東ローマはなぜ分裂後1000年もったのか
西は比較的早くに崩壊したが東は幾たびか王朝も政治体制も変わったが一応
続いた
パレオロゴス朝はただ続いてると言うだけの弱小国だったが ローマ帝国末期から、帝国の東半分のギリシア語圏では、
神学論争が盛んだったらしいね。
プラトン哲学研究の普及、論争を好む性癖、変通自在な
語法の過剰な使用が、その傾向をいっそう加速させた。 あんまり知られてないだけで東方正教会の方が分派とか異端認定とか盛んだったのだろうか? >>252
東方正教会では、西方教会のような異端審問はなかったと思うけど
それよりイコノクラスムとかのほうが大きな問題だったんじゃないのかな >>250
新約聖書は本来そもそもコイネーのギリシア語で書かれたものだよ
ラテン語からわざわざ再訳したというわけでもないね
ていうか、東西教会が分離していった要因の一つに、
ギリシア語とラテン語との間の文法の違いに関連する文意解釈の違いがあったりする 中世ヨーロッパの都市の生活って本に、中世の医学書は、ギリシャ語本がアラビア語に訳され、それをさらにラテン語に翻訳して西欧に入ってきたと書いてあった
イベリア半島経由って事なんだろうけど、直接ビザンツから本を買ってギリシャ語からラテン語に翻訳する方が楽な気もする
記述の根拠がわからないので本当かどうかも不明だが フランスの中世史家グゲネムは、アリストテレスの著作が、
12世紀ルネサンス以前に、アラビア語を介することなく、
ヴェネツィアのヤコブスらによってギリシア語からラテン語に
翻訳されていたと主張する。 >>252
西方はローマ教皇という権威が頂点にあってそれに対する形で在野に分派や異端が生まれるけど
東方ではトップのビザンツ皇帝自身が教義に手を出そうとして問題化してる気がする
コンスタンティノープル総主教はじめ聖職者たちは皇帝に与したり反したりして国全体が割れてゴタゴタする >>261
ビザンツ帝国が存在しなかったら、東欧はイスラム勢力に
蹂躙されていたと思うけど。 ビザンツにとってイスラムほど恐ろしいものはないよ
なんか変な宗教団体が出たと思ったら瞬く間に強大化して
長年ライバルだったペルシアをたやすく滅ぼしたうえ
こっちの領土もゴリゴリ削ってくる
西と違ってローマの権威も通じない ペルシアは民族の集団だったから、ペルシア人がいくら強大でもエジプト・シリア・北アフリカまで版図が広がることはなかったけど
イスラムは宗教・思想だったからそこいらを飲み込んで尚広がるから強すぎるんだよね ビザンツに対するイスラムって、戦国大名に対する一向一揆みたいな感じなんかね? ただ実態として、東ローマとイスラム圏の関係って、かなり流動的・相互依存的でもあった
イスラム教徒の傭兵も東ローマによく雇われてたし、
イスラム圏の商社マンがコンスタンティノープルなどでごく普通に企業活動してたね ビザンツ皇帝は、「人の住むあらゆる土地」の支配者である
ということになっていた。
ただ、イスラムのカリフに対しては、帝国もその原則を
いくらか曲げざるをえなかった。 中国皇帝にとっての「天下」と似ているところもあるのか 建前上、ビザンツ皇帝は条約に署名するのではなく、たとえそれが
帝国に不利なものであっても、他国との条約はすべて「皇帝の寛大かつ
一方的な譲歩」という形をとった。
ビザンツ帝国はあらゆる国を、全キリスト教徒の父であるローマ皇帝を
頂点とする序列の中に位置づけた。 >>270
ビザンツ版中華思想によるとモンゴル帝国はどうなるのかな?
>>271
俺は薄々気付いていたよ。 >>270
カリフであり三大聖都の守護者であり三界の覇者でありルーミーカイサリ(ローマ皇帝)だった
オスマン王朝の皇帝が最強だったということやね。 >>274
まさしく中華皇帝じゃん。
宋国なんて遼国や金国に領土を取られて貢ぎ物まで献上させられていたのに、
統治を命じてお給料を渡していた体裁をとっていたりとか。 >>271
日本には日本人のバシレウスにしてアウトクラトールがいるんで ビザンツ帝国では、各国の王は、家長である皇帝の家族とみなされた
諸王のなかでもブルガリア王やアルメニア王は皇帝の友人あるいは子供として、
また西欧の諸皇帝は弟として扱われた。
各国のランク付けは、必要に応じて変更された。
たとえばある王の名声が高まれば、彼は皇帝により近い近親者の
扱いを受けた。 >>280
大藩の領主に松平の名乗りをさせた徳川将軍みたいなもの? モスクワ大公国はビザンツ帝国の後継を自称して、ロマノフはその後継を名乗っていたから同じように周辺王国の家父長と思っていたんだろうか
と言ってもビザンツ帝国の後継を自認する国はやたらと多いから、ウチが本家やねんとかこっちが元祖とか言い合いそうでもある 露土戦争とか、その争いではないの?
第三のローマvs新ルーミーカイサリ モンゴルに征服された漢民族が復活できて、トルコに滅ぼされたビザンツ人が復活出来なかったのはどうしてだろうか 「漢民族」を名乗りたがる連中が大勢いた
「ローマ人」を名乗りたがる連中は違うところにいた
コンスタンティヌスの都が最後に残った遺産だったのに乗っ取られて終わり >>284
オスマン帝国統治下のギリシア人は、自分たちのことを
「キリスト教系トルコ人」と呼んでいたとか 宋は明として復活した
ビザンツはギリシャとして復活した…は無理あるか? >>280
ギリシアの哲学・政治学の伝統から言えば、
国を疑似家族視する思想は本流ではないよね
アリストテレスの「政治学」では、そのことがはっきり述べられている
その思想の流れと合流した、共和制ローマ・初期帝政ローマの政治思想もそうだろう
国を疑似家族視する思想は、どちらかというとヘブライズム、キリスト教の影響だろう
ちなみに、「国家」という訳語にしても、
「修身 斉家 治国 平天下」を一連と見る儒教思想の影響があるだろう
ギリシア流の政治思想なら「修身 斉家」までは一連と見ても「治国」は別とみるだろうし、
「平天下」にまでなると「僭主政」視あるいは「ペルシア式の統治」視するのではないか
共和制ローマ流の政治思想になると「治国 平天下」の一連視もあり得るかもしれないが >>288 帝政もとい訂正
共和制ローマ
↓
共和政ローマ >>288
もひとつ訂正と加筆
共和制ローマ流の政治思想になると「治国 平天下」の一連視もあり得るかもしれないが
↓
共和政ローマ流の政治思想ならば「治国」対「平天下」は一連視もあり得るかもしれないが
それでも「修身 斉家」と「治国 平天下」は別個視するだろう ビザンツ人にとっては、神が唯一であるように、神の代理人
(ローマ皇帝)もただ一人だった。
だから800年のカール大帝の西ローマ皇帝即位は、
彼らにとって我慢ならない出来事だった。 本から受け売りでレスするのは構わんが
引用した書籍名もきちんと付して書き込んでくれよ コインの肖像画のレベルが古代ローマから落ちすぎだろ ヘラクレイオスの生涯凄いよな
天国から地獄だもん
自分がヘラクレイオスだったらと気が狂うと思う 東ローマの話とは若干脱線するけど、東ローマを滅ぼしたオスマン帝国がやがて瀕死の病人と呼ばれるようになってる頃、
欧州の列強はかつての帝都コンスタンティノープルを奪還し、ヨーロッパの、キリスト教圏のものとしたいとは思わなかったのだろうか?
アナトリア側は兎も角、バルカン側はこちらの方に抱えておいた方が勢力圏がスッキリするとは思わんかったのだろうか?
希土戦争時にギリシャ側がイスタンブール・・・否、コンスタンティノープルを奪還したるわとかならんかったのか? コンスタンチノープルはあまりに魅力的で、欧州のどこか1国がこの街を支配すると言う事を他の列強は許せない だったらトルコに預けておくほうがまだマシ
英露あたりはそう考えていたんじゃないかな エルサレムにある聖墳墓教会は、場所的に最大の聖地と言ってもいい
ここはサンピエトロ大聖堂など欧州の他の教会と異なり、複数宗派の共同管理である ローマ・カトリック、東方正教会、アルメニア正教会やコプト教会である
彼らはこの聖地の管理を巡って闘争を展開して収拾が付かなくなりついに教会の鍵をイスラム教徒に預ける、という解決方法を見出した
コンスタンチノープルもそんな感じなのではなかろうか
ビザンチン帝国時代、ローマ教皇の三重冠を見るくらいならイスラム教徒のターバンの方がマシという小話もあった >>297
アナトリアからバルカンからアラビアからエジプトからバビロニアからマグレブから支配していた列強ちげえの? 17世紀は一大帝国、18世紀は列強、19世紀以降列強から瀕死の病人へと転落 >>298
キリスト教徒、特にカトリックのやることは、異教徒は戦争だけれど、異端は火炙りだからね。
戦争にはある程度ルールはある。話を付けて停戦とか捕虜の返還はあるけれど、異端は捕まえたら火炙り。