なぜ蜀の政権はいつも滅ぼされるのか
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結局蜀から北伐を成功させて関中を征服して
天下制覇を成し遂げたのは劉邦のみ
三国時代も五胡十六国時代も五代十国時代も
隋末唐初でも明末でも蜀にできた政権はみんな天下をとれずに終わった
よくみたら南北朝時代でも北周にあっさりと蜀が征服されてるし 天下をとれぬなら
蜀は天然の要害で肥沃であるというなら
守りを固めて独立国家のままでいることを目指せばいいのに
それすらもできずに終わった
なぜ蜀にできた政権はいつも滅びるのか 守りやすいが攻めにくい
北伐が難しいのはそのため
だから蜀漢は荊州両面から攻め込もうとした
関羽が荊州を取られて劉備も大敗したため
それがおじゃんになったが
諸葛亮は無理に北伐せず漢の命脈を保とうとするべきだった
蜀が征服されるのはいつも内部の堕落が原因で
外敵の侵攻は滅亡原因の2番目だから
劉邦が北伐できたのは蜀の蓋役をしていたのは三秦という小さな勢力であり
各個撃破できたのと項羽の直轄地は実はそれほど大きくないのと三秦が人心をつかめなかったと言う幸運が重なった結果。それがなかったら韓信であろうと難しかったろう 呉子にあるだろ
天然の要害よりも
人と団結が大事だと
蜀はいつも人がだらけて滅亡してしまう 外来政権の土着の難しさ
だから台湾における初期の国民党政権もあくまで大陸反攻を叫んだ そもそも劉邦の勢力は蜀に左遷された連中で
東方への復帰意欲があった
まあ兵士の脱走者も結構いたそうだが 蜀の山道は海や長江ほど強い障壁ではない
そして攻める際は長江よりも攻めにくい 蜀がもっとでかかったら可能かもな
中規模程度の勢力しか作れんから 岡村寧次
「呉は征服できたけど蜀は征服できなかった」 蜀道の険も
晋以降は交通が整理されて
移動が容易になってるじゃないかと思う
独立勢力でなく他勢力の一部であった場合でも
蜀はとったりとられたりの場所になっている
たとえば
東晋と前秦
こいつらは何度も蜀を征服し合っている 秦に領有されて以降
「蜀は中華の一部」と多くの人が認識してる
これ結構大きいよ
だから各王朝も「所詮外地だからほっとこう、もしくは朝貢させておこう」とはならない 隣が雲南やトバンなどの山岳民族
空にしても安全というわけでもない 蜀の人達って漢民族化した山岳民族多そう
(広東のほうも漢民族化した南方民族多かったりして) 益州と涼州は最辺境の地で周辺の異民族との接点もある感 www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/ekishuu.html 武漢あたりが蜀の版図になったことってなかったんだっけ? 地理的に中原に比べると巨大勢力にならない上孤立してるから拡大しにくい 民国成立後の群雄割拠時代でも四川の軍閥は脆弱だったような 巴蜀の地とはいえないが、漢中から天下を取ったのは前例がある
他ならぬ、漢の高祖・劉邦 四川省は西半分が少数民族の自治州となってるがそこも益州の区域内だった? 巴蜀は内陸だが大河長江で上海までつながってるらしい
大型フェリーも通行可能 劉邦は自分の国の名を「漢」としたわけだけど、
これは「秦に近い土地」ということでこの地名を選んだんだろうな
もし長安に首都を置かなかったら他の地名(故郷の名とか)を選んでいたはず 「沛公」と呼ばれるくらいなんだから、国号は「沛」になるのが自然だったのではないかな? 「沛公」より「漢王」のほうが、明らかに格が上だからな
「ブランデンブルグ辺境伯」が「プロイセン王」になったようなものか >>31
今は、途中に三峡ダムという巨大な関門がある
クレーンで船を運んで、無理やりダムを越える 五湖十六国の時代に成漢(後蜀)を建国してるな
昔馬超にも従っていた氐氏が漢中から成都に乱入して建国した >>37
> 今は、途中に三峡ダムという巨大な関門がある
> クレーンで船を運んで、無理やりダムを越える
クレーンでダム超えるとか、どこの空想世界の話だかw
ダムの横に閘門(こうもん)や船舶用エレベーターがあって、船はそこを通過する
重慶までは1万トンクラスの船が入れるらしい 三峡ダムが衛星画像で見ると歪んでてそのうち決壊するってマ? 写真が歪んでるのかダムが歪んでるのかはっきりしないからなあ それって、幸福実現党が言ってるんじゃない?
大川隆法がイタコ芸でご託宣したんじゃないの? 封じられた場所を国名にするというルールがあるから漢なんだよ >>25
関中が三秦に分割されていた
項羽の直轄領は実はそれほど広くない >>46
珍しいケースだな
川の下流から上流に向かって攻略するのは難しい >>35
「自分に縁のある土地のなかで秦に近い土地を選んだ」という意味ね >>45
一方、のちに西漢は西半分が皇帝直轄領で郡国制を布き
諸王領は東半分にごちゃごちゃと パナマ運河みたいに何段階も水門があるのかと思ってたが
船ごとエレベーターで一気に上下させるとか、さすが中華4000年は伊達ではないな
>>40 >>47
成蜀は自立派と晋への統合派とで割れていたという
だがそれでも単純に局地戦で敗北してるから
割れていたことが理由になるんだろうか
割れていたから局地戦に敗退したんだろうか? 大河の下流から、上流に向かって攻略するのは難しい。
ディーゼルエンジン付の現代の船ならともかく、昔の船では決定的に不利だ。
北朝の政権にとっては、温暖で肥沃な長江中流・下流の穀倉地帯は、ノドから手が出るほど欲しい。
だから、まずは上流の巴蜀を攻略し、そこで船を用意して長江を攻め下ることになる。 ふと有吉佐和子「紀ノ川」を思い出した。
「嫁入りは上流から下流に行きなさい。逆は不幸になる」だったような。
それじゃ上流はどんどん人口が減ってしまいますがな・・・ 南北朝時代
蜀は斉の領土だったが尉遅迥が率いる1万2千人程度の軍で征服された
何が要害だ 諸葛亮の北伐なんて成功するはずなかった
劉邦時代の成功原因がすべて存在しない
韓信が諸葛亮時代にいたとしても無理だったろう だから兵站も陣形も伸びきっていて苦戦したという
苦戦させたのに負ける成蜀 陸遜
「劉備は川からの進行を諦めました
水陸両面からの進行でなければ大丈夫です」 滅亡原因
成家
長江から侵入してきた軍勢に敗北
水上要塞が放火されたと言う
蜀漢
姜維が漢中の防衛線を後退させた
成蜀
漢族と異民族の間で分裂
前蜀後蜀
国防意識がなさ過ぎた 滅亡原因
成家
長江から侵入してきた軍勢に敗北
水上要塞が放火されたと言う
蜀漢
姜維が漢中の防衛線を後退させた
成蜀
漢族と異民族の間で分裂
前蜀後蜀
国防意識がなさ過ぎた 岡村寧次率いる倭寇は
燕、晋、呉、楚を征服したが
蜀は征服できなかった >>57
いやあ、紀ノ川河口もどんどん人が減ってて… 呉漢率いる劉秀の軍勢は長江を昇って蜀を征服したが
倭寇は芷江で敗退した 北方に攻めると言うのは難しいというのは
結構知られてるが
東から蜀に攻め込むと言うのも難しいが
蜀から西に攻めていくってのも難しいらしい 関中に封じられるはずだった劉邦が、項羽が一計を案じて
「関中ではなく漢中じゃ、ワーッハッハッハ」
「な、なんだってー」ΩΩΩ
ってなるのは司馬遼太郎が元ネタだっけ
実は中国語では関中と漢中はアクセントが違うから、このとんちみたいな策略は成立しないと
聞いたけど、ほんとなのかな? >>72
関 kwan
漢 han
アクセントどころか子音違うやん 昔の日本人にとっても、「クヮンチュウ」と「カンチュウ」で別の音だろ >>72
司馬自身が当時の関と漢の中国語発音を知らなかったのか,
知ってはいるものの(洋画吹替でたまに見うけられるような)
日本語でしか通じないダジャレをかましたのか >>26
西三分の二はチベットのア・ムドとカムの一部。 >>51
こえーよ。
大きな建物や橋が予想外のタイミングで崩落するチャイナだぜ >>72やけど、項羽と劉邦読み直したら司馬遼太郎先生は関と漢の発音の違いなんてご存知やった
手元にないけど、「赤龍王」だな、元ネタは
司馬遼先生と皆さんにお詫びします
https://i.imgur.com/T9m2s6J.jpg 太平洋戦争の日本軍も重慶落とせなかったな
国共内戦は共産党が重慶成都みるみる落としたみたいだけど 日本が敗戦で消えたから、国民党政府は元の巣窟南京に戻って気が緩んだんだろ
重慶に籠城し続けて米英の支援受けていたら、共産党に簡単には負けなかったと思う 蜀というより雲南だけど南詔なんかはいい線いってる気がする
一時的とはいえ最盛期には四川や東南アジアにまで勢力を及ぼしたし 蜀はチャイナプロパーであると認識されている
だから中国の一部にならなければいけないと
攻め込まれる
外国だったら朝貢で済ませてもらえるが
中国の一部だと認識されるからほっておかれない >>55 今はまさにそうだけど、昔は吉野杉という一大産品があったのに
五条やさらに奥は昔から魔境だったか 木が売れるってところは
貧困地帯
人口希薄地帯
すめる場所が限らてる
田んぼや畑にできる土地も少ない >>86
そもそも、それだけ良い土地だからだ
四川盆地は広大で肥沃、内陸部では別格ともいえる豊穣の地 >>85
唐宋が相手のときは、山岳国家の強みを活かして独立していられた
でも、北京帝国の軍事力には勝ち目なかった。
火力が違いすぎる 唐代には、蜀は唐の領土だったろ
安史の乱で玄宗は蜀方面に逃亡してるし
>>91 >>93
蜀(四川省)ではない
これは南詔(雲南省)の話 >>93
内乱や外冦やらの際に、王様や総統が国外に逃げてしまう、ってことは、しばしばあるけれどな。 郭子儀が涼州を抑えてなかったらかなりやばかった?
唐が蜀だけの政権になってたら
まじでほろんでたんじゃない 安史の乱の時はウイグルととばんに長安回復してもらった 川下から攻め上って征服した
桓温、呉漢はもっと注目されるべきだ >>97
唐は中華帝国というよりも、拓跋の遊牧帝国の属領だからなあ。
構造的には、契丹の遼や、モンゴルの元と同じ構造。
漢土の属領の騒乱に、同盟や配下の遊牧集団を投入するのは、当然だな。 拓跋本土がなくなってるのに遊牧帝国の属領とはこれいかに こういう手合いは杉山の概説書さえ読んでるか怪しいわ
太宗高宗期の最盛期や玄宗前期ならいざ知らず、安史の乱の頃なんて吐蕃回鶻は敵国だし天可汗としての権威はかなり失墜してる
安史以後には吐蕃の属国だった南詔にすら敵国待遇求められる弱体ぶり 安史の乱前後の吐蕃は唐の領土なの?属国なの?それとも外国なの? 吐蕃は立派な敵国よ
唐はトヨクコンも失い酒泉以西の西域を全失陥した 敵国ったって、属国や内藩の反乱でしょ?
もっと後の時代にも、明国の内藩の燕国王が南京に攻め上ってきて皇帝を取って代わる事態があったりしているし 少なくとも7〜8世紀は吐蕃と唐は対等ではあった
ソンツェン・ガンポからティソン・デツェンまでは吐蕃は大国だった
現在の状況から見ると信じ難いけど 中国史で使う敵国って対等な国って意味だよ>>103とかはそういう意味で使ってるはず
基本的に唐は周辺国を格下扱いしてるけど、強国だった突厥・ウイグル・吐蕃あたりは対等な国として扱ってる
あと吐蕃は初期に唐の影響下に入ったことはあるけど、唐の支配下に置かれたことはないよ >>102
遊牧民の拓跋なんてその頃にいんのか?
唐代のモンゴル高原なんて突厥回鶻の地やんけ
元朝をモンゴル帝国の属領と強弁するよりも更に無理がある 唐どころか北魏時代には鮮卑のほとんどは定住農耕民化してたけどな 定住化した遊牧民といえば、フビライの庶子が冊封された雲南の梁国も元の下で150年ほど続いた
四川の政権で100年以上続いたのって、中華の枠組みに組み込まれる以前の先秦の巴国、蜀国ぐらいしか無いんじゃないか >>110
隋や唐の時代に「いろいろ教えてくれ」とやってきたガチ農耕民の倭に対して、酥だの酪だの醍醐だの教えるくらいに気風うは残ってたろ
チャイナの馬はあかん、馬は中央アジアのがええのんなあ、と、西域諸国に馬を要求したりしているし。
杜甫の詩にもあるだろ、胡馬大宛名とか、京師皆騎汗血馬とか、な。 農耕主体なら、駿馬は要らないチャイナのモッサい馬でもいいんだけれどね。現に推敲の賈浪仙はロバに乗ってたし。
餓ゑて相食らふの状況にしばしば陥るのに、穀物を与えて家畜を飼うなんてこともしないわな。 でも酪農盛んな民族は
先祖は遊牧民だったってこと多い >>117
755年〜763年 安史の乱
725年〜767年 阿倍仲麻呂 唐朝に任官 近代なら湘軍が北伐軍・民国軍の母体の一つになった訳だし
南昌蜂起も内陸のあの辺じゃなかったっけ 唐は遊牧民族国だから、漢土の支配に漢人をあてるくらいなら、別の出自の人を当てる方が良い、みたいな策を取るよな。
後の時代の元でいう色目人のような。 ローマ人もギリシャ人が祖先だと言ってたし、
フランク人もローマ人が祖先だと言ってたし、
サキソニア人やユットランド人はスキタイ人が祖先だと言ってたし、
まあ、有力勢力と同祖同族を謳うというのは、よくあることだ。 ローマ人はギリシアと敵対したトロイアを祖先扱いしてなかったっけ? >>124
トロイヤもギリシャの一都市だろ。邑里国家時代は、一都市一国だから、同族で外国だぞ。
ってか、元ネタは岩波文庫たろう。「アカイア連合軍」を「ギリシャ」とした訳がおかしいから、誤解が広まったんだろうな。
同盟の中心のスパルタも総大将を出したミュケナイも、対立したトロイヤも、ギリシャ人の都市。 安史の乱で唐は華北の大部分を喪って、玄宗は四川に粛宗は朔方に逃れてそこから勢力を回復したけど、だからといって唐が四川や朔方から発展した政権かと言えば違うと思う
というか国民党の支持基盤って浙江財閥みたいな都市富裕層だから、敢えて言えば江浙の政権なんじゃないか 北伐して上海クーデター起こすまでは、広東が基盤じゃないかな>国民党
重慶を首都にしてたのも、日中戦争の間の数年だけだし >>122
そのせいで、「唐は異民族」という話をすると左翼が怒る 「国家」だの「民族」だのはフランス革命以後の概念だと何度言ったら しつこい香具師やな
国家や民族だなどという漢熟語をフランスが発明したのか?
まずそこから可笑しいことに気付くやろ
「今諸華士女,民族弗革,而露首偏踞,濫用夷禮,雲於翦落之徒,全是胡人,國有舊風,法不可變。」
「民族」という言葉の初出は『南斉書』のこの文章
結局漢民族が異民族の風習に染まったというコンテキストで用いられているんやで
「唐は異民族」云々の話題と合致する話や
たかだか200年前かそこらのぽっと出のナポカスの話なんて関係ない 秦は天水の一勢力から咸陽を経て巴蜀を増やしてその後中国統一してるな 一部特権階級しか意識してなかったナショナリズムを国民レベルまで落とし込んだことに意義があるのでは >>135
その「民族」は字面だけ現代におけるものと重なるが、
成文法に基づく国民国家のシステムとは何の関係もない
そこにはお馴染みの華夷秩序と中華思想しかない
中国人は字面の一致だけをほらこんなに昔から概念があったと民族の誇りの根拠にしようとしたがるが
中身の定義についてはお座なりにしがちだ >>138
欧米白豚が民族を発明したとホルホルか?
その概念をアフリカやアメリカの土人にも適用している時点でそれは結局
元から存在していたものを自分たちが勝手に決めた枠に従って当て嵌める作業をしているに過ぎない
それは結局華夷秩序に基づく(そして今も中共が識別工作に用いる)漢語の「民族」とは目線の高さが違うだけでしかない
広範で綜合的な時代と地域を扱うときにはなんら意味を為さない >>139
「古代」の「民族」と現代中国におけるそれとでは全く意味合いが異なる
中国人自身の認識・評価とは別に、制度化された現代の「民族」は国民国家・中国の
行政手段の一環であり、個々人の意思や習俗の学習によって変更できるような「生き方」の違いではない 古代中国の話でそれに拘ることには全く意味がない
好きなおにぎりの具は?ときかれて具志堅用高と答える位的外れ 現在アフリカの氏族争い内戦みたいなもんじゃないのか
どうでもいいけど中国の動乱期人口半減とかあるよな
一つの街が異民族か反乱軍によって丸ごと壊滅とかなんかあれ
日本じゃ予想できんな 古代中国の異民族感なんて華夏と蛮夷の二項対立だけ憶えとけばあとはあやふやでもなんとかなる
天下国家の世に国民国家云々はスレ違いも甚だしい 古代中国における民族の概念と
国民国家である現代中国における民族の概念は異なると言う話をしているんだけどなあ 古代中国におけるの話だからどちらにしろしゃしゃり出る意味はない ちなみに同じ国民国家における民族といっても
フランス革命における民族は国民と同義
ソビエト連邦において民族(複数)は世界革命の主体と位置づけられ
連邦は諸民族の共和国の複合体とされた
民族を行政単位とする現代中国のシステムはソ連譲り
文化人類学における民族は現代を代表するものでまた別 民族と言う「言葉」の初出を古典から引っ張り出すのが悪い 唐朝では胡服や胡曲が流行し西域の文化習俗が大規模に移入された
「唐は異民族政権」は最初から古典と合致する意味
漢字圏の健常者は誰も民族という言葉を使う時にフランス革命のことなぞ意識しない 大幅人口減も政府機能の弱体化による戸籍把握能力の低下によるものが大部分だと思うけどな 唐王朝が異民族出身だと指摘したところで怒る左翼なんてどこにもいないけどな
何か左翼について根本的な勘違いをしてる馬鹿がいるらしい ネトウヨさんたちはいつも見えない敵と戦っておられるから 孟知祥は蜀で自立に成功したが
鍾会はなぜ失敗したのか 蜀は攻めていくのも攻め込むのも難しい
条件は同じ
同じだったら外部の側の勢力のほうが巨大になりやすいので
それは巨大な外部勢力に征服されるのは当然
ただ巨大ではない勢力に征服されることもあるけど
それがほぼ独力で征服した桓温 >>151
いや、「中国四千年の歴史」に対して意見を言うと、左翼は怒る
左翼にとって中国は神聖で崇高な存在 そもそも、蜀に限らず、南の勢力が北を征服したケースがほとんどない、
中国の歴史は、南が北に滅ぼされ、北がもっと北に滅ぼされることの繰り返し
例外は、楚の項羽と、明の朱元璋くらいのものか >>158
それはお前のただの思い込み
階級闘争史観と中華民族主義は相容れない全く別のイデオロギー 蜀が西から攻め滅ぼされると言う例はあるが
蜀が東に攻め込んで領土拡大すると言う例てないんじゃない?
蜀から荊州攻めって相当難しいの? >>161
蜀の地方政権が、他の地域に拡大したという例がないだけ
北朝が南朝を攻略するにあたって、まず蜀を制圧し、そこから荊州方面に侵攻するというパターンならよくある 四川盆地は「天府の地」といわれるほど肥沃
でも、そうはいっても、しょせん長江の上流地域だ。
中流や下流は、もっと肥沃な穀倉地帯だから >>158
これはね、よくわかるんだよ
ぼくのかんがえたちゅうごくのれきし
みたいなの披露する奴って単にバカにされてるだけなのに、
否定すんのは反日左翼だ中国の工作員だ
って、大袈裟に反応する 漢代ならまだ秦の都江堰とかで四川盆地は開発されてて長江中下流域よりも豊だったけど、魏晋南北朝期に中下流域が開発されて四川の豊かさが相対的に低下したとかあるのかな
漢代に長江中下流域がどの程度開発されてたのか知らないから妄想に過ぎないけど 宋代には下流が穀倉地帯で「蘇湖熟すれば天下足る」と言われたが、明代には穀物生産が中流に移り、「湖広熟すれば天下足る」と言われるようになった
・・・という、高校世界史で大人気のエピソードもあった
なんで宋代に長江下流で稲作が発達したかっていったら、ベトナムからもたらされたチャンパ稲のおかげ >>166
鮮卑は元々はモンゴル系言語を話していたと考えられるが
人種はモンゴル人とは違うので
言語交替した現在となってはモンゴル関係ない やはり諸葛亮は天下を取るなら
荊州を取り戻すことから始めなければならないな
漢中をぬかれたのは姜維が要塞を削除したせいだから
あの要塞があるかぎり魏も抜けられない
韓信が言ってた北伐が成功する要因が当然ながら諸葛亮の時代にはなかったんだから
まあ蜀漢が天下取れなかったのは荊州を取られた関羽と劉備のせいだな それと
俺が孫権なら
何としても蜀を征服して
災いの目を積むね
万一蜀漢が北伐成功したとしても
そいつらがまた新たな敵になることは確実だし
それなら長江上流を制して完全に南北2分してしまう
自国の防備の弱点となりえる地を他国の領土のままにしてしまうのはよろしくない 蜀だけだと現代風にいうとGDPが小さすぎて無理
平原部の1/10、南部の1/3くらいしかないだろう、兵力、補給が圧倒的に不足
明から清に変わったときのように、平原部が分裂している時しかチャンスはない >>171
明が清に交代したときは、四川省で大虐殺が起きて人口が激減した
日本ではあまり知られていないが、「四川省では、あのときに人間が入れ替わった」と中国では言われている >>171
清側が虐殺したとも張献忠側が虐殺したともいわれてるけど
どっちもどっちだったんかな。 >>174清が虐殺したのは張献忠の残党と異民族で
地元民じゃない >>171
五代十国も五胡十六国時代も明らかに分裂してるんだが
それでも無理だった 後漢人口6000万
魏440万
呉230万
蜀100万
戸籍人口だから正確な数字じゃないけど三国時代で死にすぎ 歴代の王朝が一つの中国路線を堅持しているから
蜀は中国本土とみなされている >>147
その割には、旧来の分断統治の手法採ってるよね。
今に至るロシア・ウクライナの紛争とか。
УССРの範囲は、ウクライナ語の話者の多い紅ルーシ・小ロシアの範囲だけでなくて、ロシア語の話者の多いノヴォロシアやクバニやら、ルーマニア人とロシア人の多いブジャクをひっつけて、
紅ルーシと小ロシアも丸々УССРにはなっていなくて、БССРに罹っているうえ、切り分けにくくゴメリ、ブレストの各オブラスチ(県?)の一部にしていた。
民族・宗門・言語の分布と、自治境界とを一致させないというのは、離反を阻むを常套手段だぜ。
で、離反して分離してしまうと、こんどは統治の不安材料に。 >>166
『河湟有感』の司空圖とか。
唐の支配が及ばなくなった河湟(今でいうと甘粛省南部かか青海省北東部のあたり)で、漢人の家の生まれの子が胡語を繰って漢人の残留者を罵る場面を嘆く唐詩。
で、その司空圖というと、黄巣の乱のドサクサで新羅に逃げて子孫は朝鮮人。
上は王様お姫様から、下は叛徒・流民まで、支那人から他民族に移籍してしまう人も結構居て、その逆もまた少なくなかったわなあ。 >>166
モンゴル系民族に由来するY染色体は漢族圏には大きな痕跡を残していない
Whole-sequence analysis indicates that the Y chromosome C2*-Star Cluster traces back to ordinary Mongols, rather than Genghis Khan | European Journal of Human Genetics
https://www.nature.com/articles/s41431-017-0012-3
https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41431-017-0012-3/MediaObjects/41431_2017_12_Fig1_HTML.jpg >>184
イリ地方ら辺が一番こいのに、なんで矢印の向きがモンゴル東端→イリ地方なん? >>185
なんでって
約2600年前の大興安嶺を起点としたモンゴル系Y染色体の拡散を研究した論文だから >>186
はぁ?
なんで大興安嶺を起点とした前提になってるの? >>187
モンゴルの祖先が大興安嶺に住んでいたからだろ モンゴルだけじゃなくて
チュルク、ツングース含め
アルタイ3系統はみんなその辺が発祥地じゃなかったっけ >>188
じゃあ、なんで、イリ地方の濃いんだよ? 民族を規定するのは言語文化風俗習慣なの
だから、例えば青森と鹿児島は江戸時代なんて言葉も通じてないわけだから、別な民族になっちゃうわけ
逆にアメリカは白人も黒人もラティーノのも黄色人種も同じ言葉話して同じ文化であれば同じ民族になっちゃう
その程度のあやふやなもんだからな >>191
よく両極端のつもりで引き合いに出される青森と鹿児島だけど
基礎語彙を表にすればちゃんと音韻対応しているから
決して異系統ではなく同系統だと分かる
「聞いてわからない」なんていうてきとうな基準じゃ方言か別言語かなんて判別できない >>192
基礎語彙が音韻的に対応したところで、実際に使われてる言葉を機械的に変換できるわけでなし。 言語云々でいうなら両方言の間は方言連続体になってるから別とは言えへんで
むしろ異民族か云々の線引きを考察すべきは琉球諸島の諸方言
沖縄と本土の間どころか沖縄と宮古の間さえもそれと殆ど同等に近い程に離れていて
中間地点は海の上なので連続体も成さない >>194
途切れてるよ。
薩摩弁・都城弁と、人吉弁・日南弁は、双方素で話すと通じない。
鹿児島県県境、一部都城ら辺で宮崎県に食い込んで、言語の分断あるよ。 >>195
言い過ぎ
隣接してるところならある程度の語彙の共通はあるし
訛り方の違いを少し学習するだけで相手方の言葉をしゃべれないまでも聞いて分かる程度にはなる
l
高級語彙を同じ日本風に訛った漢語に依存し、上古・中世日本語を古典語としている時点でその程度の違いは「方言」より大きくなることはない >>193
それは同系であるかどうかとは関係ない
鹿児島弁と津軽弁が「通じない」のと
津軽弁とアイヌ語が「通じない」のでは全く意味が異なる >>196
学習しなきゃあ通じないから別言語じゃん。
日南弁・延岡弁・人吉弁・八代弁、海を跨いで、宇和島弁・足摺弁もそれなりに通じるけど、
薩摩・人吉は、通じないどころか、聴き取ることすら困難。 >>198
そもそも隣接して交流がある時点で語彙の一致率が非常に高いし、文法の差もない(九州特有の形容詞の活用「〜か」で共通)
通じるか通じないかは話者本人のオツムの出来にも依存する絶対的ではない指標なので、実際になん%の人間が理解できるのか統計取ってみない限りあんたの言う事は科学的根拠がない 他は知らんが日本の場合は歴史的に大和朝廷に属してきた地域は大和民族として扱うんじゃねーの >>198
>>191で言ってる「別な民族」っていうのはそのままか
南西諸島には同じ島の中でお互い言葉が通じないような集落がいくつもあるけど
それはみんな一つ一つ別々の「民族」なのか >>198は1と0でしか物事を理解できないアスペガイジやから少しでも違ってたら別言語になると思い込んどるんやろ
どの方言を使うかなんて敬語や男言葉女言葉みたいに一つの言語の中のレジスターに過ぎへん
殆どの要素を共有していて一部だけを変えるんや
標準語と全ての方言(社会方言含む)と古文その他あらゆる変種までも含めて一つの言語と看做されるねんで >>201
スターリン的な定義では、別の民族ですね。
>民族とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された、人々の堅固な共同体である。
>すべての特徴が同時に存在するばあいに、はじめて民族があたえられるのである。
って具合に。
バルト地域のラトビアを例に挙げて、レート人(ラトビア人)、リウォニア人(バルトフィン系)、レフ人(ポーランド人)、バルトドイツ人は、混住して地域共同体を形成して、
ルーテル派キリスト教徒で、祭事も食べてる物も着ている物も殆ど同じで、信仰紐帯・地縁紐帯で仲間意識があっても、家の中の喋りが別なので、別民族と。
チトー的な定義では、それこそ、自己申告なので、各島民が言葉の通じにくい別の集落も同じ民族としての帰属意識があれば同じ民族、帰属意識が違えば別民族。 多言語併用者を考慮してないから破綻してるわ
通じない様な集落といっても互いに独特な表現を排した上層方言で意思の疎通をする訳でそんなもん異民族でもなければ部族ですらない >>204
昔のソビエト時代に、ボルガタタール人とクリミアタタール人とノガイ人とカザフ人がロシア語で会話していた、みたいなの?
どれも北西チュルク語なのに素で喋るとどうにも通じないから、みんなでロシア語。 >>205
それは全く違う言語へのコードスイッチング
同じもしくは極めて近い言語の中のレジスター(使用域)変更とは違う
一々出してくる話が的外れやぞ >>191
黒人英語Ebonicsは発音、語彙、文法からして違うのなんて常識だろ
ヒップホップも知らんのか
ヒスパニックの英語も独特
どっちも人種、食文化など独自のグループを持っていて、文化人類学では別のエスニシティだ
なんでこういうのに限って同じ民族扱いしちゃうようなダブスタかますかな >>204
薩摩弁と日南弁は通じないわー
薩摩弁は日本語の範疇に入れられん位に音韻も語彙も文法も言い回しも違うわー 「日本語」と言う概念をどうしても諸方言の複合体・集合として捉えられない人がいるんですね 各地の方言のうち多くが死滅した現在においては、
方言そのものについてのイメージも貧困になりがちだ
首都圏人が関西弁を「聞き取れる」と思い込んでいるのは、
子供の頃からテレビで毎日のように聞いて「耳が慣れている」からにすぎない
2つの方言の関係として、それがいかに例外的であるかに気付いていない
日本語学校で日本語を学んでいる外国人は、共通語が巧みであっても、
教材にいしいひさいちの大阪弁交じりの漫画を配っただけでパニックを起こす
全然慣れていないから理解できないのだ
予備知識がない他の方言に対する理解度など、本来はその程度のもの
細心の注意を払って聞き取り、文脈から相手の発言の趣旨を推測し、
そこで得られた相手の言葉の特徴を次の聞き取りに生かすという
特別なテクニックを、それでも昔の人は持っていた
そうやって近代の日本人は、出身地が違っていても方言モノリンガル同士で
相互伝達を果たし、社会を発展させてきた
現在の首都圏語育ちはそんな汎用的な能力を培う経験がないので、
僻地に残存する昔ながらの方言を聞くと脳がパニックを起こし、
すぐに別言語だの日本語じゃないだの別民族だなどとわめきだす >>208
申し訳ないが頭の悪さ自慢は板違いなんでNG 蜀は拡張がしにくい
北にも東にも攻めこんでいく事が難しい地形 結局そこよな
中央が乱れてるときは独立しやすいがまとまってくると国力差がいかんともしがたい >>210
>日本語学校で日本語を学んでいる外国人は、共通語が巧みであっても、
>教材にいしいひさいちの大阪弁交じりの漫画を配っただけでパニックを起こす
いや起こさないだろう
文脈から大体意味をくみ取れるしな
中国何て北京語と広東方言では文法からして違う
その点日本の方言は大陸と違って極めて均一的 >>214
だろうってなんや
多分「いしいひさいちの大阪弁交じりの漫画を配っただけでパニックを起こす」って日本語教育者が書いた本かなんかの記述やろ? >>210
>そうやって近代の日本人は、出身地が違っていても方言モノリンガル同士で相互伝達を果たし、社会を発展させてきた
薩摩の大久保利通は、江戸で通訳を雇ってた >>214
文脈からある程度は意味を汲み取れるとしても
全体の意味がわからなくてパニックを起こすんだよ
本で読んだんじゃなくて俺が実際に日本語を教えて体験したことだ
ダニエル・カールみたいな方言のできる外人芸人を見て
日本語の方言は簡単だと思い込んでるのかもしれないが、とんでもない
方言を習得した外国人はその分共通語の習得が遅れるんだよ
あと、外人芸人を見てみんな誤解している事は、
共通語にしても方言にしても、彼らはものすごい時間と労力をかけて
習得しているのに、その流暢ぶりが面白いものだからと影の努力を無視してしまう
彼らの言語能力は例外的なものであり、日本語がそううまくできなくて
苦労している在日外国人は山ほどいる
>>216
相互に交流の少なかった方言の間だと往々にして通訳が必要になる
しかしそのことと時間と手続きをかければ同一言語の方言間の習得は
別言語の間と比べれば比較的容易だということとは矛盾しない 劉邦が成功できたのは
韓信が言っていた
東方への帰還思考が兵にある
三秦は人心離反してる
項羽は匹夫の勇
韓信が言っていた条件がすべて諸葛亮の時代には存在しない
劉備陣営は荊州の知識人によって担がれた政権で
荊州が益州を征服してできた政権だが
その荊州がとられ
夷陵の戦いで大敗してしまい東方への帰還もくそもなくなった
北伐の相手も魏一つだけで固まっている
これでは韓信が諸葛亮の時代にいたとしても北伐は無理 〉〉218
中原に出たいのは荊州の人々だね
益州人は防衛を考えるだけ
やがて独立の理念が弱まり中原に飲み込まれるのも必然か 後蜀の皇帝は安全な立地なのをいい事に無駄遣いしまくって滅んだとか 蜀は漢民族の移住が古代から行われていて
漢民族が多かった
そこがベトナムと違うところ
独立の気配も置きづらい あのあたり肥沃でもなかった
三国志の時代蜀は従軍事体制と、定期的な戦争経済で人口消耗しまくった
だから人口伸びないし、あのカス国家は内ゲバで滅んだようなもん
リアル三国志はマジカス 桓温に征服されたときは
じつは巴蜀と言われる部分の
巴がすでに晋の勢力下だった
桓温はのこりの蜀の部分を
1万人で征服した 鍾会は自立に失敗したのに
なぜ孟知祥は成功したのか 江南の政権は蜀と楚を維持できるかどうかで寿命が決まる
南北朝時代も
蜀征服を許した梁から一気に崩れていって
北朝の征服をゆるした 中国メディア・東方網は11日、モンゴル人が36年かかってやっと手に入れ、
日本人は7年かかっても落とせなかった
「中国最難関」の地として、直轄地の1つである重慶を紹介する記事を掲載した。
そのうえでまず、モンゴル族の侵攻から実に36年もの間耐え抜いたという
エピソードについて言及。南宋時代に北方で台頭したモンゴル族は周辺の有力な国を
次々滅ぼして鉄騎隊を携えて南下、南宋を滅ぼす足がかりとして重慶の釣魚城の攻略にかかったが、
城を守っていた宋の大将・王堅率いる防御軍は数十万の大軍を相手に城を堅固に守り、
36年という時間を流れさせたと説明した。
https://news.livedoor.com/article/detail/15728850/
巴蜀のうち蜀のほうである成都はモンゴル軍は占領できていたんだったか? 中国から見て蜀はミャンマーやタイほど行きづらい
攻めにくい土地ではないから
逆にミャンマーやタイの山脈がもっと穏やかで標高が低かったら
中国領土になっていた
カチン族も中国の民族になっていた >>217
>彼らの言語能力は例外的なものであり、日本語がそううまくできなくて
ええええ????
最近のコンビニ店員ベトナム人とかマレーシアとか東南アジアばかりだけど東北のカッペよりよほど日本語流暢だけど
日本語って音節数があらゆる言語の中でも最小の部類だし世界で最も発音しやすい言語だと思うよ >>237
お前の中の「流暢」のハードルは相当低そうだな
「やりもらい動詞」とそれに関係する格助詞の使い分け、敬語法が合っていたら認めるよ >>239
多少発音怪しくても、日常会話こなせて大学の授業に普通についていける日本語能力あるなら、そりゃ流暢と言ってよかろうよ コンビニ店員はマニュアルに沿って会話してるから流暢にみえるだけだぞ そりゃコンビニ店員になって日本語が本当にうまい人だっているだろう
しかしそれは決して日本語が「簡単な言語」だからではない
その店員がものすごく努力した結果なのだ
日本語が簡単だからその人がうまくしゃべれると思い込むのは、
その人の努力を正しく評価していないことにもなる
どんな人だって努力は正しく評価されたいし、正しく評価されることが励みになるのだ
逆に日本語がうんと下手な店員だっているし、それで客や上司に怒鳴られてストレスを抱えて体を壊す人だっている
それはその人が怠惰だったからだろうか?
日本語は簡単な言語なのに、ちゃんと頑張らなかったから心を病んでいる、自業自得だと責めるべきなのだろうか
「日本語は簡単な言語だ」という思い込みは、多くの誠実な外国人を苦しめている
「日本語は簡単ですよ」と口にする外国人もいるが、そういう人が日本語間違えないかというとそうでもない
単にたくさんミスをしても気にしないように心がけているだけだったりする
「日本語は簡単な言語だ(難しいのは文字表記だけだ)」と言う思い込みは、多くの人の労力の評価をゆがめている 劉邦だってべつに
蜀に途中から来たと言うだけで
蜀発祥の政権というわけじゃないからな 秦に領有されたのがすべての原因だな
これによって
江南よりも先に漢化がはじまった ていうか、蜀に限らず、呉の政権だって、いつも最終的には滅ぼされてるぞ
例外は明朝だけだ 南の精力が北を滅ぼして統一したのは、その一回しかない 北京官話を共通語にしていながら
めぼしい政治指導者は南方人ばかり
北方人どんだけ無能だよ 南北分裂したら、南はますます繁栄し、北は衰退する
金と南宋の時代に、それは歴然とした。
元からあとは、長期にわたって南北朝が続いたことはない 蓁漢帝国までは軍事も経済も北が優位だったが、長江下流の大湿原の干拓が進んでからは、「軍事は北、経済は南」という図式が確立した
経済的に北が南に依存する度合いはだんだん深刻化する一方で、元も清も、南を失ったらたちまち崩壊した 人材も、明清時代には科挙の合格者が南の出身者ばかりなので、ハンディキャップをつけなきゃいけなくなった 蜀を州に換算すると1、2州程度の国力でしかないから。華北や江南に勝てる訳がない。
劉邦が漢中から天下取れたのは項羽に政治能力がないおかげで不満を持った将兵が多数いたから。いくら戦の強い項羽でも戦後に統治ができないなら意味がない。歴史の必然 そもそも本来蜀から天下を取ることが不可能に近くて、項羽と劉邦は例外中の例外と考えるべきじゃないか。
三国志の蜀に至っては劉備関羽諸葛亮皆ぐっだぐだで涼州・関中に進出することすらできなかったんだから話にならない >>260
もともと蜀出身じゃないし
主力兵士や将帥は東から来た人間たちだからね
それと項羽の直轄地はそれほど広くない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A%E6%BC%A2%E6%88%A6%E4%BA%89#/media/ファイル:Eighteen_Kingdoms.png 清朝時代だったか、江南の反乱鎮圧で南下した華北の兵団が
水田の前を通ってるのにどんどん栄養失調で倒れたとか
北の庶民は主食小麦ばかりでコメ食って無かったのだろうか 蜀・四川は山が険しくて人口も少ないし、中原や江南の政権よりも圧倒的に不利だよな。 >>264
意外と都会で人口が多いよね 案外、啓けた地域山奥の方は少数民族が多くて言葉が通じにくそう 捉え方の違いと思うがググると四川盆地23万平方キロメートルだった
日本が38万平方キロメートル
天険というが
中国、ミャンマー国境のような本当に難所ではないから
外からの侵攻にたえられない >>268
凄いですね。そこまで広大なら盆地と言っても
ほとんど平野みたいなもので重慶は大都市だし、山奥のこじんまりとした盆地とは違いますね 成 後漢に滅ぼされる
蜀(蜀漢) 魏に滅ぼされる
成漢(前蜀) 東晋に滅ぼされる
後蜀 宋(北宋)に滅ぼされる
西(後成)清に滅ぼされる 流民を引き連れて建国した成漢も逃亡政権だな
というか異民族 西っていう国Wikiで調べたけど虐殺凄いね
多くの記録で張献忠は残酷な殺戮を好み、「屠蜀(中国語版)」もしくは「屠川」と呼ばれる無差別殺戮により、四川の人口を著しく減じたとされている[1]。1578年(万暦6年)に人口310万2073人[2]だった四川は、1685年(康熙24年)には1万8090人となった[3]。 >>278
>>279
銑梁(617年〜621年)鳳鳴帝(蕭銑)
唐に降伏。「死すべき者は銑のみで、民に罪はなし。殺掠するなかれ」
長安で漸死。 支配域は荊州と益州の半分
陳と対峙した後梁(ごりょう)より遥かに広いのだが教科書では無視されている。 地元の軍隊が弱いんだよな
蜀漢にしても外人部隊政権みたいなもんだし >>277
現在の西南官話が北京の官話とさほど違わないのは
これのせいだろうな。
清代に陝西省方面から再植民したので北方寄りの言葉になったとか。 公務員は、国家公務員が約58.5万人、地方公務員が約274万人 >>1
防御は強いが、攻撃する時に輸送とかでその不利が跳ね返るから 写真を見ると断崖絶壁とかでよく輸送できたなレベル
魏が蜀を滅ぼしたのはわずか3ヶ月だったけど
ショウ会は兵糧の問題で撤退も考えていた
逆に孔明の北伐も兵糧は数ヶ月しかもたなかった 現存の人物との交際だけでは、飽きたらなければ、歴史上の人物と議論せよ。詩歌を暗誦し、書物を読解するだけで、著者のことを知らなくては、どうしてもダメである。その人物の生きていた時代ついて議論することが必要である。これが「尚友」である。つまり歴史上の人物と友達になるということである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています