ブルックナー最後の交響曲「ブル9」PART4
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>>326
まず、ジュリーニ盤でしょう。ライブを含めて三種ありますが、どれかというならウィーンフィル盤を勧めます。お勧めしたい演奏は他にもありますが、他の方にゆずります。
あと、インバル とかアイヒホルン盤の第4楽章補筆盤もぜひ聴いてみてください。 カラヤンなら66年ベルリンフィル盤だね。75年盤とウィーンフィル盤は録音や演奏に難がある。他の人の評価は違うかもしれないけど。 saiberteroka.MOSTLY no saishingo no 31Page o miro. なおった。サイバーテロだった。今日、2年たったビルで買ったモーストリー・クラシックの最新号の31頁をみてほしい。特集してある。諸石氏の論評は要チェック。 66年盤いいね。ゾクゾクするような弦の音が堪らない
ただ、第3楽章だけはVPO(150周年盤)が至高 VPO盤だけど、カラヤンならもっと出来るんじゃないかと思う。その意味じゃ66年ベルリンフィル盤が上回っていると思わせる。オケと指揮者の間に隙間風があるような?気がする。 >>326
ハイティンク/コンセルトヘボウ(1981年) >>338
1986年2月の定期なら聞きに行った。すごい音だった あれ素晴らしいんだけどアダージョで崩壊してる個所があるのが何とも惜しいね DECCA・WIENER PHILHARMONIKER ―The Orchestral Edition―
CD 38 MEHTA Bruckner Symphony No.9 in D minor
故宇野 功芳先生で有名なメータの録音を今、初めて聴いている。
1965年5月3-7日の録音。 いくつか聴いてみた中では、ヴァントのMPOとヨッフムのMPOが気に入った
ジュリーニはちょっと遅かった
ハイティンク81は金管がきつく感じた
ラトルから入ったので、脳内のリファレンスがおかしかったらすいません ノットまあまあ良かった
ホルンかトロンボーンが色々やらかしてた 誰でもできる確実稼げるガイダンス
念のためにのせておきます
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
A4AHV ブルックナーが第4楽章を完成させてたら、マルテがやってるみたいな静かなとこからゾワゾワくる感じのコーダ作ってたと思うんだよね
4番や8番のフィナーレみたいな
でも9番だと第1楽章でやっちゃってるからやらないかとも思う 第4楽章はベートーヴェンの第9をパクって合唱をつけるつもりだったんだろ
だからもう死ぬまでに書くのが間に合わないと悟るとテ・デウムを使ってもいいなんて言い出した >>351
では器楽の第4楽章草稿はなぜ存在する?
テデウム云々は、完成できないかも、と思った時の気の迷いと考えるのが自然では? >>348
フィナーレは4サイクルでまわってる気がする
2-6 緩やかな序奏に原始的な第一主題と叙情的な第二主題の組合わせ
3-7 第一楽章第一主題から派生した第一主題、コラール風の第二主題、強烈なユニゾンの第三主題
4-8 圧倒的な第一主題にじわじわ盛り上がるコーダ
5-9 フーガを駆使して展開する第一主題に壮麗壮大なコラール主題 確実な資料に基づいて議論すべきだ。
1903年のレーヴェ版の序文:
アントン・ブルックナーの第9交響曲、その完成された3つの楽章が
ここに公刊されることになる。(巨匠のもともとの意図によると)
この作品は器楽のみによるフィナーレで締めくくられるはずであった。
しかし、深刻な病苦が幾度となくこの作品の作曲を長期にわたり
中断させざるを得なかったので、ブルックナーは彼の最後の作品を
仕上げられないのではないかとますます恐れを抱かねばならなかったのである。
そして彼は、完成された3つの楽章の後に《テ・デウム》をフィナーレ
として続けて演奏することを決心することにいたった。
《テ・デウム》への大規模な移行の音楽のために書かれたスケッチが
残されている。しかし、そこから見て取れるものは、巨匠の最後の意図
をただおぼろげにわからせてくれるのすぎない。
私はこの交響曲の初演(1903年2月11日ヴィーン)
を行なうにあたって、作曲者の意思を尊重し、 《テ・デウム》を
交響曲の後に続けて演奏したが、そのような終曲を置かなくても
全く問題はないと思った。この交響曲は、その残された状態のままで、
十分に統一がとれているからである。
1903年8月ヴィーン
フェルディナント・レーヴェ
(訳:野口剛夫)<音と言葉社レーヴェ版スコアより>
レーヴェの見解は現代では異論のある所だが、
少なくとも、初演を《テ・デウム》付で行なった彼が、
そういった演奏には否定的であったという認識を
すでに初版で述べていることは評価されるべきだろう。 訂正:
わからせてくれるのすぎない。
↓
わからせてくれるにすぎない。 >>357
それって資料がまだまだ揃ってない頃の話じゃん
実際には合唱のガの字もねぇ ラトルのやった版でいいから実演もっとばんばんやってほしいものだ 今日はラトルがベルリンフィルでSMPC版を演奏するようだ。 ゲルギエフ・ミュンヘンの第9のチケット販売が始まったな >>328
>ヨッフム/ベルリン・フィル 独DGG
最高ですね。
それに、シューリヒト/VPOとドホナーニ/クリーブランドが素晴らしい。 本当に少なくなったね。
・シューベルト 交響曲 (旧)第8番”未完成”
・ブルックナー 交響曲 第9番
のプログラミング。
最後に聴いた実演の演奏会 2011年 ケント・ナガノ指揮 バイエルン国立歌劇場管弦楽団
演奏会場は、東京文化会館大ホール ところが、練習会場は 錦糸町の 墨田トリフォニーホール。
あれは、都民劇場の企画じゃなかったけ。 チェリビダッケの3-9番boxを入手驚くほどゆっくりした演奏だけど今までで聞いた演奏の中で一番良かった すごくおもしろい在宅ワーク儲かる方法
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802 カイルベルト/バンブルク国立フィルが録音含めて素晴らしい 第4楽章復元版っていうCDを前に買ったけどまだ聞いてない Berky氏のサイトで新たなフィナーレ補筆版の音源を公開中
(コンピューターによる合成音だけど)
Roberto Ferrazza's Completion of the Bruckner Ninth Finale
https://www.abruckner.com//downloads/downloadofthemonth/July18/ 聴き専として、ここまでの曲なら完成版を求めない。
むしろ、曲ごとに愛聴盤を探した場合、第9をシューリヒト盤にしたとき、第8以前でクナだのチェリだのがあり得るのか、それとも第9もほかの盤にした方が違和感がないのか、繋がりのようなものが気になる。
もちろん、第◯番から作風が変わりました、深みが増しました、ということも含めてのことだが。 ヴァント指揮のケルンのことだったら、なんの解決にもならなかったようだ。 9年間も時間がありながら最終的に第4楽章を完成させられなかったんだよな
他の交響曲の改訂に時間をかけ過ぎなんだよ
バカだねぇ・・・
しかも死ぬまでの2年間は病気で作曲できる状態ではなかったとか >>378
アダージョを書き上げた直後の1894年末に死にかけたけど
翌年春に持ち直してから約1年間はフィナーレのスケッチとスコア書きを進めることはできた
(身体の衰えと創作力の衰えについては各自思うところがあるだろうけど)
最後の夏はいよいよ衰弱が進んで事実上タイムアップといったところ >>380
問題は、フィナーレの構造を示す全体のスケッチが存在しないことにある。
ブルックナーはたくさんのオーケストレイションされたスコアの断片を書いたが
コーダに関するスコアは残されていない。
マーラーの10番のようであれば、他人が介在してもそこそこのものは
作れるが、ブルックナーの場合は結局コーダを完全に作曲しなければ
完成版は作れないということだ。
8番の場合は、完成まで長い年月を要したが、全曲の大体の構想は
2年間で出来上がっていた。それから苦心して細部を練り直したのだが、
9番の場合は、アダージョを完成してからやっとフィナーレに取り掛かった。
それも、全体像を頭の中で描いてから、細部を詰めていくという感じではなくて
出来るところまで書いていこうという感じだ。
要するに交響曲をどのように終わらせるかについてのアイデアは
結局死ぬまで思いつかなかったということなのだろう。 9番は完成していたけど楽譜の散逸によって再現が不可能になったんじゃなかった? コーダ以外ほぼ完成に近い未完成譜が散逸してそれを掻き集めて再現してコーダを創作したのが今聴ける第四楽章じゃないの 楽譜の補作者というのは微妙な立ち位置だね。
自分が作曲したと自己を主張すると、そんなのは作曲者の作品ではないと否定される。
資料がすべてそろっていたのなら、補作ではなく校訂だ。
校訂なら基となった資料を示せ。
ということになる。
そこで、作曲者の意向に忠実に従って補作したのだと言いつくろう、
あるいは、ほぼ完成していたが散逸したため、それらを丹念に辿って補作したと言いつくろう。
しかし、全集版のフィナーレ遺稿集以上の決定的な自筆譜が、その後現れたのか???? アーノンクール/ウィーン・フィルが録音した第4楽章のフラグメントが再現の限界じゃないかな >>387
多分その通りだと思う。
確か、アーノンクールは、机の中とか、家にある古い文書類などを調べてみたら
って推奨していたような・・・
もしあったらというのは、ブルックナーファン全ての願いなんだろうけどねえ。
でも、完成版を否定したりなどはしないよ。
それらはそれでたいへん面白い。
最後はもともと無いから補作者によってずいぶん違うわけだ。
たぶん補作者たち自身は言ってないと思うんだろうけど、
それを売ろうとしている周りの人たちが、どうしても誇大な宣伝に走るので
>>384や>>385といった印象を持つ人たちが出て来るんだろうね。 あのベタなコラールがたっぷり聴けるだけでも補筆完成版が出た意味はあったと思う
演奏の出来が良ければルトカル版が良かったなとは思うけど え?これ三楽章形式の交響曲でしょ
これに第四楽章くっつけるなんて
ベト9に5楽章付け足そうとしてるようなもん ブルックナー本人が途中まで作曲してた四楽章は何なんだ >>391
え?これ四楽章形式の交響曲でしょ
これに第四楽章くっつけるのは、
ベト9が3楽章までしか完成しておらず、
4楽章が未完だと仮定した場合とおなじだよ。 第4楽章はテデウムを使ってもいい
ブルックナー本人がそう言っている つまり、作曲者本人が四楽章形式であると明言しているといえよう 最終楽章は、十字架上のキリストの7つの言葉
という説があるがたしかに7つのフレーズ ブル8に馴染んで30年経って、ようやくブル9を聴いてみたくなった 30年…もったいない!
今すぐ9番も聴いてください といっても、その間ブル8ばかり聴いていたわけではないし、
いろんな曲を聴いてるうち、機が熟したということだろう
なんかシンフォニー聴くのしんどくなった、ピアノや室内楽の方がいいと
思うようになって、不思議とブル9への興味がわいてきた気がする ブル9って未完成で終わっちゃったから改訂にはブルックナー自身は一切関わっていない
んなもんだからブルックナーの交響曲は原典版であるべきという概念のない時代の人の耳にも改訂版が実は改悪版であることが明らか
以上のことからレーヴェ始め改訂者達が無能という今となっては定説となった事実以外にも以下の二つのことがわかる
一 第8以前の交響曲の改訂には弟子達が主導したものであってもブルックナー自身が関わってはいる
二 よって(上記第9との比較においても)単純に改訂前に戻せばいいというものではない フリマアプリでヨッフム/ベルリンフィルの77年11月28日のライブってCDを手に入れたんだが、俺の知ってるヨッフムのブル9と全然イメージ違うんだよな
本当にヨッフムの演奏なのかこれ <<402
このバカすぎという言葉は、なにを根拠に言っているのかな?
短すぎて、その発言の趣旨がよく分からない。 つまり何から何までバカということか
それなら分かる >>401が無能という今となっては定説となった事実 来月は日本フィル&インキネンを
聴いてこよ
S席とりたん >>409
シューリヒト&ウィーンフィルハーモニーのブルックナー(SACD)と比較してしまうと
高校野球(ノット&東響)とメジャーリーグベースボール(シューリヒト&ウィーンフィルハーモニー)
位の落差を感じた。
やはりオーケストラの格が
全然、全く違う。 なんで上と比べるかなぁ
草野球(アマオケ)よりマシだったでしょ! 俺はいろいろ言われててもシューリヒト-ウィーンに戻ってしまうなぁ。
他に好きなのはヴァント-ミュンヘン。 >>414
ひたすら
https://i.imgur.com/pH9X6W1.jpg
でスレを荒らす基地外
これ、わたしではありませんよ。
あなたには人を見抜く力が無い
それだけはハッキリしました。
その後、ノット&東京交響楽団を何度か聴いたが
やはり「シューリヒト&ウィーンフィルハーモニー(SACD)」を超える演奏は無い(特にスケルツォ)。 シューリヒト/ウィーンフィルは聴いてみたが俺の好みとはちょっと違った >>423
おススメの指揮者と言われたらそれぞれ自分の好みを言うんじゃないのか?
おまえは好みじゃなくても世間の評価の高いものをおススメするのか たくさん一気に聴いてると
だんだんそれぞれがいいところあるじゃん、て思う。
そんな時にシューリヒト聴くと、こりゃ他と違うな、と新鮮に感じる。
でも今んとこ、ラトルを3楽章で止めとくのが一番のお気に入り。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています