トスカニーニ14 [無断転載禁止]©2ch.net
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中学生の時毎日聴いてたけど、今はもうね:
Beethoven Symphony No.5 Toscanini 1939 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=qfMwzrqM6yo
Dvorak, Symphony No 9 , Arturo Toscanini,cond - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=hbESNzGSTAY
Mendelssohn Symphony No.4 Italy - Toscanini (1954) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=q1iLrxWmOIY すべて終わった後で指揮者を格付けすると
ニキッシュ・マーラー・フルトヴェングラー・クナッパーツブッシュ
>> ワルター・メンゲルベルク・ワインガルトナー・トスカニーニ
>> カラヤン・ベーム・チェリビダッケ
かな
カラヤンやトスカニーニは音響がすべてだから、音楽がわからない人に人気が有ったんだ オーケストラも格付けすると
ウイーン・フィル、ベルリン・フィル
>> アムステルダム・コンツェルトヘボウ、ドレスデン国立、ゲヴァントハウス
>> ドイツの地方オケ, NBC
>> NYフィル、フィラデルフィア、イギリス・フランス・イタリア・ロシアのオケ
NBCは音色はNGだけど バカでかい音が出せたのでトスカニーニの評価が高かったんだ
ワルターはNYフィルを指揮してから二流指揮者に転落した トスカニーニで現代でも聴き継がれているのはこれ位かな:
トスカニーニ NBC交響楽団
・ロッシーニ:歌劇『アルジェのイタリア女』序曲 (1950年4月14日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『ブルスキーノ氏』序曲 (1945年6月8日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『セルビアの理髪師』序曲 (1945年6月28日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『シンデレラ(チェネレントラ)』序曲 (1945年6月8日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『どろぼうかささぎ』序曲 (1945年6月28日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『コリントの包囲』序曲 (1945年6月14日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『セミラーミデ』序曲 (1951年9月28日, カーネギー・ホール)
・ロッシーニ:歌劇『ウィリアム・テル』序曲 (1953年1月19日, カーネギー・ホール)
トスカニーニRCAコレクション|LAWSON-TICKET & HMV NEWS
http://www.hmv.co.jp/en/news/article/1201070002/ ◎ 指揮者クレンペラーによるトスカニーニ評
クレンペラーはこの後、あれは良い、これは今ひとつと、トスカニーニの公演を思い出します(クレンペラーが聴いたものとは異なりますが、各種録音が出ている曲はリンクしておきました)。
ベートーヴェンの第7番のトリオは大変早過ぎた。
私が知る限り、これは古いオーストリアの巡礼者の歌、アヴェ・マリアをもとにしています。
トスカニーニはこれを知らなかったのでしょう。テンポを遅くとってはじめて意味をなします。
スケルツォに対照的になるべきですから。
◎ フルトヴェングラーによるトスカニーニ評
トスカニーニのベートーヴェンの交響曲《英雄》では、
ベートーヴェンの音楽の本来の内容を決定するすべてのもの、すなわち有機的なものとか、
一つのものが別のものに移行する経過とかは、トスカニーニにとって存在しない。(中略)
だがわれわれは、その際、彼がかなりの年齢にいたるまでイタリアのオペラ指揮者にほかならなかったこと、
絶えずイタリア・オペラ音楽の諸形式の枠内で思考し、彼にとっては一方ではトゥッテイが、
他方では純粋にホモフォニー的なアリアが音楽の基本概念であったということを思い起こす。 チェリビダッケ語録
サヴァリッシュ→ 高校の校長がいいところ。音楽家ではなく、メゾフォルテのマラソンのスペシャリスト
クナッパーツブッシュ→ じゃがいも袋
トスカニーニ→ 無知蒙昧な指揮者
オーマンディー→ あんな凡庸な楽長が、なぜストコフスキーの後継者になれたのか。
ベーム→ ありゃ、くだらん。これまでただの1小節も音楽を指揮したことがない男。
カラヤン→ コカ・コーラだな
クーベリック→ 優れた音楽家だが、指揮者としては小物だ。誰もが肩を並べられる唯一の指揮者。
ブーレーズ→ リズムを機械的な者と理解すれば、それがブーレーズ
ムーティ→ 才能はあるが恐ろしく無知な指揮者
マゼール→ カントについて語る2歳児。無能なだけでなく、オーケストラにとって有害きわまりない指揮者
アバド→ まったく才能のない指揮者。ヤツのコンサートを1時間聞けば心筋梗塞を起こす。
カルロス・クライバー→ 私にとって我慢ならない指揮者。彼は音楽が何であるかを経験したことがない。 チェリビダッケ語録
フルトヴェングラー→ いい時に死んだ。晩年は耳も聞こえなくなってまともな音楽が出来ていなかった
(この言をフルトヴェングラーの墓前で新聞記者に語った)
[チュリビダッケは戦前フルトヴェングラーのアシスタントを勤め、ドイツ敗戦の非ナチ化のときにベルリンフィルを指揮した。]
マーラー→ 彼の交響曲第5番の第1楽章を理解したなどという者はほら吹きで詐欺師。
マーラーなんぞいなくなってもまったく気にならない。マーラーは音楽史の中で最も痛ましい現象の一つ。
シェーンベルク→ まったくどうしようもない愚鈍な作曲家
ストラヴィンスキー→ ディレッタントの天才
ベートーヴェン→ 「運命」の第4楽章は最悪の作品で、間違った転調に満ちている。
「第九」の第4楽章の合唱はサラダ、それもぞっとするサラダ。「エロイカ」の最終楽章はひどいジョークだ。
オペラ→ 内容空疎で間違った芸術のならず者。オペラの指揮など不純な振る舞い
ウィーン→ ウィーンで生まれ育った者や文化だけが最高と思い込んでいる最悪の街。
私の生涯最悪のブルックナーの演奏はウィーン・フィルを指揮したものだ。 モーツァルト 魔笛 アルトゥーロ・トスカニーニ指揮、ウィーン・・フィルハーモニー管弦楽団
1937年7月30日、ザルツブルグ音楽祭。NAXOSのHistorical。
宇野功芳の評価
「史上最悪の《魔笛》だな。こんなの聴いたことないよ。
まず序曲ですね。癇癪もちのモーツアルト。速くて、せっかちで、
モーツアルトではなくて完全にトスカニーニの音楽になっているね。
序曲が終わって、大蛇に追われながらタミーノが登場します。
このタミーノが大時代的なんだよ。「俺は英雄だ」っていっているようだね。
三人の侍女がそろいもそろってみんなずり上げ専門。
ぼくにはとうていモーツアルトとは思えない。ひどいよ。
フォルテも強くてベートーヴェンのようだしね。 第三曲、タミーノのアリアも表情をつけすぎ、語りすぎ、歌いすぎです。
第五曲、五重唱、「フム、フム、フム・・・」は元気がよすぎる。
音楽を汚しちゃているんだよね。
元気良く歌えばモーツアルトになるという、ひとつのパターンがあって、不必要に元気のいい表情をつけてしまう。
だからしゃべりすぎてメロディーがわからないんですよ。五人全員が表情をつけすぎ、活発すぎ、そしてずり上げる。
それから変なところで音がはずむ。それがモーツアルトだと思っているからね。
第六曲ではモノスタトスが出てくるんだけれど。どういう音楽だかさっぱりわからないですよ。
メロディーを崩してしまっているから。
パパゲーノと「フー」「フー」といい合うところは、ふざけすぎ。音程をなくしちゃってるんだ。ただ奇声をあげているだけ。
音程をなくしてどうします。ハーモニーになるところもあるんだからね。
しかも、最後にアッチェレランドまでかけるんだ。
第七曲の『愛を知るものは』というパミーナとパパゲーノの二重唱ですが、音楽の美しさがまるでわからないですね。
奴隷たちが出てきてパパゲーノが鈴を振る。この鈴の音がひどい。
チンドン屋です。音を硬くし、しかも音程を狂わせているんだな。
これはほんとうにひどいです。
トスカニーニは音楽を破壊するためにやっているようなものですよ。 第ニ幕に入ってきて、第十四曲、夜の女王のアリアは細かい音程がいい加減ですね。
第十五曲、ザラストロはいかにも偉そう。
「俺は偉いんだぞ」といっているようです。タミーノと同じで大時代的。
許せないのは第二十曲、パパゲーノのアリアの合間に聞かれる鍵盤付きグロッケンシュピールだ(鍵盤付きの鉄琴)。
歌と音程が違うんですよね。半音くらい低いんですよ。違う調がなるんだ。
ほんと、腹立たしくなって、CDを叩き壊したくなったよ。
パパゲーノが「恋人が欲しい」と哀れっぽく歌うんだけれど。
これが泣いているんだか、笑っているんだかわからないんですよ。
表情をたくさんつければいいと思っているんですよねえ。
面白いと思ったのは、超一流の指揮者で、しかもオペラの悪しき慣習を改革していったトスカニーニと、天下のウィーンフィルが、
こういう音程のずれた音楽をわざわざ求めているということですね。
ぼくだったら怒りますよ。ぼくが聴衆だったらブーイングだし、指揮者だったらそんなことはさせない。
本場の人はそういうのは超越しちゃうのかな、
トスカニーニやウィーンフィルみたいに、あんな耳のいい連中が怒らないでやっているわけでしょ。
こっちは気持ち悪くてCDを叩き壊してやりたいと思っているのに、これは面白い現象だと思った。
とにかく、このパパゲーノのアリアをみんなに聞いて欲しいな。
日本人はみんな癪にさわると思うよ。
第二幕の最後に大合唱があるでしょう。コーラスが全員ずり上げるんですよ。
馬鹿じゃないかと思うね。だいたいモーツアルトの演奏というのは、基本が清潔でないと駄目なんですよ。
その清潔さの中で気持ちをこめていかないと。みんなでずり上げたんじゃぶち壊しですよ」 偉大なる指揮者を格付けすればこんな感じになりますか
SSS メンデルスゾーン ビューロー マーラー
SS ニキッシュ フルトヴェングラー トスカニーニ
S クナッパーツブッシュ ワインガルトナー ワルター クレンペラー
実際に聴いてみたいのは、何といってもマーラーですよ!!
「トスカニーニ等、マーラーと比較すれば問題にならない」とクレンペラーが証言していましたよね。
マーラーとトスカニーニは8歳しか違わなかったわけですし…。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1490912399 前スレを埋めないうちに書き込むんじゃねーよジジイども >>10の続き
チェリビダッケ語録
ベーム?「芋袋」 -- 2005-06-13 (月) 18:18:22
カラヤン?「コカコーラ」、ツンボの耳を持っている指揮者 -- 2006-11-18 (土) 05:59:23
ハイティンク?「比類なき彷徨えるオランダ人」-- 2005-06-17 (金) 07:22:32
アバド?「天分ゼロ。苦痛そのもの。何も食べなくとも3週間平気だが、彼のコンサートは3時間で心筋梗塞。聴くだけで腹が立つ」
ムーティ?「並々ならぬ才能の持ち主だが、トスカニーニ同様無知者」
トスカニーニ?「スコアの通り演奏したと言われているが、とても音楽と呼べる物ではない。音符をなぞっただけ。それが彼の演奏だ」
オーマンディ?「あんな2流指揮者が何故ストコフスキーの後任になれたのか?」
ストコフスキー?「色彩の王者」 -- 2005-06-18 (土) 10:39:23
クナッパーツブッシュ?「幅広い、ゆったりしたテンポで指揮すると言われていたが、とんでもない。音楽と呼べる代物ではなかった」
シューリヒト?「素晴らしい音楽家。学生時代、我々はベームではなく、彼の所へ勉強しに行ったものだ」 クーベリック?「大音楽家、小指揮者。話の分かる唯一の人」
サヴァリッシュ?「大学の学長の様な人。音楽家とは呼べない」
シャイー?「無能」
ショルティ?「優れたピアニスト。指揮者としては並」
バレンボイム?「指揮はお粗末だが、素晴らしいピアニスト」 -- 2005-06-18 (土) 13:16:29
カルロス・クライバー?「あんな物凄いテンポでは誰も何も受止められない。彼は音楽が何たるかを知らない。悲劇だ」
バーンスタイン?「彼には何も理解出来ていなかったが、知的な男だ。それは間違いない。」
ブーレーズ?「リズムとは、機械的に調和させるものと思い込んでいる指揮者の典型」 -- 2005-06-18 (土) 17:36:44
ダヴィット・オイストラフ?「最上の、まさに理想的な素晴らしい音楽家」
ヤッシャ・ハイフェッツ?「苦痛そのもの」
アンネ・ゾフィー・ムター?「馬鹿な女。ヴァイオリンを弾く雌鳥。みすぼらしくて話にならない」
ディヌ・リパッティ?「深遠なる音楽家」
アルフレッド・コルトー?「音楽を詩的に捉えるのが気に入らない。何を弾いても皆同じ。
彼のルバートとラレンタンドは常にパワーに欠けていて、聴いていると眠くなった。南米では彼の伴奏を拒否したよ」
http://8930.teacup.com/kannoshigeru/bbs/35 という事で誰が評価しても
トスカニーニ→ 無知蒙昧な指揮者
トスカニーニ
「スコアの通り演奏したと言われているが、とても音楽と呼べる物ではない。
音符をなぞっただけ。それが彼の演奏だ」
というのは変わらないのですね。 そろそろ本当にものが言える人が出てもよさそうなものだが、その気配すらないから僕が言ってしまおう。損な役割だよなあ。
トスカニーニはばか者である、と。あるいは単なる道化役者だ。音楽家は皆、正直ではない。言質を取られないように言を左右に、
むにゃむにゃ言ってごまかしているものだから、理屈を言うに長けた愛好家がいつのまにか先導している有様さ。
一言でいうならばこれで足りてしまうのだが、それでは子供の喧嘩ではないかと思う人が大半だろうから、少し言葉を補足しておく。
とにかく厄介なのは、この指揮者が作曲家に心から畏敬の念を持っていたということだ。
たとえばプッチーニの「トゥーランドット」は最後の部分が作曲家が死んだせいで欠けている。
トスカニーニはこのオペラを演奏した際、プッチーニが書き記した音符まで来たとき指揮棒を置き
「先生がお書きになったのはここまでです」と言ったと伝えられる。
話を逸らせると、プッチーニをそこまで尊敬する気持ちが僕には分からない。
「トゥーランドット」は成る程人気のあるオペラかもしれないけれど、
プチーニという人は「ラ・ボエーム」ですべてを出し尽くしてしまった人ではないだろうか。
それはさておき、トスカニーニの態度は律義者のそれに見える。
ベートーヴェンと何とかのコラボなんていう催しばかりが流行する今日から見ればなんとまあ可愛い、
と思えなくもない。美談だ。
つい数日前にも「美しい巻き毛のエリーゼ」だったか、少なくともそういう類の名の「エリーゼのために」を
愚にもつかぬアレンジした楽譜を見せられて疲労した。 そういう意味では彼は野心家ではないのかもしれない。
自分の成功のためには手段を選ばなかったカラヤンとは違う。
自分が指揮するとき以外は、楽員の数を減らしていた、
それを絶対に譲らなかったといった真似はできなかったかもしれない。
僕はこの人の演奏をすべて聴いたことがあるわけではない。
批評家ならそれが要求もされるかもしれないけれど、そこまで暇人ではない。
いくつか聴いてあとは判断してしまえばもう聴かない。
例えばマイラ・ヘスと共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、
あるいはルドルフ・ゼルキンとの、やはりベートーヴェンの第1番を聴いてみよう。
前奏ひとつとっても、とてもとても音楽とは思えない代物である。
なぜこんな男が当代きっての指揮者と見做されるようになったか。
原因のひとつは、楽員も当時はそれなりに作曲家への畏敬の念を持っていたからだろう。
どこにそんなことが書いてある、作曲家の意図を踏みにじるつもりか、
君たちは、と猛烈な勢いで怒鳴りつけられてごらん。悪いのは自分たちだ、
と恐れ入ってしまうような可愛らしい時代だった。
演奏家ならば少しマンネリ化してサボってしまっている、という後ろめたさは皆持っているだろうし。
人間はそんなに単純なものだろうか、という疑問を持つ人もいるだろう。しかし、警察で厳しく尋問されて、
覚えもない犯行を「自供」してしまうのも人間だ。
ましてや、自分の演奏の不備でも衝かれてごらんなさい。いったん守勢に回ったが最後、
そう易々と形勢を転じることはできないものだ。
上述のヘスと共演しているベートーヴェンの3番は比較的楽に手に入る。聴いてご覧なさい。
この曲の冒頭の付点のリズムひとつとっても、正確に聴こえないのである。つんのめって聴こえる。
それはちょうど、コンピュータが演奏したものがイン・テンポに聴こえないのと同じである。 トスカニーニによるベートーヴェンが、付点のリズムひとつとっても正確ではない、
というところまで前回書いた。
なぜそういうことが起こったのか。誰の耳にも明らかな「間違い」を犯すということが。
トスカニーニは正確さの権化ではなかったか。
思うに、トスカニーニという人は、作曲家を尊敬するあまり、自分の感覚を否定したのだ。
彼の頭にはメトロノームはイン・テンポを刻めないかもしれない、
という疑念はただの一度たりとも生じなかったはずだ。
自分が感じたものに「刻む」時をあてはめて、その感覚を修正していったのだと思う。
気の毒としか言いようがない。
個人的に見れば今となっては気の毒な男だ、と言っても差し支えないが、
音楽家がこの人への態度を曖昧にしたおかげで、現在に至るまで、いろいろな弊害が起こる。
いい加減に清算したら、と僕が思うのも無理もない。
清算するなんて、学生運動華やかなりしころを思い起こさせるね。僕はこういう言葉が嫌いである。
ただ、どうしていつまでも正直に見ないのかと、多少イライラしたので使ってしまった。
音大の練習棟に行って御覧なさい、ほとんどの学生がカチコチメトロノームで練習していますよ。 なにせ専科の教師からそうやって練習しろと言われているのだからもう救いようがない。
これでも機会あるごとに、メトロノームはイン・テンポを刻めない、
ということを噛んで含めるように言い聞かせているのだが、如何せん衆寡敵せず、
焼け石に水、臭いものに蓋、いやそうなってはいけないな。
それに、メトロノームを使わなくなったからといって上達が保障されるわけではないからね。
もしそんなことでよかったら、これはあまりに簡便で、なりたい人は誰でも上手になる道理だ。
メトロノームでイン・テンポを保障してその上で、それは音楽ではないからと勝手に「自由に」演奏する。
その結果、自由な演奏は、たがが外れた、安定感を欠いたものになってしまった。
たとえばルバートひとつでも、ルバートを可能にする質量感がないまま、
あさっての方角へすっ飛んでしまうようになった。
ギドン・クレーマーの唐突な表情は、吉田秀和さんによれば「アッと驚く、予期しない稲妻のような」ものらしいが、
僕にはそう聴こえない。予期できないよ、確かに。
でも、大抵の人が(日本人以外は)人のしないことをしようとただただ狙っている。
投機師のようだ。
他の例を挙げれば一世を風靡した感のあるアノンクーアのオーケストラだって、素直に聴けば、
ただの下手くその集団ではないか。こちらは「自由主義」ではなくて「研究」による結果、当時は奏者の腕前は低かったという見識から導かれた結果かもしれないけれどね。
そういう「自由主義者」の大量発生は、トスカニーニ流の厳格主義の裏面にすぎない。
ただの一人も、今日トスカニーニ流インテンポの演奏はしない。
でも、基本のイン・テンポはメトロノームに代表される刻まれた時間にある、
という漠然とした盲信は持ち続けている。
だから「ロマンティックな余分なものを排除した演奏」というレッテルだけは大切に保管しているのだ。
本当は時間、テンポはただ経験されていく。
その点ではまるでベルグソンの時間論そのものだと言っても良い。
曲の流れは、たとえ厳格なテンポが要求される場合でさえも、
それは微妙な揺らぎの中で(人間的に)捉えられるものである 話題がテンポになってしまったが、これはひとつの例にすぎない。
僕の記憶違いかもしれないけれど、たしかベルグソンは
「自分の論は、いずれの日にか音楽の演奏家が正しく理解するであろう」と言った。
それは時間論の中の一節だったような気がする。
当時、その通りだ、と激しく気持ちが高ぶったことだけを記憶していて、出典を失念してしまった。
僕が興奮したわけは、音楽家がいずれ理解する、ということではなく、
ベルグソンが演奏という行為をじつに正確に理解しているということにあった。
とんでもない、難しい横道に入り込みそうになったが、
演奏における「正確さ」は何か、を問わない限りとんでもない「自由主義」は形を変えて次々にやってくる。
トスカニーニは正確さの権化と見做されていたし、今もその精神の後ろ盾のように見えるが、
僕は彼は正確さを欠いた人物だと言いたいのである。
揺らいだ中でと書いたけれど、その揺らぎの中で得た安定だけが、
さながらシャボン玉がさまざまな形状になりながらも安定した状態を保つように、自由な演奏を保障する。
http://blog.goo.ne.jp/dummkopf_1950/e/0908680381da03e522e00bccaf55cfc2 トスカニーニの録音、音悪すぎ。現代の技術でなんとかならんのか? >>26
現代の技術で何とかしたディスクが最悪
いじっていないのを探すのだ 斜陽の音楽産業が安い投資で中途半端な技術を駆使するから、悪くなるのだ セルスレッド氏降臨?
チェリビダッケの霊と交信中ですか チェリは詩人になるべきだったな。
下記の2つは言い得て妙とおもった。
> カラヤン→ コカ・コーラだな
> ベートーヴェン
> 「第九」の第4楽章の合唱はサラダ コーラでも美味しければいただきます。ってあれか?
ベーム夫人だったっけ? チェリビダッケ→ ノロマなロバ、何をやっても遅く同じようにしか出来ない無能な単細胞 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています