結局中国で1番偉大な王朝ってなんだと思う?
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
>>5
中国史は日本人にとって、教養だからな。
唐。
人種差別とかあんまり無かって、阿倍仲麻呂とか登用されているし、あの超有名な李白とも親交があったというし。 世界史的に、東アジアの最盛期がモンゴル帝国なのは確実
清朝がそれに次ぐ 大元ウルス。
国家として目指した次元が他の王朝とは全く違う。 >>3
突厥や吐蕃、ウィグル、アッバース朝アラブに頭が上がらなかった唐は余りにも弱い。 唐朝は安史の乱で全く別の国に変貌。
一説には乱で唐の人口の3分の2が失われた。 確かに、「唐の前期」と「唐の後期」が中国史上最大のターニングポイントという声もあるほど 唐の勢力のピークは668年高句麗を滅亡させた頃じゃない?
670年、678年、689年、696年に吐蕃に対し4度の大敗するし、
吐蕃戦の最中に新羅が反抗してきて、675年に朝鮮半島から撤収。
明らかに落ち目。
755年からの安史の乱より数十年早くから勢いが後退してるんじゃないかな?
日本が不運なのが、663年白村江の戦いで唐が最も強い時期だったこと。
もう少し後だったら唐相手に善戦できたかも。
でも敗戦国らしく素直に唐の制度や文化を受け入れて、
日本人にとって唐こそが最も偉大な文明国と認識するようになった。 >>19
まあ戦後唐に占領されて云々は反日阿保学者の妄想に過ぎんけどな
しかし日本の歴史学者ってマジですげえな
日本貶める内容ならどんなゴミクズな内容でも受け入れられるんだから みんな宋はどう評価してる?
文治主義、平和をカネで買っていた時代。 >>21
領土が縮小してばっかりで地味。
派手さに欠ける。
でもモンゴル軍が長期にわたって攻めあぐねた強靭な防衛力を持ってた。
最期にクビライの戦略に屈したが、
占領時にモンゴル軍らしい都市破壊や大虐殺がほとんど発生してない。
中華文明を尊重するクビライの方針のためだが、
反感を買って宋軍の戦意を高めることを恐れたからでもある。
宋の軍事力は侮れない。 「日本は遣唐使を送って、唐から先進文明を学びました」というのは、
明治維新からの欧米キャッチアップのイメージと重ねすぎのように思う
実際には、日本人が唐で最も熱心に学んだのは、加持祈祷とか易占だった
長安では、「日本人が来ると仏典を全部、買い漁って持っていってしまう」という評判だった
確かに法律とか技術とかも学んだけど、それだけじゃ命懸けで海を渡れない。
真の原動力は宗教的情熱 たとえば、初期の遣隋使で、帰国してから国師待遇だった旻は、こんな人
↓
推古天皇16年(608年)遣隋使小野妹子に従って、高向玄理・南淵請安らとともに隋へ渡り、
24年間にわたり同地で仏教のほか易学を学び、舒明天皇4年(632年)8月に日本に帰国。
その後、蘇我入鹿・藤原鎌足らに「周易」を講じた。
舒明天皇9年(637年)に流星が現れた時には天狗の吠え声と主張し、
舒明天皇11年(639年)に彗星が現れた時には飢饉を予告するなど、祥瑞思想に詳しかった。
皇極天皇4年(645年)乙巳の変ののちに、高向玄理とともに国博士に任じられ、大化5年(649年)高向玄理と八省百官の制を立案している。
翌大化6年(650年)に穴戸(長門)国司草壁醜経から白い雉が献上されると、その祥瑞を説明したことにより、白雉と改元された。 僧ビンが隋に何十年も留学して学んできたことは、確かに法律とか国家体制のこともあるけれど
それ以上に、「彗星の吉兆」とか、現代人から見たらオカルトの領域を深く学んで帰ってきた >>25
現代人の価値観で考えるべきじゃない。
18世紀の科学者アイザック・ニュートンだって、主な関心はオカルトにあった。
昔の人にとってオカルトは大きな位置を占めてる。
古代の帝国は占いや祈祷で動いてるわけで、
祭政一致の世界だよ。 >>22
宋は専守防衛ならメチャクチャ強かった
でも攻勢に出るとボロボロ >>27
火薬兵器の実戦使用は宋が最初だよね。きっと。
元朝になって銃や大砲の形になった。 >>27
武人の地位を大幅に下げた。
「良い鉄は釘にならず、良い人は兵にならず」 >>1
一理あるな
征服地が最大化したしな
他にも例えば、人口を激増させて巨大な国にしたってのもあるね
これはな、漢民族には女児が産まれたら間引きするという習慣が広くあってそれが人口増加を抑制してた面があるらしいんだが、満洲族の清はこの風習を野蛮なものとして嫌悪して徹底的に禁止したので清の時代にあの人口爆発が起こったらしい 宋が専守防衛なら強かったけど攻勢に出るとボロボロなのは
結局、城塞の防御力頼みで軍は弱かったていうことやな >>19
歴史にはパターンがあって
中国は嶺南より南に攻め込むと結局は上手くいかなくて撤退するのと同様
日本は朝鮮や大陸の勢力に友好的にせよ敵対的にせよ
深く入り込むと大きな打撃を受けるというパターンがある
一時的にうまくいったにせよ結局失敗する >>30
人口増加の引き金は税制改革。
人頭税が多いと間引きたくなる。 >>31
皇帝直属の禁軍だけは精鋭揃いで装備も充実。
その他の軍団の質が落ちる。 >>32
単純な兵力や人口での比較では
満州人より日本人の方が遥か上だと思うが、
大帝国を作ったのは満州人で、
日本人には無理やったな。 >>35
海越えの侵攻は無理
ノルマンコンクェストみたいなまともな政権が存在せず群雄割拠状態のときなら可能 日清日中戦争では海越えはできたが
結局大被害で撤退した >>36
明朝滅亡後の南明が日本に軍事支援を要請した日本乞師の頃だったらチャンスがあったと思うが、
江戸幕府が断っちゃう。
あれが漢人の支持を受けられる大陸進出の大義名分が成立する唯一の機会だったんじゃないか?
せめて鄭成功に協力しようよ。
乗り気だった親藩に対し、頭の硬い老中たちは内向き過ぎる。 大和高句麗戦争では高句麗に敗退
白村江で唐、新羅に敗退
朝鮮出兵で明朝鮮に敗退
日清戦争ではかって大陸に進出するも大戦で敗退
学習しよう。大陸には友好的にせよ攻めるにせよ深くかかわってはいけない >>37
大陸情勢に無知で、簡単に勝てると錯覚してた。
島育ちなんで大陸の広さや人口の大きさを理解できず、戦略的思考が苦手。
個々の戦闘では強いが、結局は重慶まで進軍できずに息切れ。 加藤清正がオランカイの女真人と戦闘したことがある。
戦闘自体は清正軍が圧勝だったが、
清正は
「あいつらかなり手強い。ここを突破するのは無理。」との旨の報告を提出した。
一方、別系の女真族の長ヌルハチは明や朝鮮側に参加を申し出たが、断られた。
ヌルハチと清正の戦闘は起きず。 >>40
> 大陸情勢に無知で、簡単に勝てると錯覚してた。
> 島育ちなんで大陸の広さや人口の大きさを理解できず、戦略的思考が苦手。
> 個々の戦闘では強いが、結局は重慶まで進軍できずに息切れ。
それは、ロシアに攻め込んだナポレオンのフランス軍や、ヒトラーのドイツ軍も同じ >>39
清朝のように漢民族を味方にしないと難しい。
満州八旗自体はそんなに強くなく、
漢土の征服事業の大半は味方についた漢人部隊が担ってた。
日本が漢民族の支持を得る可能性があったのは南明の要請が来たときだけだと思う。 >>30
清末に弱体化しつつも、ウィグルを失うことなく中華民国、人民共和国に引き継いだ。
特にウィグルのヤクブ・ベク独立政権を倒した功績は大きい。
ヤクブ・ベクに英国とロシアが支援していたのにも関わらず、これを破った。
イリ条約でロシアと国境の合意を取り付け、
新疆省を設置して、中国史上初めてウィグル地域を完全に内地化して統治。
地域の首長に自由にさせてたのをやめて、完全に中国化。 大陸や半島に勢力を広げるのは、別に間違っていない
ただ、内陸の奥にまで攻め込むのは極めて愚か >>45
倭寇が荒らした地域だけに進出すれば良かった。
倭寇は大陸進出の先鞭で、価値があった地域のみで活動。 イギリスは、よほどのことがない限り、内陸の奥まで攻めていかない
だから、あれだけの海洋帝国を築くことができた >>47
内陸のアフガニスタンで失敗してるし
もう内陸は懲り懲りやろ 明も清も海禁しないで、
海洋国家を目指すべきだった。 中華思想の根幹から言うなら伝説的王朝の夏
文化で言うなら漢か唐とかじゃない?
でも唐は漢民族というより漢民族を自称した鮮卑系異民族の立てた王朝だと思う。 「中国」という概念を確立した秦だな
と言うか始皇帝 >>38
南明の福州陥落でこりゃ駄目だと判断したからだろ。
もう少し南明が良く纏まって要衝となる拠点押えていれば、
浪人を棄民する手段として使ったかもな。 >>43
あとモンゴル族をと同盟関係だってのも大きいな。
清末期に正規軍の八旗な緑営が弱対化しても、
センゲリンチン率いる蒙古八旗はアロー号戦争で、
英仏連合軍を一度は撃破した。 >>23
加持祈祷のために仏教・易占のついでに風水→建築様式
呪具法具を輸入、模倣するために、螺鈿、木工、陶工、染色の技術
薬草・染料の使い方を習うついでに、種苗・栽培法も導入、ついでに、野菜果物も導入。 >>55
明の方が有利。
永楽帝が余程のヘタを打たない限り、
明軍50万人はひらすら守りに徹するだけでいい。
チムール・北元連合軍は勝たないと先がないが、
明は勝つ必要はなく、負けないで我慢するだけでいい。 >>56
> チムール・北元連合軍は勝たないと先がないが、
>
なぜ? >>57
遠征する側が補給面で不利。
同じ理由で永楽帝が何度も北元を遠征攻撃してるが、
補給が続かないので中途半端で終わってる。
まして遠征側は一度大敗したら撤退するしかない。 だから、ティムールは羊の大群を連れて、
民族移動するくらいの規模で遠征した >>59
永楽帝なら機動力の劣る羊の大群を襲わせそう。 >>53
清朝は名実共にモンゴル帝国の後継。
皇帝は同時に大ハーンの称号を持つ。
康煕帝なんかモンゴル語を話せた。
実は明朝もモンゴル要素が大きい。
初代洪武帝麾下に投降したモンゴル部隊が活躍してた。
そもそも中央地方の官制は元朝をそのまま引き継いでる。
永楽帝になるとますますモンゴル色が強くて、
永楽帝は順帝トゴン・テムルの実子でモンゴル人だった伝説が生まれてる。
明代の北京住民の10人のうち1人はモンゴル人かもしれない。
長らく明軍の主力は投降モンゴル将兵の子孫だった。 >>52
秀吉の朝鮮出兵の痛手が大きくて、
海外派兵する気にならなかったんだと思う。
確かに参戦するにもどこに味方するか見極める必要があるな。
見込みがない勢力に味方したら大損害。
白村江の戦いなんか、百済残党が内部抗争でガタガタになってて、
倭国軍は百済復興軍の協力を当てにできなくなっていた。 つーか守る方なら元寇でも応永の外寇でも現地兵だけで勝利できるからな
兵站限界線までならあっという間に攻め込めた秀吉の唐入りは強さ比べなら圧勝の類い
応永の外寇で攻めてきた利氏朝鮮軍二万は対馬の600人に敗走したくらいだし >>60
> 永楽帝なら機動力の劣る羊の大群を襲わせそう。
広大な大陸では、それが難しい
永楽帝は、広大なモンゴル高原に打って出た中国史上でも珍しい皇帝だけど、
漠北の広さと変幻自在な遊牧民の動きを捉えきれず、結局は勝てなかった 永楽帝は稀有な存在だな。
圧倒的兵力と物量の建文帝中央軍を4年掛けてついに打ち破る。
靖難の変は普通はありえない偉業。 >>47
シッキムやネパールやカシミールをインドと別枠の保護国にしていたり
アフガニスタンをペルシャから切り離して属領にしたり、
フランスと共同統治のエジプトから、全く内陸のスーダンを攻めて、且つ、
アフリカの南端のケープ植民地からボーア人の国を侵略、沿岸部のポルトガル領、ドイツ領、フランス領、ベルギー領を避けるように
ボツワナ、ローデシア(ジンバブエ)、ザンビア、ウガンダ、ルワンダと攻め取ってようやっとこケニアで海に至ってる。
イギリスが海辺しか獲ってなかったのは、既にほかのヨーロッパ勢が取ってしまったところを避けたか、アラビア半島のような、
在郷勢力がそれなりに強かったところだろ。
北米は、ニューイングランド諸州が離反してアメリカ合衆国が独立してしまった以外は、既にフランス系の住民が多数いたケベックも
対仏戦争で獲得以降も西進を止めず太平洋岸に至るまで獲得しているだろ。 >>65
王族間の内紛で国を割っての戦争なんてよくあることだろ。
チャイナでもしょっちゅう。
親和のような上古の周なんて統一状態の方が少ないくらい。
日本なら、壬申の乱に南北朝(応仁の乱)
イギリスだと、薔薇戦争とか、
王朝が交代して別の国になったみたいな扱いのイスラム帝国のウマイヤ朝とアッバース朝も王族の内紛だし。 >>67
明、清では唯一の簒奪成功例じゃない?
皇帝権力が絶大になって、反抗してもすぐに潰される。 明も後半はモンゴル人に圧されまくっていたから
偉大な王朝とは言えんやろ >>69
事実上、明初から北元と天下を二分してる「南北朝」時代。
モンゴルを滅ぼして明に交代したというおとぎ話が明朝公式史観なので、
蒙古と呼ばずに韃靼と呼んだ。
実態はモンゴルであり、元帝国。 >>70
モンゴル帝国の見解では、
遼・金が支那の正統王朝、宋は離反地帯、元はモンゴルの大汗が支那皇帝を兼ねている植民地だったげ、
清の見解では、明と北元とどっちが支那の正統王朝なん? >>71
清は明の後継として北京に入城したのだから、
明を中華正統としてるだろ?
但し、北元の玉璽を受け継いでるんで、
対モンゴル的には北元もモンゴル正統とする。
清皇帝は漢民族に対しては中華皇帝であるが、
モンゴルに対しては大ハーンとなる。
清は民族別の君主号を使い分ける同君連合。
しだいに中華色が強まるが、
一応は公式行政文書を漢語、満洲語、
モンゴル語、チベット語、ウィグル語で併記する多言語多民族連邦。
ちなみに漢人一般が満洲語を学ぶことを厳禁し、、
満洲語文書を機密文書みたいにしようとしたら、
満洲人自身が満洲語をしだいに忘れてしまった。 もう正統「清史」は編纂されないのかなあ・・・
共産中国には無理だろう >>74
満洲族の氏族名を持っていれば女真族系の満族なのでは。 明朝は北元との第三次南北朝時代
南北統一を実現したのが清朝 >>72
ホンタイジが北元の大汗からモンゴル帝国の御璽を得て自己判断でハンバリクに入城することができるようになり
公然と武装して離反勢力(明、順)を鎮圧する行動に出た
という解釈もあるわけで。 北宋以後のの漢民族王朝は北方勢に対して分が悪いね
最後に真に全土を乗っ取られて辮髪を強いられてしまったorz・・・ 北宋も、北朝が漢民族の諸王国を征服してできた王朝だが? >>75
1740年に漢人八旗の中で、タイ・ニカン(台尼堪)、フシ・ニカン(撫順尼堪)が満州八旗に転属した。
氏は漢名のままだったりする。
英語版wike 満州氏族一覧
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Manchu_clans
の(of Han Chinese Tai Nikan origin)となってる氏族名がそう。 >>82
> でも中国化している
> 唐もそうだけどね
それは、「まあ、中国人がそう主張するのだから
そういうことにしておこう」という問題 一番偉大な王朝は清でいいと思うが、
清末のグダグダと貧困化の印象が強くて、
清だと言い切る自信が持てない。 >>73
漢語で編纂される史書は漢族視点に偏る。
満州語は死語でやむを得ないので、
モンゴル語かチベット語、ウィグル語で記述すべき。 >>84
末期がそうならなかった王朝ってあるの?
あったとしても国力弱すぎてグダグダする間なく滅びただけでは? ワンパターンだな。
王朝創成期は発展途上で景気が上向きに転じる。
絶頂期を迎えると景気後退に転じる。
グダグダになって末期。
創成から滅亡までの寿命は200年。
その繰り返しを二千年。
ただの景気循環で、進歩がない。
王朝創設者、最繁栄者、亡国者の名前を暗記すれば歴史のテストはok。
単調過ぎる。 >>87
清が最後の王朝で
グダグダに関する史料が大量に残ってて、
グダグダが現代まで影響を及ぼすのでイメージが悪い。
古代の王朝だと、史料が少なくて、想像で補う部分が多く、美化されやすい。 革命新政権は革命前を貶めることに躍起になる。
実は革命後の方がグダグダだったりするが、それは必死に隠す。 グダグダになる時は宦官が宮廷を専横するようになってるのがお約束 >>93
そんなの東洋史学専門かマニアじゃなきゃ無視するよ。
一般には東アジアでは政治制度が専制政治に固定されたまま、
古代から現代に至るまで歴史的進歩がない「アジア的停滞」だと思われてる。
モンテスキュー、ヘーゲル、マルクスなんかのアジア停滞論(theory of Asiatic stagnation)は根強い。 >>92
清は宦官を抑えていただろう。
宦官の専横は起きてないはず。
明での悪弊を教訓にしてた。
それでも宦官を廃止できないのが、
王朝政治の限界ではある。 清は西洋に敗れただけ
だがそれは従来の中華史観を根底から覆した
清の国内管理や周辺異民族対策はしっかりしていたが
冊封体制以外からの侵略は想定外だった >>97
西洋からの挑戦がなくても清は衰退期に入ってたよ。
人口増加に生産力が間に合わなくなっていた。
一人当たりGDPがあれよあれよと低下。
食えなくなった人々が海外移民となった。
国内移動も起こり、
満洲に漢人が入ることが解禁されると
続々と入植し、あっという間に漢族の土地になってった。 西洋が勃興したのは200年ばかりのこと。
アンガス・マディソンの推計(異論はある)によると、紀元 1年から1800 年あまり、
中国は世界の GDP の 25~30%を占め続けてきた。
世界経済のトップランナーだった。
1820年以降、中国が世界の GDP に占めるシェアは急速に低下、
1950~1973 年は 5%程度まで落ち込んだ。
清末からの衰退は悲惨で、低賃金に甘んじる低身長の苦力の姿が中国人のイメージとなった。
驚くべきことに中国人の平均身長は19世紀前半までは西欧と互角か凌駕していたというデータがある。
衰退で栄養状態が悪化、たんぱく質摂取量の低下で身長も低下していった。
どれだけ悲惨だったかが想像できる。 林則徐が国力の違いを無視してアヘン戦争を引き起こしてしまって中国が一気に弱体化した
本当はアヘン戦争をする前に西欧から優れた技術を導入しておくべきだった >>100
既に八旗もセンゲリンチンの蒙古八旗以外は約立たずになってたし。 >>100
1839年アヘン戦争勃発のわずか数十年前には乾隆帝の絶頂期で
1793英国使節マカートニーに我が天朝に物産が溢れ不足なしと大いに誇ってた。
事実、英国から清に売る物が無く、
清の物産が欲しい英国から銀が失われてった。
貿易赤字に耐えられない英国はアヘンに目を付ける。
わずか数十年で状況が一変するなど、
清側は考えもしなかっただろう。 英国の機械織りの綿織物より、
南京木綿の方がはるかに質が良い。
商品競争力で清が圧勝。
技術導入する気にならない。 >>100
アヘン戦争がなくても弱体化してた。
乾隆帝治世後半に苗族の反乱・嘉慶白蓮教徒の乱や天理教徒の乱などの多くの反乱が始まってて、
鎮圧に八旗や緑営が戦力にならず、
郷勇のような地方義勇兵に頼るしかなかった。
地方軍閥が割拠を始めてたわけで、
衰退滅亡期に入ってる。 逆説的だが
西洋列強からの圧迫が刺激になって
清は一時的ではあるが立て直してる。
洋務運動に一定の効果があったと思う。
数十年程度の寿命が伸びた程度には。 ていうか清の19世紀の衰退は貿易赤字が主因だからな
西洋の産業革命に敗れてしまった
18世紀までは貿易面でも西洋に勝っていた
市民革命・産業革命の前に敗れるべくして敗れたとしか言いようがない >>107
1827年を境に逆転して、清から銀が流出するようになった。
その原因はアヘンだよ。
英国製綿布は品質や価格で清国製に全く敵わずほとんど売れない。
貿易競争力で産業革命は影響を及ぼしてない。
1838年に清がアヘン輸入の対価として支払ったのが約2000万スペインドルの銀。
同じ年に茶葉の輸出で2000万スペインドルの銀を得てる。
茶葉の輸出が減れば銀が流出する。 >>108
明の頃から銀本位経済が成立してた。
明の万暦帝や清の乾隆帝の頃の好景気は海外から流入する大量の銀がもたらしたもの。 >>108
銀が増える→貨幣流通量が増える→経済が活性化する。
銀が足りなくなる→貨幣流通量が減る→デフレで経済が低迷 >>108
間違ってない。
直接銀を食うわけではないが、
銀が多く出回ると豊かになって、美味しいものをいっぱい食べられる。
銀が足りないと皆貧乏になってご飯が食えなくなる。 >>111
モンゴル帝国時代の交鈔は明の時代にはやめてしまったの?
ってか、銀でなくても、穀物でも胴でも金でも、貨幣になるじゃん? >>112
むしろ、銀は増えてんじゃないの?
16世紀~19世紀、南蛮人が中米南米から奪ってきた銀が世界中の銀の過半だったんだから。 >>113
>
> ってか、銀でなくても、穀物でも胴でも金でも、貨幣になるじゃん?
穀物だと、物々交換の社会になる
金は希少すぎて流通量が増えない
逆に、銅では希少価値がなさすぎる >>113
大明宝鈔があるが、価値がだだ下がりになって、
銀が流入すると銀になってった。
税制が銀納になったので、穀物を売って銀に替えないと納税できない。 >>114
19世紀半ばから銀が足りなくなる。
銀の価値が急騰し、農民たちが穀物を売っても規定の納税額を満たす銀を得られなくなる。
事実上の大増税だ。
貿易が経済混乱をもたらしてるので、
外国人への反感が高まって、
外国人襲撃事件が多発。 日本の場合は江戸幕府が開国を実施すると、
インフレが発生してる。
特に金が海外に流出してしまい、経済が混乱した。
それも攘夷派が台頭する理由となった。 >>119
幕府は金換算で有利になるように設定したはずが上方で使われている銀が国外に流出したので大混乱になったんじゃなかった? >>115
唐が偉大と一番崇拝してるのは日本人だな。
中国人曰く唐在日本、唐文化を見たければ日本に行けとのことだ。 >>120
金と銀の交換比率(比価)が,日本では1:5,外国では1:15であったため,多量の金貨が国外に流出した。 >>114
南蛮船でボリビアの鉱山の銀がマニラ経由で明清に渡り、明清の綿布、絹、陶磁器、茶葉などを受け取る。
中国大陸の豊かさ、商品生産力は正直凄いぞ。
明清は需要が高い物産を売りまくって、
世界中の銀を吸収していた。
貿易で自国経済を大いに潤していたのだが
奇妙なことに明清自身は貿易に無関心だった。
基本、海禁だし。
自前の船で欧州まで行こうとしないし。
鄭和の大艦隊を見る限り、大型船建造技術と航海術は世界トップクラスだったはずだが、
進歩が止まってしまった。
巨大な引きこもり状態とも言える。
船舶輸送を欧州人に委ねて満足してしまった。 長崎に入港したオランダ船が運んだ物品のうち、
欧州産はわずか2割。
大半が清国産。
オランダは清の物産を日本に運んで利益を得てた。
ただ航海には危険が伴う。
成功すれば巨利を得られるが、難破すれば全てを失う。
そこで欧州では株式で投資のリスクを分散するべく東インド会社を組織したり、
海上保険が大いに発達した。
無事に船がアジアに到着しても危険は大きい。
例えばオランダ植民地バタヴィアの死亡率記録が残ってるが異常に高い。
渡航は墓場に行くようなものだった。
明清はそんな危険を犯したくない。
国内だけで広大で手一杯だし。
航海の危険は貧乏白人に任せればいいや、となる。
だが引きこもり大国は偉大にはなれない。 >>115
吐蕃と南紹が唐の版図に入ってるのはおかしい。
吐蕃は何度も長安まで攻め込み占領したし、
南紹も吐蕃と協力して長安に侵攻している。
しかも、唐はこの2国と会盟をしている。
会盟は冊封ではなく、かなり対等の関係で、
この時は唐の旗色が悪い。
それが唐の版図な訳がない。 >>127
文成公主が吐蕃に降嫁したんで唐の配下になったと解釈してるんじゃない?
日本の教科書には唐は強い国であることしか載せないが、
実際は吐蕃にもウィグルにもアッバース朝イスラム帝国にも頭が上がらない情けない王朝。 >>128
東ローマ帝国だって、セルジューク朝やオスマン帝国に
皇女を后に送り込んでいるけど、セルジューク朝や
オスマン帝国は東ローマ帝国の配下ではないのと同じでしょ。
金や西夏もチンギス・ハーンに皇女を送ってるのも同じでしょ。 >>129
確かにそうだね。
唐蕃会盟碑では大唐皇帝を舅、大蕃聖神(化身せる神)を甥に見立ててる。
舅の方が目上なのかなと勝手に解釈してた。
753年の正月朝賀で、日本と新羅が席次で争った話があるが、
この朝賀の席に大食(イスラム帝国)、康国(ソグド)、回鶻(ウィグル)などに混じって、吐蕃の名前がある。
唐側でこれらの諸国を名目上の属邦扱いにしたかったと思う。 >>130
大食(アッバース朝)は冊封国でも交隣国でもないのに服属国扱いは無理があると思う。
ササーン朝を下して更に東ローマ帝国を圧迫中のアッバース朝には名目でも唐への服属など、
全く考えてもないし、意識もしてなかっただろう。 >>131
あくまでも唐側の中華思想だよ。
アッバース朝だが安史の乱の際に唐からの援軍要請に応じて、
アラブ人部隊数千を派遣してる。
これは唐から見たら、主家の為に尽くす従者と同じ。
アッバース朝からすれば、派兵に物質的利益を見込んでるに過ぎないが。 まあ、そういうのは国内向けのポーズだから
江戸幕府も、朝鮮通信使や琉球通信使をあちこち練り歩かせ、
「朝鮮人も幕府に忠実に従っている」という権威付けに利用した >>133
その代わり幕府は通信使をもてなすのに神経を使い、莫大な費用を支出した。
ポーズを取らせるには大きな利益を与えねばならない。
諸国はポーズさえ取れば大きな利益を得られるので、中華帝国にこぞって朝貢する。
そんなポーズを取るのを一切拒否ったのは英国人。
結局、英国は戦争を仕掛けて力ずくで自由交易の扉を開かせる。
まぁ北方遊牧民や満洲人、倭寇も交易したいから侵略する。
もしかすると秀吉もそうかもしれない。
最初から自由交易に応じていれば、
どこからも侵略されなくないか? >>134
英国の場合、自由交易の前に銀の流出超過がアヘン戦争の原因だろう。
戦争せずに自由交易でも清側が購入する英国製品は少ないから、
銀の流出超過、黙っててもアヘンジャンキーの清国人が買い求める
アヘンを売りつけ、それに反発するしんとの衝突には結局行き着く。 それでも清国に欧米を上回る軍事科学技術があれば
あそこまで没落していないよ なんだかんだ言っても、清朝はロシアの東進・南下の前に立ちふさがる巨大な壁だった
清朝がロシアの侵略を少なくとも数十年は遅らせたおかげで、東アジア文明圏はかなり時間を稼いだ
北方に弱い明朝だったら、こうはいかなかった >>138
1881年のイリ条約で踏ん張ってロシアとの国境を確定できた。
ロシア軍艦が黄海で清軍との戦争準備に入り、清軍はイリ攻撃作戦に移るべく準備。
双方にらみ合いの中での外交交渉だった。
条約締結で東トルキスタンは清領に確定し、新疆省設置。
清末でも頑張った。 >>138
どっちも歩兵は数だけ揃えた使い捨て体質でロシアも歩兵の装備は遅れてたから、
装備の近代化の遅れた清軍でも数だけ集められれば対抗出来た。
末期迄蒙古八旗が使い物になったのは大きいし。 >>140
ロシアに対抗していたのは英国。
英露対立のグレート・ゲームが繰り広げられてた。
おそらくは英国が清を駒の一つとして動かしていたんじゃないか。
実は日本も英国の駒の一つだった。
日英同盟から日露戦争がその表れだ。 英露対立が解消したのが1907年の英露協商。
両国が合意した中にチベットに英露両国は手を出さない。チベットは清の主権にあるとするもの。
清やチベットの意思に関係なく、チベットの帰属が最終確定した。英露両国が決めた。
清は広大な領土を保持したまま滅亡、
その国境線が現代まで続く。 イギリスが清を駒として動かせていたらウイグルもチベットも独立している
イギリスが独立させることに興味を持たなかったモンゴルが(地域の半分とはいえ)独立できたのは不思議 >>143
ウィグルに関しては英国も想定外だった。
英国はヤクブ・ベクの独立政権を承認し、武器援助をしていたからね。
でもチベットに関しては英露が決めてる。 時に想定外が発生するも、
だいたいは英国の思惑で駒が動く。
英国は徳川幕府を見限り、薩長を支援した。生麦事件や英国公使館焼き討ち事件を起こした薩長だが、冷徹な情勢分析で判断し、武器や資金を薩長に供給した。
一方、太平天国へは英軍自ら潰しにかかった。清の味方になった。
英国の支援で清は延命したようなものだ。 >>145
英国の世界戦略って、当時は新聞の論調で動くことがある。
当初は徳川幕府に協力するのが穏当と考えるのが主流だった。
ところがアーネスト・サトウが薩長贔屓の記事を英字新聞に掲載すると、
あきらかに方針が変わっていった。
いや、逆に戦略を変えたから、そういう記事を載せたのかもしれないが。
西太后も自分に関する英字新聞記事にかなり敏感だった。
北京紫禁城も欧米メディアの論調に左右される時代になっていた。 沿海州をロシアに取られて、
ウラジヴォストーク不凍港を作られててしまったのは、
日本にとって痛いな。 >>116
明も清も農本主義なんだから穀物が貨幣で良いじゃん。 >>119
逆だ。鎖国していたからデフレだったんだよッ >>124
回教徒の鄭和が回教徒のチャム人やらマラヤ人やら集めて作ってもらったんじゃないの?
造ったんではなくて、アラブ人やペルシャ人やマレー人やらが乗ってきた船を雇い入れたか。 >>148
> 明も清も農本主義なんだから穀物が貨幣で良いじゃん。
長江下流なんか、宋代から商品作物が主流だ
農民でも、商品を売って換金しなきゃ税金が払えない >>150
南宋も元も海上交易に力注いでいますが。普通に大規模船団作るノウハウもっていた
明が海禁政策取ったのは永楽帝以降の首都を北に置くか南に置くかの政争で北派が勝利し、南の経済力削ぐため >>127
地方領主が首都に攻め込むなんてよくあることだし。 >>129
15世紀前半のオスマン王朝は、実体としては軍事的恫喝でカツアゲしてたんだけれど、
建前としてはローマ皇帝の藩屏としてお給料を貰って仕えていた。
いくつかのエーゲ海・黒海周辺の諸侯にも似たようなことして、ローマ帝国の一大事には
お前に国を託すぞ、のようなお墨付きを与えて、ローマ帝国の一臣下として扱う。
メフメト二世、何を血迷ったか、自分からローマ帝国に一大事を起こして、帝位を簒奪、
自らルーミーカイザリ(ローマ皇帝)を称して、首府に居城を移す。
オスマン帝国は地中海一円に対してはローマ皇帝として、旧領の回復・帝国の再統一を
大義名分としていて、イスラム世界にはアッパース朝から禅譲を受けたカリフであり、
メッカ、メディナ、エルサレムの三聖都の守護者を自称してたわけよ。 >>152
海上交易も陸上交易も自由化してれば
北虜南倭に悩むことなく
1番偉大な王朝になれただろうな。 >>148
同時代に米穀で納税してた島国があるもんな。 >>155
インフレも何も、18世紀19世紀って、世界中で農業も工業も商業も発展して人口増えまくってた時代よ。
世界中でインフレ。良い意味でのインフレ。
ところがそのころ世界のド田舎だった我らが日本は、何を血迷ったか海禁策の貿易制限情報封鎖。
おかげで、産業は進歩どころか後退するありさま。人口だって頭打ち。デフレじゃん。 アイルランド
「19世紀は素晴らしき発展の歴史だな」 >>158
急増する人口に職を与え、十分に食わせることができたんが、西欧。
マルサスの罠で貧困化したのが清。
産業革命の有無に原因があると思われていたが、
新大陸の資源を入手出来たか否かの違いだとする論説が出てきた。 中華王朝はみんなマルサスの罠で衰退してるよな。
王朝初期は秩序の回復で食糧生産が増え、人口が増加を始める。
人口増加と共に最盛期を迎える。
やがて資源や耕地が足りなくなって、貧困化。民衆の反乱が起き始め、衰退期に入る。
このパターンの繰り返し。
王朝の盛衰に皇帝個人の資質は関係ない。
ただの景気循環。 19世紀末から20世紀初頭にかけて、イギリスは30年の長期デフレ
一方、ドイツとアメリカは急速に発展していた >>164
ドイツは1871年に統一したばかりで新興国の勢いがあるし、
アメリカは1890年にフロンティア・ライン(西部開拓、ネイティブ民族征服のライン)が消滅したばかりで、発展途上だし。 >>163
開明的な遊牧政権が支配している時期に発展、
遊牧民族が支那化したり、支那人の王朝に交代すると、
途端に衰退。 一番西域への影響力が強かったのはカスピ海以東の50以上のオアシス国家を服属させた後漢で合ってる? >>167
唐の高仙芝が西域72国を降してる。
タラス河畔の戦いで負けちゃうけど。 長安まで使いを出して、特産品少々を献上して土下座したら、たっくさんお土産持たせて返すよ
ってヤツか? >>167
交易の絶対量を基準に考えれば、清に敵わないよ。
北京の城門を隊商のラクダの列が頻繁に行き来していた19世紀の写真が残ってる。 清はジュンガル帝国を征服してるし、版図的にも後漢を遥かに超えてる。
後でロシアに併合されるけど
カザフ・ハン国やコーカンド・ハン国は清に朝貢していた。
清の交易というとどうしても海上交易が目立ちがちだが、
実は陸上交易も拡大していた。 清 バルハシ湖(カザフスタン )までが版図
唐 アラル海(ウズベキスタン)までが版図
後漢 カスピ海(トルクメニスタン)までが版図 >>172
後漢の西域都護の支配はタリム盆地止まりだよ。バルハシ湖にも達してない。 >>172
唐の場合、イスラム軍に滅ぼされたササン朝ペルシャの皇子たちを保護擁立し、
波斯都督府を現在のアフガニスタンのイラン国境近くに設置した。
かなり西方まで進軍したことになる。 >>171
清にも朝貢してたけど、第三のローマにして北西の大国ロシアにも、三大聖都の守護者にしてカリフを戴くのオスマン帝国にも、
先方が上位の大国、自国が下位の小国として、献上する手土産持たせた使節を定期的に挨拶に出してたで。 西域への影響力では、長安帝国(隋唐)と北京帝国(明清)を単純に並べて比較すべきでない
隋唐は、西域の諸民族からは「タクバツ」と呼ばれた草原の帝国 >>175
帰属を曖昧にし、或いは両属、三属にして、
複数の大国と交易し、中間貿易の利を狙うのは、合理的。
琉球王国もそうでしょ。日中両属だし。
中国も琉球王国の実態を熟知した上で、冊封使を派遣し芝居してる。
日本も実利があるので、冊封儀式をやらせる。
日中琉が交易の利で一致。
琉球の立場を変える必要がない。 当時のソグド人の子孫がタジキスタン東部に住むヤグノブ人 >>176
唐と明のどちらも漢を手本ないし意識して国造りしてる。
漢が中華帝国たる形を決めたようなものだ。
漢の記憶は諸民族にも残ってて、
新たな「漢」が出現と感じただろう。
明の初代洪武帝は西安に遷都しようと考えて、皇太子を西安調査に派遣した。
遷都計画は皇太子が急死して中断。
長安の再現はならず。
時代はモンゴル高原を抜ける草原ルートの方が幹線となり、
北京が繁栄の中心となっていた。 >西域都護である班超が、カスピ海以東の50あまりの国を支配下におき、さらに部下の甘英を大秦国(ローマ帝国)にまで派遣しようとします。
というのが定説だから後漢の支配地域はカスピ海まで広がっていたと見做すべき チャイナ人というか、支配層が儒教に思想汚染された国というか、そういうところはアホなので、
外交関係・通商関係の樹立と、支配の確立とと、区別できません。
チャイナ以外の儒教被汚染国だと大韓民国とかが、通商協定貿易協定のようなものに加盟すると
「貿易領土」とかいうよな、そんな感じ。
戦争で負けて、和睦条件に歳幣と王族の通婚関係を求められて応ぜざるをえなかったものを、
忠勤する異族の首長にお給料を与えて雇った、蛮族を血統宮中からチャイナ化するために
お姫様を送り込んだ、みたいに脳内変換したりしています。
甘英やら鄭和が、「大陸の東に結構大きな国が出来たんやで、首府はここら辺(洛陽とか南京とか)
商いに来るときには剃っちゃの王様の名代として「皇帝」を称している王様のところに挨拶に行ってな、
そっちゃの特産品を手土産に挨拶に来てくれたらチャイナの産品をいっぱい持って帰らしてあげるよ。」
ってなことを言ってるから、ほな、試しに、王様の手紙添えてこっちゃの主力輸出品を持たせた使節
宣伝がてら遣してみるかな? とやったら、もう、支配したつもりになるのよ。 >>181
それならクシャーナ朝も後漢に朝貢してるから、インドも後漢版図に含めればいいな。 >>181
大食も唐に朝貢してるから、
唐の版図はアフリカ、チュニジアぐらいまで広がる。 上にも書いたけど、こういうのは国内向けのパフォーマンスなんで
「遠い辺境国家の酋長も、皇帝の徳を慕って朝貢使節を送ってくる」
というのを、国内の連中に見せて皇帝の権威を高めることに主眼がある
異民族を実効支配しているかどうかなど、二の次
鉄道も電話もない時代に、何千キロも離れたとこにいる連中を実効支配するったってなあ
そんなことより、国内の勢力を皇帝の威に服させることが重要だ 習近平も、北京に集まった各国の首脳1人1人に
赤絨毯の上を歩かせて「謁見」したのが評判になった 明はインド洋まで朝貢貿易を広げたから東アフリカまでを含めないといけないな。
キリンが貢納されたら、明人は伝説の麒麟だと思ったんだね。 最初に儒教イデオロギーを採用した前漢が一番偉大じゃないか?
以降はただのコピー王朝。 秦・漢・唐・明・清
この五つに絞られたようで
ただ明は少し劣勢かな・・・ 国力が最大なのは、まちがいなくモンゴル帝国の元朝
「中華」のイデオロギーを別にすれば、
東アジアが世界に覇を唱えた唯一の時期 あんなダメな思想がはびこっては困る。儒者は皆殺し、儒教の本は焼いてしまえ
ってやった秦の始皇帝の外大ですよ。 >>187
外交って、最初はマウント合戦じゃん?
ウチの国、結構良い国よ、栄えてますよ、こんなものも作れますよ、こんな珍しい産品もおまっせ、
と見せびらかすところから始まるじゃん、
そういう栄えている良い国と仲良くしておくのはそっちの国としても損じゃないのと思うのよ、ってやる。
ペリーの黒船が来航したときも、けっこう色々と「こんなもの作れます」の見本をドッサリ持ってきて
徳川幕府に献上していたろ。
汽船の動力と同じ仕組みで動く、小型蒸気機関車とか持ってきて、レール敷いて走らせて、
こんなの作れるよ、どうぞ見本に上げちゃうよ、とかやったわけよ。 >>185
そういう考えになるところが、チャイナのアホなところなのよ。
初めて足を踏み入れるところは、まずはその土地の一番偉い人に挨拶をする。
挨拶するには、自分がどこから来た何者で用向きは何ということを言わなきゃあならん。
そして手土産。
自己紹介と、自分を送り出した国・王様のアピールを兼ねて、特産品を手土産に差し出す。
こういう原始時代がら世界中当たり前のことを、チャイナに限っては、
皇帝の徳を慕ってとか、中華の大国に恐れおののいて、とかに変換してしまう。 >>194
名目と実体の乖離なんて当たり前の話でしょ
王莽ぐらいだろ。本気で信じ込んでやらかした為政者は 秦
・最初の中華統一王朝
・China の語源
・始皇帝陵のスケール
・キングダム人気
前漢
・中華帝国のモデルであって、以降の王朝は全て劣化コピーにすぎない。
・儒教イデオロギーを最初に採用。
・西域の通商路を遠くまで支配
・塩鉄論で近代に先駆けた経済論を生む。
後漢
・前漢より西域支配領域が広い。カスピ海まで説。
唐
・日本人の古くからの憧れで日本に多大な影響を及ぼす
・世間で出回ってる最大版図地図をみるとやたら大きい。 北宋
・文民統制という近代的なシステム
・経済大国
・人命尊重で文明度が高い
元
・最大の征服王朝
・北京帝国の開祖で、明清は劣化コピーに過ぎない
・東西文明圏がつながったグローバル化経済の始まり
・世界史の始まり説
明
・人口急増の始まり
・銀本位制経済を確立
・皇帝への権力集中の極致に達する
・理想的な秘密警察国家
・経済の急拡大
・庶民文化が花開く
清
・実質統治領域の広さで一番。
・人口、GDPで、世界の三分の一
・近代以前の中華文明の頂点 農業技術が未熟で人口が希薄な古代の方が最大版図は広くなる傾向があるっていうのはわざわざ指摘する必要がない周知の事実? >>198
国境の概念も近代国家と異なる。
版図の中央にすらまつろわぬ氏族や部族が割拠してたりする。 現代のミャオ族の系譜が中国王朝の統制下に入ったのも元代以降だっけ? 城壁で囲まれた都市以外の土地は無法地帯なんじゃないの? >>196
>>197
整理してくれてサンクス
秦 最初の中華統一王朝
前漢 中華帝国のモデル
清 人口、GDPで、世界の三分の一
ここらあたりが最終候補か 官が派遣される県の数で領域支配の大きさを比べるのはどうだろう?
前漢時代には県とそれに準ずる区画が1587あり,
後漢は1180に減少したが,
唐代には1573に戻り,
その後は1600を前後。
清以降は増えてって、現在は県クラス区画が2000以上だそうだ。 >>197
文官上位と、文民統制と、意味違うで。
文民というのは何かというと、ぶっちゃけて言えば市民。
市民(の互選による代表たる議会や首長)が、専門職の官吏を支配統制するということをいうのよ。
専門職の官吏は、市民の意向、すなわち、市民から権限の附託された首長(行政の長)や議会の決定に従う、というもの。
宋の時代に市民なんて無いじゃん。
行政機関は別段、市民の統制なんか受けてないよ。 文官上位というと
武科挙が事実上、崩壊して将を士大夫が担っていた北宋、南宋と(岳飛とか一部の例外はいたけど)
軍の将校は科挙試験に失敗した層が担うようになった明、清という理解
中国の軍の将校は地元と腐海コネがないと戦争で兵を率いる水準まで出世することもままならない気が >>198
ローマ帝国がやたらデカかった、以降、ローマ帝国の北半分も統一で来たことの無い、ヨーロッパだけでしょう?
イスラム帝国、モンゴル帝国は中世。
インドもアショカ王の時代のマウリャ朝の版図にしたことのある土地は結構大きいけれど、取っては離反されで、同時に支配できた領域としては、
1800年後のムガル帝国の方が大きい。 西洋史ではローマ帝国
インド史だと、ムガール帝国が最大なのは確実だ 北宋は絶対にない
北方民族に朝貢している漢民族国家が「偉大」はない
それも途中から二つに増えた
明もモンゴル民族に中期から圧迫され続けてきただけにやや弱い
元は中国の王朝と厳密に言えるかと言う問題はある
この三つは脱落だな >>207
清は八旗が機能してた内は貴族階級である八旗が軍の兵から将校迄担ってただろ。
満洲八旗と漢軍八旗は乾隆帝末期には弱体化してたが、
センゲリンチン率いる蒙古八旗は捻軍に敗れて壊滅状態になる迄は、
アロー号戦争で英仏連合軍を一度は撃破している。 >>210
元は大元ウルスとしてモンゴル帝国の一部という見方があるから中華帝国という括りに入らないということか 秦はあり得ない。
統一後が短過ぎる。
漢はあり得ない。
外戚と宦官に振り回されてばかり。
唐はあり得ない。
吐蕃とウィグルとアッバース朝に平伏。
宋はあり得ない。
夷狄に貢いでばかり。
元はあり得ない。
ペスト・パンデミックを起こして人口激減。 明はあり得ない。
北虜南倭に対処できない。
清はあり得ない。
清末のグダグダ。 >>201
そこを無法地帯にしなかったのが、パクスモンゴリカ。クビライ皇帝の偉大なところよ。 >>209
バーラタ(インドの人が伝統的に思い描くインドの範囲)の全てが政治的に統合されたのは、イギリス領時代だけなのよね >>210
哀れな猟戸猟民(猟=遊牧)に施しをして長城の外を守らせている
ってのが公式見解。
実際には、お小遣い上げるからこっちに弓矢を射かけたりしないで頂戴。
タマの賭かったトリックオラトリート >>214
どこかでグダグダにならないと滅びないと思うが。 唐朝は国内がバラバラで、日本でいえば室町幕府みたいに弱体な政権だったな >>215
驚くべきことにクビライのときの犯罪者への刑罰が歴代王朝で一番軽い。
モンゴル人は入れ墨を嫌うし、
拷問も大幅に制限。
ことに死刑執行数がかなり少なく、
執行0の年があったりする。 >>206
文民の意味を教えてくれてありがとう。
あまり考えずに書いてたよ。
住民の政治参加が進んでいたのが、元朝だったりする。
まぁ遊牧民の風習からなんだろうが、
上は最高会議クリルタイから、下は街の集会まであって、また業者ギルドの寄合など、あらゆるレベルで集会が決定する。
ところがこの方法、漢族から不評だった。官が上から命令する方が効率的。 >>218
そうだね。
結論は
偉大な王朝は存在しない
だな。 まあ秦か清のどちらかだろう
確かに秦は短すぎると言うのは大きなマイナス
清にするか該当なしにするか オイラは敢えて明を推す。
洪武帝の強烈な個性が他を凌駕し、現代中国に至る枠組みとなった。 >>221
クリルタイは俺たちのボスではなかったものを俺たちのボスにする為のセレモニーだからな。
蚊帳の外で決まったボスには従えないけれど、選ぶ段取りに参与したボスには従えるだろ。 >>225
そのくせ代替わりのたびに戦争に発展してない? >>198
人類史上最大面積は1918年時点の大英帝国だよ。
モンゴルに次ぐ第3位が1866年のロシア帝国。
近代以降でも版図が広い。 >>226
クリルタイでないチャイナ方式で長子を指名しようとしたりしたから >>198
版図順位トップ10に古代国家がない時点でそんな事実はないよ。トップ10を上から並べると、
イギリス
モンゴル
ロシア
スペイン
清
フランス
突厥
ウマイヤ朝
元
唐 >>228
クビライはクリルタイで即位したけど、
アリクブケが別のクリルタイで即位して対抗。
4年に及ぶ大戦争になってる。 世界史上有数の領土と
1800年時点で世界のGDPの1/3(推定)を占めたと言われる清帝国で決まりか >>228
清初は部族長会議で決めてたが、
康煕帝が皇太子を指名。
すると凄まじい派閥争いと引き降ろそうとする陰謀が相次ぎ、廃嫡騒ぎを繰り返した。
幸か不幸かどの息子も超優秀で
却って全員が納得できる人物が定まらない。
世にいう九王奪嫡が発生。
次代の雍正帝は後継者指名の勅書を秘密にうちに準備する太子密建の法を定めた。 清も最後の100年は惨めの一語だからな・・・
でも最強の期間は200年間近くあった訳だからね
周辺異民族には負けなかった
ただし異文明に屈したと言うのをどう考えるか >>235
お飾りの君主なら継承順位を定めて自動で決めればいいが、
独裁者なんで、資質や勤勉さが求められる。
清に暗愚な皇帝はいなかった。 >>227,229
古代帝国の版図は人口が希薄なうちは文明圏の朝貢関係で区分するから地図上では広くなるって話だろ
199や200はそれを受けて話をしているところに遅レスの上的外れな指摘してね >>238
その当時は長江文明や遼河文明もあったから
黄河文明が中国を代表していないけどね >>239
人口と朝貢区分の関係がわからない。
人口推移を見ると、
前漢(2年)が6千万人近く
後漢(144年)が5千万近く
唐(755年)5300万
宋(1080年)3300万
金(1195年)4850万
元(1290年)5900万
明(1570年)6000万
とあまり変わってない。
清が1644年4500万から1834年の4億以上へ一気に急増。 >>230
どっちも王族・族長・長老全員集合のクリルタイやってないからじゃん >>239
それって版図にしたことになるの?
王様が過去に一度も立ち入ったこと無いところ、現地のボスを王宮に呼びつけることができないところ。
本国の勅や法に従ってるかも判らない、税を取り立てることもできない、向こうが自主的に使節を贈ってこないことには現地の様子がサッパリ判らない、
というようなところが、支配できるとは思えないんだが。
古代でも一つくらいはないとやはり版図とはいいがたいんではないかなあ。
古代でも、マケドニアのアレクサンドロス三世王は、アテナイにコリュントスにペロポンネソス南端近いメッシニアに、エジプトは上エジプトと下エジプトの境まで、
バビロンにペルセポリスに、紅海にペルシャ湾にアムダヤ川にインダス川に、自ら足を踏み入れてるし、ローマ帝国なら、ガイウス・ユリウス・カエサルが、
ブリタニア、ベルガエ、ガリア、ヒスパニア、マウレタニア、エジプト、攻めてるし。ダキア、パンノニア、シリアはとヤヌス帝が親征で攻め取ってる。
この頃のローマは、エジプト、ヌミディア(北西アフリカ)、ポントス(アナトリアの黒海沿岸部)の王様を、首府ローマに呼びつけてるで。
時期の近い漢はというと、西域諸国は貢物を伴った使いを遣して挨拶に来る、匈奴は和蕃公主を降嫁し歳費と位階を与えて支配下に置いた、ふうにいうけど、
ときどき使いを遣してくる(漢の方からは呼んでも来ない)西域やら、楽裕に攻め込まれて、敗戦賠償金を取られ、遊牧民的流儀で婚姻関係を結ばされている、
どっちかというと漢の側が匈奴に支配されてるような有様だったのに、広大な版図を主張とか…… >>242
どちらも自派優勢のクリルタイ。
クリルタイで派の結束が固いんで
両派激突が激しくなる。 >>241
やっぱ清がひときわ抜きん出るな。
前漢の人口を明になってやっと回復。
どんだけ長期間低成長が続いたのよ。 清が評価される大きなポイントの一つは中国を人口大国にしたこと
現共産党政府はインドに抜かれようとしている時点で歴史的評価は低いかな >>246
清が一人っ子政策を実施してたら、
もっと長く続いてたと思う。
資源不足、耕地不足を遅らせる。 >>244
呼んだところでこっちの票にはならんからアイツ寄合に呼ばねえ、ってやられた人が、
寄合で決まったことなら仕方ねえ、と唯々諾々してますかな?
そんな話聞いてねえ、俺を外した寄合なんか認めねえ、そこで決まった大王も認めねえ
ってなるじゃん。
12世紀13世紀のモンゴル人やら遊牧テュルク人やらみんなバリバリの武闘派揃いよ。
あんな寄合認めねえ、お前をボスとは認めねえ、ったら戦争になるわな >>248
匈奴や突厥なんかも代替わりした途端に、弱体化したり、分裂したりする。
遊牧民帝国の弱点ではある。 >>243
アケメネス朝ペルシャもエジプトぐらいまで進軍してる。
ギリシャを攻めるときは、フェニキア人など支配下の諸民族がこぞって軍役に応じた大規模な多民族軍となってる。
形だけの朝貢関係ではない。
負けちゃうけれど。 >>245
それぞれ王朝最盛期には人口が増加してる。
宋で1193年1億人突破してるぐらい。
王朝交代、三国や五代の分裂期、安史の乱、ペスト・パンデミックで人口大激減を幾度も繰り返してる。
もちろん戸籍で把握できない流民も多くいるだろうが、
実際にかなり多くの人命が失われてったと考える。
ジグザグで増減を続け、清初で4500万。それがどんどん増える。
太平天国の乱で2000万人以上犠牲になったが、すぐに取り戻す。
人命は軽い。 明末に四川省で大虐殺があった
当時の住民の9割以上が殺されたらしい
だから今の四川省の住民は大半が省外からの移住者の子孫 >>252
張献忠がやった屠蜀だね。
張献忠を滅ぼした清の宣伝で数字に誇張があるかもしれない。
でもイエズス会宣教師の報告書があるので大虐殺行為は事実。 >>243
アレクサンドロス3世はすげぇ。
征服しながらギリシャ風都市を作って、ギリシャ文化を広めた。
アレクサンドリアやイスカンダルの名前が付いた都市がわかってるものだけでエジプト、トルコ、イラク、アフガニスタン、タジキスタンに散らばる。 >>254
言っちゃ悪いがそもそもとっくに現地にギリシャ人が進出していたのでギリシャ人が居付いていた主要都市に自身の名を与えただけ
親父の代でペルシャ滅ぼし掛けていたのが親父の暗殺で時期ずれただけだし
無意味に遠征長引かせて部下の離反招いて撤退、自身も病死、王朝断絶
ただの無能オブ無能 >>255
そういやアナバシス読んだことあるけど、
ペルシャ内にギリシャ人がずいぶん入り込んでるな。
おまけに領内にペルシャ王に従わない民族が住んでるし。
しかもあれって王都近郊な気がする。
地名がよくわからなかったんで勘違いかもしれないが。 安禄山がアレクサンドロスの音訳というのは、ただの俗説。
ソグド人、アレクサンドロスと戦ったり、唐で暴れたり、時代を超えて活躍。 フェミニストにとって一番偉大なのは唐。
武則天、太平公主、安楽公主、韋皇后、上官婉児と女傑たちがだらしない男たちをアゴでこき使った時代。
女が騎馬し、おっぱいの谷間を露出した衣装をまとい、自由奔放さに後世の儒学者が発狂しちゃう時代。
後に纏足みたいに女を抑圧する時代に変わる前の特異な現象。 >>258
どういうわけか、ほぼ同時代の日本と新羅に女帝や女王が相次いでる。
女が優秀かつ儒教的価値観にこだわらない時代だった。 唐も玄宗の前後で別の国みたいなものだからね
前半だけなら中国史有数の存在と言ってもいいが 唐の後期は、室町時代後半の日本と似た状況
統一国家とは言えない >>258,259
唐は漢民族に比べ女性の権力が比較的高かった異民族出身の王朝だし
日本はあくまで別王家に王統渡さないための繋ぎ
新羅はまともに国統治できなきい状況で国内ガタガタになってる
>>259
儒教的価値観が第一位の行為規範として官僚・政治家に重視されるようになったのは各地域でいつごろからなのかな
唐代は老荘思想が一番華やかだった時代と聞く >>262
> 儒教的価値観が第一位の行為規範として官僚・政治家に重視されるようになったのは各地域でいつごろからなのかな
中国では北宋、朝鮮では李朝、日本では江戸幕府、ベトナムでは陳朝でしょうな
それ以前から官僚レベルでは重視されていたが、
唐朝や高麗はどっちかって言ったら仏教国
科挙官僚の地位が圧倒的になったのが、この頃。
他の3国と異なり、日本では科挙をやらなかったが、
武家の子弟は藩校その他で儒学を猛勉強させられたから
実質的には似たようなもの >>260
安史の乱で唐の人口の3分の2の3600万人が戸籍上失われてった。
全く別の国に変貌してる。
前は外国文化、胡人文化を喜んで取り入れていた。
それが国粋主義、排外主義になってる。
仏教も異国の宗教ということで廃仏が実施される。
男尊女卑も進む。 >>263
平安時代に式部省で試験やってる。
でも大貴族が政治を牛耳ってるのを覆すことはなかった。
すぐに武士の時代。
試験より血縁が強い。 >>263
北宋の場合は科挙が人材登用に役立ってる。
しだいに科挙及第者が実務に役立たない青二才ばかりになってるじゃないかという議論は幾度もあった。
でも学閥の権益が強く、改革できない。
公文書を格調高い文言で素早く記述する能力が尊重されたこともある。
西洋との差に圧倒された清末になってやっと科挙を廃止。 漢民族はかつて高度な民族性を誇っていたが、長年にわたり騎乗人面獣の侵略を受けて遺伝子を汚染されることになったのです 王陽明、曽国藩、李鴻章みたいに進士なのに軍の指揮に優れたのがいるんだね。 >>268
もともと漢族は複数の民族の集合体。
華夏族の遺伝子なんて殷時代ですらとっくに希薄。 異民族を次々と吸収するのが漢族。
もし秀吉が明を征服してたら、今頃日本人は完全に漢化して、漢族と化していただろうと主張する中国人学者がいた。 その例だと大陸に渡って統治機構に組み込まれた層は確かに漢化されただろうね
ただモンゴル見ても中華の領域外にそれなりの勢力残っている民族集団だと、全て同化されることはないでしょう >>271
そう思うね
少なくとも日本族として中華体制を支える存在になっていただろう
だから勝たなくて良かったよホントに モンゴルや女真族にやられたのと英仏にやられたのとの違いはそこなんだよな モンゴル人は漢化されてない
中華料理は満漢全席、中国人の民族服は満州服のアレンジ
むしろ漢人が満州文化に染まった モンゴルは自分たちの居住域に漢人入れてないから
満州人は自分たちの出身地を漢人に占拠されてしまった
ここが決定的に違う >>277
1860年に漢人の入植を受け入れた。
人口過疎だとロシア人に乗っ取られると恐れた。 >>277
モンゴル民族の本家は内モンゴル。
モンゴル国に住むモンゴル人より、
中華人民共和国在住のモンゴル人の方が倍いる。
内蒙古自治区に漢人がさらに何倍も住んでて、漢人の土地になってる。 >>270
4000年前の中国は黄河流域と長江以南とで
遺伝子が明確に相違していたそうだ
長江以南の集団は今のマレー系に近いらしい
中国4000年の歴史とは黄河流域の遺伝子が
中国全土に拡散する歴史と言い換えてもよい 古代黄河文明を築いた先住民は、隋唐の世には黄河流域からいなくなっていた >>280
華北との気候の違い特に風土病の影響もあって漢民族が南域(と西域)に広がるには時間要した
一時期まで地方官として遠方に赴任することが事実上の死刑扱いだった
今でも中国の武侠小説でも西と南の流派が毒を多用する設定なんか
異民族差別より実態として原因不明で死ぬこと多かったのが元ネタ >>283
楚については今研究中らしい
ただ漢の時代には長江流域については黄河流域のDNAが優勢になったようだ >>285
呉や越も異民族要素が大きい。
言語や文化に入り込んでる。
南方の蛮族を次々と吸収してるんだよ。 太陽を追いかけて、南へ西へと移動する
それが人間の本能 ベトナムはよく吸収されなかったな。
漢から唐まで何百年か服属してたのに。 ベトナムは独立王朝になっても
中華から節度使や国王の称号を付与してもらって生き残る。
国内向けにだけ皇帝を名乗ったりする。 阿倍仲麻呂は安南節度使としてハノイに赴任してたのかな? 唐が支配の実態あった時期だから赴任してるんじゃないかな >>291
なんか凄いね。
そのまま現地王になったらいいのに。 安史の乱の直後だから独立勢力に成らないように、実務能力はあるけれど宮廷にも赴任地にも縁故がない異国出身の官僚を抜擢したんだと思う 北宋の蘇軾が広東省に赴任したが、
詩では「酷熱障癘のジャングル」
みたいな言い方してたな 広東省が本当の意味で「中国」の一部になったのは、宋代あたりじゃないかな 明の永楽帝はベトナムを20年支配し、内地と同じように郡県制を敷いた
広東省のようになりかけた。ベトナム史上最大の危機の時代と言ってよい
幸いなことに、山岳民族出身の英雄レ・ロイが現れて独立に成功した 清の乾隆帝はベトナムを攻めたが大敗
戦争には負けたが、講和でベトナム側がメンツを立ててくれた
「広東省までは中国だ。ベトナムからは中国ではない」
という境界が、このとき最終的に確定した 1979年中国はベトナムに侵攻した
いわゆる中越戦争
その時中国軍の旧式装備に非効率な組織態勢が世界の嘲笑をかった >>298
ベトナムは何十年も戦争してて実戦に慣れてて、旧南ベトナムが残した米国製の武器が使えた。
一方、文化大革命の後遺症で人民解放軍の指揮系統はガタガタだった。
ベトナムを支援してたのがソ連だったので、西側諸国がベトナムの味方にはならない。
むしろカンボジアに侵攻したベトナムを西側諸国は非難。今となっては驚くべきことに西側諸国は中国が支援するポル・ポト政権を支持してた。
中国は「懲罰」のためにベトナムに攻め込んだ。共産主義国が別の共産主義国と戦争したことに左翼思想家たちが衝撃を受けてた。
中国軍が大苦戦。
鄧小平の凄いところはすぐに停戦して撤退したところだと思う。戦争始めても深入りしない。「懲罰」に成功したとの名目だけ主張。
この冷徹さを旧日本軍も持って欲しかった。犠牲者数が多いと英霊に申し訳ないと戦争を継続する日本人はナイーブ過ぎる。 >>299
1939年には予算絞ることで軍部抑えて大陸から撤兵しようとして英米とも話まとめていたのに
ドイツの拡張見て方針転換。そりゃ英米もこりゃ駄目だと禁輸しかけてくるわ ベトナムを越、越南とか表記するけど
春秋時代の越と関係あるの? 越国は言語的・文化的にもベトナム系のようだ
2500年ぐらい前まではオーストロアジア語族が長江下流を占めていたことになる 日本の北陸地域を越後、越中、越前をまとめて越州と呼んでる。
南じゃないのに。 >>299
>
> ベトナムを支援してたのがソ連だったので、西側諸国がベトナムの味方にはならない。
> むしろカンボジアに侵攻したベトナムを西側諸国は非難。今となっては驚くべきことに西側諸国は中国が支援するポル・ポト政権を支持してた。
> 中国は「懲罰」のためにベトナムに攻め込んだ。共産主義国が別の共産主義国と戦争したことに左翼思想家たちが衝撃を受けてた。
>
米中関係が、いまとはまったく違ってた
「ケ小平がベトナムに攻め込んだのは、アメリカの敵であるベトナムを叩いて
忠誠心を示すためだった」という説すらあるくらい >>304
コシと呼んでた地域に越の字を当てただけで、本来はベトナムと関係はない。
でも百越の一派が倭人かもしれないので、ひょっとしたら。。。 >>305
道徳的にはポル・ポトを倒したベトナムが正義の味方だよなぁ。
でもアメリカや日本はずっとポル・ポト政権支持。国際政治に道徳は不要。 朝鮮半島もよく同化されなかった。
幾度も蹂躙されたり、直接統治されたりもしたのに。 >>303
中国におけるオーストロアジア語族と推測される三苗の勢力圏は長江中流域の山岳地帯でしたが
史料の裏付けない妄想で語るのやめてもらえませんか >>299
>今となっては驚くべきことに西側諸国は中国が支援するポル・ポト政権を支持してた。
ベトナムは東側で西側の敵
あたりまえのことやないか
どこがどう「驚くべきこと」なんかわからんわ >>308
> 朝鮮半島もよく同化されなかった。
> 幾度も蹂躙されたり、直接統治されたりもしたのに。
朝鮮半島を蹂躙したり直接統治したのは、モンゴル人や満州人
「中国人」ではないから 朝鮮は日本みたいに金銀が取れりゃ話は別だが
統治すれば主要都市と幹線道路の整備などインフラを整えなければいけないし、洗脳や治安維持などにもカネが掛かる訳で
そんな手間の掛かることをするより、脅してノルマ付の貢物を献上させ続けたほうが遥かに安くつく >>310
ポル・ポト政権が大虐殺してるのを知ってたのに支持してた。
今となっては驚くべきこと。 >>313
大虐殺してた独裁政権でも反共なら西側は支持してたやないか
カンボジアに限ったことやないわ
何が意外やねん当たり前のことやろ
現に今でもパレスチナで大虐殺してるイスラエルはどやねん >>311
漢が半島に4つの郡を設置してる。内地化してた。
魏も帯方郡を設置し、帯方郡を通じて倭国の卑弥呼を親魏倭王に封じた。 西側が支持したのはシアヌークでありポルポトではないのだが、
シアヌークがポルポトと一体化したため、
結果的にポルポトを容認したかたちにはなった
一時的だけどな >>317
一時的支持なのか?
ポル・ポト政権崩壊後の何年もポル・ポト派の亡命政府である民主カンプチア連合政府 (CGDK)を承認して、国連議席を保有させてないか? >>312
隋、唐は朝鮮半島で痛い目に遭ってるな。
特に隋は王朝崩壊の引き金。 >>297
清仏戦争で戦闘では清が勝ってたはず。
でもサッサと講和して引き上げちゃった。
インドシナ半島をフランスに渡しちゃった。
漢字圏だったのにラテン文字になってしまった。 そのおかげで独特のベトナム文化が出来上がったと面はある >>321
日本も漢字を廃止しようよ。
新しい文化を作ろうよ。 漢字を廃止して表音文字のみにしたせいで歴史や技術の継承に問題を抱える国がすぐそばにありますよ 日本人はひらがなやカタカナを創ったんだからエエんでねーの
どうせもうすぐ英語とのダブルスタンダードになるんだから 既に旧字体読めない。
断絶しても翻訳してもらえば問題ないし。 周王朝。
王朝存続期間の長さで偉大。
後半は統治の実権を失ってると反論もあろう。
だが諸侯諸国が勝手に領域を拡大してったおかげで、
漢字文化圏が大きく広がったのではなかろうか?
中華が巨大になったのは周がきっかけだよ。 >>325
同音異義語が大量にある言語で断絶したものを翻訳するのはすさまじいコストがかかる >>327
コストは最初だけ。
同音異義語だらけの文字数が多過ぎの漢語の呪縛から離れることのメリットが時の経過と共に大きくなる。
まぁ音の数が少ないヤマトコトバだと冗長になりやすい欠点はあるな。
トルコがアラビア語、ペルシャ語の借用語を取り除き、トルコ固有語の復活を目指す言語純化運動をやったが、冗長になったとの批判がある。 https://news.yahoo.co.jp/articles/14a32c55c6104bd57eb2880b775081f1ca0578df
中国経済の〝ゾンビ状態〟さらに悪化 若者の失業率40%超、住宅ローンの債務残高960兆円 地方のショッピングモールでは売り子があくび
8/5(金) 17:00配信 >>324
ひらがなカタカナだけで文章にしたら読みづらくてかなわん 学校教育から漢文を外せ。古文も要らぬ。
興味持った人が趣味でやってればいい。 漢文やるより現代中国語やった方が漢籍史書に取っ付きやすい。
古典中国語と差はあるが、それも慣れる。
何より豊富な中国語論文が理解できる。 現代中国語でも四文字熟語が多く使われる。
正確な意味を理解するのに引用元の漢籍を知る必要がある。
苦労があるが、中国人相手に四文字熟語を使ってみると、よく知ってるねと感心してもらえる。 現代中国語学習に欠かせないピンイン。
本来は単なる発音記号ではなく、
漢字廃止目的であった。
曰く、漢字は古代と封建社会の産物であり、統治階級が群衆を迫害する道具の一つ。人民が広く字を知るための障害。
それに代わる現代科学と国際化の要求に適合する労働大衆の文字がピンインだった。
でも結局は漢字廃止に出来なかったんだね。 >>326
儒学者が理想とした王朝だな。
でも孔子が西周の礼制だと主張したものは、東周以降のものだったらしい。
既に孔子の東周春秋時代に西周は伝説の存在で何が史実がわからなくなっていた。
王朝存続長すぎ。 清が鎖国をせずにイギリスの自由貿易を認めていればアヘン戦争は起こらなかったのに >>340
英国がアヘン以外に清に売るものがある? ちょうどその頃、イギリスは産業革命だ
大量生産した綿製品に、清国製なんかじゃ勝てない インドでもそうだ
18世紀までは、イギリス産の綿製品はインド産にとてもかなわなかった
18世紀の後半に、綿織物工業の機械化が進展
本当にイギリス産が強くなったのは19世紀 1930年代に、鉄道と蒸気船による交通革命が起きた
鉄道も蒸気船もそれ以前からあったが、爆発的に普及して世の中を大きく変えた イギリスの産業革命といったら、七年戦争からアヘン戦争まで
1760年代から1930年代にかけて アヘン戦争がなくても、その頃から清国産の本格的に敗北が始まっただろう 英国人は茶が好き。
茶の輸入量統計をみると、
1713年に16万ポンドが
1760年で600万ポンドに増加
オランダ東インド会社の全輸入商品で占める茶の割合では
1711~13年でわずか 2%
1730~32年で18.88%
1771~73年で24.2%
1789~90年で54.4%
と急増。多くが英国に持ち込まれる。
茶葉の支払いで多くの銀が清に渡っていった。 シナが世界に誇る三大輸出品といえば、陶磁器・絹織物・茶
シルクロードの時代から、この3つと相場が決まっている
このうち、陶磁器は日本の伊万里、ドイツのマイセンなど強力なライバルが台頭してきた
でも、茶だけはやっぱり、栽培に適した風土ってものがあるんで 茶は、一度飲み始めたら、もう茶なしでは生きられなくなる
茶のない生活など考えられなくなってしまう。いまさら、水には戻れない
だから需要はどんどん伸びる
阿片も同じなんだろ >>351
日本は陶磁器、綿布、絹織物、茶を江戸時代で国内産業化に成功した。
やっと清からの輸入に頼らずに済むようになった。
清の物産が魅力的過ぎて、金銀が長崎から清に渡ってしまい、
堪らず代わりに昆布やナマコなんぞを売り込もうと必死だった。
蝦夷の昆布で中華料理が進歩発展。
アヘンではなく昆布にした江戸時代の日本人は良心的。 >>352
アヘンよろしくない。
ミャンマーの山岳地帯に武装した少数民族の村々があって、政府の支配がなかなか及ばない。
ここに長年、いわゆる麻薬王が君臨していた。
犯罪組織の逆鱗に触れたら則銃殺で、
山道に死体が転がっているのが日常というハードボイルドな世界である。
そうなってしまった原因は清向け麻薬の製造を現地人に教えた英国人にある。 アヘンを受け入れる清側で暗躍したのが青幇。
中華王朝の裏の歴史を彩るのが民間秘密結社。 >>356
ボストン茶会事件。
茶葉への課税反対がアメリカを独立させた。 なんか勘違いしているがボストン茶会事件は茶葉への課税『廃止』が引き金だぞ
関税高かったからイギリス植民地外からの密輸が横行したので
密輸されるくらいなら関税なくしてインドの茶売ろうとイギリスがしたのに対し
密輸業者ブチ切れして独立派に合流、暴動起こす
暴動が起きた結果、それまでイギリスに好意的だった層もよくわからんがイギリス政府が弾圧してきたぞと独立派に合流
独立支持層内でも北部の工業派閥以外はイギリスから独立してもメリットなかったのに独立戦争を始めるという不思議な事態
なお、この歪みは第二次英米戦争中でも尾を引き南北戦争の遠因の一つになる アモイの空港のレストランで何皿か注文し、ついでに茶を頼んだ。
レシート見たら料理合計より茶の方が値段が高かった。
恐るべし高級茶。
確かに美味い茶だったが
中国茶にハマると財産失いそうだ。
まさに茶は戦略物資。
歴史を動かすのも納得。 >>358
勘違いを教えてくれてありがとう。
アメリカって独立後に茶離れしてコーヒー党に宗旨変えしてる気がする。 教育受けられた富農が好き勝手に地域の任侠やっていたのと文字通りの乞食坊主が反乱軍入りしたのを
同列に無頼で括るのは無理ないか? >>363
朱元璋の方がはるかに下層なのは同意。
願わくばそのまま白蓮教帝国を作って欲しかった。
古色蒼然たる儒教帝国に戻っちゃってつまらない。 側室抱えられるほど豊かになってからできた子だから若くして戦場に立つことはあっても貧困で苦しむことはなかったんじゃないかな 皇帝・朱元璋の宮廷は、若い頃からの仲間のチンピラヤクザもいれば、士大夫階級もいる大混乱
あの大粛清は朱元璋本人もさることながら、そいつらの水面下の暗闘 >>371
白蓮教総帥を明王、後継の息子を小明王と呼んでるじゃん。
白蓮教を光明教と呼んだりするし。
本来は小明王を推戴する立場の朱元璋だったが、
小明王が「船舶事故」で溺死してしまったため、
朱元璋自らがその後継として、大明の皇帝に即位。
普通に考えたら救世主・明王として皇帝に即位する事を宣示する意味があるんでないの?
さらに普通に考えたら朱元璋が小明王に手を下した。
何食わぬ顔で盛大な葬儀やってるけど、
小明王が消えることで一番得してる。 >>370
経済と文化が一番盛んだったのが万暦帝の頃じゃないかな。 根拠地置いた金陵の別名が明だったからそのまま勢力名にしその後国号にしただけ
時期を考えると白蓮教と被るから明と言いたくなるのはわからんでもない 日本から渡った縄文人王朝
古国時代(三皇五帝)~夏・殷
偉大なのはここまでや >>374
金陵が火の神・祝融の土地で、
祝融の「大明(大いなる光明)」は比類なきもので、
「大明」を国号にしたというのは、
明王朝の大臣・柯仲炯が言い出したことで、
白蓮教の痕跡を黒歴史として、拭い去りたい意図がなくない? 明朝の後期、とくに江南地域は「人類史上、最初の高度成長期」
というほど経済が発展した 中国史の教科書を見ると、同じような王朝の興亡を繰り返してたように見えるが
実際には、明朝の後期あたりから似て非なる存在
人口爆発と高度経済成長により、まったくスケールが異なる別の国と化した 明朝の後期からだと清以外の王朝ないじゃん
人口爆発というが人口爆発の原因である公衆衛生の改善は中華人民共和国になってからなんでそこも少し引っかかる >>379
公衆トイレ衛生に関しては、サーズ感染騒動後に劇的に変わった。
ごく最近20年ぐらいの話。
人口増加をもたらす第一要因は食糧増産。 >>380
この場合の公衆衛生は出産・幼児の死亡率低下の話
産褥熱による死亡がボトルネックで食料増産されても人口の伸びが抑制されていた >>381
>>241の数字を見ると、清での増加が特異に見える。
前漢(2年)が6千万人近く
後漢(144年)が5千万近く
唐(755年)5300万
宋(1080年)3300万
金(1195年)4850万
元(1290年)5900万
明(1570年)6000万
とあまり変わってない。
清が1644年4500万から1834年の4億以上へ一気に急増。 >>382
北辺からの略奪がなくなり華北(近代は長江流域がと言われるが寝台でも華北が第一の生産拠点)が安定して経営できるようになるとこれか
同時代の日本の人口は900万から4000万だっけ 寒冷地でないとデバフで土地を腐らせて他の作物でも数十年にわたる収量減少を引き起こします(マジ 日本から渡った縄文人王朝 古国時代(三皇五帝)~夏・殷
そこに北から南下して成立した征服王朝 周
そこに西から来て戦国時代を征し、それ以前の歴史を焚書した秦
それを革命して成立した漢
そして人口が1/10になった三国時代 >>386
この手の馬鹿は冗談だとしたらセンスなさすぎだし、本気で信じているなら救いようがない アヘン戦争を引き起こした林則徐は、現代中国ではなんと民族的英雄として非常に尊敬されているとのこと…。
アヘン戦争で悪いのは全てイギリスであると教育されているみたい。
清軍自体も大いに奮戦したが残念ながら次々と拠点を占領されて降伏してしまったと中国の教科書に書かれている。 >>383
唐代で既に江南が食料基地。
輸送する大運河が最重要施設。
宋が運河輸送に不便な長安でなく、
便利な開封を都にした。
華北は元末にほぼ壊滅状態。
江南は比較的に繁栄。
反乱で江南から食糧が絶たれた大都は風前の灯火。
江南から台頭した明の洪武帝は経済の南北格差に結構悩む。
華北の復興に尽力した功績は大きい。 >>390
一応、指定年の戸籍史料に基づく推計値。
王朝の期間中の増減の幅はかなり大きい。
宋は1億を突破した時期もある。
王朝初期に人口増加に転じ、最盛期に増加のピーク。
末期に一気に大減少というパターンがある。 >>389
イギリスの良いところを教えてくれ。
当時の野党指導者グラッドストーンが清にアヘン貿易を取り締まる正当な権利があると主張し、戦争に反対したのが、わずかな良心の表れではある。 ディズレーリ内閣植民相カーナーヴォン伯爵
「帝国主義には二種類あり、一つは皇帝専制などの誤った帝国主義。
もう一つは平和を維持し、現地民を教化し、飢餓から救い、世界各地の臣民を忠誠心によって結び付け、世界から尊敬される英国の帝国主義である。
英国の領土拡張は弱い者イジメではなく、英国の諸制度と健全な影響を必要とあれば武力をもって世界に押し広げるものである。」 >>384
トウモロコシ、サツマイモ、落花生も重要。
新大陸由来なのに、日本語名が唐もろこし、薩摩芋、南京豆。
ついでに唐辛子の普及で四川料理が辛くなってしまった。 蜀地方はもともと椒を多用しておりそこに山椒が加わり、唐辛子がさらにという流れなので辛いというか刺激強い料理だったのは元から >>393
> イギリスの良いところを教えてくれ。
あまり知られてないが、清朝が太平天国の乱を鎮圧できたのは
イギリス人の軍事専門家による指導のおかげ >>397
ますます革命派の敵。
英国帝国主義への恨みしかなくなる。 >>389
林則徐はポルトガルから最新の大砲手に入れようとしたり義勇兵募ったりしてやる気満々だったが
皇帝が義勇兵解散させたりした上に戦争仕掛けたりアホな事したからね >>397
太平天国は革命的民族独立運動の先駆けと見做されてる。
これを潰すのは人民への弾圧に他ならない。
洪秀全は英雄扱いなんだから。
民衆のエネルギーが爆発したことは間違いない。 >>400
洪秀全、普通に自分がトップの新王朝開こうとしてただけじゃね?
民衆反乱と平等を求めての蜂起は全く別物 >>401
そのとおり
宗教秘密結社を利用して天下を取ろうとした張角、朱元璋の二番煎じでしかない 前二者にどっから秘密が入った?元末は塩の密売商人の秘密結社が白蓮教に合流あるいは隠れ蓑に使いはしたが >>401
それは一般的な日本人の見方で、正解ではある。
しかし公式革命史観では、洪秀全、李自成らは人民の英雄。
朱元璋は途中まで人民側だったが、地主階級に寝返った裏切り者。
その他の評価は存在しない。
後の国民党や共産党に太平天国残党の流れを持つと思われる民間秘密結社が多数加入してる。
各秘密結社は時に宗教、時に拳法、時に共産主義の看板を掲げ、活動していた。
こうした秘密結社出身の同志たちのためにも、公式史観は揺らがない。 孫文
「13歳の時に叔父が設けてる学塾に転入したが、塾の教師は皆、太平天国の人で、、太平天国の歴史を講述し、学童は皆感化された。」
学課が終わると洪秀全の話をし、孫文の頭を撫でては、洪秀全になれと扇動する老人がいた。 太平天国の乱は、死んだ人の数では第二次世界大戦にも
ヒケを取らない人類史上最大級の戦争だったけど
壊滅的な被害を受けたのは、なんといっても
江蘇省・浙江省・安徽省あたりの長江下流地域
孫文が育ったのは広東省だから、そこまでの悪印象はなかったのではないか。
むしろ、祖国・広東省の英雄だったのだろう >>406
孫文自身が「太平天国戦史」を出版したことがあるぐらいだから、
かなり入れ込んでた。 漢人が天下を盗ろうと思ったら宗教秘密結社を作るしかない悲しい現実
中国共産党なんてまさに宗教秘密結社 >>408
秘密結社ネットワークが中国史そのものだよ。 中国の時代劇には、反清復明の秘密結社がよく出てくる。
反清復明の闘士は、長髪だからすぐ分かる
ただでさえ主役顔なのに加えて、他の男性陣がみんな弁髪なので
浮きまくるほどカッコいい。美味しいところを全部
持っていってしまう >>408
中国共産党結党時メンバーの経歴を見る限り、
秘密結社幹部出身が複数確認できる。 しかし、秘密結社ったって、長髪にしてたらすぐバレると思うんだよな
ふだんは山奥とか地下のアジトに隠れてないといけない >>412
確かに。WWW
「太平天国演義」の主題歌
https://youtu.be/rlvp-43EKTE
Youtube で何話か見たけど、はっきり言ってつまらない。
なぜつまらないのか?
一つには視聴者全員が洪秀全が民族の英雄だと認識している前提でシナリオができてる。
日本人の自分にとっては、なぜ彼が英雄なのかの描写が欠けてるので共感できない。 満蒙軍閥から台頭した隋・唐・宋・元・清とは違うのだよ 確かに
明朝は、要するに「成功した太平天国」だからな 太平天国を主導していたのは客家。
天王洪秀全を始め、東王楊秀清、翼王石達開など皆、客家。
孫文も客家(違うという説あり)。
孫文夫人の宋慶齢、蒋介石夫人の宋美齢の姉妹も客家生まれ。
中国共産党の朱徳、鄧小平、葉剣英、李鵬、郭沫若
台湾の李登輝、蔡英文
シンガポールのリー・クアンユー・・・・
名だたるメンバーが客家系。 広東省は、「中国の薩摩藩」と言われるだけのことはある >>417
太平天国兵の主力は、もう少し南、広西チワン族自治区だな。
少数民族比率が高い。 >>407
孫文は「太平天国戦史」で
洪秀全の弱点として
外交力の不足、革命資金の不足を挙げている。
この弱点を克服すべく、自身は海外で活動してたわけだ。 イギリスと中国
どっちに住みたいかと聞かれたら殆どの人はイギリスと答えるだろう >>397
イギリスは太平天国と友好関係を結ぼうとした。
ところが洪秀全がアヘン取引を断固拒否する。
そこでアヘン取引ができる清の味方についた。 太平天国の乱の悲惨さはあまり語られないね
あれだけの死者を出したし首謀者グループは極刑となった割には >>424
北伐軍が全滅したり、最高首脳陣の内部抗争と粛清でガタガタになった際にあっさり滅んでいれば被害が少なかっただろうな。
困ったことに優秀な人材が次々と新たに登場し、
組織を一旦立て直し、善戦しだしたするものだから、
却って滅ぶまで十数年かかり、被害が大きくなってしまった。 >>425
それだけ民間(漢人)に清朝への怨嗟が強かった証なのかな 中国ではいつの時代も賊軍より官軍の方がよっぽど酷い 清も康熙乾隆時代には台湾を直轄地とし、ウイグルやチベットのみならずモンゴルまで藩部に治め、朝鮮、琉球、ベトナム、タイ、ビルマ、ネパールを属国とし、
ロシア相手にも康熙帝がピョートル大帝の軍を撤退させたことでスタノボイ山脈以南を清の直轄地としてロシアの南進を防ぐとともにロシアを朝貢国にまでしたのに、
アヘン戦争に負けた後は領土が削り取られていったり東南アジアや琉球が独立してりとどんどん衰退していってしまった。 >>429
議論の余地なく「南京大虐殺」。
天京20万人が犠牲。 ナポレオンはロシア遠征で大陸軍60万人を失ったけど上には上がいて隋の煬帝は高句麗遠征で113万人の兵力の殆どを失い無事帰還できたのは数千人足らずだったとか
612年正月、隋の煬帝は、113万の大軍で高句麗に侵攻した。
高句麗の将軍乙支文徳は、隋軍の内情を探るため、降伏すると見せて隋軍の陣に入り、補給に問題があることを知ると、脱出して高句麗軍に戻った。
乙支文徳は、焦土作戦を取りながら、わざと退却し続け、宇文述が率いる隋軍を深く引き入れ、補給線を延びきらせた。
乙支文徳は、薩水(清川江)で、疲労と補給不足に陥った隋軍を包囲してほとんど全滅させた。
これを韓国では、薩水大捷という。
隋の大軍のうち、帰ることが出来たのは、わずか数千人だったという。 >>250
アケメネス朝は王様自らエジプトに繰り出して征服して、王族から知事を派遣していた。
知事の在所はメンフィスで、下エジプトの一番上エジプト寄りのところ。 >>256
今の日本で言うと京都のウトロとか東京の駿河台みたいなものか? >>432
チャイナの歴史って、いつ・主導者が誰というのは割と正確だけれど、
数量的なものってデタラメだよね >>437
戸籍史料が足りない場合、動員された兵力で人口を推計してるんだが、
推計する根拠がなくなっちゃう。 >>432
唐の太宗も高句麗に負けてるんだが、
そちらは名君。 >>434
クセノポン一行がペルシャ領内から追手に追われて逃げるわけだが、
ペルシャ王に従わない民族に出会って救われたりする。 >>435
そうでもない
数量統計の記録化は「同時代の世界との相対性」から、中華文明の特色と言っていいくらい熱心
インドはちょっと極端(統計無視、論理重視)としても、(東)ローマやギリシャ、エジプトなんかも統計はそれほど熱心でない
中国の場合、近世以降に西欧に置いて行かれたってだけ >>408
基本的に政府は個人の福利厚生に全く関与しない。
そこで共助の民間組織が必要となる。
秘密結社の出番となる。
複数の秘密結社が連帯すると、巨大勢力へと成長する。
今でも同郷の助け合い組織、省人会みたいな活動が盛んだ。 中国共産党の末端の「居民委員会」が地域の世話役を買って出て、
福利厚生に力を発揮してる。
党の大衆操作の力の源が居民委員会だな。 >>441
人頭税を徴収する場合、統計が必須だよな。
でも収税人の制度で、徴税を民間委託しちゃうと、統計にこだわる必要もないか。。。
収税人の搾取で民衆が悲鳴を上げるだけで。 >>443
国民党が田舎で支持失って負けた理由だな >>442
明や清は毎年冬季に北京外城に粥廠を設置し、
貧民に食べ物を供給した。
大規模水害の際に粥廠で炊き出しも行う。
寺院などが行う私設粥廠の方が数が多かったが、
官が何もしない訳では無い。 とかく満州八旗の無能と奢侈を揶揄する史論が多い。
でも乾隆帝3年の寧夏府でのマグニチュード8の大地震の記録を見ると
八旗が被災民救援の中心となってる。
自ら被災し家族を失った旗人も自己犠牲的な救援を行ってる。
もちろん救済活動で無能だった旗人も少数ながらいるが、後で処罰されてる。
八旗が中間支配層の役割をしっかり果たしていたからこそ、
広大な領域をまとめていけた気がした。 >>445
民国でも保甲制度があった。
そのモデルは古く、明の里甲制。
いやもっと古くは秦の商鞅による什伍が起源かもしれない。 >>445
国民党の勢力基盤は都市の財閥やから田舎は元々無理 明政府が白蓮教と敵対するようになると、白蓮教の力を削ぐために、
白蓮教の求心力の源泉だった福祉分野を明政府が代替する必要があっただろう 清も白蓮教への弾圧を極めていたが、
多くの教団はもはや白蓮教の看板を掲げてはいない。
摘発されたメンバーが、自分たちが白蓮教徒であると全く認識してないケースが続出した。 18世紀には、欧州の知識人が「出自の区別なく誰もが学力次第で偉くなれる」
といって科挙の制度を称賛したが、科挙官僚の上には満州人の軍事貴族がいた
これは朝鮮も同じで、「我が国は文官優位が伝統」と朝鮮人はよく言うけど、
その上には清朝の強大な武力支配があったわけで その点、明朝はその理想像に近かったかもしれん
本当に文官優位の国家を実現することができた
朝鮮も、形の上では明朝に服属していたものの、軍事的に征服されたわけではなかった >>450
イスラム教の福祉制度も手厚い。
金持ちは貧者のために喜捨することが宗教的義務となってる。
宗教勢力の力を削ぐには福祉充実社会を実現するしかないな。 >>453
明って、皇帝にあらずんば人にあらず。
皇帝以外は奴隷と同じ。
高位高官であっても、ひとたび勘気を被れば、即凌遅処死。
ある意味、平等かもしれない。
皇帝一族への給付が後期になると財政へのかなりの負担となってる。
朱一族はみんな子沢山で、ねずみ算式に異常な増加で、
しかも各王家で贅沢三昧。
税負担に苦しむ農民の怨嗟を招く。
一説には明末に100万人とか。
朱家子孫だけで国軍が編成できるレベル。
明清交代期に、ほぼ殺されるけど。 元や清のみならず唐も実は異民族国家
これを中華王朝というのは王貞治を日本人というのと等しい >>389
ウルムチに行った時、林則徐の像を見てちょっと泣けてきた。
アヘン戦争の後に新疆にとばされたけど、新疆でも真面目に働いてたらしいね。 >>441
今の中華人民の統計が殆ど信用できないってのは、近世以降の現象なん? >>446
貧民を捕らえて煮て食べたんではないんかい。
粥にされるのはお前だ、みたいに。 >>456
ワンちゃんも血統的には半分日本人だけどな >>458
未だに前近代の感覚で数字扱ってるという意味
ただし、国内統治向けに正しい統計持ってる可能性自体は捨てきれない(多分なさそうだが) >>461
地方政府からの報告積み上げでは水増しになりやすい。
貿易統計に関しては相手国側にも統計があるので信用度が高い。 国土交通省の統計不正で5兆円GDP水増しがあった日本も偉そうにできない。 >>459
妄想で語るのはいくない。
日本人の誇りを汚す。 >>462
非常に残念ながら
途上国(のみならず先進国でも)の統計のいい加減さはそんなレベルではないので
比較的統計がしっかり取れてるのは、英米系だなあ ドラマ「大明帝国 朱元璋」では、
荒廃した揚州の知府に抜擢された楊憲が、復興事業に着手し、短期間で収穫量を急拡大して見せて、洪武帝に絶賛される。
だが実際は収穫量を水増しし、別の地域で購入したものを納入し、実情を知る商人を殺害していた。
ことが露見し、中書省要職に昇進していた楊憲が粛清される。
洪武帝は自分を欺いた文官たちに怒りと不信感を募らせる。
というストーリーだった。
実際の楊憲がなぜ処刑されたかは史書に具体的な犯罪記述がない。
胡惟庸から弾劾されて殺されたことまでが史実。
ドラマ製作者が、大寨村の党支部書記の指導で食糧生産を7倍に増やしたと宣伝された事例を風刺しているわけだ。 >>455
日本だって似たようなものだろ。
幕末に、士分で徳川家康の子孫でない方が珍しいくらい。
明治の頭で士族が人口比7パーセントだから200万人くらいか。 >>464
チャイナって飢饉になるとすぐ人食うじゃん。
飢饉でなくても士大夫層は喫人するじゃん。 >>467
さっさと秩禄処分してれば、財政難を克服し、明朝は永らえたかもしれないね。
朱一族も絶滅寸前になることもなかった。
国務院総理だった朱鎔基は朱元璋19世だとか。 >>468
明清の救貧制度を貶めるのはいくない。
提供した穀物の石高記録だって残ってる。 >>467
そんなことはない
徳川家の血はそんなに武家には広がってない
(大名家と血縁あるような高級武士層ならともかく)
なお、公家は中級以上だとたいてい皇室と徳川の血を引いてる模様 どうしても貶めたい場合は、
例えば水害救援で乾隆帝が何十万両かの支出を決定するも、
中央、地方官庁で中抜きされて、
実際に被災者の手に渡ったのが数分の一に過ぎなかったとかの事例を挙げるのがよろし。
中抜きは現代日本でも普通に行われてると反論が来ちゃうが。 >>465
海関(税関)業務を、イギリス人アメリカ人フランス人に委ねて、総税務司に任命しちゃう。 「習近平の『皇帝化』は歴史の必然」――中国史の第一人者が暴露した「悪党を生み出す中国というシステム」 | デイリー新潮
https://www.dailyshincho.jp/article/2022/08250615/?all=1
2022年08月25日 イスラムと唐の西域の支配権を巡っての決戦となったタラス河畔の戦いはそもそも20万対3万では勝負にならない上に、戦闘民族イスラム相手にステップ気候という相手の土俵で戦ったんではそりゃ負けるわ。 >>475
高仙芝はそれまで西域72国を降した猛将なんだけどね。
現地のカルルク人に寝返られてしまった。 と言うことは中華の支配もパミール山脈までだな
それ越えて支配したのは唐だけだし >>478
清の中央アジア支配は、中華帝国としてでなく、大ハーンとしての支配だったりもするのでなかなか難しいよね >>479
唐だってそうじゃないのか?
たとえば、タラス合戦のときのアッバース・イスラム帝国とか吐蕃国とかは、交戦敵国を拓跋河汗国と認識してたろ。 >>480
太宗は遊牧諸部族から天可汗の称号を受けてる。
吐蕃は唐と盟約を交わしていて、お互いを対等に大唐、大蕃と呼んでる。
アッバース朝は安史の乱の際に唐からの援軍要請を受けて、アラブ人軍団を長安方面に送り込んだ。唐代で既にイスラム商人が広州などに移住済み。かなり唐についての知識はあったはず。 >>477
イスラムに追われたササン朝ペルシャの皇子を支援して、アラル海より西の現在のイラン国境近くまで進軍して、波斯都督府を設置してるね。 >>480
その例は不適切
吐蕃もアッバース朝も、唐は唐と認識しているし、唐自体も「拓跋可汗国」と公称したこともなければ自己認識したこともない ちなみに清は、自ら大可汗として「大元」「蒙古国」の後継者としてモンゴル高原等のステップ平原と西域を支配した
その違い >>482
中華民国に追われた大清国の皇子を支援して山海関から北東~アムール川まで進軍して満洲国を建てさせてた日本のやり方と同じ? >>483
そりゃ訳せば唐の皇帝だろうけれど、実際に出て来る単語は、国名は、Tabasi とか Tabgac、王様の称号が khaganとかqagan だろ
国号かTang と出てきてないし、王様の称号が Hwangtaiかそれに類する語で出てきてないじゃん >>485
ペーローズ3世がパミール高原に逃れて唐に救援を要請した。
ペーローズ3世自身は少なくとも2度長安を訪れてる。
右武衛将軍、左威衛将軍なんかに任じられてる。
石像「六十一蕃臣像」に外国人たちが表現されていて、
そこに右驍衛大将軍兼波斯都督波斯王卑路斯がいた。 今ウイグルやチベットの独立が問題になってるけど、日本は時代に先駆けて満州の独立に大いに貢献したのに、当の満州人(女真族)から当時も今も感謝されてないような気がする。 >>488
既に皇帝制が時代遅れ。
満州人の中でも復古派は少数だったんじゃないか?
清朝皇帝を担ぎ出せば支持が集まると考えたのが悲しいまでの日本人的発想で愚かだ。
独立自治委員会を中心とした共和制で良かった。 >>488
満洲国の運営に協力した川嶋芳子に対する評価は、
漢族は漢奸とするが満州族の評価は必ずしも良くないが、
一律売国奴という評価はしてない。 >>489
あれは、愛真覚羅氏が満州に逃げてきて頼み込まれたから、仕方なく皇位につけただけ >>493
頼み込んだのは日本陸軍だよ。
日本陸軍の要請に同意した溥儀は日本陸軍の手引きで天津から脱出。 >>490
漢族でも川島芳子は一定の人気があるよ。
男装の麗人として中国映画のヒロインになる程度には。 アイヌと同じで純粋な満州族なんて今やほとんどいないんでしょう? >>497
漢族多過ぎ。同化圧力半端ない。
少し前の話だが、満洲族の教育レベルが漢族やその他よりずっと高いというデータがあった。
かつての支配民族の矜持かもしれぬと話題になってた。 >>474
国家分裂と無政府状態を防ぐには暴力で支配するしかない。
国家権力の暴力は悲劇だが、権力が優しさを見せたら、混乱と無秩序を招き、もっと大きな悲劇をもたらす。 >>497
満洲族の血の濃い人は居るよ
ラストエンペラーの従弟のお嬢さん(結構なオバさんだが)が前の勤務先に居たが
乾隆帝の若い時の肖像画とそっくりの顔してたよ
あと、赫舎里氏族の留学生(女性)とも面識あった
この留学生は東大生で国費留学生で頭はいいんだろうけど顔は微妙だった
長身でスタイル抜群なんだけど一重瞼で目が細くて吊り上がってて
ちょっと妖怪人間ベラみたいな感じ 満州人もモンゴル人と同じく新モンゴロイドの特徴が強いからね >>502
満洲族とモンゴル人は結構顔立ちが違う
満洲族は顔は細面でエラは張ってなくて、顎が尖って
目は細くて吊り気味だけど切れ長で左右の目の間隔が狭い
それで、鼻筋が通っていて唇が薄い
モンゴル人は目が細くて吊り上がってるのは共通だが、
左右の目の間隔が離れ気味で丸顔で唇はやや厚め
朝鮮民族は目はモンゴル人と一緒でエラが張ってて
顔の輪郭は四角くて、鼻の穴が丸い 愛新覚羅溥儀の好物はチキンラーメン。
安藤百福が日清食品の日清の社名にこだわったのは、公式で表明したのと違う理由だと思う。 >>499
だから、チャイナは、オロシャの味方してるのね。
オロシャからみると、アムト・カム・チャムド(青海省、四川省の昌都地区・西康地区)に飽き足らず、チベット全域の侵略を敢行した
チャイナのやりタカ派自分の正当化にもってこいだしな。
チャイナにしても、台湾侵攻の良い口実だし。 >>505
ロシアがさらに疲弊してくれたら、手を差し伸べればいい。
何もしなくても、広大なロシアが事実上の配下になる。
その時こそ紅朝が最強王朝となるとき。
紅朝太祖は毛沢東と後世に残るだろう。 >>502
清朝はモンゴル帝国の後継で大汗位を継承している建前があって、満洲人貴族とモンゴル人貴族との通婚は推奨、
まるごとモンゴル人から満州族に移籍した部族とかもあって、しょっぱなから混ざりまくりだろ。
順治帝の生母がモンゴル人貴族の娘
皇太極,帝の生母やラストエンペラーで有名な西太后(同治帝の生母)部族丸ごとモンゴル人から満洲人に移った家系。
モンゴル人以外でも、満洲人に編入される場合があって、乾隆帝の寵妃で嘉慶帝の生母は漢人の官僚の官僚の娘。 >>508
遼の皇室の耶律氏と皇后を出す氏族の蕭(石沫)氏の末裔も満洲八旗の旗人に編入されている。 唐も宋も異民族の国家だとわかってきたからな
漢民族の王朝と言えば漢と明ぐらいだろ じゃあ明民族でいいです。ちなみにチャイナのセミはミンミン言わないそうです。 大阪のセミだってミンミンいわない
ミンミンゼミが多いのは関東 >>513
五胡十六国時代の冉魏の冉閔は漢族以外の胡人を殺せと胡族虐殺命令出してるだろ。 >>510
朱元璋は支配階級のモンゴル人や色目人でないと言うだけで民族出自など全くわからん乞食坊主だろ
元の漢人には旧金朝統治下の契丹人、女真人、高麗人が含まれ、南人には南宋統治下のタイ系民族、
苗族、チワン族、越族(京族:ベトナム人)も含まれてるから元の区分で漢人や南人であっても、
貧民出身で純粋漢民族であること自体が困難だろ >>516
街んなかなら、靭公園と大坂城梅園に少しだけいるで。
山の方に行くとウジャウジャいる。
池田の五月山とか、箕面のサル保護区や粟生とか、東大阪の石切さんとか、太子町のワールド牧場とか、行きやすいところにミンミンしている。 >>517
あれで白人混血系が中国からだいぶ減った >>518
民族とは文化的分類であって血統や遺伝的形質でないって何度言われれば理解するのか >>521
明はチベット仏教に入れ込む皇帝がいたり、永楽帝の皇位簒奪とか、
かなり文化的にモンゴル的になってるぞ >>522
民族とは文化定分類
ってのと
よその文化との交流、影響が見られる
ってのは別概念だし
そもそも大元ウルス以降の中華文化にモンゴル文化が大きく入っていて、明朝そのものの統治にモンゴルの残滓が残ってるのなんて300年前からの通説だろうて >>523
だから、文化的にも民族的にも純粋漢族王朝と言えるのは南朝陳でおしまいだろ。 >>524
牽強付会も何も、定義と通説の話しかしとらんが?
民族は文化的分類であって、遺伝集団のことではない 民族の話しで血統とか人種とか持ち出してくるキチガイがなんで後を絶たんねん >>529
歪んだ国家先導型ナショナリズムのせいじゃね?
中共の「中華民族」的な >>530
「中華民族」にはそれこそ人種も血統も関係ないやん >>529
世の大半は混同しているからね
これで歴史語るのは間違い >>533
じゃ、安倍仲麻呂も漢民族か?
耶律楚材はモンゴル帝国の漢人だけど元史には契丹人と書いてあるぞ >>522
おまいの言葉で言う簒奪をした永楽帝、簒奪されて帝位を追われた健文帝も、初代洪武帝の子孫だぞ。
文字通り、永楽帝は子、健文帝は孫。
単なるお家騒動じゃん。
同じような関係の争で甥を帝位から引きずりおろして叔父が帝位に就くというのは、漢にもあるで。
前漢の四代めの少帝と、五代目の文帝。
後漢の五代目の殤帝と、六代目の安帝。
後漢の初代洪武帝も、同じ劉氏前漢の景帝から数えての世代数も同じ、更始帝を帝位から追いやって
帝位に就いている。後漢政権は更始帝が帝位に就いていなかった扱いで帝号剥奪。
これも、清の時代に名誉回復されるまで、永楽帝が健文帝の帝号を剥奪していたのと同じ。
漢の次の漢人統一王朝の晋にもある。
こっちは名誉回復されてない、西晋の三代め懐帝と四代め愍帝の間の司馬倫。
懐帝からみて、司馬倫は大叔父。
東晋にも大叔父によって帝位を排されて、大叔父自ら帝位に就いている例がある。
七代目の海西公と、八代目の簡文帝。 満洲旗人の方が教養が上だな。
旗人子弟は必死に漢籍を学習していた。
科挙及第者たちに馬鹿にされない程度には。 >>534
モンゴル語でチャイナのことのKhidaiっていうじゃん。遼国もKhidaiもしくはKidan Ulus(契丹国) >>537
モンゴル語で中国はХятад(Hyatad: ISO9式キリル文字→ローマ字変換)で、発音はヒャタッドだよ >>536
旗人だと蒙古八旗所属の旗人が語学的には凄いぞ
モンゴル語、満洲語、漢語、チベット語をこなすのはざらに居た 清だろ
今の中国があんなにデカいのも清がクソデカかったからだし それでも外蒙古やら沿海州やらバルハシ湖周辺やら
清と比べたらかなり縮小してる
越南やタイも清に服属してたけど
そんな服属国も今は無い >>526
Y染色体O2が漢人の血筋
D系が入ってたら漢人ではない
C系は多少だったら漢人にも見られる
日本人や満州人やチベット人よりはフィリピン人始めとする東南アジア系の方が漢人に近い
https://i.imgur.com/LVW9iia.jpg
ちなみにこのY染色体は男系にしか流れない
女系天皇が否定されているのは女系だと神武天皇からの天皇家のY染色体が途絶えてしまうから 唐や清の歴代皇帝を漢民族と呼ぶのは
ルイスハミルトンやモハメッドアリやマイケルジョーダンを欧印語族と呼ぶのに等しい >>544
人類学では生物学的な見地からの民族区分してるんだよ
文系脳には理解出来ないんだろうけど >>545
言語分野なら、母語が英語なら印欧語族だわな何言ってんだお前当たり前だろ >>546
人類がにおける民族は多義的だが、少なくとも生物学的に形質的な分類である「人種(Race)」と、文化的集団である「民族(ethnic groups,Ethnicity)」は完全に別物
適当なこと言ってんじゃねーよタコ >>548
言葉遊びでしか喧嘩できないバカ文系
データと数字で客観的に証明する能力つけてからものを言え >>543
女性天皇ってY染色体持ってないからその理論だと歴代から外さないとおかしくね?
推古天皇とか持統天皇とか >>549
データと数字も何も、そのデータや数字扱うのに大事なの「定義」じゃねーかアホかよ……
定義づけしないで数字遊びするとか科学でもなんでもない >>550
女性天皇は、神武天皇から続くY染色体を継承する男系男子天皇が即位するまでの繋ぎ 繋ぎなら尚更称制扱いにして天皇として扱わない方が正しくね?
DNA関係なく伝統的な概念の「男系」だから天皇になれる、昔からそうやってるからそれでいいんだ、なら分かりやすいけど
Y染色体を持ってるからとか中途半端に科学的に後付けしようとすると色々無理出てくるぞ
そもそも母型遺伝のミトコンドリアDNAと違って「性別を男に決定する」以外はカスみたいな量の遺伝情報しかないY染色体DNAをそこまでありがたがる意味もわからんし >>551
数lllも出来ない奴が科学を騙るな
新たな物を開発出来ない奴が定義って片腹痛い
定義として成立させるにはデータと実証の積み重ねだ
言葉遊びの様な底の浅いことで定義は成立しない 漢とか唐の版図が、ヒョウタン型に、河西回廊のところがくびれて細く、中央アジア方面に欠航広大な領土がある
みたいなふうな地図の塗分け方されてるれど、本当に河西回廊の向こうの西の方まで支配できてたの? >>548
生物学的に形質的な分類の人種というのは、近年否定されてるけどな 現地の権力者を王に任命とかではなく
直接統治してたんか? 一応出先として置かせてもらってたけれど、唐との関係がこじれると、都護府に詰めてる人が皆殺しになったりするんだろ >>560
郡を設置して直接統治した
なお、中唐以降は放棄してる
西域を最もよく直接統治したのは、古代だと多分後漢
それ以降だと清になるんだろうね
大元ウルスは中華文明じゃないので除く >>562
大元は、大ハーン領チャイナで、外から統治されてる地域 >>558
文系脳の知ったか恥ずかしいね
Biological Anthropology(生物人類学)は確した分野で、
DNA解析、電子顕微鏡分析と科学分析技術の進歩で、
新発見があって通説の変更が増えているということだ >>563
漢地はそうだが、チベット、外藩蒙古、新疆は違う
現地有力者を土師に任じて、清朝からのお目付役人の監視下で自治
これらの地域の土師はそもそも北京には呼び付けられず、
熱河でモンゴルのハーンの衣装を身に着けた清の皇帝が引見してた >>566
調べれば調べる程、移動と混血の痕跡ばっかり出てきて、
人類全部で一集団としか扱いようがないことが判ってきている 新疆古代の遺伝子解析結果が公表されたね
まだ読んでいないが面白そうだ 前漢は、亀茲に西域都護府を置いていた。
そこには漢軍が駐屯して、ニラミをきかせていたな
周囲の国々は漢朝に服属していたし、反乱があれば鎮圧可能。
漢朝の法の支配の下で、隊商は安心して商業活動できた(←これが大事)
後漢はなかなか、そこまでの力を及ぼせなかったが
班超が強力な漢軍を亀茲に駐屯させ、またニラミをきかせた時期もあった 内地でも外地でも、古代帝国はどっちにしても点と線の支配で都市国家連合みたいなもの
河西回廊から中央アジアの出口までは、両側を険しい山脈と砂漠にはさまれ、そこしか通るところがないっていう細長い地域
点と線の支配で十分 >>571
そげなニラミ、ウチらに任せなはれ<匈奴 >>573
確かに
中華史観からすると、漢や唐の支配が及ばなかった時期は無法地帯だったようなイメージだけど、実際には遊牧帝国が仕切ってるから大丈夫 >>21
遼、金、西夏の出土品で大量に見つかってるのが宋銭だ。
これらの諸王朝でも一応銅貨を鋳造してはいた。
でも出土する銅貨の8~9割が宋銭。
まるで信用力が違う。
宋銭はペルシャや東南アジア、日本でも通用する国際通貨となっていた。
元朝は紙幣や銀を使うが、少額取引で宋銭を使用することを認めた。
明は永楽通宝などを作ったが、明人は明銭を嫌い、宋銭を好んだ。
だから私鋳銭の大半が宋銭をモデルとしている。
宋は地味で弱いように思える。
版図も小さくなるし。
でも通貨力でアジア全体を支配していた。
王朝滅亡後も通貨の威信が長く続いてた。
その広さと期間の長さはまさに偉大。 >>576
銅の含有率が高い、優良な通貨だったからですな
現代とは異なり、昔の通貨は潰して金属として活用できることが評価される
現代のような「基軸通貨国による通貨覇権」とは、ちょっと意味合いが異なる 永楽通宝は中国本土で見つかるのが少ないそうだ。
むしろ日本で大量に見つかる。
明国内で使われなくて、余ってるのを日本に寄越した説あり。 「室町時代には明銭が輸入されたが、日本では宋銭の人気が高すぎて、明銭がなかなか流通しなかった」
「日本から貿易船がやってきた。日本人たちが宋銭での支払を要求したため、中国人は驚いた」
・・・というようなのは、どっちかっていったら日本史で有名なエピソードなんじゃないかな?
中国でそんな話、あったっけ? 壱岐島郷の浦で出土した渡来銭は、4165枚中3827枚(93%)が永楽通宝。 現代と違って、当時は貨幣を鋳造する技術もそれなりにハイテク
日本は銅を輸出して銅貨を輸入してた。鋳造する技術は一応あったけど大陸のはクオリティが違ったし、室町幕府の権威も弱すぎた 大内氏が1485年発布した撰銭令では
銭100文のうち20~30文は嫌がらずに永楽通宝を使え、と命じてる。
嫌がられてたんだね。 >>581
永楽通宝は明では流通しておらず、国外用だと考える人が多かった。
そのぐらい中国本土で見つかってない。
一方、少なくとも15世紀後半の段階では明国内でも流通されていたという説も出ている。
どちらにせよ永楽通宝は忌避されていた。 >>582
永楽通宝の品質そのものは悪くない。
でも信用度が低い。
後北条氏の貫高制は永楽通宝が基準。 日本では宋よりもずっと昔、710年に平城京に遷都される少し前に和同開珎という貨幣を鋳造していたぞ。 https://www.jiji.com/jc/article?k=2022092300415
中国の覇権主義、大平外相が予言 「低姿勢、50年後変わる」―日中国交正常化
2022年09月24日07時16分
>「中国は低姿勢だったが、50年たったら態度はガラッと変わる。
>大きく経済発展して日本を見下すようになるよ」。
>9月29日の共同声明調印式を終え、中国から帰国する日本航空特別機の中で、
>大平は娘婿でもある秘書官の森田一(88、後に運輸相)にこう語り掛けた。 >>582
ジンバブエではジンバブエドルがハイパーインフレで信任なくして米ドルを使うようになったが、日本では最初から信任がある中華貨幣を法定通貨に定めてハイパーインフレを未然に防いだのは賢い戦略といえよう。 >>586
>日本では宋よりもずっと昔、710年に平城京に遷都される少し前に和同開珎という貨幣を鋳造していたぞ。
確かに、それも過小評価すべきではない
平安後期には質量ともに宋銭に圧倒されたが、それは日本だけでなくユーラシア全域
比べる相手が良くない それより、宋銭が大量に流通したことにより、日本の貨幣経済が急速に発展したことに注目すべき
日本が通貨主権(?)を確立するのは、強大な中央権力を持つ江戸幕府の登場まで待たないといけないが、それまで貨幣経済が着実に進展していた 宋では、すでに農民が作物を市場で換金して金銭で納税するのが当たり前
千年前にしては、驚くべき貨幣経済の最先端 中国人といえば、「金儲けに目の色を変える、強烈な拝金思想の文化」というイメージが強い
それは現代の高度成長期に始まったことではなく、明朝の後期あたりから露骨になってきた傾向 >>593
開封や臨安、泉州では、現代の繁華街と同じように24時間飲食店が開き、特別な資格なく利用できたってんだから恐れ入るわ 唐の長安は、夜は戒厳令で真っ暗になった
不夜城の繁華街が登場するのは、宋の開封 宋の開封や臨安は深夜営業の店が多く、千年前に出現した不夜城だった
ただし、宋代においては、まだロウソクが高価で普及率がイマイチ。照明は油燈が主流だから、現代人が見たら真っ暗闇に見えるに違いない
これが明代になると、ロウソクが普及する。元宵節の赤いボンボリが星の数ほど並ぶ、真の夜の賑わいが現れた 「星の数ほど」は大げさだけど(笑)
でも、本当に中国の都会らしくなるのは、やはり明清 まあ、五百年前だったら、世界のどこの人が中国の都会に来ても、ロウソクの灯に照らされる街の明るさにビックリだろう
もちろん、現代人がタイムマシンに乗って見に行ったら、それでも真っ暗に見えるだろうけど(笑) >>596
夜は寝るのが健全。
長安だって西域出身の美人踊り子パフォーマンスを眺める楽しみぐらいはあった。 >>601
長安は夕方になると街の坊(区画)の扉まで閉まる厳戒態勢だからなあ 19世紀の清に圧勝したイギリスや日本に比べると大苦戦したフランスはしょぼいな。
2度の対戦でドイツ相手に遅れを取ったのも頷けるわ。 今もそうだが中華のストロングポイントは経済力だからな
そこから偉大さを検証するのもアリか しかし坊の中での行動は自由やから
坊の中にもちょっとした商業地区はあった
坊は1km四方くらいあってかなり大きいから
坊一つ一つがちょっとした町くらいの規模 胡姫を楽しみに酒場行ったら
帰途は坊の中の旅館に宿泊してたのかな
阿倍仲麻呂とか >>608
西太后がいなければ、もっと早くに清は滅んでたよ。 >>610
太平天国残党や捻軍、新たな革命派勢力。
西太后、東太后、恭親王奕?が起こしたクーデター辛酉政変で、保守派大臣を粛清し、
恭親王奕?を中心とした洋務運動が始まり、清を大改造した。
変化の度合いからすれば明治維新を上回る規模になる。
洋務運動はそれなりに成功していたと評価したい。 >>612
清が東洋一の北洋艦隊で日本を恫喝したことで、
危機感を持った日本が急速な軍備拡張を始めて
いつの間にか逆転していた。
実情を知ってる李鴻章は日本と戦いたくなかったけれど、
主戦派に押し切られてしまった。
あげくに主戦派は島国日本に負けてしまった理由を
西太后の海軍費流用疑惑を騒いで、
責任を西太后に押し付けた。 太平天国軍が勝っていたら間違いなく英仏に国土の一部を占領されていたよ
香港みたいにね
まあその方が良かったのかもしれないが >>614
当初、英国は太平天国と交渉したが
太平天国はアヘン貿易を断固拒否する姿勢を崩さなかった。
そこで英国は太平天国を潰しにかかる。
英国はアヘン取り引きを認めてる清を支援することとなった。
まさに英国は悪虐非道、鬼畜の所業。 >>615
いや、それだけだはないぞ。太平天国は欧州のキリスト教標準の三位一体説の否定と
一夫多妻制の肯定もしてたから、英仏からしたら異端集団でしかなかったことも大きい、 >>617
異端だろうと、キチガイ集団だろうと、利用価値があれば支援するのが英国流じゃないか?
戦火を交えてたり、公使館を焼き討ちされていても攘夷派テロリストへの支援を惜しまないし。
太平天国や義和団には利用価値がなかった。 >>617
>キリスト教標準の三位一体説
ああ?
なら聖書から三位一体を主張してる部分を引用してみろ >>619
そんなもんはない
公会議で認定されたただの解釈だもの
ただし、それこそが異端かそうでないかの分かれ道 19世紀の段階では太平天国は異端だよ
21世紀では同志だがね >>621
伝統の土着宗教秘密結社連合体がキリスト教の衣をまとっただけだろ?
朱元璋を産んだ白蓮教徒と同質じゃないか? 時にキリスト教、時に拳法、時に気功術、更には共産主義と
時勢に合わせて旗やラベルを取り替えてるだけで
中身が同じイメージ。 >>574
唐は遊牧帝国だろ。
漢字箸圏には中華帝国の皇帝の支配する国
北方西方に対しては拓跋の河汗の支配する国
を自称してたろうに >>582
銅鐸を作るような鋳物の技術は失伝してたの? >>585
支那では王様の名前に使われてる字や語句はNGワードになるんだろ。
だから、永楽通宝なんて、永楽帝の時代に使えるはずねえじゃん。こえーもん。
永楽帝ったら、支那史きっての暴れん坊だよ。
迂闊なもの作れば首が飛ぶから品質は良いし、
迂闊に使おうものなら渡した方も受け取った方一族丸ごと滅死刑だから、市中に出回らない。
勘合貿易やら冊封やらで“下賜”されて外国に行ってしまう。
明朝ったら支那史屈指の圧政国家だよ。
永楽帝の時代が終わっても、怖くて使えねえ。 >>613
見せびらかしに来たときに、
将校が長崎の遊郭でハメ外しまくるわ
艦砲や電信線に褌が干してあるわで
恫喝どころか、
こんな連弩の低い規律も何もない軍隊ひとひとねりだべ
と開戦に踏み切るきっかけになった。 >>627
大清はジュンガルを滅ぼしてから緊張の糸が緩んでしまったっぽいなあ
強敵と書いて「とも」と読ませる世界観、大切 >>626
元号としては永楽を使わないと服従してないと見なされて、もっと怖い。 >>626
永楽って元号であって名前でもなんでもないが?
姓は朱、名は棣、即位前の官爵は燕王。
廟号は大宗(世祖)、諡号は文皇帝 >>619
基本のカトリック、プロテスタント、正教会の教義は三位一体説が採用されてる
まだ別れる前の公会議で制定されて、そこから分派したからな
近代になって0から聖書を軸に作られた新キリスト教では採用していないところもあるだろう 公会議で異端とされたネストリウス派が唐の長安で活動してたね。
神を阿羅訶、アラーハと呼んでいた。
またモンゴル高原のケレイト部族などがネストリウス派を信仰していた。
元朝の宮廷にキリスト教徒が多数いることに訪れたヨーロッパ人が驚いたとかいう記述を読んだ記憶がある。 ヨーロッパで残酷な異端審問が繰り広げられてた同時期に、
仏教徒、道教徒、儒学者、クリスチャン、ムスリム、シャーマニストを忠臣にしたのがチンギス・ハーンだった。
宗教的背景が様々であるにも関わらず、彼らの忠誠心と結束は固い。
宗教差別をしないモンゴル帝国は偉大。 >>634
チンギスハーンの時代にはそんなんまだ無いわ
それはフビライの時代からや >>632
モンゴル帝国の国是の第一項が、信仰の自由の保障だし。
ヤサ法典の表現が素晴らしい。「互いの信心を尊重せよ」だよ。 バルジュナ湖の水で乾杯してテムジンに忠誠を誓った19人衆にイスラム教徒が3人、キリスト教徒数人、仏教徒が数人。
モンゴル帝国の始まりから多宗教。 安史の乱の前までの唐は、外来の宗教や文化に寛容だった。
安史の乱後になると、空気が変わる。
排外主義、国粋主義となる。
廃仏が行われ、仏教やマニ教、ネストリウス派景教が弾圧され、ムスリムへの虐殺も発生するようになる。 >>635
バルジュナの誓いの19人に、有名な耶律楚材や長春真人を加えると、
チンギス・ハーンの部下に仏教徒、儒学者、道士、クリスチャン、ムスリム、モンゴルのシャーマンが揃う。 >>638
まあ大体いつものパターンだよな。
寛容で先進的な遊牧政権が、支配層の精神まで漢化して圧政国家の内実グダグダになってしまうという。 >>634
> 宗教的背景が様々であるにも関わらず、彼らの忠誠心と結束は固い。
忠誠心と結束は固い、ってのは疑わしい
モンゴル帝国は常に内紛起こしていた印象 >>642
内紛は代替わりのときの恒例行事。
大ハーンがしっかり支持を集めている時は結束する。
チンギス・ハーン時代は絶対的支持があった。
少なくとも宗教戦争ではない。 >>643
> チンギス・ハーン時代は絶対的支持があった。
チンギス・ハーンに世界征服の天命を授けたシャーマン、ココチュ・テブ・テンゲリ一家とチンギス政権のいざこざ知らんの? >>644
増長していたココチュを粛清しただけ。
チンギス・ハーンの権威自体が揺らいでないよ。 ココチュ・テブ・テンゲリは、チンギスの権威が大きく揺らいだから粛清された。
チンギスが多くの部族と抗争するに到った史実は、生前のチンギス・ハーンに権威がほとんどなかったことを意味している。 数十名の小さな集団でしかなかったときに権威があるわけ無いじゃん。
続々と支持が集まって大きな集団になる。
モンゴル高原の覇権を勝ち抜いて、推戴されてようやくチンギス・ハーンの称号を得た。
推戴した人々は皆、忠誠を誓ってる。 ラマ教に入信したモンゴルはすっかり変質してるよな。
その段階で世界帝国の支配民族の資格を失ってるんじゃないか? >>648,649
時系列や因果関係が逆転してるよ
同じ人書いてるの、なんか論理的におかしい >>647
ココチュは別にチンギス・ハーンに反逆したわけではないだろう。
チンギス・ハーンの名前を奉じたのがココチュなんだし。
その手柄を誇って、増長した振る舞いがあって、訴えられて、粛清されただけ。 >>650
失礼、ラマ教云々はチンギス・ハーンに関係はない。 チンギス家に従うことをよしとしない属民が自発的にココチュを慕ってチンギス家から離れたってのが事の真相
誰も「天草四郎に増長したふるまいがあった」とか言わんでしょ >>653
そういうストーリーはあるな。
元朝秘史ではココチュが弟たちの民を奪ってる形になってたね。
結果的に粛清に成功し、権力を固めてる。
傑出した人物が指導権を確立すると遊牧国家が急成長する。
反面、瓦解するのも早いことがある。
モンゴルはまだ長持ちした方だろう。 チンギス・ハーンの子孫たちがラマ教に入れ込んだり、イスラム教国に変貌しちゃうのは一種のローカライズ。
帝国がグローバルでなくなっている。 >>649
帝師としてチベット僧パスパをハンバリクに招き惚れ込んで仏教に帰依したクビライ皇帝の時分って、
モンゴル帝国の絶頂期ではないかい。
支那の支配のために西方からイスラム教徒のペルシャ人やらアラブ人やら農耕トルコ人の官吏を
沢山呼んできたりした一方で、ペルシャ・シリア攻略を命じた弟フレグ公には現地のイスラム教徒が
キリスト教徒やユダヤ教徒を弾圧しないよう統治することを厳命していた。 なんで中国王朝スレでモンゴルの話するんだ?
これじゃシャ乱Qの「ラーメン大好き小池さんの唄」の小池さんをモンケ・ハンに変えた替え歌と同じだぞ >>657
クビライが金朝を征服してからトゴンテムルが朱元璋に敗北して漢土を放棄するまで、モンゴル帝国が支那を支配していたからな。 上手くいってた時代しか上手くいってなかった政策見てもしょうがないなって感じする
イルハン朝とか早晩にイスラム化してたけど、モンゴル帝国時代みたいな寛容さは残ってたのか? >>660
寛大だったから後裔のムガル帝国がインドでやっていけた >>657
「中国史で一番偉大な王朝は何か?」
という問いに対して、モンゴル帝国を
含めて良いのなら、他を圧倒して偉大
「モンゴル帝国は除く」という前提で
話をしないとなあ モンゴル帝国の世界進出は、
近代ヨーロッパの世界進出に
匹敵する世界史の一大画期
東アジアの最盛期は
モンゴル帝国期で決まり
ただ、それを中国史の最盛期に勘定して
いいかどうかは微妙なんだけど モンゴル帝国は「中国」というカテゴリーを超えているからなあ 明が元を正統な王朝と認めてるんだから、外す必要がない。
元史を編纂して、元に天命が下ったものの、明が取って代わったとのストーリーに仕立ててる。
モンゴル以後は世界一体化が進んで、地域文明に限定するのは難しい。 >>658
金朝を整復したのはオゴタイで、クビライが整復したのは南宋だろ。 >>665
元は中華帝国でもあるけど
他のハン国は中華帝国と全く関係ないで
「モンゴル帝国」て言うたらイル汗国とかキプチャク汗国とかも含んでしまう 大元ウルスは中華王朝ではない
という最近の研究の動きについて、私は賛成ですな
あれは中華王朝ではない 確かにモンゴル帝国には先進性がいくつかある。
しかし人口の観点ではモンゴルが偉大とは言えない。
13世紀初頭に中国に1億2300万人だったのが、14世紀終わりに6500万人に激減してる。
ペストの流行が原因なんだが、偉大と評価するには遠い。
やはり清朝の人口増加が圧倒的で、ずっと偉大だ。 >>667
中華帝国なのか?
英領インドのノりで、蒙領支那だろ? >>669
人口増加ってそれ隠し子がバレただけじゃん >>670
明清に繋がる意味では中華帝国だろう。
元明清合わせて北京帝国と呼んだ方がいいぐらい。
行政組織がかなりの程度、前王朝から引き継がれてる。
明は元の官僚の多くを採用し、清は辮髪に応じた明の官僚を役職そのままに採用してたりする。
そうしないと中央、地方の政府機関が機能しないからだろうが、
まるで政権トップが交代しただけで官僚組織が温存されてるかのようだ。 >>672
清国が中華帝国になったのは、末期だけだろ。
具体的にはアイグン条約以降、関東への支那人の入植を許したときから。 >>672
クビライの支配体制では、金朝の支配層や、金朝に投降していた遼朝の王族・遺臣は取り込んでいたけれど、
儒家はつかえねーと、漢朝以降連綿と知識層・士大夫層の供給源だった儒者を否定して、宋の官吏を放逐して
中央アジアのオアシス都市、チベット、ペルシャ、シリア等々の農耕圏から招聘した色目人の官僚に入れ替えただろ。
そこで断絶がある。 >>674
元朝の組織はモンゴルの役職に中国古来の三省六部制の漢名を当てはめただけで、
中書省なんて業務内容が唐代とはまるで違うし、
地方広域区画を省と呼ぶようになったり。。。
組織的には断絶してると言えるかもね。 >>671
過去の正確な人口なんか世界のどこでも確定できるものではない。
歴代の戸籍資料が一応残っている中国史はマシな方だ。 >>673
どういう観点なのか
詳細な意味を教えて欲しい。 >>667
元や各ハン国同士は政治的にはかなり仲が悪くて対立ばかりだ
でも交易の維持という点では協力する。
例えばクビライとカイドゥが大戦争をしている間でも、
クビライが馬などを求めるとカイドゥはそれを認め、
カイドゥが南京の産物を求めるとクビライは許可する。
交易がモンゴル全体の利益であることが共通認識となっていたと思う。 >>678
それまでもモンゴル、チベット、回人の叛乱や、外寇(英・仏・露)によって国を失うことがあったとしても、
支那人に国を乗っ取られるようなことは我慢ならない、と言っていた。
重要文書は満州語、満洲人の貴人の通婚は満洲人・モンゴル人・チベット人に限定、関東(満洲本土)への
支那人の入境の制限、移住の禁止、官吏の使う支那語は南京官話で首府近郊の支那じんに通じようと
通じまいと知ったこっちゃあないとしていた。
アイグン条約以降、なし崩し的に、満洲人貴族と漢人の通婚の黙認、支那人の高官の登用、
関東への移住許可、官吏の使う支那語を北京官話に切り替え……等々。 >>680
ウクライナの地面の今ロシアが攻めて占領して併合宣言までしているあたりって、18世紀前半くらいまで、
イェケ・モンゴル・ウルスを自称する、ジンギス汗裔の王様の治める国の領土だったんだよね。
で、大砲とか戦車とかくりだしてバチバチやりあってるのに、天然ガスのパイプライン、まだ止まってなくて
昨日だったか、ウクライナを通ってイタリアに売る分が十分でなくなってきたとか、今更言い出してた。
やはり、そういう気風は残ってたのかな。 >>683
クリミア・ハン国のことだね。オスマン帝国の従属国でもあったけど。
クリミア・ハン国は一時、モスクワに攻め込んでクレムリン周辺を焼き払うほど勢いがあった。
「クレムリン」は砦や城壁を意味するモンゴル語「ケレム」が語源。 >>684
なかなかむつかしい関係で、単純な従属国でもなかったんよな。
建前的には、盟邦。
オスマン帝国は、ローマ帝国の後継にして、三大聖都の守護者でカリフを兼ねる回教圏の盟主。
クリミアは、ジンギス汗の直系の欧亜の名門中の名門の出。
国力ではオスマン帝国が圧倒的で、軍事的・経済的に庇護下にあった。
日本で喩えると、喜連川家が武家でありながら徳川幕府の臣下ではない、みたいなものか。 お前ら知ってるか?
習近平は全人代で内モンゴル自治区代表を兼ねてるんだぞ 露土戦争を繰り返し、クリミアはロシアになってしまった。
オスマンも清もロシアに取られっぱなし。
ロシア民族を軛においたモンゴルは偉大。 >>682
本来の清は中華帝国というより「大アジア帝国」だね。
中華色が濃くなってくると衰退期かな。 >>686
中華人民共和国時代に内モンゴル自治区は面積倍増 >>680
交通こそモンゴルの生命線やから
ハン国同士で敵対中でも交通だけは保証せな共倒れになるだけやし >>688
インドもペルシアもアラブもアナトリアも無しで「大アジア」は無いやろ
特にアナトリア
元々「アジア」とはアナトリア半島のことなんやからアナトリアこそ「アジア」の主要部や >>693
あれが「アジア」
そのうちアジアが拡大解釈されるようになってから小アジアという言い方が出来たんやあほんだら 小アジアを含んでないから大アジアちげえってどういうことよ? >>691
アラビアにはそもそもアジアなんていう地勢概念は無くて、
チグリス川、ペルシャ湾、アラビア海、アデン湾、紅海、地中海に囲まれた範囲を
アル・ジャジーラ (アル→定冠詞、ジャジーラ→水域で囲まれた土地)と呼んで
概念的なアラビア本領。
日本の「大八洲」、支那の「中原」、インドの「バーラタ」、古代ローマの「ルビコン以南」
みたいなもの。 清を選ぶか、元(モンゴル)にするか?
どちらも長所短所があって悩む。 >>698
清は元から大ハーン位を正式に譲られてるから実は同じ国 >>699
「北京帝国」と呼べばいい?
明と北元は「北京帝国」の南北朝時代と区分する。 >>700
北京帝国なのに、公用語は南京語。
北京語が公用語になるのは清末。 唐では、いまでいう河北省・北京のあたりは藩鎮がほぼ独立勢力になっていた
宋では、そのあたりを遼・金に支配され続け、一度も領有できなかった
北京への一極集中が進む現代から見ると、北京を支配できなかった唐宋は見劣りする 個人的には、明・清・中華人民共和国はモンゴル帝国の後継国家であり、それ以前の中華王朝とは別モノに思える
そもそも、比べるべきではない 「モンゴル帝国以前なら唐朝、モンゴル帝国以後なら清朝」
というように、モンゴル以前と以後で分けて考えたほうが良いのではないか 技術文明なら紙の発明のあった後漢か羅針盤、火薬の実用化をした北宋だろ
後は世界に先駆けて開発出来た技術はほとんどない >>710
陶磁器、大規模な灌漑設備、活版印刷等々
まだまだ色々あるぞ >>706
時代を区切ったモンゴル帝国が一番じゃんか。 白菜は清朝末期に開発された新品種。
韓国人が白菜キムチを伝統文化のように語るのは大きな間違い。
唐辛子はアメリカ大陸、白菜は中国が原産なので、キムチなる漬物を韓国固有の文化のように主張するのはやめたほうがいい。 キムチは白菜だけやないし
必ず唐辛子を使うわけでもない
キムチとは漬物のことなんなから
白菜も唐辛子も無い時代でももちろんキムチはあった しかも、凍傷で足指が壊死する日本軍兵士が続出した対策で朝鮮半島に持ち込んだ唐辛子 >>716
それを言ったらオシマイだ
そもそも、韓国が世界に誇る伝統文化というのは、20世紀に日本から伝わったものが多い
彼らは、それを昔からあったかのように印象操作したがるけど >>720
てか、韓国人が散々百済が日本に文化を伝えたというが、その百済からの帰化人は
白村江の戦以後の亡命者以前は楽浪漢人だし、百済自体防衛はかなりのところ、
物部だの葛城だのといった日系百済人の武人にたよっていた
よく騎馬戦術が未発達の日本の軍事力は弱かったというアホがいるが、
大型の盾に長鉾で槍衾を形成した歩兵の密集部隊は騎馬の突撃に対抗出来たし、
まだ、テュルク系民族の発明した合成弓が東アジアに波及する以前は、
弥生時代依頼の長大な長弓を備えた大和朝廷の徒歩弓兵の方が高句麗騎兵の短弓よりも、
射程と貫徹力で圧倒しただろうし >>711
>>713
それらを含めて漢民族自身が新技術を生み出せたのは南宋まで
寧ろ元代にイスラムの技術が伝来して定着しもので、
明はその遺産で食ってたようなもので、満州族と対峙している時に使用した大砲類は
紅夷大砲や仏郎機砲と言ってるぐらいで西欧伝来
あとモンゴルでもジュンガル部は駱駝に大砲牽引させて運用してた >>713
コークス
>>722
陶磁器は元~明でコバルトの安定した輸入が可能になったので、最も人気がある青花が花開いた いまや中華料理に必要不可欠な食用油は、元朝時代に大量生産できるようになったらしいけど、どこの技術? >>725
エジプト、シリア、ペルシャ。
唐臼、天秤押し、万力、畜力による粉砕・圧砕。
唐臼と天秤車は、梃子の応用。
畜力の利用は、おおざっぱな外見と原理は、沖縄で戦前まで使われていた「砂糖車」と大体同じ。
真ん中に垂直に立てた回転軸があって、横木をつけて、軛をかけた駄獣を使って回す。
得た回転力を歯車でトルク変換して、粉砕、製粉、圧搾 等々に使う。
万力も、歯車・ネジの構造を使って、圧搾を行う。 元朝秘史にも、オゴデイ・ハーンがバグダードの「物品は良い」ことを知ったというくだりがある。
この当時、漢人との交易では得られない優れた中東の物品があったという意味だろうねえ。 モンゴル人はテント生活だから、欲しいのは
やっぱり、ペルシャ絨毯とかそういうの
中東の物品が好みに合っている 中国と言う国が形作られたのは秦が広い地域を支配し漢字を広め焚書などで政治・文明・文化を纏めて一つの文化圏としての意識を作った結果
だからこんなのは議論するまでもなく始皇帝時代の秦しかありえんわな 日本の精進料理に大きな影響を与えた鎌倉時代の僧・道元の宋留学期間は西暦1223年から1227年なので、
食用油をふんだんに使った精進料理がないのは仕方ないってことかね。
それはさておき、金朝の滅亡は西暦1234年で覚えやすい。 >>730
奈良時代くらいに伝わった唐菓子には揚物幾つもあるよ >>731
生産量の問題だわな
食用油は以前からあったが、大量に生産できるように
なったのがモンゴル帝国期ということ 古代エジプトにはパーム油(アブラヤシ)、
古代ギリシャ・ローマにはオリーブ油があった
それに比べると、東アジアでの食用油の普及は
だいぶ遅くて、千年前くらいからと見られる
日本では、例によって安土桃山時代から江戸前期に
かけて普及期が訪れる。この時期は本当に
いろんな面で日本の文明開化が起きたとこ 精進料理から揚げ物の油を引いたら、
さすがにカロリーが足りんわな
唐でも、世間一般にまで食用油が
普及してたわけじゃないけど 今の北京(燕京、大都)が首都になる前と後で中国はまったく違う社会な感じがするよ
中華全体の首都になったのは元朝からなので、元朝成立の前後で歴史区分するのがしっくりくる 一応日本では古くからごま油を利用していたんだけど、ほとんどが行灯用で特に庶民では食用として使われなかったんだな 今は台所用洗剤があるけど、昔の日本は食器の油のぬめりをとるには米ぬか使うぐらいしかなかったと思う。
昔の中国で食器の油汚れを落とす方法ってどんなもんだったんだろうか? 米ぬかじゃなくて米のとぎ汁だったかも>昔の日本
昔の日本人は髪の毛洗う時に米のとぎ汁使ってたらしい >>737
江戸時代の庶民は、天ぷらそばを食べられなかったんだな >>740
ごま油は照明用でも
ラードとかなたね油とか米油とか >>736
> 今の北京(燕京、大都)が首都になる前と後で中国はまったく違う社会な感じがするよ
北京と長安って、ちょうどベルリンとパリくらい離れてるんだよな
文化的にも、ドイツとフランスくらいの違いは余裕である
別の国と見るのが自然 北京と南京も、ちょうどベルリンとミラノくらいの位置関係にある
さすがに、ベルリンとローマほどは離れてないが
もっとも、ドイツとイタリアは、間に険しいアルプス山脈がある。
北京と南京の間は、広大な大平原 >>746
直線的にみるなら、山東半島とその付け根にある山塊があるから一様に大平原というわけでもない
アルプスとは比較にならんが 明清帝国は、本当はヨーロッパのようにバラバラな国々を
強引にまとめていた
でも、ここ30年ほどで、だいぶ本当に1つの国に
なってきたような気がするんだけど、どうなんだろう? 日本では「東京一極集中」が言われ出して何十年も経つけど
中国も、かつては上海が経済首都とされていたが、
習近平時代に入って、急速に北京一極集中が進行している
考えてみれば、日本だって昔は大阪のほうが経済の中心だったしなあ でもなあ
モンゴル帝国の時代には、北京は
「現代でいえばニューヨーク」と
言われるほど世界の貿易と金融の中心だった
それを思うと、本質的にはそんなに変わってないのかも? >>750
数年前のデータでは北京のGDPは全国のGDPのわずか2%。
南部沿岸部の経済発展が著しい。
経済の核となる大都市が幾つもあるというのが、中国経済の強み。 20年前は、上海の経済規模が北京の倍くらいだった
香港の経済は、その北京と上海を足して、さらに倍にしたほど圧倒的に大きかった
でも今は、香港はすっかり没落して見る影もない。
統計がアバウトな国だしコロナの混乱もあるが、
最近はついに北京の経済規模が上海を追い抜いたと見られている
勢いから言って、今後は差がどんどん広がり、
北京が独走態勢に入っていくだろう あの国は本当に変化が速い
1年が日本の10年分くらいだ いまは不動産バブルが弾けて、さらなる大激動が起きている
といっても、あの国ならなんとかしてしまいそうな気がするが(笑) 中国もいよいよ政治都市が経済力を兼ね備えるようになったか・・・ >>753
香港は国際金融の窓口としての価値がある。
いまだに増えてる対中投資の多くが香港経由だったりする。
一国二制度って中国にとって大きな利益を生んでた。
それでも経済より政治が優先するようになる。 >>755
今のところバブル整理は当局の制御が効いてるみたい。
大手不動産集団の破綻があったが、
かなり前から当局が対応準備に入っていた。 >>754
欧米メディアの駐在員がみんな中国に行っちゃって、
日本発情報が減少してた。
変化の大きい方が面白いもん。 >>746
距離感を掴むことは重要。
かつては隣の省に行くのも長期旅行。
陸の孤島に住むような感覚かも。
内陸から物品を港湾まで運ぶ国内輸送費より、港湾からアメリカまでの船賃の方が安い。
必然的に沿岸部に経済が集中する。 >>753
中国って変化が速いけど、彩礼钱(結納)みたいな古い習慣がいまだに残っているよな
そのせいで男性の結婚難が深刻化している >>756
ある程度大きな国で、政治都市、経済都市などが別れてる場合
政治都市のドン、経済都市のドンなどで権力争いを始めるものなのだろうか >>763
2003年のSARSコロナウイルス流行以後、公衆トイレが大きく改善したように思う。 習近平は、胡錦濤派を完全排除
上層部の全員を習近平派で固めたな? 中国史上最強の独裁者だ
偉大かどうかは、まだ分からんが でも、考えてみれば明清帝国の皇帝も
それくらいの絶対権力者だったような? でも、明の朝廷では官僚の派閥争いが凄かったよな
お互いに対立派閥の完全排除を目指して闘争してた
スレの浪費スマソ(なんか、追記したいことが次々に出てきた) >>768
官僚と宦官の勢力闘争も凄まじかった。
両勢力が対抗して相手を牽制している上に皇帝権力が乗っかってる。
一方が強くなり過ぎたら、もう一方を強化してバランスを保てれば帝権は安泰。
皇帝が代替わりすると権勢を誇る者が没落するのが定め。 >>770
明の場合は勢力争いが皇帝権力の強化に繋がってる。 >>766
史上最強は毛沢東。
紅朝の太祖と呼ばれるぐらい。 >>762
中国共産党の非公式派閥に
上海閥、南京系、陝西幇、北京閥とかがある。 >>772
二回も失脚してるのに史上最強なわけあるか 毛沢東は、存命のうちに史上最大級の内乱が起きてしまったからな
始皇帝や洪武帝みたいに、死後に内乱になるなら分かるが
史上最強はあり得ん しかも、内乱を引き起こしたのは
追い詰められた毛沢東自身だったという その点、習近平は違う
江沢民派と胡錦濤派を一掃して
磐石の権力体制 名簿を見ようとする胡錦濤を、栗戦書が必死で止めてた
よほど、見られるとマズいことが書いてあったのか? 朱元璋の大粛清は、皇帝本人の狂気もさることながら、
家臣同士の水面下の暗闘で足の引っ張り合いによるものも大きい
それに比べて習近平は、皇帝みずから一方の派閥の長。
率先して他派閥を排除した形。
これは強い >>733
パーム油の椰子の原生地ってコンゴ盆地~ギニア湾岸で、栽培適地は熱帯多雨地帯。
古代エジプトにパーム油が潤沢にあるわけねえわー。 >>781
量は知らぬが、アビドスの遺跡でパーム油が使われてることがわかってる。
古代エジプト時代の流通商業網を舐めてはいけない。 ユダヤ教で使うような香油も植物由来だろうから流通はしてるだろうけど高かったんだろうな >>780
中国って独裁を生む風土なのか民主的な考えの指導者って孫文以外思い浮かばない 孫文が民主的な指導者?
それを言うなら、宋教仁では? 現代の日本でも、大豆の90%以上が輸入
「大豆は、豆腐・納豆・醤油とか日本食に欠かせない材料なのに」とよく言われるけど、輸入大豆の大半は食用油を搾るために使われる ギリシャ・ローマ文明がオリーブ油を偏愛したのに比べ、エジプト文明がオリーブ油を使わなかったのは謎とされている
一応、「パーム油があったからだろう」と推測されてるんだけどねえ >>788
中華民国は一応、主権在民を標榜する共和国。 >>782
本当にパーム油か?
地中海圏だからオリーブ油ちげえの? >>790
19世紀に考古学者が発掘した。
さすがにオリーブ油を誤認するとは考えにくい。 >>710
中国は技術革新による労働生産性ではなく労働参加率を上げることでGDPを増やしてきた国だから
ちなみに今世紀にはいってからの日本も同じ
特にアベノミクスになってからは世界に先駆けた先端技術などなく主婦や高齢者や移民を低賃金で働かせて労働参加率を上げてGDPを成長ってか維持できてはいた >>792
畜力・風水力から人力への逆行があった江戸時代の状況を言う「勤勉革命」もそれじゃないんかい? 江戸時代の偉大な技術革命はせんばこき
せんばこきの発明により農家の脱穀作業は負担が大幅に軽減し労働時間の短縮に繋がった
それ以前は2本の竹で稲束一つ一つを挟むように擦って脱穀していたがそれが矢鱈と手間暇がかかっていた 中国は造成時には評判が悪かった煬帝の大運河(なんせ民をこきっつかって造ったから)は中国の南北を水路で繋いだことで流通量が増大して生産性が増えたし華中の食料事情が向上したことで治安も良くなった
とは言っても運河造りは中国以外の国もしているので独創的ではないけどね >>661
ムガル帝国はチャガタイ・ハン国の後裔に相当するんじゃないか? 雲南省出土の1万4千年前の蒙自人は遺伝子から肌の色が暗かったと考えられている。
中国の研究者は中国人の「明るい肌の色」の遺伝子の突然変異が約7500年前に
南東部沿岸地域で最初に起こったのではないかと推測している。
この変異により中国人の肌の色は東南アジアの人々より白くなったということ。 >>661
ムガルも寛大やったで
ヒンドゥー教徒弾圧とか無かったし
こんな逸話がある
ペルシア人のウラマーがインドに来たときに
そこらじゅうに邪教徒(ヒンドゥー教徒)がウジャウジャなのに驚いて
憤慨してムガルの宮廷に乗り込んで
皇帝に「なぜ邪教徒を取り締まらずにを放置してるのか」と抗議したら
「ここでは我ら(イスラム教徒)のほうが少数派なのだ。強引なことをしても決してうまくいくわけがない」
とたしなめられた >>801
アクバルは寛容だったが、アウラングゼーブがやらかした >>799
国内だけなら明と言いたい。
明こそ完成形。
清は完成形を引き継いだだけ。 >>803
明って永楽帝以降停滞に次ぐ停滞で完成系と言われてもって感じなんだが
対外的なことはともかく、内部的な経済も社会制度も文化も停滞しとったが そのかわり文化は爛熟したで
三国志演義や水滸伝もこの時代にできた >>393
イギリスの良いところ
圧倒的に科学力
清が全盛期を迎えるはるか前に万有引力の法則など発表されてるレベル
清代を遥か遅れた辺境の未開国家にしてしまった。 >>804
万暦帝の中期ぐらいまで経済は上り調子だろ?
次々と人気の商品の生産が続いて、
世界中がそれらを欲しがって、
銀が明に集まった。
悩みの北虜南倭も明の物産に魅力があり過ぎて、
さらなる交易を要求したいが主な動機となってる。 明朝の15世紀後半は、世界の経済史でも特筆される高度経済成長期だよ
「停滞していた」なんてイメージが、どこから出てきたんだ? >>807
GDP大国の清で産業革命が生まれず、
辺境の島国の英国で起きたのは何故か?
「リオリエント」だったかな?このテーマの本を読んだことがある。
内容はほぼ忘れた。 清の歴代皇帝は日本史で言えば鎌倉時代の北条氏の様に優秀な為政者が代々続いていたというイメージ 統治の正当性に瑕疵があると為政者に緊張感を持たせるって事かな>清朝&北条氏
逆パターンの「待ち望まれていたプリンスががっかりな結果」てのもいくつかありそうだ >>815
中国と比べると英国の利点は良質の石炭が取れる炭田の位置の近さと資源豊富な新大陸との距離の近さだそうだ。
このため人口増加による資源枯渇を免れた。
清はマルサスの罠にハマってしまい、
どんなに優秀な皇帝が歴代続いていても一人当たりGDP低下をどうすることも出来なかった。 >>816
石炭枯渇してないよ。
撫順とか大同とか北京に近いところに良質の炭田あるよ。
満洲の開墾が進んだのも、ゴビ・内陸の鉱産資源の採掘も、は20世紀に入ってからだし
余剰人口を受け入れる場・食糧生産も、資源も、あったよ? 康熙帝から乾隆帝の時代は、軍事を除いては宮廷は質素倹約に努めて明代よりも小さな政府となり、人口増で経済成長して国庫も豊かだったので何度も減税するほどの余裕はあったよ。 まあ、要するに「他の国々よりも、イングランドで早く産業革命が起きた」ということだ
他の国々が遅れたというより、イングランドが先んじただけのこと 資本主義経済を勃興させるためには、強烈な勤労精神が必要
のんびりした南の国の人々では難しいな 清国経済の中心である江南地域は、日本でいえば鹿児島から沖縄あたりの緯度
やはり、アルプス以北の西欧人ほどの強烈なハングリー精神には欠けている
しかも、太平天国の乱で徹底的に破壊された 日本、明清帝国、ムガール帝国、オスマン帝国、南欧諸国
どれも、ここ数百年で進化が加速した
でも、アルプス以北の西欧がもっと急加速して、みんな追い越されてしまったのだ >>821
緯度はその通りやけど
気候的には日本の主要部、つまり東海道から山陽、福岡とほぼ同等やで >>818
国庫に関しては太平天国以後はずっと赤字というデータを見たことがある。
国家も個人も貧困化しちゃった。
中国人と言えば低賃金で働く苦力が定番になった。 >>817
北京から撫順や大同に比べたら、イギリスの大都市バーミンガム付近の炭田や鉄鉱石の方がはるかに近いという意味だよ。
近くに鉱山があったバーミンガムで蒸気機関を発明したジェームズ・ワットや、金属加工のマシュー・ボールトンなどが活躍した。 >>815
>農本主義
農本主義はヨーロッパでもあるだろ?
ヨーロッパのは重農主義と訳されて、やがて経済学を生む。
>儒教
教条主義的な儒教はマイナスだけど、教育を重視する姿勢は培ってる。
低賃金にあえぐ貧民層ですら子供には高い教育を受けさせようとする意欲が強いのは儒教の伝統的な影響だ。
>漢人
2千年のうち大半は漢人文明が世界のトップの位置にあった。
だから古代から日本人は漢文化を学ぼうと必死なわけで。
ヨーロッパが世界をリードするようになったのは、
近代になってからのわずかの期間に過ぎない。 >>825
産業革命の始まる時期のバーミンガムって10万人もいないでしょう?
撫順ならその時期に30万人は居たし清国の本国首都(瀋陽)もすぐそこだし >>826
単純に支那に蓋されていて、インドやペルシャは存在をなんとなく知っていても直接の交流が難しかったから
しゃあなしに、支那から習ってただけ。
それも、11世紀の頭には、もう支那から学ぶことは殆ど無いという状況、
大体、支那から学んだもので、支那で発明・実用化されたものって割と少ないよな。
漢字、箸、儒教、卜占、大豆、小豆、粟、牡丹、芍薬、梅くらいか。
漢字は純粋に支那とはいいがたいよな。
四大文明の西の三つがほぼ同時期に開闢して、農耕・牧畜・邑里都市・文字を使用しするようになっていて、
そこから1200年くらい遅れて、支那圏でも農耕・牧畜・邑里都市・文字。
支那圏の農耕・牧畜の開始時期の作物・家畜が、他の三つと同じ、大麦、菜種、豌豆というような、地中海・ペルシャ湾圏の
原産のものだから、文字のデザインが多少違っても、象形文字を使う発想を移入しての漢字の使用開始だろう。 >>827
残念ながら撫順炭鉱は清朝が採掘を禁止していて、
20世紀になってから露天掘りが始まる。
採掘禁止してなかったら蒸気機関が生まれたとも考えにくいけど。 >>828
少なくとも同時期のヨーロッパより進んでたろ?
イスラム世界、インド世界と比べてもヨーロッパは遅れてた。
それが近代で一気に逆転。 >>828
江戸時代の長崎貿易で清の物産や書籍の需要がとても高い。
学ぶものがなくなったということはない。 世界のGDPシェア
1820年
中国32.9%
ヨーロッパ26.9%
インド16.0%
日本3.0%
アメリカ1.8%
1870年
ヨーロッパ37.7%
中国17.2%
インド12.2%
アメリカ8.9%
日本2.3%
1950年
ヨーロッパ29.7%
アメリカ27.3%
中国4.5%
インド4.2%
日本3.0% >>829
そりゃ、首府に近すぎるからな。
支配層の満洲人蒙古人は炭鉱に駆り出すほど人が余ってるわけで無し、
だからと言って漢人を本国の首府近くに多数入れるのはもっとイヤだし。 >>831
中華人民共和国から習うことなんて一つも無いけれど、
鉱物に農産物に電化製品に繊維にいろいろ輸入して、
今や輸入元国で一番になってますよ。
最近は減ったけど、一時は、年賀はがきやスーパーのチラシまで
中華人民共和国で印刷。 >>834
日本は江戸時代に茶、綿花、絹、陶磁器なんかの国産化が進み、
清への依存率がかなり減った。
漢籍の人気は高いままかな。
現代はビッグデータやAIの分野で学ぶことになるんでない? でも読んでないよなあ。
唐詩やらに比べて、あたらしめのものの知名度低すぎ。
清国になってからの書物で日本でそれなりに有名になった物って国姓爺くらい? 中国の経常収支が巨額の黒字を続ける以上
世界の富が中国に集まる構図は変わらない
これがわからんヤツが多すぎる 経常収支とか貿易収支が黒字ってのは、富が出てってる状況なんですけど? まず最初に、
発行元の違う通貨には互換性が無く完全な交換はできない
貨幣そのものには価値は無く、好感されて得られる財やサービスに価値の本質がある
これを忘れている人が多いから、経常収支や貿易収支「黒字」「赤字」の字面で惑わされてしまう。
発行した金貨の総額がその国の貨幣流通量と同じというような、真正の本物の金本位制ならば、
完全な互換性は実現できるかもしれないけれど、いままでどの金本位制でも実現したことは無い。
さておき、国際収支上の「黒字」というものは、他国の通貨を握って、代わりに、自国の自然や
労力を使って作り出した財やサービスが他国に出ている状態。
つまり、価値の本質が外国に出ていて、時刻でゅうつうもしなければ自国の制御下に無い外国の貨幣を
握っているだけの状態だよ。
握ってる外国の貨幣の価値を自国に取り返すには、代わりに渡して、産品を自国に運んでくるなり
自国の価値を高めるサービスを受領するしかない。
赤字はその逆だ。先に財やサービスを得て、まだ代わりを引き渡してない状態。 >>836
現代に伝わる中国の古典の多くは清代にまとめられた叢書(そうしょ)じゃないか?
清代に流行った考証学によっても多くの文献がまとめられ解釈されて残されてるわけで。
古代中国の史料とされてるものは実際は清代のフィルター越しに読んでるに過ぎない。 >>840
前の王朝の歴史を編纂するとかいう早大のことをやるけど
現王朝に不都合だったら破棄、、複数の矛盾のある資料が出てきたときには採用した一つを除いて破棄、
前王朝以前の史書も書写する段で不都合ならその部分の破棄もというふうに、史料価値がどんどん減っていくのよな。 清朝が7箇所に書庫を建造して保管したという四庫全書。
文淵閣という書庫に残る『文淵閣四庫全書』の電子版(日本国内版)がある。
定価 1,848,000円(税込)CDROM182枚だそうだ。
一生かかっても読み切れない量がありそうだ。 中華人民共和国で、1994年に『続修四庫全書』事業が開始されてる。
2002年に上海古籍出版社から出版された。
『四庫全書』の1.5倍にあたる5212種の本がまとめられてる。
史料的価値はどのくらい? 清朝の儒学は、もはや脱宗教化して、
現代の大学の文学部でやってるような
考証研究になってた >>843
焚書やる国の出す本の史料価値なんてあるのか?
まあ、どういうところが突かれると痛いのかが判るという面での資料にはなるかもしれないけれど ガチ宗教だろ。
念仏とか真言とか唱えながらも、教義なんかちっとも解らん、いうたら祭礼仏教みたいな感じになってる本邦の仏教と同様に、
チャイナの儒教も論語読みの論語知らずで葬式だの喪だののための宗教になりさがってんじゃん。 >>836
『唐詩三百首』は、清の孫洙が編纂。
『全唐詩』は、清・康熙帝の勅命により、彭定求らが編纂。
唐詩も実際は清の文化を通じて読むしかない。
『唐詩選』は、明の李攀竜が編纂だが、『四庫全書総目提要』で『唐詩選』が民間の出版業者による偽作であるという説を出してる。 >>844
大学の中国文学や中国史学のベースが考証学派からの流れ。
実証主義的手法は引き継いでる。 しかし、経学についてだけは今も宋学の注疏による読み方がスタンダードになってる 科挙が宋学ベースで、他のはただの流行かな。
どちらにせよ文系方面に偏ってると感じる。
古典にばかり目を向けずに理数系を重視するべき。
せめて科挙官僚は実務に関わる会計学に通じるべき。
胥吏に全部任せちゃ駄目よ。 >>850
現代の観点からするとごもっともな意見ではあるけど、とっくの昔に廃止された試験についてベキベキ言ってもしょうがなくない? >>850
べきべき言うてるあんたは会計学より前にまず日本語文法を学べ。
なにがべきべきや。
変な連体終止が気持ち悪いから。 >>851
理数系科挙だったら産業革命が起きたかもしれない。
Yahoo知恵袋であった話題だが。 >>853
だからそれを今言っても詮無いことでしょ。 >>855
ある程度の教養ある者なら必ず詩は書いたから
何千万首も存在するはず >>855
やはり詩は唐がトップ。
明清はどちらかというと白話小説が有名だろう。
水滸伝、三国志演義、西遊記、金瓶梅、紅楼夢、儒林外史、聊斎志異、・・・・ >>856
漢詩は「首」でなくて「篇」ではないのか?
李白が飲中八仙歌で一斗詩百篇つて詠んでるし。 >>859
清の時代だからもう随分と伝統が廃れてしまってたのね >>860
1600年前の東晋王朝のときの孫綽が「為勝哀号,作詞一首」と詠んでる。
なので詩を数える量詞としての「首」の歴史は古いと思う。
現代中国語では曲や歌を数える量詞になってる。
「篇」は竹かんむりがついていることから、竹簡文書を数える量詞が始まりかな。
ちなみに「編」は糸へんがあるので、本を作る際に竹簡を糸で結んで作る、編むことが始まりで、動詞。
ところが常用漢字に「篇」がないので、「編」を量詞に使うようになった。 「唐詩選」が編纂されたのは明朝の時代
「文は必ず秦漢、詩は必ず盛唐」という有名な言葉を編者は残してるから、当時からそういう認識はあったようだ 科挙の選考に漢詩あったもんなあ
ずっとあったのかは知らないけど >>863
科挙で詩賦があったのは唐。
宋以降はないんじゃないか?
明以降は八股文で答案を書けること。
宋は五経、明は四書を重視。 >>865
それがコテコテの儒教原理主義国に変貌するんだ。 >>866
朱元璋があれだけ嫌って迫害した宦官がもっとも勢力振るった王朝になるしな まあ、創業メンバーは低学歴のチンピラぞろい
会社が発展してから入ってくる連中はエリートサラリーマン
よくある構図だ だから、朱元璋の宮廷は大変だ
創業メンバーはヤクザやチンピラ、新興宗教のたぐい
後から参加してきた連中ほど、地主階級の教養人
あの悪名高い大粛清は、朱元璋本人の狂気もさることながら、家臣同士の水面下の暗闘、足の引っ張り合いによるものが大きい >>865
洪武帝は科挙を中止したことがある。
科挙及第者がこぞって南方人だったためだ。
華北は荒廃が酷く、勉強できる環境でなかった。
全国政権を目指す以上、各地域から偏ることなく採用するのが望ましい。
しかし及第者は南方人ばかりなので、北方人が騒ぎ出す。
そこで北方人に配慮しようとしたら、
成績優秀な南方人が不公平だと騒いだ。
やむを得ず一旦科挙を中止した。 >>870
人間入れ替えればいいじゃん。
新しい支配地の原住民比率を下げるというのは、古今東西よくある統治の手法。 >>871
住民のとっかえの意味ではないが、
荒廃した農村を復興するためや、
新たな開墾を進めるための入植や屯田なんかはかなり実施してる。
まずは食糧増産を目指す。 洪武26年の耕地面積は国初の5倍に増加。
歳入税糧額が3278万9800石、元朝の泰定2年に比べて3倍増。
洪武帝は最高の名君。
清の順治帝が言うには
「洪武の定めた条例、章程は規則の鑑、甚だ周密。歴代の君主は洪武に及ばぬ・・」
洪武帝自身は法の定めを遥かに超えて残虐刑をふりかざしていたが。 >>872
その前に、原住民を減らすのよ。
政治的に安定してる別の地域に送ってしまうとか、安定していない反対側の地方に移送するとか、なんなら食糧難を人為的に起こしても餓死させてもいいし。
安定してる地域に送るというのは、バビロン虜囚とか、隼人の衛士の徴発とか。
安定していない反対側の地域に移送というのは、ローマ定刻の非市民の軍役、日本だと防人。
餓死で減らすというのは、イギリスのアイルランド経営とか、ソビエトのホロドモールとか、毛沢東も盛んにやってたよな、国民党支配地が長く続いた地方を締め上げて。 >>874
隠し田を検地して、重税を課した、とかではないの?
重農主義で儒教国だから、百姓は生かさず殺さず絞れるだけ搾り取れ、だし。
モンゴルは重商主義だから、耕地からの直接税には頓着しない、税率も低ければ記載漏れも多そうだし。 >>876
魚鱗図冊とかの検地帳みたいのを作成していた。
ただ華北などは元末の戦乱で人口が激減しており、白骨死体が積まれ無人化しちゃった村々が続出してたので復興が急務だった。
入植する者には耕牛や種籾などを官が支給したり、開墾後3年間は無税だったりする。
地方官には公費で水利事業にも積極的に携わらせた。 中華人民共和国って長いから秦とか漢の様に一文字に戻そうよ
国家主席ってのも長いから皇帝に改称 >>875
>>878
群雄ライバルの張士誠を滅ぼすと、
蘇州(張士誠の都)から応天(朱元璋のところ)に20万人規模で強制移住させてる。
特に張士誠の版図が穀倉地帯だったので、
当地の富豪たちを強制移住させ、その土地を没収して官田とした。 >>869
戦乱で人心も荒廃し、
一般民衆の道徳心も低下してたんだろうね。
そこで六諭を公布し、各里の里老人に定期的に朗読させて、里の農民たちに聞かせた。
教育勅語の元祖だ。
朱元璋自身の感覚も麻痺してて、
虐殺してても、
残酷なことだとは認識してないかもしれない。 >>882
さすが孔子の時代から共食い人種だっただけのことはある >>882
さすが孔子の時代から共食い人種だっただけのことはある なんかさっきからあちこちで同じことを2回書く人を見かけるんやけど
流行してんの? 残酷シーンが日常茶飯事になってる環境にいると、何とも感じなくなる。
いちいち衝撃を受けてたら精神を病むので、防衛的反応としての感覚麻痺かもしれない。
古代ローマ人も残酷な歴史を過ごしていて残酷感覚がかなりズレてる。
ズレの余波で、殺人が娯楽、劇場の見世物となっていた。
初めて殺人シーンを見ると気持ち悪いだろう。やがて何とも思わなくなり、そのうち面白いと思うようになる。
現代でも戦場帰りの兵士たちの社会復帰が課題になってる。一度狂った感覚がずっと残るから。 >>879
> 中華人民共和国って長いから秦とか漢の様に一文字に戻そうよ
ていうか、そろそろ各省を独立させて
燕・斉・晋・魏・秦を復活 >>888
日本も毛野、越国、筑紫、火の国(肥の国)、豊国、吉備、・・・を復活すればいいな。 >>888
中国が活性化しそう
分裂はするだろうが >>890
裕福な沿海部と貧乏な内陸部との間で紛争が起こるよ、多分。 皇帝って天帝が天から地上を統治させるのを任せた人ってことだから皇帝制の廃止は中国人からしたらどうでもいいのかね?
その思想が消えることはないだろ、皇帝から習近平に変わっただけで
天帝というストーリーは日本の天皇みたいにまだ滅んでないんだろうか? 農村なんかじゃ、習近平の肖像を家で飾って魔除けにしている
強制されたわけでもないのに >>893
そういう根底に残った文化思想っての割と残ってるよな
皇帝の時代から民国、共和国へと変遷する間に変化した思想があるんだろうな
というか毛沢東礼賛が形を変えた皇帝思想の成れの果てなのだろうが 中国人の根本は儒教思想及び神話の三皇五帝
天命は血統主義で無く徳の有無で決まり
かつて三皇五帝が行った徳が尽いた時に禅譲(譲り受ける)して
天命を授かる事が理想的な儒教思想
皇帝は歴史長いけど始皇帝から始まる比較的新しい概念で
それ以前は周の王等が天帝の命を授かってた
王だろうが皇帝だろうが国家主席だろうが
かつての支配者から禅譲で引き継げば中華思想は継続される
中国4000年の歴史と言われる根拠はそこで
今現在台湾を滅ぼさない滅ぼせないのもそう言った理由 >>897
滅ぼすんじゃなく中華民国に正式に禅定させないとって事だろ ふーん
でも攻撃して実質滅ばしてるだけであっても
形式的に最後の皇帝に禅譲させるって例もあるんだし
いくらでもやりようはあるよな >>898
そもそも中華民国は清から禅譲なんかされてないし
清も明から禅譲なんかされてないし
明も元から禅譲なんかされてないし
元も宋から禅譲なんかされてないし むしろそんな旧時代の習慣を断ち切ることが共産党のアイデンティティやろ
そうでないならなんで元号を廃したんや そうだ
いままでの連続性を断ち切る、真の社会変革というのが大義名分だろ 連続性なんか、あったんじゃ困る
そのわりには北京を引き続き首都にしたが 結局のところ、ソ連の政府はクレムリン
明治新政府も、皇居は江戸城
中共政府も、紫禁城の隣の中南海 >>896
そんなこと言うなら中華人民共和国の著名な儒者を5~6人ほど挙げてみてくれ どの王朝も禅譲なんか直接する訳無い
でもそうしたと言うのが理想であり新王朝の正統性なので
後から禅譲されたとするのが一般的
だから中華人民共和国がいくら連続性否定しても
打倒した新国家が正統性主張の為に利用されるだけ
歴史何てそんなもん そもそも中国は台湾を政府として認めてないし禅譲もクソもないから>>896はズレてる 中国が台湾を攻め滅ぼさないのは
軍事的にできないからやってないだけの話で
儒教の徳目に背くからとかそんな観念的な理由ではないよ >>909
>中国は台湾を政府として認めてない
中華民国は中国やないんか? >>910
中国が台湾を攻め滅ぼさないのは今現に台湾を統治してるから >>911>>912
中国=人民共和国
台湾=民国だよ >>913
中華民国も中国
>>909は正しく書くと
× そもそも中国は台湾を政府として認めてないし
〇 そもそも中華人民共和国は中華民国を政府として認めてないし なんだかんだで中華思想の土地なんだし、そろそろ西欧列強で生まれた共産主義なんていうカルトな妄想は捨てて、中華思想に戻るべき
新の王莽に倣って周辺地域を見下して挑発を加速させろ
王莽の頃と違って核兵器も細菌兵器もあるんだから勝てるよ 中国思想の親和性なら西欧型民主主義よりむしろ共産主義のほうが近いんじゃないの? キリスト教の概念を中華思想に当てはめた太平天国ってのがあってだな・・ 中国特有の絶対平等主義がまたぞろ台頭してきたな
文化大革命もそうだったが >>922
丁男は公民だよ。
徭役や兵役の負担が大きいけれど。
人頭労働税の割合が大きい。
均田制に効果があったのは唐初までで、
結局、経済効率が悪いんだろうね。
すぐに土地の私有化が進んで”均田制の崩壊”とかになる。
公有化より民営化の方が経済効率がいいんでしょ。
不公平になるけど。 王莽は儒教で政治をやろうとして失敗した
復古主義者がダメなのは、いつの時代も同じ モンゴル帝国が東アジアの全盛期なのは間違いない
「中華がどうの」というナショナリズムを抜きにして客観的に見れば、間違いなくそうだ >>923
私有化っていっても、耕作者のものになるってわけではなくて、権力者が税収や統治権を占有する領地化だけどね。 >>928
モンゴルって東アジアなのかなあ?
文化的、地勢的に。
オルドス地方は黄河の流域で且つモンゴルの本貫地みたいなものだから分水嶺的には東アジア言いたくなるんかもしれんけど、
アルタイ山地もウラル山地も馬で越える生涯にならんなだらかな丘みたいなものだし、カラコルムから3000キロというとシ南に行けば中越国境か香港くらい、
南北はいくつか地形的障壁あるけど、西に行けば今でいうとカザフスタン国の真ん中あたりで、東西には倍の距離まで行って障壁らしきものは無い。
6000キロ行くと黒海のずっと向こう、パンのニアやポーランド平原あたりだよ。
モンゴル高原から東欧平原まで一続きなんじゃないかあ。
現に、日本海と黒海と両方に接する勢力って、匈奴、突厥、モンゴル、ロシアと4度も出てきているし。 ロシアがベーリング海峡まで到達して「ここまでヨーロッパです」みたいな顔をしているせいで
北アジアという地理的カテゴリーが極端に影が薄くなってしまった。
満州やモンゴルは本来なら北アジア。一方のウイグルは中央アジアでチベットは南アジア。 >>934
チベットが南アジアは文化圏的にも気象学的にも違うだろ >>936
まあ、ネパールブータンシッキムとは繋がり強そうではあるけども
近接地だから当然だわな 復古主義ってかつてのクラシカル政治がなぜ当時通用したのか考えずに
その時に栄光を取り戻そうって、ただ表面だけなぞった政治やりがちなんだよな いきなり新勢力が新しい事やりまーすと言っても大反発食らうだけだからな
人々の支持集めるにはかつての栄光を引き合いに出すのがもっとも手っ取り早い そろそろコロナ政策を転換しそうだな
民衆の動きが大きくなる前に 歴代王朝も共産党も自分たちの誤りを認めるってことはしなかったからなあ >>943-944
さすがの毛沢東も大躍進の完膚なきまでの失敗にはほんの一瞬だけ反省したふりをしたけどね
文革はまぁ四人組に全責任押し付けて中国共産党は間違ってないで乗り切った 文化大革命の最大の功績は
中国の低迷をもたらしていた過去からの残滓(思想面等)を一掃したことだな
それが今の経済繁栄をもたらしている
ただし過去の精神文化に代わるものを用意しなかったために
中国人が拝金主義に陥り経済面以外に輝きを発揮出来ないでいる
これも功罪相半ばと言うところか >>946
劉少奇ー鄧小平路線が続いてれば、もっと早く経済大国になれたよ。 >>947
俺もそう思う
三自一包政策などかなり有効だったからな
20年回り道をしてしまった感が強い 1970年代に改革開放政策が始まって、20世紀のうちにGDP世界第2位の座を中国が日本から奪ってしまう世界線。 そうだ
改革開放が始まったのは70年代だよ
「20年遠回りした」という人は、いつから始まったと認識してるのか? 冷房が普及する以前じゃ、広東省なんか暑くて仕事どころじゃない
どっちにしても、スタート時点はその辺りになるのが必然的 改革開放ってのは要するに、文化大革命という大戦争でメチャクチャ破壊された後の、戦後の復興期だよ >>954
劉少奇・鄧小平の市場経済導入を邪魔しようとして毛沢東が文革を起こしたから
それがなければ、ってことじゃないの? じゃ、「1970年代に改革開放政策が軌道に乗って」に訂正で。
史実では中国GDPが急カーブ上昇に転じたのは21世紀に入ってからで、10年で日本を追い抜いているわけで。 >>948
>大躍進で失脚したやないか
だから、「ほんの一瞬だけ」ね。あの時点で毛沢東や四人組が完全に失脚して文化大革命が発生しなかったら、
というのが「もっと早く経済大国になれた」の言いたいことでしょ。 上海で浦東新区の大規模開発が始まり、超高層ビルの建設ラッシュが始まったのが1992年
95年頃には、「ヤバい。まさか、ここまで発展するとは」という感じだった いまでも、「中国の経済発展」を象徴する風景は、上海の浦東新区の摩天楼
日本でいえば新宿副都心の摩天楼のような、高度経済成長期の象徴だ 中国経済を大きく揺るがせたのが、2008年のリーマンショックだ
このとき、中国政府は人類史上最大級の公共事業による景気対策を断行
この時点で、すでに事実上、高度成長期は曲がり角 >>958
> じゃ、「1970年代に改革開放政策が軌道に乗って」に訂正で。
改革開放路線が軌道に乗ったのは80年代
その想定だと、5年か10年くらいしか変わらん >>963
最初のうちは改革開放も恐る恐るやってて資本主義の導入も限定的やったのを
鄧小平が93年に南巡講話で「こんなやり方では駄目、改革開放をもっともっと加速しろ」と言うて
それから本格的になったんや。 >>964
> 鄧小平が93年に南巡講話で「こんなやり方では駄目、改革開放をもっともっと加速しろ」と言うて
> それから本格的になったんや。
それは、広東省の開発だ
上海の開発はもっと前から始まっている
かの有名な浦東新区の摩天楼が立ち始めたのが92年 広東?
南巡講話をずいぶんと矮小化するんやな
南巡したのは武漢、深?、珠海、上海やで
これは陳雲、李先念などの改革開放政策に反対してたグループの影響力を削ぐ党中央での路線対立でもある
広東だけの話しなわけあるか いやいや、「中国の経済成長が93年から本格化した」などとは、まったく遅すぎる認識
93年なんか、すでに上海は超高層ビルが立ちまくりだ
「このまま行ったらヤバいぞ」的なムードがとっくに現実になってきていた そもそも、89年の天安門事件からして、改革開放が進んだことに対する反動だったことを忘れてはならない 89年の六四天安門事件で西側からの投資が一時的に激減して改革開放路線は停滞を余儀なくされ、
それが復活するのが90年代後半、GDP増加率急拡大という形で数字の上で明らかになるのが21世紀初頭。 https://jp.reuters.com/article/idJPKBN2SM0BF
2022年12月2日3:55 午後
焦点:景気悪化で中国企業が採用抑制、学生は公務員に殺到 >>969
西側からの制裁が解除されるキッカケが1992年天皇訪中だった。
中国も世界も帝政が好き。 長期的には、第二次大戦後の日本と同様に
文化大革命の内戦を終結させた1980年代の中国は
「戦後の復興期」と位置づけられることになるだろう 「改革開放路線が始まった」というより、
「戦後の復興期」と位置づけるのが妥当なように思う 日本の高度経済成長期は、朝鮮特需をキッカケに始まった
韓国の高度経済成長期は、ベトナム特需から始まった >>971
> 西側からの制裁が解除されるキッカケが1992年天皇訪中だった。
> 中国も世界も帝政が好き。
後世の歴史家は、「中国の高度経済成長期は、1992年天皇訪中から始まった」と位置づけるのかもしれない もしも中華人民共和国が300年続いたら
文化大革命は、漢の呉楚七国の乱、明の靖難の変みたいな王朝初期の内乱と同じに見えるだろうな 中華民国が短期で崩壊
その後、中華人民共和国が初期の内乱を乗り越えて300年の帝国となる 復古主義者が出てきて、前漢・後漢みたいになったりして >>979
亡命政権が続いてるぞ。
後世では南民とでも呼ばれるのかもな。 >>983
いや、台湾の歴史はもうちゃっと古い
明代に福建人が植民したとこから始まってる >>984
中国本土に抵抗した台湾政権としての先駆者。 習近平がコロナ政策緩和を仄めかしている
今回ばかりは強気では乗り切れないと悟ったか >>986
たぶん本人もとっくにゼロコロナなんかやるだけ無駄とわかってたんやろ 王朝初期の内乱で、「こんなことは、もうコリゴリだ。今度こそ統一が長く続いてほしい」と皆が願う
それが、王朝をそこから300年続かせる最大の原動力となる 中国史を見てると一つの中国理論がなんとなく理解できる
中国歴代王朝ってやたら統一したがるよな >>989
いかに秦の始皇帝が偉大だったことか!! 易姓革命って、要は、北斗の拳でしょう?
一番強いヤクザ・ゴロツキ集団が独占権を獲得したところが国家統一、
ヤクザ・ゴロツキの頭目が皇帝 明朝の開祖は貧民のゴロツキ
清朝の開祖は野蛮人
これで、子孫は高貴なお方となって君臨するのだから権威づけは大変だ 日本や西欧は、そんな風に成り上がるのが難しい社会
イギリスも国王の家系が何度か変わってるが、なんらかの形で王家の血筋を引いてる者でないと国王の候補にもなれない 中国だって同一王朝が続いてれば血筋引いてる人じゃなきゃ無理
つまりヨーロッパは根こそぎ文化破壊されるまで征服された経験が長らく無い >>993
華夷秩序的には野蛮人だろうけど、客観的な尺度でみた開明度では満人や蒙古人のが文明人で
支那人のがよっぽど野蛮だろ。 >>994
がっつり征服で王様になってるクヌート王とか、一応はアルフレッド王の血も母方から入ってるけど血統関係無しに力ずくで王座を獲ったウイリアム王とか
あるじゃん。 ウイリアム王は、関ケ原よか過酷な、改易の嵐よ。
アングロ貴族ほとんど絶家。
おフランスから連れてきた臣下に領地分配して、貴族が総入れ替え。 ウィリアム王以前は、イギリス王室の歴史に勘定されていない このスレッドは1000を超えました。
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