ブルックナー最後の交響曲「ブル9」PART4
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第4楽章の補完研究も進んできた印象ですね
以前は蛇足みたいに感じたものですが最近のはけっこうアリかもと思えたりする
個人的にはラトルのはかなり好き あ
れ
ほ
ど
単
曲
ス
レ
は
立
て
る
な
と
言
っ
て
お
い
た
の
に
馬
鹿
で
す
か
マ
ジ
で
迷
惑 うむ。
ブルックナーは好きだが、
いろいろ聴き比べまでするほどじゃないんで。 >>1乙
977:名無しの笛の踊り[sage] 2017/08/30(水) 23:14:46.49 wVZQsmpX NG
補筆版による演奏ならアイヒホルン盤が代表的だろうと思う
もっとも、ラトルが使った補筆版の旧版を使用しているので
ラトル「が使った」版以外の補筆版を聴きたいということなら今だとシャラーの新旧盤かね
キャラガン版による1回目と自身の版による2回目で聴き比べできる状況
もしラトルやアイヒホルンが使ったサマーレ他の版(SPCM版)をたどるつもりがあるなら
インバル→アイヒホルン→(ヴィルトナー)→ボッシュ→ラトル
マルテ版、ルトカル版、ジョセフソン版も含めて、検索すれば何かしら聴けると思う
※補足すると補筆なしの断片を解説付きで取り上げたアーノンクール、入手は難しくなるけどタルミのキャラガン初版(断片付き)などがあったりする 俺的にはこの曲は3楽章からなる交響曲として完成作とみなしていいと思うけどな
実際3楽章構成の交響曲なんか他にもいっぱいあるし
そもそもブルックナーの全交響曲は4楽章構成でなければいけないって誰が決めたんだ? シューベルトの8(7)も、ブルックナーの9も今の形で全然問題ない。
何をつけても蛇足にしか聞こえないだろう。 >>11
作曲者が最初から3楽章で構想してたとか
最終的には気が変わって3楽章までで完成と自ら納得したかによるのでは?
ブル9の場合はブル本人が最後まで3楽章で終わることを良しとしてなかったんだから
この曲に関してはそのご意見はちょっと的外れな気がする 時間がたっぷりあったのに第4楽章を未完成に終わらせたなんてブルックナーも馬鹿だな
先に第4楽章を完成させてから他の交響曲の改訂をすればよかったのものを
それを先に改訂のほうを済ませちゃったもんだから、病気の悪化という不運もあってどんどん時間が過ぎてしまい、結局第4楽章は未完のままでジ・エンド
結果論になるかもしれないが、ブル1とかブル4の改訂は必要なかった >>15
自分の意見を書かず、人が書いた意見にいちいち文句たれてばかりいいるお前が一番のバカ 時間がたっぷりあったのに、ブル9を未完成に終わらせてしまったなんてブルックナーも馬鹿だな
先に第4楽章を完成させてから他の交響曲の改訂をすればよかったのものを
それなのに改訂を先にやってしまったため、病気の悪化という不運もあってどんどん時間が過ぎてしまい、結局第4楽章は未完成のままジ・エンド
結果論になるかもしれないが、ブル1とかブル4の改訂は必要なかったな マタチッチ・チェコフィル聞いたことあるけど
やっぱりすごいもんだな
アダージョなんて、慟哭に聞こえる
いや、彼岸への旅立ちの叫びとでも言うべきか 時間がたっぷりあったのに第4楽章を未完成に終わらせたなんてブルックナーも馬鹿だな
先に第4楽章を完成させてから他の交響曲の改訂をすればよかったのものを
それを先に改訂のほうを済ませちゃったもんだから、病気の悪化という不運もあってどんどん時間が過ぎてしまい、結局第4楽章は未完のままでジ・エンド
結果論になるかもしれないが、ブル1とかブル4の改訂は必要なかった 991 名前:名無しの笛の踊り[sage] 投稿日:2017/10/19(木) 23:20:03.66 ID:AeylvVAX
>>990
次スレと総合スレとのマルチはどうかと思うが残り僅かなこのスレを埋めるのに使っておこうか
ブルックナーは第8番までの10曲の交響曲を全て4楽章構成で作曲し
第9番でもフィナーレを作曲していたがその途上で亡くなった
例えば「作曲中のフィナーレを破棄して4楽章構成の構想を捨てた」といった形跡が残っているならともかく
今のところそういうわけではなさそう
となると「ブルックナーの交響曲は最初から最後まで4楽章構成」であって
第9番は「3楽章分完成した交響曲」であっても「3楽章の交響曲」とみなすのはちょっと違うかなと
992 名前:名無しの笛の踊り[sage] 投稿日:2017/10/20(金) 13:23:16.95 ID:0kV1ls4k
同意埋め
993 名前:名無しの笛の踊り[sage] 投稿日:2017/10/21(土) 00:53:52.20 ID:ziNl/WFp
第3楽章終結までの収まりの良さが
「3楽章で完成した交響曲」という感覚を与える原因の一つかと思う
あるいはブルックナーは全曲完成まで生きられないと予感して
あのようなアダージョを書き上げたのか…などと思ってみたりもしたが
その仕上げ時点で「完成前に死んだ場合はテ・デウムを第4楽章に」
と述べたというのだから
やはり第3楽章はその後に第4楽章が続く中間楽章として完成させたんだろう
994 名前:名無しの笛の踊り[sage] 投稿日:2017/10/21(土) 01:33:39.41 ID:rB8RguxY
演奏する側も第三楽章を終楽章のつもりで演奏会してるからそう聴こえる 996 名前:名無しの笛の踊り[sage] 投稿日:2017/10/21(土) 23:23:49.99 ID:ziNl/WFp
まあ、もしブルックナーが旧作の改訂より新作の作曲を優先できる質の人だったら
第二次改訂期に嵌まり込むことがなかったばかりか
我々の知るような作品群はそもそも生まれていなかったかもしれないって思うよ
あえて第9番が未完に終わったことについて言うなら
「第8番第1稿を最初に見せる相手次第ではどうなっていたか?」
(ブルックナーの中で好印象で初演実現性が高いと思ったのがュンヘンのレーヴィだったんだろうけど)
…などとは思うものの
それはそれで第9番も現状とは別の姿になったかもしれないし
997 名前:名無しの笛の踊り[sage] 投稿日:2017/10/22(日) 23:54:03.28 ID:DcbKa8fz
健康状態の悪化で人生の残り時間を意識せざるを得なくなったから
改訂しない作品を残した状態で第9番に取り組むことができたのかもしれない
アダージョまでひとまず仕上がっていたことは不幸中の幸いと言うべきで
これがもしスケルツォまでだったら… スケルツォは凄いよね
こんなすごいスケルツォ、またとないよ
ベトのピアノソナタのスケルツォに匹敵するというか、超えているというか
鬼気迫るものがあるね ベトの第9と比較した文章読んだことある
霧に包まれたような長い序奏・・・・・色々書いてあったが忘れた
結局、ブル9の肩を持つような内容だった
俺的には、どちらが面白いかと言われたら、どっちも面白くないが
聞き耳を立てるのは、やっぱりブル9になる ブルックナー交響曲第9番って未完成じゃないか。
これを持って完成品とみるのはおかしい。
何故なら、マーラー交響曲第10番は
スケッチとしては完成しているのに
未完成扱いだ。
これは不公平。
したがってブルックナーの最後の交響曲は8番である。
以上だ 8番は素晴らしい、完成品だろうね
これに比肩するのはベートーベンくらいだろう
しかし、9番は未完成ながら、新しい地平を開こうとしている感じがする
未知の可能性を感じる 宇宙と同じく終わりのない世界
それがブルックナーの9番 第3楽章がアダージョでおわり、終結感があることこそ、神の恩寵だと思うべし。 8番は終楽章がなかったらそれなりの作品だが、最後で全てブチ壊した
それを考えれば第九が三楽章で終わったのはまさに恩寵だよ ここでようやくベートーヴェンと対等になれた 8番の終楽章はブルックナーの書いた楽章の中で最も出来が悪い
あんな安っぽいリズムでやたら高揚感を高めようとするのはブルックナーらしくない
曲の作りは七番の終楽章と同じなんだが、軽くてあっさりの七番の方がよほど効果がある
ベートーヴェンやワーグナーばりの迫力を目指したんだろうが、それでは個性は生きないよ ブルックナーにも8番でやっと自己顕示欲が芽生えたのさ
その証拠が件の終楽章だろう >>34
何を言ってるんだい?
ブル8のフィナーレこそブルックナーの
音楽の完成体なのだよ。
あの二十数分の間にブルックナーのすべてが語りつくされている。
だから終わったあとの充実感が違うのだ。
それに比してブル9は所詮は未完成の音楽。
人はその未完成な第3楽章に空高く永遠に続く
高みを体験できる。
つもり「未完成ゆえのすばらしさ」なのさ。 8番の終楽章の始まりは、少女に求婚するブルックナーがストーカーのように迫ってくる感じが最高だわw 人それぞれだが
この曲でそういう発想はあなた自身の
犯罪欲ではないだろうか。
くれぐれも、ご注意の程を >>36や>>38は、変な釣りに上手く答えているね!
5ちゃんの鏡だ。 >>38
ではなくて
>>39
だった。ゴメン。
ちなみに
つもり「未完成ゆえのすばらしさ」なのさ。
↓
つまり「未完成ゆえのすばらしさ」なのさ。
だろう。 マーラーの9番なんか、ブルックナーの9番と比べて糞みたい
って言うと、ものすごく怒る人がいる 俺はマラ9は1−2楽章が酷く退屈で
今年になって生で聴いた時、
アンケート用紙に落書きする程だったが、
第3楽章ロンドブルレスケが素晴らしく、
第4楽章のあの雲の彼方に消える所は
ブルックナーの9番第3楽章を思わせる。。 ブルックナーはフィナーレが書けない これは作曲家の特質だよ
最良のものは四番 次は六番
八番は第一楽章が最良でフィナーレはチンドン屋の音楽
晩年になってこれでは第九でも同じになっただろう
それを思うと第九にフィナーレを書かせなかったのは神の恩寵だよ
おかげで永遠に名の残る作曲家になった
神に捧げただけのことはあったということだな ブルックナーの9番なんか、ドボルザークの9番と比べて糞みたい この連投者、漫才のボケとツッコミ目指しているのかなあ?
ツッコミ狙いのボケ連発!
まあ、とにかく賑わっているのは結構なことだ。
<ブルックナーはフィナーレが書けない>
↑これだけはある意味当たっているかもしれない。
なんせ、ベートーヴェンの《第9》は、器楽フィナーレを放棄したからねえ。
手本が無いんじゃあ・・・・・
それ以下はまるで見当はずれだけどねえ。 >>44
アマオケ。
え―とどこだったかな?
2017年1月29日(日) 14:00 開演
[管弦楽]関西シティフィルハーモニー交響楽団
[指揮]ギオルギ・バブアゼ
マーラー:交響曲第9番ニ長調
モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」序曲
指揮者グルジアの人だった。
第4楽章終了後20秒間指揮を降ろさずに静止してた。
指揮者も楽団員も聴衆も泣いてたな( ノД`)シクシク… >>45
それは違う。
ブルックナーの最良のフィナーレこそ
交響曲第8番のフィナーレだ。
四分音符で始まればいい物を
その一つ一つに装飾音符をつけて
ズズ、ズズ、ズズ、ズズ、ズズ、ズズ、ズズ、ズズ、
とクレッシェンドさせていき
https://i.imgur.com/xT1Sxvo.png
これから起きることを予感させている。
その後の展開は版によって違うが、
展開に次ぐ展開で聴くものを飽きさせない。
これが素晴らしい。
ブルックナーにありがちな、退屈さを払しょくさせている。
だから、これこそが最高のフィナーレであり、
本来のブルックナー最後の交響曲を締めくくるにふさわしい音楽であると
断定できる。 >>50
ブルックナーには動的な音楽は無理なんだよ
そのダラダラと盛り上がりもなく執拗に反復を繰り返す退屈さこそが特質であって利点でもある
癒しの音楽には不可欠な要素だ
同じ曲趣の六番の第一楽章は短いしクライマックスを作る部分でないからまだいいが、八番のフィナーレは自分の能力にないことをやろうとして大失敗した例だ
展開とか発展とかができず構成力の欠ける作曲家にダイナミックなフィナーレは無理なんだよ iPhone8の次に発売されるのが、iPhone10であるという。これは間違いなく、マーラーが「大地の歌」に番号を付けなかった故事を踏まえて付けられたものだ。人々はiPhone10を見るたび、「大地の歌」と、この曲を愛してやまないぼくのことを必ず思い出すにちがいない。 >>52
ちがう、逆だ。
動的な音楽でこれだけドラマティックなものが作れることを
最後の最後になって証明したのが
交響曲第8番のフィナーレだよ。
君の言うだらだらと盛り上がりもなく反復を繰り返すのは
ブルックナーの他の交響曲のことだ。 本当に八番のフィナーレが優れた作品だと思っているなら
1 他の優れた作品を聴いたことがない
2 盲目的に好き過ぎて客観的な判断ができなくなっている
3 文字通り音痴である
のいずれかの可能性しかないだろうね
好きなのは構わない そういうわたしも大好きだからね
でもブルックナーの汚物まで愛でて食べたいとは思わない
超一流になれなかった理由は八番のフィナーレに顕著であると言ってもいいほどだな >>47
ドボ9なんて、歌謡曲
至高のブル9とは比較にならない
したがって、ドボ9なんて、ブル9と比較したら、糞みたいなもの iPhoneもWindowsも9をとばした
9番はそれだけ不吉と認識されてる ブルックナーは超一流だよ
比肩するのはベートーベンくらい
とはいっても、よく聞くのはベートーベン
たまに朝比奈先生やマタチッチでブル3や9を聞く程度
やっぱ、難しいというか、長たらしいというか、なんというか
ようするに、あんまり面白くない? ブルックナーについて語りたがる一部のファンには、
<2 盲目的に好き過ぎて客観的な判断ができなくなっている>
御仁がいるのは確かだ。 >>42 >>57 で表現されているような人たち。
彼らは、まあブルヲタモドキとでも言ったらよいか・・・
しかし、世間はこういう人たちをブルヲタと考えて忌避する。
まあ、ブルックナーファンにはいろんな段階があるし、
途中で嫌いになる人もいるんだろう。
とにかく、これだけたくさん演奏されているという現実があるのに、
それも半世紀以上続いているのに、音楽史上や教科書上には
ほとんど無視されているのは何故だろう? 評論家みたいなこと言うなよ
ところであなたの立ち位置は? >>56
>超一流になれなかった理由は八番のフィナーレに顕著である
「超一流」って何だよ??
生でブル8聴いた事あんの?
誰指揮、どこ?
因みに俺は9番は2回聞いた。
最初はアマオケだから退屈だなと思ったが
井上道義さんの大フィルはよかった。
これは朝比奈さんの育てた大フィルのブルを
うまく継承していると思った。
しかし、それほどまで感動的だったにもかかわらず、
やはりその前に聴いたブル8の生の方がよっぽどよかった。
回りの年配のお客さんも本当に喜んでいた。
ああいう体験はレコードじゃ到底及ばないもんだよ。
どうだ? >>62
単なるブルヲタですよ。
とにかく>>42 >>57 のような人たちは、たくさん音楽を聴いて
たくさん本を読むと良い。
昔のブルックナーの解説本やレコードのライナーノート
には、ベートヴェンやモーツァルトのものとは違って、
たくさん嘘っぱちが書いてあった。
それを、ひそかに暴くのもブルックナーファンとしての
音楽以外の面での楽しみでもあった。
おっと、スレから全く外れているね。
失礼しました。 >>65
「たくさん音楽を聴いて ,たくさん本を読むと良い。 」
たくさん聞くのは賛成、しかし、たくさん本を読むと
俺の鋭い感性が鈍るぜ!!・・・・・・・・なんちゃって ブルックナーは聖書くらいしか読んでないっぽいしな。 ブルックナーが聖書?評価の高い曲には、宗教色感じないけどな
マーラーみたいに適当に宗教色入れられるのも困るけどな >>63
俺はレコードも好きですよ。録音というのは
素晴らしい文化です。
ちなみに実演は
1番から9番までの全曲をエディンバラ音楽祭
9番はチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル(1995年、ミュンヘンで)
4番はドイツの教会で。第3楽章の響きは凄かった。
以上のみ聴きました。 >>71
それやったらブルックナーの評価って
もっと高かっただろうな。
ブルの評判落としてるのは
弟子たちが色んなバージョンを残した点にもあると思う。 >>69
家にあった本は聖書くらいっていう逸話があったと思うんだけど。
楽劇を見た後にトンチンカンな質問をされたワーグナーが眉をひそめたとかいう。
文学的な素養が一切なかったとかいう絡みで語られてました。
伝記かなんかで読んだのか忘れました。
まあ家にあっただけで聖書すら読んでないかもしれないけど。 >>73
だろ?
それが逆に一般のオーソドックスなファンが増えない理由でもある。
もう面倒臭いからハース版で統一しよう。 >>75
田代櫂「アントン・ブルックナー 魂の山嶺」によれば
1883年にレッスンを受けにブルックナー宅を訪れたシュトラーダルの証言では
当時の蔵書は聖書とナポレオンの伝記の2冊だけで
聖書についてはたいていの神学者より詳しかった
同じくレッスンに通ったクローゼによると
メキシコ戦史、極地探検に関する本、ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの伝記、ルルドのマリアの奇跡に関する本
の4冊しか目にしなかった ブルックナーが、何を信仰しても構わない、信教の自由だ
だけど、ブルックナーの音楽を彼の信仰と関連付けて論ずるのは問題だ
俺はキリスト教は知らない、けど、ブルックナーは素晴らしいと思うし尊敬している
宗教と音楽を関連付けて論ずるのは良くない ブルックナーの音楽に宗教的なイメージを感じたことはないなぁ。
大自然への畏怖のようなものは感じるけど。 ヨーロッパの文化はキリスト教が土台になっているから、これを排除して論ずるのは無理がある。ブルックナーにしても幼い時から教会の中で育ち、終生、教会のオルガン奉仕を続けたし、作曲にしてもオルガンがその発想になっている。
ブルックナーを理解するにはキリスト教がやはり必要だよ。 敬虔なカトリック教徒だったブルックナーが崇拝したのが
神は死んだというオペラを書いたワグナーだったというのは皮肉な話だ 大自然って何だろう、物質世界のことかな
様様なな因果関係で変化し続けている世界
その世界を表現しているということか
我々の心というものは、この物質世界とは別物
我々がなぜブルックナーに感動するのか
むしろ、心の在方の問題として追及していくべき、結論は分からない >>83
初めてまともな意見が聞けたが、心の在り方というよりは、文化によって作られるある種普遍的な心理状態とするべきだろうな
universal mindというやつだが、これは文化に大きく依存する
ブルックナーの時代のオーストリア人と現代の日本人が共有するものがあると考える理由はないが、全くの偶然なのかそれとも人間固有の反応なのか、
日本人が共感していることだけは間違いない
ただしそれがオーストリア人と同じ反応であると考えるほうが不自然で、自然とか神とか全く別のものをイメージすることにその違いが表れているのかも知れない フルトヴェングラーのブルックナーよくっ聴くけど
あんまし大自然てかんじしないな。
むしろ
「ブルックナーと心中してやる!」
てくらいの人間臭さがある。
どんどんどんどんテンポ速めて行って
まためったゆっくりになったり
とても自然の一定のゆったりした流れではないな。 フルベンはブルックナー指揮者じゃないから
ベートーベン指揮者だからね マタチッチ、クナッパーズブッシュ、シューリヒト、朝比奈先生、あと誰だろう
ベートーベンもブルックナーも人間性というか心の問題としてとらえるべきなのかもしれない
チョット思ったのは、ベートーベンは情感、ブルックナーは瞑想という感じもする
もう少し追求しないと分からない >>85
フルトヴェングラー自体
人間臭いから嫌いだ。
ベートーヴェンの田園なんか最悪
終楽章でアッチェレかけたり 最後の最後、終楽章をどうするか
作曲家にとっては非常に悩ましいんじゃないか
ベートーベンは、合唱でお茶を濁したし
マーラーの第9はよく分からない
チャイ6の終楽章は素晴らしいな、静かに死を見つめている
しかし、本人は、全然死の予感はなかったのではと、指揮者が言ってた 昔の2ちゃんと違ってカス同士が仲良くしてて微笑ましいぞ(藁) とりあえず、9番とテ・デウムをセットで演奏するのは最近聴かれなくなってやれやれ。
全然繋がらないよ、あの2曲!ホント勘弁してもらいたい。あれ、違和感ありすぎて気持ち悪い。
ここの住人はあの2曲を絡める風潮、どう思ってる?色んな意見が知りたい。 確かに既存のテデウムは繋がりが悪い。だからブルックナー自身が移行句を作ったが成功していない。
しかし、考えると、神に捧げた曲の最後がテデウムになるのは自然だ。現在、残された断片からはわからないが、第四楽章の最後がまだ作曲されていないテーマを組み込んで巨大なフーガになるかな?なんて考えて一人で喜んでいる。( ^ω^ )
フーガにたどりつくまで作曲されていれば、ブルックナー自身でなくとも作法にしたがって完成できたのに。バッハのフーガの技法の最後のように。残念だ。 >>93
基本、宗教音楽は苦手。
俺にとっては異教徒の音楽だからな。
その点、交響曲は絶対音楽だからそれで十分だ。 >>91
ブラームスの最終楽章、パッサガリアいいじゃん。
あれはお茶を濁したとは言えんぞ。
ベト9だってそうだ。 >>90
俺は好きだ。
人間臭いブルックナー大歓迎。
ブルックナーと大いに心中してくれ。
と思う。 基本、俺も好きだね。アッチェレラントやらテンポルバートやらに違和感覚えることもあるけど、言いたいことはわかるんだよな。第4、第5は名演だし。第6の終楽章なんて、これだけやってくれれば何も言うことはない。( ^ω^ ) 一般的には、フルベンはベートーベンだよ
人間の尊厳とか、勇気、気迫とかを表現するのはフルベンが旨い
でも、ブルックナーは、むしろ自然美というか、この世の中の調和みたいなものを表現している
だから、あまり力んで演奏すると、ブルックナーのさっぱりとした孤高の雰囲気が出ないんじゃないか
朝比奈先生みたいに、たんたんとした客観演奏の方がいいと思うよ
でも、先生は晩年はベートーベン多かったからなあ、どのように振り分けてるのか
あまり聞いていなから分からない フルベンのブルックナーなら8番の4つの演奏聴いてみるとよいよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています