坂上田村麻呂(758 - 811)

 田村麻呂の出自をたどると、中国後漢の霊帝の子孫で、 阿知使主を祖とする東漢氏の一族と伝えている。
 ところが、阿知使主は朝鮮半島南部から渡来しているので、朝鮮半島系というのが事実のようである。

 『日本紀略』延暦13(794年)6月13日条に、「副将軍坂上大宿禰田村麻呂巳下蝦夷を征す」とあり
 10月28日条には、「斬首四百五十七級、捕虜百五十人、獲馬八十五匹、焼落(焼き払った集落)七十五処」
 とその戦果を報告したとある。日高見国において、朝廷軍が惨い行いをしたということだ。
 田村麻呂は、この2年後に征夷大将軍になっている。征夷大将軍という称号は、こんな極悪非道なモノだったのだ。

 桓武は前回の失敗に懲りて兵力を倍増した。征軍十万とあるから、前回のほぼ倍にあたる。
 朝廷軍はアテルイを捕らえることもできなかったが、日高見国が受けた損害は大きかった。
 斬首された者の数は、前回の約五倍であり、焼き払われた集落の数もおびただしい。
 日本軍が中国で行った「三光政策」に似た虐殺行為が、日高見国においても行われたのであろう。
 住居や家財道具を失ったエミシの非戦闘員の苦しみは大変なものであったと思われる。
 陸奥国の移民の中には、こうしたエミシの悲惨な状態をみて、エミシに味方する者も現れた。

 延暦18(799年)2月21日、陸奥国新田郡の農民の弓削部虎麻呂とその妻の丈部小広刀自女が
 「久しく賊地に住み、能く夷語を習い、しばしば謾語を以て夷俘の心を騒動」したために、日向国に流されている。
 虎麻呂夫妻はエミシに同情し、懐柔政策の実態など律令国家にとって不利な情報を提供していたのであろう。
 律令国家は、それを「謾語」(でたらめの話)でエミシを動揺させるとして、虎麻呂夫妻を流刑に処した。


■ 北上川(日高見川)と巣伏の戦い 蝦夷征伐の実態は北上川を遡上する朝廷の侵略戦争であった
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■ 末期古墳(蝦夷系墳墓)の分布 蝦夷の民が北上川沿いに集落をなしていたことがわかる
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