蝦夷の研究
蝦夷は蔑視される存在ではなく、独自の文化を持つ異なる国家でした。
彼らの祖は、古事記や日本書紀ではナガスネ彦と蔑称される大彦であり、大和の先行王朝である海王朝〜磯城王国の皇太子でした。
大和王朝では有力豪族同士が覇権争いを繰り広げる中、九州の物部勢力が侵攻してきました。
物部勢力は四国南岸沖から紀伊水道を通り紀ノ川を遡り、南岸に陣取って攻めてきましたが、大和王朝側は一時的に撃退することに成功します。
しかし、物部勢力は紀伊半島を迂回して熊野方面から再上陸。大和王朝側の紀伊国造らの軍に迎撃され、熊野川上陸の中洲に孤立化しますが、大和王朝側の豪族同士の権力争いを把握し、大和王朝の副王家であるトビ家分家の大田種彦に内応を要請します。
大田種彦は、トビ家への対抗心や大和を平定して大王となる野心から内応を受諾。物部軍は彼の道案内を得て、熊野川沿いから紀伊山地を北進し、無傷で吉野、磐余に着陣して威勢を張りました。
突然現れた大軍団に混乱した大和の豪族たちは大和を追われ、大彦らも抗戦しますが多勢に無勢で北へ退却し、伊勢(伊賀)に新たな王国を築きます。
追撃を受け、大彦は琵琶湖東岸に新たに三上山を大和の三輪山に見立ててクナト国を建てました。クナト国は中国に伝わって狗奴国と書かれました。
大彦は出雲王国の東の王家、富家(トビ家)に出向き救援を要請しますが、出雲王国は各地の領地を奪われ、九州物部勢力の侵攻準備中との情報を得ていたこと等から申し出を断りました。
大彦は出雲の王家から北陸方面へ行く事を勧められ、富、トビを名乗ることを禁止されました。
出雲の往来の途中、藁蛇を神木に巻き付けて荒神、荒ハハキと呼んで祭祀をしていたのを目にした大彦は自らの勢力で新たに取り入れてシンボルとすることを決めました。
更に追撃を繰り返し受けた大彦やその子孫たちは一時的に落ち着いた地域に国を建てました。
アラハバキ国、日立国(常陸)、、、最終的に津軽に至り「日之本国」を建て、安東氏を名乗りました。
各地の豪族の首長らによる合議制を採用して統治。渡り島(北海道の古名)や樺太、千島の人々も日之本国に参画していたと言います。
津軽は首都の意味を込めて「日本中央」と呼ばれました。
後世、伊達政宗が日本(日ノ本)将軍といわれますが、そのベースは東北地方が日ノ本国だった記憶が有ったため。
東北地方は出雲族がインドからシベリアを経由して渡来した際、本州には津軽から上陸して、三内丸山(遺跡/後期)にしばらく居留した後に本隊は日本海側を南下して出雲地方に至りますが、途中、小さな集団が各地に分離拡散した歴史があり、いわば遠い身内が沢山居たと考えられます。
十三湊は日ノ本国の首都港湾として整備されて大変栄えて居たと言います。
十三湊は出雲王国から禁止されたトビ家(王家(天皇家も旧出雲王国トビ家の血筋(分家)))の音を採ってひねったもの。
富山/トヤマは外山(トビ)から?
鳥海山はトミ山の当て字。 >>129
関東勢と北陸勢の進出が東北人(エミシ≒和人)の主体だから合ってるな
例えば弥生時代の東北では極端に集落が少なく人類の生活の痕跡が見えない
古墳時代になると移住集団による拠点集落が仙台平野から大崎、陸奥へと畿内式の布留式土器と共に北上していく
西暦150~280年、宮城県石巻市の梨木畑弥生人骨について
https://i.imgur.com/7xAiJAh.png
頭骨の観察的所見では、顔面が面長で、眼窩も高く、鼻骨は狭長で、現代的な印象が強い
上顎切歯に明らかなシャベル状形質が認められる
四肢骨では、脛骨骨体が扁平でない、脛骨大腿骨示数が78.5程度であること
縄文人やアイヌを想わせる特徴はまったくと言ってよいほど認められない
ミトコンドリアDNAはD5b2
結論としては、梨木畑人骨は明らかに和人であり、現代化した特徴を有していた 十三湊は江戸時代に鎖国するまで朝鮮貿易をしていた
https://i.imgur.com/FBaNevj.jpg
ツングース系
・東北三省(黒竜江省、吉林省、遼寧省)≒満州
・粛慎≒挹婁≒靺鞨≒女真≒満州
・濊貊≒夫余≒高句麗≒渤海≒満州
女真≒シベ族
女真≒ナナイ
ニヴフ
ネギダール
ウィルタ
ウデヘ
ウリチ
オロチョン
オロチ族
エヴェン
エヴェンキ
満州族
モンゴル系
鮮卑≒契丹≒モンゴル
鮮卑≒契丹≒ダウール族
鮮卑≒トゥ族 >>147
よくまあそこまで出鱈目な嘘八百を並べ立てられるもんですね。
何かネタ本でもあるの? 蝦夷は単なる蔑称ではなく、独自の文化を持つ国家でした。古事記や日本書紀では「ナガスネ彦」と記される大彦は、大和の先行王朝である海王朝〜磯城王国の皇太子であり、蝦夷の祖とされています。