我々がコーヒー・ハウスに戻ったのは三時少し前だった。
レイコさんは本を読みながらFM放送でブラームスの二番の
ピアノ協奏曲を聴いていた。

見わたす限り人影のない草原の隅っこでブラームスが
かかっているというのもなかなか素敵なものだった。

三楽章のチェロの出だしのメロディーを彼女は口笛でなぞっていた。
「バックハウスとベーム」とレイコさんは言った。「昔はこのレコードを
すりきれるくらい聴いたわ。本当にすりきれちゃったのよ。
隅から隅まで聴いたの。なめつくすようにね」

 『ノルウェイの森』村上春樹