平原女王墓が卑弥呼って聞いたけど?
【平原遺跡の女王墓】
・1号+2号の共通の周濠が、短里だと径百余歩
・その周濠に複数の土壙墓 <それぞれに複数人ずつ殉葬か>
・超大型内行花文鏡5枚
・銅鏡39枚
・五尺刀 <鞘と柄を含めた全長だった>
・大量の中国朱
・後漢時代のガラス耳璫 <卑弥呼共立は後漢代>
・三雲遺跡から楽浪土器
里程と日程が並列で、月が日の誤写だと考えれば、
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
北部九州の邪馬台国、首都が伊都ってのはどうなんだろうか。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1689555150/l50 投馬国ってのは任那の前身だろう。
後漢書にも南は倭と接するとある。 ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・魏志の漢字を何故か現代音で分析してしまう 帯方郡から女王国までが12000里
女王国から東へ1000里で倭種
更に4000里先まで書かれてるのに
女王国までの12000里に日数の行程を入れて考えるとかナンセンス
7000+1000+400×2+1000+300×2+1000+500+100=12000
これで伊都国、奴国国境付近が女王国だと分かる。
日数の行程を入れ、方○○里を行程距離に入れないと
帯方郡から10600里、水行20日、水行10日、陸行1月、1000里で倭種に着くとなる。
有り得ない説明文だなwww 「從郡至倭 循海岸水行歷韓國」
帯方郡から倭に至るには、沿岸航海して、韓国を通りすぎたら投馬國に至る。
<ここまで4000里>
「乍南乍東」
「到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
倭勢力圏の北岸中心地である狗邪韓國に合計7000里で到着する。
乍南乍東=7000-4000=3000里
乍南=乍東=1500里 里程と日程は並列である。
帯方郡→水行20日で投馬国→水行10日陸行1日で邪馬台国
帯方郡→7000里で"到"狗邪韓国→11900里で"到"伊都国
(→12000里で邪馬台国中心→1000里で東渡海倭種国→3000里で侏儒國)
狗邪韓国は投馬国の中心地。
伊都国は邪馬台国の首都。 北部九州邪馬台国は七万戸の広域国家である。
伊都国が首都ワシントン。
奴国が経済都市ニューヨーク。
と解すれば分かりやすい。
卑弥呼は共立女王であるから、参加国は属国ではなく、
いずれも共立に参加した比較的横並びの立場の国々であり、
吉野ケ里説や朝倉説、筑後説など、北部九州内で邪馬台国を比定した全ての説は、
里程と日程が並列であったのだという最小限の解釈変更によって、
北部九州邪馬台国説に内包されることになる。
北部九州の広域が邪馬台国であったと標榜できることになり、
観光においてもWinWinの結末を迎えることができる。 魏志倭人伝の方角記載は8方向まで。(北北東とかは無い)
会稽東治之東 九州全域が相当
会稽東治之北東 朝鮮半島が相当
会稽東治之南東 沖縄が相当
会稽東治之南 台湾が相当
以上。 陳寿ら魏晋人にとって、中国大陸側の地理は理解している。
領土である楽浪郡帯方郡の緯度もわかっている。
三国志に、呉の水軍が南西諸島に出兵したことが記録されている。
後漢書に、徐福の末裔が台湾経由で会稽の市に時々やってきたことも記録に残っている。
よって南西諸島も認識されていた。
以上から、陳寿としては、以下の緯度を示したのだな。
山東半島 → 帯方郡 常識
会稽東治 → 倭国 <ポイント>
台湾 → 南西諸島 常識
南越(ベトナム) 常識
三国志東夷伝は東夷伝里(短里)で統一記載されており、
その東夷伝の最終章である魏志倭人伝において総括として、
東夷伝里(短里)の尺度を示すための言葉が、
「自郡至女王國 萬二千餘里」
「計其道里 當在会稽東治之東」
で、
長里で一万二千里だと南越になるけれども、そうではなく、
東夷伝里(短里)は、
帯方郡から女王國まで=山東半島から会稽までに相当、する距離が、
一万二千里に相当するくらいの比率ですよ、
と念を押しているわけだな。 帯方郡
南 北
↓ ↑
投馬国
南 北
↓ ↑
邪馬台国(含女王国)→東渡海→倭種国(四隅突出型墳丘墓)
南 北 ↓
↓ ↑ 南
狗奴国 ↓ 東
侏儒国(阿波など)→黒歯国(最古お歯黒大阪)
↓南
裸国(土佐田村遺跡) 魏志倭人伝の方角記載は8方向まで。(北北東とかは無い)
会稽東治之東 九州全域が相当
会稽東治之北東 朝鮮半島が相当
会稽東治之南東 沖縄が相当
会稽東治之南 台湾が相当
以上。 陳寿ら魏晋人にとって、中国大陸側の地理は理解している。
領土である楽浪郡帯方郡の緯度もわかっている。
三国志に、呉の水軍が南西諸島に出兵したことが記録されている。
後漢書に、徐福の末裔が台湾経由で会稽の市に時々やってきたことも記録に残っている。
よって南西諸島も認識されていた。
以上から、陳寿としては、以下の緯度を示したのだな。
山東半島=帯方郡
会稽東治=倭国←←東夷伝里(短里)一万二千里だよ
台湾=南西諸島
南越(ベトナム)←長里だと明らかに違うでしょ
三国志東夷伝は東夷伝里(短里)で統一記載されており、
その東夷伝の最終章である魏志倭人伝において総括として、
東夷伝里(短里)の尺度を示すための言葉が、
「自郡至女王國 萬二千餘里」
「計其道里 當在会稽東治之東」
で、
長里で一万二千里だと南越になるけれども、そうではなく、
東夷伝里(短里)は、
帯方郡から女王國まで=山東半島から会稽までに相当、する距離が、
一万二千里に相当するくらいの比率ですよ、
と念を押しているわけだな。 隋書倭国伝
『都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
古云 去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里 在會稽之東 與儋耳相近』
隋代の倭国は支配域を拡大しているが、
首都があったのは、依然として北部九州。
魏志に記載された邪馬台国=邪靡堆、つまり3世紀倭国=北部九州邪馬台国の領域であった。
相変わらずの東夷伝里(短里)で、楽浪郡帯方郡から一万二千里。
(その緯度は)「會稽」の東にあたる。
と、隋代に念を押されている。 会稽東治の東じゃないと邪馬台国が日本列島にならない
会稽東冶を主張するのは敗北説が泣きながらちゃぶ台ひっくり返してる 朝鮮投馬国は証拠が一切無いので断じて認められない。 里程と日程が並列で、月が日の誤写だと考えれば、
帯方郡から、水行二十日<到狗邪韓国>→水行十日→陸行一日<到伊都国>で、平原女王墓。
北部九州の邪馬台国、首都が伊都ってのはどうなんだろうか。
↑やめてくれ ネトウヨの嫌う歴史的真実
・ジャップは中国遼寧省を故地とする民族であった
・縄文人は日本民族ではなくユダヤ人とも無関係であった
・日琉語と韓語は遼河文明早期に別れた言語であり韓民族と日琉民族は兄弟の関係にある
・邪馬台国はヤマト王権であり中華の属国として魏に朝貢した
・卑弥呼は天皇家の大王として正式に親魏倭王に封じられた
・神武東征伝説は九州弥生人が吉備経由で畿内を征服した物語であった
・神武天皇のモデルは西暦二世紀後半の人物であり起源前660年は嘘である
・纏向遺跡は韓半島の文化の濃密な異質地域であり大陸の影響が薄いというのは過去の誤認であった
・纏向遺跡はヤマト王権の都であり九州と吉備と韓半島の文化複合体だった
・ヤマト王権の経済的基盤は、公孫氏(後には魏)との交易によるものであった 核ゲノムまとめ
BC.800 佐賀大友弥生・縄文100% M7a1a6
BC.700 沖縄長墓貝塚・縄文100% C1a1a1a1 D4d
BC.700 韓国忠清南道瑞山市・縄文28% C2a-L1373 夏家店上層文化
BC.600 愛知朝日弥生・縄文10% B4c1a1a1a、D4g1b
BC.200 佐賀花浦弥生・ D4b2b1、B4b1a1a
BC.100 福岡安徳台弥生・縄文15% B5b6
AD.100 長崎下本山弥生・縄文60% O M7a1a4、D4a1
AD.150 鳥取青谷上寺弥生・縄文10~20% C1a1、D1a2、O1b2 N9b3、D4b2b1d
AD.250 熊本大坪弥生・縄文42~52% C1a1、D1a2a1c2
AD.300 宮城新金沼古墳・縄文15%
AD.400 香川茶臼山古墳・縄文15% C1a1 D4m1
AD.400 韓国慶尚南道金海市古墳・縄文34% D1a2a1 伽耶・任那
AD.400 鹿児島広田古墳・縄文100% B4f、D4
AD.450 山形戸塚山古墳・縄文15% M7a1
AD.450 福島灰塚山古墳・縄文15% D41
AD.450 和歌山磯間古墳・縄文42~56% D1a2a、O1b2a1a1 M7a1a4a、M7a1b1、N9b1、D4b2a2a1、D5b2
AD.500 石川岩出古墳・縄文15% O2a2b B5a2a1b、D5c1a、M7b1a1a1
AD.500 南九州古墳・縄文60~100% M7a1a2、M7a1a7、N9b、D4b2、A、D4a1c、F、B
AD.600 東京羽根沢台古墳・縄文10% D1a2、O M7a1、D4b2、D4a2a、D4j3
AD.650 島根猪目古墳・縄文20% O1b2a1a1 M7a1a1a、D4b1a1a、D4g1、N9a2a1
現代アイヌ・縄文60~100% 縄文~古アムール
現代沖縄人・縄文25~40% 縄文~古西遼河~古アムール
現代本土人・縄文8~28% 縄文~古西遼河~古アムール
現代韓国人・縄文0~4% 縄文~古黄河~古西遼河~古アムール 国立歴史博物館教授・藤尾慎一郎
日本経済新聞2023.05.26
「愛知県清須市から名古屋西区にかけて広がる朝日遺跡から出土した弥生前期後半(2600年前)の人骨の核ゲノムは渡来系だと判明。
この地域では弥生初期を特徴付ける遠賀川系土器が見つかっており、それを使っていたのが渡来系弥生人であることがゲノムで確認できたわけだ。
土器の系統と遺伝子が対応する可能性を示すもので興味深い」と藤尾氏。
https://i.imgur.com/QIOOu2U.png
少なくとも紀元前600年の愛知県には朝鮮から直接、全く在来系と交わっていない渡来人が環濠集落を築いていた
紀元前500年の青森や紀元前300年の秋田でも高度な同じ渡来文化を持つ環濠集落を築いている
一方で紀元後400年の朝鮮半島の古墳からは縄文ゲノム成分を30%以上持つ人骨が見つかっている
弥生時代(すなわち灌漑稲作や鉄器などの渡来文化の到来)は、発掘調査の結果で紀元前10世紀まで遡るようになっている
紀元前灌漑稲作や鉄器などが伝わっていた奈良に文字が無かったとはもはや考えられない 三国志に出てくる「共立」は3か所。
「共立」は、
@王位継承順位第一位の資格が無い男系王族が、
A周囲の者たちの推薦によって
B王位継承順位を飛ばして王に立てられている。
<夫餘伝>
『尉仇台死 簡位居立 無適子 有孽子麻余 位居死 諸加共立麻余』
夫餘王の尉仇台が亡くなると、簡位居が立った。
簡位居には嫡子がおらず、庶子の麻余がいた。
簡位居が亡くなると、(家臣団の)諸加が、庶子の麻余を共立した。
<高句麗伝>
『伯固死 有二子 長子拔奇 小子伊夷模 拔奇不肖 國人便共立伊夷模爲王』
高句麗王の伯固が亡くなった。
伯固には長男の拔奇と、弟の伊夷模がいた。
拔奇は不肖だったので、国民は弟の伊夷模を共立して高句麗王とした。 後漢書まで広げて共立を調べれば、持ち回りなど特殊事例はそう付記されるから、
倭国王は普通の男系王統で共立女王は倭国王男系女王。
倭国の七八十年男王は1世紀から2世紀にかけてのことであり、
その同じ倭国において卑弥呼は共立されているので、
倭国とは、1世紀から祭祀型銅矛や銅戈、銅鏡が分布する北部九州広域国家である。 魏志倭人伝の狗奴国
・北部九州邪馬台国の南にある
・後漢末〜魏代に建国
・男王卑彌弓呼が国王(不属女王卑彌呼かつ卑彌呼と敵対)
・免田式土器(考古学者も提唱)
後漢書の拘奴国
・北部九州邪馬台国から東渡海にある
・赤坂今井墳墓が盟主(不属女王卑彌呼だが卑彌呼と親密)
・四隅突出型墳丘墓が従う
・魏代男王時に滅亡(男王は反卑彌呼派)
魏略逸文
「女王之南又有狗奴国 女(以)男子為王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也」
・翰苑出典なので北部九州にて書き継がれていた情報 魏志韓伝
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接」
「(弁辰十二国中の)其瀆盧国與倭接界」
後漢書韓伝
「韓有三種 一曰馬韓二曰辰韓三曰弁辰
馬韓在西有五十四國 其北與楽浪南與倭接
辰韓在東十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南亦十有二國 其南亦與倭接」
海:海を以って限りと為す
陸:接する、境界を接する 面で広がる北部九州倭国に、ただ千戸の特別行政区分、つまり首都
伊都 ワシントンD.C. 70万人
奴国 ニューヨーク 880万人
伊都 キャンベラ 37万人
奴国 シドニー 523万人 >>18
朝鮮半島南部に投馬国が在ったと魏志倭人伝には書かれてる。 畿内説のスレ落ちてる
新スレたったらこれ転載しといて
張政がすぐ帰ったのは中国側の資料で判明しているから卑弥呼の墓は小さい。葬儀が大規模みたいな表現だろう
小さくていいならどこにでもあるから候補地は増えてもいいけど
加治将一『舞い降りた天皇』 祥伝社文庫
・辰韓人の協力のもと纏向京を作ろうとした。檜原神社と伊勢神宮の位置関係は平原遺跡と宇佐神宮の位置関係と同じ。
・箸墓古墳の工期は人力だと十二〜三年。卑弥呼死去から長政帰国までは一年。長政渡来が二四七年、卑弥呼死去が二四八年、帰国が二四九年。箸墓の着工を二四八年とすると完成は二六○年ころになる。 伊都説のコアな部分については、
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)3
の2ちゃん版とその関連スレを参照されたし。 ヤマト王権=邪馬台国
纏向遺跡を作った人たちは九州や吉備からやってきて畿内原住民の銅鐸文化人を征服した外来者と推測される
彼らは銅鏡祭祀であり畿内の支配者となってからは銅鐸を接収して破壊し武器に鋳直していたようだ
今日の神社神道の社の中で祀られているのが鏡であるのはヤマト王権の銅鏡祭祀が起源である事は言うまでもない
九州や吉備からやってきた新しい支配者は諸国連合の盟主として女王卑弥呼を擁立したのだろう
魏志倭人伝によると女王は宮殿に篭って神事に没頭していたようだから、彼女とは別に軍事や世俗政治を担当した男王がいたはずである
邪馬台国を建国した男王が神武東征伝説の元ネタになったヤマト王権初代王であろう
畝傍山の麓にある所謂「神武天皇陵」は恐らく飛鳥時代の何処かで祭祀用に作られた参り墓と考えられる
畝傍山は倭京や藤原京の宮廷から簡単に歩いていける場所だから橿原宮伝承に基づいてあの場所が定められたのだろう
オレは本物のヤマト王権初代王の墓は纏向石塚古墳だと推測する
ヤマト王権の支配層の言語は九州方言や吉備方言であり、少なくとも第一第二世代くらいまでは近畿方言を用いてはいなかったと考えられる
弥生時代の九州方言ならば本土日本語よりも琉球祖語に近かったはずであり、ヤマト王権の支配者は琉球語話者だったという仮説も十分にありうる
ネトウヨは邪馬台国九州説なる妄説を立ててヤマト王権が中華の属国になった歴史を否定しようとするが、どんなに詭弁を弄しても過去を消す事は不可能なのである 500年後の725年の鬼頭宏よる推定人口が壱岐対馬と筑肥豊で449,100人(89,820戸)
3世紀頃だと北部九州地域全体で70000戸は妥当な数字だと考えられるな
3世紀の日本で70000戸は北部九州地域や中国四国地方、近畿地方くらいの規模の広さが必要だからな
「邪馬壹國 女王之所都」は「邪馬壹國は女王の都」じゃなくて「邪馬壹國は女王の居る国」と訳した方が正解だな
投馬国に対して邪馬壹国に卑弥呼は居るって意味だな。 「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の正しい意味
「女王卑弥呼は女王国より北は、特に一大率を置いて諸国を検察させていた。諸国はこれを恐れはばかっていた。女王卑弥呼は常に伊都国で一大率を使い諸国を治めていた。一大率は魏に於ける刺史のようであった。」 魏志倭人伝の行程は、面としての地図を示しておらず、
帯方郡から伊都國そして不彌國までの「動線」を記したものである。
その動線は、帯方郡から北部九州方向への「往路」
そして移動季節は、行程記載の節々の描写でわかるように「夏」
つまり「夏の往路」の動線について記載されたものである。
この時代には方位磁針が無いので、出発時の太陽の「夏の日の出方角」が基準であり、
よって、全てが南寄りに記載されることになる。
魏使説:呼子(末蘆國西北端)に至る→魏代伊都、を採っても、
漢使説:筑前深江(末蘆國東端)に至る→福岡県道49号線(金印後漢使ロード)→漢代伊都(吉武木宮殿)を採っても、
いずれにせよ東南で合っているのである。
(ちなみに、太陽の日の出を見て、東を南には間違えようがないことも追記しておく。) >>37
>帯方郡から伊都國そして不彌國までの「動線」を記したものである。
違う。
帯方郡から女王国までの「動線」を記したものである。 至極、当たり前のこと。 @阿波 伊都国の一貴山銚子塚古墳
4世紀後半の前方後円墳
竪穴式石室、組合式木棺か
頭部に、鍍金方格規矩四神鏡と長宜子孫内行花文鏡<<"鍍金">>
両脇に、三角縁神獣鏡8面
硬玉製勾玉 2個、碧玉製管玉 33個
鉄製素環頭大刀3口、直刀3、短刀1、鉄剣6
サンドイッチ法にて、
三雲井原遺跡→平原女王墓→4世紀後半に至るまで、
対馬海峡を管轄する伊都國ではずっと、方格規矩四神鏡と内行花文鏡が最重要の威信鏡であった。(常治伊都國) 魏志倭人伝の方角記載は8方向まで。(北北東とかは無い)
会稽東治之東 九州全域が相当
会稽東治之北東 朝鮮半島が相当
会稽東治之南東 沖縄が相当
会稽東治之南 台湾が相当
以上。 陳寿ら魏晋人にとって、中国大陸側の地理は理解している。
領土である楽浪郡帯方郡の緯度もわかっている。
三国志に、呉の水軍が南西諸島に出兵したことが記録されている。
後漢書に、徐福の末裔が台湾経由で会稽の市に時々やってきたことも記録に残っている。
よって南西諸島も認識されていた。
以上から、陳寿としては、以下の緯度を示したのだな。
<常識>山東半島→帯方郡
<ポイント>会稽東治→倭国
<常識>台湾→南西諸島
<常識>南越(ベトナム)
三国志東夷伝は東夷伝里(短里)で統一記載されており、
その東夷伝の最終章である魏志倭人伝において総括として、
東夷伝里(短里)の尺度を示すための言葉が、
「自郡至女王國 萬二千餘里」
「計其道里 當在会稽東治之東」
で、
長里で一万二千里だと南越になるけれども、そうではなく、
東夷伝里(短里)は、
帯方郡から女王國まで=山東半島から会稽までに相当、する距離が、
一万二千里に相当するくらいの比率ですよ、
と念を押しているわけだな。 魏志倭人伝の方角記載は8方向まで。(北北東とかは無い)
会稽東治之東 九州全域が相当
会稽東治之北東 朝鮮半島が相当
会稽東治之南東 沖縄が相当
会稽東治之南 台湾が相当
以上。 陳寿ら魏晋人にとって、中国大陸側の地理は熟知している。
自国領土である楽浪郡帯方郡の緯度もわかっている。
三国志に、呉の水軍が南西諸島に出兵したことが記録されている。
後漢書に、徐福の末裔が台湾経由で会稽の市に時々やってきたことも記録されている。
よって南西諸島も認識されていた。
以上から、陳寿としては、以下のように緯度を示したのだな。
常識:山東半島=帯方郡
指摘:会稽東治=倭国
常識:台湾=南西諸島
常識:南越(ベトナム)
三国志東夷伝は東夷伝里(短里)で統一記載されており、
その東夷伝の最終章である魏志倭人伝において総括として、
東夷伝里(短里)の尺度を示すための言葉が、
「自郡至女王國、萬二千餘里」
「計其道里、當在会稽東治之東」
で、
長里で一万二千里だと南越になるけれども、当然のことながらそうではなく、
東夷伝里(短里)とは、
帯方郡から女王國まで=山東半島から会稽までに相当、する距離が、
一万二千里に相当するくらいの比率ですよ、
と念を押しているわけだな。 平城京遷都1300年祭の際に発表された新説により、古墳時代の女王とされる人物が卑弥呼である可能性が指摘されています。しかし、現在でも卑弥呼が平原(へいげん)女王であるという確定的な証拠は存在しておらず、学界の間でも議論が続いてる 『隋書』流求国伝
>流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至
「流求国(台湾or琉球)は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」
台湾or琉球へ水行 【考古学】富雄丸山古墳、木棺から「三角縁神獣鏡」発見か 被葬者は巫女の可能性
[すらいむ★]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1710421369/
富雄丸山古墳、木棺から「三角縁神獣鏡」発見か 被葬者は巫女の可能性
国内最大の蛇行(だこう)剣や盾形銅鏡が見つかった奈良市の富雄丸山古墳(直径109メートル、4世紀後半)で、
墳丘から張り出した「造り出し」の木棺から、青銅鏡や漆塗りの竪櫛(たてぐし)が見つかり、市教育委員会が13日、
発表した。
いずれも邪を払う意味があるとされ、
被葬者は呪術性を帯びた特別な巫女(みこ)の可能性も浮上し、
当時の葬送儀礼やヤマト王権との関係を考える上で重要な資料になりそうだ。
産経新聞 2024/3/13
https://www.sankei.com/article/20240313-2JP3RRBYPJLIXIRSHQMSYPNUMA 紫金山古墳から三角縁神獣鏡は10面出土したが
鏡の紐を通す孔が全て鋳放し(鋳たままで仕上げしていない)であって
中には孔が完全に塞がっているものもあった。
考古学者の森浩一によると
「中国の皇帝が周辺の国の人、王などに鏡を与える時は必ず紐のところに
その王の身分を示す色の組み紐を通してあります。だから倭人伝にも卑弥呼に与えた印は『金印紫綬』と書いてあるでしょう。
金印も同じように紐を付けます。紫色の組み紐。紐は腐ってくるからよく鏡だけ発掘品に並べてあるけど
組み紐とセットで、ある意味では組み紐の方が重要だったわけですね。紫綬。
だから、もしも本当に三角縁神獣鏡というものが魏の皇帝が大量生産で卑弥呼の使いにやった鏡とすれば
紫綬を通す所の、紐の孔は綺麗に作り上げて、そこには何色かの組み紐が付けてあってしかるべきなのです。」
橿原考古学研究所の所長だった菅谷文則氏は
画文帯神獣鏡等の中国の鏡は組み紐を通す孔が綺麗に仕上げされていて
紐を通して日常的な使用に耐えられるようになっているが
三角縁神獣鏡の7~8割は仕上げがされていなくてギザギザが残っており
紐を通しても紐がすぐ切れてしまい日常的な使用には耐えないだろうと述べ
三角縁神獣鏡はお墓に入れる為に日本独自に出来上がったジャンルなのではないかと述べている。 倭国 漢読み「ワ」 倭読み「やまと」
107年倭国王師升が発音 後漢宮殿書記が記録 倭面土
247年倭国民多数の発音 張政が記録 邪馬臺(台)
その後の外交など交流 多数者が調整 邪靡堆
720年日本書紀 倭の読みは 夜摩苔
同じ「やまと」を発音した場合、
倭国王族の貴族発音もしくは師升の個人的発音が、倭面土
その他大勢の倭人が発音すると、邪馬臺
に聞こえたということ。