルーしてるした所も
田斉三兄弟の秦滅亡後も続く抵抗も
圧政で民が苦しむ所も
隕石が落ちたから周囲の村を大虐殺するところも
優秀な長男殺して溺愛してる末っ子後継者にするところも
描かないの!? 史書に書かれているからその通りにするっていうのだったらフィクション作品にする意味はないな
始皇帝も呂不韋の子ではないってことになったし >>361
>優秀な長男殺して溺愛してる末っ子後継者にするところも
それは始皇帝の行いではないのでは? >>359
まずそれらで一番近いイベントが韓非子関連だけど
それすら数年から十年くらい先なんでまだ様子見でいいよ >>361
天下統一が成った瞬間の、始皇帝の虚脱感を描きたいらしい しかし、「キングダム2」として続編が登場する可能性もある
そしたら、本編と合わせて「こちら葛飾区亀有公園前派出所」なみの長期連載になりそうだが それにしても、秦の始皇帝が、三国志に次ぐ中国歴史ネタとして日本で定着した功績は大きい
この勢いで、項羽と劉邦もやるべきだろう >>365
始皇帝って統一後も寝食を犠牲にして皇帝でありながら自ら政務に熱心だったのに
統一して虚脱感なんてあったとはとても思えんのだけどね
韓非子に興味津々だったり、六国がひとつも滅んでない頃から既に統一後を見据えてた
感じだし 甲子園優勝した後の虚無感とか
オリンピックで金メダル取った後の虚無感とかそういう感じだろ >>369
統一後の始皇帝さんの実態とか、わかる人間存在しないし別に良いのでは? 作者としては、「武による覇道」を最終的には肯定したくないらしい
どうしても、「だから何だったの?」という感じの終わり方にしたいんだそうな >>366
天下統一編が終わったら地上最強編が始まりそう 秦と韓といえば、秦の統一の原動力になった第二次農地の開拓に功績を挙げた鄭国もいる
鄭国渠の開削で新たに開拓した田畑は四万余頃、昭襄王治下の岷江の都江堰による開発とかとも併せて、これら開拓地に農民を徙民させ秦王直轄の邑が多数誕生したことが、商鞅の言うところの農戦の確立に繋がった >>372
それやるなら頑張って統一した秦は3年で項羽に壊されましたって最適なのでは? >>365
度量衡の統一や文字の統一までやってもらわないと 秦は初の統一王朝なだけあってだいぶ派手な事業してるね
有名どころは兵馬俑と阿房宮だけど、ほぼ全土を網羅した馳道とか鄭国渠、都江堰に桂林の霊渠みたいなインフラ整備にもかなり尽力している 睡虎地秦簡の「封診式」はめちゃくちゃ面白い。賊死の項なんてまんま当時の犯罪捜査模範だし、癘爰書の項は下のURLに詳しいけど秦の医療制度についても間接的にわかる
http://jsmh.umin.jp/journal/41-2/248-249.pdf >>378
秦律は睡虎地秦簡とか里耶秦簡、岳麓書院蔵秦簡みたいに結構当時の資料が発掘されてるから、ある程度細かいところまで分かるのか
春秋期あたりの法だと、鄭の子産が成文法を青銅器に鋳込んで公表したって事になってるけど、史料がないから内容もわからない。都合よく竹書紀年みたいな史料が発掘されたりしないかなぁ 秦漢の簡牘文の解読は今中国の言語学で熱い分野
秦になってから道路や運河が整備されて交通が便利になって
商業が発達して大規模化し、貧富の差が大きくなったのではないかな
インフラ整備の工事が原因だと言われているが、それだけではないだろう
漢の郡国制などは国の中にわざと封建国家を作って通行を制限し
富の一極集中を防いで分散させようとしたのではないか >>374
やがて六国滅亡に至る秦の拡大は鄭国渠以前からハイペースだけどその頃の原動力ってなんやったんやろか?
秦に殺害された六国人の数(by史記)がある程度実際の推移を反映したものであれば
戦国後期の入り口くらいが秦軍の殺傷力フルパワーでその後は落ち着いていくけど
開拓地にやる徙民の出身も気になる
昭王までならほぼ秦中の人に限るだろうけど秦王政の代あたりになるとわからないし
商君書に三晋から入れるか否かみたいな議論があったような…… 秦は土地広く民少なく、趙は土地痩せて民多し
5年か10年か忘れたけど免税と農具提供で呼び寄せれば
荒地が開墾され兵士が増え敵の民が減る、一石三鳥とかそんなんだっけ 商鞅の変法で成年男性の分家独立を義務付けたのも大きいと思うよ
男が部屋住みで一つの家で労働力で消費されちゃうよりは
新しく家作って子供増産した方が人口増え易いし細切れになるから移住もさせ易い >>384
そうそう、優遇政策で惹きつけた晋または山東の民を秦国内に移民させて耕作に用いる
農民流出で六国は弱体化するので一石二鳥、戦わずして勝つ
見方によってはいわゆる商鞅変法(農戦)批判
秦軍が大勝した華陽・長平について、やや批判的に言及しているから、時代設定は長平後
この三晋買収、他国人を秦に導入するベクトルは東方出身の范雎・呂不韋(そして始皇に引き継がれる)っぽい
上記二人の前の相国穰侯は、史記や戦国策を読む限り趣が異なる 秦の領土って王畿千里とかその広さを謳われた西周時代の天子直轄領だし、
都である雍も咸陽も西周の都だった岐山や豊邑・鎬京と似たような場所にあったのに、
なんで微妙に夷狄っぽい半蛮族みたいな感じで下に見られてたの? 秦のもともとの本拠地って、もっと西の今で言う甘粛省の辺りでしょ?
中華世界が古代とは比較にならないほど拡大した現代ですら、中華とは微妙に呼びにくい地域だよね。中央アジア世界が始まりかけてるとでもいうか。 つまり戦国時代→楚漢戦争はシルクロードあたりの出自のよくわからん国の独裁者が短期間中原を武力を背景にかってな法律で無茶苦茶にされてそこからの解放運動ともとれる? 秦の官僚体制=漢だし
劉邦も秦の亭長であり爵位をもってる。公士という20爵最下級の位だが
蕭何はそれより上の官位を持ってた。
劉邦は秦の労役により公士という爵位をもらい、それまで劉一族の
なかに官位をもつものはいないのでいばっていたが兄嫁から
「公士ならなにかもらえるだろう?」と役所にいき秦の亭長になった
秦では二十爵は、「田宅を給う」が定められており
これで兄嫁からご飯をもらっていた無職の劉邦は、邸宅と職業と
呂氏というよめさんという生活基盤を持つことが出来た
なお漢の初期〜中期ぐらいから二十爵はただの名誉職になり
何ももらえなくなってしまう なぜ秦や秦領が半蛮族扱いか? おそらく元の出自とかはそんなに関係なく
記述者の住所が中原・山東だからやと思う
>>390
元・清・中共のような大陸の帝国は四方に拡大した領土を持つけど
一般的な中華(漢民族的)世界は四方に拡張したわけではないからなぁ
特に西北はイスラム世界の伸長に阻まれて伸びなかった >>394
司馬遷の出自って関中だから史記書く段階でその辺は編集入りそうなもんだが >>395
司馬氏は蛮族って書かれてたら、そこだけ既存史料コピーを止めてこっそり改竄するかもしれんけど
秦都雍から遠く離れた黄河の畔が出自(世が世なら晋または魏の人って書かれてそう。参考:犀首)な漢の司馬遷が秦に同情してわざわざ改竄するのか? だって先祖は商の悪来であり周の懿王の馭者だった造父なんでしょ? 姫姓じゃないし諸侯としても新参だし軽く見られてたのかな
史記の頃までくると単純に漢に憚って悪く扱ったってのも考えられるか
高祖は楚人だし秦も蛮族扱いのほうが都合良い 姫姓だって祖の古公亶父は羌の娘が
いわば処女懐胎で産んだ子だし
血統から言ったら元は辺境の蛮族って言ってるのと同じ
日本人のお前らの田舎くさい血統主義と違って
中華はどこまで遡っても
血統より文明を重視する価値観が顔を出す
それでもお前らは漢民族は残っていないだの
純血じゃないだのと言うことで
精神的に勝利した気になっている幼稚さ 急に怒るじゃん
春秋戦国スレで漢民族が云々とか精神的に勝利したいのはお前じゃねえか? 中国人と言っても北部と南部とでは人種が違う
どれが漢民族なんだか
中国人が椅子に座るようになっていったのは唐代からで
まだ身分高い人の専用で、庶民は床に正座だった
南宋から元・明代に殆ど人が椅子に座るようになった
唐代には貴族階級そっくり異民族にいれかわった
モンゴル〜明にかけてすべて異民族に入れかわったと
椅子文化はそう告げてる 現代日本人も椅子に座ってテーブルで飯食ってるけど、何民族と入れ替わったんだろう? >>398
周代は中原から四方に伸長してる時代だからおかしくはないと思うけどな
そもそも周人は西から来てるし西戎と同人種だったとかいくらでも言えるし >>405
でも昔も今も大量の米を味の濃い(少量の)おかずで流し込むように食べる文化は変わってない
世界遺産になった「和食」は何故かそういう部分を削ぎ落としてやれ出汁の旨味がどうだのそうそう食えなかったはずの鮮魚(寿司刺身)だのヨーロッパ伝来のフリッター(天麩羅)だの元々農業道具として活躍していた但馬牛のサシだらけの肉だのばかり重宝してるけど >>404
その結果、漢字も地べたに座った時に書きやすい隷書や篆書といった書体から
つま先まで力を加減することで跳ねたり止めたりが自在にできる楷書が主流になった
有名な書家が生まれた時期を考慮しても、明らかに楷書は椅子が生んだ文化だ
それどころか楷書の発達ではじめて個人の技倆や個性の差が安定的に発揮しやすくなって、
書道そのものが唐代になって生まれたと言っていい
では隷書や篆書を書く時と、楷書を書く時とでは、
同じ書家が生き方や行動様式まで異なる、別の民族になるのか? >>407
不思議なのは商が盛んに捕獲して奴隷として使役したり
殉死に使ったりし、また周が同盟者として援軍に使った羌が
今もいる西北だけでなく山東のあたりまで各地で出没していること
商とは異なる種族のはずなのになぜこうも広範囲にいるのか >>410
羌は、文字の通り、羊飼いの民族
羊を連れて、どこにでも出没してたんだろ
まだ牧畜どころか狩猟採集を内地でやってても、何も違和感のない時代だ 人間じゃなくて家畜なんだからあちこちに連れて行ったんじゃね 羌は土着の遊牧民で最初から中華各地にいたんだろう
商は中央アジアからの移住民で青銅器と戦車で蹂躙して
土着を奴隷として使ったんだよ >>411
牧畜民は山西省河北省でも各地に散在してたけど
狩猟採集民は流石に居ないよ 個人的には鄭の小覇時代に興味があるんですが、宮城谷氏書かないかな? >>418
「管仲」でいくらか
あと「名臣伝」で祭足 >>418
沈黙の王だったかな
桓公武公の短編があった気がする ワイが鄭の小覇時代というやつを知ったの宮城谷さんの小説やから確実に書いてるなw >>418
やはり、初見は安能務「戦国春秋志」ですか?
小説だけど良書なんだよなー 俺も安能務の春秋戦国志だわ
司馬遼太郎より陳舜臣寄りで古代の史書って感じの良い本 左伝がかえって分かりやすい
松枝・竹内「中国の思想」シリーズのだと、
章ごとに時代を区切って解説しているが、これが便利
鄭の小覇の時代も最初にそう見出しが立っている 翻ってというか歴史書として読むなら左伝は他の2つより断然優ってるじゃん 小説が歴史書よりわかりやすいと言う立場からの流れだから「かえって」で正しいんだよアスペ 左伝は面白いけど解り易くは無い
出来事が淡々と綴られてるだけだし 宮城谷昌光は、「戦国時代の初期においては、魏が覇権国だった」という話が好きだな
よく、そう書いている 戦国初期の天下情勢を説明すると十中八九くらいの勢いで魏の覇権に触れるんじゃないか?
歴史学者からワイのような素人まで、他にこれといったネタがない 魏は河南だから。一番いい土地じゃん
曹操も魏公を称した 秦は穆公以降微妙
楚は呉にやられて斉は簒奪争い
三晋分裂後特に優れてた文侯が覇権を握って当然なんだよな 版図の大きさや国内の富強という面でいえば武侯期が全盛期かもしれんけど
たぶん三晋の関係がかなり怪しくなってるから実質的には下り坂かな? 公子時代の武侯自身も参戦した魏の対秦攻勢は武侯期には終息してるけど
備えを怠ったとまでは言えないんじゃない?(よくわからない)
秦とばかり戦うわけにはいかないだろうし 安能務氏の書籍は「戦国春秋志」から「三国演義」「隋唐演義」まで好きですね
魏は人材流失がなければ、そのまま強大な力をかなりの間維持できたのではないでしょうか
呉起がもったいないですよねえ むしろ外交方針とかホウケンの大敗とかそういう方向で衰退してったと思うのだよな
人材の流失よりかはもっと直接的なハードパワーの部分 公孫鞅と呉起と孫ピンという超有能な人材を讒言信じて追い出す無能な魏が秦と楚と斉に負けるのは必然でした
ってのをどこまで額面通り信じていいのやら 直接君主に推挙されたのに蹴った商鞅だけは言い訳できないよ
呉起だって楚で変法を潰されなかったらどうなってたか 荘子が実在したかはともかく友人(ということになってる)で名家の恵施が魏の恵王の宰相だったのは史実なの? その説話の内容は事実なのか?
っていうもっとも基本的なところを検証できないから何とも言えないのよね
蘇秦みたく近代の成果で常識があっさり覆される可能性が付き纏う、商鞅説話も例外ではない
>>438-439
近世以降並みに資料が豊富にあれば、現代的な研究がもっと出てくるんだろうけどね
スペイン帝国やハプスブルク帝国の覇権と衰退を一人の名臣で説明することがまずないように ハプスブルク朝の近世のシマンカス文書って大した量じゃ無いけど しかし公的文書館が史料のすべてではないんでは?教区教会の洗礼簿、ギルドや中間団体による記録、個人の日記などの豊富さは春秋戦国時代とは比較にならないのでは?いやまあハプスブルク帝国史には完全に無知なので疑問ばかりですが・・・ そりゃ2000年も離れてるんだから当たり前
唐なら既に大差無い 大差も糞も、競争じゃないんだから
>>444
当然だな、戦国魏と違って近世のものは現物が地上に残ってるし
覇権云々を研究するなら周辺各国の情報が不可欠だけれど
西欧の大国からオスマンまで各国史の蓄積を利用できる近世と比べて
六国の政治軍事の研究がなかなか進まない戦国魏は難易度が高い 戦国日本で例えた方が良かったかな?正史的なものはなくても(一応信長公記があるけど)
その他の一次資料、日記やら書状やらを足し合わすと桁違い
まあ、エル・エスコリアルやインディアス文書館の文献量が大したことなかろうと
王の勅命ひとつ現存してない魏と比べたら余裕で恵まれてると思うけどね… 日本国はかなり異質だからな
史料は大量に残ってるけど一次史料の信憑性が低いという民族性の問題が まぁ信憑性が低くても数が質を担保する業界なので
ただでさえ記述が乏しい上に
魏の凋落と言えば孫ピンとホウケンだよね→竹書紀年にホウケン出て来ない…
みたいな重大な不具合に直面する中華戦国時代と比較したらとても優しい世界 史記は物事の捉え方が特定の人物中心で
文学的、小説的だから、
社会の大きな変化をみんなそれで説明するような筆法に対しては
疑いを挟みたくなるのは当然だろう 史記は文学作品だろ
司馬遷にとって斉の桓公や管仲は、われわれにとっての足利尊氏や後醍醐天皇くらい時代が離れた大昔の人物だが、彼らの言動をまるで一緒にその場にいたかのように描写している 喜怒哀楽っていう人間の感情と、個人の礼儀・知性・忠誠といった要素に帰結させようとしてるところが多いよな
だからこそ面白いんだけども その文学作品で
中原の強国魏が覇権失ったのも辺境の弱小国の秦がほぼ最強国にのしあがったのも全部この男のおかげ
ってなろう系小説のチート主人公みたいな扱いうけてる商鞅の成功譚をどこまで額面通り受けていいのやら
最後が悲惨ってところだけなろう小説と違うとはいえ まあ今更史記の信憑性がと言われましてもね
そういうのは然るべき場所で議論研究するのであってこんな場末の掲示板で得意になられても困る 5ch学問板全否定っすか、かっけー!まじかっけーすね!
youは何しにこの板へ? 史学齧ってるなら疑わ無いし
まともな知能が有るなら疑わ無い
無教養な馬鹿なら幾らでも妄想出来る、知識や知能の制約が無いから お前いい加減に助動詞の「ない」を漢字で書くのやめろよ
それすごく馬鹿っぽいから それじゃ史学じゃなくて信仰ですな
古代とかの人なのかな?
普通現代の史学は文献+それ以外で考えるので
史記を手放しに盲信してるような人は史学を齧ってない人
と認識されかねませんぞ 左伝「ヨウリン(人)に殺される」
史記「ヨウリン(地名)の人に殺される」 >>460
ほら
「島耕作は人生の教科書」
→「ワンピースは人生の教科書」
→「進撃の巨人は人生の教科書」
→「テラフォーマーズは人生の教科書」
って言ってた連中が最近は
「キングダムは人生の教科書」
って持て囃してるでしょ わの人の煽りは相変わらずだな…
研究者が当たり前のように史料批判(史記は主な批判対象)しとることはここに来てる方は普通に知ってるでしょ
>>453
「大梁遷都を商鞅に絡めて嘆く恵王」エピソードなんかは既に否定的な扱いを受けてますね(時期が合わない)
変法もすべて商鞅に帰属させるのではなく、孝公即位前から、個別的・漸進的に改革が進みつつあった
という認識が一般的になりつつある 史記に嘘偽りの箇所も在る事と史記その物を疑うのわ天と地、史記と日本書紀等、吾妻鏡等くらいの隔たりが有るからな そりゃ批判じゃなくて否定
史記も日本書紀も吾妻鏡も否定されるべきではないよ >>467
そもそもが成文法という考え方、法運用は中原では一般化していて
後は後進国がどのように受け入れるか時間の問題であった、という状況もあったからね >>470交流は盛んでしょうからね
・晋(魏)と秦は黄河沿いの邑をずっと争奪している
・戦国初期に魏から帰国して秦君に即位する例が複数みえる
・戦国初期に関中東部に遷都が行われた&県も設置 史記に限らず1つの史料だけで断定するのが良くないって話だな
出土した竹片木片が何故重宝されているか考えると良い
ましてやこの時代の史料は複写したり散逸したのを復元したりでどこが間違ってるかわからないから >>469
吾妻鏡わ否定されるべき代物
史記わ史料に成るが日本書紀わ参考に留まる >>467
そんな趨勢わ存在せず全くの妄想
楚や趙の例を見ても解る通り 断定にはタイムマシンが必要ですからねぇ
竹片はそれに近いから、みんな大好き名将名臣に関わる情報が出ると面白いのだけど
そう都合よくはいかないみたいだな(銘文にちょこっと名がみえる程度ならそこそこある) >>474
商君の話を楚や趙の例とかいう謎のワード一つで納得できるのはわ君くらいよ
具体的にどうぞ >>476
趙は武霊王の改革である程度強勢に成ったものの秦、斉に次ぐ程度
楚わ呉起が改革を行って成果を挙げるも反動で暗殺され以後国勢奮わず
秦は孝公前の数代他国の革新から遅れずっと不振を託ってた
管仲楽毅も執政して10年ちょっと 昔世界史の授業で覚えた各国の貨幣は
布銭が魏 韓 趙
刀銭が斉
円銭が秦
蟻鼻銭が楚
でそれぞれ流通していて、秦が度量衡を統一したから中央に穴の空いた円銭が残り日本にも伝わった(それが5円玉50円玉として現在も残ってる)
って習ったけど
布銭は比較的古い時代に使われてて戦国時代後半になると円銭が既に魏 韓 趙でも流通してたんですね
そうなると紐で結んで持ち運びやすい円銭を広めたのも秦とは限らず魏や他の国だった可能性もある? 燕は超大国だった斉を滅亡寸前まで追い込んだっていう実績があるけど、韓は三晋ってだけで七雄に入ってる感じがある
中原のど真ん中だから栄えてはいたんだろうけどパッとしない むしろ滅んだ後の方が有能な人材輩出してる印象あるな韓 「韓がやられたようだな」
「フフフ、奴は六国の中で一番の小者」
「真っ先に滅ぼされるとは三晋の面汚しよ」 三晋はずっと並んで存続して
国境線などかなり入り組んでいるのに
お互いにかなり後まで滅ぼそうとしなかったのは
兄弟国のよしみだったのだろうか 申不害を忘れてもらっちゃこまる
と思ったけどこいつは鄭人だったか >>485
戦争はしてるよ
それに連合しないと秦と戦えない あんまり調子乗ると斉みたいにぼこられるから国を滅ぼそうと動くことは中々できないよ
秦も合従を崩すのにずいぶん苦労したし結局政の代まで韓すら潰せなかった >>366
李左車主人公で作ればいいキングダム2
これなら項羽 韓信 劉邦全員死ぬまで描ける >>478
数百年後、復古主義者の新の王莽は、「秦漢以前に戻す」と言って、刀銭を鋳造した
してみると、円銭が普及したのは、やはり秦漢なのでは >>485
戦国初期には、魏の国力が突出していたが、この頃はどの国も周辺の小国を刈り取って域内統一を目指してる状況
この時期を韓趙は外交で乗り切った。
やがて、魏が落ち目になり、バランス・オブ・パワーが回復してきた 斉の桓公、晋の文公と、春秋の五覇の中でも別格とされる2大覇者は、いずれも南の超大国・楚に対抗すべく、諸侯を会盟した
20世紀後半の世界情勢に例えるなら、晋が西側の盟主アメリカ、会盟した諸侯が西側諸国で、楚は宿敵ソビエト連邦に相当する
それが、次第に秦が強大化する第2ラウンドへと変わっていった。
秦は、現代でいえば中国に相当する あれ何百年も続いてたんだもんなあ
でも初期の蛮国の楚も、戦国期の蛮国の秦もぜーんぶ中華化させてるの本当にすごいわ >>496
ただ、楚も秦も中国人が建国した説あるね 闘穀於兎の話をまたするのか
>>52>>77と安価先を参照 呉越の地名や人名わ膠着語の特徴を備えてた事が判明してるけど、楚のそれ等わ一般的にそういう特徴が無く闘穀於菟わ例外だね 晋って名門の強国だったのに、滅ぼした異民族の美人を側室にして、かつ寵愛してその子を太子にしよう!っていうの
蛮族の血を引いた子が君主なんてみたいな論調起こらない時代だったのかなあ 世界中見渡しても女系に入る分は高貴な血でさえあれば気にして無いよね >>503
そこらへんは中世のロシアの諸公国を思い出すな
遊牧民のポロヴェッツ人と通婚してる
イーゴリ公もポロヴェッツ人の血引いてるし >>503
晋室そのものが異民族だったとしか考えられない 周そもそも西方の蛮族じゃん
血統主義の馬鹿どもは進歩がないな >>503
そういう疑問や太子を廃した憤懣が献公が死んだ途端に噴出したんじゃない? >>508
重耳も夷吾も異民族との混血やがな
混血を理由に殺して混血の公子を呼ぶっておかしいくないか 母親のほうは血統どうでもいいっていうのは圧倒的に父系主義だからだよな
だからこそ女子の継承を認めない チンギスハンも父の死後、母ホエルンのコングラト氏族に関係あっても
よかったはずだがぜんぜん出てこない
足利義詮も母親は赤橋登子だが母の実家の北條氏を取り立てた記録もない
赤橋登子の父の北条久時は子供が一杯いたはずだが 同姓婚がタブーだから異民族との婚姻が基本の時代なのよね 晋は異民族が姫姓の婿や嫁をもらって
姫姓になったんかな 姫姓の領主が言語の違う牧畜民を征服したのが晋の歴史 >>505
それとは時代がまったく異なるが、ロシアと中国と言えば
広大かつ多様な大陸を中央集権的に統合する政体を実現したという点で、今現在も似てますね >>488
なお二つ三つで連合しても秦軍と決戦すると地獄が……
商君を登用した秦の孝公の父・献公の代(石門の戦い)に始まる秦軍の圧倒的な殲滅能力、マジでおかしい
実は三晋のリアルタイム記録では兵の損失はそんなに大きくなかった、とかじゃないのだろうか?
>>489
鄭、中山、宋みたいな七雄に次ぐ規模の有力諸侯がわりと早い段階で滅ぼされているから
滅国はヤバい、とは必ずしも言えないんじゃないかな?
韓については首都の新鄭が単純に秦本国から遠いということも考慮しないといけないし 何百年も続いてる国を滅ぼすのは、国際社会の反発が大きくて難しいよなあ
ヨーロッパでも同じだ >>506
斉みたいに異民族を制圧するために送り込まれた可能性もある 普墺戦争で負けた諸邦では、お取り潰しは3家(プラス自由都市フランクフルト)だけか
統一を見据えて遺恨を残したくなかったのかな? バイエルン王国のヴィッテルスバハ家とか、薩摩藩の島津家とかは、歴史がありすぎて、中央権力にとっても手を出しにくい存在だっただろうなあ。 晋は北方民族と混血してるのに胡服騎射はしてなかったのか 晋が北方の国といっても汾水流域の中原の範疇に入る国だし
オルドスあたりまで勢力広げた戦国期に比べたら戦車戦がまだまだ通用したんじゃないか 詳細は不明だが、春秋晋が北へ進出する際に、「車騎」という記述が出てくるよ
侵攻に「車騎」を使うのは武霊王と同じ
>>517
近世以降のヨーロッパでは国際社会の反発、覇権国の伸長に対する抵抗力が強かったのはわかるけど
春秋戦国ではどうだろうね?
百以上あったと思われる、三晋より歴史が長い国が、何事もなかったように攻め潰されるケースがほとんどだし
魯のような別格レベルの名門も消されてしまう、躊躇する話もあるので反発はあるのだろうが、そこまで強くない印象 春樹の諸侯がなかなか滅ぼされなかったのは、
国を滅ぼして社稷を絶やすと祟りがあると信じられていたから
だから滅ぼすときには慎重に国君を取り込んで臣下にして
その家の中で社食を継続させることを許す
戦国になるとだんだんと滅ぼし方がエスカレートしていって
国君も容赦なく根絶やしにするようになっていく
周室を滅ぼしても何の祟りもないとわかったからだろう >>517
漢以降も続いている(復興された)のって韓と魏(信陵君の系譜)と田斉(第五氏)ぐらい? >>523
文公は歩兵部隊を作ったし戦車が使えない戦場が出てきてるよ >>526
一応、周もだな
でも挙げられた方々じゃ魏や田斉の復興とは言い難い… 春秋時代、晋の魏舒も異民族と平坦でない地形に対応するのに
戦場で歩兵だけの部隊を編成したりしてる 韓王信は何で成家じゃなくて列伝それも盧綰とまとめてにされたんだろ?
一応旧七雄王家の中では一番まともに家を残しただろうのに >>525
その伝統が復活したのは、宋の趙匡胤だろうな
宋は儒教国家らしく、北周の柴氏を残して祭祀を続けさせることにこだわった 何百年も続いた国を滅ぼすのが大変なのは、ヨーロッパを見れば分かる。
「イングランド王とスコットランド王を兼任」とかはできるけど、「スコットランドを滅ぼしてイングランドに統合」となると、一筋縄ではいかない。
18世紀初頭のスペイン継承戦争では、ブルボン家の者がスペイン王に即位するのは認められたが、フランスとスペインが統合することまでは国際社会が容認しなかった >>532
結果として漢に叛いてるのと、独立した君主ではなく漢に封じられた諸侯王だったせいで
戦国韓とは別物と判じたんではないのかなとも >>534
春秋時代になかなか国を滅ぼさないのは今と一緒
アメリカはイラクに勝ってもイラクをなくせない
結局もんく 晋とか楚は諸侯を踏み潰しまくってるよん
近世西洋でも状況によっては歴史的な大国が普通に滅ぼされるポーランドさんのように 戦前のポーランドは日本の印象と異なり、狂犬のような国で
ソビエトポーランド戦争でソ連を破って恨みを買った上
ドイツ敵視して、ヒトラーの台頭を招き
さらにフランスと共同でドイツを分割しようと企み
ドイツを併合して超大国を夢見ていたが
フランスに断られて、ドイツとソ連から同時にせめこまれることになった
新興国はえてしてそんなものかもしれないが
中華思想に酔って四方八方に喧嘩を売るスタイルは韓国に似てるかも
ナポレオン戦争の終結後一八三一年に独立したベルギーも
フランスから相当に憎まれてる 四方八方に喧嘩を売る新興国って、大日本帝国(笑)やん ナショナリズムを覚えたての新興国は、心のオラつきを押さえられない中学生みたいなもんやから仕方ない >>539
それは初歩的な誤解だ
むしろ、当時から八方美人タイプの優等生 カクは河南という最高の土地をしめて王室につながる名門でありながら
献公が攻め入ったときは諸侯だれも助けず再興の話もなかった
兵をあちこちに動かして土地を広げ周囲の晋や虞や鄭に憎まれた
ギリシャ都市国家でアテネがいばっていたのと似てる
ローマ時代でもギリシャ人といえば犯罪的な商人と言われ
そのような人種が覇権国になったらありとあらゆる搾取で苦しめられる
経済発展した中原先進国からしたら田舎国などマヌケにしか見えない
商も周も魏も金儲け過ぎて憎まれた。そしてほろんだ
アテネは敗北して海外領土のすべてを失いスパルタ軍が進駐して
小国になりさがる >>544
宮城谷政光の「重耳」では、カクはものすごい存在感のある大国
あのまま春秋の五覇とか、戦国の七雄とかになってもおかしくない流れだった 関西(ここでは河東も含む)で存在感出せる国って晋カク秦ぐらいなんで…史料の限界ゆえに
>>544
そういや地中海世界は、ローマさんが春秋戦国に勝るとも劣らない勢いで、歴史ある古代国家を併呑しまくったわね >>546
エジプトは、1国2制度みたいな形で残しただろ 秦の場合は、崩壊したらただちに、楚だの斉だの魏だのが復活して、漢はそれらを再征服して回る羽目になったな
それに比べてローマの場合は、帝国が崩壊したあとの状況は「仕切り直し」っぽかった 隋が崩壊したときも、そうだった
400年に及ぶ魏晋南北朝時代を終わらせて、天下統一した隋だったが、その隋が崩壊したら、たちまち南朝が復活した
隋の楊堅が滅ぼした南朝の陳より、唐の李靖が再征服した復活南朝の蕭銑のほうが、ずっと強敵だった 西カクと東カクは、周の文王の弟たちふたりが任ぜられ王家の東西藩屏として作用した
王畿である鎬京の、西が雍地、東が制地、爵位は公爵
西カク(雍地)は陝西の陳倉で、諸葛孔明が激戦した陳倉城にあたる
東カク(制地)は河南の鄭州市?陽で商(殷)朝の都があった
鄭は周の宣王の同母弟、姫友(桓公)が鄭の地に伯爵として封じられてる
西周滅亡の混乱を避けて鄭の国民とともに東カクの隣に移り
鄭の武公は東カクをほろぼして都を新鄭に定めた
西カクは西周滅亡の混乱を避けて陝西の陳倉から、河南の上陽に
うつっており、(ずいぶん遠い)威勢を奮ったが晋の献公にほろぼされた
なお晋は周の成王が弟が始祖であり侯爵に封じられ、公爵・伯爵の下に当たる
がら空きになった西カク(雍地)は小カクをなのり秦にほろぼされた
・・というわけで晋・秦・鄭の三国にみなごろしにされてる
お家再興もできなかったということは、いい人材がいない一族だったか
かつて晋は異民族の狄と通婚した。オルドス部長はジノン(晋王)を名乗る。
モンゴル帝国のハーンの下がジノンとされ、叔父さんみたいな感じか
チンギス・カンの血をひかずハーンになれない人は晋王を名乗った よく考えたら初代の武王の弟が公爵で、11代の宣王の弟が伯爵で
2代目の成王の弟がその下の侯爵ってのはおかしいな
晋の出自があやしげで北方異民族?と言われる所以か
そもそも晋の本拠地は鎬京からとおい、狄とか多い北方だしな 伝統ある国といっても、夏や殷の時代からある国なんてないんだろ 葛は、夏・殷・周の三朝に渡って存在した。1800年と長期間存続した。
秦と同族(本家?)とされてる、だってさ >>551
当時、爵位の元になる称号はあったけど序列はなかったらしい
それに周侯は西伯を上と考えて名乗っていたし
斉侯も覇者を意味する伯を好んだ
だいたい諸侯の多くが同族ってのもおかしいし
異民族扱いしている奴等に姓を与えたりしている
見下されている奴が姫姓って普通に書いてあるしな >>552
甲骨文字に杞侯?はあるらしい
殷自体の呼び名は大邑商
周の甲骨文字では周の君主を周侯から周方伯または単に王
殷王のことは周の甲骨文字では衣王と呼んでいる
夏は不明というか一切書かれていない
甲骨文字での殷の始祖は上甲 >>555
古代は時間の感覚がちがうな
エジプトとかずっと同じ絵だし 長幼だけで考えると長男と次男の国の呉は子爵
呉の分家の虞はなぜか公爵
周の文王の弟はカク仲とカク叔でたまにカク季も?
カク仲の西カクは公爵
一部の中国語資料だと弟のカク叔の方が上位で公爵だけど
なんか資料で東西南北とかすら錯綜している
武は戦いをやめたという意味らしいが武王の子孫では
成王の弟の叔虞が唐西封建されて晋侯に
何代かの王の弟は鄭伯に
死んだ太子の子孫が王翦とかの先祖
周から西周君が出て更にその分家の東周君が出る なるほど晋や秦が名門ぽいのは豊臣姓を下賜され羽柴氏をいただくようなものか
羽柴の名字>豊臣姓>松平
細川忠興が後年まで松平を拒否して羽柴氏を名乗っていたような >>558
古代人にとって、時間とは、過去から未来に向かって一直線に進むものではなかった
地球の自転と公転の周期で、ぐるぐる回る円環だった 畿内の大国に封じられると侯で小国なら伯
畿外なら子に
公は周王の卿士(周公とか召公とか)で宋は例外
基本的にはこんなイメージ
中には衛の武公みたく公を賜った人もいたみたいだけど一代限り臭いというか国自体は候国扱いのような感じがある
そもそもこの人は共和期の執政説があるからそうなると王の卿士だったからって理由に収まっちゃうんだが 秦の建国は紀元前771年
550年かけて天下統一した カクや鄭なんかも執政官だったらしいけど
政治では周公がトップだと思うんだけどどんくらいの力あったの
周公旦は武王の弟で四男で魯にふうじられ
爵位は公爵一応カクと同じだけど西カクと同格なのか
と考えると偉さでは
カク仲・次男・侯爵
カク叔・3男・公爵
周公旦・四男・公爵
どう考えても三男がトップだけど、四男の周公家のほうがえらそう
文王が周の行く末を同母弟の周公旦に托し・・て経緯のがきいてるのかな
カク叔・3男・公爵は同母弟の中でも頼めないほど仲悪かったのか >>567
周王の意向を諸侯に遵守させるために執政クラスは侯より上の公爵位を持っていたとかそんなところか
結局王すら軽んじられるようになっちゃうんだけどね 途中送信してしまった
カクの2人は文王の弟で周公旦は武王の弟なのに何番目の男子かで比較するのはちょっとずれてると思うよ
そりゃ武王からすれば叔父より仲の良かった弟に後事を託すでしょ
優れた人物であることは一番わかってるはずだし 周公旦は魯に封じられたが自分は行かずに長子にいかせて
のちにその長男の子孫が34代まで続く魯公となる
これとはまったくべつに周公旦の次男が、王に請われて
周公として執政を務めて、これは畿内諸侯の周公家が続いていくことになる
周公など威勢をふるい、威張っていたのは周公旦の次男の家で
天子が軍を催すと左翼の指揮をまかされた
したがって魯とはべつに独自の経済力や軍勢も持っていたと思われる
周の簡王の代で周公は政治闘争に敗れて、家は滅んだ
魯公はそれとはべつに後継問題がこじれて兄を弟が殺し、みだれていた。
周の宣王が魯公の後継を指名して、それが殺されると討伐して
あとつぎに口出しするなどしたが、やがて周王も鄭に敗れるなどして権威が低下
諸侯はかって気ままに君主を擁立
魯公家は結構長く続いたが、孔子のあと分家である三桓氏に分割されて
ほとんど衰微し楚に滅ぼされて消える 周公旦・(公爵)
長男伯キンが侯爵
次男が周公
これもややこしいが次男が周公という公爵ナンバーワンの地位を得て威勢をふるい
長男は中央の政治から遠ざけられた。たぶん侯爵というのは完全に別個の家になり
次男の周公からもらった後付のランク? >>571
伯禽は周公旦存命時に魯へ赴任している
周公の相続は旦の死後に行われたはずだから遠ざけられたってのは違うかも
周公継がせるぜっつって伯禽を呼び戻して公にして次男を魯侯にってやるのは色々と問題があるだろうて
殷は倒したとは言えまだまだ政情も不安定だし魯は前線だから余計なことして国が乱れると東方の支配を失うリスクがある
それに周王の威光あっての周公であって広大な直轄領を持ってる魯侯より上とは一概には言えないね >>552
まあ、実態を確かめる術がほぼないから分からないけど
そんなに多くはないのかもしれんな
文献上同じ国名でも滅んだ後に建てれた別の存在である可能性があるし 魏と韓は消えたり、諸侯化したり、鄭とか梁になったりと忙しいな 秦
扶蘇→蒙恬に止められたのに父親の命令は絶対だと勝手に自殺
胡亥→兄弟姉妹皆殺しにした挙げ句秦の危機を知らないまま利用されるだけ利用されて趙高に刺し殺された馬鹿皇帝
子嬰→趙高を刺し殺し劉邦は命助けたけど結局は暴君項羽によって一族もろとも皆殺しにされる
趙
趙歇→陳余と張耳に振り回されるだけ振り回された後張耳に逃げられ陳余の宋襄の仁のせいで負け韓信に殺される
魏
魏咎→陳平の策を受け入れず救援に来た斉王田・が戦死した後逃亡せずに焼身自殺する
魏豹→劉邦から項羽に寝返り韓信に負けて庶民に落とされ嫁まで劉邦に奪われたのにまた劉邦に仕え、榮陽からの逃亡時に裏切りそうだと味方の周苛に降伏前に殺される
魏無知→劉邦が尊敬する信良君の息子なのに世話した陳平に言われるまで報奨を忘れられる。↑の魏豹は列伝があるのに何故か世家も列伝もなく没年も不明
楚
義帝→打倒秦の大義名分として祭り上げられたのに忠義の全く無い項羽に邪魔者扱いされ殺される
韓
韓王成→打倒秦の大義名分として祭り上げられたのに敬意の全く無い項羽に邪魔者扱いされ殺される
韓王信→劉邦と冒屯単于に振り回され劉邦が降伏を勧めたのに拒否して殺される。子孫は代々漢の高官として活躍する(が、定期的に粛清される)
斉
田市→一族の田栄に殺される
田安→一族の田栄に殺される
田都→一族の田栄に追放される(殺される?)
田栄→一族の田広に殺される
田仮→一族の田横に殺される
田横→劉邦に降伏した後、勝手に自殺する。頼りになる食客達も一緒に自殺する
田広→韓信に捕らわれる(殺される?)
田都・田広が仮に生きていたとしても改姓させられた第一氏から第八氏で後々存続したのは第五氏と第八氏のみでおそらく田斉の傍流も傍流
劉邦が手を汚す前に七雄の旧王族達は勝手に死んでいってくれたんですね 田栄→一族の田仮に殺される
でした…
というかここまで一族で潰しあいしてても8家系残ってたのはむしろ凄いのか?田斉
王族じゃないけど劉邦にとって最大の驚異だったはずの楚の項一族も項伯だけでなく少なくとも4家系わざわざ劉姓貰って存続してるのはある意味驚き >>505
ロシア公国よりジョチ=ウルスの方が格上だったし
むしろ降嫁して貰った身分 関隴貴族より山東貴族のが格上だったしな実権乏しくとも 秦が天下統一した後も、陳勝呉江以後、色んな人が旗印に旧王家の王子を建てて国を再興するフリしよう!
ってやったらみんな都合よくみつかってるんだよな
もぐら叩きみたいにポコポコ湧いてくるんじゃないの とはいえ秦末に祭り上げられた面子の肩書を見ると(精一杯盛っただろうに)傍流っぽいのが多い
政権幹部が有象無象の宗族で占められているのは斉くらい、層が薄そうである
その後もポコポコ湧けるほど力が残ってるかどうか… 明確に王や一族が粛清させられたって書かれてるのは韓と秦ぐらいなのに
その韓はなんだかんだ再興出来たし
燕に至っては全く旧王族が担ぎ上げられもしない
衛満が燕の旧王族とかならちょっと面白いけど 複数の民族でやりあってるんだからそりゃあ残酷だよな >>582
田横の子供については何の記述も史記に無いのは第一〜第八氏のいくつかに子供がいたとも考えられる? >>586
史記に子女の記述がないのはよくあることなので、何とも言えないですね 秦が崩壊したら、楚・斉・魏をはじめとする旧六国がたちまち復活して、漢は再征服する羽目になった
隋が崩壊したときも、南朝がただちに復活し、唐は再征服することになった。
隋が滅ぼした南朝の陳よりも、復活した南朝の蕭銑のほうが、ずっと難敵だった。
「千年に1人の名将」と言われる李靖がいたから良かったようなものの、あのまま南北朝時代が再開しても不思議はなかった。 復活した斉については、韓信が騙し討ちで滅ぼしたとされている >>589
儒者一人の命で楽々斉を平らげて汚名も韓信に被せるなんて劉邦もやり手だねえ >>590
韓信が殺した儒者といえば陳余も
どちらもカイ通が関わっているという 例えば智伯がもっと旨く立ち回ってそのまま晋を乗っ取ったとして、三晋に分裂することが無かったら、晋がそのまま統一する未来はあったのかな? 統一はまた別の思想だから何とも言えないなぁ
斉の簒奪争いに介入して東方支配を確立したらとかは考えられるけど 智伯治世下の晋で、魏初期に見られた人材輩出が起こったかどうかですよね >>592
戦国初期の魏の全盛期や、中期の趙の軍事大国化等は分裂したからこその話だけどね
韓が緩衝地帯となってゴリゴリ削られてる間に魏はノビノビと拡張できたわけだけど
まとまっていたら韓の損失分も晋としての損失になる
晋のまま周囲を大国と接していたら他の大国と対峙するために
趙が北へ伸長するために差し向けてた兵力も国境線に張り付けざるを得なかったろうし
むしろ分裂してなかったらもっと滅亡早かったと思うよ 超大国状態の春秋の覇者晋も、春秋秦には苦戦している
分裂は必ずしも不利じゃないからなあ、一部が統合状態より得して伸びる可能性は高い 前近代において国力=人口だから、先進地帯といっても、三晋が分裂した事実は大きいと思うけどね。
分裂した分、周辺の開発が進んだというのも理解できるけど。 経済でも人口密度でも中原の魏、韓だよ
国力と人口は当然ながら一致しない 信頼できる人口データないから確言はできんけど
現在確認されている都市遺跡の分布と人口の多寡を示唆するいくつかのエピソードから考えて
人口パワーは韓魏に分があった可能性が高いね
些か信憑性に欠けるが、三晋は史料上単独で十数万〜数十万を繰り出してくる
三晋は兵の動員力でも強大化した戦国中後期の秦を上回る可能性がある 韓王は処刑されたが秦の潁川郡になってからの韓のほうが繁栄してたみたいだけど
漢の潁川といえば最も人口が大きくゆたかだった
董卓はむかついたんで潁川の民衆をひっとらえて下民が祭りなどけしからんのと
ぶっころしてたみたいけど、おかげで後世に渡って暴君として印象が残る
董卓の子孫は曹魏ではふつーに貴族化してたけど しかし同時代のギリシア・ローマなんかを見ると数万の兵もまともに動かせてないのに
誇張もあるとはいえ、春秋戦国の武将は数十万とかの用兵ができてるのはすごいな
それほど兵法の水準が高かったということだろうか? 後漢の人口からすると楚というか、荊州がとても人口が多く豊かだったらしい
まぁ光武帝も、大司馬の呉漢もそこのひとだったりするけど
漢民族としては異民族のぎりぎりの国境植民地ではあったらしいな
人気の新興住宅街といったところか
なのでここを劉備玄徳がいちじ住んでいたことはとても大きく荊州貴族が蜀の骨格をなす
さらに曹仁に居座られて
荊州の人口の多い部分を奪われたことも蜀の衰退に大きく影響してる >>602
微妙なところ、一つは仰るように誇張の可能性
もう一つは十万以上動員したら大抵ボロクソに負けて国が傾いてる
まともに運用できてなかった可能がある
>>603
楚と言っても南陽は中原に接しているし戦国期も人口多かったんじゃないかな?
秦が進出すると権勢を振るっていた宣太后の子が封建されている、かなり美味しそうな土地 実際の戦闘要員が十万いるのか、その他の随行員も合わせて十万なのかみたいな話はされるよね
とはいえ、兵隊の装備・訓練度などで言ったら圧倒的にギリシア・ローマなんだろうけどね 勝った側、たとえば白起なんかは相手の半分以下、あるいは数万人を率いてたことになってるから
そっちの方が戦国期の現実に近いのかもしれん 詳細な動員数が書かれている戦国期の出土資料が出てくれば一番確実なんだが
その手の新資料は郡県レベルが多く、せいぜい数百人ぐらい でも経済的に考えても、総人口の八分の一とか十分の一とか動員して戦場に送るって、生産力が激増した近代社会じゃないと無理じゃね?という気がする。 >>609
なので一県あたり数百人くらいならしっくりくるかと
戦国秦は遠征に一郡の兵を用いている節があるので単純計算だと遠征軍は多くて数万、という感じ
もちろん大規模な攻勢や民を総動員しやすい籠城戦の場合は増える でも紀元前の時代に万単位ですから、やっぱりすごいですよね
こちらでは源平の時代、石橋山の戦いの頃の源頼朝軍が300騎ですもん(平家方の大場景親が3,000騎) >>611
中国とインドは人口が古代から多いので
日本と比較するのはちと違うのでは 日本も昔から相当な人口大国やけどね
山がち島国ながら中国の王墓に勝るとも劣らない規模の古墳をバカスカ建てたり、数万規模の軍勢を渡海させたり
まあ、多い・デカいイコールすごいではないと思うけど >>614
匈奴は遊牧民だから、従軍と生産活動を両立できた。
アテナイ社会は奴隷もいたし、デロス同盟上納金から兵隊に給与を出せる稀有なポリスだった。他のポリスも徴兵比率は高いけど、アテナイみたいに遠征外征できる軍隊じゃない。あくまで自ポリス近郊で戦う民兵隊。 >>615
西域諸国、高車、鉄勒、テーベ
はい論破 遊牧民は女も戦う、弓の名手、馬の乗りて
カザフスタンだと女が馬に乗ってむちで男を追い回す祭りがある
いずれにせよ女は強い
ゲルマン人も女は戦う、セックスのときは噛みつき、殴り、ライオンのように吠え声を上げる
ただし、デカくてブサイク・・・ >>616
テーバイはアテナイのシケリア遠征みたいな遠隔地に万単位の遠征軍を送ったことなんかないでしょ?
その他の例も、居住地からごく近くかつ短期間の軍務が前提の話。想定戦場がごく近傍である都市国家ならともかく、広大な領域国家の場合たとえ国境防衛軍でも居住地から長距離長時間引き離すことが前提になって、生産活動を阻害する。 スペインの奥地からアルプスを越えイタリアまで20年近く遠征してたハンニバルはいったい…… ワイは遊牧民やポリスの話はよくわからんから、はい論破くんを肯定も否定もできんけど
戦国秦漢期の大国が総人口の八分の一とか十分の一の外征軍を安定的に維持するのは難しいと思う
戦場に到着する前に兵站破綻、軍勢四散待ったなし >>619
ハンニバルの軍隊は傭兵軍、すなわち職業軍なんだから、軍資金さえ続けば長期の外征も可能に決まってるじゃん。 >>603
人口多かったのは荊州というか南陽郡ね
ここは楚の中枢だったので確かに人口は多かったとは推測はできる
ただし南陽郡の人口は前漢では190万、後漢では240万
これは漢代通してずっと開拓やってたからと言う面もあって
楚の人口をこの数字を基準に考えてはいけない
光武帝の頃も開拓中で光武帝当人がそもそも新代の動乱以前は開拓やってんだよね >>620
河川が日本人の想像以上に輸送路として機能してる地域なので
現地調達分+輸送分が西洋の戦争と比較して全くスケールの違う状態になってるのは間違いないのだけどね 昔の戦争は今と違って、商人やら売春婦やら引き連れての農協海外ツアーみたいなもんだと >>617
秦も女性兵士がいたんだっけ?
そもそも開祖が封神演義悪来の娘か孫娘である女防だし >>625
古代中国で言えば、○万の衆とか始皇帝期の北方&南方進出作戦の人数がそれだろうね
軍人の数じゃなくて、関係者の総数(もちろん新軍の公称100万、実数42万みたく、実態を表しているとは限らない)
>>626
開祖がどうとかは関係あるまい
女性兵士は古今東西珍しくない、籠城戦とかではわりといたと思われる 話ぶった切ってすまんのだが、この時代の人質に関する論文をどなたかご存知だったら教えて欲しい
俺が何を知りたいのかというと同盟や外交関係において人質がある国にもう一方から出された時
どのような力関係やら外交関係に基いて発生するのかと、相互人質は存在するのか等
人質の関係からの外交的な力関係の逆算が可能かどうかと言う事
もし人質を出す時に外交関係で力が弱いと認識している方が人質を出すという事になれば
王孫時代の荘襄王が人質となった時から長平の戦いの前までは
趙の方が秦より大国であった可能性が示唆される 西帝と称された昭王も長子を魏に送ってる
例え戦争が起こったとしても下手に手出しはできないだろうって留学気分で行かせてるようにも見える
逆に秦より弱い国は有事の際に簡単に斬られちゃうからそう簡単に送れないんじゃないかな(懐王のあれもあったし)
勿論継承順位の低い子は厄介払いというか捨て駒感覚で送られてると思うけど >>631
たしか魏に送った太子は帰国できずに魏で亡くなってるね
力関係からしても魏の方で何かをやったとは思えないけど
なんにせよ戦国時代は必ずしも送る側が弱いなんて事はない感じね
そういや趙で人質を送る段になって太后あたりがごねた件があった記憶 送るモノの価値とリターンの価値が釣り合うと感じたら出すと思うよ
人質としてって言い方じゃなくて、留学とかそういう言い方もできるしさ 斉がずっと斉だったように君主が変わろうとも晋は晋だぞ
便宜上姫晋と知晋もしくは荀晋と呼ぶようになるだろうけど
そもそも晋は桓叔家の乗っ取りがあったけどその時も国名は変わってないね
乗っ取り前後で君主の氏姓が変わってないから君主を侯と公で分けて区別してる 当たり前のように趙魏韓滅ぼす前提でレスしてしまったわ
君主になってたらというのがまず違うね
知という国(地名)の君主になったから知氏を名乗ってた >>632
つか、人質交換の可能性があることを考慮しないと
たとえば荘襄王の例が
公孫の一人でしかない人物と趙の公子の交換だったりすると
趙が秦より上どころか格下も格下ってことになるかもしれん 皆暖かい言葉ありがとう
人質を出した出さないで単純な力関係の推測が出来ないっぽいので助かった 李信の息子の李超からは漢の太守として代々仕えて7代子孫が李陵ってあたりが今後のキングダムのストーリーに関わってくんのかね? >>641
天下統一編が終わったら伝説の大将軍編だろ >>635
晋が4国に分かれていたら、当然、「智韓魏趙」になるわな こうして見ると、斉も「北の国」だな
現代の山東省に、「北」というイメージはほとんど無いが 他の国もはっきりしてるわけじゃないが
春秋燕の版図とか半分ファンタジーな気がするわね キングダムの作者と集英社の作品に対するコンセプトが
「戦乱期に身分の低い主人公が強敵との死闘に勝ちあがり乱世を終わらせ平和をもたらす」
にあるってのもそれが受けて大人気だってことも良くわかった
じゃあなんでそのコンセプトにあわせるために少くとも後世の書物によれば父祖父と秦の名門の血をひく李信を戦災孤児なんて扱いにして統一ほぼ目前だった秦をわざわざ6国に苦戦してる扱いにさてまで選んだのか
何よりそのコンセプト聞いてまず真っ先に思い付く劉邦を主人公にしようとしなかったのかがさっぱりわからん
どのみち今描かれている主人公達の頑張りは全部項羽にぶっ壊されて全部劉邦に強奪される未来しか待ってないのに >>649
時代設定が古代ってだけで、中身は北斗の拳の系譜につながる格闘マンガ
主人公が強敵に追い詰められるたびに限界突破して強くなり、レベルと装備がだんだん上がっていく、一種のロールプレイングゲーム。
だから、初期には主人公が非常に無力でないと成り立たない。 劉邦は楚漢戦争で人間的に成長したかと言われると微妙なんだよね
表舞台に出る頃はもう40過ぎだし
人格形成に至った青少年時代を描くなら信陵君辺りをメインで戦国末期をやってってこういかにも代わり映えのしない漫画になりそうで まあ集英社はもうずっと前に劉邦対項羽ものの漫画を別の作者の作品で出してたし >>653
おそらくその年齢じゃないかって予想されてるだけで年齢も本名も素性もわからないでしょ
沛公就任時に30歳前後の真面目に仕事しないけどルックスとコミュ力だけ抜群に高い四男坊の劉兄貴(過去に尊敬する信陵君の食客だった張耳にたかってた過去あり)が
美人の嫁さん(あの呂不韋の血縁?孫娘?)と色々能力の高い部下達と成長していく物語なら作りやすいだろうに >>634
びっくりするぐらいつまらないので二度と現れないで欲しい >>649
コンセプトが先にあってそれから題材を探したわけじゃないからね 劉邦は武闘派じゃないから、まったくコンセプトが異なる キングダムは単純に初期より今の方がつまらん
初期にあった派閥とか利害とか義理人情の複雑な人間関係がさっぱり消え去って
殆ど善悪二元論みたいな平べったい世界観になってしまった ワンパだから読んでて飽きてくる
戦国モノなら達人伝の方が面白い キングダム好きが達人伝やビッグコミックの劉邦の始皇帝読んで「こんなの政じゃない!」って怒ってんでしょ? そうか?
正史と演技が全然違うなんてよくある話だから
みんな慣れてるんじゃないの? キングダムの読者層の一部は「みんな」かもしれないけどな いくらなんでも「キングダムで初めて始皇帝の人となりを知った」なんて人は少ないと思うが
高校必修の世界史の授業で、始皇帝がどんなヤツかくらい普通は教わるだろう? 高校世界史の始皇帝の事績…
天下統一
万里の長城
度量衡の統一
文字の統一
貨幣の統一
焚書坑儒
こんくらいかな? それよく言われるけど世界史Bは必修じゃないよ 昔のことなら知らんけど >>665
始皇帝に関して、「絶望的な境遇から奇跡の大逆転で秦王になった、ものすごい苦労人」というようなイメージを持っている人は、世間には滅多にいないと思うんだが >>667
ここ数年のセンター試験受験者を見ると
世界史A選択が1,300人程度で世界史B選択が85,000人程度だから
まぁ大学に進学するレベルの人間なら世界史Bが必須教養と思っていいんじゃない? >>668
「絶望的な境遇から奇跡の大逆転で秦王になった、ものすごい苦労人」な面はキングダムでも描かれている
史実を知る人がキングダムの始皇帝を見て抱く違和感は
彼を「思いやり深く、周りの人を信じて頼ることができ、決して卑劣な手段を使わず正々堂々としている」ところだろう >>669
? センターだと世界史Bは地歴の選択科目のひとつに過ぎないし、世界史自体使わないで日本史、地理、倫理政経で受験してる人もいるんだけど >>670
キングダムの作者は趙正書準拠でストーリー描くつもりだから
タイトルを「エンパイア」にしなかったのか?
にしては李斯を小者としてしか描いてないが 受験科目として選べることになってるだけで世界史は必修科目でしょ 「こんなグローバリズムの時代に、世界史を何も知らない人を作るべきでない」ということで、最小限の世界史知識は身につけるよう制度改革されたはずだ >>670
史上初の天下統一を成し遂げたほどの人物だ
実際には、相当な人望があっただろう。
でなきゃ無理だ >>675
曾祖父さんの時代にほぼ統一決まってた国を爺さんと父さんが次々早々と死んで棚ぼたで手に入れただけじゃないの?
その即位にドロドロの権力争いがあったとはいえ 人望というよりは、法により国や配下を統制したのだろう 始皇帝について誰もが知る知識といえば、
万里の長城と、中国を始めて統一したことと、
暴君であることだろう >>676
父の代に、趙への片道切符を持って人質に出された
絶望的な状況からの奇跡的カムバック >>673
世界史、日本史、政治・経済・倫理の三択 始皇帝の「暴君」というイメージは
秦と言う国の法のシステムを擬人化したもの、
または法治というものを理解せず、人治として解釈したものだろう >>674
それが世界史A
>>673
AかBかで大抵Aが選ばれるけどな >>684
?
始皇帝は必修じゃないの←そうでもないよ←改革されたんじゃなかった←大抵Aが選ばれるよ←Aはエアプだろ←?最初からそう言ってるが
始皇帝の暴君イメージは漢王朝の正当性主張も手伝っていそうではある 普通の高校はだいたい世界史Bがデフォルト
世界史Aが多いとか言ってるやつはバカ高出身って自己紹介してるだけ >>675
どこまで本当かは謎だが猜疑心が非常に強いエピソードには事欠かないし
生い立ちを考えればそれも仕方ないかなと思える
楚を攻めた王センが浅ましい人物を装って始皇帝に反乱を疑われないようにした
宮殿内に複道や無数の寝所を設けて自分の居場所が誰にも分からないようにした
隕石の不吉な文字を理由に住民を皆殺しにした
諫言した扶蘇と蒙恬を僻地に追いやった >>686>>687
そうなのか ウチは学年の大半は早慶に、最低でもマーチに進学するレベルの中高一貫だったが、まあ確かに所詮早慶と言われればそれはそう
大学でも周りに日本史選択で世界史Bやってない人とか結構いたからそういうものかと勝手に思ってたけど、そうでもないんだな
ありがとう 勉強になったわ
スレチなので切り上げますね すみません 世界史やってない問題は未履修で問題になったやつだよ 理系のコースだと世界史はAだった人もいたなあ
余所の事情とかあんま気にしたこと無かった >>685
胡亥の至上最悪の無能暴君説と趙高の悪行(及び無能)っぷりはどうだろう?
胡亥は即位時12歳殺害時15歳説をとるなら周囲に振り回されただけって意見もあるんだっけ 趙高に問題があった(無能とは思えない)というのなら
彼を取り立てた始皇帝にやはり責任が帰せられる 10代前半じゃ親政しないだろうから
暗君にも暴君にもなれない、ただの幼君 >>694
そうとも言い切れないんじゃないか?
西側のマルクス=アウレリウスなんて、14歳で現場の軍団指揮官として判断下してる記録が残ってるぞ 胡亥は政治に興味持たないように酒と女に溺れるよう仕向けられてたんだから
親政はまあしてないんだろうな >>695
早熟の有能少年さんかな?
もちろん言い切れないけれど
先輩の始皇帝少年や昭襄王青年は宰相や母后に政治をみてもらったとされるので
胡亥くんも多分そうだろうと 法が本当にちゃんと機能しているのなら、皇帝が幼くたって問題は無いはずなんだよ
摂政の人選などという人治的な要因に左右されないはずなんだから
人の良し悪しよりも、制度のどこかに欠陥があったと見るべきでは 劉邦が連れていった人夫に逃げられて「遅刻しても1人でも欠けてても責任者死刑」
を恐れて山賊になったのも二世ではなく始皇帝の時代でしょ >>699
当時の「法」は現代の法律や憲法と全然異なるのでゴッチャに論じるのは危険だと思う
始皇帝時代の「法」は、為政者側は法に縛られず好き放題できるような感じだったから 四書五経とか史記とか漢書とかを持ち出して
皇帝とはどうあるべきか、みたいなモデルを提示することが
不可能な時代だしなぁ
焚書坑儒した中に、失われた当時の「法」みたいなのがあったのかもしれないけど 皇帝が決済するとか、そういう人の判断に頼る部分がある時点で
どう上手いシステム作ろうと共産党の書記長(最高人事権を有する)のように
最高権力を有する部署だの人だのがができるよな >>701
そら人権思想とかないんだから同じなわけないわな
語っただけで危険とか言われて議論を中断させられてもな
「側」と言ったって、現場の小役人が好き勝手やっていたら
上位の役人がそれを取り締まるぐらいはできたわけだろ >>699>>701
商鞅の法、慎到の制、申不害の術 >>704
自覚がないみたいだからハッキリ言っといてやると
「法が本当にちゃんと機能しているのなら、皇帝が幼くたって問題は無い」って前提自体が脳味噌お花畑
あり得ないファンタジー持ち出して「議論を中断させられても」とか言われてもな 君主が賢人ばかりなら民主政治より専制政治が上
役人が不正しなければ資本主義より社会主義が上 春秋左氏伝って最初読んだらつまんなかったけど国ごとに拾い読みしていくとマジで面白いな >>707
上段は話の繋がりが無い僻論
民主政治わ当然の傾向として世襲制が排され易いというだけ
専制政治であっても原始部族や夏王朝、ローマの様な世襲で無い王政なら政治権力の不安定さという害悪と引換に支配者の無能という害悪は排されるし
日本国の様な腐敗と汚職に深く侵食されてる世襲貴族政擬制民主政治なら古代寡頭政と何も変わらない >>706
ありえないだのファンタジーだのヒスられても
ここは単なる雑談の場だし、ifの話なんていくらでも出てるわけだから
思考実験一つでパニくってるその余裕の無い様子見ると
それこそ脳みそ大丈夫って尋ねたくなるよ 効いてるとか、ヒットマーク出てるとかそういうレス要らんから
そういうレスバは世界史板以外でやって ifの話といってもそれはありえた話の範疇になるから
およそありえない切り口はNGだろ
屁理屈自慢したい奴以外にとっては、だが この時代にはすでに天の概念は確立されてたんですか? 商の開祖が湯王天乙ってぐらいだし既にあったのでは? 殷の始祖契の誕生神話がトーテム信仰とか北方遊牧民の影響とか言われるが、そもそも甲骨文には殷の王である契から振は存在しないから周から春秋戦国期の後付け
湯王天乙に関しても甲骨資料だと大乙で祭祀されてる。天は大、上に通じる字で後代に置き換わったと考えられ、学術書だと大乙と書かれてることが多い 西周の何尊の銘文だと上帝や先祖がいる場所として天が使われたり、意思をもち周王に命を下す存在として登場してくる
殷でも天は神の一柱として現れることはあったはずだけど、主要な神ではなかった。武丁期のみの最高神帝が周に伝わり、周の主神天と融合して周代の天信仰になったと考えられてる
この後も儒教のもとで天人相関説みたいな役割を与えられたり、道教や仏教の影響も受けてるから、今の天の概念に近くなるのって結構後の時代になるんじゃないか 周の神は社稷(大地と食べ物ないし生き物)じゃないの? 周からは宮殿の左に先祖を祀る太廟、右には社稷を祀る太社が置かれるようになったとされてる。これだけだと両者は平等な扱いに見えるけど、王位継承・諸侯封建・官職任命などの冊命礼は祖先神を祀る太廟で行われてた
そんでもって西周第二代成王期の何尊や康王期の大盂鼎尊では、先祖は天とともにあるとか剋殷は天命によるとか、明らかに先祖や王の上位にある存在として天を捉えてる 天子も周代からだっけ
左伝とかでも周王を指して天王と記したりしてるし、あれも周の天信仰によるものなのかな >>715
ありえた話の範囲内だからifができるんじゃん
あり得ないって決めつけるのが耳を閉ざしたヒスってるだけ >>721
日本の場合は王朝交代がないから先祖崇拝のままで進化せず
天の概念までただりつけなかったのかもしれない
それでも戦国時代(日本)の時は人が戦死していくから中国的な天の概念に近かったと思うが
平和な江戸時代に変革して天皇家の先祖崇拝に戻った面があるのかも 天道信仰が明治あたりで消えていったのは
イエスキリストのようなカリスマがいなかったからだろうな
天道信仰の方が絶対によかったと思うんだけどね 大日如来と習合してるんだろうなあと想像
多神教的な風土で支配的な創造神が君臨していることがある
最高神ハイ・ゴッドと呼ばれるそれはしかし、
結局他の神の存在を否定するものではない
またセム一神教のような預言者を遣わして一字一句間違いなく
伝えようとするような経典をもたらすものではない やはりカリスマがいないとミトラ教のように消えていく
個人的にはアマテラスは古代人から見ると神と表現するのは分かるが
西洋人的に見れば天使みたいな存在
天使たちの上に天が存在するって感じがいいな 征服型の一神教はイスラム教?
統一型の一神教とはどういう意味ですか? 井沢元彦「おっ?逆説の世界史も始めた俺の出番か?とりあえず朱子学が全部悪い」 朱熹はなんだかんだでカリスマがあったということだろう 一神教と多神教と言う区別と
シンボルに頼る宗教と言葉に頼る宗教の違いというのを別に考えればいい
多神教の原型は精霊信仰で、動植物や山や海や太陽等の自然界のシンボルを重視するが
精霊の言葉や祖霊の言葉を誰かに憑依させて聞き出そうとする宗教もある
シンボルに頼るのはトーテミズム、言葉に頼るのはシャーマニズム、
それらの背景にあるのはすべてのものに魂が宿ると言うアニミズムだ
何らかの歴史的な形で崇拝の対象が1つの神に絞られることがあるが、
その崇拝の中心が神像や護符に頼っている限りは、経典を持つ宗教にはならない
しかしシャーマニズムの手法で、どこかの祖霊や精霊ではなく、
1つに絞られた神が何かを語るとなると、
非常に道徳的な事を全て総合的に語らなければならなくなる
「神が絞られる」ことと「言葉に頼る」事が「重なった」結果が、
ゾロアスター教でありユダヤ教でありイスラム教なのだと思う 女禍の神格化は母系社会の名残なのかな
伝承としては伏儀や黄帝はかなり後になって作られた存在なんだよね確か >>737
姫氏とかのように、氏族の名前に女という字が入ってるのも女系の名残だろうね >>695
前近代の14歳って現代で言えば二十歳になりたてとかそんぐらいの立ち位置かな
早熟少年と言えばサファヴィー朝の始祖イスマーイール1世なんて12歳で挙兵して14歳で宿敵の白羊朝の首都タブリーズを陥落させて新王朝を開いてるよね 一応そういうことになってるが、言い切れないところがある
有力諸侯の慣例が全て残ってるわけではないから
特にキングダムの始皇帝で有名になった、秦は怪しい >>738
やかましいことを言うようだが、またわかってはいるんだろうが、それは「氏」ではなく「姓」だ
氏は任地や官名などに由来するものが多く、早くから名前と続けて「氏+名」の形で用いられたが、
姓は単にその人の所属名を述べるときに単独で出てくることが多かったのが、
戦国から漢代にかけて氏と混同されるようになり、姓と氏の区別も曖昧になった時代に
はじめて「姓+名」という言い方が出てきた
周の文王を姫昌と呼ぶのはかなり後の時代の文献だし、始皇帝を嬴政と呼ぶのも戦国末期ならではだろう
これは君主だけではなく、調べれば姓がすぐわかるような君主以外の人でも春秋時代には姓+名で呼ばれない >>742
戦国末期ですら姓+名とかはないない
始皇帝をエイ政なんて呼ぶのは唐代とかのかなり後になってから
漢代では趙政という氏+名の表記が基本で史記はコレ
同じく漢代に書かれた始皇帝の伝記のタイトルは「趙正書」でやはり氏+名の形
「政」の字が成立したのも実際は漢代だったりするので
始皇帝の本来の名前は「政」ではなく「正」だったのではないかという説もチラホラ >>736
言葉に頼るのはシャーマニズムはユダヤ教ですか?
シンボルに頼るのはトーテミズムはイエス、シャカ、ムハマンドあたり?
孔子はシンボルでもあり学者的な側面もあるので違うタイプにも感じる >>755
ユダヤ教にも大きな影響を与えた一神教の元祖はゾロアスター教
その経典アヴェスターはペルシア語とは違う古代の東イラン語派の
遊牧民と思われる民族の言語で書かれている
多神教の神々のうち善と悪の二神に重きをおき、
善神に仕えよと人に説いた時点で、これはもう実質上は一神教だと言われている
悪神は悪魔の、善の諸神は天使の原型
ゾロアスターもそうだが、ユダヤ教の歴代預言者もシャーマンっぽい
ムハンマドについては多神教時代(ジャーヒリーヤ)のアラビアには
シャーマニズムがあったことがわかっている
シャーマニズムと「文字」との出会いが「教義」「経典」を持つ宗教の始まり
儒家の宗教集団としての側面は、むしろ孔子が儒(葬儀屋)の出自であること、
儒はおそらくシャーマンでもあったことを考えると無視はできないね 春秋五覇からマイナー武将や左伝・史記・国語などに名前がちょっと出た人物まで網羅している人物辞典ありませんか? >>745
その辺は井沢元彦の「逆説の世界史」によれば中国人にとって儒教は古代から宗教ではなく哲学と言う認識だったとの事ですよ 結局キングダムのカイネはどうなるの?
カイネは春秋戦国で一番強かったの? >>748
その辺のことは
加地伸行『儒教とは何か』を読んで比べるといいよ >>753
第1巻の古代中国パートからちゃんとどこがトンデモ本なのか説明してください
古代中国史を扱ってるはずなのに延々朱子学への悪口だらけだったのは正直?でしたが 司馬遷の天道是か非かの感覚は春秋戦国時代には確立されてそう 朱子学にはそれまでの未整理だった儒学を
学びやすくした功績があるのに 陽明学は脱亜入欧の欧米追従思考や反共産主義ファシズムを産んだ母体だからな
江戸時代の平和は李王朝から伝わった朱子学によって維持されていた
日本人は朱子学を学ぶべきだ 朱子学って外物の理を学んで内側の理である天性を完成させるってものでしょ
朱子学批判て身分秩序とかの単なる儒教一般の批判でしかないよね 井沢元彦
「朱子学は領土を奪われ屈辱的な和議を結ばされた南宋が自分達こそ正当だ!と言い訳のために都合のいい解釈をしただけの負け犬の学問でありそこに何の価値も無い 朱子学の功績は四書を定めて集注を加えたこと
五経だけでは学問は伝わらず、科挙なんてろくにできない
陽明学も考証学も朱子学の敷いたレールの上に成り立っている
みんな朱熹の集注で勉強したのだ 朱子学は江戸幕府300年の平和を作った偉大な思想
朝鮮通信使から幕府の学者たちに伝えられて日本文化の基礎を作った
ところが陽明学によって幕府が倒されて脱亜入欧と称して大恩人の李王朝を植民地
そしてファシズムを生み出し第二次大戦に日本を引きずり込んだ
女真征服下の清王朝では考証学により朱子学の多くが否定されてしまい中華文明の正当性は受け継がれなかった
日本帝国による李王朝の滅亡が中華文明の滅亡であった 倒幕思想の元となった大義名分論も朱子学の産物だけどな もともと徳川幕府が外交で毅然とした立場をアメリカにとれば若い武士たちは
率先して徳川の下で戦っただろう 毅然とした立場っていうと鎖国堅持して攘夷やっちゃうってことか 毛利家と島津家が反幕府なのに付くもへったくれも無えよ 毅然とした態度で夷狄の船を何隻か沈めたけど
気がついたらもっと悲惨なことになっていたのが朝鮮 >>770
長州も異国船を攻撃したら報復されてボロボロになったのに
どういうわけか、その後討幕の有力勢力になっている
よく考えたら不思議な話だね 徳川幕府が天皇をちょろっと政治利用するだけのつもりで
条約勅許のお願いなんかしちゃったのが終わりの始まりだね
スレの趣旨の時代にも似たようなことあったかな? 春秋戦国時代から続く中国の伝統に比べたら天皇や徳川に伝統などという言葉を使うのすら笑ってしまうわ 笑ってしまうよな
その伝統文化が本国で否定されて日本のがまだ残ってるんじゃないのかとか言われてる現状は 伝統というのは続いていることが大事なのであって
何十年か何百年から何千年かなんて事は大事じゃない
五四運動青年の反日言論みたいなコンプ丸出しに付き合ってもしょうがない >>773
周王室が現時点まで確かな系図付きで残ってるなら、たしかにそうだな
清の皇族なら残ってそうだから徳川といいしょうぶできるかもしらん 王朝交代するたびに中国は血統主義を捨てているんだから、
万世一系思想にしがみつく日本人の血統主義では測れないだろう
この板にも歴史を遺伝子だけで語りたがる奴がいるけど
あれも言語や文化を否定する血統主義だな 中国分明は続いているぞ
ネトウヨお得意の文化大革命で中国分明が絶えた論が通るならジャップ文化は明治維新で消滅してるだろ >>776
>>577
漢成立前後に旧王族は見事なぐらい殺されまくってるんだよなあ
田横なんて劉邦にとって超都合良く勝手に自殺してくれたし、韓王信も降伏勧告を拒否して斬首されたし
劉邦は何も悪くないよね? 伝統を冷笑するのなら、人類の文化・文明・歴史を嘲笑し否定するのと同じことだ 中国の伝統と呼ばれ、信じられているものの
起源やら連続性を調査・批判・検討するというだけの話 天皇の権威みたいのを作るときも中国の思想とかをモデルにしてる
中国の模倣がなければ天皇家はこんなに長く続かなかった >>781
中国人は本当にそんなものを誇っているの?
あったとして、それが日本人であるあなたの気に障るの?
そういう出発点のところを曖昧にして何も語らない人が多すぎるんだよ
ぜひどうぞ語ってくれよ >>767
責任ある立場の政府関係者が外国と妥協してるのを見て、部外者が「弱腰外交だ!」と怒る
でもって、そいつらが政権を取って現実がだんだん分かってくると、外国と妥協するようになるのが世の常 >>786
ウイグルやチベットでは、今も公然と民族浄化が行われている。
香港の自治も押し潰されようとしている。
中華思想・同化史観は人類の敵 ヒトラーのユダヤ人虐殺にドイツ人は罪悪感を持っているが、習近平のウイグル人虐殺に対する中国人の罪悪感は無い
これというのも、「周辺の異民族は、中華の文化に憧れ、同化・吸収されてきました」という歴史観を、彼らが信じているのが根本原因 >>788
それ答えになっていないよね?
問いに対する答えを出すと負けだと思ってるの? 「中国の伝統を否定することがウイグル人を救うことになる」
と主張したいのなら、その根拠をはっきり述べないとね >>788
同化史観というものがどういうものなのか、どこまで想像がついているんだろう
少なくとも中華への同化の力を肯定的に捉えて国家の原動力とみなす考え方は、
「民族の神聖な血統の力」を最大の価値と考える血統主義とは
正反対の考えだということは分かっているかな?
君の考えによれば日本民族は血統が優れていてすばらしいんだろ?
だから日本人は何の努力もしなくても優秀な人材を取り入れなくても永遠に世界一だと言いたいんだろ? ネトウヨは叩いておかないといけない
アイツらは日本の戦争犯罪を擁護する口で人権弾圧だの何だのと屑丸出し
ウィグル人の低脳底辺連中がイスラム過激派になってタイで爆破事件をおこした事があった
ネトウヨは忘れてるだろうがそういうのを阻止するために世俗教育を施している中国が悪い国なのか?
ネトウヨは人権に興味などなく中国を悪者にして騒ぎたいだけのゴミムシ連中だ 抑々ウイグルを自称する、エゲレス政府に資金人員援助されたコーカンド汗国の残党の成れの果てじゃん ネトウヨのせいで世界史板がどんだけ荒廃したのか、どんだけの良コテが引退したのか
この辺を知ってるだけに、見かけたら退治しておくのが正解 ガイジウヨは粘着してればそのうちどっかいくからそこそこ効果はあるな ウイグル人の人権の問題は彼らの歴史的な過去の成り立ちとは関係ないけどね
ただ知ってる自慢をしたいだけの馬鹿はとんでもない人権無視を口にする 外国政府にテロ支援された破壊工作員に人権は無いからな 春秋戦国時代そのものに語るべきものは特にない、ってことかなぁ
ブサヨ認定ならさんざん受けたけど、ネトウヨ認定はさすがに初めてだわw ネトウヨの反中華主義は支離滅裂で意味不明
中華の血統を否定したいらしいが、当の中国人は血統至上主義じゃない
易姓革命論は満洲族の皇帝も正当化したし
それは別に漢人への同化を条件としたものでもなかった >>802
自称左傾向のネトウヨおつ
そういうやつってニュー速とかにめっちゃいるんだよなあ
はたから見たらどうみてもただのバカウヨでしかないのに >>805
申し訳無いけど、「普通の日本人」という自己規定がすでに、ネトウヨ的傾向を持つ人が主として使うものだという気がするんだよね。 全体主義且つ従属志向の発露だね普通の日本人
あと何故か息子じゃ無く娘が居る設定w >>778あたりからおかしな流れになってるな
「分明」とか妙な日本語使ってる時点でお察しではある 1人で書いてるって言ってる奴が1人で書いてる可能性
あと自分以外は1人しか反論してるのがいないって言う妄想もかなり痛いよ 保守する意味あるかどうかわからんけど保守代わりになるし、
中国英雄板あるから世界史板じゃなくてもかまらない話題だしな
ネトウヨ認定くんと自称サヨクくんと普通の日本人くんだけでえんえんとどうぞ 自分以外は3人だっていう決めつけも
やっぱりとらわれている
というか名無しと言うものが全くわかっていない スレ違いそろそろやめませんか?
私は「キングダム」はテレビ放送した映画しか知らないのですが、男性に聞いた
人気キャラ1位が王騎将軍だそうですね
テレビで大沢たかおが「むふーん」ってやってるのを見て思わず笑ってしまいましたがw >>817
いや「キングダム」人気1位はカイネだよ。 キングダムこそスレ違いじゃん
カイネカイネうっせえわキチガイ >>820
キミもカイネおねーさんに甘えるといいよw キングダムの作者がまるで春秋戦国秦漢のお家騒動の再現を自らやるとはな そのものズバリの春秋やら戦国策やらありますよ
まあ始皇帝の焚書と項羽による略奪破壊で大半の記録は消滅したようですが 史記 春秋 戦国策 国語 竹書紀年 書 詩 諸子百家諸々 >>825に資治通鑑と呂氏春秋、呉越春秋、晏子春秋あたりも抑えとけば
とりあえずは…いいのかね 張耳→信陵君の元食客で魏の重臣として命を狙われる立場から早々と陳勝の乱に加入鉅鹿の戦い・田栄の侵略という大ピンチからも生き延びて過去に面倒見ていた劉邦に使えて趙王となる
張敖→田栄の張耳の一族虐殺からからくも逃げ劉邦と呂后の娘魯元公主を嫁に貰う。クーデター疑惑で王から格下げされるも当時の疑心暗鬼だった劉邦から粛清は免れ嫁を冒頓単于に奪われる危機もなんとか助かる
張偃→劉邦と呂后の孫。陳平周勃灌嬰�、らが呂氏一族を粛清する中呂氏の血を引く人間としてただ1人粛清を免れ異母兄弟達と共に爵位復活
その子供か孫→呂氏の乱や呉楚七国の乱の功労者達が武帝によって次々お家取り潰しになる中粛清を免れ少なくとも後漢霊帝時代まで続く名家となる
楚漢戦争初期から登場し最後まで生き残った割に史記含めてとにかく評価の低い張耳とその息子孫だけど生存嗅覚は劉邦を越えてるんじゃないかとおもう >>821
全然面白くないのに草をはやすから気違いにしか見えない なにせ史記は読んでて面白いからね
この辺ヘロドトスの「歴史」とトゥキディデスの「歴史」とクセノフォンの「歴史」で何故ヘロドトスが特別知名度あるかと共通点がある
著者の状況から歴史書に訴えを込めるって点では司馬遷に似てるのは後者2人だけど >>829
江戸時代には政治の関係者や歴史の専門家の間では必読書だったそうだけど >>831
ちくま学芸文庫から出てる抄訳でいいんじゃないでしょうか 完訳は明治書院で出てるんでしょうが、お値段とサイズがちょっと・・・ 南史北史以降は文量多過ぎて日本語訳だとお高くて公費使える奴以外
原文じゃないと無理だよね 資治通鑑は三国鼎立までならキンドルアンリミテッドで読み放題 >>794
欧州左翼党ですら中共のウイグル人弾圧を叩きまくってるのにそれはないわ
世俗教育はともかくあくまで自発的とはいえ人口抑制のために去勢手術を施すとかやってることはナチスとかわらない >>838
ええ…?でもスウェーデンとかフィンランドと言った福祉先進国って… 殷王朝は夏家店下層文化の人達が築いた王朝でしょうな
実は上古漢語は印欧語からの借用語が多いのです テレビで「総務書」って聞くと、高校の時漢文の授業でやった「鴻門の会」を
思い出すんですよね〜
項羽にチクッてたのは曹無傷なんですけどね 樊噲が犬の肉と酒を持って乱入するんだっけ
今も徐州の名物は「沛県狗肉」といって犬の肉ですよ
画像検索するなよ!? 龍師の翼では生の豚肉を喰わせたのは項羽の嫌がらせって扱いになってるけど、
当時の価値観で生肉(屠殺したての新鮮な豚肉)ってそんな悪いものだったんだろうか? キングダムの影響で無双シリーズやFGOで李信がとんでもない強キャラとして参戦する可能性出てきた? 言ってることおかしくね?
影響があったとしても作中ですら最強じゃないのにどうしてとんでもない強キャラとして参戦するんだよ
新規呼び込むために程々な強さで入手を容易にしてストーリーとかで美味しいポジを与える線が妥当だろ 最強じゃないから強キャラじゃないとか飛躍しすぎだろ 実際のキングダムの時代なら、秦にとって一瞬怖かったのは李牧だけで、あとは合従して
攻めてきてもどうってことなかったんですよね
合従軍が攻めてきて秦として「やばい」って状況になったのはあったんですかね? 撃退したという結果だけを見て
どうってことなかったって決めつけるのはどうだろう
バトルものの勝敗だけを見て
敗れた方を弱いって決めつける奴と同じだよね 信陵君の合従はそれなりに危機感あったような
まぁそれでも函谷関は抜けなかったんだけど 函谷関は抜けなかったって言うけどその後の春申君にも函谷関まではぶっ込まれてるし
昭襄王の時代の獲得領土ってかなりのところまで台無しになってないか? 下手すりゃ会戦で負けてた、負けてたらドミノ倒しのように侵略されてた可能性がある
それだけでどうってことなかったとか余裕ヅラ出来ないと思うけどな
楽毅だって2/70くらいまで斉を追い込んだわけだが、
残り二つの城を攻略できなかったが故に、結局戦役の戦果自体無かったことになるくらいの結果に終わったんだし >>855
同じ呂姓でお互い豪商の一族となるともしかすると遠縁くらいの可能性はあるだろうが
まあ証拠はなんもないわな しょーもないレスをしますが、函谷関と箱根の山はどちらが攻めにくいんですかね
「箱根の山は天下の険、函谷関もものならず」って歌があるんですが・・・
箱根を舞台にした戦闘だと、南北朝時代の「箱根・竹ノ下の戦い」がありますが
これは攻め寄せた新田方が味方の寝返りで敗北しています 連合軍を率いて函谷関に攻め寄せた斉の孟嘗君は、鶏の鳴き真似が上手い食客を利用して、一番鶏の鳴き真似をさせた。
周囲の鶏は朝と勘違いして鳴きはじめ、函谷関の関守は朝だと思って、門を開いた
難攻不落の函谷関を攻略した孟嘗君の知略は見事 >>858
> 「箱根の山は天下の険、函谷関もものならず」って歌があるんですが
ちなみに、その歌には二番があって
「箱根の山は天下の岨、蜀の桟道 数ならず」
となってます 漢の劉邦は函谷関を正面突破せず、山道を通って迂回した この時代に函谷関をまともに突破した将はいない
孟嘗君、信陵君、春申君諸々、戦闘では優勢であった場合でも抜けずに終わってる
まともに突破したのは秦末の周文が初じゃないかね
それに較べれば箱根はそこまで堅固とも思えんな
秀吉の小田原征伐では山中城も半日で落とされたし 箱根とか只の山地じゃん、防衛線敷ける様な土地じゃ無い
箱根で防衛とか不可能
箱根越えると補給が大変だしゲリラ為れ易い
秦嶺山脈やアルプス山脈みたいなもん 函谷関のすごいところは、両側を山脈にはさまれた狭い谷間の回廊みたいな地形が続いていて、そこを封鎖すれば他に通るところがないってところだな
日本で言うなら関ヶ原に例えるべきだろう 鶏の物まねは攻撃した時ではなく、孟嘗君が逃げ出すときの話ですからね〜
>>859さんのような話があったらおもしろいですがw
水鳥の羽音に驚いて逃げ出した平家軍のようなものでしょうか 〇〇「クックドゥードゥルドゥー!クックドゥードゥルドゥー!」
秦兵「おのれ怪しい奴!ひっ捕らえろ!」 「鶏の物真似の名人」は他に取り柄がないタダメシ食らいだったが、函谷関を脱出するときだけ一世一代の大活躍で貢献した 函谷関ネタの本朝ものといえばこんなのもありましたね
「よをこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関は許さじ」清少納言 一世一代どころか有史以来最高の面目躍如だし古今東西の鶏の物真似芸人が遍くこの事件を誇りとしていてもおかしくない 秦の宝物庫に忍びこめるドロボウなんて儒教的道徳さっぴいたらとんでもない才能の持ち主
それに比べたらニワトリの鳴き声の真似ができるだけwwwwwwwっうぇwwwっうぇwwwwってレベルなのに
ならんで大活躍してしまうなんてニワトリ真理教の聖典になってもおかしくない フィクションっぽいですよねw
しかし、函谷関と蜀の桟道はこの目で見てみたいな 最強の人物じゃなく、この時代最強の武将っていったらやっぱり白起ですかね? >>879
どこでも勝てる呉起では?
強い国で弱い国に勝のは順当だし、立場や環境が変わっても勝てる強さが必要かと やっぱ 最強は、斉の田単じゃね?
・燕に攻められて滅亡寸前の斉を、数々の計略を用いて救う
・逃げてきた下級役人で将軍とかの経験もない異例の抜擢
・当時 最強と言われた楽毅を計略を使って離反の計で亡命させることに成功
・勝つ為に 斉のご先祖様のお墓とお骨も利用(斉の為ならご先祖様も許してくれる)
中略
・見事 斉を救う事に成功、安平君に封じられる
管仲もすごいわな >>881
呉起は戦争だけじゃなく、政治改革もできますからね〜
あと、李牧はどうですか?
彼が長平前に趙に現れていたら(例えば武霊王の時代あたり)・・・ ○○のいた時代の××が最強って理論で行くと
孫武とゴシショの居たコウリョの呉が最強だと思う 諸葛孔明が菅仲・楽毅を自称してたってのは、この2人が最強だという評価が定着してたことを意味する >諸葛孔明が菅仲・楽毅を自称してたってのは
裏切りを行っていない強者というのもあると思うわ
儒教で、実践道徳として最も尊ぶ仁と義。
1.[仁] 人間が守るべき道徳。
2.[義] 他人に対して礼儀上なすべきつとめ。 義理。
菅仲は自分の義を貫いた、その結果前半は大失敗して、
管仲は公子糾に仕え 友人の鮑叔と敵対関係になってしまう、
この時は公子小白(後の桓公)が勝ち菅仲は暗殺未遂の大罪人になるが
鮑叔のおかげで桓公に使えることになった。
楽毅は燕の昭王に助け、ただただ昭王の為に尽力し、策略で亡命した後に、
太子の恵王からなじられても 昭王に対する忠誠と思慕の気持ちを書にしたため返礼した。
裏切りが多かった春秋当時(三国志の時代も)に人柄を慕われたからとも思える 刺客列伝とか、悪役サイドであっても信義を貫いた刺客は司馬遷の評価が高い。
ひとの命は儚い、
命の価値が薄かった時代に 信頼と義侠に 信義に生きたひとたちは、
生き方や生きざまが人々の心を熱く打ったのだと自分は思います。
司馬遷自身が、わずかな人物評で庇っただけで死刑を宣告され(後に腐刑 男根切り落としの計)て、
それでもなお人間の生き方を綴ったので 司馬遷の価値観もあるとは思いますが、
自分も そう評価してしまいます >>884
呉起は政治でトラブル起こしすぎな気もするわ。
田文と争い負け従う、
楚では改革に成功するが旧体制に疎まれ 、王が亡くなった時に、
悼王の死体に覆いかぶさり窮地を脱しようとするも王の遺体ごとに射抜かれて死んでしまう。
有能かもしれんがトラブルメーカーやな。有事の際以外は居場所に困りそう。 >>885
コウリョが矢傷をうけず
生き延びたら、中華統一の礎となったかも
タラレバだが あの時代に呉が天下統一は、さすがに無いんじゃないかな
まだ長江下流は広大な湿地帯で未開拓の地が多く、明清時代のような圧倒的な経済力などない どう見ても野蛮人が
周の太伯の子孫を僭称してるだけの呉が
そこまで成り上がるなんて >>895
全身に刺青は、倭人と呉人に共通する風習 地方の雄として同時代チャイナの最強国になれたかもしれないけど、
そこから全土を征服するってなったら秦以上の苦難の道だと思うわ
呉スタイルで中原や周王朝古参の諸国を従えるのは難しいだろう >>898
北方系と 南方系で 製鉄のやり方や 歴史が違います。
日本の製鉄技術は主に南方系(呉越)とかからで、
湿気の多い日本は独自の進化をしています。
製鉄の渡来と古代考察の陥穽
http://ohmura-study.net/401.html 呉越があの時代にのし上がれた理由ってのは何なんだろう
楚が弱体化したのに乗じれた、ってだけかな 江南の開拓が進んで農業生産量が飛躍的に向上したんだろう
呉の文明が本当に西北のものだったとしたら、
水稲に対する農業技術は当初持っていなかったのが、
ようやく江南という土地、水稲という作物に合った農法と
農地開発の技術を獲得したのだとすれば、それが人口増加に
つながったのだと考えられる
呉の発展と同時期に、隣接する越もこれに倣って発展したのだろう 呉は蘇州 (江蘇省)、越は会稽 (浙江省紹興)の王朝 この時代だと、まだ小麦がないんだよなあ
小麦が渡来したのは前漢とされている >>901
魏晋南北朝時代の南朝ならその通りだけど、この時代だとそれはちょっと言いすぎ >>901
江北〜中原の勢力が肥大化して江南諸国と戦争するような状態になったのだと思う
春秋時代に楚が北上してやっと諸侯との抗争に入った時代は楚だけが記録で目立つが
その楚とても漢水系の河川を中軸にした勢力で呉越よりは比較的北側に位置していた
楚が北方へ伸びつつ、南方や長江下流域へと伸長する過程で
元々江南にいた呉越と勢力圏が衝突したのが呉楚の争いの本質だと俺は考えてる
呉越というのはのし上ったのではなく最初から結構国力の高いそれなりの領土のある国だった可能性がある そもそも、楚は最初はもっと北のほうにあったのに、南下して広がってきた王朝だし
呉越は、もともと楚より南にあった国 キングダムブームに今から乗るのは、ちょっと恥ずかしい。
そんな方は、まず戦国七雄の代表的名将7名からサクッと学んでみませんか?
戦国時代 神7 その1 韓の申不害
韓という国は、超大国 晋(しん)の領土を紀元前453年に趙や魏と共に分割し建国した若い国です。
そんな韓ですが、国力は戦国七雄の中でも最弱でした。
国境を強国の秦や魏と接していて絶えず圧迫を受け怯えていたのです。
韓には、これという見せ場もなく紀元前230年に真っ先に秦に滅ぼされます。
この最弱の韓を代表する神武将が申不害(しんふがい)です。
申不害は低い身分の出身でしたが、師により韓の釐(り)侯に推挙されます。
そして釐侯に「弱小国の韓が強くなる為にはどうすればよいか?」と尋ねられると
「法を厳格に守り公平な政治をすれば治まりますそれ以外の方法など知りません」と答えました。
釐侯は、その答えを気に入り紀元前355年に申不害を宰相にします。
それから20年余り、韓は申不害の厳格な法の統治により強くなり秦にも魏にも領土を奪われる事なく僅かですが、領土も拡張しました。
最弱の韓を率いて強国の秦や魏につけいる隙を与えないのですから
申不害の才能は稀有なレベルと言えるでしょう。 楚からヨウテキとか漢水北岸の都市奪ってるもんなこの時期 >>899
韓国嫌いなのか中国南部由来にしたいみたいだけど
遺伝子を調べるとやっぱり朝鮮半島由来みたいだよ
ネトウヨは否定したがるけど日本人と朝鮮人は同じだ >>910
「日韓の製鉄技術を調べたところ、遺伝子が同じだったニダ」とは、
さすがに朝鮮人の調査能力は予想の右斜め上をいってるな 半島南西部の韓地方から来た移住民もその少し前に長江下流域から移住した民だから大差無い
但し、日本列島早期の鉄器わ河北北東部〜南満州朝鮮地方に特徴的な製鉄法と成分比率だよ 朝鮮半島南部と北九州北部にかけて共通の文化を持った銃弾が存在したのは事実としてあって、おそらくその集団が朝鮮半島の鉄資源のコントロールをしていたのであろう >>900
呉は歩兵重視をやって強くなった
現代もそうだが、結局は歩兵が一番使える 春秋時代なら、まだ騎馬軍団がいないだろ
当時の長江下流は広大な湿地帯で、馬車なんか走れないし 歩兵が強くなったという事は
より多くの兵数が確保できるようになり、
それを支える兵站が充実したと言うことで
やっぱり農業生産が向上して人口が増えたんじゃないか 宮城谷氏の「湖底の城」文庫版がようやく最終巻まで発売されましたね
全巻揃ってから読もうと思っていたのでようやく読めます 宮城谷さんの小説は読み出すとハマる。
今は香乱記を読んでる途中。 宮城谷小説は仙術みたいなのが出てくるファンタジー路線のと
左伝の行間を史実っぽく補完したリアル路線のがあって
同じ重耳の放浪でも部下たちの行動やシーンがちょっと違ったりする 長城のかげの劉邦はかなりいい感じだったのにね
主役になるといつもの宮城谷主人公なのよね 最近の宮城谷氏の主人公は良い人過ぎて面白くないんですよね
まるでNHK大河の主人公みたいには サラリーマンが人生訓求めるようなジャンルだからね
部下を結婚させてやる話とか多いし だんだん儒教に染まっていくんだな
中国の時代劇の主人公も、良い人すぎて不自然なのが多い 大河ドラマもそうだよな
同じ人でも端役として出て来た時は人格はたんしてたりするのに
主人公になった途端合理的で人格者になってるの
それぞれの歴史上の人物の行動について言い訳してる番組に感じる 明智光秀のことかー
同時代人のいちばん詳しい観察、フロイスでも邪悪な野郎だときりすてられてるから・・
劉邦や朱元璋も似たような邪悪だけどな >>930
裏切ったから邪悪ってことになってるんだろ 呂不葦ぐらいは大悪党に描いて欲しかったですね>宮城谷小説 宮城谷作品って恋愛パートはどれも蛇足にしか思えない
そういう展開がないと出版社も認めないのかもしれないけど 明治大学 法学部職員 脅迫 法律相談部 集団人権侵害事件 >>935
うまいのですが、春秋戦国から数百年後ですねw NHKで始皇帝の母なんてドラマやってますが、巨根の間男引き入れたり
間男との間の子供を殺されたるするシーンまでやるんですかね? >>929
その意味では平清盛なんかは例外かな
晩年のダークぶりもしっかり描いていたし >>942
息子、エイセイの命より情夫を選んだ
同じ恋多き女ミーユエと真逆の選択をした
今風の女性だな >>944
アレはダークだったわ
秀吉の晩年も似てるけど 時代違うが武帝、孫権も晩年ダーク
老害はいつの時代も同じ
英雄も、年に勝てず、ただの権力もてあまし爺に変わる 老害イメージの武帝だと二人思い浮かぶけどどっちかな 梁の武帝わ老害というより南北朝期特有の殺伐猖獗の気風に個人じゃ改められなかったってだけの様な気も そういや、武帝って名前で呼ばれる人物って漢から南北朝末期までの期間にしかいないよな
隋には武帝はいないし唐からは廟号で○宗などと呼ばれるようになったから 唐以降の諡号はクソ長くて使えたものじゃない
民清は元号+帝だけど廟号使う場合も結構ある 唐代の皇帝の名前って6文字+帝 ぐらいだっけ?
もうちょっと長かったかな? 武帝って死後の贈り名?
生前から武帝で武の文字は忌字にしまーす笑ってことは流石に無いよね
文帝とかも >>956
諡号は死後号 とでもおぼえといたらいいよ。 オクリナ自体に死後贈るっていう意味が含まれてるのね
馬から落馬するだったか 劉邦はよく高祖と呼ばれてるけど廟号は太祖なんだよね
諡号の高皇帝と併せての高祖なのか単に劉氏のご先祖という意味での高祖なのかどっちなんだろう 太祖と高皇帝の連続表記なら、太祖高皇帝はあるが高皇帝太祖とは書かないよなあ
どう略してんだろうか 資料で同じ地代に50人ぐらいかぶって登場するのは秦漢あたりですか? >>960
劉邦は 正式には太祖高皇帝、
基本的に 諡号と覚えて問題ないが、
王朝の創設者などは 例外的に 死後での行いの評価での 評価諡号でない場合が多い、
太祖は 王朝を開いて(皇帝になって) 王朝の霊廟を開いたひとを称す(例外あり)、
太祖高皇帝廟を開いたひと その中でも 更に良い諡号になってる場合が多い。
劉邦は 正式には太祖高皇帝だけど 略されて高祖って呼ばれることが多い。
漢の王朝を立てて 廟を開いたのだから 太祖でも間違いないが、
太祖のなかでも特別に評価されてるから太祖高皇帝なのだと思うわ
曹操は、
廟号は太祖、諡号は武皇帝、
後漢の献帝を担いで 禅譲こそは迫らなかったが、名目的には実権を握っていて、
後世では (実質的な)魏の創設者として 太祖と称されてる、
諡号の評価としては 武皇帝の 『武』
武力を以て国土を広げた皇帝や戦乱を平定した皇帝に送られる諡号になってる
始皇帝なんかは 『死後に皇帝を評価させるのはけしからん!』ってな感じに諡号をやめさせたが、
どういうふうな諡号だったのか気にはなるね >>963
隋唐とかの創始者は廟号自体が高祖で諡号はまた別のを貰ってるから気になってた
高祖という言葉が劉邦発祥なら納得だわ ここは 春秋戦国時代だから、
春秋戦国時代 だと
生前の行跡に照らして追号されるようになってて、
中国の戦国時代に成立した『逸周書・諡法解で』は諡法について定められてて。
この頃のは だいたい諡号の漢字と評価が合ってるわね
(業績が悪くても皮肉として悪い漢字で当てられたりかともあるけど)
霊 幽 とかは 春秋戦国時代では 悪い諡号だったりする。
前述して 始皇帝は 『皇帝を評価するのは許さん!』てな感じに諡号されないように
自分を特別な尊称で呼ばせようと色々考えさせて (中略)
『初代皇帝』 『二代皇帝』 『三代皇帝』って呼ばせようとしたが、
秦は長く続かなかった、
漢の後からは 政治的な意味合いでの プロパガンダみたいなものに変わってると思う、 >>963
秦では始皇帝の命令によって皇帝の諡号が廃止されてるんだから、始皇帝には諡号はないだろ
まあ、始皇帝の死から帝国崩壊まで時間があったわけだし、諡号が廃止されてなかったら立派な号が贈られてただろうとは思うが >>967
悪い諡号を後から変えたりとかあるし、
漢王朝が乱れた初期にひと波乱がもっと起きてたら(実際やばかった)
秦の再興みたいな者が出たかもしれない。
そんなifがあったらなぁ…とか そういう妄想です 今さらだけど魏武注孫子って曹操の没後に付けられた書物名なんだなって
生前から武帝とか自称してるわけないもんな 晋が三晋に分裂しなかったら秦の台頭もなかったのだろうか 晋が周に成り代わって盟主になれたとして
めいいっぱい拡張できたとしても
秦・晋・楚の三国時代になるぐらいがせいぜいかな 南北で覇権を分け合った楚が打ち破られたのだから
晋も革新が無ければ同じく秦にやられる前途のみ 春秋時代は日本だと宮城谷先生が取り上げてるが
本場の中国で、この時代の小説を書いてる人はいるんですか? 【#加藤純一×#もこう】
PS5『仁王2/Remastared
Complete Edition』
クリアするまで帰らない
「マルチプレイ(生放送)」Part1
(18:00〜放送開始)
ps
youtu.be/hLPbeCMHK-I
コーエー×テクモ公式ch
(Part1以降 随時更新)
tp
youtube.com/user/KOEITECMOofficial >>973
激動の時代だけに、ドラマはいくつも作られてるけどな
でも一番売れたのは「ミーユエ」で、これは戦国時代の秦の後宮を舞台にした宮廷暗闘モノ 日本では中国史といえば古代に人気が偏ってるけど、中国ではそんなことないんだよなあ
ドラマでも北魏のほうが人気ある時代なんじゃないかな 中国では意外なことに清王朝時代が人気
ドラマもハゲばかりで見苦しい
わしからすると征服王朝に興味ない
そもそも蒙古も女真もヘアスタイルが無理 古代中国の純然たる伝統文化は五胡十六国時代に崩壊してて、それ以後は遊牧民によってアレンジされた疑似中国ではないのかなあ 清が人気になるのは日本人が幕末を好きになるのと同じことだろうね 日本の時代劇は江戸時代、それも19世紀の文化文政期が多い それ以前の時代の設定でも、社会生活や文化はたいてい化政年間だよね 元禄時代の文化は化政時代よりも、もっと華やかだったんだよなあ 元禄時代ってのは京都の文化だからな
化政時代は百万都市・江戸の市民社会が舞台だ
犯罪組織も、それを追う捜査網もスケールが違う 明代の服装は束髪、寛衣だった
清代になって胡服、弁髪が強制された
弁髪は西洋人から豚のしっぽと嘲笑された
そして辛亥革命期に、断髪令が出て、弁髪を切るようになった
しかしなぜか服は明代のものに返らなかった >>978
江戸期の丁髷と月代は違和感無いの?
しかも月代剃る必要って本来無いはずの一般庶民層までわざわざ剃ってたし
>>979
それって一般的に見ればかなり極端な史観じゃない?
通説とはいえないし、どれだけ緩く見積もっても、多数説じゃないでしょ
そもそも五胡十六国や北朝の時期って、東晋や南朝が並立してるんだけど >>981
>>982
それにしても、最近のNHK辺りの短編時代劇とかを例外として、
江戸期の日本の飲食店を想定する大道具のはずがテーブルと椅子の様式ばかりになるのはどうしてなんだろう
実際には、広めの縁台みたいなのを土間に置くか、座敷に上がってもらうかだったよね >>986
マゲと弁髪ではかなり違う
弁髪は、前から見ると坊さんみたいなスキンヘッド >>988
こう言っちゃ何だが、結局それって視角と主観と個人的嗜好ってだけのことなのでは >>989
そりゃ、スキンヘッドが好きな人もいるだろ。
ドラマに出てくるイケメン男優好きな主婦層にはどうも不評だが
メリットが1つあって、反清復明の闘士は長髪だからすぐ分かる 纏足は五代から宋の時代に始まったとされるが、南の広東地方ではこの習慣は
なかったらしい
また、『紀聞』にも、「下賤小戸は足をまくこともなく歩行自由なり」とある 清朝の宮廷はテン足してないところがいい
ヨタヨタとしか歩けない運動不足の引きこもり女じゃ、ドラマとして絵にならんもんなあ >>986
まあ979の言い方が極端なのは認める
華北の遊牧民が漢人を奴隷化しまくって、多くの知識人が、多くの文物が失われたし、
当時はまだ江南とか未開扱いされてて、なかなかそこまで逃げようとする人が多くならなかったとか、
東晋建国当時には司馬睿の皇帝としての正統性に疑義が強くてなかなか支持が集まらなかったとか言うし
それで東晋以外、周辺諸国に避難する人も出て、漢族以外の他国でも中華思想が広まることになったとも
(韓国や日本に中華思想が広まったきっかけに関する一説) もともと江南の人口は少なかったから、華北から逃げた人の一部しか江南に向かわなかったけど江南の人口が倍増した
逃げた人の多くが江南に行ってたら、江南の人口は何倍に増えてたか分からないよ 晋の皇族と一緒に多くの貴族が南に移ったから南朝の各地に晋の文化が浸透した
五胡十六国時代に中国の伝統文化が失われたのは完全に見当違いだと思うよ 晋の皇族は移住してないのでは
乱以前から江南に派遣されてた傍流の皇族が生き残って即位しただけで、洛陽にいた皇族は全滅したろ このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 351日 12時間 6分 26秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。