なぜ神聖ローマ帝国をフランスは併合しなかったのか
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神聖ローマ帝国はフランス語圏を領内に含んでいたが結果的にその殆どをフランスに奪われ
結果的に独仏の国境は(厳密には違うが)ゲルマン系とラテン系の民族境界線となった
両者の間には自然国境はなく、フランスが全ドイツを併呑するという道も有りえた
けれども、双方とも同じフランク王国から分裂したにもかかわらず再統合されることはついぞなく
フランスは神聖ローマ帝国の領土を少しずつ削っていくだけで、ナポレオンすらもドイツの大部分を併合することはなかった
一体何が独仏の統合をここまで拒ませ続けたのだろうか?
前スレ:
なぜ神聖ローマ帝国は分裂しフランスは統一したのか
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1583939853/ いったん中央集権やっとかないと国民国家意識が芽生えないからね
近世以降はすごく重要なこと
イスラームの惨状みるとつくづくそうおもう >>635
独立勢力じゃないよ? 徳川本家に、内大臣以上の官職で内政権利を、征夷大将軍として武官の任免権を与えられてる。
だから、大名は、削封や転封や改易があるし、代替わりごとに誓詞を出して封土の安堵を受ける、言い換えたら、封土の統治権の分与と武官としての任官を受ける。 >>641
しかし幕府には藩政への直接介入権はなかった >>641-642
これを合わせると、欧州よりは中央集権度は高いが、典型的な封建制度の成立を見ることができる
通説通りの話だな
フランスの封建制度は、ブルボン朝の成立をもって事実上終止符が打たれるが(王政府における中央集権が固まる)、
ドイツはヴェストファーレン条約で終止符が打たれる(領邦国家の主権が事実上認められる)という、対照的な結論
に至るのは面白いな >>642
介入権が無いのではなくて、幕府の自由意志による施政方針として、「家中は大君の与るところに非ず」(大名の領地経営に幕府は責任を関与しない)。
但し、お家騒動や百姓一揆が起こると、改易や削封や隠居命令や転封が行われた。 >>644
改易転封は「直接介入」じゃないよ。
幕臣が直接藩政を指揮したことはないし、各藩邸は現在の大使館のような扱いで奉行所などは直接踏み込めなかった。
現実としてやっていなかったことなのに「施政方針としてそうしていただけだ」とこだわるようだけど
それと「権利として認めていた」というのの差はどこに?
明文化してなくても世の中には慣習法というものがあるからね。 >>645
一機が起こる → 統治が巧く行ってない → 改易(お前らの藩はお取り潰し)・隠居(代替わり)命令、削封(大きな藩は納められないんだろ)、転封(別の大名に治めてもらう) 幕府が強い力行使できたのも強力な外国勢力と接してなかったからじゃね
神聖ローマは皇帝自体の領土はオーストリアとボヘミアで帝国内の3割を占めてさらに帝国外にハンガリーをもってたが
さらに巨大な国家フランスが横にいて介入してくるから諸侯も強気で反抗してきて譲歩せざるを得なかった
まぁ幕府は直臣領も含めると国内5割だったけど最後は親藩の尾張に裏切られるからな >>647
紀伊にも彦根にも裏切られてるあたり、当時の時勢というのがあったとしか思えん >>647
実際に強力な外国勢力が船で乗り付けてきたら、めっちゃ揺らいで、中央集権的な明治政府に取って代わられてんじゃん廃藩置県じゃん。 >>622
> 6世紀のユスティニアヌス皇帝とかちゃんと本領回復してたよ
むしろローマと仲違いしてローマを失いかけた人だけどな そもそも西ローマはその領域に12世紀までローマも
含んでるから前提が間違ってる
名称が神聖ローマ帝国になった時代以降だけを話してるなら別だが ナポレオンが実質併合してたじゃん
でもナポレオン倒した連合が国がでかすぎるからってまた分けた
そしてフランスも消さなかった。バランスとるために >>620
コンスタンティノープルの正式名称は新ローマ
4世紀以降はここがローマだ ビザンツ人ですらローマと言ったら西側を意味したからな アラブ人トルコ人ペルシャ人にとってローマといえばコンスタンティノープル以東だが それよりも、何故デンマークやらハンガリーやらクロアチアやらトランシルバニアは併合されてなかったの?
結構な時期、神聖ローマ帝国に本領を持ってる王家が支配していたよね >>657
デンマークは逆
デンマーク王(中世は強国)が帝国内の諸侯位を持ってる形
スペイン領ネーデルラントみたいなもん
ハンガリーは中世中期まで帝国に伍する大国で、王が誰であろうと諸侯の力が強く、帝国に併合とか夢のまた夢だった 神聖ローマに入るにはハンガリーやデンマーク側の王や貴族連中が神聖ローマに入る合意の意思表示をして
神聖ローマ側の貴族たちが受け入れを認めるって条件じゃないかな
ボヘミアやブルグンドを後から参入したけどハンガリーやデンマークは入る気なかったんでしょ
デンマークは帝国内のオルデンブルク家、ハンガリーはハプスブルク家、ポーランドはザクセンのヴェッティン家が継承したけど
帝国に参入する流れはなかった
フランスは30年戦争で獲得したアルザスを通して帝国議会に参入する気まんまんだったけど帝国貴族が拒否した結果アルザスは帝国から除外された
もちろんフランスはアルザスだけ帝国内にとどめておくつもりでフランス全体を帝国にいれるつもりはない
ルイ14世がプファルツ選帝侯位やケルン司教領を臨んだのも帝国議会にフランスを参加させて帝国内で影響力増大をはかったというところかな デンマークの場合帝国内にあるオルデンブルクは分家が継承するが途中で断絶するから17世紀後半にデンマークのものに
同じ帝国内にあるホルシュタインは分家2つとデンマーク王家で分割しててややこしい
スペインやイギリスも帝国内の公家と同君連合はある
フランスは分家が帝国内の公家になることはあるが王家の同君連合はない
アンジューヴァロア家が断絶した時プロヴァンスを勝手にフランス王国に編入したのもイタリア戦争で最終的に認められる 帝国から王様かりた国も帝国の一部
ってやったら、1000以上かかって再統一できないみたいな
万年戦国時代でもなかったろうにな フランスの方が人口多いのにどうやって併合するんだw 推定人口見る限りイタリア抜いても長期にわたって帝国の方がやや多い感じ
ttps://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_population_in_1500
ttps://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_population_in_1600
ttps://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_population_in_1700
ttps://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_population_in_1800
1800年はフランスの方が多いがナポレオン帝国なんでフランス部分だけだとハプスブルク領イタリア抜きの帝国より1000万以上も人口少ない
ttps://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_population_in_1000
西暦1000年ぐらいだとイタリア抜きのドイツより人口が多い
中世末期以降は30年戦争期をいれても帝国の人口が安定してでかい
経済力もドイツとフランスは経済史の本で中世から現代まで一人当たりGDPも似たようなもんだし
遺伝子検査でもドイツとフランスは近縁で同属グループに分類されるし
言語は違うがドイツとフランスは兄弟国家 フランス人が遺伝的に一番近いのはスイス、オーストリアや南ドイツと
ちょうど古代ケルト文化(ラテーヌ文化)の地域とかぶる
次に近いのがスペイン人でイタリア人とは結構遠い
イタリアはアルプスのせいか遺伝的に他の欧州地域と遺伝的に離れてる
ローマがあれほど拡大したのだがローマ人はほとんど現地人と交わらないか任務が終わったらさっさとイタリアに帰ったんだろう >>664
ガリア・キサルピナって、ルビコン川からアルプスまでローマ本国に編入されたケルト地域あったじゃん。 >>665
ケルトと言っても遺伝的一体のグループじゃないからね
アイルランドのケルトも遺伝的には遠いし
ただケルトの中核地だったハルシュタットやラテーヌなどアルプス以北の地域は遺伝的に近縁グループが形成されている
ttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/1/16/Hallstatt.png >>89
クメール人が統一しかけたが、
その後侵入してきたベトナム人とタイ人と
ミャンマー人はそれなりに全部大勢力だもんな
プロイセンが台頭する前のドイツと同じで
一強になりにくい 余程の物理的障壁が存在しないのならば、時間がありゃそのうち統一するようなもんだと思うんだがな〜
日本の戦国時代だって信長→秀吉→家康という流れで統一したし、
中国だって群雄割拠の時代があっても始皇帝や楊堅や趙匡胤が統一した訳だし。 >>670
インドは英国が進出するまで統一しなかったし、北アフリカも統一してる時期の方が短い >>670
よほどの物理障壁だらけのペルシャは割かし政治的に一まとまりになっている期間が長いし今のイラン国もそうだよな。
向かいのジッジーラはこれといった物理的障壁が無いのに、むしろ障壁たるネジドの砂漠が唯一の統一箇所って感じだよな。 フランソワ1世がカール5世に皇帝選挙で勝っていたらフランスに併合されて新フランク帝国が誕生していたかも知れん ブルグンド王国とブルグンド公国とブルゴーニュ自由伯(フランシュ・コンテ)の違いについて教えて下さい
ワイン等で有名なフランスのブルゴーニュ地方とは現在のフランシュ・コンテに相当すると思うのですが、ブルグンド王国やブルグンド公国のあった地域はブルゴーニュ地方には含まれないのでしょうか? ブルグンド王国はプロバンスやドーファンも含まれる
ブルゴーニュ公国とフランシュコンテはブルゴーニュだよ ブルゴーニュ公国はフランス王国に含まれてて
ブルゴーニュ伯国はブルグンド王国に含まれてて
どちらも地域としてはブルゴーニュ ブルゴーニュ公
・ボゾン家(アルデンヌ伯家)
リシャール (898年 - 921年)(正義公)
ラウール (921年 - 923年)
ユーグ黒公 (923年 - 952年)
・ヴェルジー家
ジルベール (952年 - 956年)
ユーグ大公 (956年 - 956年)
・ロベール家(カペー家)
オトン (956年 - 965年)
アンリ1世 (965年 - 1002年)(偉大公)
・ブルゴーニュ=イヴレ家(イヴレーア家)
オット=ギヨーム (1002年 - 1004年)
1004年 - 1032年フランス王国に統合
初代のリシャール正義公の兄はプロバンス王ボソ(キスユラブルグンド王)
ブルグンド自由伯
・ブルゴーニュ=イヴレ家(アンスカリ家)
オット=ギヨーム(986年 - 1026年)
ルノー1世(1026年 - 1057年)
ギヨーム1世(1057年 - 1087年)
ルノー2世(1087年 - 1097年)
エティエンヌ1世(1065年 - 1102年)
ルノー3世(1102年 - 1148年)
ギヨーム2世(1097年 - 1125年)
ギヨーム3世(1125年 - 1127年)
ベアトリス1世(1148年 - 1184年)※皇帝フリードリヒ・バルバロッサ妃
1184年以降はホーエンシュタウフェン家が相続 初代ブルグンド伯のオットー=ギョームの母ジェルベルガ・ディ・マコンよりのちのブルグンド自由伯領となるドル付近の地を相続(986年)
ジュルベルガはイタリア王アダルベルト2世(オットー=ギョームの父)との死別後はフランス王ユーグ・カペーの弟ブルゴーニュ公アンリ1世と再婚
アンリ1世には男子がいなかったためジェルベルガの継子のオットー=ギョームが後継者となるとなるが、ソーヌ川左岸のブルゴーニュ公領を巡りフランス王ロベール2世と抗争、結果ブルゴーニュ公国は1004年にフランス王ロベール2世によりフランス王領とされた
その一方でオットー=ギョームは1016年、ブザンソン大司教の叙任を巡り、ブルグンド王国(ユラブルグンド王国)最後の王ルドルフ3世と争うが、王と皇帝ハインリヒ2世はストラスブールで会い、交渉の末皇帝はルドルフの後継者になることに成功し、次いで皇帝はオットー=ギョームに対し軍を派遣し、オットーをはじめとするブルゴーニュの貴族はそれに服従する
ハインリヒのブルグンド王国継承は1018年のマインツでの議会で確認され、ブルグンド自由伯領は以後神聖ローマ帝国の支配下に入ることとなった >>672
ただし現代のイランは40%が少数民族の多民族国家 >>681
民族は政治的なまとまりにあんまし関係無いよ? 神聖ローマなんて名前だけの帝国
EUみたいなもんで、国家としての力はない 神聖ローマ帝国はほとんど今のドイツ
当時はフランスの方が先進国で後進国のドイツに魅力がなかったのでは ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています