フランス植民地帝国の歴史
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大英帝国に次ぐ規模を誇ったフランス植民地帝国について
語るスレッドです。 カナダの開発にまつわる話。
人口増をはかるため、1663年から約10年間、王権は「王の娘」という
苦肉の策を取り、おもにフランスの慈善施設に収容されていた
若い女性に王が50リーヴルの持参金を与え、カナダ在住の男性との
結婚を目的として800人ほどを送り込んだ。
カナダに到着すると、彼女たちはなかば強制的に結婚相手の選択を迫られた。
ルイジアナの開発でも、人口資源の不足分は本国からの流刑者、貧困者、
娼婦の移送に頼らざるを得なかった。
結局、フランス領北米植民地の人口は17世紀末で約1万人、18世紀中葉で
約8万人にとどまり、同時期に150万人を超える人口を擁したイギリス領
北米植民地と決定的な差がついた。 アレクサンドロスの大マケドニアに似た印象だな
師範アリストテレス先生にヘレン至上史観を吹き込まれて
アレクサンドロス君は、ヘレニズムを国際的に布教しようとしたんだね
近代思想の本を正すと、ルネサンスに行き着く
ブルボン絶頂からボナパルト帝政まで
沸き上がった啓蒙も、ヘレニズムを理想とした
象徴的なのが自由の女神と近代オリンピック、ギリシア独立支援
地上の神々を蘇生したと
その主神に、一般意志を据えて
アレクサンドロス大王の征服は、根本的な解体要素を含んでいて
ヘレニズムを受け入れた地域には、マケドニア本国と対等という意識が巻き起こる
それで、シリア、エジプトが割拠した
フランス革命と言えば
尚古的国粋主義と国民国家思想の幕開けでしょ
英露を除く、大陸全土を征服した結果
ドイツ(語圏)人にはドイツ人意識
イタリア(語圏)人にはイタリア人意識が芽生えた様に
各地に植え付けた独特の民族意識によって
フランス帝国も、一瞬で解体したと
この自爆で、宿敵ハプスブルクも深手を負うけど 自由優先で、アングロリベラル
平等優先で、共産主義
友愛優先で、ナチズム
今でも生き残ってる 現在の排他的経済水域(EEZ)面積
フランス 11,035,000平方km(世界2位)
イギリス 6,805,586平方km(世界5位)
むかしのフランスが頑張った成果なんだよ ルイ15世が海外植民地の経営に無関心だったせいで
イギリスに決定的な差をつけられてしまった。 イギリスもフランスも海外進出に消極的だったら、今頃凄い人口だったかな マクロン氏を非難 自らの歴史反省を―トルコ大統領
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020091300250
エルドアン氏は、マクロン氏について「歴史の知識を欠いている」と非難。フランスがトルコに
「人間性に関し説教できない」と語り、アルジェリアでフランスが何をしたか、1994年のルワンダ大虐殺で
フランスがどういう役割を演じたか、まず反省を求めた。 世界各地で発生している事件は人種差別主義ヘイトスピーチ国家フランスに対する正当なインティファーダだな。 1929年から33年にかけて、インドシナは旱魃や洪水に襲われた。
農民ははなはだしい窮迫に追い込まれ、これを背景にベトナムの北部諸州で、
ベトナム人兵士の反乱が勃発した。
フランス駐屯軍当局はこれを徹底的に鎮圧し、その弾圧のすさまじさについて、
フランス当局自体が次のように記録している。 「木の柵で囲まれた大きな囲いの中に、茶色のぼろを着た三千か四千の人間が
籐製のざるを持ち、まるで一つの塊にしか見えないほどぎっしりと詰まり、
筋ばった腕を出して揺れながらうごめいていた。どの人間にもあらゆる欠陥と
あらゆる破滅が見られた。……男なのか女なのか、一体彼らは20歳なのか
60歳なのか見当がつかなかった……恐ろしい動物の叫び声を出す憐れな
生きものでしかないのだ。
(空軍士官は)数週間前から、警告など無視して、群衆をすべて爆撃しても
差支えないという許可を受け取っていた。……爆撃の行われた3日後、
その殊勲の現場から戻ってきた飛行士の一人がいっていた。
「臭気は、私が上空にいてさえ病気になる程ひどいものでした……」
この地方の犠牲者は、知られたもの、知られないものを入れて、幾千という
数に達したことが確かめられた。 【マレーシア】マハティール元首相「イスラム教徒は過去の虐殺の見返りとして、何百万人ものフランス人を殺害する権利がある」★2 [ばーど★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1604004429/
マレーシアのマハティール前首相の投稿削除 「フランス人を殺す権利」 [ひよこ★]
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/editorialplus/1604072583/
【イスラム世界】各国政府がフランスで相次ぐテロ事件を強く非難、しかし、怒り拡大 [マスク着用のお願い★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1604099150/
マレーシアのマハティール前首相は29日、ツイッターへの投稿で、フランスが歴史上多くのイスラム教徒を
殺害したとして「イスラム教徒には多数のフランスの人々に対して怒り、殺害する権利がある」と主張。
また、「フランスは国民に他者の感情を尊重するよう教育する必要がある」と訴えた。ツイッターでは
「殺害する権利」に言及した部分が後に削除された。
【国内】姜尚中教授:「日本は、自国の朝鮮人強制連行には口を噤んで北朝鮮の拉致を非難。在日が日本の世論を変えるべき」★5 [12/01]
https://news18.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1165188758/
「拉致は現在進行形の人権侵害」…横田めぐみさんの弟訴え
https://www.yomiuri.co.jp/national/20191214-OYT1T50289/ フランス統治時代のアルジェリアで行われた考古学調査においては、
「すべての遺跡」を当然ローマ人が遺したものとみなすことが広く
まかりとおっていたといわれる。
その結果、長らくローマ人の建造物と信じられてきたある水利施設が
後になって実は13世紀から15世紀にかけてのハフス朝期の農民の手になる
ものであった、また同じくローマ人のものとされていたある地方の
テラス状耕地は実はより後世のもので18世紀中頃まで放棄されずに
使用されていたことが判明した、というような例も報告されている >>15
年代測定の技術が無ければしかたないよね。 アレクサンドロスこの方
啓蒙思想は、膨張傾向になるね シャンデルナゴルとポンディシェルリは本当に花の街だったらしい
最高に華やかな文化が栄えた
ここ落としたのは痛かったな 変見自在/民族は憎悪する
◆高山正之/ベトナム戦争、カンボジア、ポルポト派、朝日新聞、フンセン、ミャンマー、キリング・フィールド、スーチー政権
週刊新潮(2021-04-15), 頁:130
https://www.zasshi.jp/pc/action.php?qmode=5&qword=%E9%80%B1%E5%88%8A%E6%96%B0%E6%BD%AE&qosdate=2021-04-08&qpage=6
https://ameblo.jp/memekuromaya/entry-12668155536.html
変見自在 高山正之
惇郎の躊躇ためらい
https://ayacbm.exblog.jp/28351391/
植民地経営代理人(覚書)『変見自在 スーチー女史は善人か』 高山正之
http://jhfk1413.blo▼g.fc2.com/blog-entry-2537.html
http://www.kushima.org/?p=10787 >>3
それはそうなんだろうけど、わずか数千人のフランス移民の子孫が現在人口800万人のケベックのマジョリテイを占めてるってのはすごいと思うよ https://www.afpbb.com/articles/-/3367116
マクロン氏、「アルキ」への冷遇を謝罪 アルジェリア戦争で仏に協力
2021年9月20日 21:38 発信地:パリ/フランス [ フランス ヨーロッパ アルジェリア 中東・北アフリカ ]
【9月20日 AFP】フランスのエマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)大統領は
20日、アルジェリア国民が宗主国フランスからの独立を求めて戦った1954〜62年のアルジェリア戦争で、
フランス側に協力したアルジェリア人兵士「アルキ(Harki)」を冷遇したことについて、国家を代表して謝罪した。
フランスの植民地だったアルジェリアの独立戦争では、現地の20万人以上がフランス軍に協力して独立武装勢力と戦った。
しかし終戦時にフランス政府は、先に保護を約束していたアルキをアルジェリアに置き去りにした。
取り残されたアルキの多くは、独立後のアルジェリアで凄惨(せいさん)な報復の対象となり、虐殺された。
フランスに逃れることができた人々も、その多くが家族と共に収容所に送られ、心身をむしばむ劣悪な環境での生活を余儀なくされた。
マクロン大統領は、アルキとその親族ら約300人を招いてエリゼ宮(Elysee Palace、大統領府)で式典を開き、アルキへの感謝を表明。
さらに、フランスは「アルキやその妻子に対する義務を怠った」と認め、「私は許しを乞う。われわれは忘れない」と述べた。 フランスはアメリカ大陸に多くの植民地を持っていたのに、最後は、ほとんど放棄してしまった。もったいない。 プラッシーの戦い
七年戦争中、1757年6月23日にインドのベンガル地方の村プラッシーにおいて、 イギリス東インド会社の軍と、ベンガル太守(ムガル帝国の地方長官)及び後援するフランス東インド会社の連合軍との間で行われた。
イギリス東インド会社
ヨーロッパ兵750人
インド人傭兵2,100人
砲兵100人
大砲8門
戦死者22人
(ヨーロッパ兵5人とインド人傭兵13人)
負傷者50人
(ヨーロッパ兵15人とインド人傭兵30人)
ベンガル太守
フランス東インド会社
歩兵7,000人
騎兵5,000人
(シラージュ・ウッダウラの軍)
歩兵35,000人
騎兵15,000人
(ミール・ジャアファルの軍)
大砲50門(43人のフランス兵)
死傷者500人 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています