モーツァルトとベートーヴェンはどっちが凄い
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モーツァルトとベートーヴェンはどっちが凄い?17 [無断転載禁止](c)2ch.net
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どうぞどうぞ好きなだけ
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512:----: EXT was configured いや、間奏曲だべ
結婚式であの で〜んとくるのなんか
使えねーべよ 結局同じメロディを繰り返すポピュラーミュージックに一番影響を与えた。
覚えきれないメロディの氾濫するそれ以前の音楽は「古い」ということに
されてしまったわけだね。 クラシックって、繰り返しが多い曲多いけど
どうしてそうなるの?おせーーーて 先日、ベルリンフィルの首席オーボエ奏者がモツの協奏曲やってたけど
後期の寂寥感がほとんど感じられなかった
ザビーネ・マイヤーのバス・クラリネット?で聞くと、寂々として感服いたします 普通にオーボエ協奏曲ハ長調じゃないの モーツァルトのオーボエ協奏曲は1曲しかないはず
ちなみに後にモツ自身によりフルート協奏曲2番ニ長調として編曲してる 後期の寂寥感ってのがな
k.300番台前半てそんなに寂寥感あるか
モーツァルトのことはいざ知らず>>437は21歳でそんなに寂寥感のある人生だったのか…
てかそういうあたりの曲から僅かにでも感じられるなら寂寥感のある21歳を過ごせてよかったな!と申し上げておきたい
K.622をオーボエでやったのかと思ったぞ
あのイ長調始まりからしてどうなるのか想像も出来んが
原調で吹くのはキツそうだし移調するわ楽器は変わるわで曲調が損なわれたのかと思ったぜ モツのオーボエ協奏曲は終楽章のアインガングの部分にコミカルな楽句があり寂寥感とは一線を画している まさかの分秒表示…
しかも217小節目〜からだとすれば楽譜に指定のない奏者の裁量による装飾音付加なんですがね アインガングってそういうもんだろ 短いからカデンツァとは区別される > 奏者の裁量による装飾音付加
って言うが、割とこの音符の並びはメジャーですよ 個人的には少なくともこれ以外のは聞いたことない >>448
楽譜に書いてあるそのまんまでした コミカルな楽句はモーツァルトが書いてたんだね 最後にもう少し釣られておくけど
装飾音の無いままの楽句がコミカルというならクラリネット協奏曲あたりもコミカルと呼べそうな楽句はあるのでは
奏者が装飾音符を付け加え,それをあなたが「コミカル」と受け取ったというだけのこと
奏者が簡単に変えうる数小節を持って曲全体が寂寥感と一線を画すとまでは言えないでしょう
アインガングという人があえて分秒表示とか
別スレで分秒表示は聞き専といってた人と被りますな 実際のとここの辺の区別って難しいのよ
協奏曲でソロだけが活躍する部分は多くは当時「カプリッチョ(カプリース)」と書かれることが多かった
ロカテッリのヴァイオリン協奏曲が代表例
カプリッチョの最後の部分でカデンツァと書かれてるその部分だけ和音が一つ書かれてるだけでソロの音符が書かれてないのね ID:qnNTS12O0自らサンプルになることが目的でしょうに ロカテッリの代表的なヴァイオリン協奏曲の一つ
http://www.youtube.com/watch?v=HGuBCas2vf4
ソロ、カプリッチョはヴァイオリンソロが活躍する部分
カデンツァは和音のみで実際にヴァイオリンが奏する音は楽譜にはない >>454では
16分20秒あたり
カプリッチョの続きだけど最後の所がカデンツァと指定されヴァイオリンパートが何も書いてない
カデンツァが終わったらトゥッティという指定 モツのイントロあてが答えられるくらい
聴きこむのが目標でもあります 21歳の時なんですね、ものすごい早熟
寂寥感と書いたのは、第2楽章のアダージョの主題です
寂寥感という言い方がどうだったのか?
物悲しいというか切ないというか、日本流にいえば、わび・さびでしょうか K.314?
K.622?
オーボエで聞いたのはどっちなんだよ 俺はモーツァルトがロマンス派以降に生まれてたらどんな曲書いてたか聞いてみたかったわ
古典派の書法では和声も響きも単純すぎる・・・ 良くも悪くもモーツァルトの影響を受けた後世の作曲家には
少なからずモーツァルトの遺伝子が組み込まれているような気がする ⬆4回も連投して絶賛はいいんだけど
何を聴いてるの?
僕は今はヴァイオリンソナタ35番
グリュミオーで聴いているけど
モーツァルトも演奏者もいいね。
今日一日いい日でありますように。 「僕はハイドンの音楽もなかなか好きだ。形式の完備整頓、表現の清らかさという点では無類である。
併し、モオツァルトを聞いた後で、ハイドンを聞くと、個性の相違というものを感ずるより、何かしら大切なものが欠けた人間を感ずる。
外的な虚飾を平気で楽しんでいる空虚な人の好さと言ったものを感ずる。
この感じは恐らく正当ではあるまい。
だが、モオツァルトがそういう感じを僕に目覚ますという事は、間違いない事で、彼の音楽にはハイドンの繊細ささえ外的に聞こえる程の驚くべき繊細さが確かにある。
心が耳と化して聞き入らねば、ついて行けぬようなニュアンスの細やかさがある。
一と度この内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えた者は、もうモオツァルトを離れられぬ」(小林秀雄)
10代に小林秀雄を読み耽っていた頃、モーツアルトの音楽に日頃抱いていたあれやこれやの想いを一言で言い当てられ、感動した、これは、その文章の一つだ。
ベートーヴェンは精神に訴える音楽である。耳が酔うことはない。(無理を承知で1曲に絞れば)「朝比奈隆&大フィルの交響曲エロイカ2楽章(VDC-5528)」をその代表として、私は採る。
他方、モーツアルトは私の場合、(これも誤解を承知で言えば)ハーモニーに耳が酔う音楽であり、
ベートーヴェンの音楽がうったえる精神の、「さらに内奥にある、本能とは別の、自意識を超えた何かしら深いもの」に触れる、とでも言おうか、私にはそんな風に思える音楽なのだ。 そうですね、ベートーベンは人間の尊厳を歌った人間のための音楽
モーツァルトは、すごく楽しく聞けるけど、あなたのような深い解釈はできません
ハイドンは好きです、僕のハイドンに対するイメージは「合奏の喜びの発明者」です ベートーヴェン交響曲3番の第2楽章とポストホルンセレナードの後半の緩徐楽章が似ていると思いました。 モーツァルト「バスティアンとバスティエンヌ」序曲とベートーヴェン交響曲第3番「英雄」第1楽章、主題が全く同じ >>470
昨日同様、モニターGoldで「モーツァルト ルチオシルラ序曲K.135」をリピートをかけて聴いている。
つい今しがた迄トレーニングセンターで汗を流していたが、この時間よりモーツァルトタイムである。
若書き(モーツァルト16才)の傑作だと私が信じて疑わないこの曲、8分33秒のこの序曲だが、3時間聴き続けても飽きることがない。
もうポストホルンセレナーデ終楽章と音楽の質/完成度は変わらぬ。
ポストホルンセレナーデ終楽章はモーツァルトが遺したプレストの最高傑作だ。これが私の感性である。 >>475
だが、モーツアルトプレストに耳が酔い、心が何処か遠い天空の彼方へと届くのは、生活者として、相当程度充実している時に限られるのも事実なのだ。
そう言う意味では、モーツアルトの音楽は、凹んでいる時には決して聴けない、ある意味、残酷な音楽なのかもしれない。
何と比べて?無論ベートーヴェンの音楽と比べて。
ベートーヴェンの音楽は、生活が充実しているも、凹んでいる時も、いずれの時も、いつも僕らに寄り添ってくれる。
私は充実している時にはエロイカ2楽章を、凹んでいる時にはヴァイオリン協奏曲2楽章を、それぞれリピートをかけて半日ほども聴いていることがある。
前者は上に書いた「朝比奈盤」で、後者は「メニューイン&フルトヴェングラー盤」か「チョン・キョンファ&テンシュテット盤」で。 エロイカ二楽章って葬送行進曲なんだけど、それをリピートしてるの? なんか、分かるなあ〜
俺は、凄く調子悪い時があって、這い上がろうとしていた時
運命をよく聞いた(クレンペラー・フィルハーモニア管)
淡々と歌っている中に力感があって、最終楽章の終わりを惜しむような
引き伸ばされたエンディング
今でも、クラシックの最高峰は運命だと思っている(ピアノソナタは別格として)
モーツァルトは、調子の良い時に何気なく聞いていた >>478
はい、2楽章です。凹んでいる時には葬送行進曲はキツいです。
また、葬送行進曲ですが、中間部は実にダイナミックで、まさにベートーヴェンしか書けない実に充実した音楽だと思うのです。
たまに、2楽章をリピートをかけ1時間ほど聴いた後、リピートを切り、3楽章→4楽章と最後まで聴くこともあります。
充実している時は、これか交響曲7番(SACD カルロス・クライバー&ウィーンフィルハーモニー盤)ですかね?
279さんのように(カップリングされている)交響曲5番から聴き出すこともあります。この2曲でリピートをかけて2〜3時間聴いていることがあるのは「5番の2楽章」ですかね。
>>479
私は凹んでいる時は専ら「ヴァイオリン協奏曲の2楽章」なんです。トゥッティがフォルテで演奏されるのは終結部だけですし、主に弦主体の音ですから弱った心への刺激も少ないからです。
凹み方々やや回復してきたら、ホロヴィッツのムーンライトソナタ(SACD)1楽章を、これまたリピートをかけて数時間後聴いております。
凹んだ心に寄り添ってくれるのだから、ベートーヴェンという人は、孤独だが、優しい心の持ち主だったはずです。 >>481
これまたリピートをかけて数時間後聴いております。 (×)
これまたリピートをかけて数時間ほど聴いております。(◯) 古典派の曲は、ピリオド楽器で弾くべき
イ・ムジチなんて論外
モダン・オーケストラなんか聴きたくもねえ いずれ頂点はモーツァルトといっても過言ではなかろう 簡単に言えば
モーツァルトはザギトワとかメド
ベートーヴェンは宮原 古今東西
モーツァルトとベートーヴェンの違いの例えは
無数にあれど
どちらのファンも納得するようなのってある? モーツァルトは佐々木小次郎
ベートーベンは宮本武蔵
モーツァルトは仲代達也
ベートーベンは三船敏郎
モーツァルトはプラトン
ベートーベンはソクラテス
モーツァルトは坂田英男
ベートーベンは藤沢秀幸
モーツァルトはゲーリー・プレーヤー
ベートーベンはジャック・ニクラス
モーツァルトはイエス・キリスト
ベートーベンはゴータマ・ブッダ
モーツァルトはジョン・マッケンロー
ベートーベンはビヨルン・ボルグ
モーツァルトはマツダ・ロードスター
ベートーベンはトヨタ・クラウン
モーツァルトはグッチ
ベートーベンはロレックス
モーツァルトはJBL
ベートーベンはタンノイ
モーツァルトは神童
ベートーベンは楽聖であり天才 最近練習していないからベートーベンはもう無理
モーツアルトをチマチマ弾いている >>488
せっかく書いてもらったけど
やっぱ
モーツァルトはモーツァルトでしかなく
ベートーヴェンはベートーヴェンでしかないんだね 聴いているけどモーツァルト賛美より
演奏者かな。
グリュミオーのヴァイオリンとハスキルのモーツァルト
いいなぁ。ちなみに今 34番ソナタの第2楽章 >>491
あなたが書けって言ったの?
言っておきながら、それはないでしょ
なんかコメントして頂戴 >>470
>心が耳と化して聞き入らねば、ついて行けぬようなニュアンスの細やかさがある。
一と度この内的な感覚を呼び覚まされ、魂のゆらぐのを覚えた者は、もうモオツァルトを離れられぬ
モーツァルトにそこまで感じるには、逆に相当の集中力を要して疲れないか
和声も旋律も単純すぎて相当に感性働かせて聞かないと、耳を素通りしてしまう
モーツァルトはもっと単純に楽しめばよいと思う >>494
BGMとしてかけるモーツァルトは、私の場合は、アイネクライネナハトムジークの「2楽章」だけです。
これはこれで大変心地の良いものです。 >>488
面白い試みだと思うけれど、
ベートーヴェンはアリストテレス
イエス・キリストとブッダは逆の方がよくないか
ベートーヴェンはやはりコナーズ。長く堅実にプレーした(ボルグは早くドロップアウトしたからね)
車の比喩はモーツアルト=ロードスターはあんまりじゃないか。
しかしあえてミニバンで、モーツアルトをオデッセイ、ベートーヴェンをアルファード、
はどうだろうか >>496
ありがと
あなたの対応に感謝します
「ベートーヴェンはアリストテレス 」は俺も考えたが
モツの対応が思いつかなかった 日本で「作曲家と言ったら誰を思い浮かべますか?」みたいなアンケートをとると、一位はベートーベンになり、「運命」のジャジャジャジャーンが頭の中で鳴ると思う。
日本以外だと、どうだろう? ドイツで困った時、
「ジャジャジャジャーン」
と言ったら見事に伝わったなぁ あたしはここに引退いたしますが、ベートーベンは永遠に不滅です モーツァルトは、モツ煮込み
ベートーベンは、手弁当
愛情の差で、ベートーベンの勝ち ふと思ったんだが、カラヤンのモーツァルト交響曲の演奏は、あまり評判よくない
もしも、カラヤンのモーツァルト交響曲演奏がベートーヴェンの交響曲と同じぐらい評判よかったら、日本でのモーツァルトの知名度やイメージはベートーヴェンと同等だったかも? カラヤン登場前の、明治・大正期の評判はどうなんでしょう 明治大正昭和期は情弱の評価ばかりなので今の時点で評価するにあたっての参考にならん カラヤンは日本で人気だったんだよな。
ソニーの盛田会長がCD開発するときカラヤンの
何番か忘れたがベートーヴェンの曲が入る大きさに
したという話しがある。
もう日本じゃクラシックと言えばベートーヴェン、カラヤンという
時代があったんだね。海外ではもっとマニアックに
指揮者も評価してたね。カラヤンの演奏は装飾的な演出が多い印象だったな。 〜カラヤンとデジタル〜
ソニーの大賀は、音楽家の立場から、この未来のディスクにはほとんどの音楽が切れ目なく録音されることを強く望んでいた。
録音時間に関して、フィリップスとのやり取りの中で、大賀自らが黒板の前で七十四分説を説いたのだ。
しかし、フィリップス陣は首を縦に振らない。やむなく大賀は、
「巨匠カラヤンもそう望んでいる」
と言ってのけた。
巨匠の名前は反対勢を説き伏せるには十分な効果を発揮した。
結果的にカラヤンが、いやその名前がソニーに味方したのだ。 モーツァルト聴き出してから、要所要所で心の琴線に触れる部分があって
「そういう感情よく分かる」という状態になれるんだけど。
ベートーヴェンの場合、そういう聴き方はできないで音の流れを楽しむ
だけになってしまうんだよな。心理的に共感しようとすると激しくなり過ぎて
「オレそんなに怒りに身をまかさないもんな」という気持ちになる。
なんかふつふつと怒りがこみ上げるような表現多いでしょ。
こういうの戦時で敵の事考えてる時なんかに高揚するかもな。
まあ反論欲しさの偏見だけどなw 興味深い、いったいどのベートーヴェンの曲聴いてそう思うの??前にも尋ねたけど返事ないまま同様の書き込みなんだよね。
是非教えて欲しい。
ベートーヴェンのロマンス1番なんて聴いたことある? モーツァルトの作品はどの曲もバランスがとれているが、ベートーヴェンは非常に両極端。
モーツァルトはいつ何時大体どの曲を流しても心地よいが、ベートーヴェンはその時の
気分で選曲させられる。 かつてのベルリンフィル支配人
シュトレーゼマンが述べていたが、
どんな作曲家と組合わせが合う作曲家は
ベートーヴェンだと。ベートーヴェンだけの作品揃えてもプログラムが組めるとも。
バランスが取れていないようで実はバランスが取れている作曲家でもある よっ、釣れたな。曲というより、話しの内容からアレグロの部分だと分かるはずだけど。
モーツァルトのアレグロには激しさの中に悲しさや苦悩の表情が聴き取れる。
ベートーヴェンにそれが無いとは言わないが、むしろ怒りににた感情を
感じとることが多いということだよ。 なんとなくということなのね。具体的曲がでてこないのは残念だけど? 確かにモーツァルトのピアノ協奏曲第24番、交響曲第40番は短調だけど哀愁や脆さや神秘性を感じるなぁ ベートーベンの音楽を怒りと感じたことはないな
「解決」「尊厳」「強い意志」「やすらぎ」という感じ 指揮者広上氏は モーツァルトは時に刃物で刺されるような怖さがあるとも話していたので
表面と奥深さを探究した、聴きかたも面白いかもしれないね。例えば交響曲40番2楽章を森林の中、鳥の囀ずるようなイメージした
人がいたと思えば、家の奥の日の入らない仏間の雰囲気と感じる人がいたように。 昨日、N響レジェンドでモツやってたけど、俺には、「だからどうした」って聞こえた
池辺先生が「41番には1番のモチーフが出てきて、面白いですね」って言ってた
どうもモツは、いつも同じような曲想に聞こえる、芸がねえんじゃねえのか 交響曲第41番が出たけど、まさにいろんな感情が読めるよね。
「解決」「尊厳」「強い意志」「やすらぎ」ってむしろモーツァルトだね。
いやもっといろんな感情が湧いてる。「消沈」「慰め」「落胆」「楽観」…
現代的な人間感情に近い。モツは敵に家族を殺されて悲しんで、敵を憎みみたいな
19世紀的つうかどっかの国的な感情ではないな。 モーツアルトは聞く人を選ぶ
わからない人は、どんなに聴き込んでも限界がある。
ベートーベンは万人向け。
聴き込めば聴き込むほど新たな発見がある。 モーツァルトは裸の王様のように思えるな。
天才というフィルターを通して見る大人はまともに物事を判断できず、
先入観のない子供だけが王様は裸だとそのままを指摘した。
今後は20世紀のモーツァルトの神格化に直接の影響を受けていない世代が多くなり、
新たなモーツァルト像を提示する事になりそうだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています