チェルフィッチュ、五反田団、ポツドールあたり
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五反田団
ttp://www.uranus.dti.ne.jp/~gotannda/
チェルフィッチュ
ttp://chelfitsch.net/
ブログ
ttp://chelfitsch.exblog.jp/
ポツドール
ttp://www.potudo-ru.com/index2.html 唐組⇒大人計画⇒ポツドール
自分の観劇遍歴。
今後のポツドールの方向性が見えない。でも本当に楽しみ! ttp://www.nhk.or.jp/art/yotei/2006/20080711.html
テレビ放映あるよ 最近サブカル周辺のライターとかがこぞって観にきだしてるよね
コンテンポラリーダンスとかも。流行ってんのか? >>11
同意。
フリータイムのとき関係者大杉ワロタw
佐々木、豊崎、宮台その他いろいろ シリーズ・同時代【海外編】」、その第3弾となる『タトゥー』は、1990年代にデビューしたドイツ人作家、デーア・ローアーの出世作となった作品。閉ざされた家族の愛憎を、ややグロテスクに描きながら、近代化された社会に残存する複雑な心理を浮き上がらせ、
ドイツ国内ではフランクフルト作家財団賞、「テアター・ホイテ」の年間最優秀新人劇作家など、その他欧米でも多くの賞に輝いた注目の話題作です。
演出には、『三月の5日間』にて第49回岸田國士戯曲賞を受賞。現代の若者を象徴するような日本語による台詞を使い、独特の身体性をもって演じられる舞台創りに注目が集まる
演劇ユニット「チェルフィッチュ」主宰であり、劇作家・演出家として活躍する岡田利規を迎え、日本初演となる本作品に挑みます。 教育テレビでフリータイム見て面白くて飛んできたのにこの閑散っぷりwww びっくりするほど寒かったよ>昨日のETV
滑りまくってる芸人をテレビで見てるときのような「もう見てられない!」
って気持ちになって直視できなかった 昨日の芸術劇場観たけど、
あんなのが評価されているようじゃ現在の日本演劇界終わっていると思った なんか死ぬほどベタで見え透いてると思うんだけど…
あれが最先端でいちばんイケてるのか?
演劇好きじゃなくて普段ぜんぜん見ないけど、
これからも一生見なくていいやと確信した でもいつもの演劇中継よりは実況スレの流れがずっと速かったなw
何かしら反応してしまうものはあったのかも >>19
うーん、意図とか意味を読み込む姿勢が「ベタ」だし、
そのお前によって読み取られた意図や意味が「ベタ」」であって、
お前の演劇に接する態度こそが「ベタ」ってことだなあ、それは
単純に役者の佇まいとかを直感しながら見ればいいんだよ >>21
横レスだけど、佇まいとかを感じようとしながら見る…か。
どんなにその世界で高い評価を受けていようが、芸術性が高かろうが
冗長で退屈なお喋りをまるでありがたいお話のように聞かされてるみたいで私は疲れた。
てゆうか「わたしのぉ〜」「…でぇ〜、…みたいな感じでぇ〜、」というDAIGOみたいな喋り方が生理的にダメだった。
すごく斬新なんだろうけどね。 今年9月から開催される現代美術の国際展「横浜トリエンナーレ2008」の全参加アーティストが決定した。横浜トリエンナーレ組織委員会が6月25日、横浜赤レンガ倉庫1号館(横浜市中区新港)で発表した。
3回目の開催となる今回は26の国と地域から71人の作家が参加。ベルリン在住のマイケル・エルムグリーンさんとインガー・ドラッグセットさんがランドマークプラザ(西区みなとみらい)内
の吹き抜けにプールと飛び込み台をモチーフにした巨大作品を展示するほか、内藤礼さんは三溪園(中区本牧)内の建物を利用して作品を発表する。
そのほか、オノ・ヨーコさん、横浜を拠点とする岡田利規さんによる演劇ユニット「チェルフィッチュ」、舞踏家の田中泯さんなどが参加する。 ttp://page16.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/u26400531 ttp://www.heiwaboke.net/2ch/unkar02.php/live23.2ch.net/liveetv/1215780127 >単純に役者の佇まいとかを直感しながら見ればいいんだよ
いやその佇まいが恐ろしく寒いってことなのでは…w
まあこうなると好き嫌いの話で終わるけど。 あの「フリータイム」が今度は小説に!
出勤前の朝の30分を必ずファミレスの160円コーヒーで過ごす彼女。そこでの話は実際に起きたこと?
それとも彼女の妄想? あるいは周囲の勝手な憶測? 斬新な表現で“いま・ここ”での「自由」を問い、話題を呼んだ「フリータイム」。
2008年3月東京で世界初演をむかえた本作を、どのように小説化していくのか。
いよいよ、Webちくまで7/25より連載スタート!
ttp://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/
新潮9月
誰かについて考えている誰か、のことを誰かが考えている――岡田利規論 古谷利裕 で、今回の本題は、来る札幌公演の宣伝。詳細
チケットの売れ行きが芳しくないらしいのでブログで宣伝します。
売りとしては、今年「三月の5日間」は、日本では札幌でしかやりません! 『三月の5日間』 夏の三都市ツアー
ザルツブルグ(オーストリア)、カーディフ(イギリス)、札幌(日本)三都市で上演いたします。
『三月の5日間』
作・演出:岡田利規
出演:山縣太一 山崎ルキノ 下西啓正 松枝耕平 足立智充 武田力 青柳いづみ
@Salzburg Festival(ザルツブルグ)
■日程:8月14日(木)?日(土)[14日20:00/15日20:00/16日20:00]
■会場:republic
詳しくはSALZBURG FESTIVALウェブサイト
@Chapter Arts Center(カーディフ)
■日程:8月19日(火)?日(水)[19日20:00/20日20:00]
詳しくはttp://www.chapter.org/13784.html
@コンカリーニョ(札幌)
■日程:8月24日(日)?日(月)[24日17:00/25日20:00]
*24日は終演後アフタートークがございます。
■会場:生活支援型文化施設コンカリーニョ
■チケット料金:前売り 一般:2500円 学生:1500円
当日券 一般:3000円 学生:2000円
コンカリーニョ会員 2000円(予約のみ)
■チケット取り扱い:
4プラPG、大丸PG、パトス、コンカリーニョ、
ローソンチケット[Lコード:15051] ttp://l-tike.com/
■お問い合わせ:TEL 011-615-4859/FAX 011-615-4859
E-mail: info@concarino.or.jp
詳しくはttp://www.concarino.or.jp
動画一部
ttp://www.chapter.org/13784.html 渡辺さん経由ですと会員価格になるそうなので
チャンスかも!
【作・演出】岡田利規
【出演】山縣太一、山崎ルキノ、下西啓正
松枝耕平、足立智充、武田力、青柳いずみ
【日時】8月24日(日)17:00 ☆アフタートークあり
25日(月)20:00
【会場】生活支援型文化施設コンカリーニョ
【料金】一般前売2,500円 当日3,000円
学生前売1,500円 当日2,000円
コンカリーニョ会員 2,000円
【チケット取扱】4プラPG、大丸PG、パトス、コンカリーニョ
ローソンチケット[Lコード:15051]
作・演出家、渡辺さんのブログはこちら・・・
ttp://blog.livedoor.jp/watanabee1/ ことばの使い方12 岡田利規(演劇作家、小説家)
ことばの使い方12
ことばは人が動くとき、考えるとき、コミュニケーションするとき、あらゆるときに使われます。
でも、うまく使うのは難しい。このシリーズでは、ことばの使い手によるレクチャーとワークショップを通してことばについて考えます。
2008年9月20日sat. 19:00〜21:00
2008年9月21日sun. 14:00〜16:00
参加費:5000円/2回
ワークショップはご予約をいただいています。
当日でもご参加いただけますが、満員の際にはお断りする場合があります。
お申込みは
【e-mail】yoyaku@shin-bi.jp
【fax】 075-352-0844
【はがき】〒600-8411 京都市下京区烏丸通四条下ル水銀屋町620番地 COCON烏丸 3F shin-bi
「ワークショップ名」、氏名、ご連絡先(住所、電話番号)をお送りください。
shin-biカウンターでもお受けしています。
なお、事前にご入金いただく講座では、こちらからお送りする確認のお手紙の到着から10日以内にお振込のない場合、キャンセル扱いとさせて頂くことがあります。お振込が遅くなるときにはご一報ください。一旦納入された参加費は返金いたしかねます。ご了承ください。
携帯電話から申込みの方で指定受信等を利用されている方は、
@shin-bi.jpからメールが受信できるよう設定ください。 注目を集めている劇作家を挙げた。
一番多かったのが、岡田利規、そして野田秀樹、
三浦大輔(ポツドール)井上ひさし(こまつ座)タニノクロウ(庭劇団ペニノ)と続く。
ここでは岡田利規について語る。
「三月の五日間」が岸田戯曲賞を受賞し、
先日文芸のジャンルであるが大江健三郎賞を受賞した。
彼の話法や時代の気分について語られる。
そのことによって演劇の現在抱えているものがあぶりだせないか
ということの試みがなされた。
チェーホフやベケット的でもあるという意見も出る。
今回の横浜トリエンナーレでは、パフォーマンスが1つの大きなテーマになってます。開幕直後の3連休を皮切りに会期中を通して、会場各所で様々なイベントが開催されます。
それらに先立ちまして、横浜トリエンナーレ2008開幕前夜である9月12日(金)に、Bay Side Yokohamaにてライブイベントが計画されています。
開幕前夜ということで、もしかしたら横浜トリエンナーレに参加するアーティストも来るかも!?会場は1,000人収容可能な巨大なBay Side Yokohama
誰でも参加できる「前夜祭」は期待度大です。
日時:9月12日(金)22:30〜5:00
演出岡田利規 原作安部公房 <友達>
まもなくオンライン先行割引受付です。
9月14日(日)の一般発売に先駆け、オンラインチケットご登録の皆様を対象に
先行割引予約のお申し込みを承ります。
9月14日(日)の一般発売に先駆けオンラインチケットご登録の皆様を対象に
先行割引予約のお申し込みを承ります。
まだご登録をいただいていない方は、この機会にご登録のうえお申し込みください。
■オンライン先行割引受付
受付期間:2008年9月7日(日)10:00〜13日(土)23:59
お申し込み:
パソコン>>> ttp://setagaya-pt.jp/ticket_buy/
携帯 >>>ttp://setagaya-pt.jp/m/
料金:一般(5,000円のところ)4,500円
※ご注意:先行割引受付分には、席数に限りがございます。
予定枚数終了次第受付終了となりますので、あらかじめご了承ください。
また受付開始時は混雑が予想されます。
あわせてご了承ください。
「友達」を演出される岡田利規さんに、今回の作品を手がかりに演出のこと、
そしてこれからの活動についてお話しいただきます。
「友達」公演の前にぜひご参加ください。
ほかの回に、「偶然の音楽」演出白井晃さん、野村萬斎さんなどのレクチャーもございます。
4講座セット券もぜひご利用ください。
お申込受付中
◆日時 2008年10月24日(金) 19:00〜20:30
◆場所 三軒茶屋 キャロットタワー5F セミナールーム
◆劇場オンラインチケットはこちらから→ PC 携帯
◆受講料 1回1,500円/4回セット券5,000円
『フリータイム』
作・演出:岡田利規
出演:山縣太一 山崎ルキノ 足立智充 安藤真理
伊東沙保 南波圭
日程:9月27日(土)?日(日)/会場:横浜赤レンガ1号館3階ホール
お問い合わせ:横浜トリエンナーレ組織委員会
03-5777-8600/050-5541-8600
(ハローダイアル/受付時間8:00-22:00)
【チェルフィッチュ公演<フリータイム> ご入場について】
『フリータイム』横浜トリエンナーレ公演をご覧頂くためには、横浜トリエンナーレのチケットの他に、?各回開演の【2時間前】より、
【赤レンガ倉庫1号館3階ホール受付】にて配布される、整理番号付き入場券が必要となります。 チェルフィッチュ公演<フリータイム> ご入場について
各回開演の2時間前より、赤レンガ倉庫1号館3階ホール受付にて、整理番号付き入場券をお配りいたします。
その際、「横浜トリエンナーレ2008」チケット(当日有効のもの)をご提示ください。
「横浜トリエンナーレ2008」チケット1枚につき、1名様分の入場券をお渡しいたします。
*開場は開演の15分前。入場券の整理番号順にご入場いただきます。
*上演時間は80分です。
*客席数に限りがございます(70席を予定)。入場券の予定枚数が終了しました場合
チェルフィッチュ2008年最後のツアーとしてパリ、ベルリン、ソウル3カ国で上演してまいります。
『三月の5日間』
作・演出:岡田利規
出演:山縣太一 山崎ルキノ 下西啓正 松枝耕平 足立智充
武田力 青柳いづみ
■FESTIVAL D'AUTOMNE(パリ)
日程:2008年11月17日?日/会場:Théâtre2Gennevilliers
詳しくはFESTIVAL D'AUTOMNEウェブサイト
■H.A.U/Hebbel am Ufer(ベルリン)
日程:12月2日?日
詳しくはH.A.U/Habbel am Uferウェブサイト
■Nam June Paik ART Festival (ソウル)
日程:12月13日?日/会場:Nam June Paik ART center
詳しくはNam June Pike Festivalウェブサイト
『フリータイム』
作・演出:岡田利規
出演:山縣太一 山崎ルキノ 足立智充 安藤真理 伊東沙保 南波圭
■FESTIVAL D'AUTOMNE(パリ)
日程:11月25日?日/会場:104
「三人の女」
作 岡田利規 / 演出 竹中直人
<チェルフィッチュ>の岡田利規を迎えて贈る竹中直人の新世界
2008年12月13日(土)〜12月28日(日)●東京●本 多 劇 場
2009年1月6日(火)・1月7日(水)●大阪●シアタードラマシティ
2009年1月10日(土)〜1月11日(月)●仙台●仙台市青年文化センターシアターホール
出演
竹中直人
中嶋朋子
佐藤直子
井口昇
矢沢幸治
荻野目慶子
【東京公演】前売開始● 10月11日(土)
料金●6800円/<全席指定>
お問合せ●中村ステージプロダクション=03−6740−7443 ttp://www.stage-mura.jp
アキハバラ発〈00年代〉への問い
価格: 1,575円
岩波書店
〈この手の事件〉のたび私が思う漠然としたこと …… 岡田利規 早稲田大学で演劇関連トークイベント開催
予約不要、入場無料と言うにはかなり豪華な演劇関連トークイベント、
『国際研究集会・60年代演劇再考』が今月中旬早稲田大学で行われます。
19:00〜20:15
パネルディスカッション 「現在から見た60年代演劇」
平田オリザ(劇作家・演出家)
宮沢章夫(劇作家・演出家・小説家)
岡田利規(演劇作家・小説家)
[司会] 松井憲太郎
「新国立劇場?シリーズ同時代」ラインナップ
★5月「タトゥー」(ドイツ)
演出:岡田利規、出演:吹越満、柴本幸、鈴木浩介、内田慈、広岡由里子他
2008年10月10日(金)7:30pm
11日(土)2:00pm☆
12日(日)2:00pm/6:30pm★
13日(月・祝)2:00pm
* 開場は開演の20分前、開演40分前より受付開始。
☆4:00pm〜演劇計画「演出家フォーラム」を実施。
モデレータ:小崎哲哉(REALTOKYO)
出演:松田正隆(マレビトの会)、岡田利規(チェルフィッチュ)、白井剛 ttp://eplus.jp/sys/T1U14P0010316P002024355P0050001P006001 また、「書くとはどういうことか」という第二の質問について
は、「現実世界の中には存在しないが、言葉の中には存在するも
のを生み出すことだ」と答えたい。
ドストエフスキーやプルースト、フォークナー、ジョイスらに
より真の小説が始まったと私は思う。いわゆる伝統的な小説に心
の底から興味を持ったことがない。なぜなら、伝統的な小説では
登場人物の性格が単純な心理を持つ社会的類型に収まっているし
何らかの教訓を引き出す観点で書かれているからだ。 しかし19世紀から20世紀初めにかけて、小説の見方をひっくり
返すような出来事が起こった。バルザックはそれまでの寓話小
説や哲学小説の中に繰り返し現れていた紋切り型の描写から抜
け出し、プルーストに至っては叙述と描写の伝統的な区別すら
なくなってしまった。
そしてこの時から重要なのは、語られる出来事や話ではなくて
出来事の書き方そのものになったのである。
私にとって「書く」という行為は私の中の感情や感覚、思いで
といつた雑多なバラバラに散らばっている諸要素を、言語によ
っていかに結び付けるかを探求することだ。 私が戯曲や詩でなく、小説を書くようになった理由は
小説というジャンルは輪郭がはっきりせず、何でもそ
こに投げ込めるため特別な知識を蓄積していなくても
冒険することが許される唯一の領域だと思ったからだ。
だから私が「書く」のは「偶然と必然」によるので
あり、そこにはさらにある種の快楽が結び付いている。
なぜなら「書く」のはつらい仕事であると同時に、大
きな喜びに至る手段でもあるからだ。 ポツドールって男だけ全裸、女は下着どまリ。つまらん。。
女も脱がないとね 週刊文春 2008年11月13日号2008年11月5日
(笛木優子、ジョージ・A・ロメロ、岡田利規).
ttp://www.stageweb.com/2008/11/sept-friends.html
初日1週間前の稽古場で岡田に話を聞いた。
聞き手:STAGEWEB編集部 柾木博行
『友達』は、11/11(火)?(月・祝)シアタートラム、11/27(木)?(金)まつもと市民芸術館で上演。 岡田が自作ではない劇を本格的に演出するのは初めてだ。
「安部さんの熱心な読者ではありませんが、今回、リハーサルを重ねて面白い戯曲だと思いました。シンプルだけど、構造がいい。暴力の問題について、加害者の側からも描き、観客にどちらの側に立つのか問いかけています」
社会的にネガティブとされる緩さや貧しさや小ささを自覚することが、実は強さになる。かつては小説に新しいものが書けるという進歩史観があったが、今も新しさがあると思うのは状況に対する勘違い。
希望があることは、人をゆっくりと考えさせない。静かにすわって考える“たそがれ”から文化が始まる。否定的なようで、実は小説の出番だとも思っているんです」
岡田利規氏の『わたしたちに許された特別な時間の終わり』、川上弘美氏の『真鶴』で試みられた、自我を乗り越えた語りの自由さに可能性を見いだす。
「近代小説は自我を確立し、確かに人物像をしっかりさせた方が書きやすいが、岡田さんや川上さんは自我の輪郭の揺れる小説を書いた。実際、人生は一人で完結するものではなく、親子関係など、誰かに託し、誰かに託されて生きている。
自我の揺らぎを描けただけでも十分な達成だと思います。手法も題材も出尽くしたと言われる中で、小説にはなお可能性はあります」(
Commented by おやくすみん at 2008-11-14 15:24 x
ピナ・バウシュ「炎のマズルカ」をそっくりそのまま露骨に引用?した一連の動きがあり……非常に違和感を覚えました。
仰臥した「長女」を並んで寝ている男たちが手で運ぶ→空中浮遊のシーン。 ttp://www.festival-automne.com/fr/programme_media.php?programme_id=223&media=eve_video1&type=video&credits= 五反田団よかったよ。今までで一番良かった
「友達」はえんぺとかで言われてるほどつまらなくはないが途中でだれてくる
若松さんは相変わらずフリーダムでいい感じだけど。 五反田見たいが時間がない。来年の2月は行く。
「友達」はそんなにどひどくはないと自分も思うが、
たしかにだれたな。
チェルフィッチュ好きには嫌われ、岡田がどんだけのものか
見にきた演劇ゴロにもあまり好まれず、って感じなのかな?
自分はあのバラバラ演技が気に入ったが、そこが叩かれたりする。
世の中うまくいかない。(自分的に)
友達〜いろんな分野の役者揃えたから観客層も幅広いと思う。
(私も岡田演出観るのは初めてだが)
とてもだるかった。
19日夜観劇したが、役者から演出家意図や指示が理解出来ない、掴めないという話しされてた。
で、木野さんが通訳状態になったようだ。
後から聞かされたら、中弛みした理由わかったよ
(役者理解せず演技)
あと、若松氏も苦手。 ワークショップが崩壊寸前だったんで、「自分の方法論を放棄する」って宣言して稽古に入ったらしいけどね。
どの辺まで放棄したのか。 19日観たが、>>70のとおりだったね。
>>71
確かに「自分の方法論を放棄する」って言われたが、
それでも理解できなかったといってたから、
(ここからは推測)稽古は平行線だったんだろうな。
たまらず木野さんが助け舟出したのでは?と思われる。
別日に行われた野村氏と岡田氏のトークのときも岡田氏の発言がわかり辛く、
質問に対して、結局何が言いたいかがわからない状態になったらしい。
野村氏が要約して、意味が判ったと書いてるブログ記載もあった。
岡田氏の発言を理解するのには頭の回転が必要らしい。
慣れてない人は会話が成り立たないんだろうな。 まあ前田や岡田の芝居だと名前のある俳優使う意味が薄れてくるしな
前田の書き下ろしと能楽、新国でやったやつも微妙だったし
本谷とか三浦だったら役者も映えるんだろうけど 公演終わるまでつきあえばいいのに
海外に行ってるもんな >>66
いや違う。あそこまで「忠実」にやってるのはないよ >>74
ヨーロッパに行って幸いじゃん。
日本にいて酷評をまともに受けるのもつらかろう。 ttp://reserve-seat.tea-nifty.com/kanoko/2008/11/1112-2bfd.html 作 デーア・ローアー × 演出 岡田利規
Tatowierung
小劇場
「シリーズ・同時代【海外編】」、その第3弾となる『タトゥー』は、1990年代にデビューしたドイツ人作家、デーア・ローアーの出世作となった作品。閉ざされた家族の愛憎を、ややグロテスクに描きながら、
近代化された社会に残存する複雑な心理を浮き上がらせ、ドイツ国内ではフランクフルト作家財団賞、「テアター・ホイテ」の年間最優秀新人劇作家など、その他欧米でも多くの賞に輝いた注目の話題作です。
演出には、『三月の5日間』にて第49回岸田國士戯曲賞を受賞。現代の若者を象徴するような日本語による台詞を使い、
独特の身体性をもって演じられる舞台創りに注目が集まる演劇ユニット「チェルフィッチュ」主宰であり、劇作家・演出家として活躍する岡田利規を迎え、日本初演となる本作品に挑みます。
>>77
Thanks
岡田氏と仕事するのは難しそう。
質問に対する回答が答えになってない。
今回、役者のポストトークでいろいろ言ってたのが気持ちわかる。
会社に例えるとこんな上司居たら仕事進まない。 来年五月に演出する「タトゥー」という戯曲の作者、デーア・ローアーさんも来てくれて、いろいろ話せて「タトゥー」の演出の方向性を考える参考になった。
僕の中もこれから少しずつ「タトゥー」のこと考えるモードになっていくと思われる。 タトゥーも期待しないほうがよい。ということか?(苦笑) 新潮1月号
安部公房と別役実の板ばさみになって/岡田利規 群像1月号
ジャン= フィリップ・トゥーサンと対談 すばる1月号
「その後」の戦争小説論(1)
−岡田利規と阿部和重、戦場としての渋谷
陣野俊史 <チェルフィッチュ>の岡田利規を迎えて贈る竹中直人の新世界
2008年12月13日(土)〜12月28日(日)●東京●本 多 劇 場
2009年1月6日(火)・1月7日(水)●大阪●シアタードラマシティ
2009年1月10日(土)〜1月11日(月)●仙台●仙台市青年文化センターシアターホール
出演
竹中直人
中嶋朋子
竹中直人(52)が演出・主演する舞台「三人の女」(13〜28日)の公開げいこが11日、東京・下北沢の本多劇場で行われた。注目の若手劇作家岡田利規氏の新作で、中島朋子、荻野目慶子らが共演。舞台美術はイラストレーターの安斎肇氏が手掛けた。
竹中は「なかなか手ごわい本だったけど、タイトル通りに3人の女を魅力的に書いてくれた。ロマンチックで切なくて、年末に見るにはいい芝居だと思うよ」。 >>88
五反田団か・・・。
くそう見逃している。 友達につづき三人の女も評判悪いねー。役者が岡田メソッドを理解できてない
5月にタトゥーがあるけど
チェルフィッチュだけでやってたほうがいいみたい >90
両方とも観たけど、全くダメ、オススメできない。
好みの問題あるかもしれないけどもう少し、マイナーな役者で充分練習したものを作品上演すべきだと思う。
コミュニケーションの時間が足りない感じが丸わかり。 そしてなぜ、演出を依頼しなかったんだろう?
岡田のスケジュールか? 12月26の19時30分から、急な坂スタジオで、フランケンズの中野成樹くんとしゃべるイベントがあります。
マンスリーアートカフェvol.24「戯曲ってなんですか? 〜岡田利規と中野成樹の場合〜」
当日は、既成戯曲演出のセンスにおそろしく長けた中野くんから、僕の「友達」演出へのダメ出しが多数出ることと思われます、お楽しみに! ・・・ダメ出しならお金払って観た観客にして貰えよ。
それなら自分も山ほどww チェルフィッチュ 2009年北米ツアー
チェルフィッチュの2009年は北米ツアーで始まります!
約2ヶ月間をかけ、全7都市で上演してまいります。
ttp://www.wonderlands.jp/?itemid=951
世田谷・シアタートラムで開かれた「友達」公演(2008年11月11日-24日)は、芝居好きの間で事前にかなり話題になりました。安部公房の代表的な戯曲を、
チェルフィッチュ主宰の岡田利規が演出するうえ、小林十市、麿赤兒、若松武史、木野花、今井朋彦ら人気、実力、
個性の際だった俳優が登場するからです。不条理劇と岡田演出と個性派俳優陣との組み合わせが注目されたのでしょう。その結果はどうだったのか、ワンダーランドの寄稿者3人が舞台をさまざまな角度から検証しました。(編集部) >100
ttp://www.wonderlands.jp/?itemid=951
めちゃくちゃ的確な評論。ガッカリ度高かった劇だった。
役者のトーク日に行ったけど、
演出の方のこと結構ブラックユーモア交えて語っていたのが印象的。 ttp://www.yomiuri.co.jp/entertainment/stage/theater/20081224et08.htm 3月の五日間というか岡田演出の動き方って
シムピープルだな。
うん、あれはシムピープルだ。
このような時代は、高度資本主義社会、高度情報化社会、ポストモダン、多文化主義など様々な言葉で語られていますが、生き方や考え方が多様化した時代と言えるのでしょう。
このような大きな物語や太文字の歴史が終わったという時代に、では人々はどのように生きていくでしょうか。
まず1つは「動物的な生活」
→アメリカ的なライフスタイルで物質的に満たされて生きていく(テレビ・ジャンクフード・公園・ジョギングなど) >>88
>>89
>>98
わざわざのお出まし誠にご苦労様に存じます。
週刊誌は発売日の前日に大半売れ残ってるし、
文芸誌はF田さんはメタボT内さんはアル中で
大変ですねぇ〜! 5月15日-5月31日 ・「Tattoo」 原作 Dea Loher 新国立劇場(東京) 演出:岡田 利規 舞台美術:塩田 千春 五反田団、新年工場見学会を見た。
めでたかった。
とくにハイバイのチャゲアスのニセモノがごきげんだった。
自己啓発セミナーかよ!!! 現在北米ツアー中のチェルフィッチュ劇団のバンクーバー公演は初めて。約2カ月間をかけ、ニューヨーク、コロンバス、シアトルなど全7都市を回る。主宰の岡田利規さんは「名高いPuShフェスティバルに参加できて光栄」と話す。
「自分たちが普段使っている日本語や身体の動きを用いて、演劇という懐の深い表現形式が許す自由を思うまま享受しながら、自分たちの身の丈にあった物語を上演している」としたうえで、
「よく『チェルフィッシュ』と間違われるが、本当は『チェルフィッチュ』」とも。 雑誌『フライデー』の創刊号に掲載された自決した三島の首と胴体の写真。(グロ注意)
三島由紀夫の生首:
ttp://hugo-sb.way-nifty.com/hugo_sb/imgs0410/mishima_head.jpg
三島由紀夫の胴体:
ttp://hugo-sb.way-nifty.com/hugo_sb/imgs0410/mishima_body.jpg 北野武が今の日本の映画の状況について言及していたが、それは非常にツボをついていた。
本城とかいう猿の作品なぞ興味はないが、それは北野武に言わせるとレンタカー借りてマイカーといってるのと同じ。
リトルモアとか言う出版社は結局現在の映画配給会社と同じで何の個性もない工場長と同じ。
そして単純な馬鹿を奴隷化しいくら儲ける事しか考えてない。
受け手も養殖された魚の生態と同じでエサをばら撒くとバー−ッと寄ってきてバシャバシャエサを食べるが結局網の中で
太らされて最終的に食べられてしまう。受けて自体が自分でエサを探す能力も無い養殖魚と同じ。 また格差はデフレが原因で、小泉・竹中両氏のせいではないという。
昔は、大規模戦争を起こして需要を引き起こし、インフレにするという荒業が出来た。
しかし現代社会ではそれは難しい。そして市場経済を行う限り
格差は必然的に発生するが、大事なのはそこで「弱者」をどうするかということだ。
小沢一郎氏の言う「バラ撒き」では解決しないと長谷川氏は論じる。
格差問題に関してはアメリカのもっととんでもない格差社会の話が
面白く書かれているので読んでみて欲しい。 会社の理想は会社の利益・客の利益・従業員の利益の三角形がバランス良く成立しているのですが、この会社は東京タワーの様な形でした。
ttp://jp.youtube.com/watch?v=JfytBoCVqJs&feature=channel
Interview with chelftisch theater director Toshiki Okada ■戯曲
三人の女/岡田利規
悲劇喜劇2009年3月号
ISBN:978415 刊行日:2009/02/07
『ユリイカ 2009年2月号』 特集*日本語は亡びるのか?
【作家はそれでも書く】
私にとって 「日本語が亡びる」 ということ / 岡田利規 川上未映子中原昌也舞城王太郎古川日出男佐藤友哉 岡田利規
蓮實の推す若手作家 五反田団初日
しかし三鷹まで行くのめんどー
いつもより大きなところだしどうなんだろう ツアー写真
ttp://3.bp.blogspot.com/_9stdhEYM2hw/SXeuyN819gI/AAAAAAAAAEc/-Zd15z24CuQ/s1600-h/chelfitsch+in+Vancouver.jpg ttp://pushfestival.blogspot.com/2009/01/it-has-begun.html 前田今までで最低の出来。どうしちゃったんだろうか。
やはり三鷹は鬼門だな。 ttp://blog.livedoor.jp/gotenyamanoushi/
昨日シアトルでの初日を終えた。
数人のスタンディングオベーション、海外チェルでは初だ。いや、日本でもないから世界初?
バンクーバーでも徐々に噂が広がったのか楽日は満席だった。 北アメリカ大陸3都市目だがどこもめちゃくちゃ受けている。もっと正確にいうと大声で笑っている。
そういえば日常生活でもよく笑うし、あかの他人でも必ず挨拶し、今さっきこんなことがあったぜみたいな話しをし始める。
外側から見たアメリカと実際来たアメリカ(アメリカは初体験)のギャップが少なからずあり、自分は結構内向的人間ということを大きく自覚した。
実際は欧州より頭が古かった前大領から本当にあっけらかんと「Change」していきそうな潜在力を感じる。
「三月の5日間」行脚も折り返し地点。翻訳という壁を超えて「Five days in March」のメッセージは着実に伝播してる気がする。
昨日の「お買い物」は予想以上に面白かった
前だがチラッと出てたなw 手塚夏子が、今月27日と28日に門前仲町の門仲天井ホールで公演します。その公演に向けて、
先月、手塚がSkypeで、ニューヨークにいた劇作家・演出家・小説家の岡田利規さんと会話した記録を、手塚が文字おこしをして、フリーペーパーとして自主発行します。
手塚と岡田さんの会話というのは、お互いの創作の手法を通して考えている身体と意識の在り方について、だったんですが、私は二人の会話を読んで、つくづく、アーティストという生き物は不思議だなぁと思いました。
黒田大輔もでてたのか。
ちくしょう、見逃した・・・。 >>136
こんばんは。過疎スレのうえに五反田団の話題は少ないですが、今後ともよろしく。
昨年から池袋コミュニティ・カレッジで絶賛開講中の公開講座「新・岸田賞作家列伝─70年代生まれの劇作家たち─
第3回目は、まさにその話題の人、前田司郎さんを講師に迎えます。
「新・岸田賞作家列伝─70年代生まれの劇作家たち─」
■日時:2009年3月28日(土)14:00?:30(著書販売サイン会)
■会場:池袋コミュニティ・カレッジ(西武池袋本店イルムス館8・9階)
■受講料:会員2,625円、一般2,940円
往復で成田ー横浜間のバスチケットを買っていて、さっき荷造りのときにチケットを手荷物に入れようと見てみたら、「有効期限30日以内」と書いてあって、かなりがっかりする。
それでもためしにそのチケットを出してみるつもりだけれども。でもきっとダメだろうなという気分がアメリカ最後の夜を憂鬱にさせる。 それから、保坂は80年代くらいまで音楽を聴いていたけど、それ以降は聞いていなくて、
最近になって佐々木敦の本を読んで音響派を知って面白かった、と。音楽って何でもありな世界になっているんですねーと。
で、佐々木が音響派の説明をする。音楽というのは構築するものだったけど、コンストラクチャではなくてテクスチャ、つまり音色とかに注目するようになったのが音響派だと。
マイクを放置して録音するだけ、とか。で、岡田利規とか磯崎憲一郎とかって小説の音響派なんじゃないの、と。
【yara-goとは】
山崎ルキノ(Vo.)
小嶋淳(Gt.)
オーギー・リン(Perc.)
の3人組ユニット。
アコースティックサウンドを
のんびり、ゆったりとお届けしております。
【ライブ情報】
3/22
ACOUSTIC NIGHT vol.2
やらゴー半年振りのライブ!
アコースティックのイベントに参加決定です。
場所は青葉台のジャズバー AU LAPIN AGILE(オーラパンアジル)。
『SPT 05 特集 戯曲で何ができるか?』(工作舎)発売中!
特集2 岡田利規 演出 『友達』(安部公房 作) 制作ノート
イントロダクション 『友達』公演記録(キャスト&スタッフ)
『友達』稽古・公演スケジュール
上演作品レクチャー 安部公房作『友達』の演出をめぐって
──戯曲のテキストを超える身体の具体性 岡田利規
覚え書き(1) 『友達』について──覚え書き──2007年7月8日 岡田利規
覚え書き(2) 『友達』演出覚え書き2008年8月20日 岡田利規
ドキュメント 『友達』稽古日誌 岡田利規
ポストパフォーマンストーク 『友達』 岡田利規×野村萬斎
インタビュー 観客に何が届くか?──リテラシーを考える 岡田利規 岡田 身体を見るリテラシーって必要ですよ。僕は別に教育に自分が携わりたいという欲望はないから、それ以上のことは言えないですけど、でも、絶対あったほうがいいと思う。惑わされないと思いますよね。
自分の身体を軸にするために必要なリテラシーだと思うんですよね。ロダンとかの大理石彫刻を見て、「このポーズを真似しよう」みたいなことでも、相当面白いと思うんですよ。
そうすると、単純に言うと、フォルムじゃなくて、運動として彫刻を捉えるということが出来るようになるはずなんです。彫刻ってそう見ないと面白くない、実は。そうなった時に、
そうやって運動として自分の体と一緒に見た時にシンクロできちゃうもののすごさみたいなところにショックを受けるというところまで届かないじゃないですか。
「ああ、きれい」とかで終わっちゃうんですよ、フォルムで見ちゃうとね。やっぱりすごい人の作った彫刻の運動はすごくて。そういうことだって、僕、結構大事だと思うんですよね。それはまずは演劇の作り手が持つべきだって本当に思う。 五反田団の「俺のの宇宙船、」見に行った。
哲学的なのはわかるんだけど、そんなにおもしろいと思わなかった。
ごめんなさい。でもセットはよかった。 俺の宇宙船はあきらかに失敗作だろ。哲学的でも何でもない。
いい見方とか解釈があったら誰か教えてくれ
明日おやすまなさい見に行ってくるわ。五反田団ではないが 三田評論
演劇と小説に流れる時間
岡田利規さん (演劇作家、小説家)
インタビュアー・大和田俊之(慶應義塾大学法学部准教授)
岡田利規新連載スタート!
ポプラ社が発行するフリーペーパー「小説誌asta*」4月号(3月6日発刊)より、岡田の新連載が始まりました。
岡田は2ヶ月おきでの連載となります。
タトゥー拝見
苦しむ岡田。でもなにかが見えてきているような感じはある。 ──キャストのおふたりは、初めて受けられる岡田演出の感触はいかがですか?
吹越「ホン読んでる人がいて、それを見て言葉を発してる岡田さんがいて。
自分は黙っているときでも、やっぱり人の話をちゃんと理解しようと思って聞くと疲れますね」
広岡「私も普段どれだけ人の話を聞いてなかったんだろうと思いました。初日でノックアウトされた感じです。
岡田さんの言葉って独特だけど、言ってることはわかるんです。
今まで劇団とかで言われ続けてきたことと、内容的には「あれ? 同じだな」と思ったりして」
岡田「僕の言葉は最初は絶対分かられないけど、分かられないことも分かった上で、
でも時間さえかければ分かってもらえるっていう。そこは信じているんですよね」
岡田の小学生しゃべりにあきれる主演ふたり 前田が本谷より先に小説で賞とったか
今回のは普通にいい話だからあんま三島賞っぽくはないけど >>158
他人の作品だから出来ないって
言われても金払って客観てるのにあんな作品は原作者にも失礼だと思った。 「タトゥー」にはがっかりだったな。ラスト銃殺の演出が実に陳腐。
去年静岡で上演されたエンリケ・ディアス「かもめ」のもろパクリ。
トマト?をリンゴに変えただけ。あまりに安直すぎて唖然としたよ。
誰かが的確に指摘していたように去年の「友達」はピナ・バウシュ
「炎のマズルカ」だったし……想像力の貧困さを海外作品の安易な
模倣で補っているとしか思えない。さすがにチェルフィッチュ本体
ではそんな自堕落なことはしていないと信じたいけれど。 岡田、他人作品演出は五年に一度ぐらいにしたいとブログで
よっぽど懲りたらしい この度、2010年に予定している『三月の5日間』ツアーの出演俳優を募集いたします。
下記、「続きを読む」より、「募集内容」および「オーディション開催概要」をご確認のうえ、お申し込みください。たくさんのご応募お待ちしております。
■募集内容
1.公演日程
2010年3月中旬 香港公演
10月下旬〜 オーストラリアツアー
2.稽古日程
2009年11月を中心に、2010年1月〜3月の間で調整
急な坂スタジオ(横浜)にて
3.募集人数
男性3名(「男1」「男2」「男4」役)
■オーディション開催概要
第1次審査:書類選考 09年8月10日必着
.くらやみ朗読会@酩酊バー
9月26日(土)21:30〜22:30(ラウンジ営業25:00まで)
山水閣
前売2,500円/当日3,000円 ※ドリンク代別
出演/岡田利規(チェルフィッチュ)/山崎ナオコーラ チェルフィッチュワークショップ開催!
この度、約2ヶ月間にわたるチェルフィッチュのワークショップを開催いたします。
下記「続きを読む」より、実施概要・応募方法の詳細をご確認の上、メールにてお申し込み下さい。
皆様のご応募お待ちしております!
【実施概要】
日程:@火曜日クラス:11月3日~12月15日 毎週火曜日、全7回
A木曜日クラス:10月29日~12月17日 毎週木曜日、全7回(11月19日は休み)
※火曜日クラスおよび木曜日クラスは同内容となります。
時間:火曜日クラス/木曜日クラスともに18:00~21:00
場所:急な坂スタジオ(横浜) アクセス
内容:チェルフィッチュのメソッドの実践(基礎からテキストを用いてみるところまで)
対象:表現活動に携っている方(初心者向けのワークショップではありません。通しで参加できる方を優先します)
定員:火曜日クラス/木曜日クラス 各10名(応募者多数の場合は書類選考により決定)
参加費:5000円(通し、全7回)をワークショップ初日に現金にてお支払い頂きます
『吾妻橋ダンスクロッシング』 佐々木敦×岡田利規×桜井圭介鼎談
ttp://www.cinra.net/interview/2009/09/04/000000.php チェルフィッチュは、ずっと興味があって今日はじめて見たけど
うーんこういうのか、本公演を観に行きたい!と思わせるほどじゃなかったなぁ。
前田、池袋なんかでやるな。
アトリエヘリコプターでこじんまりやれ オーストラ・マコンドー 1stオーストラ 「三月の5日間」
日 程:2010年1月8日(金)〜1月17日(日) ※1月7日(木)プレビュー公演
場 所:赤坂レッドシアター
作 :岡田利規
演 出:倉本朋幸
価 格:前売り3,500円/当日3,800円(平日マチネ割引有り)
発 売:11月7日(土)前売り予定
<出演>
河合龍之介・池下重大・岡田あがさ ・坂口辰平(ハイバイ)
兼多利明・カトウシンスケ 他 ■作・演出 岡田利規
■出演 山縣太一/安藤真理
■日時 2009年11月
19日(木)19:30
20日(金)15:00/19:00
※20日15:00の公演終了後、岡田利規と、同時上演されるteuto vol.5「ソーグー」演出の杉原邦生によるポストパフォーマンストークあり
■会場 伊丹アイホール
■チケット 前売\2,000
○9月26日(土)21時30分より
那須の宿「山水閣」にて、
「くらやみ朗読会@酩酊バー」
と称して、岡田利規さんと私とで、小説を朗読します。
(例のスペクタクル・イン・ザ・ファーム内の企画です)。
各々の自著と、
あと、それぞれの小説を交換というか、相手の小説と、
『細雪』のはじめ(私)と終わり(岡田さん)を、
たぶん、順番に読みます。
自著は、私は、一緒に行ってくれる「新潮」の編集者さんに気を使って、
初出が「新潮」の、「物語の完結」という短編の出だしを読むつもり。
『細雪』はいんちき関西弁で朗読するつもり。
練習した方がいいらしいので、さっき、ひとりで喋ったがばかみたいでした。もっといい声だったらよかったのにね。
会が終わったあとも、私はそこにいると思うので、
よかったら話しかけてください。
私はひとみしりですが、気さくです。 那須の朗読イベントでは、ナオコーラさんとの驚くほど噛み合わないトーク(打合せで決めた段取りを、僕が守っていなかったらしい。)が、われながらおもしろかった。
今度柴が三鷹でやるけど面白いのかな。ラップとかあんま興味無いんだけど
ハイバイの「て」が面白かった 【古谷交遊人脈 作家等】
保坂和志 ttp://www.k-hosaka.com/
樫村晴香 ttp://www.k-hosaka.com/kashimura/kashi.html
中野成樹+フランケンズ ttp://frankens.jugem.jp/
神村恵 ttp://ameblo.jp/kamimuramegumi/
チェルフィッチュ・岡田利規 ttp://chelfitsch.exblog.jp/
星野智幸 ttp://hoshinot.exblog.jp/
永瀬恭一 ttp://d.hatena.ne.jp/eyck/
上田和彦 ttp://d.hatena.ne.jp/uedakazuhiko/
福居伸宏 ttp://d.hatena.ne.jp/n-291/ 柴はおもしろいけど土屋(シベリア少女鉄道)の劣化版に感じちゃうんだよな
評論家ウケは柴の方がよさそうだけど >>179
そういえばやってたんだよな。
見にいかないままに終わってしまった。 >>182
ハイバイ、柴ともに明日12日まで。
柴は行くがコリッチの評判がいいので不安・・・。 ハイバイと柴のと、どっちに行くか迷ってる。
当日券狙いだから、入手できないかもしれないんだけど。 >>181
劣化かどうかは別にして
なんとなく言いたいことはわかるよ。
笑いと衝撃へと向かうとシベ少
ヒップホップへ向かうと柴
違ってたらごめんね。 >>186
俺も書こうと思ってたw
確かに地域交流とか教科書に書いたりとかしてるけど内閣官房参与ってのはなんだかなあ 三浦は映画じゃないの?
そろそろ公開じゃないの?
とりあえず「愛の渦」のあとは、今年は公演なしって年初から言ってた。 チェルフィッチュの岡田利規が「神村恵の歩の進め方は揺るぎがなくて、すごく幹が太い感じがする」と絶賛する作品を世界を、ぜひ堪能してほしい
神村恵カンパニー
『配置と森』
2009年12月22日(火)〜12月23日(水・祝)
会場:六本木スーパーデラックス
第35回(2009年)青山七恵「かけら」
最終候補作
岡田利規 「楽観的な方のケース」
川上弘美 「terra」
リービ英雄 「我是」
西村賢太 「廃疾かかえて」
遠藤徹 「麝香猫」 真夜中vol.7
2009年10月22日発売定価 1260円(税込)
Column[3] 眠りの国 手ぶら 岡田利規
鳩山の所信表明を平田オリザが書いて演出指導もしたらしな ダンス・コミュニティ・フォーラム「We dance」の一環として、来年1月に横浜にある急な坂スタジオにて集中ワークショップ「試行と交換」を開催する。
同フォーラムは、コンテンポラリーダンスの活性化を目的に、ダンサー自身の企画によるプログラムやトークセッションをこれまでに開催している。今回は全24クラスが設けられ、チェルフィッチュの演劇作家・岡田利規、
ニブロール主宰の矢内原美邦、舞踏家の白井剛、即興演奏家・作曲家の宇波拓などダンスのみならず、演劇・音楽・美術のアーティストをファシリテーターとして迎える。
2009年1月9日(土)、10日(日)、16日(土)、17日(日)、23日(土)、24日(日)、30日(土)、31日(日)
会場:横浜 急な坂スタジオ スタジオ2
時間:10:30〜12:30、13:30〜15:30、16:00〜18:00 ※全24クラス
参加費:各回800円
定員:20名(先着順) .事業仕分けのことにしろ(演劇)、「新潮」で東さんと平野さんがしている対談でテーマにされていることにしろ(小説)、
この未来のない感じ、どうしたらいいのか? 自身のサバイバルというパーソナルな領域を少しでも超えて考えることのできるスケールが僕にはあるかなあ。ないんじゃないかなあ。 なんかここら一帯の「僕たち本物」感がぶっちゃけ気色悪い。 大江健三郎×岡田利規 公開対談
ttp://www.nicozon.net/tag/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%88%A9%E8%A6%8F 新潮2月号(1/7発売)
演劇評論家の内野儀
「ゼロ年代の終わりにーベルリンのチェルフィッチュ」 各回定員15名の贅沢なお披露目です。お早めにご予約下さいませ!
●日時/内容
1/12(火)19:00~20:00公開リハーサル
20:30~21:30プレゼンテーション
岡田利規
1/19(火)19:00~20:00公開リハーサル
20:30~21:30トークセッション
岡田利規×佐々木敦(批評家)
1/26(火)19:00~20:00公開リハーサル
20:30~21:30トークセッション
岡田利規×桜井圭介(音楽家/ダンス批評)
●参加料
1回1,000円(完全予約制/当日精算)
●定員
先着15名
※少人数のため、新作公演チケットご購入者のみにお申し込みを限らせていただきます。
明日(26日)19時から行います「チェルフィッチュ公開リハーサル&トークセッション(ゲスト:桜井圭介氏)」の模様を下記URL(USTREAM)にてネット生中継配信いたします(19時からを予定)。是非ご覧ください。 ttp://bit.ly/7N5rLZ 映画『ユキとニナ』公開記念スペシャルトークショーに参加決定!
諏訪敦彦監督の新作映画『ユキとニナ』の公開記念トークショーに岡田利規が参加します。
前作『不完全なふたり』公開時から親交を深めてきた諏訪敦彦監督と、互いに海外、特にヨーロッパでの高い評価を得てきたことを通して、”海外で表現するということ”について、語ります。
お誘い合わせの上、是非ご来場ください。
『ユキとニナ』公式サイト ttp://www.bitters.co.jp/yukinina/
日時:2月10日(水)19:00の回上映後
場所:恵比寿ガーデンシネマ
スレ違いかとは思うのだが…
第54回岸田國士戯曲賞発表
第54回岸田國士戯曲賞(白水社主催)の選考会が2010年2月8日(月)、東京神楽坂・
日本出版クラブ会館で行なわれ、選考の結果、柴幸男『わが星』 が受賞作と決まりました。
正賞は時計、副賞は二十万円で、授賞式は4月12日(月)午後6時より
東京神楽坂・日本出版クラブ会館にて行なわれます。
http://www.hakusuisha.co.jp/kishida/award.php
おめでとう。でも、「わが星」は戯曲かな?
あと、チェルフッチュ、チケット送られて来ないんだけど、まずいよね? 舞台は良かったよ。
戯曲で読むとどうかは知らない。
>>213
小さな劇団だとよくあるんだよね、そういうこと。
単純に全体が遅れている場合もあるけど、
念のため確認メールしたほうがいいよ。 214さんありがとう。メールで問い合わせしたんだけど返信来なくて。電話してみます。 これまで岡田は、かつて体験したフリーターを通して、「自分の属している社会的な層のこと」を書いてきた。
今回の主人公は、経済的に余裕ある「勝ち組」の立場にいる。そして「世の中に対して恨みやネガティブな感情を抱いていない人物」である。
「そういう人がいることは、僕にとって想像しがたいことなんです。自分が理解できないという、そこを書こうとしている」
ttp://www.asahi.com/showbiz/stage/theater/TKY201001290311.html わが星、再演しないかな。
本当に素敵な舞台だった。 只今、岡田利規がFMラジオJ-waveのお昼の番組「ランデブー」ゲスト出演の収録中です!放送は2/25の14:30前後からです!お聴き逃しなく! コンセプション
岡田利規
天然文庫 bccksBunko
2010.02.19
2010.02.27 .
舞台芸術とはつまるところコンテンポラリー(共時)性=“場”で起こる一回性の問題を抜きに考えることはできない。
チェルフィッチュの岡田利規ほどそのことに自覚的なアーティストもいないだろう。演劇界・ダンス界から注目される岡田が、佐々木敦、桜井圭介など豪華ゲストと語った、演劇の本質、そして目指す未来。
スレ違いかなあと思いつつ
2010年9月 さいたまゴールドシアター第4回公演
『新作(タイトル未定)』
【スタッフ】作=松井周 演出=蜷川幸雄
【キャスト】さいたまゴールド・シアター
しかし週刊SPAの前田の連載はひどいな。SPAは前田を切って鴻上の連載をもとに戻してほしい。 ●横浜美術館で、チェルフィッチュ『わたしたちは無傷な別人であるのか?』。すごいものを観た。作品として、簡単に「すばらしい」とは言えない疑問や懐疑もあるのだが、そのような抵抗感、違和感も含め、すごいものをみせられた感じ。 何か、もう、ぼやくしか無いのかな。世の中おしまいなのかな。
それが『わたしたちは無傷な別人であるのか?』の感想です。 チェルフィッチュ。最新作『わたしたちは無傷な別人であるのか?』のリハーサルと劇場での本番を取材した
動画
ttp://www.mediadefrag.jp/project/chelfitsch/ 今やってる奴?
俺はなかなか面白いと思ったけど、「わが星」を見たときのような衝撃はないかな。 「ままごと」面白くも何ともなかった。ただ、それは好みがあるから面白いという人も
いらっしゃるでしょうけど。ただ、あの作品を面白いという人、凄い疲れていないか? もちろん、考えてるよ。
ありもしないマンガにでてくるような会社を作って、良いなと思う?はっきり言って見てて恥ずかしかった。 『ミュージック・マガジン』p209で指田文夫という人がチェルフィッチュの『わたしたちは無傷な別人であるのか?』について、「どこにも魅力のない劇」、「岡田の劇は海外でも上演されているそうだが、まさに国辱というべきだろう」 バンクーバー・オリンピックの閉会式が行われた月曜日の夜、横浜美術館で岡田利規とチェルフィッチュの『わたしたちは無傷な別人であるのか?』が行われた。
実にひどいものだったが、外人まで多数来ているのは、一体どういうこなのだろうか。
話は、幸せに見える中年男についての叙述と、沢田さんの家に行くみずきチャンについての、ある土曜日についての経緯である。
そして、ドラマは何も起こらず、「明日は2009年8月30日の衆議院議員選挙だった」と言うもの。
一体どこが面白いと言うのだろうか。
勿論、岡田はこうした批判を百も承知でやっている。
それより、われわれの演技の新しさ、革命性を見てくれと言いたいのだろう。
役者たちは、稚拙な台詞に全く合わせず、台詞と関係のない動作をする。
これは、演劇の基本である、台詞と動きの同調の基本を破壊するものだろう。
だが、こうした表現方法の破壊は、20世紀ではダダイズム以来行われて来たものだが、今や誰もやらないものである。
当然で、いくら表現様式を破壊したところで、内容は変わらないからだ。
無調性とミニマル・ミュージックに近似している点で、岡田の劇は、1980年代のバブル演劇の象徴だった如月小春にとてもよく似ている。
中身のなさ、マスコミへの売れ具合も同じである。
そして、この退屈極まりない劇を救っていたのは、舞台中央に下げられた時計だった。
それは、実際の時間で、「ああこの愚劣劇も、あと30分で終わる、あと15分、もう5分」と時間の進行に救われたのだから、この日の主役は時計と言うべきである。
これは、すごいアイディアであると岡田君に感心した。
ともかく、この岡田の劇を見ることの苦痛は凄い。
まるで人格修養をした気分で終わった。
まったく面白くないものを2時間近くじっと見ている人格修養である。
この劇を、是非少年院の「キレル」少年たちに見せて欲しいと思う。
彼らは、どういう反応を示すだろうか。 朝日新聞の昨日の夕刊で、徳永京子という演劇ジャーナリストなる人が、岡田利喜の『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を大変高く評価している。
「へえー世の中には、いろんな人もいるものだね」と思う。
そして、思い出したのは、アンデルセンの『裸の王様』である。
ある国に二人の詐欺師が来て、「これは新しい服だ」と言って王様を裸にし、
「見えない服ですよ」と王様と宮廷の人間たち全員を騙して金を取る。
そして、王様が自慢げに外に出たとき、
子どもが「王様は裸だ!」と叫び、詐欺がばれてしまう。
勿論、詐欺師が岡田利喜であり、騙されている王様は、徳永らである。
徳永は、「質の高い茶事に招かれたような体験」と評しているが、岡田の劇のどこに精神世界が存在しだろうか。
ひどく感性が鈍いな私には、何も感じられなかった。
この劇は良くできている。シーンもセリフもよく練られたものであり、多くの人に届くものであった。
それだけに、だから何、何だー!
ぼやいているの何で金払って聴かなきゃならねんだ。
不安そうな者をだして、客が「うん不安ですねえ」とくる芝居のどこがいいんだ。
次にある世界を提示してみるのが岡田の仕事ではないか。
大江健三郎に褒められていい気になるな。
もっと、激しいの書け。人殺しを描け!!! >>236
俺は、逆にそれをやらなかったのが、今回のポイントだと思ったな
エンジョイやフリータイムの対極というか
もうそんな価値観で、自己満しててもしょうが無いというか 237 様。
演劇に価値観を盛り込むのは無意味ということですか?
しょうがないとはどういうことを言うのですか?
237様は自己満足といいながら何か努力しました? スイングバイ、面白かったな。俺、疲れているんだろうな チェルフィッシュは私も理解できなかった。
「3月の5日間」を本で読んだけど、冗長でつまらなかった。
舞台はおもしろいのかと思って、「エンジョイ」観たけど、ダメ。
ストーリーは我慢できるけど、あの動きが気持ち悪い。
身体能力の訓練できていない素人のお遊戯みたいな感じで・・・。
笑いもおきていたけど、内輪受けの人たちみたいだったし。
新国立小劇場じゃ、途中で席を立つ人・爆睡する人もチラホラいた。
私は、いつかおもしろくなるのではと結局最後まで我慢したけど。
苦痛の2時間でした。
おもしろいと思う人(内輪以外)は、どこがおもしろいか教えて下さい。 デクノボー役者が、例によって台詞と無関係な動作を醜く繰り返す。
新劇の創始者の一人、久保栄は、「人間は台詞では嘘を言うが、仕草、動作には本心が現れる」
と書いたが、岡田は、新規な思いつきとしてやってるだけ。
ミニマル・ミュージック的、無調音楽的で、昔、演劇新人類ともてはやされた
如月小春の無内容な冷たさに酷似していた。
指田文夫「わたしたちは無傷な別人であるのか?」評
(ミュージック・マガジン 10年5月号)より
/ \
/ / ̄ ̄ ̄\ 丶
|/ \ / 丶|
/Y ヽ ノ |ヘ
ヒ| / |ノ
丶- (_ノ -イ |
|丶∈≡∋ /|
>――――<
/ 丶__ノ \
今日のSNAC音楽談義にも散々出てきた、チェルフィッチュの「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」は
音楽と動きのインタラクションに岡田さん流の言葉を駆使した野心作。先月の横浜新作とは手法が全く違い、いわゆるチェルフィッチュの真髄みたいな作品です。ぜひ観てホシー <社会の病的な核に、ハサミのように肉薄した>(ベルリン新聞)などと現地メディアに絶賛されたベルリンからの“凱旋(がいせん)公演”となる。作・演出の岡田は、なぜ海外で受けるか「分かりません」。
5月末からポルトガル、スペイン、スロベニアなど8か国9都市を回るが、「ひとつの作品をじっくり育てられるのがうれしい。繰り返しやると、パフォーマンスの質がしっかりしてくる」と喜ぶ。出演は山縣太一、安藤真理ら。(電)03・3423・8669。 「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」の当日券情報を、当日の11時に公開いたします。前回と違い当日の発表となります。お間違えのないようご注意ください。毎日11時、チェックしてみてください。また、前売りも販売中です。ttp://precog.shop-pro.jp/ 『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』リピーター割引実施中!
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ところで最近、紙芝居を作った。大人向けとかじゃない。完全に子供のためのもの。「アーティー」にならないことを第一に心がけた。
なんで僕がそんなものを作ったのかというと、チェルフィッチュがこれまでに二度参加している(そして今年も「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」で参加する)
ブリュッセルのクンステン・フェスティヴァル・デ・ザールで、フェス会期中に行われる子供向けのプログラムとして、紙芝居が行われることになり、
まあ、地元日本ということで、僕がその話を書くことになったのです。絵は阿部伸二さんに描いてもらった 7月16日?日にアサヒ・アートスクエアにて開催される「吾妻橋ダンスクロッシング」にチェルフィッチュが出演決定!
吾妻橋ダンスクロッシング 2010
スポーツが嫌いってかいてたからから以下の質問したら以下の答えが返ってきたけど
どういうことなんだろう?
身体性を注目してるのにスポーツが嫌いというのは
ルールがあるからということでしょうか
Commented by chelfitsch at 2010-06-26 22:12
僕はスポーツというのは身体性と関係ない気がします。関係ないかもしれませんが、
「芸術的なプレー」ていう慣用句がありますけれども、あれほど雑な言い方もないですよね。 先日の新聞記事「ロストジェネレーション」ですが、これには正直参りました。
何だか自分がえらい苦労人みたいになってて、自分でも記事を読みながら思わず「この人大変だなー」て思ってしまいそうになりました。苦笑の事態だったです。
小劇場演劇とかやってる人間にとって、大学卒業してから23歳から10年間バイトするなんてのはごくごく普通のことで、断言しますがこれは世代とは関係ないです。
「ロストジェネレーション」の企画意図の説明とともに取材依頼が来たとき、
僕が昨年末フリーターのことをテーマにした演劇を上演したので、その文脈でこの依頼が来たのだろう。公演のことがフィーチャーされた記事になるのだろうというつもりで取材に応えました 確かに自分のこれまでのことも、訊かれたので話しましたが、まさかあそこまで僕自身がフィーチャーされた記事になっているとは思いませんでした。読んだ時は恥辱を受けたと言っていいような感情を覚えました。
しかしそれが、雑誌等と違って取材を受けた側が校正をさせてもらえない特性を持つ新聞というメディアなのですよね。今は迂闊だったと後悔しています。小説家の中村文則さんの「損している世代だと思う」という発言が記事の中に使われていますが、例えば僕は取材の時
「僕らより上の世代は一旦バブルの恩恵を受けて、その後ズドンと地に落とされて、それって辛いんじゃないかと思うけど、僕らは最初からそんな恩恵受けてないから逆にそういう辛さはないぶんラッキーだと思う。」
というようなコメントをしたりしています。でもそれは使われませんでした。 もう一つだけ言わせて下さい。取材の日、僕の家のそばの駅で新聞社の方と待ち合わせをしました。
そこには黒塗りのハイヤーが停まって僕を待っていました。いつも自分が散歩しているエリアをこのハイヤーに乗って移動して、海沿いで写真を撮ったり公園で写真を撮ったりしました。
取材してくれた記者の方はきれいなスーツを着て、ブランドもののバッグを持っていました。車に乗るときも車から降りるときも白い手袋をつけた運転手がドアを開けてくれました。そんな風にしてあの記事は書かれています。 ここにあるのは、ただの風俗である。それも、風俗という名の抽象でしかない。それにかろうじて実態を与えているのは、俳優、樹木希林の存在である。この人は、いかなる抽象をも拒む肉体を持っている ヒトラーは「我が闘争」の中で世界には3つの人種がいると書いている。 1つは「文化創造種」、2つは創造種の創った文化に従う「文化追従種」。
そして、これらの文化を破壊する「文化破壊種」。 彼の定義によると、一等種(文化創造種)はアーリア民族のみであり、
日本人や他の民族は二等種(文化追従種)に過ぎない、と書いている。 そして、3番目の文化破壊種はユダヤ人だと書いている。 美は恐ろしいですよ。女も恐ろしいけど……。
ただ市民は美を恐ろしいと思わない人種だと思うんだが、やはり市民は電気冷蔵庫の
デザインが美しいとか、1951年型の自動車のデザインが美しいとか、そういう
怖ろしくない美しか理解しない。自分の生活を脅かすようなものを決して美しいと思うな、
というのが市民の修身です。やはり美に脅かされるということが芸術家で、市民になれない
最後の一線でしょう。
外国で流行ったという話を聞いてきただけであったり、
他社のサービスを安易に真似したものであったり、
何かと何かのツギハギ合わせで中身が薄っぺらかったり、
プレゼンを通すことを主目的としている話だったり、、と。
以前プリクラを含めたセルフポートレートのブームがありました。
写真記録によって不定形な自分を輪郭付けて自意識を補完する動きですね。
でもプリクラはみんなに見せるものじゃなく、自分が気に入った相手にだけ話のネタとして見せるものでした。
それをみんなに見せるのは反倫理的な感じがするんですよ カンヌの人たちが誉めるのは、オリエンタルエキゾチズムということで理解できますが、
日本人が本気で誉めているのだとすれば、何が現実なのかという現実感覚が失われているというしかありません。
これまた昨今の劣化を示す現象でしょう。 現実逃避型症候群におかされている多くの日本人の状況と、まったくみあった形で大量生産される推理小説では、日本の現実や社会矛盾は殆んど描かれない。
そのうえ、読者の読解力や想像力が低下して、小説の味わい方が浅くなっていることが加わって 腕力があって、筆力ではないのだ。女性作家までが、腕力で書いている。男女ともに、無理なストーリーを、腕力でねじふせて、小説にしている場合が多い。
長編小説を書くには、もともと腕力も必要だが、それ以上にイメージがいる。長丁場を持ちこたえるだけのイメージを、それぞれの作者は、いちおう持っているらしい。だが、自分の書いているイメージを、読者に適確につたえるには、筆力が必要だ。
それが乏しいから、過去の日本をえがいても、現在の日本と見わけがつかない。外国のある地方から、別の地方に移っても、おなじところにいるように思える。
せっかく、おもしろいアイディアをとらえながら、すぐに易につく傾向があるのも、筆力不足が原因だろう。異常心理の物語がたちまち、ありふれた犯罪小説になってしまったりして、とかく包装が新しいわりに中身が古い。
ノンシャランな作品とか、暴力シーンの多い冒険小説には、じつはとくに抑えのきいた知的作業が大切であるのに、それがこの作品には感じられなかった。 作家は錬金術師だ。原料(事実)がなければ何も生み出せない鋳造工のジャーナリストとは異なる。事象として立ち上がっていなくても社会に流れる見えない風。
それを感知し、フィクションの作品に仕上げる。読者はそこに「真実」を発見し、感動し、社会や自分を見つめ直し、時には人生の指針すら手にする。 人類が種を保存し続けてこられたのは、救済者としての「神」を発見あるいは発明出来たからにほかならない。
だからこそ、「神」を殺した理性が実は戦争の世紀を生んだ現実を前に、人類は立ち竦むしかないのだ 作家の役割とは、原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げていくことだと考えている。「物語」は残る。それがよい物語であり、しかるべき心の中に落ち着けば。
インターネットで「意見」があふれ返っている時代だからこそ、「物語」は余計に力をもたなくてはならない 今はブログで誰もが無責任に意見を出し、
匿名の悪意がたちまちネットで結集する。
知識や意見は簡単にペーストされ使いまわされる。
スピードとわかりやすさが何より大事になる 原理主義の問題にもかかわる。世界中がカオス化する中で、シンプルな原理主義は確実に力を増している。こんな複雑な状況にあって、自分の頭で物を考えるのはエネルギーが要るから、
たいていの人は出来合いの即席言語を借りて自分で考えた気になり、単純化されたぶん、どうしても原理主義に結びつきやすくなる。スナック菓子同様、すぐエネルギーになるが体に良いとはいえない。自力で精神性を高める作業が難しい時代だ。
家の役割とは、原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げていくことだと考えている。「物語」は残る。それがよい物語であり、しかるべき心の中に落ち着けば。
例えば「壁と卵」の話をいくら感動的と言われても、そういう生(なま)のメッセージはいずれ消費され力は低下するだろう。
しかし物語というのは丸ごと人の心に入る。即効性はないが時間に耐え、時と共に育つ可能性さえある。
インターネットで「意見」があふれ返っている時代だからこそ、「物語」は余計に力を持たなくてはならない。
テーゼやメッセージが、表現しづらい魂の部分をわかりやすく言語化してすぐに心に入り込むものならば、
小説家は表現しづらいものの外周を言葉でしっかり固めて作品を作り、丸ごとを読む人に引き渡す。そんな違いがあるだろう。読んでいるうちに読者が、
作品の中に小説家が言葉でくるみ込んでいる真実を発見してくれれば、こんなにうれしいことはない。大事なのは売れる数じゃない。届き方だと思う。
9・11の事件は、僕は、現実の出来事とは思えない。そうならなかった世界というのは、どこかにあるはず。
今いる世界は本当にリアルな世界かどうかということに、常に僕は疑いを抱いている。こうではなかった世界もどこかにあるはずだ、という気持ちがどこかにある」と胸のうちを明かした。
「ポスト冷戦の世界というもののあり方を僕らは書いていかないといけないと思う。
でもそれは、どれだけリアルに描いても書ききれないものだ。ではどういう風に書くかというと、メタファーで書くしかない
「僕はあまり日本語の日本語性というものを意識しない。よく日本語は美しいという人がいるが、僕はむしろそれをツールとして物語を書いていきたい。非常に簡単な言葉で、非常に複雑な物語を語りたいというのが、僕の目指していることだ グローバル化の中で実学志向が強まり、すぐに役立たないとみられるものは排除されていく。 ここ彼岸百貨店は資本主義の彼岸ですので、妄想と快楽以外の商品は扱っておりません。皆様とはお金で買えないものを取引いたします。
小説家は贋金作り、錬金術師の仲間です。私は日々、無限の妄想と永遠の快楽に奉仕しています。
作りたいもの、やりたい事で すでに誰かが偉大すぎる業績を挙げていて一からモノを作るってことが
できなくなってるんじゃないかな。
この本の著者だちにしても僕にしても、自分の仕事で未踏の大地を切り開いて
いくって感じじゃなく、先人の偉業におんぶにだっこ、そしてそれを
ちょっと加工しただけで何かなし得た気になっているという…。
そういう意味では昔の人たちのほうが精神的に恵まれてて羨ましいよ。
合理化されたり新視点が盛り込まれたりして確かに進歩はしてるん
だろうけど原点を見失ったんでは本末転倒だよね。これまさに日本の
惨めな知的状況であり日本人の意識構造と関わってる気がする。
大袈裟なとこに話持っていくけど、先の大戦に負けたのはこういうところに
原因があったんじゃないかって思ったりもする。
米軍は日本軍のワンパターンな戦略に呆れてたって会田雄次が言ってる。
創造力を養う土壌がないんじゃないかなあ、日本って。
電子計算機を使ふ人間が、ともすると忘れてゐることは、電子計算機の命令に従つて
動くのはよいが、人間は疲れるのに、電子計算機は決して疲れない、といふことである。
人間にとつて、疲労は又、生命力の逆の証明なのだ。
三島由紀夫「クールな日本人(桜井・ローズ戦観戦記)」より
テレビによつて、いくらでも雑多な知識がひろく浅く供給されるから、暇のある人は
テレビにしがみついてゐれば、いくらでも知識が得られる代りに、「中国核実験」と
「こんにちは赤ちゃん」をつなぐことは誰にもできず、知識の綜合力は誰の手からも
失はれてゐる。無用の知識はいくらでもふえるが、有用な知識をよりわけることはますます
むづかしくなり、しかも忘却が次から次へとその知識を消し去つてゆく。
いま情報テクノロジーの支配する社会で、もっとも痩せているのが、「文学の言葉」です。「ケータイ」とインターネットの表現が、この国の人間の表現をおおいつくす時代が遠からず来る、
それが老作家のペシミズムです。しかも、そこに大逆転の時がありうる−世界的にその徴候が見えている−という思いも棄てられません。
そうなれば、若い層から実力ある働き手の層にまで、知的で柔軟な、言葉の革新をなしとげる新種族が登場するはず、と私は信じます。その革新の手がかりとなるのが、
この国の近代化でつねにそうであったように「文学の言葉」だと続けると、我田引水にすぎるといわれるかも知れません。
しかし、漱石のみならず、諭吉も、まず「文学の言葉」の人だったと考えて、かれらのもたらした流れを辿り直してはどうでしょうか?
私は永く「文学の言葉」で生きてきました。そしていま、社会の表現と認識の言葉をリードしてゆく層の人たちが、「文学の言葉」と無縁になっているのを実感します。また外国の知識人が、日本の知識人の言葉をどこに見出せばいいか、戸惑っているのにも気付きます。
私は自分の晩年の仕事をやりながら、T・S・エリオットの「老人の愚行(フオリー)」という言葉に挑発されていました。生きている内に自分の名の文学賞を作るなど、
その一種ですが、死んでからではやることができないと思いきって引受けました。私は、いまも注意深く見れば創られている、
力にみちた「文学の言葉」を、知的な共通の広場に推し立てたいのです。上質の翻訳にして世界に向けても押し出します。
そして、この国でも海外でも、あの「文学の言葉」に共感した、ということが相互理解のきっかけだった、善き時代をよみがえらせたいとねがいます。
肩書きや身分を過剰重視する人がマジョリティだが、本質を伴わない場合も多々あるから、よく知らない人間をごく少ない情報で査定するのは、やはりリスキィだ。
確実に信じられるのは、自分自身の筋力、反射神経、スピリチュアルフォーティテュード 学者、弁護士、医師、法務公務員、上級サラリーマンなどは、この「親父の小言」を蔑視、軽視、理解拒否している奴が多い。
庶民と見なされるのを嫌い、資格や身分が「いのち」で生きているから、考え方、社会事象の捉え方が形骸的になる。
偏った精神傾向だ。
インターネットの情報に頼って生きている愚者と変わりがない。 パソコンなんざ電気なければ終わり。
資格、身分も無人島や大災害時というシチュエーションなら無意味。
都市でも地方、辺境でも暗くて ひと気のない空間は無人島か大災害時の無秩序状態と同一。
一方、筋肉と反射神経を基本に安い国家観や社会観で生きている男共も無人島や危険空間に身を置いたら生命リスク大だ。
なんとなれば愚かだからである。 大多数は教養が無い。 危険空間では淘汰される。平和、無事な日本に暮らしている事に感謝すべきだ 電子書籍は、グーテンベルク以来の文字文化の革命であり、大きな可能性を持つフ
ロンティアです。電子書籍の波を黒船にたとえて既得権益に閉じこもったりせずに、
さまざまな利害関係者がともに積極的に関与し、読者に対し、紙書籍では不可能な付
加価値の高い作品を提供することを目指したほうが合理的であり、出版、ひいては経
済の活性化につながると考えます。
放送されたドラマを見て、こんな意図があったのかと書いた自分が気づくようなときです。
これは無意識の魅力なんですね。
僕なんかはなるべく無意識で書こうとしています。
無意識から出てくるものというのは、通念や一般論じゃないんですね。
ドラマを書いていると、どうしてか構成がゆがんでくることがあります。
思ってもみなかったところが、長くなってしまう。
構成全体から見たらおかしいのだろうけれど、長くなってしまうシーンがある。
プロデューサーやディレクターは正論で、ここがゆがんでいると指摘してきます。
そういう指摘は正しいのだろうけれど、一般論、通念なわけですね。
だから、僕はなるべく、無意識に書いてしまったものを大切にしたい。
わたしが好んで駄洒落や地口や語呂合わせなどのコトバ遊びを多用するのはコトバがコトバの指し示す実体よりも権威を持つその魔性(これはほとんどの場合、非合理な権威が私たちに向かってなにかを命令するときに生ずるが)に対する反抗といえる。 ブッテンブローグ家の初代はお金を求めた。2代目は金持ちの子として生まれ、社会的地位を求めた。3代目は資産と地位の中で生まれて音楽を求めた 敦夫様スレ、一路真輝スレ、そしてここ。
3大一人芝居スレ 知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な
もののどちらを欠いても理想的な芸術ではない。
芸術の根本にあるものは、人を普通の市民生活における健全な思考から目覚めさせて、
ギョッとさせるといふことにかかつてゐる。
ちやうどギリシャのアドニスの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から
生れてくるやうに、芸術といふものは一度死を通つたよみがへりの形でしか生命を
把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ点では文学も古代の
秘儀のやうなものである。収穫の祝には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅も
そのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。
そういえば、平田オリザはまだ民主党のアドバイザーみたいなことやってんのかな。 認識と創造の苦悩との呪縛から解き放たれ、幸福な凡庸性のうちに生き愛しほめることができたなら。…もう一度やり直す。しかし無駄だろう。
やはり今と同じことになってしまうだろう。−すべてはまたこれまでと同じことになってしまうだろう。なぜならある種の人々はどうしたって迷路に踏み込んでしまうからだ」
ギ・ド・モーパッサンと比較されるが、伏線を計算して配置するプロットに技巧を凝らした小説にはあまり関心をもたなかったとされる。モーパッサンが出来事に焦点を当てたのに対し、
チェーホフは人物に目を注いだといえるかもしれない。典型的なチェーホフの物語は外的な筋をほとんど持たない。
その中心は登場人物たちの内面にあり、会話の端や細かな言葉、ト書きに注目するほかない。 社会的にネガティブとされる緩さや貧しさや小ささを自覚することが、実は強さになる。かつては小説に新しいものが書けるという進歩史観があったが、今も新しさがあると思うのは状況に対する勘違い。
希望があることは、人をゆっくりと考えさせない。静かにすわって考える“たそがれ”から文化が始まる。否定的なようで、実は小説の出番だとも思っているんです」
「冷戦終了後、国家が主導するような大きな物語・イデオロギーは終了し、
近代的な成長がひとまず頭打ちになった後、いろいろな問題や矛盾が出てきました。
人々は個々人でそのような問題や社会と向き合い、付き合いながらさまざまな小さな物語を生み出すようになりました。
このような時代は、高度資本主義社会、高度情報化社会、ポストモダン、多文化主義など様々な言葉で語られていますが、
生き方や考え方が多様化した時代と言えるのでしょう。
このような大きな物語や太文字の歴史が終わったという時代に、では人々はどのように生きていくでしょうか。
まず1つは「動物的な生活」
→アメリカ的なライフスタイルで物質的に満たされて生きていく(テレビ・ジャンクフード・公園・ジョギングなど)
もう1つは「日本的スノビズム」
→空虚な時間を空虚に過ごす生き方
大きな物語が終わった後、いっけん多文化主義や小さな物語がたくさん生まれて非常に多様化や自由化が進んでいるようにみえるが、
一方でグローバリズムの旗のもとに西欧列強国のいまだ弱者への搾取はつづいており、情報化のスピード化と世界中への浸透ぶりによって、ますますそれは加速している。
そしてそれは、女性・こども・非欧米文化など西欧のマッチョな近代にとってはマイナーな文化や共同体に対しても同様で、
(いっけんジェンダー論・性差論や脱植民地主義・ポストコロニアズムという思想が、そういったことを克服するために生まれてきた思想であるにもかかわらず)
結局は西欧の利権主義に優先され利用される形で、機能しているという、かなり自虐的な発言をしていたことでした。
また、日本のアートのあり方については、3つのあり方があると分析していました。
1、イマージナルアート(周辺アート)・・・全ての人が創作者であり、自分のために創作する
2、ポピュラーカルチャー(ハリウッドなど)・・・大衆に向けて作られる芸術
3、ハイカルチャー・・・一部のエリートがエリートのために創作するアート
消費者の変化が論じてあります。60年代以前は禁欲的、プログラム的で消費者の「顔」が見えない生産至上主義な時代、それに対して70年代は多品種少量の時代で
人々が自分をかけがえのない人格として自己固有の趣味を形成し始めた時代としています。衣服は「着れればそれでいい」からデザインを気にするようになり、
消費動機も機能よりデザイン・イメージを重視し、消費の過程を楽しむ時代であると主張し、筆者はそれを、他人と触れ合いつつ柔軟に自己を形成していく「柔らかい個人主義」として支持しています。 オリジナリティというのは目新しさのことではない。冒険と芸術ってちょっと似ているところがあって、
アフリカのキリマンジャロに後ろ向きで登った人がいるんですけど、これはただ奇抜なだけでセンスがない冒険なんです。
平田 山に後ろ向きに登って、ほほうと感心はされても、感動はしてくれないんですよね。そして若者たちが、俺もやりたい! とは思わない。思わないでしょ?
平田 そういう冒険にはセンスがない、価値がないんです。驚かせることも悪くはないんですよ。ただ、本当に価値のあるオリジナリティというのは追随者が出て、それをやるのが、いずれ当たり前の空気になって、
最終的には誰が始めたか分からなくなるようなものなんです。でも、これを見つけるのは全く予測不可能なんですよ。
猫は何を見ても猫的見地から見るでせうし、床屋さんは映画を見てもテレビを見ても、
人の頭ばかり気になるさうです。世の中に、絶対公平な、客観的な見地などといふものが
あるわけはありません。われわれはみんな色眼鏡をかけてゐます。そのおかげで、
われわれは生きてゐられるともいへるので、興味の選択ははじめから決つてをり、
一つ一つの些事に当つて選択を迫られる苦労もなく、それだけ世界はきれいに整備され、
生きるたのしみがそこに生じます。
しかし人生がそこで終ればめでたしですが、まだ先があります。同じ色眼鏡が、
ほかの人の見えない地獄や深淵をそこに発見させるやうになります。猫は猫にしか見えない
猫の地獄を見出し、床屋さんは床屋さんにしか見えない深淵を見つけ出します。
想像力の煮えたっている国ですよ。一方じゃ刀をふりまわす、一方じゃ文化創造力が煮えたっている、つまり、エリザベス朝時代ですね」(朝日新聞 昭和45年9月22日付)
日本はこれからモダンのおさらいをしなければならないと思う。かつて丸山眞男は、日本はプレモダンからポストモダンに飛躍を果たしたかもしれないと書いたが、それは間違いだった。日本型の国家資本主義は、
一時は成功モデルだと思われたが、やはりだめだった。残念ながら、いったん近代の個人主義を通過しないと日本は成熟できないと思う。
ヘーゲルを巨大な「近代」としているのに対し、フーコーを巨大な「現代」と対比させている点。また、サルトルを「間違った」マルクス主義者としているのに対し、花田清輝を「惜しい」マルクス主義者、さらには、埴谷雄高のことを「誤った文筆家 意志と行動が反射的に直結しているのが動物。意志と行動との間に思考が入って少しずれるのが人間。
そして老人は、頭の中に奔流の如き意志がある、言葉があるのだが、それが行動に出るまでに時間がもっと掛かる。意志と行動との間の時間が動物と人間とを区別するなら、もっと時間が掛かる老人はなるほど「超人間」だ。
友人同士でひっきりなしにメールで、いつまでも他愛ないおしゃべりを続けていても、言葉の根も幹も育ちません。それは貧しい木の先についた、貧しい葉っぱのようなものです。
about 21 hours ago via twittbot.net .沈黙とは、内心の言葉を主体とし、自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し、問いかけることがまず根底にあるんです。
about 22 hours ago via twittbot.net .言葉はコミュニケーションの手段や機能ではない。それは枝葉にあるのであって、根幹は沈黙だよ おなか減っても、 文化的なものが欲しいとか、 この小説が読みたいとか、 そういうことのほうが 明日食べるもんが心配だなぁっていうときでも、 真っ先の欲求だってことは‥‥あると思う。 昔のことと今のこと、 実相に近いことをちゃんと言えて、 考えられている、 そういう人がいたら、 それは教養のある人だというふうに 言えると思います。 吉川英治の物語性の背後には、日常的な、ごく普通の生活から発する好奇心
があるのではないか。日常生活を送りながら体験するさまざまなこと。どんな
ことでもいい。あの時にけんかをしたら涙がこう出たとか、いや別な女はこん
なふうに涙をためたとか、そんな日々の生活の機微に大そう惹かれる気持ちが
物語性の細部を成り立たせている。
純文学作品だったら、それは第二義的でいいと思うようなささいなことかも
しれない。でも本当は大事なことなのだと思う。
研究者が決して言わないこと、文学者で現代語訳した人が決して言わないこ
とを言っています。それは何かというと、『源氏物語』は古典なんですが、現
代小説の条件を全部もっています。作者というレベルがあり、作品の中の登場
人物というレベルがあり、作品の中で登場人物の振る舞いを説明している文章
のレベルがあって、もうひとつ作者の主観的な考え方が幾分か含まれている登
場人物の言葉や、登場人物を説明する言葉がある。この四つを考えると、現代
小説はだいたい論じられるんですが、『源氏物語』にはそれが全部揃っていま
す。近代あるいは現代私小説の条件を全部もっています。その意味では大変な
作品だと思いますが、それだけのレベルはもっているわけです 男女の恋愛関係のなかでいちばんむずかしいのは三角関係なんです。三角関
係というものを最後まで追いつめていくと、どうしても死ぬか生きるかといい
ますか、相手を殺してじぶんの恋を成就するか、それじゃなければじぶんが死
ぬかというようなところに追いつめられるほどきついものです。
一人の女性をめぐって二人の親しい人間が葛藤するのが三角関係の小説で、
これは不倫小説とか浮気小説とはまるで違います。何が違うかというと、二人
が親しいこと、もしかしたら広い意味での同性愛に近いかたちで親愛感をもっ
ていることが三角関係小説の大きな特徴です。これがなければ、単なる姦通小
説で、トルストイの『アンナ・カレーニナ』とかフローベールの『ボヴァリー
夫人』みたいな小説になりますが、漱石が書くとそうはならないで三角関係小
説になってしまいます。
つまり三者三様にギリギリに追い詰められて、『こころ』の場合では親友は
自殺し、自分は下宿の娘さんと一緒になって暮らしますが、やがて年を経て明
治の終わりとともに先生も自殺して終わります。つまり、三者三様に自滅して
いくようにもっていく。大なり小なりそれが漱石の主題になってきます。
桑原武夫の意中にはたとえばバルザックの長編小
説やドストエフスキーの作品があったのではないかとおもう。小林英夫は作者
名も出さずに俳句を並べてみせれば芭蕉の俳句も常識的な俳人の作品もさして
区別もできないというが、それは芸術の価値を内容の複雑さや形式的な大きさ
と勘ちがいしているのだ、芭蕉の詩魂は並の俳人に負けやしないと、バルザッ
クやドストエフスキーの魂のリアリティにも負けないのだという考え方を述べ
た。私には優劣の論議の仕方が不充分だと思えるので要約すれば、作品の意味
内容と作品の芸術的な価値とは別概念で、混同して論議はできないということ
に帰着すると思える。 【読売】山崎正和氏「ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある」
1 :Ψ:2011/01/10(月) 16:24:03 ID:MFaHZaXSO
もう一つ心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、
知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、
「責任を持って情報を選択する編集」が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。
ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある。
澁澤龍彦は著書、快楽主義の哲学で技術発展は決して幸福には繋がっていないという持論を記述していました。
例えば今は電話などの通信手段が発展して都会に住む息子と連絡が取れるようになったのだから、
技術発展は幸福をもたらしたという理屈がありますが、これに対して、そもそも通信手段が発展しなければ息子が地元から離れることはなかったはずだ。という反論です。
貴方は技術発展が幸福を生み出したと思いますか?思いませんか?
補足衛生学の進歩に関しても小児死亡率の減少に伴い妊娠中絶や虐待が行われており、
寿命の上昇は老人の自殺や孤独死の原因、若者への負担になっています。人が死ななくなることでさえ社会全体とその個人にとっても幸福に繋がるとは思えないと言及されています。
吉本隆明は加藤の雑種文化論に対して「さしずめ、西欧乞食が洋食残飯を食いちらしたあげく、伝統詩形に珍味を見出しているにすぎない」と1958年のエッセイ「三種の詩器」で評した シナリオ理論の権威、シド・フィールドの教科書どおりに
脚本が構成されているので驚く。
アメリカにおいてシナリオはまったく芸術性を考慮されず、
おそらく工業製品みたいなものなのだろう。
映画はなんのために作るのか? できるだけ多くの金銭を儲けるためである 福田恒存の「現代国家論」の一節を思い出した。
「端的に言えば、大東亜戦争は罪悪なのではなく、失敗だつたのである」。
福田恒存は、そのように述べたうえで、大東亜戦争を単に「悪」として捉える非論理的な否定論を「綺麗事」と斬り捨て、逆にこれを「善」に高めんとする肯定論を「居直り」と喝破した こんな本が見つかった。荷風もまさかパソコンの画面上で読まれるとは思ってもいなかっただろう。大掃除をしている時に、畳の下に古新聞があり、その記事に目が行って、しばし手を休めているといった風情である。
この本に出てくる言葉で気がつくのは、ドブの匂い、蚊音、西日などであるが、いずれにしても死語の類か。大震災で江戸の風情はなくなり、新興国家としての日本の隠れた部分を表象している文学とでも言えようか 、砂をふるいにかけて砂金が現れてくるのを待つ感じと、意外な疾走感が共存してる。 <いきいきとした人生>だの、<エキサイティングな東京>だのといった勝手なラベルを貼られて、バラバラの動きをする個体は、まさしく「ゾウガメ」だね、とか。
言語化しがたいプレッシャーをやりすごすべく<進化>させた<日常>をあえて「ソニックライフ」と呼ぶ。 神奈川芸術劇場行ってきた。やけにわかりやすいできだった。あ、チェルフィッチュね。
それよりも神奈川芸術劇場、新設なのにトイレが少ない。ロビーフロアの吹き抜けのために、トイレを削りやがった。
きちがいか、この劇場建てた奴。
動線もわかりにくいし。案内役のコストを考えればサインをつければいいことなのに。
きちがいか、この劇場の運営者は。
なんかね、ちがうんだよ。劇場って感じじゃない。
ひとの匂いがしないんだよ、ここ。
二度と行くもんか。
こんなところで公演するなよ、岡田。
十代の頃に『カラマーゾフの兄弟』と『ジャン・クリストフ』と『戦争と平和』と『静かなるドン』を三回ずつ読んだことを思えばまさに昔日の感がある。当時はなにしろ本というのは量があればそれだけで嬉しくて、
『罪と罰』なんてページ数が少なくて物足りないと思っていたくらいのものである。その当時に比べれて---年をとって一冊の本をじっくり読むようになったという事情はあるにしても---読書量は五分の一くらいに減っているような気がする。
朝ナマで僕の横にいた女史が「小泉さんの新自由主義が…」と言ったのであえて遮りました。そういうイデオロギーで決めつけると何も生まれない。
事実にもとづいて説明しないと。改革できたこと、途中までしかできなかったこと。何でもホリエモンがいけなかったという言い方と同じですね。 優しさは)本能ではない。だから私達は訓練をしてそれを身につけねばならないのである。その訓練とは簡単なことである。例えば、友達が転ぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持を、
そのつど自分の中で作り上げていきさえすればよい。自分に厳しく、相手には優しく。いたわり。それらを訓練する。訓練することで自己が確立されてゆくのである。以上のことは、いつの時代になっても、
人間が生きていくうえで、欠かすことができない心構えというものである。(司馬遼太郎)
のこの権力集団が、いざ兵器となると、技術本部を脅し上げてまで自己の卑小を守り続けたのは、財政の窮屈さという束縛があったからだというものではなく、元々この権力集団がいかに気が小さく、貧乏くさく、
『国際的水準』という眩しい白日(はくじつ)の下の比較市場に自己を晒し出すことが恐ろしく、
むしろ極東の片隅で卑小な兵器をコソコソと作ってそれを重々しく『軍事機密』にして世界に知られないようにするという才覚の方へ逃げ込んだと見る方が、当時の日本国家の指導者心理を見る上で当たっているように思える」。
最も新しい事実とは、いつか必ず古くなる事実のことだ。昔書かれ今も読み継がれ愛される古典と呼ばれるものには古くならない永遠の命がある。情報と真実の違いといってもいいだろう」 私は野球を自分で遊ぶことは楽しいが、見るのは、そんなに好きでない。単にそれだから云うわけではないが、ほかに見ること為すことタクサンあるのに、なぜ、
あんなにタクサンの人間が野球を見物しているか、ということだ。つまり、流行だからである。新聞が書きたてるからだ。面白くても面白くなくても、かまわない。流行をたのしむ精神である。
これを私は集団性中毒と名づけて、初期の精神病と見るのである。麻薬中毒や宗教中毒は二期に属し、集団性中毒はこれよりは軽く、一歩手前の状態である。
自分で見物したいと意志してはいるが、根本的には自由意志が欠けている。好きキライをハッキリ判別する眼力が成熟せず、自分の生活圏が確立されていない。
新聞の書きたてるものへ動いて行く。動いて行くばかりで停止し、発見することがない。これがこの中毒患者の特長である。
織田作之助はヒロポン注射が得意で、酒席で、にわかに腕をまくりあげてヒロポンをうつ。当時の流行の尖端だから、ひとつは見栄だろう。今のように猫もシャクシもやるようになっては、彼もやる気がしなかったかも知れぬ。
私は、制度化された耳、制度化された目、制度化された肺、制度化された皮膚、制度化された身体…から逃れるためにボイコットしました。いわゆる、大量消費音楽、TV、タバコ、石鹸、薬…etcを 60〜70年代は、過剰的、非日常的、イデオロギー的だったが、その反動で80年代はそれらをなくそうとした。90年代は、さらに日常を取り込み日常的な身体を追求してきた。
演劇を変えるため、日常をひっぱってきた。だが、日常そのものを疑う、解像度を疑うことはされていない。舞台で日常をやる「はしり」、だがそれさえ嘘だからそろそろ変えていきたい。
裏原ってのはファッションというよりデザイナーがロゴ作って売ってただけ。
客は洋服を着るというより、ブランドそのもののイメージや希少価値を追ってた感じ。
そのブランドっていうのも歴史も背景も必然性も特にないから、要するにビックリマンシールとか
遊戯王カードを集めるような感覚で一部は熱中してた。ある意味で非常に日本らしいブームだった。
小林秀雄は、「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない」と言い放った。
適切な想定を考えるのが学者の仕事
想定の範囲内で働くのが技術者の仕事
想定を超えた事態に対処するのが政治家の仕事
「僕は何ていうか、無節操に人が集まるのは嫌いなんです。エイド物とか。」
●エイドばやりの85年は坂本さんにとって気持ちが悪い年だった?
「保守も革新も一緒になって人類平和を歌うみたいなノリでしょ。そう言うのはよくないですねえ。
不愉快ですねえ(笑)ああ言う大義名分に自分を参加させちゃうと、日常のシビアさが失われて思わずノッちゃう
気持ちはわかるけど。
恐らく僕の場合、70年代の後半に一回そういう事をやってるのが大きいかも知れない・・・現在やっている人は
政治的じゃなかった奴なんだよね。そういう事をする気持ち悪さを知らないんだよ。
アフリカ問題が人の善意で解決できる問題じゃないって事ぐらいみんな知っているはずなのにね。
で、どうしてそう言う流れが出てきたかというと、恐らく今の音楽に余りにもメッセージがなくなってきた、
その反面と言う事もある。
歌には必ず歌詞がなくっちゃいけないんだけど、みんな歌いたい事なんかないんだよね。
歌いたい事なんかないから音楽外の『アフリカ』みたいな動機付けが必要だと思うんだよね。
この間友人のシンガーのT・Yが言ってたんだけど、『音楽ってのは、歌詞さえなければこんなに
楽しい物はない』って(笑)。」
(坂本龍一:1985年)
柴田元幸さんが解説で、コンラッドのユーモアについて〔シリアスな状況をとことんシリアスに見つめることでコミカルな要素が見えてしまう〕と指摘している 太陽の塔をつくった岡本太郎は「人類の進歩と調和」という
大阪万博のテーマに反対していたそうだ
「人類は進歩なんてしていない
たしかに宇宙に行く科学技術は発達したが
肝心の宇宙を感じる精神が失われているじゃないか」と
人類は進歩なんかしていない。なにが進歩だ。縄文土器の凄さを見ろ。皆で妥協する調和なんて卑しい” - 岡本太郎「太陽の塔」で能天気な未来志向の万博を否定してた <メロディーにコアが無い?>
そういえば、あまり感動的な音楽に出会うことが少なくなった。
「君も歳だろう」と言われれば、そうかもしれないと思うこともあるのだけど、
最近、やっぱり、そうでもない気がしている。
どうにも、メロディーにコアが、少ないのだ。いや。何と言っていいのかな。
どうも、メロディーにフェイクばかりが、目につく。
そんなに、最後の芯まで、辿り着いた形跡が見えないのだ。
音楽家に感動が無ければ、致命的だ、と思っているから、
新しい良いバンドがあれば聞かなきゃ、とアンテナを張ってみるのだけど、
TVでは、まず、それは、見込めない。
たまに良いものもあるのだけど、聞きながら胸に手を当ててみると「歌詞のストーリー」に耳を奪われていたり、
アレンジの完成度に感心させられていたり、アンサンブルのタイトさだったり。
ある民族音楽の香りが、濃いことに翻弄されていたり。
まあ、総合力で、何か合格点に辿り着いているのを感じる
堀江を投資家として見ると、倒産企業、経営に問題を抱えた企業への投資が非常に多い。
価値の乖離に目をつけるバリュー型投資家と言える。
確立した企業を買う三木谷、成長性とバリューの両面をもつ孫正義との違い。
もし逮捕されず、1000億のキャッシュを持って経営を継続しても
大型の投資案件は先行する孫正義や三木谷とは勝負できない。
一方で中古車業界、食料業界(ユーグレナ)、宇宙事業など、異業種への志向が強い。
まだ新興企業的な合理化か進んでいない分野に、それを持ち込もうとしている。
なので、動画やブログなどのウェブ標準サービス(儲からない)に加えて、宇宙などの独自路線、
異業種への幅広いバリュー投資により、広く薄く収益を求める路線になったと思われる。 前田と演劇した、いわきの高校生たちは元気だろうか……。 は「つかしんは西武、西武と売っちゃいけない。いろいろなお店に入ってもらわなければいけないから」と言ってたんだって。
部下はそれを聞いて、ポスターにも「西武」という文字をまったく入れなかった。すると堤が「なぜだ」と訊く。
社員は、堤が西武を売り物にしちゃいかんと言うから必死に消したわけ。でも、堤の本意は「町をつくるときの精神は、西武、西武と前面に出ては困る。でも、その町の中に西武の店ができたら、
西武を打ち出していかなきゃならない」ということなわけ。その区別が伝わらないもどかしさがあったんだね。 ぼくは震災前は文学者や哲学者の非合理的なロマンティシズムをアホくさいと主張してきたが、
震災後は、TLに溢れる経済学者や法学者や経営者たちの合理的(悟性的)判断に対して、
悟性判断には内在的に(システムとして)限界があるというカント以来の
常識を投げ返したくてしかたなくなっている 商品やサービス、商環境において真に優れたデザインとは、単なる見かけの演出や広告戦略から生まれるものではない。消費者の幸福や社会的意義を十分に理解したうえで、
革新的な経営哲学を“かたち”として示す英知を持った企業だけがなし得るものだ。 彼にとって、鮮やかな色彩を持つ檸檬は、そのヴォリュームとか、
インパクトによって、気詰まりな(気取った、資本主義的に文化芸術を装飾品として売買し、人間の本質と
切り離してしまう)丸善に対するアンチとして感じられたわけです。
世俗をにくむ詩人であり、バランスシートを読む経営者――相反する2つの顔をもつ堤清二は、
100社を超えるセゾングループ企業に君臨する総帥として、何を考え、どう行動してきたのか。
時代をリードした「文化産業」の盛衰を克明にレポートして、その実像に迫る力作ノンフィクション
経営コンサルティングの手法としては『地域一番店戦略』が有名。
これは、1970年代に渥美俊一が唱えた『チェーンストア理論』の対局を為す小売戦略として、多くの地域小売業者に支持された。
都市研究・建築研究の方法論にも十分に自覚的なのである。
これは建築探偵学のみならず、人文・社会の学問にとっても、
その起死回生の秘訣となりうる言葉であろう。ただそのとき、「小錦だって……」
の一行の薬味(エスプリ)をつけ加えうるか否かが、生と死の分れ目となる。付け加えた
ことによって、藤森探偵の本はいきいきと生きて、“新人類文学賞”に値する作品となった。
http://www.eonet.ne.jp/~0035/memo1.htm 出版メディアの東京集中政策
http://www.eonet.ne.jp/~0035/memo2.htm 経済の東京集中政策
http://www.eonet.ne.jp/~0035/memo3.htm 堺屋メモ 4
http://www.eonet.ne.jp/~0035/memo4.htm
今、この車がこの形をしている理由は単純に祖先へのオマージュ以上のものではない。
今の技術でいにしえのフォルムを再現し、
消化させているデザイン力は認めるが、このカタチに必然性がないという以上
、”チンクェチェント”を超える車にはなりえないと思う ミニは当時としては極めて合理的な優れたデザインとして絶賛されたもしたが
現代において安易にその表層だけなぞった極めて非合理な模倣はナンセンスでグロテスクなだけ
大大阪はメタボリズムな官僚主義を産み、阪神間モダニズムは職住分離と都市流民を発生させ、大阪万博は一過性イベントの蔓延と、
それに依存する無責任なイベント産業を増長させてしまいました。
その亜流、真似事の都市構想、都市計画、都市イベントは今も続けられていますが、何もしても成功しません 開発メニューが山間地ならスキー場・リゾートホテル・ゴルフ場、
海洋リゾートならマリーナ・海を望むゴルフ場・リゾートホテルといった、
「3点セット」に終始した(このほかテニスコートなどがメニューに載せられることも多かった)
決まりきったメニューしか出てきておらず、「金太郎飴」との批判があった。
ホテルの不動産事業の投資家サイドと運営サイドのリスク分担の投資スキームは厳しい経済環境の中で信託事業化、
証券化等複雑化しており、それに係る諸条件(土地、建物、設備、あるいはFF&Eの保有及び追加投資等)も複雑に絡み合っています。
全ての郊外型ニュータウンに言える事ではあるが、
今後人口減少が見込まれる上に地価の下落でもっと近郊に住宅を買うことが可能となったので
ドーナツ化現象がストップし都心回帰の傾向にあり、ニュータウンは入居者の過剰な争奪戦状態になっている。
日本のポストモダニズムにおいて、村上龍はけっして主流にはならず、村上春樹の「風景」が支配的となった。……村上春樹は川端康成の現代版なのである。…」柄谷行人 高村は、母が芦屋出身。小さいころから、よく神戸に出掛けた。今も年に何度か足を運ぶ。訪れるのは山か海。街の中心部には行かない。
「恐ろしいほどきれいになったけれど、どこにでもある街になった」。復興の在り方、都市計画の貧しさを痛感する。
神戸らしさというのが、まちの雰囲気として消えていっている。大阪、東京とどこにでもあるようなまちの一つに神戸がある。
この原因は、神戸を知らない人が神戸を切り刻んでいるから。
神戸を切り刻むのは神戸をよく知った人でないと、本当の神戸らしさ、神戸文化は出てこない。
http://www.city.kobe.lg.jp/information/committee/innovation/proposal/kaigi_8.html
大阪への利便性でいえば新御堂沿いの北摂、住み心地で言えば断然阪神間かな?
富裕層文化の蓄積が違う。確かに北摂は乱開発によるマンションだらけになってしまって景観は余りにも寒々しい。単なるベットタウン化しているように思える。
住民もミドル層がほとんどだし、いい学校もない。もうすこしマンションに頼り過ぎない都市計画をしないと、密集化して狭苦しい街になっていくような。
阪神間も西宮(浜側中心)でも建設ラッシュが止まらず、眺望の殺し合いになっている。夙川や芦屋では、これ以上増えても学校も対応できないとの理由で
マンション規制を始めている。この規制のもう一つの狙いは、土地の希少価値を高めて、資産の向上を図るというもの。
少しでも多く高額所得者の流入を促し、税収を増やす狙い。ミドルをいくら集めても、文句が多い割りに税収が少ないという実情を表したもの。
姑息だが、それでブランド力も確かに高まる。というわけで北摂も流入制限して過密をとめないと、しまいに資産デフレが起きる。 この2地域で圧倒的に違うのは、交通の便だと思います。
梅田に出ることに関してはどちらもあまり変わりませんが、京都、三宮へ出るには
阪神間ですと、JR一本でいけますし、新大阪も一本です。それに、阪神、阪急、JRと3本も乗れます。
後、なんと言っても車の便利さでしょう。
はっきり、言って関西でこれほど幹線道路が通ってる地域はないのでは?
阪神神戸線、湾岸線、名神、国道2号線、43号線とありますので、
それほど大渋滞することがありませんし、どこへ行くにも便利です。
北摂の176号、新御堂の週末の渋滞にうんざりしてたもので、このことが非常に
快適です。
北摂が容積150%で阪神が100%とし、同じデベの同グレード、容積と価格以外は全て同条件マンションだとし、実勢地価が坪150万とし、阪神が5000万北摂が4000万だとします。
阪神の区分底地価格が2500万とすれば、北摂は2/3の価格で1666.6万です。マンションの基本価格は、底地区分面積なので、始めの価格は北摂の方が幾分安く感じますが、
資産減率は北摂の方が高いですね。まあ大雑把な計算ですし、公表地価も路線価も実勢価格からは大きく離れてるので、地元の不動産屋に通って調べなければ解かりません。
結論としては、地価が同じだから安い方が資産価値が高いとは限らず、損をする可能性も有るので緻密な計算をしなければ、解からないです。
政策のターニングポイントは、1972年だった。
徹底した持ち家優遇政策は、当時の首相である田中角栄の「人間は持ち家を持つほうが保守化するし、
ローンを返すために真面目に働くから、住宅政策は持ち家に絞る」「賃貸住宅に国民が住むと共産化する」という大号令の下に始まった。
終身雇用と年功序列賃金が保証されていた当時は、長期のローンに不安を覚えなかったことは想像に易い。
また、それまで一般的でなかった元利均等払いが普及し、返済開始時から比較的安い弁済金額で済むため、
多くのケースでローンが賃料よりも安くなったことも動機になった。さらには、当時の利息はインフレ率よりも低かったので、
返済を進めるうちに収入が上がって、多くの人が負担感が軽減される経験をした。不動産は必ず値上がりし、売却時には利益が出た。
南芦屋浜
阪神電鉄芦屋駅より芦屋川に沿って徒歩約30分、車では国道43号線から約7分、阪神高速湾岸線・南芦屋浜出口より約2分
阪神間の平地や山の手で鉄道の駅から半径500メートル以内の一種低層
エリアに60坪以上の土地をもっている人は、間違いなくプレミアムな
宅地資産と言えます。パイが少なく希少価値がひじょうに高いですからね。
人口減少と関西経済の縮小が確実でも、資産価値は維持されるでしょう。
背景には64年の東海道新幹線開通で、大阪−東京間が日帰り圏内になったことや
東名・名神の高速道路の開通があります。
大正時代や昭和初期の雑誌を見ると、かつては洗剤からお菓子まで、
箱根を境に日本の市場は西と東に分断されていました。
東日本と西日本は別の市場で、多くの分野で東西両雄といわれるメーカーが存在していたのです。
ところが、戦後は物流の能力が上がり、本州がひとつの市場になります。
西日本のメーカーが、東京勢に負け始めます。
日清食品、サントリー、住友グループのように、大阪から全国に勢力を伸ばす会社もありました。
しかし、その場合でも東京に本社を移して全国展開を図る例が多かったのです。
東京は、富を生み出す能力が無い人間が集まってるからじゃね?
公益法人やら、国家公務員やキー局などの利権がらみで日本中から金を集めて
金がダブついてるから高いのであって、土地が高いのは一種のインフレでしょ。 役人と議員だけじゃなくて
NTTとかKDDI、民放のテレビ局、大手土建屋、製薬会社とか
天下りを受け入れまくって、その利権と
「国の規制」という独禁法無視のやり方で
儲けてる企業は
全部既得権益と言うか
ある意味税金で食ってる公務員だと思う。
これまでの国産車市場は、トヨタの「安くていいクルマ」が主流となり、日産は
「少し高価でもより良い機能」で対抗し、ホンダも「技術力で夢を追いかける」姿勢が評価を受けてきた
トヨタは今後も“王道”をいくだろう。日産は一時大いに迷走したけど、ゴーン体制になって変わった
トヨタの焼き直しを止め、再びアイデンティティを取り戻してきた。
日産の復活と台頭が、日本車をもっと面白くしてくれるはずだよ。
しかし、ホンダにはどうも感心できない。彼らの体たらくを見ていると、僕は本当に情けないし、
残念でならないんだ。かつてのF1参戦やCVCCエンジン開発で見せたチャレンジ精神を
忘れてほしくない。シビック、シティ、ビート、アコードなんかは実に愉しく、
夢と技術力のあわさったクルマだったのに
ホンダは、創業者で技術の神様だった本田宗一郎さんの理念を見失ってしまった。
若さのかけらもない、中年だらけのメーカーだよ。国際的ビジネスという怪物に呑みこまれてしまい、
株価ばかりが気になって極端から極端へと方針が激しく動く。
しかも、それが思いつきで行なわれるんだから、開いた口がふさがらない。
徳大寺さん! 車でなくてチュルフィッチュの話、してっチュ? 岡田利規×森山開次の公演がありますが、通常のチェルフィッチュのときより料金設定が高いのは…
森山開次のギャラが高いってことですか?ダンサーにしては守銭奴? 公務員給与はアルバイト・無職を含めた労働人口の中央値を基準にしないと
格差が開けば開くほどうまみがある平均値だと売国政策ばかり実行して国力失うだけ
医学実習で人体解剖をしたときに、あまりにもその解剖図通りだったことに驚き、人体を構成する組織は全く同じなのに、なぜ人間の顔や才能や心は全然違うのかということから、非論理の世界に惹かれていったそうです。
非論理の最たるものは恋愛だと語る渡辺さん。
この作品のテーマが、植民地支配と被支配による民族意識、人種差別の問題、という紋切り型で片付ける人がいるが、そんな暴露趣味だけのものではないでしょう。人間の愛情、勇気、不安を掬い上げて見せた、器量の大きい傑物です。
自分を理解しないであろう他者に向かって、その共感を得ようと格闘してこそ、何を残し、何を捨て去らねばならないかが初めてわかり、
私はこのような劇作家だと自分をさらす決意がつくのではないだろうか。多くはそこで足がすくみ、無惨な妥協の産物を見せてしまう。だが、たまには勝利を得る。それは保障された自由ではなく、闘い取った自由だ。 このスキャンダラスであり続けることだけで、人間の興味を惹くというスタイルに、ちょっとだけ、まだ考えさせてくれという思いが強い。スキャンダラスなものというのは、演劇が持つ一つの属性には違いない。
だがテレビや昨今のインターネットが生み出している性風俗を中心としたスキャンダライゼイションは、われわれが今失敗しようとしている大消費文化の一環に過ぎないのではないか。
タブーを犯しているように見えて一番安全な社会との距離のとり方のように私には見えるのだ。 小説は会話がわざとらしかったり、ありきたりだったり、稚拙だったりすると物語全体の質を一気に落としますが、この作品の会話部分の完璧さは圧倒的ですらあります。粋な言葉のやりとりが極めて自然に交わされます。書かれていない言葉の奥の心情まで伝わってきます 日本画と油絵の違いは、油絵が石膏デッサンから入るのにたいし、日本画わ写本から入ったのです。結果的にいうと日本画は日本画的枠から一歩も出られなくなってしまったのです 蓼食う虫
若い時分に女遊びをした人間ほど老人になるときまって骨董好きになる。書画だの 茶器だのをいじくるのはつまり性慾の変形 「瘋癲老人日記」にいたるまで、氏は、人間精神が官能に必ず屈服する、といふ一つの定理をしか語つてゐない。
それは自然主義とは又ちがふのであつて 河野多恵子
人生というものは生き方にあるのではなくて、日常生活の細部のみが人生そのものである」と思っている。彼女は自分の感覚を大事にし、人生の味を一つ一つぜいたくに味わっていきたいと思っている インフレ時の対策
・財政支出の削減
・増税
・構造改革、民営化
・小さな政府
・金融引き締め
・規制緩和
・労働市場の自由化
・イノベーション
・自由貿易
デフレ時の対策
・公共投資の拡大
・投資減税
・公的雇用の拡大
・大きな政府
・金融緩和
・企業合併・統合
・労働者保護
・社会の安定性の重視
・保護主義も含めた貿易管理
三島:鏡花を今の青年が読むと、サイケデリックの元祖だと思うに違いない。
鏡花は、あの当時の作家全般から比べると絵空事を書いているようでいて、なにか人間の真相を知っていた人だ、
という気がしてしようがない。
三島:ニヒリストの文学は、地獄へ連れていくものか、天国へ連れていくものかわからんが、鏡花はどこかへ
連れていきます。日本の近代文学で、われわれを他界へ連れていってくれる文学というのはほかにない。(中略)
永井荷風はやっぱりどこへも連れていってくれないですよ。
澁澤:じゃ谷崎潤一郎さんは。
三島:谷崎さんも、もうひとつ連れていってくれない。
澁澤:つまり地上しか……地獄へもいかないわけね。
三島:天国へもいかない。川端康成さんはある意味で、「眠れる美女」なんかでどこかへ連れていくね。
澁澤:地獄ですね。
三島:地獄ですかね。鏡花が連れていくのは天国か地獄かわからない。あれは煉獄だろうか。
そのうちでも最も美しいのは人間の肉体だ。思想と云うものはいかに立派でも見て感ずるものではない。
三島は、肉体、つまり見た目が思想よりも立派だというところに同意しているのだ。『金色の死』の前半の岡村は、文芸をこなしつつも肉体の方が美しいと主張している。そこが良いと。そして後半でそれを否定しているところが駄目だと言っている。
心の結晶である和歌を、小石のように飛び越えてしまうのではなく、氷砂糖をなめるように味わったならば、源氏物語の世界はさらに豊かな表情を見せてくれるだろう。 千と千尋』にしてもカオナシの大食漢ぶりや、豚に変身した両親の表現など、「飽食」への厳しい眼差しがあり、あれは実はグルメである宮崎の自己韜晦であると僕は思っている。
僕もそうだが心のどこかで、食にこだわってしまう自らへの恥じらいが、作品世界に現れて来るものなのだろう。黒澤の場合ももしかしたらそうなのかもしれない。
小説の場合は、圧倒的に海外のものに比べて日本人の作品は食の表現が貧しい。魅力的な食の表現は純文学では谷崎、開高ぐらいしか思いつかない。
近頃、サイレント時代のシナリオをいろいろ読み返してみるが、その明快なのに賛嘆したが、これは音や言葉がない不自由の故に」、
かえって感じさせることに徹した結果だと思う。思えば、映画はトーキーになって言葉や音を自由に入れて大変豊かになったようだが、実はプラスしたものは決して多くない。
むしろ、なくしたもののほうが多いくらいである。その中で最も大きなものは、今言った感じさせる能力の減退ということだと思うのだが、それに関して、近頃のシナリオの画の不足という問題がある。
元来、トーキーの力は見せる力プラス聞かせる力であるべきはずだが、実際上は大抵見せる努力の幾割かが聞かせる努力にさかれている。
その結果が貧困に陥っている。
しかし、聞かせるよりも見せる力の方が幾倍か強いのだから、こういう傾向は余程考えなければならない問題だと思う。
画の貧困と僕は言ったが、ここでいう画とは絵画的な画を意味しているのではない。映画の視覚的な表現力をいっているのだ。
その場面構成や場面と場面との接続から生ずる表現力をいっているのだ。
そういう表現力がヴィッヴィッドに感じられるようなシナリオこそ、我々の最も望むところである。一読して画が出てこないようなシナリオは、どこか映画になるためには弱いところがあるのだと思う。
ttp://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/3643/report1.html そして、北極や南極に人が到達した後は、宇宙である。
今度は宇宙に存在する知的生命について、人々はさまざまな想像を巡らしたが、
こちらはほぼ一世紀ほどで、どうやら地球外生命体は、太陽系はもちろん、
銀河系にも存在しないらしいということが分かってしまったのである。
その後に来るのは、本当の退屈である 成田 戦中派の人々の戦後との向かい合い方にはいくつかのタイプがあります。
三島は戦後は虚構だとして、背を向けて生きた。一方、石田雄さん(政治学者)のように、
戦後に全面的にコミットし、自分たちが戦後民主主義をつくるんだという思いで生きた人たちもいた。
しかし、最も多かったのは司馬遼太郎のタイプだと思います。もうイデオロギーはこりごりで、実務に徹するしかないという生き方です。
立会人 島尾敏雄はどのタイプになるのでしょうか。
成田 三島型ですが決定的な差異もあります。戦時は大義を信じていたのに、急にはしごをポンとはずされた。
その後、何を信じて生きていけばいいのか。三島は徹底して人工的な世界を構築し、島尾は一見の「平和」の中に戦場を見いだそうとしていく。
二人とも「虚妄の戦後」を生きながら、戦争文学を紡いだのではないでしょうか。
虚無的で享楽的な現代の若者像をストレートに描いたこの作品もまた、パリでの彼の生活とまわりのアメリカ人たちをモデルにして描かれていました。
そうした若者たちの生き方をストレートに描いたこの作品は、当時歴史上初めて生まれようとしていた「若者たちの文化」を世に知らしめ、
その影響は世界各地の若者たちへと広まってゆくことになりました。それは「フラッパー」と呼ばれるお金と暇のある都市部の新しい若者層が求めている世界観を描いたものでもあったのです 五感の中でも「臭覚」についで強烈な記憶を脳に刻み込むと言われる「味覚」。それは原始的であり、生きることと強く結びついていることからこそ、
その記憶とともに回りの景色やその時の気分までをも甦らせることが可能と言われます。作者は、この「味覚」という原始的な感覚を用いて、
「情報」という現代的な感覚によって作られた現代の世界観に挑戦しようと試みています。
ここで言う「現代の世界観」とは、西欧そして日本のマスコミが発信する無数の情報が作り上げたG7(先進7ヶ国)をその中心とする経済的豊かさを指標とした世界観のことです。 黒澤明の作品における熱っぽさと激しさも、小津安二郎の作品の静けさや劇的葛藤の希薄さと同じように日本的なのである。
日本人は、小津安二郎の作品に描かれているような静かな生活をひとつのの理想としている。しかし、現実の日本人は、わずかな成功のチャンスを奪い合うように、異常な激しさをもって押し合いへし合いして生きている。・・・ 十七世紀にはじまる西欧文明=科学は、幾何学の精神に導かれてきた。しかし、ここにきて、幾何学の精神がもたらした過剰情報に幾何学の精神は首をしめられつつある。
論理を追って受容できる限度以上の情報量に対して反応していくことが要求されている。頼るべきは直観しかない。」
「非正規雇用と呼ばれる短期・低賃金・不安定労働が一般化し,世代を超えて引き継がれるべき技術・技能の伝統すら危ぶまれる時代を迎えている」という変化があります.
また「額に汗して働かなくとも,海外投資のリターンで食っていける.貿易摩擦を招くモノづくりもほどほどに.
そのためには海外から日本への投資を呼び込むべきとする『投資立国・資本開国論』が,政府お墨付きのもと勢いを増した」(同上)という変化もありました.また生産拠点が海外に移され,設備投資も海外で進むという一方で,
国内での雇用は衰退していっています.このような状況のなかで,モノづくりの現場が疲弊し空洞化し,製造現場が荒れていくことは残念ではありますが,きわめて当然の帰結ではないでしょうか.
短距離とマラソン――わたしたちはかならず、ひじょうに短い目標を定める。10日間がんばれ、20日間がんばれ、せいぜい1年間がんばれということになり、
そういうときにはエネルギーが集中する。背中で対象を感得できる程度に短期目標であり、想像力でも把握できるように具体的な競争相手を明確に設定するとき、はじめて、その達成にひじょうな努力を払うということになる。
突貫工事とか、追いつけ追いこせ、という形にするときひじょうにうまくいく。これは、内側を向いている人間の心理、内側を向いている精神的姿勢の特徴であろう。それは、ひじょうな長所であるかもしれない。
一方、ヨーロッパ人に対して、3日間だけ、1年間だけがんばれといっても効果はすくない。壮大な長期目標がないと元気が出ないというのがヨーロッパ人、つまり外側に向いている人間の弱さである。―― 荻:ヒッチコックがリアクション・ショットをやるでしょう。ふっと驚くところを出して、次に、驚いた原因を
見せる。ただその原因を知っているだけじゃ、このおもしろさをだれでも出せるわけじゃないな。そのときの
タイミングというか、映画独特の時間を勘で持っているかどうか。格闘シーンなんか全然現実時間じゃないな。
筋立てだけを見れば、典型的な娯楽小説のそれだ。ところが、読んでみれば分かるが、それほどすっきりした味わいは得られない。この小説が発表されたのは、1900年。
あと何ヶ月で二十世紀に入ろうかという時だ。世界には意味があり、そこでは総てが統御されていると信じられる人ばかりではなくなっていた。つまり、現代に近くなってきていたといえる 消費社会における商品は、記号価値の傾向が強く、広告代理店の地位が高いと述べる。広告代理店の営業は、以下のような表現で美化されるという。
いっぽうには、優れた生産機構や生産システム、生産設備があり、それを心の温かい技師と、人格者的な経営者が動かして、人々の暮らしの便利を考えて、新製品を開発する。
いっぽう、豊かになってきた消費者は、より高度で快適な生活様式を求めている。そして、この両者を結び付けるのが、広告産業である。
また、「ソ連崩壊後の世界単一市場では、商品が国境を越え、その地域固有の文化を淘汰する恐れがある」とグローバル資本主義の到来を予言している。
巨額の売り上げがあって、従業員への給与や下請けへの支払いなどで国内に流れていけば、
会社自体の利益は少なくてもいいんだよ。
国民経済の視点からは 実にありがたい産業。
不満なのは株主だけ。
会社の利益は多くても、売り上げが小さく、従業員への給与が少なく、下請けにも流れない産業は、
国民経済からは 有り難みのない産業。
喜ぶのは株主だけ。
しかも株主配当の多くは、外国の投資家に流れている。
TPPで起きること
1、国内経済の崩壊 及び 膨大な失業者 : 空洞化と2極化&大衆向け国産品は輸入品に駆逐
2、海外への工場移転の加速 : 加工製品の関税までもが撤廃される為、国内で加工するメリットがなくなる
3、大量の移民 なし崩し的な外国人参政権等の可決 : 人の自由化も含まれる
4、食の安全の崩壊 : 2極化と低価格品が輸入品に駆逐される為、大衆向け国産食品がなくなる。皮肉にも極一部の安全な国産ブランド食品を食べるのは、食の安全を崩壊させた張本人達のみになる。
5、デフレの加速 : 輸入品により物価指数が下がり、同時に失業者が増える。結果更なるデフレが待っている。
6、食料という致命的弱みを作る : 自力で食料生産が出来ない為、国防面では海上封鎖だけで戦えなくなり、外交面では食料輸出カードが致命的なカードになり、金融面ではトレーダーに絶好の攻撃材料を与える。
7、超長期で見た場合 日本という国の崩壊 : 国内生産力低下によるハイパーインフレ 移民増大・少子化加速による日本人のマイノリティ化 税収低下で社会維持機能全ての崩壊
例えば、去年の万国博覧会で、日本政府館はいったい何を行ったかというと、
要するに伝統文化と先端技術の切れっ端の羅列です。だから、新しい文化の雰囲気は出ません。私どもは、逆に伝統文化はもう言う必要がないと考え、
「J感覚」というのを、まさに今の若者の文化を知らせることを行いました。そうすると、中国の人は大変喜ばれた。
今までの日本の文化外交というのは伝統文化の一部を切り取って見せる、いわば日本の特殊性を打ち出すのです。
http://www.dir.co.jp/souken/research/dialogue/04_20110706_3.html 【堺屋】 いまからちょうど百二十年前にカール・マルクスが現れて、
社会主義計画経済をつくれば、競争の無駄がなくなるという原理を発見して、
大論文を書いた。資本主義社会は自由競争があって、各メーカーがそれぞれ
自分の計画をつくって、物をつくる。だから過剰生産になり、恐慌となって、
倒産を呼ぶ。つくった物とか、その物をつくる施設が無駄になる。だから
競争経済よりも計画経済がいい。マルクスはこういうふうに発想したわけです。
ところが計画経済をやってみると、売れる物をつくろうという意識がなくなる。
そういう努力をしなくなる。計画によって割り当てられた量をつくれば、
つくったものは全部出ていくから、より質のいいものをつくろうとしなくなるんです。
ところが日本では妙なことが起こった。「棲み分け理論」というものが出て、
「それはダーウィン以上のものだ」と言うのである。しかし「棲み分け」などという
現象は、ダーウィンやウォレスの時代から観察されている。これをデュヌイは
進化が行きどまった状況であると明快に説明している。
ダーウィンが観察した頃のガラパゴス諸島では「棲み分け」が行われていた。
この島は地質学的に早い時代に南米大陸から切り離されていたからである。
ニュージーランドでもそうだった。ユーラシア大陸から早い時代に切り離されたため、
哺乳類がおらず、鳥たちは飛ぶ必要がなく、羽根を退化させてしまったほど完全に
棲み分けていた。ただし白人と共に鼠や猫や犬などの哺乳類が入ってくるまでは、
の話しである。(ちなみに初代のニュージランド総督はダーウィンの乗った
ビーグル号の艦長だったフィッツロイであった)。
外敵が入って来たとたんに平和な棲み分けの世界はこわれる。飛べない鳥の
多くは絶滅して、今残っているのは絶滅寸前に保護されたものばかりである。 現在はまさに世の中が大きく変わろうとしている時だ。十年前の「常識」が、
今や急速に「非常識」になりつつある。十年前、石油ショックの直後には、輸出は
伸ばすべきものであリ、輸入は抑えるべきものだと信じられていた。だが、
今では輸出は抑制すべきものであり、輸入こそ伸ばすべきものになっている。
十年前には日本は経済の流れ(フロー)こそ成長したが、経済の蓄積(ストック)は
まだまだ貧しいといわれていた。ところが今では、日本人の一人当たりの
資産は、アメリカ人の三倍以上にもなっている。鉄鋼や造船が基幹産業だったが、
今では衰退産業になっている。歯科医はよく儲かる職業だったが、今はもう
過剰だ。工業用地は不足していると思われていたのに、今では全国に十億坪も
あまっている。
この十年間で、世の「常識」は急激に変わっている。これからの五年間には、
さらに大きく変わるだろう。今こそ、世の「常識」を疑ってみる必要がある時なのだ。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/boso/seibu.htm
税金を払わない西武と千葉県政
まさに「政商」
リクルートの江副社長は堤をお手本にして、彼と同じようになりたいと未公開株をばらまいて失敗
そして、堤の逮捕後、とってかわったのがオリックスの宮内
「左派は、津波は天災だけれど、原発は人災だ、
今こそ脱原発運動を、と発想するわけですが、
彼(辺見庸氏のこと。評者)はそうではない。
畏れを失った人間がつくり出してしまった原発というものを、
もっと人間の業として考えるような振り返りがなければ
本当の変革は始まらないと私は思うんです。」
T_Yoshimoto 吉本隆明bot
思想の書としての「百人一首」は、言葉のリズムは意味に優先するという思想だ。 『読書の方法』 http://www.megaup
load.com/?d=WH1N03JA 「自動販売機」が、温かいうどんや、出来上がったカップラーメンや、カンのついた清酒や、ホットコーヒーを取出口に出しはじめたとき、わが国の現実上の「アジア」は消失してしまった。 『重層的な非決定へ』 夜の河http://www.youtube.com/watch?v=xnIlDL116J8&feature=related ソニーの『開発18か条』
第1条:客の欲しがっているものではなく客のためになるものをつくれ
第2条:客の目線ではなく自分の目線でモノをつくれ
第3条:サイズやコストは可能性で決めるな。必要性・必然性で決めろ
第4条:市場は成熟しているかもしれないが商品は成熟などしていない
第5条:できない理由はできることの証拠だ。できない理由を解決すればよい
第6条:よいものを安く、より新しいものを早く
第7条:商品の弱点を解決すると新しい市場が生まれ、利点を改良すると今ある市場が広がる
第8条:絞った知恵の量だけ付加価値が得られる
第9条:企画の知恵に勝るコストダウンはない
第10条:後発での失敗は再起不能と思え
第11条:ものが売れないのは高いか悪いのかのどちらかだ
第12条:新しい種(商品)は育つ畑に蒔け
第13条:他社の動きを気にし始めるのは負けの始まりだ
第14条:可能と困難は可能のうち
第15条:無謀はいけないが多少の無理はさせろ、無理を通せば、発想が変わる
第16条:新しい技術は、必ず次の技術によって置き換わる宿命を持っている。それをまた自分の手でやってこそ技術屋冥利に尽きる。自分がやらなければ他社がやるだけのこと。商品のコストもまったく同じ
第17条:市場は調査するものではなく創造するものだ。世界初の商品を出すのに、調査のしようがないし、調査してもあてにならない
第18条:不幸にして意気地のない上司についたときは新しいアイデアは上司に黙って、まず、ものをつくれ
。誰かが「カラスは白い」っていえば、感染症のように「白い」「白い」って云い出す。雰囲気がすべてで、それしかない。開かれているようで、実は思考が閉鎖しているんです。
未来のある人には冷静な自己反省というか、自己相対化というか、内省する時間をもってほしい。 基本的に宝塚市は、長年納税してきた市民よりも、開発業者(建売ビルダーや不動産業者)の権利優先。
大正〜昭和の質が高い住宅街が、クソ行政によってどんどん破壊されて失われている状況。
長い時間かけて成熟し築かれてきた街の価値も、行政によってあっさり崩れ落ちる。
最近は昔じゃありえなかった崖や急斜面などの宅地に適さない土地まで
無理矢理に造成されて開発されてるね。
しかもそういう土地に手を出す業者は、大手じゃない低モラルな悪徳業者だから
周辺環境や歴史や景観を一切無視した強引かつ効率コスト重視の無謀な開発をする。
もちろん悪徳業者に融資する銀行や平気で開発許可出す行政の罪も重いが。
企業の資金需要が伸び悩む中で、銀行の収益を下支えしてきたのは、 個人の住宅ローンと投資信託の窓口販売だった。
たとえてみれば米粒のうえにどんな微細な文や図柄を巧みに描いても所詮は巧みな芸以上のものではない。なぜならば対象の選択力に内的な衝迫と必然がなく、
ただ珍しいための限定しかないからだ。それと同じことであった。この方法を極限まで追いつめていったのが長塚節であった 私は諸国を放浪するのが好きなたちだが、それは、荘厳な史跡を訪ねるためでもなければ、明媚な風光をめでるためでもない。
どんな遺跡を見ても、私にはなんだか退屈だし、いかに美しい景色でも、すぐあきあきするからだ。私が旅をするのは、人間というものを知るためなのだ もう日本が「ものづくり」で輝く日は二度と来ない。主要な市場が国内にないのだから、
国内でつくる必然性がない。ASCII.jpの連載の最終回でも書いたように、日本の製造業が
世界を制覇したのは、補完的な部品のコーディネーションを長期的関係で行なう江戸時代型
システムが偶然、自動車や電機などの2.5次産業に適していたためだが、その後ビジネスの
中心は第3次産業に移ったのに、日本メーカーは変われなかった。
これから日本で成長するのは、国内の老人向け産業である。といっても、それほど悲観する
にはあたらない。老人こそポスト工業化社会の中心だから、これに適応するイノベーション
を実現すれば、日本はトップランナーになれるかもしれない。GDPベースではゼロ成長に
近いだろうが、それは大した問題ではない。行動経済学の実証研究が一致して示すように、
先進国ではGDPと幸福度にはまったく相関がなく、大事なのは所得より<意味>である。
最低限度の所得さえあれば、老人にとって最大の問題は年金より退屈だろう。サラリーマンは
仕事をやめてから平均20年以上、何もすることがない。人々が退屈をきらうのは、おそらく
狩猟民としてのDNAの中に変化への欲望が埋め込まれているからだろう。絶えず「脱コード化」
する資本主義は、その変化への欲望を満たすシステムである。
しかし成長が止まった21世紀の日本が直面しているのは、人々がいかに退屈とともに生きて
ゆくかという新たなチャレンジである。この空白を埋める暇つぶしは、囲碁とか将棋とか
俳句とか、江戸時代に発達した趣味が多い。それは低コストだが洗練されており、いつまでも
飽きない。江戸時代こそ、人々が身分や住居を固定されて極限まで退屈した時代だったから
である。
歌舞伎や浮世絵など世界にも比類のない文化を生み出した江戸時代は、ポスト工業化社会の
暇つぶしの宝庫である。その精華ともいうべき吉原を根絶したのは惜しまれるが、その伝統は
世界に誇るアダルト産業に継承され、アジアでも強い支持を受けている。世界に先駆けて
老人大国になる日本は、製造業では役に立たなくなった江戸時代型システムを新たな比較優位の
源泉にすることができるかもしれない。
第一に、米国と同じように日本人も会社員を含め、全員が確定申告をすべきだ、と思う。
いまの源泉徴収は戦時中、戦費を効率的に集めるためにできた制度だが、それによって
所得税を払っている実感が希薄になる。日本人が簡単に政治家のバラマキを許すのは、
ここにも一因があるのではなかろうか?
第二に消費税率が、先進国中、ダントツに低いという現実だ。そのうえ、課税対象となる
所得額が高すぎて、所得税を払っていない国民の割合が他国に比べてべらぼうに高い。
第三に税制を、もっと「国の形」「国民の生活形態」を方向づけるために活用すべきだ、
ということだ。ほんの小さな例でいえば、日本に社用車が多いのは、フリンジベネフィット
(企業が役員や社員に与える給料以外の種々の利益。社用車をはじめ福利厚生など)に
税金がかからないからではないか? 欧米だったら、「社用車より給料増やせ」となる。
累進課税を緩めれば、「細く長く」働く職業人生のほかに「太く短く」勤めて、第二の
人生を楽しもうとする人が出てくるかもしれない。哲学者や作家が「日本人固有」と
分析する文化や人生観でさえも税制いかんでコロッと変わると私は思っている。
浅田彰さんは、「社会主義の影響が強かった1960年代に、大衆の欲望を肯定する独自の思想を構築した。その後も、80年代にかけて、
マイナーだった漫画などのサブカルチャーを支持するなど、それまでにない見方を提示する、
先駆的な思想の持ち主だった。ただ、思想の広がりと共に、本人自身もその思想の中に埋没してしまったように思う」と話しています。
コムデギャルソンの服を身にまといモデルをつとめる吉本氏の写真が載っている。
なお、この記事は後に作家・評論家の埴谷雄高氏から
「資本主義のぼったくり商品を着ている」
「それ(記事)を見たらタイの青年は悪魔と思うだろう」
と批判した。吉本氏はこう答えた。
〈先進資本主義国日本の中級ないし下級の女子労働者は、
こんなファッション便覧に眼くばりするような消費生活をもてるほど、豊かになったのか、
というように読まれるべきです〉
(『重層的な非決定へ』)
「意外性のあるラスト」と言っても、最近のミステリーショートショートのような驚かすことだけを狙ったような落ちはない。短い中で簡潔に描写された人物の内面が、ラストの科白であざやかに浮かび上がる、という見事な話がたくさんある
悲劇性を盛り上げる劇的な死でも、ストーリー重視のテクニカルな要素としての死でもない。人々の歴史を書いていくと必然的にあらわれる「普通の」死の実相が多様な手法で描かれている。
近代文学は無矛盾性、秩序性、明晰性、簡潔性、建設性、独創性、普遍性などの特徴を持つ。これに対し、ポストモダン文学は物語の矛盾を肯定的に含んだり、
(むしろ物語は常に矛盾を含むものである、といった姿勢)時間軸の無秩序性、衒学性、蕩尽性、記号性、全面的破壊、模倣、大きな物語の終焉、普遍性への懐疑、自己の解体等々である。
子どもが可愛くてたまらず、なかなか子離れができないような母親に限って、虐待に走るのではないかとぼくは考えます。
なぜならば、男と子どもへの愛情を比べたときに、最初から男に対する愛情のほうがまさっていて、それが男にも伝わっているようならば、男は相手の連れ子だろうと何だろうと、憎たらしいとか邪魔だとか思ったりはしないんです。
女性が自分の子どもを虐待するのは、本心から憎いということではなくて、男との関係のバランスにおいてやることでしょう。つまり、子どもを邪魔に思っている男に気を遣い、
その顔色をうかがって過剰に同調することから、男よりもさらに惨酷な行為にエスカレートしてしまったりするのです。 ですからもとを正せば、男が連れ子に敵対意識をもつくらい、女性が自分の子どもに愛情を注いでいるということです。
スレがだれかのチラ裏と化しているのでageつつレスを
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チェル「現在地」を楽しみに待っているところ
ただ岡田さんは
震災以降「フィクションの重要性」をあちこちで繰り返し述べているけど
俺は正直なところそこに若干の不満と不安をおぼえた
「なぜ、いま、それなのか・・・」「これはひとつの退潮ではないのか・・・」
あるいはそれは俺がここのところずっと
かれと縁の深い大江健三郎の文章を読み続けているからかもしれない
(ここでは少数派だろうけど俺は大江賞を機に岡田&チェルへの関心を深めた)
大江はその作家人生のはじめから一貫して核・放射能と想像力とを結び付けてきた
戦後日本の「現実」に対峙する思考をいまあえて岡田さんが問い直すのなら
それは演劇者としてなのかあるいは小説家でもあることを含めてなのか・・・
今年中に演劇論・芸術論に関する本を出すという
不満・不安はとうぜん期待を伴うがゆえ・・・改めて「現在地」を楽しみにしています 新刊
対談集 つなぐ建築 隈 研吾
岩波書店 (2012/3/30)
市場化を推し進めたグローバル経済の挫折、そして東日本大震災という破局のあと、建築界の世界的フロント・ランナーは、なにを考え、建築をどのように変えようとするのか。
失われた人と大地との結びつき、人と人とのかかわりを取り戻す建築とは―。伊東豊雄、岡田利規、佐々木正人、原武史、藤森照信、御厨貴、蓑原敬と語る。 多分に自分語りを含むだろうけれど追記
(スレチなチラ裏にならないよう気を付ける)
ここ数日ずっとweb上で読んでいたのは
加藤弓奈さんというかたのインタビュー記事をはじめとする文章
STスポットなどを経ていまは急な坂スタジオのディレクター
チェル&岡田さんへの興味から拡がったものだけど
そこに加藤さんの発言を重ね合わせることで
俺には非常に演劇に対する新鮮な感じを得た
というのも
たまたま2008年にNHK教育で「フリータイム」を観るまで
演劇に対してほとんど興味がなかった・・・というより
むしろ「うさんくささ」や「ウザさ」のようなものしか感じてこなかった
中学・高校演劇しかり、大学サークルしかり、
あるいは文学の流れのなかで知った日本近代演劇史しかり
だいぶ後から平田オリザの文章によって納得したことだけど
それはたぶん「ない」ものを「ある」と言い張る暑苦しさから来ていたのだと思う
「フリータイム」〜「・・・特別な時間の終わり」(小説)〜「三月の5日間」(戯曲&公演)
という俺個人に起こった経験ののち更に岡田さんのさまざまななことばに触れ
そしていま加藤さんの発言を重ね合わせて思うのは
(少なくとも俺にとって)「ある」ものが「ある」となるその「立ち上がり」を知ったということ
小説にばかり関心が向いているとその「立ち上げる」作業は孤独なものと捉えがち
だけど演劇にとってその「立ち上がり」には外部のサポートが不可欠
それは出版社の編集者と同じではとも思えるけれど
演劇のサポートには「公的publicな制度」としてのそれが必要なのだとも知った
その意味で演劇には創作力のほかに社会学的な人間関係の能力も必要なようで
ただ観劇するだけの俺にはいっそう濃密な芸術なんだなと思えてきた・・・長文御免 なんかトリップ付けてたようでしかもズレてるので
いちお再レスでなおしとく 「現在地」でここに来ただけなのでいまのうちに思い付いたことを書けるだけ
俺は文芸方面からここに辿り着いたけれど
だからといってたとえば前田司郎や本谷有希子などにはまったく興味がわかない
理由は俺のなかでは難しいものでなくただ「モラルを感じないから」
岡田利規というひとは本当にモラルに対して厳しいひとだと思う
そして厳しいモラルの持ち主だからこそ方法論に対する強い意識も生まれる
(だからこそ大江健三郎は彼の小説を理解し評価した・・・大江賞選定のエッジの鋭さは見事)
劇団大人計画の最新公演ではチェルフィッチュがパロディされているとのこと
それを観劇していないなかで言えることには限りがあるけど
松尾スズキがこのパロディにおいてモラルを意識していないことだけはたしかだと思う
このふたりが岸田戯曲賞の選考委員に同時に選ばれたことはだから象徴的だし
それに関連して野田秀樹が「(脱)ドラマ性」に言及したことも
岡田・野田間のモラルの異なり様がうかがい知れて今後の予感に満ちている
岡田&チェルが「社会性が強い」と言われるのは
社会問題を真正面から扱わない・・・むしろ「脱力系」にもかかわらずだから当然のことだし
また「難解」という評価の陰には野田や松尾の姿がほの見える
あとは・・・「スタイリッシュ」
岡田さん自身チェル演劇がスタイリッシュにファッショナブルに取り扱われていることに
自覚的だし俺も(自分がそうでないから)周りの観客にそうした雰囲気を強く感じる
これはさきにレスした「暑苦しさ」を離れたひとつの到達点であると同時に
岡田さんの今後を想像すると脆さにもなりえるものだと思う 途中で送信してしまった・・・
「劇団大人計画の最新公演では・・・同時に選ばれたことはだから象徴的だし」
のあとに
「(クドカンのNHK朝ドラ起用もまた非常に象徴的)」
と足すつもりだったし
レス末尾もまだ〆るつもりでなかったけど
でも「現在地」観劇に向けていま思い付いたものはたいがい書き切ったし
はじめのレスのとおりそれは俺の不安と期待をとりあえず書き表してみたかったから
Twitter全盛のいま2ちゃんなんて現状のように過疎って当然かもしれないけれど
演劇の世界になじんでいるひとの「現在地」に際する長文もまた読んでみたい 連投しかも長文つづきでほんとごめん・・・でもさらに追記
翌日フリーだからひたすら俺には新鮮な演劇にまつわるweb上の文章を読んでる
セゾン文化財団の助成などこのスレ・板では常識かもだけど俺は初めて知った
(堤清二個人のことについては若干知識はあった)
で2012年の事業計画(http://www.saison.or.jp/awardees/projects/12_projects.pdf)に
岡田さんが米フィラデルフィアのカンパニーと
「ソロー『森の生活』坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟生活』を題材に」共同制作とのこと
震災後の熊本移住に前後して岡田さんが坂口恭平と関わっていることは
「新潮」(か「群像」)で読んで知ってはいたけど・・・正直なところあまり興味はそそられなかった
小説で移住にまつわる部分を掘り下げる方向性にはじゅうぶん注目してるけど
坂口さん・・・そして「森の生活」・・・どうだろうか
「フィクションの大切さ」ではチェーホフ『桜の園』に繰り返し述べているけれど
震災→チェーホフ→ソロー・・・やっぱり「なぜ、いま、それなのか」の不安が残る
ぴあのインタビュー記事を読んだけれどやはり本人も手探りなのかなあと
余談だけど小劇場演劇レビューサイト「ワンダーランド」の
古いインタビュー記事(http://www.wonderlands.jp/interview/010hirata/)を読んだ
第1回の岡田さんを目当てにしたもののでも断トツでおもしろいのは平田オリザ
演劇を「濃密な芸術」と感じているいまの俺にクリティカルにヒット
(ところで平田さんが岸田賞の選考委員を務めていないことに気付き意外だった) ポスト・モダンは過去の様式の意匠を取り出してきて、それをデフォルメしたりて、メイン・モチーフとして配列しなおしてデザインする手法です。
昨夜は神奈川・相模大野のホールで
チェル「現在地」の公開リハーサルがあり俺も観に行った
通しのリハではなく
場のいくつかについて演技させては岡田さんが注意やコメントを出す
いわば稽古のかたち
それを2時間おこなったのち岡田さんと観客とのあいだで30分ほどの質疑応答
ところでかれらの非主流的な演劇に対して
「これは『一般的には』戸惑いや不満を感じるだろう」というような声が
特に「アート」なひとびとから漏れているように思う
新作本番が近づきふだんはあまりやらないTwitterを流し読みしてみても
その雰囲気はたびたび生まれているようす
じっさい昨夜の質疑応答でも観客の側で「戸惑いや不満」があったのは事実
これは岡田さんの問題では決してない
(かれはこうした事態にたびたび遭っているわけだけどなによりモラルを持っている)
受け取る側で「アート」を「一般」と切り離して
そこに自分の正当性を見出す形はまちがいなくモラルの頽廃を招く
モラルの試練を経ないままに美を至上のものとする行為の
そのなれの果てを歴史上においても同時代においても
日本の内外において俺は知っているつもり
これは特に若いひとたちのあいだで起こること
その意味でチェルの平均的観客層より年配(かつ「一般」)のかたがたが
少なからずこの無料の公開リハにおいて見えたことは意義深いと思う
「戸惑いや不満」の噴出した元の一部はたしかにここだけど
それが年配(かつ「一般」)者の総意であるとは思わない
これも演劇の外側に長くいた者としての一意見だけど
いったいに演劇は世代による隔たりが文学以上に大きいのでは?
それはまちがいなく不幸なこと ・・・ちょっと言い過ぎているかもしれない
考えてみれば俺は演劇のうちの
ことばの使われ方や公共性のようなものに目を向けがちだけど
とうぜん演劇はほかに衣装、照明、音楽、セットも重要でそこはアートの本領
またチェルの大きな特徴は「からだ」で
それはアートと思想の双方に大きく関わっている
このあたりに関連しているかどうか分からないけど
岡田&チェルに大きく関わっているのがプリコグ
俺はアート・マネジメントに詳しくないのでそのかぎりでの意見だけど
俺のなかで「プリコグ的な感じ」というイメージが成り立ってしまうことはたしか
この当否自体がまず問われるべきだけど
小説・文学では基本的にはありえないこうしたことが
音楽や照明やセットの使われかたを通じてなにか透けて見えるようで
いくらそれらが岡田さんの独立した自身の意思と判断によるものだとしても
岡田さんの今後の展開を思うときたとえば
似かよったものやあるいは束縛するものとなったりしなければいいけれどと
ときに考えてしまう 、「自身のスタイル・信条であったはずのモダニズムを捨て、かつて出口なしとまで批判したポストモダニズムにすり寄り、大衆に媚を売ってまでコンペに勝ちたかったのか」とか、「すでにある新宿の超高層ビル群に最も高いビルを加えただけであり、目新しいアイデアがない いまチェルフィッチュブログの2と3を通読していた
(1というか初代のログは見つけられなかった・・・)
この数日ここで俺が長々とレスしてきたなかで
俺自身の考えや感じとして書いたものの
そのほとんどの点を岡田さん自身さきに意識していることを知った
このことを俺はどう考えればいいのだろう?・・・いやそんなことここではチラ裏だ
「現在地」横浜公演は完売のようす
YouTubeに予告動画が2つあがってる http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/
演劇に胡散臭しかもってなっかたけど
チェルによってかわったっていうのはこのサイトの人もそう >>448
先日チェルのブログを通読したけれど
そのなかで岡田さんもだいぶ以前ながらその「偽日記」の文章にふれていた
古谷氏が紹介する高橋悠治(ピアニスト)の「手」の論考に賛同したり(2005年11月)
その直後自身の「三月〜」の小説版に対する古谷氏の考えに応答したり(同12月)
以下俺自身の話が続くけどご容赦
俺は今回のくだりで初めて古谷氏や「偽日記」のことを知ったのだけど
俺にとってより重要なのは岡田さんがそのうちの高橋悠治に反応していること
実は俺も「フリータイム」の経験以後高橋悠治の文章を読んで感銘した時期があり
それは保坂和志の小説論が影響している(あと俺自身クラシック音楽に多少親しみがある)
ところで岡田さんも保坂と対談したりチェルの稽古場を見せたりしているようで
それが2005年の前か後かは忘れたけれど
そのことも俺はチェルのブログを読むまで知らなかった
この点>>447で少しふれたように俺の興味や関心が岡田さんのそれらと
ときに関係しまたときに無関係ながらも重なり合い
そのことを俺はかならずしも肯定的には捉えられない
チェル「現在地」公演にあたってこのスレに来て以降
俺はたびたび「モラル」にこだわってきた
たとえば公開リハを観て気付いたことだけれど
本劇の設定には「信じるひと/信じないひと」の区分があり
この区分を岡田さんいわゆる「フィクションの力」がどうやって溶解させていくかが
現在のかれの大きなコンセプトになっていると思う
ところが俺は溶解以前のこの区分自体に「モラルの頽廃」が潜んではいないかと
やや不安に不満に思う部分がある
これに限らないけれど若手〜中堅でいまもっとも注目される劇作家の
震災後の初作品にあたりかれの言動のいくつかに接する機会があったなかで
期待の度合いとの比例や反比例ということでなしに
なにがしかの拭えないものが俺に浮かんでは消えないということはたしか 「拭えないものが浮かんでは消えない」・・・日本語になってない(´・ω・`)
長文御免だけどもうすこし追記
さきに俺の感じる演劇への「うさんくささ」についてだけど
これはチェルや岡田さんによって変わったのではなく
平田オリザの文章を読んで俺自身のうちに言語化・意識化された
だからいまでも「うさんくささ」自体は消えたわけでないし
それに学生自体の恋人が演劇経験者で
そのひとに対する不可解な感情の記憶がいまも疼きをおぼえさせるw
さきに書いたけれど俺のチェル初体験は「フリータイム」のテレビ放映で
そのときのことはよく憶えている
俺は「たまらなく不快で目を背けたいけれどそれが許されない」というような心境で
岡田さんはたびたび自分の演劇に対するこうした「拒否反応」を語るけど
俺にとって大切だったのはこの地点から離れなかったこと
やはり公開リハで岡田さんは
自分の演劇あるいは演劇や芸術一般に対する「予習」の必要性を説いているようだった
その点で俺はあのときまでに自分の問題意識をこちらの方向に拡げるに至るまでの
積み重ねがあったのだとは思う・・・それが「安心」を伴うものではなかったとはいえ
・・・ここから前レスの追記的なことを書こうと思ったけれど
いよいよスレチな自分語りになり果てそうなのでやめた
震災以後の「モラル」と「ことば」「芸術」についてなのだろうけれど
短く書くにはおのれの技量不足 本日チェル「現在地」観劇しました
福岡公演終了までとりあえずレスは控えますが
ひとつ備忘も兼ねて書くと
「フィクション」にはより洗練が求められるのでは
追記
五反田団のフライヤーを見たけどまったく興味をそそられず ひきつづきネタバレ的なレスはしないながらもうすこしレスを
チェル「現在地」が前評判の期待と観た後の反応とのあいだで
相当のずれを生じさせることはほとんど確実だと思う
しかしそこでTwitterにしろ2ちゃんにしろ
観劇後に自分の「立ち位置」を探るような使いかたはいやだなと思う
昨夜Twitterで見かけたツイートのなかには相当に「モラル」に欠けたものがある
観た直後に声高に「大失敗」と断じ
現代芸術へのありがちな批判のクリシェを繰り広げ
挙げ句に客への個人的な非難を劇や作者への批判と意図的に混淆させ
それらを同様の感想を持った者との会話の形で繰り返す
この劇作家はしかし
そうした「失敗/成功」とか「つまらない/おもしろい」といった単純な区分けによる
演劇との関わり方と意識的に対立してきたのではなかったか
そのような区分けを単純におこなえてしまう「自己」を問うてきたのではなかったか
そういえばこの批判者は
実のところ劇や作者ではなく「自己」に最も強い関心があるらしい
観劇後拍手してしまった自分・・・動揺し海に来てしまう自分・・・
それでも他の客とは違う自分・・・と滔々と「自己」を披瀝しながらつぶやき続ける
観劇後にTwitterなど開くべきでなかった(2ちゃんもこのスレでなければおなじ)
昨夜は宵っぱりで観劇前に「桜の園」を読んだ流れで「かもめ」を手に取った
初演失敗、チェーホフの苛立ち、再演の大成功、飛翔するチャイカ・・・ 朝はやく起きてふと考えたことが岡田さんのことばだったのでちょっとかきこ
「現在地」ネタバレはありません
かれは放射線被害に関しすなおに「怖い」という
「たとえば食べものが怖くなった」「だから熊本へ移った」と
そしてそう考え発言することを「怖れないようにする」という
「うまく距離をとったりなどしないように」と
このスレで最近勝手に「モラル」にこだわってきたのは俺だけど
岡田さんのモラルのみなもとはこのあたりにあるのだと思う
俺は昨年末の「三月の5日間」公演前にはじめてかれの熊本移住を知り
以来ずっとそのことへの違和感を抱えたままだけど
それはかれ自身もそうであろうということはたとえば創作短編を読んでいて思う
このひとはモラルに厳しいひとだと俺は繰り返し述べてきたけれど
同時に「このままのモラルでいいのかな」ともずっと考えてきた
自分や自分の同世代や自分の作品・登場人物を裏切らないという種のモラルのままで
そしてやはりかれ自身もそのあたりに意識は働いているはずで
「現在地」もそうだしさかのぼれば「無傷な別人」あたりにそれは始まっていると思う
でもうまくいってはいないように思う
「『フィクション』にはより洗練が求められるのでは」と書いたのはその思いから
熊本に越してまだ1年足らずしかも年の半分は海外というかれには酷かもしれないが
たとえば水俣病というものに意識が働いていればこれこそ特にそのはじまりが
今回の原発事故以上に「『フィクション』的な現実」であったことに気付けていたはず
猫は踊り鳥は落ちやがて人が震えいざり・・・しかも原因が分からない
原発事故に驚き怖れるすなおなモラルのその先へ
「うまく距離をとらない」デリカシーなど取るに足らないいわば使命のような
しかしそこで社会活動家になどならず一創作者にとどまり続ける
そういう「モラル」と「フィクション」のぶつかり合いののち洗練を経て作品へ・・・
期待しすぎかな・・・多分に大江健三郎的な考えに過ぎるかな いつもの長文で御免だけどもうすこしだけ追記
いまのレスで岡田さんに幼い子どもがいることに触れるべきかどうか迷った
そしてかれの「創作者としてのモラル」を問うことに関するレスとしては
結局のところ要らないだろうと考えた
これは岡田さんやチェルとはまったく関係のない完全な私見だけれど
俺はたとえば「幼子を抱えた親(特に母)のモラル」のようなものを
最終的には頼むことができないと考えている
もうすこし言えばそのような「モラル」より「創作者のモラル」に信頼を寄せる
もっと言えば前者はその事実自体では「モラル」たりえていないと思う
ここから俺は「『きずな』はモラルにとって問題ではない」という私見も導いている
しかし「モラル」という考え方自体が
人間と自然を対立的に考えるきわめて近代的なものだし
また幼子-親(母)のモデルはフェミニズムによる全体的で真っ当な批判を想起させもする
ここはまだ俺の足りないところ・・・以上完全にスレチなチラ裏追記 ここはほんとひといないね・・・つぶやきとは大違い
チェルフィッチュ「現在地」
横浜公演が終わったけれどアフタートークはどんな様子だったのだろう
あとフライヤーにあったけど
チェルは夏に「女優の魂」という公演をやるそうです
小説の舞台化(「三月〜」の逆だね)で佐々木幸子さんの一人芝居のもよう 下手も絵のうち」と表現している。「下手といえばね、上手は先が見えてしまいますわ。行き先もちゃんとわかってますわね。下手はどうなるかわからないスケールが大きいですわね。上手な人よりはスケールが大きい 堺屋氏はまず,「日本はインターネットが発達し,ブログも活性化している。しかし,発信数が多いのと,情報量が多いのは全く異なる。
現在の日本は,発信数は多いかもしれないが,情報に豊かさがない」とばっさりと切り捨てた。日本では同じ情報が何度もさまざまなメディアから流されるだけだというのだ。
その理由として日本では,情報が一方向からしか流れないことを指摘した。具体的には,官僚,東京,同業者からしか情報が流れない状況になっているのだという。
まず,官僚からの情報の例として示したのが少子化問題。この問題を取り上げるとき,他の先進国と比較し,「男性の権利が強く,女性が弱い国ほど少子化が進んでいる」という結論が導き出されている。
しかし,世界を見てみると,アフガニスタンやサウジアラビアが出生率の上位に来る。逆にウクライナや白ロシアは出生率が低い。本当にこの結論は正しいのか。官僚は自分たちの論理を押し通すために,一部の情報しか出さないと断じた。
また「東京には情報発信能力があるが,情報(コンテンツ)はない」とも述べた。例えば,流行は地方で発生し,東京に入ってきて初めてマスコミが取り上げるが,
地方で流行っている段階では誰も取り上げない。スポーツや事故,選挙などの話は地方から入ってくるので,
地方のことを知っている気になっているだけ。実際には,日本の全国で何が起こっているのか国民はほとんど知らない状況に置かれているとした。
最後の,同業者からしか情報が流れないという例では銀行を挙げた。「日本の銀行関係者は,どの国の支店に行っても同じ話をしている。ジョークまでも同じ」と皮肉った。
こうした環境に国民が置かれた結果,異説・異論が出ない社会になってしまったことが問題だと堺屋氏は指摘する
感染すると、発熱して細菌などから身を守る体の仕組みを、大阪大医学系研究科などのグループが突き止めた。
科学誌ネイチャー・コミュニケーションズ電子版に9日、発表する。
グループは、白血球の一種で、体内に侵入してきた病原体を食べる好中球を調べた。好中球は活性酸素を
使って異物を殺す。活性酸素をつくるには、水素イオンが必要だ。
水素イオンは、好中球の細胞膜にある「水素イオンチャネル」というたんぱく質が通り道となって、細胞内から
供給される。二つのイオンチャネルが結合して働くことはわかっていたが、仕組みは未解明だった。
グループは、マウスのイオンチャネルの結合部分を特定し、構造を解析。結合部分には、たんぱく質のかけら
2本がらせん状に絡まっており、体温と同じ37度でほどけ始めた。40度になると完全に離れ、水素イオンを通す
量が増えた。
活性酸素の生成が通常は抑えられ、病原体などに感染すると発熱してイオンチャネルが開き、大量に作られる
とみられる。
サウナ風呂や銭湯に行っても税金はかからないが、温泉に行くと「入湯税」がかかる。
野球やテニスやサッカーをしても税金はかからないが、ゴルフをすると「ゴルフ場利用税」
がかかる。そうした日本の税制の根底にあるのは「カネ持ちから取れ」という
“ジェラシー動機”だ。つまり税務当局が、温泉やゴルフは贅沢だから税金を
取ってやろうという発想がある。その最たるものが相続税に他ならないと大前研一氏は指摘する。
ビジネスは、およそ法人向けと個人向けがあり、法人は大口のお客、個人は小口で手間が掛かると相場が決まっている。 経営コンサルティングの手法としては『地域一番店戦略』が有名。これは、1970年代に渥美俊一が唱えた『チェーンストア理論』の対局を為す小売戦略として、多くの地域小売業者に支持された。
なぜ2%かというと毎年少しずつですが成長を繰り返すと35年で2倍になります。親から子供の世代になる頃には2倍になるのです。
実は20世紀のアメリカは正にそれでした。自分よりも自分の子供たちが広い家に住めるだとか普通の庶民の夢が叶っていったのです。
そういう普通のことができるようになるためには経済自体がある程度大きくなっていくことが必要だと私は考えています 金利を払うためには、他の誰かからその分のお金を徴収することが必要になります。しかしその人も金利を背負っているので、
一度金利が生み出されると、どこからか奪ってこないと金利は返せないものだと思います。それは金利が金利を生むという悪循環ではないでしょうか。
竹中 経済が成長していなければ、そうなります。しかし、本来ならば経済は成長するわけです。
だから、中国やインド、ブラジルと言った成長している国と日本は取引をしなければいけません。
実体以上に不均衡にお金が流通するとお金の価値が下がります。経済は調整機能を持っているのですが、
問題は人間の欲というのは行き過ぎることです。しかし、バブルは長く続きません。バブルにならないようにする努力が求められます 今、復旧と復興はかなり進みました。しかし、全国、全世界に発信できる新しい文化というものが、残念ながらあまり活発に興っておらず、それを興そうという発想も乏しいと言えます。
私は現在も産業、特に文化・・・あの華やかだった神戸の文化の復興が遅れていると思っています。21世紀の新しいハイカラ文化を創るのは、これからです 震災直後の焼け野原は、今ではほとんど復興しました。復興住宅が建ち、個人の住宅や企業の建物は増えました。これからやるべきことは、
ここから新しい文化を育て、この地で人生を送る意義と誇りを取り戻すことです。神戸ルミナリエはその一例で、復興の証しとして神戸から新しく生まれた伝統文化のひとつであります。
何を新しく生み出して世界へ発信するか、古い伝統が壊れた後に何を見出すか、今後の課題となりましょう。 コンテナヤードも1990年には神戸が最大、横浜が世界2位でありましたが、
今や日本の神戸、横浜、東京、3大港を合わせても香港の半分に及ばない、それぐらい田舎になった。大きな船は香港か高雄か釜山に入って、そこから小分けしてローカル線で日本に来るという状態になりました。
これは、ことごとく日本の文化が官僚統制のもとに一色だからです。首都機能を移転することによって、多様な文化を育てなければいけない、新しい未来技術を育てなければいけない、 経済の中心が規格大量生産から知価創造に移るなら、都市の構造も変えなければいけない。それが「歩いて暮らせる街づくり」である
日本の経済不況は、自由化・規制緩和のせいではない。
製造業を中心とした物財の面だけを自由化・規制緩和しながら、21世紀の成長分野である医療・介護・育児・教育・都市運営・農業などを完全な統制体制のままにしてきた「偽りの改革」にある
世界の巨大な国際企業の本社機能は地方都市に分散している。
大都市に集中しているのは金融と商品の取引所だけ。今回の金融危機と大不況の原因は大都市で作られた。東京一極集中を今も進める日本が、実体経済で最悪の落ち込みになったのは不思議ではない
東京圏以外の地方は手足の機能、つまり生産現場に徹するしかない。それでも、90年までは農業保護と工場の増加と公共事業のバラまきによって地方も潤い、不平等ながらも均衡が保たれていた。
その結果、地方にも6種類の富裕層が存続できた。(1)山林業者、(2)酒造業者、(3)地場産業のオーナー経営者、
(4)中心商店街の老舗のだんな、(5)地域の建設業者、(6)医師・医療機関経営者である。
ところが、90年代に入ると、冷戦構造の消滅で経済のグローバル化が進展、日本の農業保護も緩み出した。
加えてペーパーマネーの横溢とコンピュータ制御装置の普及で発展途上国でも規格大量生産ができるようになった。
このため、日本の生産現場は縮小し、手足の機能に徹させられた地方は大打撃を受け、富裕層も消滅してしまった。
(1)山林は安価な輸入材でほとんど価値を失った。(2)酒造業は日本人の好みの変化で縮小、数も収益も低下している。(3)地場産業は中国などからの安価な輸入で壊滅してしまった。
(4)中心商店街は人口の減少と全国チェーンの進出でシャッター通りと化し、老舗のだんなもワーキングプア並みの収入という例もある。
(5)地域建設業は、21世紀になってからの公共事業の削減や談合禁止で大不況、倒産閉業が続出するありさまである。
地方に富裕層として残ったのは医師・医療機関経営者だけだが、ここにも医療行政の厳格化による医師・看護師不足の危機が迫っている。
知価社会において世の中の進化と人びとの満足拡大に必要な知価の創造に当たる人びと――
たとえばデザイナーやプログラマー、金融操作、学術芸能、プロスポーツなどに携わる人びと――は、成功・不成功のリスクが高いうえ、成功しても活動期間は他の職業より短い。
それだけに、こうした分野への人材導入を拡大するためには、成功者にはケタはずれの報酬と人気を与える必要がある。世界的に所得税の軽減とフラット税率化が推進されているのは、こうした認識があるからである。
1970年に大阪で開かれた日本万国博覧会の準備に携わった。当時の大阪には、金融、繊維、家電といった産業の中枢機能があった。
関西歌舞伎や関西文壇もあったし、今や日本を代表する文化である漫画に関しては、東京を凌ぐ多くの人気作家が大阪を拠点に活躍していた。それは、大阪の「輝ける時代」だった。
同時に、大阪は1980年代頃まで新しい産業や業態の発信基地でもあり続けた。スーパーマーケット、コンビニエンスストア、プレハブ住宅、引越しセンターなど、
大阪に発祥した新しい事業形態は数え上げ始めたらきりがない。ところが「東京一極集中」が加速し、「二重行政」の矛盾が拡大した結果、大阪が衰退し始め、日本から新しい産業が生まれなくなってしまった。
これまでは電波の独占で生じた超過利潤をコンテンツや文化事業に注ぎ込んできたが、インターネットの登場で独占は崩れた。今こそ必要なのはコンテンツ力を上げること。テレビ局のブランド力を生かすことだ」と訴えた。
また堺屋氏は、海外のテレビと比較し、日本のテレビ局のコンテンツ制作力を「素人(しろうと)芸」と表現。その理由として、
東京一極集中によるキー局主義・都道府県別の地方局制度・高コスト体質などを挙げ、「(ネットとの)融合のなかでテレビが高い文化水準を保ち日本の社会に貢献できるかは、非常に深刻な問題」と危惧した。
これからは多様な知恵の値打ちを作り出していかないといけません。知恵の原材料は情報です。情報が日本国中どこでも手に入り、そ
れに刺激されて人々が創造力をかき立て、出来たものを発信できる。この三つが確実に出来るようにしないといけない。そのためにIT立国、情報技術の優れた国にしようということです。ところが残念なことに、IT分野は日本は遅れているんです。 日本は、戦後、近代工業社会つまり、物が豊かなら幸せだという倫理観を持ちました。しかし、それも一九九〇年代から怪しくなってきた。物の豊かさから満足の大きさを重んじる知価社会に変わってきたのです。
しかし、この国の官僚は、「楽しみ」よりも「モノをどうつくるか」というモノづくりの方向ばかり考えています。
しかし、規格大量生産では、中国や韓国などの国に追いつかれています。人件費もインフラコストもずっと安いのだから。それが現在の日本の状況です。 日本のなかにモノがあふれているからモノが売れないというのは大間違いです。アメリカは日本よりずっとモノがあふれてますが、それでもどんどん売れている。
なぜかというと、人と人とが顔を合わせて物を買うことの楽しみが、アメリカは充実しているんです。
日本はこの二十年、人と人とが顔を合わせるのではなく、職場など特定の場所でかたまるようになってしまった。その象徴が「住宅の納戸化」です。
住宅が単なる物置になってしまった。 それから、子どもが独立して空いた部屋をそのままにしていて使わない家庭が増えましたね。だから私が経済企画庁長官だったときに
「子どもが独立して空いた部屋を楽しみ部屋にしよう」という運動をしたのです。大画面のテレビを置いてもいいし、
大きい水槽で熱帯魚を飼ってもいい。何より最大の問題は、高齢者を医療と介護の対象にしてしまい、楽しみの主体となるような環境作りをしてこなかったということです 政治家は運転手に行き先を告げればいいのです。民主党は「政治主導だ」と叫んで運転席に座ってしまったから失敗した。
中田 運転は技術と経験がある官僚や実業家に任せればいいと。
堺屋 そうです。政治には、政局と政策と政見があります。大事なのはやはり政見、つまり政治の哲学、倫理なんですよ。大阪維新が注目されるのは、政見を言い始めたからです。
まずね、近代工業社会は、
「物財の豊かなことが人間の幸せだ」という社会でしたから、すべてがモノ依存だったのです。それは単に消費財が増えたとかビルが高くなったとかいうだけではなくして、哲学においてもモノ依存だったのです。
だからね、学問でも物的証拠がひとつでもでてくると、いかなる推測もいかなる理論もいっぺんにひっくりかえったんです。
その一つの例が原人ブームですね。原人が日本に五万年以上前にいたかどうかの大論争があったのですが、
東北の素人研究者が発掘したという物的証拠を持ち出してきたらたちまち十万年、二十万年前にもいたと大騒ぎになった。ところがそれは嘘だった。
中田 裁判でも物的証拠が出れば勝ちですね。
堺屋 はい。学問や裁判、あらゆる面で「モノ」が最優先でした
堺屋太一「歩いて暮らせる街づくりをすれば原発いらない 買い物に歩いて行ける地域コミュニティの中に住む方がよい。だから商店街 の上暦階の 20 にがよいだろう。四十代のサラリ I マンなら通勤時間四十分ぐらいで、 子育てのできる 4 し 0 にの方が適切だろう。『 私は少子化対策の切り札は若年出産の奨励だと考える。近代工業社会では教育、就業、出産という順番が当然だと考えられているが、
これでは出産期が遅れるばかり。四十代のいちばん社会で活躍するべきときに子育てが大変で、親の介護まで重なったりする。
教育期と出産期を重ねるようにできないものだろうか。十代後半で出産すれば、親が四十歳ちょっとのときに子どもは二十歳で独立している。
子どもが子どもを産んで育てられるのかといった批判もあるだろうが、大学には学生のための託児所の設置を義務づけ、
ママさん学生には奨学金を出し、育児を社会で支える環境をつくるべきだ。学生の間は勤めているときよりも自由時間は多く、育児にも時間が割けるはずだ。かつての日本では十代の出産は珍しくなかった。
今の状況は近代工業化社会が企業に都合よくつくったもの。大学生や高校生が子どもを産むことをふさわしくないとか、みだらであるというふうに考える今の倫理観や美意識を変える必要がある
先鋭的で実験的な小規模の演劇というのは、基本的に近代化途上・激動期の社会のもので、成熟期においては不要となる。成熟期の演劇は、より洗練され、
商業的なものにならざるを得ない。現代社会は、先鋭的な演劇を基本的に必要としていない。だが、劇団の数は異様なほど多いし、劇団員になろうという若者は後を絶たない。
それは、今の日本のような過渡期の社会では、「何をすればいいのかわからない」若者が多く発生し、充実感のある仕事を探すのが簡単ではないからだ。その演劇の質にかかわらず、仲間たちとともに稽古に汗を流しながら、
1つの公演をやり遂げれば、とりあえずの充実感があるだろう。だがほとんどの場合、外部からの批判がなく、金銭がからむ興行的なリスクもないために、
文化祭や学園祭やお祭りなどをやり終えたときの充実感と大して変わりがない。現代の劇団員のなかには、単に無意味な苦労をしているだけなのに、それを充実感だと思い違いしている若者も少なくない
我々が五感によって認識する世界は、心とは独立した客観的実在ではなく、心に思い描いたものが現れた現象界なのであるから、
心のあり方によってどのようにでも現れる。従って、人間の実相はあらゆる善きものに満ちた神の子であるという真理を悟れば、現象世界においても幸福が現れる。
コープが追求する合理的な消費生活の戦略、つまり、共同購入によって流通コストを抑え、
また、価格決定過程を公開することで不当な流通業者の利潤を排除し、消費者が団結することで価格決定力を握るといったやり方は、かれらのメンタリティーとも見事に一致してきたのであろう。
先述した葬儀事業には、このようなコープの合理主義思想が典型的に示されている。従来のどんぶり会計で行われていた葬儀を、単価計算からやり直して見積もりを積み上げる明朗会計方式に改め、消費者が納得できる葬儀を実現した 阪神・淡路大震災からの復興は、仮設住宅が五年で解消され、街並みも整ってきた点ではよくできたと思う。しかし、かつて神戸の特徴とされた進取の気性が十分生かされていない。
既製の枠組みから新たな産業や文化は生まれない。ハードよりソフトを、といいながらソフトを生み出そうという意識は乏しい。私は「21世紀のハイカラ・タウン」
を前面に出すべきだと強く主張してきた。「神戸ルミナリエ」は成功したが、創意工夫を凝らした集客力のあるイベントを、年に十回はやる必要がある。それが情報発信なのだ。
「阪神・淡路メモリアルセンター」も単なる震災の記録だけでなく、集客力や情報発信力を持ったものにしてほしい。その発想がない限り、新たな文化の発信にはつな
がらない。
神戸に「ハイカラ・タウン」のイメージを抱くのは、今や中高年以上だが、二十一世紀もそう呼べるようにしなければならない。このままでは一地方都市になってしまう。
「絵はがきになる街」をつくろうと提唱してきた。モノの復興はもちろん大事だが、イメージづくりを先行し、それに合ったモノをつくる発想がほしい。東京文化の受信ではなく、神戸からの発信こそ。
世論の力で流れを変える。これが理解されない限り、復興はいまだ途上といえる。
知価社会とは、物財の数ではなく「満足感の多いことが人々の幸せ」だと考える社会です。
日本は、80年代に人類史上最高ともいえる完ぺきな近代工業国家を築いたものの、90年以降あらゆる面で後退しました。その日本そして神戸が、満足の大きさが大切な世界にどう対処するのか、非常に大きな問題です。
今、地球規模でグローバル化が進み、世界の各都市が国境を越えて競争するようになりました。すべての国で首都圏の比重が低下し、中堅地方都市が急成長しています。
神戸が、この都市間競争に勝ち抜くためには、近代工業社会のシンボルであった海上都市ポートアイランドから、知価社会を体現するような魅力を発信する必要があります。
堺屋氏は言う。「今、日本には危険な傾向が充満している」「その一つは、世界を襲った金融危機と大不況を、
世界経済のグローバル化と経済構造の自由化のせいにする主張が広まっていることだ」「だが、実際はまったく逆…日本の失敗は改革の不徹底、グローバル化の立ち遅れにある」
「この国の問題は、製造業を中心とした物財の面だけを自由化。規制緩和しながら、21世紀の成長分野である医療・介護・育児・都市運営・農業などを完全な統制体制のままにしてきた『偽りの改革』にある」
一つは不況そのもの。諸外国を上回る落ち込みである」「平成に入って20年余、経済の成長が鈍化したにも拘わらず、日本のヒトは終身雇用で囲い込まれ、
モノは不完全競争で割高、土地は東京一極集中で利用可能性が少ない。長期不況にも拘わらず、この国に新たな産業が育たず、
新規の起業が少ない所以である」「モノが下がりヒトが余り土地が空く今こそ、新しい起業の好機、新産業の成長のチャンスである」
http://www.osaka-kyoiku.ac.jp/~kokugo/nonami/1997soturon/isidanaoko.html ところが、ここに一つの大きな問題が発生しました。商品の供給者は玄人であり、
消費者は素人です。当然、玄人は素人を簡単にだますことができるのです。実際、
市場にはまがいものの商品がはびこり、供給者が消費者からお金をだまし取る
という事件が頻発しました。
自由経済が根本的に持っているこの難点を解決するために、自由経済システムを
補強する第三番目の原則が導入されることになりました。それが「情報の公開」
という原則です。すなわち、新規参入の自由、消費者主権、情報公開、この三点が
一セットとなって初めて円滑に機能するのが自由経済なのでした。
////////////////// 堺屋 太一, リチャード・C. クー ///
日本人の間では、この自由主義市場経済は、「イギリス生まれアメリカ育ちの
アングロサクソン的経済制度である。世界のどこにでも通用するものではないのだから、
日本には日本的経済制度があってもよいのではないか」という声が少なからず
聞かれます。このような考え方が、二〇世紀も終わろうとする現在果たして成立する
ものなのでしょうか。
政治の世界では、民主主義が世界のどこで始まったかを議論する時代は
とっくに終わっています。「デモクラシーはイギリスやフランスなどのヨーロッパ
諸国で始まった。だから、我々は西欧的ではない独自の政治制度を採用
するのだ」と公然と語る政治家は、ごく少数の孤立した国々にしかおりません。
民主主義的政治制度は、いまやまぎれもなくグローバルスタンダードです。 新規参入の自由を認めるかぎり、市場には「猥雑なもの」や「いかがわしいもの」が
入ってくることは避けられません。しかし、これらを「下品だから」とか「危険だから」といって
規制する、権力者や独裁者であっては自由主義は成り立ちません。商品の選択権は
あくまで消費者にあります。市場の競争のなかで、消費者の判断を通して、
下品なものや危険なものを淘汰してゆかなければならないのです。言い換えれば、
「大衆の英知」を信ずることこそが、自由主義市場経済の根本精神といえましょう。
だが、安心してはいけない。遠からず、不況の「二番底」が来るからだ。
二○○九年の世界経済は政策支援の「集中治療室」状態、各国とも生命維持装置の
カテーテルが何本も繋げている。
しかし、やがてそれを抜きはじめる。その時こそ本当の衝撃が走る革命的改革期だ。
恐らくそれは、一一年にはじまるだろう。本当の「凄い時代」である。
なぜそうなのか。今次の不況が巨大な文明の転換に起因しているからだ。
それは欧米で進む「知価革命」だ。「物財の豊かさが人問の幸せ」という近代思想が失われ、
「満足の大きさこそ人間の幸せ」という知価社会的発想が広まった。これに対して中国を
中心とする東アジアには、近代工業社会の思想と体制が確立した。この文明的なずれこそが、
世界経済の凸凹構造の基盤である。
この凸凹構造が維持できたのは、ドルを基軸通貨とするペーパーマネー体制があったからだ。
赤字垂れ流しでも、ドルの地位と価値を保っだのは、借り手が存在したからである。
アメリカ金融界は、様々な借り手を創り出した。その究極がサブプライム・ローンだった。
世界経済は変化する。長期的にその方向を決めるのは人口問題だろう。
高度に発達した近代工業社会は高学歴化と晩産少子化を招く。東アジアの国々ではそれが
急速に進んでいる。一方、知価革命の進むアメリカでは、出生率が増加している。やがてこれが
凸凹構造の緩和に役立つとしてもずっと先のことだ。
これからの世界は、こうした条件の中で再生を図らねばならない。財政支出垂れ流しの
不況対策だけで済むことではない。
だから「凄い時代」が続くのである。
変革は機会を与える。「凄い時代」こそおもしろい。これを活かすには、五つの条件がいる。
第一は気質。変化を歓び、改革を好む気質だ。
第二はアイデア。これから大事なのはビジネス・モデルだ。
第三は先見。成長分野を嗅ぎつける感覚と将来を見通す予測能力である。
第四は勇気。自らを信じて撃って出る決断力である。
そして第五は、少しばかりの好運だろう。
本書が読者に右の五つを与える少しの効果を持てば歓びである。
私はこの本を長い時間をかけて書いた。本来の非才遅筆に加え、「凄い時代」の世界を
丹念に追おうとしたからである。
日本は、サブプライム・ローンの破綻にはじまる金融危快では、最も被害の少ない国で
あった。全世界の金融機関が合計四兆ドルの損失を出しだのに、日本のそれは一五〇〇億
ドル以下、世界の四%にも満たない。
それにもかかわらず、実態経済の下落率は最も大きい。IMF(国際通貨基金)の予測に
よれば、二〇〇九年の日本の成長率はマイナス六.二%、震源地のアメリカのマイナス二.八%
に比べても落ち込みが大きい。
そのことを、一九九八年の小渕内閣以来の自由化・規制緩和のせいかのようにいいふらす
勢力がある。規制を強化して権限を拡げたい官僚、競争を避けて規制の温室に留まりたい弱気の
経営者、統制好きの学者や言論人、官僚の握り人形でいることに満足する政治家の類いである。
その上、日本では情報もまた、官僚とそれに繋がる少数のマスコミで囲い込まれ、事実の
半面だけを拡大する傾向が強い。霞が関の記者クラブは二一世紀の「情報出島」、ここからだけ
重要情報が発信されている。
政治家は、官僚発の情報に操られ、企業は、「お上」に睨まれるのを恐れて真実を語らない。
それでも、国民はこのカラクリに気づきだした。官僚に対する信頼の低下と、公務員制度の
改革を支持する投票結果がそれを大している。。
この大不況から回復した世界は、これまでとは全く違う社会風景を持つだろう。だがそれは、
官僚規制の強化された世界ではないだろうし、そうあってはならない。グローバリズムの後退は、
孤立主義と国際的対立への道でしかない。そのことを決して忘れてはならない。
現代が、例えばかつてのように「暴利をむさぼる資本家」や「民衆を抑圧する権力者」という「絶対的な巨悪」を想定できない時代 建築家ル・コルビュジエが提唱した「輝く都市」の理念に沿った内容で、都市の機能は住居・労働・余暇・交通にあり、
都市は「太陽・緑・空間」をもつべきである、としている(高層ビル建設によるオープンスペースの確保、地域を用途別に区画、歩道・車道の分離など)。
アテネ憲章は機能主義による明快な都市計画理論として、各国の都市計画に大きな影響を与えたが、1950年代にはCIAM内部でも批判が起こり、その後も様々な立場から批判を受けた。
しかしもし流通網が全世界に広がり、うまく機能していれば、戦争なんかせずに、経済的な交流によって危機を回避できたはずでしょう。
大東亜共栄圏のような経済ブロックなどつくる必要もなかった。世界中に飢えや貧困がなければ、戦争など起こらんわな。だから、流通を盛んにし、物流だけでなく、
情報の行き来も、人の交流も増やして相互理解、相互依存を深めていけば、戦争という非常手段に訴えなくても危機を乗り越えられるはずでしょう。
ところが生産を中心にすると、マルクスやレーニンが言ったように、大量生産がやがて過剰生産となり、恐慌がおこったり、あるいはその過剰生産物を消費するための市場を海外に求めて、植民地獲得のために侵略戦争を起こすという悪循環となってしまう。
だから、視点を変えることが大事なんや。アジアの中の日本と考えれば、工場がアジア諸国に移っていったって、空洞化やないわな。今まで東京にあった工場が仙台に行き、仙台から青森に行ったのと同じで、それが上海へ行ったり、
天津へ行ったりするだけのことや。日本は今、これだけ賃金が高いんやからね。労働力の安いところへ生産拠点が移動するのは、当たり前のことや。そうでなければモノはつくれない。日本が、海外から労働力の流入を本格的に認めりゃいいよ。
だけど日本人は、外国人が入ってくるのを好まないからね。そうでしょ? それやったら、工場を外へ持っていかなしょうがないじゃないですか。
そんなもん、空洞化なんて大騒ぎする必要はない。東京から地方へ工場が移るとき、東京の空洞化なんて大騒ぎしよるか? 誰も言わないやないですか。
文化と文明をごちゃ混ぜにして、おかしなことを言うとるよね。現代の我われの文明は、日本だろうがアメリカだろうが、
西欧で生まれた近代文明の共通基盤の上に成り立っている。たしかに文化はそれぞれ違うし、個性もある。これは当たり前ですよ。
日本人は縄文時代からこの日本列島に住みついとるわけだし、移民の国のアメリカとは文化は違う。我われ、日本民族は黄色い顔をして御飯を食っとる。アメリカ人が肉食っとるからといって、
我われにも同じように「毎日肉食え」と言ったって食えないわな。あくまで相対的な差ではあるけれど、文化の差はある。
しかし、近代文明が生み出した科学技術はどこでも一緒ですよ。日本の車がアメリカの車と違って特殊に動くわけじゃない。やっぱりガソリンエンジンで動く。原理は一緒や。
共通の近代文明の上に立っているのに、文化の差を持ちだして日本が特殊であるとか、異質だのとかの根拠にするのは言い訳にすぎないでしょう。
たしかに日本が発展途上国の時は、従来の政・官・業が一体となった日本型システムというのは機能したかもしれない。事実、通産省あたりを中心に産業保護育成策をとり、貿易黒字で外貨を貯めこんで日本経済をここまでもってきた。
しかし、経済大国になってからも今までのやり方を継続するということはできんでしょう。円高となり、物価も賃金も世界一となった。しかし、円が1ドル360円から220円、
そして100円台にまでなったというのに、円高のメリットがどれだけ国民に還元されただろうか。さまざまな規制が、メリット還元の邪魔をしてるやないですか。
時代は変わったのだから、政策の中心も産業の保護・育成から、生活者のための豊かな暮らしの実現にシフトする必要がある。今までの生産者優位の時代から生活者優位の時代に変わらなくてはいかん 簡単に言うと、大東亜戦争というものは日本が植民地経営に乗り出そうとしたことから始まっているわけやね。日本には石油がない。
資源のない国がどうにかしようとしたら、19世紀から20世紀のはじめにかけては、帝国主義的な侵略と植民地経営しかなかった。日本は遅れて近代化した国で、
その遅れを何とか取り戻すために中国や朝鮮半島、東南アジア各地への進出を画策した。そのためアメリカ・イギリス・中国・オランダによる、いわゆるABCD包囲網が敷かれ、身動きできずに自暴自棄となり、絶望的な戦争に突入していったわけでしょう。
昭和初期の金融大恐慌のとき、失業者が町にあふれていた光景は今でも忘れられない。その失業者たちを救済するために、軍需産業に力を入れ、
それで大儲けした財閥が軍部を支援して悲惨な戦争を起こしたわけでしょう。ドイツも第一次大戦、第二次大戦と、同じようなことをやったわけや。そんな悲劇を繰り返さんためにも、生産中心の仕組みを流通中心、生活中心に変えんといかんわな。
流通業も、単にモノを売りさばくだけでなくPB(プライベートブランド)の開発など、自ら生産に乗り出していってますね。
これも、「流通が生産をコントロールする」という今のお話の延長上にある動きと考えていいのですか。
中内 メーカーはどの分野でもほっとくと寡占状態になってしまうわな。どこでもだいたい数社で市場を占めている。ビールにしたって、四社で市場を独占してるでしょう。そうなると寡占価格になり、物価はなかなか下がらない。
これを打破するためには、我われのような大規模小売業が、メーカーに対する拮抗力=カウンター・パワーとして独自の商品を作っていく必要がある。そのためのチェーンストアなんでね、我われは。
たとえばコンビニのローソンだったら、約6千店の店舗がある。ひとつの店舗が、一日におにぎりを100個売れば60万個さばける計算になる。
おにぎりを60万個つくれる工場をもってたら、我われ自身が市場で価格決定する力をもちうるわな。
20世紀は残念ながら軍事技術が世界をリードした時代でありました。だから、軍事技術によって優れている国が同盟の中心になり、世界をリードし、国連も安全保障理事会という軍事関係の理事会が中心になっています。
ところが、これからは環境と都市の問題、これが世界人類の最も重要な技術になるのではないでしょうか。そういうときに、日本のように経済的にも技術的にも先端を行く国が新しい首都機能をつくるとなれば、
世界中から惜しみない知恵と技術が出てまいります。これを現行の日本的なこの東京や大阪の過密なまちに使われた法令ではなくして、全く新しい時代にふさわしいものをつくっていくべきではないか
それでも雇用数を変動できる臨時労働力は必要である。欧米諸国では、
その多くが新来の移民労働力に委ねられている分野といえる。この国では、それを職縁社会に入り切れない「無縁人」に押し付けることになった。
低賃金で雇用も不安定な「無縁人」には同情を禁じえない。しかし、官僚規制によって日雇い派遣などの臨時雇用をなくせば、
この国の産業、とりわけ流通サービスや都市機能維持は高コストになり、社会の質の劣化と職場の海外流出を招くだろう。日本全体が貧しく不便で住みにくい国になるに違いない。
堺屋太一氏は、「パチンコは団塊の世代を取り込んだことで成功した。しかしこのまま行くと団塊世代の高齢化によって衰退していくだろう。そうした中でパチンコは世界に冠たる日本文化であるという自負を皆様が持ち、
パチンコ文化を次の世代に繋げていく必要がある。そのためには、パチンコの象徴的な施設を作る、高齢者向けの施設を作る、パチンコという遊びをかっこいいイメージにする、などの各施策を行う必要がある かつては全国画一化が大量生産の工業化社会建設に有利だという考えだったらしい。こんなところまで。また、住宅地・工業地・商業地などに区域を分け、学校の近隣での酒類販売禁止、病院のそばにはパチンコ店開店不可、
など「大きなお世話」のような規制が多すぎる。著者は同じ規制であれば「この地域は騒音何ホン以内」などの環境規制に変更すべきだという 堺屋太一氏はこうしたやり方では日本が衰退しかね いと危機感を表明している。 野田政権は官僚主導で国にカネを集め、官僚の権限を強化しようとしている。この社会主義的手法は、旧ソ連と 同じ官僚主導で、遠からず日本は衰退す 日本のなかにモノがあふれているからモノが売れないというのは大間違いです。アメリカは日本よりずっとモノがあふれてますが、それでもどんどん売れている。なぜかというと、人と人とが顔を合わせて物を買うことの楽しみが、
アメリカは充実しているんです。日本はこの二十年、人と人とが顔を合わせるのではなく、職場など特定の場所でかたまるようになってしまった。その象徴が「住宅の納戸化」です。
住宅が単なる物置になってしまった。 それから、子どもが独立して空いた部屋をそのままにしていて使わない家庭が増えましたね。だから私が経済企画庁長官だったときに「子どもが独立して空いた部屋を楽しみ部屋にしよう」という運動をしたのです。
大画面のテレビを置いてもいいし、大きい水槽で熱帯魚を飼ってもいい。何より最大の問題は、高齢者を医療と介護の対象にしてしまい、楽しみの主体となるような環境作りをしてこなかったということです 日本のジャーナリズムの共通点、自分で熱くなるのはスポーツ記者だけです。
特に文化に関しては、ひどく想像力を失っていまして、新しいことを、
理解して拡大して伝えることが、ないんですよ。だから、何かを言われたら、
それを過去の何かの事例に当てはめて、過去にあったどこかの箱のなかに入れて、
それで議論をしてしまうのが多い。
特に、インパクの記者会見に来ているのは、経済部の記者という場合が多いので、
どうしても、インパクを経済企画のように受け止めていますよね。
「何社出店しますか?」「何億円くらいの価値がありますか?」
「経済効果は、どうですか?」と聞かれますから。 平成になってから国会議員やテレビタレントに二世が増加しているが、
それ自体は日本社会全体を歪めるほどの大きな数ではない。だが、それを生み出している人脈格差とそこから生じる情報偏向は重大である。
・ 東京の独り善がりは地方に対してだけではなく、外国に対しても著しい。日本に入る外国の情報は、
東京にある官庁かマスコミを通じたものに限られているため、多様性が乏しく慣例と思い込みで偏っている。
21世紀のはじめの数年間、「BRICs」という言葉が流行した。ブラジル、ロシア、インド、中国の頭文字を連ねた造語だ。しかし、この4カ国には何の共通点もない。〜(中略)〜さて、こんな異質の4カ国を連ねた造語を作ったのは、
ゴールドマン・サックスのジム・オニール氏。「次の成長有望国」として束ねて大型投資を促そうとする意図があってのことだ 環境問題とエネルギーの関係だ。80年代後半からは原子力発電の放つ微量放射能が一部の植物に悪影響を与えるとの説が支持された。
このため、オーストリア、ドイツ、スウェーデンでは原子力発電所の新設は禁止され、建設中の原子力発電所を急遽天然ガスの施設に転換させた。
当時は原子力よりも化石燃料を燃やす方が「自然保護」という主張が通ったのである。
ところが、2006年頃から石油価格が上昇すると、地球温暖化に対する警告が急速に高まり、原子力に対する考え方も変わりだした。世の中の見方、いい方も景気と価格に影響されるのである 被災地で文化活動に否定的な考え方が広がるのではないか、ということだった。関東大震災前の日本は、東京を中心に文化が成熟し、
近代化への道筋ができていった時期。そこへ起きた震災は、自由やぜいたくへの天罰だと受け止め、質実剛健を目指そうという反文化的な動きが出てきた。
阪神・淡路大震災後の関西でもすでに、テレビ番組や行事を自粛する動きが出ていた。文化の宝庫である兵庫で、生活の回復に紛れて、
文化活動の自粛が起こってはならない。危機感を持った私は、「兵庫でおにぎり(生活復興)か文化かといった二者択一は間違っている」とした考えをさまざまな形で訴え始めた。
従来の産業中心のまちおこしは時代遅れだ。重工業が盛んだった昔の神戸に戻るのは間違い。むしろ、住民を中心に住みよいまちをつくるべきだ。例えば、米国のサンフランシスコやオークランドのように、
一度住んだらよそに行きたくない、という素晴らしい住環境をつくればいい。そうすれば、さまざまな人が集まり、産業が自然に生まれ、学校も立派になる。米国の新産業も、風光明美なベイエリアで生まれている。
高村 二次元というのは線を引いても色を塗っても何か形があらわれるわけで、意味が必ずくっついてくる。意味というものを拒否するような色の塗り方をして、
なおかつ、ロスコの場合は誰にも真似ができないんですよ。ものすごく薄く溶いた絵の具を幾重にも塗り重ねるんです。前に立った人に、もうこれは何を描いているかということではなくて、何かすごいものを見たという身体経験をさせてしまう。
高村 二一世紀の初頭に、私たちが二〇世紀に蓄積してきた近代理性の言葉が、本当に行き詰まっているというような感覚と現実がある。
一つの例がオウム真理教ですよ。オウム真理教は超能力から始まった。超能力なんてものを大学出の学生たちが信じてしまうこと自体、
まさに近代理性の終わりですよね。同時代に生きた私たちとして一番知りたかったことは、
オウムは宗教なのか宗教でないのかという部分です。結局そのオウムを否定する言葉というのは、人間の言葉なんですね。人間として人間の言葉で彰之は否定をするわけです。
作家は錬金術師だ。原料(事実)がなければ何も生み出せない鋳造工のジャーナリストとは異なる。事象として立ち上がっていなくても社会に流れる見えない風。それを感知し、
フィクションの作品に仕上げる。読者はそこに「真実」を発見し、感動し、社会や自分を見つめ直し、時には人生の指針すら手にする 堤 日本人の身体言語は、多様性を持っていますか? よその国の身体言語とくらべて。あるいは画一性に冒されていますか?
小池:本来、多様性はあると思います。そういう輸入文化の国でしたから。たとえばバレエをやらせても、日本人の単なる身体ではなく、アジア的な別個の身体性があるわけで、
それらをとりいれて、混合していく能力は高いと思うんですよ。音楽でいえば「序破急」的な流れと西洋音楽、それぞれに柔軟に対応できます。ですから可能性はあるんです。
でも、そこから先の問題が大きい。いかにそのポジションからオリジナリティを生み出せるかが問われます。取り入れるまでは良い。
でも、取り入れた段階から少し行ったくらいで満足してしまう。テレビの影響が大きいのだと思いますが、非常に画一的な視覚文化、画一的な音に流されてしまう面が強いと感じます
堤:なるほどねぇ。僕も毎年、ろうあ学校の生徒の作品を、何枚かの絵はがきにして送ってもらうんだけれども、絵画的表現がすごい多様なんです。
これはね、身体的な不自由がかえって、平均化されることを拒否しているんだと思います。人間のからだの表現ひとつとっても、こんな見え方がするものかと毎年思わされていますよ。
やっぱりテレビは画一化に向かっているよなぁ。大衆を組織するというか……だからテレビ時代になればなるほど、本来のあるべき舞台芸術のマーケットとして小さくなっていきますよね。
これまでのクラッシックな排水型の船型では大きなエンジンを載せても14・5ノット前後が実用上限界となっていた理由で、
「グランドバンクスのデザインや内装の品質は申し分ないが、クルージングスピード10〜12ノットはいくらなんでも遅すぎて買えないんだよね」という話をよく聞いたものです
ところが、新しいグランドバンクスは変わりました
現代的でVハルに近い形状で滑走します
しかし、普通のモーターボートのようになってしまうと以前のような安定感がなくなり、既存のグランドバンクスファンは離れていってしまう恐れがある危険な挑戦です
見事です
何が見事かと言うと、グランドバンクスの乗り味が残されていることです
どっしりとした走り出し、内径しない旋回、以前の乗り味と変わりません
スピード感を感じませんが、GPSを見ると18ノット前後のクルージングスピードで走り、トップスピードは20ノットを超えるので、余裕も残しています
竹中 そこがまたものすごく事実の誤認があるわけです。日本にも格差がありますけども、
それは競争によって生まれた格差か、制度が歪んでいるために生まれた格差かという議論をちゃんとやっていない。
例えば、正社員と非正規社員というのは競争が生んだ格差じゃないんですよ。これは制度が生んだ格差なんです。
競争の結果、格差が拡大することはあり得ます。でも競争の結果、格差が拡大する、それほど激しい競争は日本社会にはないですよ。
繰り返して言います。競争の結果、格差が拡大することはありますから、それに対してセイフティネットは整備しなければいけないけれども、
なんか、いまある格差が全部規制緩和で生まれたというような、こんなムチャクチャな議論はない。ほとんどが制度的な格差ですよ。
加えて、私が政策としてぜひやってほしいと思うのは、労働市場改革です。安倍総理の総理指針というのは、その意味では非常に適切で、労働のパートタイムを保険に入れるようにしようということになりました。それはやるべきです。
パートタイマーが保険に入れるようになるということは何を意味するかというと、正規雇用と非正規雇用の区別をなくそうということです。現実問題として、正規雇用と非正規雇用の格差はひどいです。
同じ仕事をしているのに、片や生産性よりもはるかに高い賃金をもらい、片や生産性より、それを補うためにはるかに低い賃金でやっている。
このような格差は、ほうっておいてはいけません。ところが、これには労働組合が反対します。しかも、パートの人が保険に入るのに対して経営者も反対します。経営者はやはり自らの改革をすべきです。
【公 示!】
【映画について語り合おう】という
新スレが立っている。非常におもしろいし、
参考になる。
映画情報の決定版!
一読してみたら? 「地面と床」公開リハ@KAAT
期待できそうage 「安倍総理は嘘つき」ポスターに“貼り紙”で逮捕
http://5.tvasahi.jp/000004173?a=news&b=nss …
←もっと大々的に報道して下さい!特に「不正選挙」の部分!
「未来の党に投票したのに....」の思いを引きずってきた数千万の人たちが、
朝日馬鹿テレビのおかげで、開眼します。今夜よりPCの前に座って「12・16不正選挙」を検索します。
ネット検索で真っ先に目に入るのは同名の書籍の情報です。書籍をすぐに買わないにしても、
ネットで情報を集めます。RK言説に触れます。数週間で、驚愕の覚醒を経験することになります。
覚醒者を一気に増やすには、テレ朝さんにはもっともっとオウンゴールしていただきたい。
その美味しいニュースを徹底的に反復してください!
http://リチャードコシミズ.at.webry.info/201304/article_161.html
ネット選挙:検閲口封じは、安倍晋太郎の秘書だった輩が運営する団体がやるそうです。
http://リチャードコシミズ.at.webry.info/201304/article_147.html
統一CIA麻薬密輸教会が半狂乱で削除しまくる「安倍晋三の統一教会祝電」動画。
消せば消すほど、世界中のサイトに有志が嬉々としてUPLOADする。
【安倍晋三】統一教会と自民党清和会の関係【福田赳夫】
http://www.dailymotion.com/video/xyj6xp_yyyy-yyyyyyyyyyyyyy-yyyy_news#.UVuusWSChUE
小泉進次郎の背後には凄まじい巨大な怨念の集積がある。
バックにいる暴力団稲川会は自民党戦後史の闇を作り出してきた。
作ったのは朝鮮人と曝露された児玉誉士夫。祖父の小泉純也も朝鮮人、
稲川会は朝鮮系暴力団だ。恐ろしい事件多数
小泉進次郎の朝鮮の血脈隠しが進んでいる。
泰道照山(曾祖父で元エスエス製薬会長)検索出来なくなっている。
小泉進次郎の父方の曾祖父(鮫島彌三衛門、小泉純也の父、
鹿児島の朝鮮部落出身、小泉純一郎の父)も検索出来なくなりました。
https://twitter.com/東海アマ 堺屋氏はまず、「日本はインターネットが発達し、ブログも活性化している。しかし、発信数が多いのと、情報量が多いのは全く異なる。
現在の日本は、発信数は多いかもしれないが、情報に豊かさがない」とばっさりと切り捨てた。日本では同じ情報が何度もさまざまなメディアから流されるだけだというのだ。
その理由として日本では、情報が一方向からしか流れないことを指摘した。具体的には、官僚、東京、同業者からしか情報が流れない状況になっているのだという。 小説を読んでお金が儲かるなら経営難の銀行や会社の役員はみな勤勉な読書家になっている。小説が健康にいいなら病院も医院もとっくに
本屋や貸本屋に転業している。小説で品性がよくなるなら議員諸公は選挙のときに自分の蔵書を得意そうに連呼するはずだ。
そうなっていないのは、小説を読んでもお金にはならず、健康のためにも役に立たず、品性向上にも効果がないからである。では何のためにわたしたちは小説を読むのだろうか。暇潰しのために読むのだ。
だが良い小説は、わたしたちのその暇を、生涯にそう何度もないような、宝石よりも光り輝く「時間」に変えてしまう。しなやかで的確な文章の列が、おもしろい表現や挿話の数数が、
巧みに設えられた物語の起伏が、そしてそれを書いている作者の精神の躍動が、わたしたちの平凡な暇を貴い時間に変えてくれるのである 井上ひさし↑
谷恒生
近代史観」から離れて民衆が求めた伝承や魔術や呪術などの精神の歴史[4]を、「五感によって明らかにされるこの物質的世界の背後には、超感覚的な霊的世界が存在する[ 「都市」とは建物等の施設(ハードウェア)が大量に集まっているところを言う。
「都会」とは都市的生活と産業が集積された結果、創造性と洗練されたライフスタイルが定着し発展する状況を指す 東京オリンピックの年に正子はその喧騒に背を向けるかのように西国巡礼の旅に出かけるのですが、途中の山の上から新幹線が駆け抜けるのを見やりながら、
「お前は最新の物だと誇らしいだろうが、すぐに壊れてしまう、それに比べればこの大和の自然・文物・文化は千年・二千年の長きに亘って続いているのだ、ざまーみろ」
といったような感想を述べた一節があったように記憶していますが、現在の地震・津波・原発災害を目の当たりにすると、何か物事の真髄をついているように思えるのです。
戦後の日本はアメリカ型の文明をモデルとして必死で追い付け、追い越せと頑張ってきたように思えますが、
これを機に一部ヨーロッパ、北欧が目指している様な、あるいは古来の日本の自然を畏敬しつつ、調和のとれた新たな文明へと転換していかなくてはならないのではないかと 高村薫
農村の自然、農民のしたたかさを歌人らしい眼で描いている。日本人は土地があってこその民族だと私はつねづね思っているんです。
近代化につれて、わが国の第一次産業は隅へ隅へと追いやられているけれど、日本人は、体を動かすこと、
あるいは土地に根づくことによって、初めて世界観とか人生観とか、あるいは美的感覚とか、いろんな日本人なりのものを獲得して来たんだろうと思います 有栖川有栖
「すでにみんなが知っている面白いもの」を新人に読ませてもらおうとは思っていません。
「あなたが見つけた面白いもの」を投じてください 日本では広告は必要悪の様に思われていますが、本来広告は、生産が上がる、大量生産効果でコストが下がるというそういう広告理論でした。最近は広告は心理的価値を上げるものにもなっています。
例えばラグジュアリーブランドがあります。広告によって持っている人がいいものを持っている様に思う。すると本来の値段の何十倍の値段で売れる。これは持っている人が満足して嬉しく思う事が、市場原理の広告の価値になっているという例です。
こうした状況を日本でもつくり、日本初のブランドを世界に広げられるようにしたいと思っており、そういう意味で広告の規制緩和をしたいと思っています。今まで広告は汚いものだと思っていたものを変える。
2〜30年前は服に広告をつけている人はいませんでしたが、今はTシャツは全て広告がついています。情報の一つとして重要な意味があるのです。楽しみ特区では、広告規制は全面的に緩和して大いに華やかで楽しい特区を作ろうと思っています 過去の例を見ると、不況の時に着手した万国博は必ず成功しています。例えば1975年に開催された沖縄海洋博。
この準備が始まったのは1973年秋ですが、まさに石油ショックの真っ只中であり、日本は戦後最大の不況時でした。一時は中止論さえ出ましたが、実際は大成功。沖縄を日本一の観光地にする原動力になりました」
「海外でも大成功だったのが、1992年のセビリア万博です。準備が始まった1990年は日本のバブルが弾け、米国でもジャンク・ボンドが破綻し、S&P(貯蓄貸付け組合)
が1000以上も行き詰った時期でした。ところがセビリア博は入場者が予想の1.6倍で、大変な黒字になりました」
「1933年開催のシカゴ万博は、株も物価も大暴落している世界大恐慌の1930年に準備が始ままりますが、それも大成功し、それ以来、不況期に準備が始まる万博は大成功するといわれています。同じことは愛知万博にもいえます。日本の2003年は景気が悪く、
株が大暴落した時期でしたが、2205万人が訪れ、規模のわりには大成功でした 「まず万博は、文化と経済、私たちの生活に大きな影響を及ぼします。1970年に開催された大阪の日本万国博覧会を例とすると、動く歩道、ワイヤレスフォン、
缶コーヒー、ファーストフードなどは、この万博で登場し、その後、私たちの生活に普及しました。またリニアモーターカー、テレビ電話、電気自動車なども登場しましたが、いまだ普及途上にあると言えます」
「開催都市にとっては、考えも及ばない発展を意味すると思います。大阪でも名古屋でもその後の約10年は発展しました。
パリとシカゴは輝かしい文化を創った例です。パリでは4回も万博が開かれましたが、ヨーロッパで一番文化の多い都市となりました。それまではむしろ文化と言えばウィーンでしたから」
「2010年以降、うまくいけば上海は世界の文化の中心になると思います。デザイナーたちもそう信じています。都市に地下鉄ができるとか、
ビルが建てられるとかは小さなことで、大きな文化の発展や情報発信の意味では、ずっと歴史に残る大きな出来事になるでしょう」 こうした堺屋先生の行動の原動力はどこにあるのかな、と私はかねがね不思議に思っているのですけれども。
堺屋
恐らく「好き」ということでしょう。新しいものを作っていくのには一つの公式があります。まず、何よりも目的をはっきりさせなければなりません。
こういう目的でなになにをやりますという目的です。それから次は具体的な概念、コンセプトです。これを作るというのは一番大事なことだと思います。ただし、たいていの場合は、誰かが作ったコンセプトを繰り返し使えるわけですけれども。 満足が大きいとは、主観的なものです。物財が多いのは客観的なものです。二十歳の時に小型車を買ったほうが、四十歳になって大型車を買うより幸せだよと、
こういう議論になっています。そうすると、消費が先行して貯蓄が減少しますから、需要が多くて、供給が少ない。知価社会に先行したアメリカは貿易赤字になるわけです。ここから通貨問題がおこるのです。
貿易赤字のアメリカは、ドルを垂れ流すようなってきます。そのドルを使って、アジアの国が工業化していくわけです。アメリカは近代工業社会から知価社会になり、規格大量生産が衰えました。だから、アメリカは大量にものを日本から買いました。
一方で、ドルを垂れ流したことで、アジア諸国、やがて中国が工業化してきます。その時に、日本も世界の知価革命の潮流について行かなければならない、とわたしは盛んに申し上げたのですが TPPに加わらなければならない。しかし、現在の日本には「嫌や嫌や開国」の情報が流されています。
例えば、農水省は食糧自給率というのを持ち出しまが、これはカロリー自給率です。カロリー自給率を出している国は日本と韓国くらいです。他の国は市場価格自給率なのですね。
だから、高級品を作れば自給率が上がるわけです。つまり、日本は食糧増産に邁進した食糧不足時代の政策をひきずっているのです。これからは日本は高級品を作って農業を輸出産業にしなければなりません。
去年の上海万国博覧会の日本産業館では、日本のブドウやりんごを売りました。日本料亭を作って、一食二万円の高級料理を出しました。
いずれも大好評でした。高級品を売るという発想を持ってきて、日本の食品をブランド化しなければなりません 日本政府館はいったい何を行ったかというと、要するに伝統文化と先端技術の切れっ端の羅列です。だから、新しい文化の雰囲気は出ません。
私どもは、逆に伝統文化はもう言う必要がないと考え、「J感覚」というのを、まさに今の若者の文化を知らせることを行いました。そうすると、中国の人は大変喜ばれた。
今までの日本の文化外交というのは伝統文化の一部を切り取って見せる、いわば日本の特殊性を打ち出すのです。日本はこんなに違います、ということを言いたがるのです。
しかし、これからはどこの国でもはやっているものの先端が実は日本にありますよということ、そういう日本の普通のところをよく見てもらいたいと思います 日本ではものづくり優先、特に、大企業の規格大量生産優先というのが続き、なかなか知恵の値打ちを発揮するというところまで行かなかったのです。なぜ知恵の値打ちを発揮できないかというと、その原因は官僚統制なのです。たとえば金融商品取引の市場でも、
デリバティブは日本ではごく少ない。商品市場はもう消滅しかかっています。世界中の商品先物市場はこの10年間で4、5倍の規模になっているのに、
日本は4分の1になっています。これは、ことごとく規格大量生産時代の仕組みで対処しようとした官僚統制がその要因なのです。 企業にとって万博出展は膨大な費用がかかるが、一体企業にとっては何のメリットがあるのだろうか。
「まずは社会貢献。つまり上海の人々を楽しませることです。次は新しい技術、新しいやり方でやるということで、技術の開発になり、
思想や美意識でのイノベーションにつながります。三番目は、企業が万博に出ることは業界を代表することです。そして世界に向かって企業の『旗を立てる』ことになり、存在感を高めます 倫理観以上に移ろいやすいのは美意識だ。戦前には自己顕示欲は見苦しいものであり、剽軽(ひょうきん)は恥ずかしいことだった。
勝利の悦びを顔に出さず敗北の口惜しさを口にしないのが美学だった。
それが今ではことごとく逆、男女を問わずテレビカメラに顔を突き出し、就職試験では剽軽を売りものにする。
勝てば全身で悦びを表し、負ければ思いつく限りの言い訳をする。その方が喝采を浴びる いつの時代にも変化はある。企業は盛衰し、技術は革新され、人事は代わり、流行は変化した。
だが、80年代から始まった変化は、技術進歩や規模の拡大といったものではなく、文明の根源をなす倫理と美意識を一変させるものだった。
スポーツでいうならば、技術の進歩でも、ルールの変更でも、選手や観客の交代でもない。
競技そのものが変わったのである。あえて言えば、大相撲からプロレスに変わったようなものだった。 経営者は、この20年間とってきた昔ながらの考え方を捨てなければならない。大量生産、合理化、安売りではなく、
いかに多様で新しい価値を生み出していくかに心血を注いでほしい。そこにしか、日本が浮上する道はない
知価ブランドの商品値段は高額です。「そんなものにお金は出せない」という人も出てくるでしょう。その一方で、知価ブランドが提供するイメージに共鳴した人は、
高い意思決定コストを乗り越えるだけの強い思い入れがあるぶんだけ、そのブランドを手にすることで
「他の人とは違う」「いつもとは違う」という、非日常的な経験を味わえるのです まず起業する際には、その企業のコンセプト、概念を明確にしなければなりません。一体どんなテーマの仕事をしようとしているのか。
小売店なら、安売り店なのか高級品店にするのか、百貨店か専門店か。どこかのまねをしようとしているのか、独創的なことをするのか。
そして、息子に譲るのか、自分一代で大きくしたいのか、個人でお金もうけをするのか、企業を大きくするのか・・・。
そのコンセプトに向かって、技術も場所も資金も人材も全部合わせねばならない。
ところが、多くの人はそもそもコンセプトというものがないんですね。 経営者だからこそ、自分の好きなことを知り、自分の好きなことに参加してくれる同志を集めることが余計に重要になってくるんです。
ただ、形もない中でコンセプトを作っていくという空々漠々たる作業を煮詰めるには苦しさが伴う。すると必ず、「君、そんなことじやだめだよ。それなら応援しない」
という輩が出てきて、ならばと、つい軌道修正してしまう。コンセプトは現実の行動に移さねばなりませんが、
現実的という言葉がしばしば「着手容易性」にすりかえられてしまう。これが、事業の失敗する最大の理由です。
現実性とは「目標実現性」なんです。ところが、世の事業者の多くは、そんなこと言っても現実に金を出してくれるのはこの人です。そんなこと言っても今あるお店はここです。うちの従業員はこれしかできません。
私も年ですから・・・と、すぐに着手容易性に逃げてしまう。これが危険なんです。その内に、コンセプトがガチヤガチヤ変わってしまって、何をやっているのか見失ってしまう。
もう一つ重要なことが「憤り」です。今の会社にも世の中にも不満がある。その憤りが経営者の大事な要素になる。要するに「俺が、俺が」なんです。
俺が変える、俺が作るんだ、とね。松下幸之助さんは九二歳で死ぬまで憤りの塊でした。
ところがね、今は情報が簡単に入るし発信もできる。お金も余って低金利。土地も人も余っている。それだけに目移りして、自分に対する厳しさを保ちにくい時代でしょう。
それにね、憎まれる生き方をできる人が少ない。新たに起業するというのは、既存の企業から見れば迷惑な話で、コンセプトを貫くのは我が儘です。だから、嫌われる。
しかし、嫌われることを怖がらない人物でなければ、変革期の経営者は務まらない。それはやはり信念ですね。 成長志向を捨てる気質の転換も欠かせない。目に見えた人数とか組織図とか事業項目とい
った体質の問題の他に、社内に満ち溢れている成長志向を否定しなければならない。成長以外に
何らかの倫理的目標を与えなければならない。鮮明な理念の創出が必要なにである。
もう一つの方法は成長継続の試み、つまり市場開発や事業多角化の推進である。これは安定志向
への転換よりもはるかに着手し易い方向だろう。社内全員の賛成も得られるし、理念の創出も不
必要だ。だが、着手し易いことと目的が達成されることとは別問題だ。豊臣家は、この着手し易
い道を選び、そして滅亡するのである。「日本に領地を拡げる余地がないなら外国に行けばいい、
朝鮮があるではないか」という発想になった
豊臣家の後を継いだ徳川家康は、成長体質と成長気質を否定す
る縮小均衡政策をとる。家康とその後継者は、きわめてドラマチックな方法を行った。彼らは成
長志向そのものが悪であることを示すための実例教育を繰り返したのだ。まず、関が原の合戦で
徳川方として活躍した福島正則、加藤清正、加藤嘉明、最上義光らの家を次々と取り潰した 新しい発想と対人技術と評価基準が必要である。まずは、「三比主義」か
らの脱却である。「三比主義」とは、「前年比」「他社比」「予算比」の「三比」を評価基準に
する経営、または組織管理方式だ。今日の日本では、「三比主義」が企業の業績を評価する基準と
して一般化しているが、実はこれこそ「拡大即利益」の発想を制度化した悪しき拡大志向の表れ
である。
単年度利益追求主義では、それが継続的に利益を生んだのか、利益を生まなくなった後ではどの
ように処分されたか、長期的体系的な判定を明らかにすることがない。80年代にアメリカを中
心に盛り上がった企業売買や不動産開発事業の多くが、結果的には行き詰まったのも、このため
である。
利益の質を決定する要素は何か。これまでの研究で明らかになっているのは、次の三つである。
第一は外延性、つまり当該利益が組織の外に延びているか、同じ組織内でのタライ廻しかを計る
ことである。第二の要素は継続性、つまり当該利益が長期的に継続する性格のものか、一回限り
または一時的なものかである。利益質の第三の要素は好感度、つまりその利益を上げることで好
感が得られたか、反感を募らせたかである 人間が本当に幸せであるためには自分の好きなことが実現できなければならない。そのためにはお金と自由な時間が必要である。
賃金の上昇はともかく時間短縮が日本で進まなかった原因として貯蓄願望に代表される
日本人の未来志向型の体質と労働を賛美する習慣からの勤勉は善であるといった性向があげられる。
近代以前の人々は勤勉な労働よりも深い思索を重んじたが、近代社会ではこれと反対に勤勉は善であるといった思想が支配的になった。 ECをみならい日本と東アジア諸国との経済共同体を作ろうとする動さがあるが、日本とアジアの間にはEC諸国間にみられるような政治的連帯感も
経済的補完構造も文化的共通点も希薄であるからこの構想は政治的に危険であるのみならず経済的には日本に過剰負担を強いること、
さらに文化的には摩擦の種となることが懸念されるのでこの構想は長い目で見て日本にとって良いことはない。
日本人は文化を体系的に考えることはしない。1970年代にはすべてを「経済」として考えるようになった。
しかし経済は「幸せの手段」の一つで究極的な人生の目的とはなりえない。東アジア共同体は日本の発想と制度と基準を、
すなわち日本人の倫理感と美意識を、東アジア諸国に押しつけることになる。すなわち「八紘一宇」のような特殊民族的文化を異国に押しつける結果となり、
日本への憎悪を招くだけとなる。日本の模倣は表面的な行為の模倣であり「普遍的近代文明の普及」という精神的裏付けを欠いているからである 未来の世界のシナリオは3本ある。最初は先進国と後進国が別々の世界としていきる道、第二は経済援助や環境保護を飛躍的に拡大する道、
第三は新しい価値観で歴史的発展段階を拓く道である
意見が割れていて中庸で解決できない問題とは既成の概念では解決不可能である。それで未来へのシナリオとして第三の道が登場する,
これは客観的な充足性よりも主観的満足を追求する新しい価値「知価」を追求することに幸せを見つけだす世の中にすることである。
「やさしい情知」は足りないものを節約するのが正しいと信じる倫理観を、豊富なものをたくさん使うのがかっこよいと感じる美意識である。この精神が新しい発展段階「新代」に通じる道をつくりだす意志にまで高まる可能性が高い 第一の道の先進国だけでの経済統合やブロック化を押し進め自らの繁栄と安定を追求することも短期的には不可能ではない。
この方法は短期的にはもっとも容易ではあるが政治を人類と文明の根本問題から離れさせる危険を生む。
官庁の権限と組織の拡大を望む官僚達は自分の省の権限と予算を削ってまで未来に尽くすことはない。
これでは地球環境は加速度的に悪化し、やがて途上国からの人口洪水が襲ってくるだろう。これは世界経済の破壊につながる 最初の道とは反対の第二の道をとると大規模な発展途上国援助と大量の難民受け入れ、資源エネルギー消費の大幅削減を先進国が実行すればいいのか。
全地球的な所得格差の是正を「正義」と考えるなら全世界では毎年40兆円の援助が必要になる。この資金源をどうするかがまた問題になる。先進国内で税金として徴収すると増税になり不況を招き後進国からの輸入が減少することになり後進国の不況をますます煽ることになる。
軍事費を削減すると先進国の景気全体が冷却する。資源エネルギーの消費を性急に抑制するのはもっと深刻な不況を招く恐れが十分ある。
また後進国への開発援助の増加は後進国の内部での貧富の差をますます拡大することになり地場産業が破壊される可能性が強い。このことはまた資源消費量の増大や新たな環境問題を深刻にするに違いない おもしろいことに発生した余暇の楽しみ方の違いは余暇を楽しむ余裕をえた時期の社会的技術条件と時代性にも関係している。
最初に余暇を得た欧州の人たちは当時ようやく整備された新技術の成果である鉄道や汽船で遠くに出かけるため長期間の休暇をとるようになった。
次に余暇を得た米国人たちは普及した自動車であちこちに出かけるレジャーが米国型休暇の過ごし方となった。
最近になってようやく余暇を得た日本では高度なエレクト口二クスを駆使した孤独な密室型の遊びであり自己満足の世界でしかない力ラオケやパチンコ、コンピュー夕ーゲームなどの日本が開発した代表的レジャーが一般的である。 飢餓に苦しんでいる本当の理由はモノ不足ではなくて力ネ不足である。
というのは苦しんでいる彼らの生産品が大量生産品に押されて商業性を失ったからである。
人類の倫理と美意識が変わりつつあり、物材節約の倫理感と時間のうまい使い方をしている人がかっこいいとの評価を受けることになり、
工リート社員よりも遊び上手の知恵者がもてる傾向にある。余力スタイルとして資源消費型から感覚刺激型へ移りつつある。
いつの時代でも新しい生き方をまず体得するのは庶民である。 電力会社の改革について言うなら、発送電の分離をやらないといけない。東電は送電網を売却して原発事故の賠償金に充てるべきです。3兆円ぐらいで売れるでしょう。
その上で、発電は誰でも参入できるように自由化する。小渕内閣ではそれを手がけたんですが、数年で立ち消えになりました 本当に「友達」「親友」といえる相手はそう多くめぐり合えるものではないでしょう。
おしゃべりをしておもしろいとか、酒やスポーツが楽しめるという程度では、厳密な意味での
「友達」「親友」ではなく、いわゆる「遊び仲間」の域を出ないでしょう。
興味を持ったら、自分一人で試してみる。
誰かと一緒にやってはいけません。
一緒にいることが好きなだけかもしれないから。 堺屋氏は、海外のテレビと比較し、日本のテレビ局のコンテンツ制作力を「素人(しろうと)芸」と表現。その理由として、
東京一極集中によるキー局主義・都道府県別の地方局制度・高コスト体質などを挙げ、
「(ネットとの)融合のなかでテレビが高い文化水準を保ち日本の社会に貢献できるかは、非常に深刻な問題」と危惧した でなんでそんなに若者達がみんな東京へ行きたがるのかというと、仕事があるからじゃないんですね。今求人倍率といって人を募集してる、仕事があるから人を募集してるところ、それから仕事を探してる人の比率を見ますと、
東京は決して仕事の多いところではありません。一番求人倍率が多いのは去年は何故か急に香川県になったんですが、岐阜県・長野県・群馬県・栃木県、その辺が割合高いんですね。東京は下から数えたほうが早い。
それにもかかわらず東京に人がくるというのは、やっぱり「おもしろい」んですね。東京に住むことがおもしろい。多様性がある。情報が流れてる。
まあそういうようなことが大きく影響しています。だから、これからのふるさと創生にはどうすれば町がおもしろくなるかという、大変重要な問題があります。
ところが、今までの政府の考え方は、全くそうではありません。どうすれば仕事ができるか、どうすれば便利になるかということは考えましたが、どうすればおもしろくなるかということは一切考えなかったんですね 1.「稚夢」をみること。これを理念に変える。
2.「鬼迫」をもつこと。自分の理念で、人を動かさないといけない。
3.「人才」をもつこと。好きなことは才能につながる。人脈ができる。
4.「佛心」をもつこと。人の失敗を許す。けなす人は多い。これがなかなかできない。 多くの人は、自分の「好き」なことを勘違いしている。例えば「有利」だから「好き」。医者になるのが有利だと知って医者を好きになっても、よい医者にはならない。
次は「慣れ」たから「好き」。会社の人事畑を10年続けた人をヒアリングすると、その会社の人事にはもちろん精通している。しかし、人事理論を 1 時間は語れない。好きかどうかの目安は、そのネタで誰かと熱い話ができるかどうか 政治は気質、価値観というのと、政策というのと三つあるんですよ。 人脈格差によって政治家やテレビ芸能界に「二世」が多いのは、東京の限られた地域と人びとのあいだで次が選ばれるせいだ。
もし、人材の登竜門が全国の地方政界や地方放送局にあるとすれば、これほどの「二世ブーム」にはならなかっただろう。
同様に「職縁・無縁」の格差も、終身雇用・年功賃金による正規社員の固定から始まっている。
職縁社会に入り込んだ正規社員に年功に応じた高給を払い続けるためには、職縁社会に入り切らない非正規社員をいっそう安価に抑える必要がある。
また、経済が低成長になれば、正規社員を中途採用するのはますます難しくなる。ポストが先細りになる中堅以上のポストは、年功で上がってきた正規社員で埋め尽くされているからだ。
日本の格差は、人脈、情報、地域の固定化で拡大している。ここで「格差是正」を口実にした官僚規制を強化すれば、ますます流動性のない格差社会となるだろう。 第2の、「弱者が悲惨なまでの貧困と屈辱に陥るのを防ぐ」という点でも、
官僚の恣意的規制や助成を広げてはいけない。弱者の悲惨を救うのは、格差是正ではなく安全ネットの構築である。
これからの日本を満足度の高い世の中にするには、格差是正のための派遣規制や産業補助ではなく、安全ネットと市場経済の組み合わせである。
もっとも、この安全ネットをどの水準に設定するか、それを誰がどのようなかたちで負担するかで、絶えることなき議論が続くだろうが 若者の感覚は全く新しい。基調はキレイ、カワイイ、ヤサシイ。90年代から始まった文化で、それまでの日本文化からはかけ離れている。
無国籍で超時代、そして完全な平等性が特徴。ポケモンやセーラームーンが代表的だ。私はこれを『J感覚』と呼んでいる。
平等ということでいえば、日本には若い人々の間で下手を喜ぶ文化も生まれている。特別の強さやうまさはいらない。タレントにクイズをさせたり、
お笑い芸能人に曲芸をさせたりするテレビ番組が流行るのは日本だけだ。非専門の下手を許容するやさしさともいえる。こうしたJ感覚をアジアの人々にもっと知ってもらうことが重要だ 最近の若者を見ていると、議論せず、お互いの長所を褒め合うだけになってきている」。異説・異論が出ず、議論がない社会では、
今後成長の糧となる独創的なアイデアは生まれない。また独創的なアイデアを生むためには、
情報の豊かさ、源の多さ、多元性こそが重要。これがない日本は、国家として非常に危険な状態だと懸念を表明した。
こうした時代の中で、今後企業が生き残るには、大勢観察、長期的な観察、歴史の学習をすべきだとした。加えて、「裏話と早耳情報は信じてはいけない」とも。
「裏話は、面白おかしく伝えるために本来とは違った内容になる。また早耳情報は、自分の耳に入ったころにはみんな知っている。そんな情報を信じてはいけない」と忠告した。 高齢化社会は、医療保険と年金で大変だ、世の中が貧しくなる、というのは、大蔵省と厚生省が作り出したマインドコントロールでありますが、高齢化社会はそれほど恐れることないんです。
今、財政再建が大変だ、日本の国は、国と地方自治体とそれから国鉄債務みたいなのをあわせて500兆円もの借金がある。
大変だ大変だといっておりますが、日本は今、外債を発行しているわけではありませんから、500兆円国債・地方債を発行していても、その分は誰か、
日本人の誰かが持っているんですから、差し引きチャラです。私たちの子孫は500兆円の国債を引き継ぎますけれども、個人資産だけで1200兆円、
皆さんの貯金があるわけです。それも子供たちが引き継ぎます。それから、不動産とか社会資本とかいうのが2000兆円ぐらいあります。
これも子供たちが引き継ぎます。だから終戦直後、何にもなしからスタートした我々の世代に比べると、私たちの子孫はずっと豊かです。 そして第3番目にはソフト化の時代が来たということです。今までは情報化といっていたんですが、情報化とソフト化は似て非なるものです。ちょうど国際化とボーダーレス化、
少子化と高齢化が似ているようで違うのと同じように、情報化とソフト化は違います。情報化といわれたのは、物を作るか、それを売るか、それに関する金融か、根底に何か動くものがあって、そのための情報だったんですね。
だから情報化が一番進んでいるのはまず銀行、その次は商社、それから大手メーカー、こういうところが情報化が進んでいる。情報そのものでお金を取るのは、
日本はとっても遅れたんです。これは、アメリカが断然上手だったんですね。いわゆる「コンテンツ」というんですが、情報の中身です。要するに、楽しみを人に見せて銭を取る、これが日本では非常に遅れた ところが今までの日本の行政が、大変間違えたのは、音楽堂や美術館を作る、ここもそうですが、必ず森の中へ作ったんです。これは文化が衰える一番速い方法なんですね。
文化的な町、世界的に有名な文化都市は、劇場や美術館がどこにあるか、たとえばニューヨークにカーネギーホールという、
お聞きになったことがありますか、有名なんですよ、カーネギーホールはどこにあるかというと、7番街という一番の商店街のど真ん中なんです。パリのオペラ座はどこにあるかというと、サンチノーレというブチックがたくさんあるど真ん中にあるんです。
売春婦が一番立つところにあるんです。ウィーンのブルーム劇場というのは、環状道路の真ん中にある。
だから音楽会に行く人帰る人が商店街を歩くんです。したがって商店街も流行るんですね。音楽会に行った人も帰りに飯を食うとかお茶を飲むとかできるんです。ところが日本は、明治の初めから、文化というものは大変崇高なものだと、
ルノアールとかベートーベンしかないと思ってますから。ですからそういうものと猥雑な商店街を一緒にするなんて恐れ多いと思ったんですね。これがこの、明治からの今日に至るまでのエリート官僚の一番悪いことです。
それでなるべく商店街と分けて、遠い森の中、緑の中に作ったんです。したがって音楽会に来た人は、飲まず食わずで帰らなくてはいけない。商店街には文化的な人が来ない あの人は都会的な人だ」とは言うが、「あの人は都市的な人だ」とは言わない。「都市」と「都会」とは違うのである。
「都市」とは建物等の施設(ハードウェア)が大量に集まっているところを言う。「都会」とは都市的生活と産業が集積された結果、
創造性と洗練されたライフスタイルが定着し発展する状況を指す。そうした観点から言うと、
いままでの我が国の政策はもっぱら都市整備政策であって、都会振興政策ではなかった。これからは都市整備から都会創造へ転換していかなければならない。 コレラ、毒婦、妖怪学、千里眼、西郷伝説…。明治から大正、昭和にかけての近代日本に生まれては消えていったおびただしい数のうわさ。人々の欲望、不安、怖れを乗せ、時代の裂け目より噴出し、
世間を駆け抜けていったうわさは、庶民の精神を正確に映し出す真実の鏡であった。ウソをマコトに、マコトをウソに、
いとも簡単に変換を可能にする装置“うわさ”を素材に、近代日本の透視図を描き出したサントリー学芸賞受賞の力作評論 いわゆる「いいお店でないお店」は、店のショーウィンドーを見ただけである程度判断できてしまいます。
そう、ショーウィンドーに並んだスーツやネクタイなどなどにペタペタと値札を大書して貼ってあるお店。こういうお店はまずダメだと考えて間違いありません。
服や靴などモノの価値は貨幣価値だけで換算出来るモノではありません。値札がついているとついついそのモノを貨幣価値を前提に考えてしまいます。ショーウィンドーに飾る行為は、
そのお店が今、どんな装いを提案しているのか、あるいは基本的にウチにはこんな質のいいモノがある、ということをアピールする行為だと思います H&Mはいったい何を変革したのか、その本質は何か、5年間を総括すれば三つ?の革命が見えて来る。
第一はモードの階級性を否定してモードの民主化を果たした事だ。ユニクロはコモディティ(生活必需品)としてのカジュアルを民主化したが、
H&Mは本来、階級的なモードを民主化したのだからインパクトはさらに大きい 原子力発電は少なくとも数十年必要だと思います。そのために、もっと完全に安全にしなくてはいけない。現在の日本の原子力発電の最大の欠点は“基準主義”なんです。官僚が定めた基準に合格すれば、絶対に事故が起こらない、
官僚は絶対に間違えない(としている)。従って、事故対策のダメージコントロール(=被害を最小限に抑える事後の措置)
がまったく考えられていないんです。だからまず、原子力を再開するにあたっては、ダメージコントロールの仕方、訓練、機具、方法を明確に示して、さらに3ケタくらい安全性を高めてほしいですね」
「私は通産省のサンシャイン計画で、風力、太陽光、地熱を3年半担当する研究官でした。それで、よく分かるんですけども、
自然エネルギーで相当の(エネルギー)比率、例えば20%を賄うことはきわめて困難。時間もかかるし、電力料金も上がるし、
不便も付きまといます。そういう意味で言いますと、天然ガスと原子力のある程度の利用は避けられないのではないかと思いますね」 戦後、石油文明の時代は、エネルギー多消費型の生活態度、社会構成がいいことになっていた。住宅地から工場街やオフィス街や商店街に、長い距離を電車や高速道路で結ぶんだという計画を立てた。
これは明らかにエネルギー多消費型なんですね。ここは住宅専用地、工業専用地と分けて行政するのがやりやすいという官僚的発想なんですよ。省エネルギー型の生活、
美意識に変えなければならない。例えば、歩いて暮らせる街づくり。だいたい1キロ半径の中にすべてのものがあると。住宅もあれば商店街もあればオフィスもあれば、遊興施設もあれば病院も学校もあると。そうすると、
少なくとも10年間に25%ぐらいのエネルギーを減らせます。そうすると、今の原子力発電も順次やめていくことも不可能ではない。この東日本大震災を機会に、官僚主導の文明から自由選択の文明に変える、これが1番大事なポイントですね そもそも国会等の移転は、知恵の時代といった新しい時代に対応して日本を変革するために必要なのであり、文明・文化の問題である。
それが途中から過密防止や地震対策に矮小化されてしまった。本質に立ち戻って、構造改革の問題として審議してほしい。
・現在の日本の混迷の重要な原因は一極集中であり、これは官僚システムによって進められてきた日本特有の現象である。 国際的な知恵と技術を導入すべきだということです。つまり、これからつくる新しい首都機能の所在地には、現在の建築基準法とかさまざまな土地規制法、
そういったものを持ち込まないで白紙にいたしまして、そして考えるべきではないかと。この世界中の知恵をこのために持ち込んでくる。
それは建築技術、土木技術というハードな面でも、また法律、統制、行政、あるいは地域コミュニティの形成というソフトの面でも、硬軟両面の世界の知恵を持ってくる。そのことによって、日本がこれからつくる
この21世紀に極めて重要になるであろう都市技術の最先端国、最も知恵の集積した場所になることができるでしょう。
20世紀は残念ながら軍事技術が世界をリードした時代でありました。だから、軍事技術によって優れている国が同盟の中心になり、世界をリードし、国連も安全保障理事会という軍事関係の理事会が中心になっています。
ところが、これからは環境と都市の問題、これが世界人類の最も重要な技術になるのではないでしょうか。そういうときに、日本のように経済的にも技術的にも先端を行く国が新しい首都機能をつくるとなれば、世界中から惜しみない知恵と技術が出てまいります 今回の遷都論は、はじめに土地ありきの考えを排したところに大進歩があった。何を重視するかの尺度選びをすれば、自然に候補地は収斂してくる」「何より国有地の有無にこだわってはいけない。
63%が国有地といわれる成田(空港)がもめ、大阪万国博覧会では、たった90日で100万坪買えたのは、全部民有地だったからだ 東京、大阪など主要都市との連絡の利便性を考え、山梨、長野、愛知、静岡、岐阜、滋賀、三重などの本州中央部がいいというものである。
さらに、その構想をベースとして、同年、『「新都」建設』も書きあげた。
「『新都』への地理的移転という、だれにでもわかりやすい刺激を与えることで、国会にも各省庁にも組織機構と政治行政手法の抜本的な検討を迫ることができる。
個人の家でも、企業の本社でも、場所が移るとなれば、不要なものは整理するし、住まい方も日々の行動も改まる。
人間関係も一新して、これまでの生活様式と家計支出も変わるものだ。政府行政機関でも、『新都』への移転となれば、
みんなが今後のあり方を真剣に考え、長いしがらみや利権からも抜け出せる。日本が半世紀も続いた『官僚主導業界協調体制』を打破するためには、そんな刺激が不可欠である ます第一に遷都論というのがございました。昭和三十六年ごろから、富士のすそ野とか浜松とか北上とかいうような遷都論がございました。
この遷都論はことごとくまず場所ありきという不動産的発想でございまして、ここにこういう場所があるからここへ来たらどうだという話でござ
いました。私は、場所を言うべきではない、ます機能や必要性を説くべきだというので発想を転換いたしました。
〜バブル時代の話は全部場所論でございましたから〜
ところが、ます何を移転すべきか。何を目的にして何を移転すべきか。そしてその規模はどれぐらいか。ちょうど我々が家を建てる、あるいは会社を建てるときでもそうですが、
この建てるものは一体何であるか。本社なのか工場なのか商店なのかということを決めて、そこへ入るものはこの規模だ、だからこういう建物がよくて、こういう構造がいい、
そうなるとこういう敷地がいい、こうこなければいけないのですね。初めに敷地があるから何か使おうなんというのは
大体業種多角化で失敗する会社のやることでございまして、やはり最初に目的が明確でなければいけないというところがあります。 そして三番目はソフト化です。このソフト化というのもなかなか理解されていません。情報化は理解
されていますが、情報化というのは情報を得て、それによって物の生産流通もしくは金融に役立てよう
ということです。ソフト化というのはソフト自体が目標とした価値を持ったものになる時代です。
そうなると創造力を働かす社会、個性の社会になります。地域開発にしてもいかに個性を訴えるかで
す。だから東北にも北海道にも日本で一つしかない世界で一つしかないものを作らなければいけない。
これが今一番難しいところです ケインズのような反マルキシストも、私は社会主義は嫌いだけれども人類の行き着く先は
社会主義に違いないと書いています。ところが80年代になるとこれは大変な間違いである事に気がつ
く。多様性を求めるのは決して人間の過ちではなくてこれは満足を得る本質である。だから規格統一の
世界だけでは人間の幸せはやってこないということが言われるようになる。しかもこの多様性を作るの
がコンピュータ技術によってどんどん安くなってくる。この結果、社会主義は目標を失って退廃が起き
るようになりました。目的が達成出来ない。達成出来ない目的を与えられて努力するものは必ず退廃し
ます。そしてその日の自分の利益だけを追求するようになります。これが末期のソビエト官僚の姿です。
それで社会主義の文化というものが滅びました。社会主義は戦争で負けた訳でも経済で崩壊した訳でも
ありません。文化が信じられなくなった。社会主義、共産主義等の掲げる理想というものを人々が信じな
くなったのです。そうなると即滅びます。これは明治維新の時に武士の文化が滅んだ。終戦の時に軍人
文化が滅んだのも全く同様です この全国放送番組編成権があるので、地方の局、例えば札幌の局で作った番組を全国に流してもらお
うと思うと、その系列のキー局に全国に流してもらうように頼みに行くのです。私も名古屋や大阪で経
験がありますが、そうすると地方担当ディレクターというのが出てきて、どんな番組か見せてみろとい
うことになる。これは東北地方を舞台にしたファッションブティックの女主人と若い会社員の恋物語で
すと言うと、そんなのは東京で作るから東北で作るのは止めて、東北は減反で困って飢え死にしそうな
貧しい村のストーリーを作らないと駄目だという話になる訳です。
従って全国の人が見ていると、文化は東京にしかないように見えるのです。東京以外の事が書いてあ
るのは事件、事故、伝統行事、スポーツ、選挙だけ 三番目の文化創造活動に当たる人は東京以外でやってはいけないという制度です。これについては特
定目的の施設は東京にしか作らない。地方には多目的ホールや一般展示美術館を作るんだという補助金
交付の規則によって実現しました。専門劇場というのは東京以外に無いのです
ところが全国に多目的ホールが五つ位並んでいる街がたくさんありますが、シンフォニー
ホールが出来ている街というのは殆ど無いのです。あるいは体育館、格闘技専門体育館として、東京
には国技館や武道館や後楽園ホールがありますが、地方には一カ所もありません。必ず平場にバレーボ
ール二面かバレーボールもしくはバスケットボールが二面取れるだけの平場がないといけないからなの
です。本当の相撲や柔道、ボクシング、プロレスの観戦には非常に不便です。
従ってそうしておくと、お客様は全部らしきものは見れる。歌舞伎らしきもの、音楽会らしきもの、
シンフォニーらしきもの、プロレスらしきものは見れますが本物は見れないのです。そういう本物の出
来ない所を根拠にして劇団や楽団が育たない。これが一番の狙い目だったのです。というのは、昭和16
年頃は劇団や楽団に左翼思想の人がいて、これを思想警察が統治しなければいけなかったので、東京以
外でやらせてはいけないという狙いがあったのです。山口や秋田にあったのを東京へ集めなければい
けないという時代があります。これによって文化を志向する人、創造活動を志向する人は東京にしか住
めなくなる 自由経済民主主義しか残らなくなったのです。これがフランシス・フクヤマの言う
歴史の終わりなのですが、実は歴史は終わりません。後のものは全部駄目な事が立証されたから、自由経
済民主主義というのがグローバルスタンダードだという形で出てきた訳です。
日本がこれからどういう国になるか。ここが非常な問題であります。まず第一に考えなければいけな
いのは、この昭和16年体制の中での規格基準を止めるという規制緩和、基準の廃止、規格の廃止、これ
が第一の問題です。第二番目の問題として今言われているのは地方分権、つまり有機型地域構造の形成を止めるというこ
となのです。有機型地域構造の形成を止めるという事は、第一に東京一極集中を止めるということです。
従って地方分権になります。第二には地方分権になるという事は地域の格差を認める事です。つまり地
域格差を無くすという事はとりもなおさず個性を無くするという事ですから、個性の復活というのは格
差を生むという事です。従って今迄の逆をやればいいのです。逆といえば先ず地方からの情報発信を増
やすこと、次に地方に特定目的の施設を作ること、そして名物づくりをすることで そうしますと建て替え需要はあっても敷地は広げる必要がありませんから、地下鉄
も下水道もこれ以上造る必要はない。これが今の公共事業見直しの一番の根拠なのです。人口構造問題
から出ているのです。それでそろそろ公共事業を止めないといけない。
今迄は高齢化社会が来るまでに公共事業を充実して社会資本を充実しなければいけないと言っていたけ
れども、そんなことを言っていたら社会資本を作り過ぎになって、成金の親父が豪邸を建てたあまりサ
ラリーマンになった息子は固定資産税と修繕費で破産するというよくあるパターンに決まっている。だ
からもう止めなくてはならないというのが現在大きな問題になっている訳です。
当然、工場用地も要りません。この結果、急速に膨大な土地余り社会が生まれだしたのです。現在皆
様方の東北北海道でも山林は殆ど値打ちが無いですね。静岡県の方では山林を寄付するために汚職が起
きたという。ただでもらってもらうために役場の議員に金一封を包んだという事件まで起きました。今
かなり深刻です。なかなかもらってくれません。東京辺りに住んでる人で山元にいた親父が死んだ。そ
うしたら何の利益もないのに固定資産税と道路修繕費が毎年来る訳ですから、これはたまらないという
ので、何とか寄付で受け取って欲しい。ところが村の方も寄付を取るとお金が上がらなくなって固定資
産税が無くなりますからなかなか受け取りません。 国際化という
のは国家の枠組みがあって門戸が開いている状態で
す。ボーダレス化というのは枠組みが無くなること
です。これは資本や物資や情報が自由に移動するだ
けでなく、秘匿性があるということが大事なのです。
誰が出ていったかとかいつ何が入ってきたかを調べてはいけないのです。これがその自由経済の三大原
則の一つです。自由経済民主主義というのは、第一に新規参入の自由、第二に消費者主権、そして三番
目が供給者の情報公開と消費者の情報秘匿の権利が絶対必要なのです。この情報秘匿の権利があります
から、何が出ていったか役人が調べるようなことをしてはいけない。この点が日本人にまだ全然わかっ
ていない。そんなことをしたら脱税やマネーロンダリングが起きるから全部消費流通がわかるようにし
ろと言いますが、それはマッチで放火をする奴がいるから、マッチを販売規制しろというのと同じ意見
なのです 平城京は平安京より立派なのになぜ移転したのか。司馬氏によれば、平城京は立派過ぎた、中国の長安並みのものを造営したものの、日本の国の大きさ(中国の1/10の人口)
に分不相応で、大仏など維持コストがかかりすぎた。そこで、本来の国の経済力に見合った都として、平安京に遷都がなされた。寺社勢力の政治への干渉も遷都の理由のひとつであったが、根本はコストの問題であった。 日本列島改造論が出てしばらく後、司馬遼太郎と山崎正和氏の間で行われた都鄙問答を読んだ。以下はその中から、山崎氏の文化を中心にすえた都市論の考え方を、便宜こちらの都合に要約したものである
全国への地方分散を唱えた田中元首相の考えは、一極(東京)集中を是正しようとする点ではいいのだが、しかし、5万人から30万人程度の町へどんどん投資を行って人口を散らせという考え方は、
完全な経済主義の論理であって、文化的観点が完全に抜けている。一方、文化といえどもやはり経済原則の上には立っているから、ある程度の人間が集まれる都市を育てることが重要である。
多様さがあって可能性をもった少数者が一定数いる位の人口を有する都市がいる。市民が新しい生活像を示せるような核になる都市を、地方につくることが必要であり、「多極集中説」がよい。
昔の大藩であった城下町を念頭におくとよい(司馬遼太郎も「大藩の城下町ですな」と)。したがって三十万以上から百万人ぐらいまでの都市に思いきった投資をすべきである。要するに「文化のための都市」整備である 山崎正和
「都市集中−選択は二つ、発想の大転換を」(2007年朝日新聞)
「対策の方向は二つ考えられるが、その一つはこの時流に果敢な抵抗を試みる選択になるだろう。その場合、私たちは生活水準を大幅に切り下げるとともに、
大増税のうえ、その半分を話題の『ふるさと納税』に充てることになるかもしれない。もう一つの選択は逆にこの潮流に積極的に乗り、
都市集中をより賢明なかたちで推進することである。東京の人口を現在の2倍に増やし、そのほかに十箇所ほどの一千万人都市を設けて、いわゆる多極集中をめざすのである 山崎正和
「『場所』のない時代の不安と憧れ」2012年
主張を要約すると、最近の「田舎暮らし」を求める都会人の意識は、かつての別荘地ではなく、永住生活を覚悟しているようであり、都市においては昔のような特権意識を持ちえない市民の一種の不安からくるものか。
「ITが展開する世界は場所がまったくない世界である。隣人がどこにでもいて、どこにでもいない世界のなかで、自由を極めた人類はあえて田舎の不自由を憧れ、みずからの居場所を確認したいと願っているのかもしれない 僕は「ここは駄目だよ、衰退する街だよ」と思っています。要するに何かが足りないんですよ。元佃だって、佃煮屋さんなんかけっこうあっておもしろいけれど、それだけなんです。
何かが足りないというのは、高度な資本主義社会に対応できていないんです。たとえば、若者たちが集まる今のお台場の町にしても、
本当なら佃島や月島の人が出ていけばいいところなんです。しかしそんな頭は働かないから、他所からきた資本に占められてしまい、地元はさっぱり。
どっちつかずなんですよ。つかり「ここは埋立地で、伝統なんかそんなものは全然ないんだって」というだけの開放感もない。元佃は佃煮の古い土地だとか、
そんなことをいっていても、時代に即応して少しは何とかしようというものもないんです。だからここはもう衰える一方だって、僕らは考えているわけです。 アフリカ的な都市の可能性、つまり第三世界的都市の可能性はないだろうか
と考えると、僕にはただひとつだけあるとおもわれるのです。それはようする
に草原です。草原がこれでいうと28.3%、つまり30%近くが草原だとい
うことです。草原のあとにこれを耕作地にしていくというふうに発想すれば、
たぶんアジア的段階の都市、あるいはそんな自然に近づいていくことになりま
す。しかし、アフリカにおける民族国家の政府が左翼であれ、保守派であれど
ちらでもおなじですが、とても賢い政府で、よくよく人類の歴史を見通すこと
ができ、この草原地帯を、理想の都市像に設計しようとか、理想の都市と農作
地をどういうふうに位置関係を割りふりをしたらいいか、懸命に考えて計画を
練り、その計画を実行する可能性があるとすれば、それはこの草原地帯しかあ
りえないわけです。いいかえれば、草原地帯があるということは、それができ
ることを意味します。 世界がこの先どうなっていくっていうのは、経済的理由や軍事的理由をいく
つかあげることはできても、これが主たる理由だというのはなかなか指摘しに
くくなっているということが言えるんじゃないでしょうか。それは、世界史の
全般にわたって形が見えなくなってしまっていると。つまりこれまでは、単純
に言ってしまえば軍事力と経済力のふたつを見ていれば、だいたい世界史的な
行き方と現状の対立の原因が、一般的にはわかるものではあったんですね。
しかし現在の状況を見ると、その他にプラスXやプラスαか、なにか世界史
的な理由が、あるいは世界史的な根拠があるんじゃないかと。それがなんであ
るかっていうのをよく見ないと、いろいろな間違いを起こしてしまうと思うん
です。 <横浜が神戸と異なるのは、多くの文学作品の舞台になったということである。さらには、作家そのものをこのまちは幾人も生んだ。横浜の都市成分に、そういうものも、あるいは含まれているのではないか。>
<たしかに、このまちは日本の他の都鄙と異なっている。都市に含有されている「成分」というべきものが多様で、
こういうまちに育って成人したひとびとは、倫理的な骨組みや美的な皮膚感覚、さらには自己のなかの世界像が、どこかちがってくるにちがいない。>
<三島由紀夫はその生立ちにおいて横浜とは無縁だが、その「午後の曳航」において港の背後の台上に成立した富裕な階層のもつ気分が、ある母子の特殊な状況を通じて見事に描かれている。
その台上の家はつねに外国船の出入りする港が足元にあり、非日本的なものが、台所から子供部屋、若い母親の寝室にいたるまで潮風ともに満ちていて、世界というものの華やぎと物憂さが、住む人の大脳のひだにまでしみ入っているようである。 横浜には旧幕時代という歴史があり、この点、神戸は、明治維新とほぼ同時に開港したために、
迷いも暗さも苦味もないあっけらかんとした開明時代そのものの歴史が、まちの性格を決定づけている。
しかも、神戸の゛開化゛を推進した初代の兵庫県知事が、
御殿山英国公使館焼打の犯人のひとりである伊藤博文であったということは、幕末・明治の価値の逆転史を考える上でも、
横浜と神戸の性格と歴史を感じる上でも、ひとつのつぼであることをおもわざるをえない すべてのモノと情報が、ネットのプラットフォーマーに呑み込まれていく。「いいね!」をクリックするたびに、われわれは知らず知らず、自分の首を絞めているのではないか?より快適な、
より便利な生活を追い求め、「無駄」の排除を続けた果てに生まれるのは、皮肉にも人間そのものが「無駄」になる社会…。 第二次世界大戦以前においては、大阪と東京はいわば二都として機能していた面がある。当時の日本では対中貿易の比重が高く、対米交流の拠点は東京であっても、
対中のビジネス交流は大阪が中心となっていたといえるだろう。戦後は東西冷戦構造の下で中国貿易が一挙に細り、東京中心にビジネスが移ってきたのである。
今回の電力供給不足問題、東京問題の顕在化によって、東京中心となっていたビジネスの内側から新たな展開の機運が生まれたのは極めて興味深 80年代から一世風靡したポストモダンとニューアカデミズムの思想潮流がその代表的なものであり、
解体と脱構築を言い、差異を言い、規範の無意味と逸脱を唱え、働くのをやめて遊べと言い、生産ではなく消費せよと日本人を洗脳していた。若い連中のポストモダン(解体と脱構築の主張)は、
どうやらマルクス主義が学界で飯を食えなくなった現実を悟った門下の若い連中が、
生き残りのために自ら脱皮して世の中に吹き始めた流行の説法だということは薄々わかったが、当時は現在よりアカデミズムの影響力と説得力は強かったし、
連中の高度消費社会論や高度情報社会論は、バブル経済の中で小金持ちの妄想に衝き動かされていた団塊中年たちの時代心理をよく弁証していたと言えるように思われる マルクスとウェーバーの問題意識に代わって、フーコーを筆頭とする現代思想の時代になった。
そして嘗ては「資本主義」を諸悪の根源だと批判していた者が、或いはその門下生たちが、いつの間にか「国民」を批判し「近代」を呪詛する声で学界を蓋うような景観が出現するのである。
ニューアカデミズムの若い連中が(バブル崩壊後に経営破綻する)堤清二と結託して「差異」や「消費」や「情報」を説法していた頃、社会科学の中堅重鎮たちは「総力戦体制」を呪い、「近代の解体と脱構築」の「言説」に余念がなかった。
岩波文化人も含めて右から左まで、包丁と金槌を振り上げて「近代」と「国民」の解体に精を出し、解体したと思しき机の上に「ジェンダー」と「マイノリティー」の言葉を置き土産に残していた 大量の情報を迅速に処理早く届けようと記号化し、言葉だけでなく論理も単純化する事で、本来の言葉が持つ複雑なものに向き合い説明する能力が、大人も子どもも欠如している。 季節感あふれる古典落語の名作を素材に、ふさわしい俳句を配し、今は失われてしまった旬や風物、懐しい行事や庶民の暮らしを生き生きと描いた歳時記エッセイ。
便利さに毒され、うるおいをなくした現代生活に、佳き時代の豊かな情趣を鮮かに甦らせてくれる いま情報テクノロジーの支配する社会で、もっとも痩せているのが、「文学の言葉」です。「ケータイ」とインターネットの表現が、
この国の人間の表現をおおいつくす時代が遠からず来る、それが老作家のペシミズムです。しかも、そこに大逆転の時がありうる−世界的にその徴候が見えている−という思いも棄てられません。
そうなれば、若い層から実力ある働き手の層にまで、知的で柔軟な、言葉の革新をなしとげる新種族が登場するはず、と私は信じます。その革新の手がかりとなるのが、
この国の近代化でつねにそうであったように「文学の言葉」だと続けると、我田引水にすぎるといわれるかも知れません。しかし、漱石のみならず、諭吉も、まず「文学の言葉」の人だったと考えて、かれらのもたらした流れを辿り直してはどうでしょうか?
私は永く「文学の言葉」で生きてきました。そしていま、社会の表現と認識の言葉をリードしてゆく層の人たちが、「文学の言葉」と無縁になっているのを実感します。また外国の知識人が、日本の知識人の言葉をどこに見出せばいいか、戸惑っているのにも気付きます。 梅原猛の日本人の自己認識とは、すなわち縄文文化論である。この議論はバブルとポストモダンの日本を席捲した。同時にそれは経済大国の自己認識の確立でもあった。
戦後から高度成長期を通じて日本文化の原像とされてきた弥生文化に替わって、より自然的で感性的な縄文文化が日本文化の基層とされた。
それまでの弥生文化を基調とした自己認識、すなわち器用な手先で黙々と生産し、集団の規律を守って協調的に労働し、生産物を節約して貯蓄する弥生人の表象から、
自然に対峙するのではなく融和し、自由で芸術的な感性を持った縄文人という表象に自画像の意識的転換が図られたのである。
その思想的主導者こそ梅原猛であり、要するに、意味として目的としては戦後の正統で主流の思想であった近代主義の否定であった。 司馬遼太郎の思想史においては、関東で武士が成立する以前の日本の歴史は本来的な意味での日本史ではない。武士から日本の歴史が始まる。
武士の精神こそが重要なのだ。それまでの日本史は、いわば中華世界の東端にある小周辺国の古代史である。開拓農民が武装自営するところから日本人が出発する。
武士の精神のリアリズムが合理的精神と科学的技術を蓄積準備し、幕末の対外的危機を突破して国民国家(明治国家)を
創生するのが司馬遼太郎の物語(自己認識)であり、すなわち着目点、日本人の原型の置きどころが梅原猛とは決定的に異なるのである。 「名所見物にはあまり興味が持てない。
世界遺産に熱を上げる人があまりに多いので、
そういうところに行っても私は夢中になれない。(……)
一番興味があるのは人間であり、人間の送る生活である」(P239)
人生もまた旅である。ところが、「人生が作家に既製(レディ・メイド)の物語を提供してくれることはめったにない。
実際、事実というのは扱いが厄介である。
事実は作家の想像力を刺激するようなヒントを与えてくれるのだが、
一方で作品に有害でしかない権威を行使しがちなのである」(P247)
モームはスタンダールの「赤と黒」を引き合いに出す。
スタンダールは当時有名だったある事件をもとにして「赤と黒」を執筆した。
作家はおのが理想を「赤と黒」の主人公にたっぷりと投入した。
だが、スタンダールは最後に失敗をした。
事実に引きずられ事件のてんまつを物語の流れにそむいたものにしてしまった。
モームにいわせると、スタンダールは「赤と黒」最終部分で
「事実を捨て去る勇気」を持たなければならなかったのである .
そろそろ日本の「演劇と呼ばれていたもの」が「なぜ終息したのか」について考えた方がいいと思う
. 世界一の資産大国・日本は対外不均衡や資産格差の拡大を是正できるか?経済構造の転換に対応して土地、税制、規制等の問題解決のため、いま何をなすべきかを示す意欲的提言。
【目次】(「BOOK」データベースより)
第1部 何が問題なのか-パラダイムの転換(世界一のストック大国・日本/ストック経済の背景と構図/数字と実感のギャップ-家計の高貯蓄/数字と実感のギャップ-地価高騰の影響/
金融改革の問題点/地価対策の問題点)/第2部 何をなすべきか-具体的提言
(日本型ストック経済とは何か/株価大暴落の教訓/ストック市場の規制緩和/資産課税の抜本的見直し/不動産の証券化/新しい時代の起業家活動/国際化と日本経済の問題) 直接税制のゆがみを放置したままの消費税導入は本当に不公平を解決できるか?キャピタルゲイン課税や納税者番号などの利点を生かした独創的な提案で、間接税導入論に代わる改革の戦略を示す。
■目次
序章 税制改革はなぜ必要か
第1部 直接税改革の構図
直接税の歪み是正の方法とコスト
第2章 直接税の歪みは正す価値があるか
有価証券のキャピタルゲイン税の導入
高齢化対策としての直接税改革
土地税制の歪みの是正
税制改革の戦略
第2部 税制改革の諸問題
アメリカの税制改革
固定資産税はなぜ上げるべきか
税制改革よもやま話
新型間接税は本当に必要か 東京への一極集中が続き、土地所有者の権益が保護されるかぎり、地価高騰は再び起こる。今こそ土地税制の抜本改革、計画的な高層化、土地基金の設立などの諸方策をすみやかに実行すべきだ。土地問題は解決できる。 司馬遼太郎『街道をゆく 第21巻 神戸・横浜散歩、芸備の道』P159〜
…神戸にとって、大阪は忌むべき旧時代の象徴であった。
江戸期、兵庫と兵庫港は大坂の奉行所の支配下にあり、大坂から与力一騎がやってきて兵庫における行政事務を担当していた。
江戸期の商業の一特徴は、「株仲間」というものだった。同業仲間としてはたがいに過当競争をしがちだし、政府(幕府)の保護が必要な場合もある。
新規に商いをする場合、株仲間のうち廃業したりして空株になっている株を買うことからはじめなければならなかった。
江戸中期以後、兵庫は北前船の出発港の一つとして栄えたが、廻船問屋の株はすくなく、十数軒しか許可されなかった。
このことは、大坂の同業者が、大坂奉行に働きかけて兵庫港の成長をおさえこみつづけたということがあるらしい。
江戸期、開港場である横浜も江戸に支配されていたが、そのくせ横浜には江戸を憎む感情がないにひとしいのは、
江戸が日本国の首都であり、政治・文化の権威の中心であるということがあって、江戸への尊敬心がつよすぎたことによるのだろう。
この点、大坂には、都市を装飾するところの政治や文化の権威をいうものがなく、兵庫港からみれば、そういう大坂に、
大坂奉行所を通じて支配されていることが笑止千万だったにちがいない。 「自動販売機」が、温かいうどんや、
出来上がったカップラーメンや、カンのついた清酒や、ホットコーヒーを取出口に出しはじめたとき
わが国の現実上の「アジア」は消失してしまった。 『重層的な非決定へ 団塊の秋は、日本民族の秋───。
2015年、加藤清一は、出向先の財団法人から格下の組織に異動。
2017年、二度連続落選の元衆議院議員・石田光治は、再起を賭けて東奔西走。
2020年、「できちゃった婚」で家を出た愛息はよりつかず、大久保春枝は孫に会えない。
2022年、福島正男の長男は44歳、結婚歴なし。生涯独身かと老妻の不安は募る。
2025年、IT実業家から古巣の新聞社買収話を持ちかけられた古田重明。
2028年、会社倒産から立ち直り、上杉憲三は家族経営の新事業に乗り出した。
団塊の世代とは……
1960年代の「若者の反乱」は、戦争直後に生れた人口の膨みが通り過ぎる風であった。
かつてハイティーンと呼ばれ、ヤングといわれた、この「団塊の世代」は、
過去においてそうであったように、将来においても数々の流行と需要を作り、
過当競争と過剰施設とを残しつつ、年老いて行くことであろう。 ミシェル・フーコー描くヨーロッパの知の切断を体現していたクックは最後の航海において19世紀的知の世界へと決定的に足を踏み入れた。他者との出会いは死を意味するのか? おもしろいことに発生した余暇の楽しみ方の違いは余暇を楽しむ余裕をえた時期の社会的技術条件と時代性にも関係している。
最初に余暇を得た欧州の人たちは当時ようやく整備された新技術の成果である鉄道や汽船で遠くに出かけるため長期間の休暇をとるようになった。次に余暇を得た米国人たちは普及した自動車であちこちに出かけるレジャーが米国型休暇の過ごし方となった。
最近になってようやく余暇を得た日本では高度なエレクト口二クスを駆使した孤独な密室型の遊びであり自己満足の世界でしかない力ラオケやパチンコ、コンピュー夕ーゲームなどの日本が開発した代表的レジャーが一般的である。 未来への意思を固め直すために
私たちはいまどういう時代に生きているのか,明確に答えられる人は少ないと思う.正業に就いていても確たる先が見えず,
若者は未来に希望を抱くことを知らず,誰もがそこはかとない不安と無縁でない.豊かさのなかに貧困の影が差し始めた日本社会の,緩やかな衰退の兆しを眺めながら,
これはおそらくこの国の歴史上初めてのことではないかと思い,いつになく歴史を振り返ることが多くなったのは,私だけではあるまい.自分の現在位置を確認し,
そこから未来への意思をあらためて固め直してゆくために,多くの人に本講座を繙いてほしい 1970年代のスタグフレーション(不況下のインフレ)に、サミュエルソンは有効な対策を提唱できず、
マネタリストのミルトン・フリードマン、合理的期待形成学派のロバート・ルーカス、成長論のロバート・ソロー
「赤字財政の政治経済学」の著者ジェームズ・ブキャナン、ポストケインジアンのジョーン・ロビンソン等
様々な立場から批判を浴び、急速にその影響力を喪失させることとなった 医療・医薬特区やカジノ特区が一例ですが、他にもディーラーやアナリスト、ファンドマネジャーなど、終身雇用よりも高報酬を求める専門職のための特区を作るのもおもしろいでしょう。
安全第一にだけ徹していたら、株式投資より定期預金になり、その資金を活用する外国人に支配されます。
特区の設定がビジネスチャンスになり、発展する企業も出てくるはずなのに、それでも株を買わないのは「なんでやろ?」と思ってしまいます。
官僚が規制に固執するのは、「万一安全が脅かされた場合、国会や世論で叩かれるのは監督官庁だから……」
という口実があるからです。その点、日本人は「株は自己責任の世界」と認識すべきです。堂々と積極的に投資を楽しめばいい。楽しむことは正義なのですから まず、大前提として求められてくるのは、日本人の倫理観を変えることです。率直に言って、今の日本は「おもろない」国です。
ほとんどの日本人が株式投資をやらない。それを私は「なんでやろ?」と首を傾げてしまいます。日本は世界随一の安全で平和な国だが、おもしろみに欠けてしまっている国なのです
近代工業化社会を継続し、今まで方向転換を図ろうとはしませんでした。そのため欧米に比べて、完全に周回遅れとなってしまった。
それどころか、標準化をさらに徹底し、夫婦と未婚の子どもという構成の“標準家族”が有利になる税制や住宅政策を推進しました。 デパートの文化事業といえば、売り場の片隅で「泰西名画展」のたぐいを開くのが精々だった。ところが、西武/セゾン美術館は、内外の現代美術を積極的に紹介していったのである。
世界の流れから取り残された公共の美術館を尻目に、それは一時期には同時代の世界に開かれた日本最大の窓として機能したのだった。
同じことは、劇場・映画館・ホール・出版社・書店・レコード/CD店などを通じて多角的に展開された西武/セゾン文化全体に当てはまるだろう
爛熟した資本主義の先頭に立ち、80年代をピークとして、日本の文化に大きなインパクトを与えるとともに、日本の消費社会を新たな段階へと導いたのだった。
もちろん、そうした矛盾ゆえに、西武/セゾン文化を批判するのはやさしい。文化といいながら、結局は宣伝に過ぎなかった?
だが、企業に宣伝とまったく無関係な文化事業を期待するほうがどうかしている。問題は文化事業の内容だ。それに関するかぎり、
堤清二のようなヴィジョンをもって文化事業を推進しようとする経営者は、「企業メセナ」という言葉が一般化したいまも、まだ現われていない アベノミクスの3本の矢のうち、1本目の「大胆な金融緩和」と2本目の「機動的な財政出動」
は既存の制度をどのように運用するのかというノウハウ面の政策です。それに比べて、3本目の矢である「成長戦略」はこれらとはまったく異質であると言えます
「誰が(Who)どこで(Where)何を(What)するのか? それはなぜ(Why)か?」
という4つのWが関わってくるもので、矢(制度)自体から新たに作らなければならないし、的(目的)も設ける必要があります。
しかも、「その政策を進めれば、日本は長期的に成長する」と誰もが確信できる内容でなければなりません
より多くの予算を獲得し、強い権限を持ち、内部の競争のない職場を追求するわけです。国、そして国民のことを第一に考える真の意味での“日の丸官僚”を育てなければ
日本の長期的な成長は見込めません。そのためには、公務員制度の改革も絶対に不可欠です。
安倍政権が構想している様々な特区とは、これまでの官僚の規制構造に風穴を開けるものです。
だからこそ、ことごとく官僚たちは反対しますが、まずは特区(特例)として試しにやってみて、
その分野の関連企業が成長して日本経済も活性化すれば、「こりゃ、ええじゃないか!」ということで官僚を説き伏せることができるはずです ホモルーデンスとは? 〔遊戯人の意〕オランダの歴史学者ホイジンガの用語。遊戯が人間活動の本質であり、文化を生み出す根源だとする人間観。
遊戯は生活維持を求める生物学的活動を超え、生活に意味を与えるものであると主張される 現実は一つではなく、いま直面している現実は変わる可能性があると思った。現実が"本当"でフィクションが"嘘"ではなく、現実に取って代わる可能性をフィクションが持っている。
岡田利規、J-WAVE生出演。「現実世界を確かめるためにも鏡が必要。自分たちがいる社会が非の打ち所がなければチェックする必要がないけれど、
鏡を通して確認する。そういう効果としての"フィクション"。」震災後に社会を映す"鏡"の必要性 角川春樹さんが1993年8月に逮捕されたとき、吉本隆明は「文学や芸術に立場が考えられるとすれば、たったひとつしかない。それはあらゆる悪もデカダンスも受けいれ、包み込んでしまうという立場だ 権威や因習に頼らない、自分で考え、自分で選び、自分で判断できる市民である。しかし、デパートの人気が高まると、それも一つの権威になってしまうという矛盾を抱えた。
堤さんの「作品」で、もっとも成功したものは「無印良品」だ。私たちの日常生活に不可欠なもの、それがあると生活が豊かになるものを、できるだけシンプルに提供するシリーズである。
たとえばTシャツ。どこにもロゴはなく、あるのは品質とサイズの表示だけだ。高品質で値段は安い。無印良品には一流のデザイナーたちが参加しているが、彼らの名前は表に出ない。匿名的なシリーズだ。
権威を拒否し、つくった人の名前や肩書や経歴で判断することを拒否し、消費者が商品そのものと直に向き合うよう求めた結果が無印良品だ 消費と文化の融合だった。消費としての文化、文化としての消費。あるいは、消費の文化化、文化の消費化。
たとえば、デパートの中に美術館をつくり、世界の最先端の芸術を紹介した。とくに20世紀の芸術に力を入れた。集客や入場料収入が目的ではなかった。たんにお客を集めるだけだったら、
もっと知名度のある作家を選んだだろう。しかし堤さんは、すでに権威のあるもの、
評価の定まったものを嫌った。新しいものやまだ何かわからないものと、私たち市民が直(じか)に向き合い、良(よ)し悪(あ)しの判断を自分でするよう求めた。
コマーシャルでは、商品ではなくイメージを伝えた。私たちは西武百貨店やパルコに「気分」を買いに行った。西武百貨店やパルコで商品を買うことによって、セゾン文化に参加している気分を味わった。 堤さんのやりかたを、イメージ優先の文化戦略だと批判する人もいた。消費と文化の融合について、経済による文化の取り込みではないかと警戒する人もいた。
だが、堤さんの根底にあったのは、多様な文化に触れることによって、自立した近代的な個人が増えてほしいという願いだった。権威や因習に頼らない、自分で考え、自分で選び、自分で判断できる市民である わたしがここでスターリニズムとよぶものは、スターリン固有の政治理念をさすものではなく、ソ連共産党を支配した官僚主義的な反対派圧殺や粛正をさすものでもない。
そのレーニン主義的な「前衛」論が必然的なダイナミズムによって「前衛」主義にまで抽出される過程で、
人民的な志向の核と必然的に矛盾するまで閉じられてゆく政治的な実体をさしている。はじめに、労働者階級の抽出された利害共同性を理念として成立した「前衛」論は、
「前衛」主義にまで昇華する過程で、必然的な質的転換がおこり、ついに人民的利害と前衛的利害とのあいだに、あるいは人民的生活史と前衛的生活史のあいだに価値的な転倒がおこる 京都の秋の紅葉は、寺院の庭などで風もないのに寂かに落ちていたりする紅褐色がいい。
東北の紅葉は、多様な山の樹木が緑から真っ赤まで色相のすべてを鮮やかに混ぜているのがいい。
地域の気候差、樹木の種が科の差、「自然は水際立っている」と感じる(認知する)。
その生態の謎がゲーテの認知したいところだったのではなかろうか。それはまた、宮沢賢治の迷いと信仰のあいだの謎でもあった。 あれだけのエロとグロが混じり合う世界をマンガにすることは絶対に認めたくないし、「絵にしてはいけない」 としたうえで、
「僕個人としては絶対に読みたくないし、評価もしたくない作品なのです。そういう漫画がこうも受けているというのは、
今という時代がかなりひどいということ
さらに、そうはいっても作者の諫山創さんは「進撃の巨人」を描かねばならなかった彼なりの理由が垣間見えるし、
作品を作り上げるための努力や、漫画家である前に作家になろうとしている努力があるから諫山創さんに関しては許せる、
と一応の評価は示した。そして、許してはいけないのは編集者だと話を変えた。
富野さんは、「編集者は作者の思いを理解した上で、あれとは違う表現方法を探すべきなんです。
そういうふうなコントロールをせずに、『進撃の巨人』をああいう形のまま出版するというのは、
過激な性表現以前の問題じゃないかと僕は思います」 「あの頃は、OLがランチを食べながら株の話をしているような時代でし
た。会社でもシャンパンやキャビアどの高級商品がどんどん売れ、お得意
先のホテルでは、宴会費用が1人5万円にもなった。
おかげでわたくしも高い給料をもらってはいたのですが、何かおかしい、
自分はいったい何をやってるのか…という虚しさをずっと抱えていた。お金
が実態を伴わない、ただの数字として語られる。それが嫌で、札束ではなく
金塊を盗む話にしたんです」
小説の冒頭、犯行計画を首謀する男が吐くこんなセリフは、映画にもその
まま使われている。
『福沢諭吉だったら、やる気はない。金塊だから、やるのさ』
こんな行動が成り立つ。大阪で生まれ育ち、離れたことのない人な
ら、こういうことはやらない気がするんです。わたくしの感覚では
川が流れてるだけなら東京でもどこでもありますが
ビジネス街の真ん中を2本の川を貫くて中ノ島のような場所は大阪にしかない
グリコの看板やたこ焼きみたいな外向けに作られたイメージではなくこれこそ大阪の風景
ttp://nakanoshima-univ.com/pdf/tomin_vol53.pdf 多くの問題があり理解し難い法案です。まず、情報が公開されないことによって有権者は、政治が正しい方向に向かっているのかも判断できなくなり、
政治を正しく評価することができなくなります。何かの理由で逮捕された時に、裁判でも中身が秘密にされ、裁判が成立しなくなります。自分がなぜ、逮捕されたかも分からなくなります。
国会も機能しなくなるでしょう。政府と官僚が決め、与野党の議員にも知らされなくなるからです。どうして国会議員が賛成するのか分かりません。秘密が公開されるのが60年後とされていますが、
責任の所在がなくなります。原発問題や戦争などが起こった時に痛い目に遭うのは国民です。民主主義の根幹が失われてしまいます。法案が成立しても、廃止しなくてはなりません。それぐらい重大なことなのです。 作家の高村薫さんに話を聞くと、「民主主義の否定に等しい」と強く警鐘を鳴らした。
有権者がなめられている。国民から反対の声が高まっているにもかかわらず、政府与党は法案の成立を急いでいる。これが絶対多数を持った政権の実態なのでしょう。法案への抗議活動に対し、
「テロ行為とその本質においてあまり変わらない」と書き込んだ自民党の石破茂幹事長のブログからも、政権のおごりを感じます。
ただ、この国の形を変えるほどの法案にもかかわらず、国民の関心が低すぎるとも思います。想像力を働かせてください。国を左右する大きな出来事について、国から何も知らされない状況になる危険について。
国が恣意(しい)的に情報を隠しても、何が恣意的なのかさえ分からない。ある日、いきなり原発事故が起こったり、戦争が起こったり、理由も分からずに逮捕されたりするかもしれない。
本来、私たち有権者は、いろんな出来事を鑑みながら政治を判断します。でも、何が秘密なのかも分からなくなる法案が成立すれば、判断ができなくなる。それは政治の選択がゆがめられることであり、国民主権が侵害されることです。
与党の政治家の対応も理解できません。法案は内閣と官僚が秘密を指定すれば、政治家も情報に接することができなくなる内容です。自分で自分の首を絞めかねない法案に唯々諾々と賛成する。まともに考えていないとしか思えません。
民主党政権では、情報公開を進める法案も議論されていました。秘密保護だけが走り出し、情報公開がたなざらしになっている状況は民主主義の否定に等しいのです。
世界では原則公開を法律で定めています。主権は国民。いつまでも国民に情報を秘密にしておく権利は政府・与党にありません。
こんな法案を通すことができたなら、安倍政権は今後、何でもできると考えるのではないでしょうか。私たちにできることは、意思を示すことではないでしょうか。今、私たち国民が試されているのです 【堺屋】 その社会が商業をどう扱うかが、競争の原理、あるいは自由をどう考えて
いるかを判断するポイントだが、その中でもポイントはレジャー産業、手っ取り早く
いえば遊興業だと思う。自由競争が嫌いな連中が一番嫌うのが遊興業だからね。
東条英機が真先に抑制したのが遊興業だった。
【渡部】 それはいえる。レジャー産業、遊興業こそ自由競争の最たるものかもしれない。
だから、自由競争を嫌う社会主義諸国では、遊興業はなきに等しい。競争を悪と
同義語としてとらえている日教組や文部省も遊興業には理解がない(笑)。
【堺屋】 頭の固い連中はいまでも遊興業を押えさるのはいいことだと思っているらしい。
この間、ある団体の宣伝カーが成田空港について演説をやっていたが、それを聞くと、
学生やOLの海外旅行を禁止すれば、成田空港は必要ではない。
羽田空港で充分に間に合うという主張なんだ(笑)。 ナンセンスな議論だが、この主張の前提には、海外に観光旅行にいくのは
悪いことだというのがあるんだね。
ところが、すべての消費の進歩は遊興業から起こる、というのは、真理なんだ。
コンピュータなんかもね、最初はゲームから始まる。そこからはいってパソコンが
普及していく。デザインでも先端技術でも、先端的なものは遊興業から起こって
普及していく。遊興業こそ自由競争のメッカで、そこで行われる野放図といっても
いいくらいの、勝手気儘で、それだけにバイタリティに溢れた競争が、実は進歩に
つながっていく根源であり、それが社会の変化を促していくということを、結果の
平等が好きな停滞主義者は、本能的に知っているんですな。だから、何かといえば、
遊興業をまず取り締ろうとする。われわれに身近な出版業でいえば、一番遊興業的
色彩が濃い分野はポルノです。だから、まずそこから弾庄する。それがやがて
言論の自由の抑圧につながっていく。 堺屋】 ヨーロッパの近代史、現代史は、一路衰退に向かう歴史なわけだが、たとえば
世界の中心だったイギリスがなぜ駄目になったか、ということに、貴族社会を項点とする
上流、中流、下層とはっきり分かれた階級社会が原因だ、などという議論があるが、
これは明らかな間違いですね。もしそうなら、イギリスになぜ産業革命が起こったかが、
説明できない。階級社会であることは、イギリスの衰退とは関係ない。具体的には戦後の
政策に原因がある。一つは企業の国有化政策です。国有化というのは、まさに競争の
原理の排除です。これがイギリスを駄目にした元凶です。それから福祉政策の行き過ぎ。
福祉というのは悪いことじゃない。人間らしい生活を最低限保障するのは、文明国家なら
やらなければならないことでしょう。だが、それは最低限に止めておかなければならない。
働いて自分で生活している人と、国からの保障で、つまり税金で養われている人の格差が
なくなったら、完全に駄目です。一生懸命働いても、働かないで税金で養われていても、
生活にそれほどの格差がなかったら、働く意欲をもてというのが無理というもんです。
労働意欲が減退するのは当然です。イギリスはこれで駄目になった。 【渡部】 上と下を平準化するのがいいことなのだ、という思想。これはぜひとも払拭
しなければならない。能力のあるやつはどんどん稼いで、金持ちになれるようにしないと
いけません。そうでないと、国全体が活力を失い、やがて天の一角から競争者が現れて、
ひとたまりもなくやられてしまうことになる。敗者の救済は、あくまでも救済の原理で
やるべきでしょう。
【堺屋】 それからね、いまの日本に大切なのは、いかに民主主義のコストを下げるか、
ということです。どういうことかというと、選挙をするでしょう。すると大変ノイジーな部分がある。
既得権を擁護しようとする連中ですね。圧力団体でワーワーやる連中ですよ。そして、
このノイジーな既得権擁護派が選挙では強い、というのが常なんですね。競争して成長
していこうという連中は、サイレントなんです。だいたい競争に忙しいから、鉢巻きなんか
締めてノイジーになってる暇なんかない。すると、どうなるか。投票民主主義では、選挙は
既得権擁護に有利に働く。そういう原則がある。これは忘れてはならないことです。
で、既得権を擁護するために税金が使われるということになる。 堺屋】 競争して成長していっている分野はサイレントだから、どうしても既得権擁護派の
ノイジーに掻き消されてしまう。でも、ノイジーな部分にだけ傾いていったら、駄目になる。
だからこそ、常に既得権擁護派のノイジーが勝ちを占める投票民主主義に依存する
政府支出を縮小することを考え、少しずつでも実行していかなければならない。
投票民主主義でいくなら、行政改革は常にやって、予算を引き締めるようにもっていかなくては
ならない。政治家に対する評価の基準をそこに置いたほうがいい。行革、予算縮小を
心掛ける政治家は、競争の本質がわかっている、つまり成長し進歩する社会を考えている、
ということですからね。 多少行儀が悪くとも個人個人が生き生きしている社会より、とにかく騒ぎがなくて、
一見整然としている社会のほうがいいんだと考える、いってみれば停滞主義者には
商業は目障りなんです。この停滞主義者というのは、右翼左翼を問いません。
案外革新とか改革とかをしきりにいうのが停滞主義者だというのは、歴史を見れば
よくわかります。
徳川時代の吉宗とか松平定信とかがそうでしょう。戦前の軍人もそうです。改革とか
革新とかいって何をやったかといえば、商業を潰し、統制を加えることをやっている。
革新、改革の本場である社会主義諸国も商業を排除する。すると、物の流通が
うまくいかなくて、社会が停滞する。それで最近は個人営業を認めるという形で
商業を、つまり競争の原理を少し持ち込んでみようとしたりしている。でも、本質的な
部分では競争の原理を否定して、小手先だけでちょっぴり競争らしきものを
持ち込んでみても、うまくいくはずはないのだが。 【堺屋】 家康の競争を排除する根幹の思想は、成長はいかん、ということですよ。
より偉くなろうとか、より金持ちになろうとかいう考えの持ち主を、徹底的に押しつぶした。
江戸時代というのはゼロサム社会ですからね。もう朝鮮にいって国を奪い取る
なんてことが不可能だということがわかっている。日本の島国の中でやって
いかなくちゃならない。すると、ある大名が大きくなろうとすれば、誰かが小さく
ならなければならない。そんな押し合いへし合いをやっていたら、社会が安定しない。
大名同士で押し合いをやっているだけでなく、徳川そのものに及んでくる可能性
だってある。だから、徳川政権が成立すると、まずやったことは成長志向のあるやつを
つぶすことです。成長志向があるやつとはどういうやつか。徳川に忠実なやつです。
成長志向があるから、徳川に忠実を尽くすわけですからね。で、関が原の合戦で
いちばん活躍した福島正則がやられる。次に東北のほうで上杉とチャンチャンバラバラ
やって、関が源を勝利に導く陰の力になった最上義光をやる。家康の知恵袋といわれた
本多正純も、宇都宮の釣り天井でやっちゃう 堺屋 それで最終的に後漢のころになると、どうなったかというと、家庭の崩壊が
起こるんです。孝行を第一の徳にして、長幼の順を重んじるんだから、家庭の基盤は
揺るがないような気がするが、そうではない。ここが面白いところですね。離婚が
増えて目茶苦茶の状態になる。
【渡部】 それにしてもちょっと気になるのは、さきほど出た家庭崩壊の話です。
孝行を最高の徳目として、長幼の順序を重んじた儒教が社会の基盤になった時代に、
逆に家庭の崩壊が進んだということ。それが社会の停滞と重なり合っているということ。
何だか現代の日本の状況について考えさせられますね
堺屋】 帝政口ーマはいい時代といえばいい時代なんですよ。福祉が発達してね。
パンとサーカスをみんなに与えるような時代です。豊かな社会です。すると、競争が
希薄になって、家庭の崩壊という現象が出てくる。離婚がどんどん進んで、性は解放されて、
私生児がどんどん生まれる。それでいて人口は減っていく。社会としてのエネルギーが
失われていく。儒教によって安定した社会を築いた漢も、後漢になると、それと似た
現象が出てくる。 堺屋 日本は戦国時代で、人びとが塗炭の苦しみをなめた暗黒時代のようなイメージで
とらえられている。一方、ヨーロッパの十六世紀はルネッサンスで非常に
輝かしい時代としてとらえられている。だが、日本とヨーロッパの十六世紀は、
非常に似てるんです。ルネッサンスっていうのは、戦争をいっぱいやっている。
要するに、自由競争の時代なんです。そこから、文芸、科学技術、宗教改革、
地理上の発見などの成果が生まれた。
戦国時代というと、戦争ばかりしていて、農民は被害を被って、
泣きの涙で暮らしていた、と思うかも知れないが、とんでもない誤解でね。
日本の十六世紀は経済成長がすごいし、技術の進歩が大変なものなんです。
大体、応仁の乱から関が原の合戦までに、人口が二倍、GNPが三倍に
伸びている。応仁の乱で室町幕府の支配体制が崩れ、貴族の荘園は地方の
豪族が取っちゃう。その豪族のなかでも力のあるやつは、隣の豪族の土地まで
取る。取られちゃ大変というわけで、無能がトップではやられるからと、家来の
偉いやつが主人を押しのけてトップに立つ。守るためには経済力が必要だなどと
いうわけで土地を開拓し、灌漑などの治水をやる。金・銀・銅の鉱山技術、
精練技術を導入し、製品をつくり、そして商工業が発展する。戦国時代とは
こういう時代なんです。 渡部 孔子の思想は基本的に 小さな領域で生きていく百姓社会の思想なんです。儒教は発生的に農耕社会の
統治法だと思って間違いない。すると、どういうことになるか。能力を競い合うような
ことはまずい。小さな社会の中でみんなから人望を得るようにするのが、いちばんいい。
そういうことになる。能力を競争して中国を統一する、なんて考えるのは覇道で駄目、
ということになるわけです。小さな枠の中で安定することを考える。すると、結果が
平等であるのがいい、ということになる。だから、孔子の説く王道は社会主義の
王道と一脈通じるものがあるんです。
堺屋】 渡部先生がおっしゃるのが、孔子の思想の本質ですね。で、小さな社会での
生き方を考えると、秩序が保たれていて安定しているのが一番いい、ということになる。
そのための基本原理を考える。すると、長幼の順を基準にするのが一番いい、となる。
確かにそうです。年齢というのは、客観的基準ですからね。誰も異議を唱えようがない。
これを基準にすれば、秩序は保たれ、安定し易いわけです 地面と床の感想聞きたい
2ちゃんとかやらないのか、チェル見るひとは ゾウガメとソニック以降、抽象生がどこ向かってんのかわかんなくてあれ観て必死に理解しようとしてる関係者の気持ち同情する ヨーロッパで初演する理由がどこにあるのか知りたい。
補助金でも出るのか? >>653だけど
>>654
震災後の前作「現在地」と本作「地面と床」はぜんぜん抽象的ではない
そうでなくとも
あの抽象性が具体性をもってリアルに感じられないのなら
チェルフィッチュは見なくていいと思う >>655
海外との合同制作だから
「地面と床」に関しては9都市共同
(横浜/京都/パリ/ベルリン/ジュネーヴ
/ロッテルダム/ダブリン/トゥールーズ/アテネ)
特にロッテルダムは
岡田自身が世話になってるというとおり
(オランダからみて)海外の実験的な作品を意欲的に初演させている町 オランダから見て他国を「海外」というのは間違いか
「地面と床」の主題のひとつでもある日本語らしい表現
しかも脚本には
日本人(日本語話者)を相手にしていないような箇所がある
というより
それをもって日本人にぶつけるというのが岡田利規の意図だろう
「地面と床」パンフにも「海外共同制作」とは書いてない
「世界9都市国際共同製作作品」・・・「製作」?「制作」? 「それをもって日本にぶつける」となにが起きるんだろう
『現在地』も昭和女性文体とか小津っぽいとか言われてたけど今思うと、オリエンタルな自意識ひっぱってきたらなぜかSFモノになりましたってだけで面白みも実験味もなかった 「制作」と「製作」はアーティスト側とプロデューサー側との違いと解決
だからパンフの紹介は「製作」
>>659
「現在地」に実験味がないのは岡田利規自身の狙いだから
「地面と床」もその流れ
フィクションや演劇というものへの疑いからではなく信頼からはじめると
「昭和女性文体」「小津っぽい」が誰の表現か知らないけど(その感性を疑う)
本人はチェーホフの「桜の園」について何度も公言して触れている >>659つづき
「現在地」のSF的な表現には俺も批判的な思いが大だけど
「オリエンタルな自意識ひっぱって」は同意しかねる
「三月の5日間」以降日本の外で活動するようになってから岡田は
きみの言う「オリエンタルな自意識」についても
何度となく意識して考察の対象にしては記事などで公言してきた
「オリエンタルにならないように。かといってオリエンタルを怖がらないように」と
「地面と床」で「日本にぶつける」ととったのはあくまで俺の推測で
岡田の意図にはまったくないかもしれない
(レスしたあと俺自身「いや的外れかな」と思った。ただ当たり外れは問題ではない) 日本語話者でない相手に伝える事の限界をまた真正面からぶつけてきたなー、という印象はある。
地面=日本の地縁を描きながらオリエンタリズムっつーか、
土着性みたいなののかけらも感じられなかったんで、
「オリエンタルな自意識ひっぱって」には自分もあまり同意できないな。
それに「現在地」ってSFかなぁ?
演劇(というか語り?)とそれを観てる人というのが3重の入れ子になってて
どこの国のいつの話か特定しないようにSF的な設定をしただけと思ったけど。
だからSFとしては設定が思いっきり雑、SFファンが観たら怒るんじゃね? 岡田利規の狙いや意図に沿って答え合わせしてる感想ばっかでほんとにそうかあ?とは思う、インタビューやステイトメントやその他テキスト拾わずにチェル作品観たら全くひっかかってこなくてびっくりした
オリエンタルがどうとかSFがどうとか議論するつもりはないけど実験味と面白味がなくて一般のひとが観たらふつうにピュアで演劇信じちゃってるようなそのへんの退屈な演劇と変わりない気がした
上記の一連のレス読んでなるほどと思うにゃ思うがそれ以上の面白さとか驚きはなかったな、地面床は観てないけど >>653>>656です
>>662
岡田が重きを置くのはサイファイのサイではなくファイのほう
たぶんSF的にすればその意図がはっきり示せると考えたのだと思う
とはいえお粗末感が大きかったのはたしか
ただSFファンが怒るか怒らないかはどーでもいいけど >>663
きみもまた「ピュアで演劇信じ」たいのではないかと思う
だって「テキスト拾わずにチェル作品観たら全くひっかかってこなくてびっくりした」と
言うのだから
ソフォクレスもシェイクスピアもベケットもあるいは世阿弥近松オリザだって
「テキスト拾わ」なかったら俺なんて見る気しないよ
タブララサな状態が評価の基準と考えることこそ「ピュアで演劇信じ」たい証しでは
「一般のひと」ではないという自意識が「面白さとか驚き」に飢えさせるのだろうけど
それだけでチェルや岡田やひいては演劇を語りきるのはどうかな
付記すると俺は商業だろうが小劇場だろうが演劇ファンではない
きみの言う「一般のひと」のひとりだと思う >>665
ちょっと言い方にひっぱられすぎてるかもしんないから別の言い方するけど、
>フィクションや演劇というものへの疑いからではなく信頼からはじめる
ていうことが現在地では反動保守っぽく見えちゃって形式性薄めたことで逆に退屈になったり余計難しく見えたりした、岡田はフィクション強めてお伽話みたいなことしたかったのかもしれないけど普遍的に受けとられたりそれがなにかへの信頼みたいにうつったりはしなかった >>665です
>>666
そのレスはほぼ掛け値なしに同意
岡田は「保守化を怖れることの保守化」というけれど
こういう言い回しは時代を問わずたいがいは言い訳のはじまり
俺も「現在地」「地面と床」は
「三月の5日間」や「フリータイム」に比べればかなり「退屈」
ただ俺がきみと違うとすれば
その「退屈」の原因を時間をかけて考えてみたいということ
「退屈」だからはいダメ、終わり、というのではなく
もともと演劇になじみのない人生からチェルを知ったというだけだから
俺は演劇プロパーとして考えるというのではなく
岡田やチェルを軸にして演劇というものをあれこれ考えてる
チェルの衝撃があってはじめて平田オリザの演劇も見に行った
ふつうの演劇ファンなら逆ではないかな
つまり「岡田利規&チェルフィッチュ主義者」
そしてもしその不公平性を問われるとするなら
そんなのクソッタレだと思ってる 最近のひとはチェルフィッチュ見たりその批評読んで演劇面白いなーって入ってくるひと多いんではないかな
でもあの頃とちがうのはもうその喚起力みたいのはなくてただ中堅劇団として売り出しに成功したブランディングで活動してるだけであとはチェルの固定ファン、御用ライターにむけてコンセプト-言い訳を垂れてそれを深読みしてるのがとても違和感に見える
チェルフィッチュは終わった、ただそれ以降影響受けたいろんな面白い演劇が出て来てるよーとは言いたい >>669
そろそろ俺はこのスレから離れるけど
きみのレスははじめ(>>654でしょ)から「ためにする」感じが強いよ
繰り返すけど「必死」さに「同情する」ぐらいなら「見なくていいと思う」(>>656)
「主義者に言われたかない」と返されればそれまでだけど あと「地面と床」観劇後ネットのどこかで
「矢沢と山縣の棒読みがだめ」という感じの評があったのを
きのう寝床で思いだしてちょっと考えてた
「だめ」というのは「聞いてて痛々しくなる」というニュアンスだったと思う
登場5人のうち棒読み寄りはあと青柳もだろうか
ただ仮に棒読みで括るとしても矢沢山縣の棒読みとはまったく違う
佐々木幸子はもちろん全然棒読みではない
安藤真理も違うだろう いずれにしろ俺は矢沢山縣はむしろ棒読みじゃなきゃだめだろなって思う
そして明らかに岡田利規は意図的
なぜか、意図はどこか、と寝床で問いかえした
「現在地」のキャストが女性のみというのと関わってるだろうと思う
そして震災後のフィクションの重要性、演劇への信頼という発言
精神分析ではないが
岡田は「女」という問題にもぶち当たってる気がする
それが震災以前か以後かはわからない
スレを離れるまえに
俺はチェルフィッチュと岡田利規についてあれこれ考えることができて
ある意味幸運だと思うし、ある意味不幸だと思う
ま、「言い訳への深読み」と捉えられなくもないかもね ツイッターで
俺はチェルフィッチュをうまく評価してるってつぶやきが多すぎ
チェルフィッチュに限らずだけど
ツイッターで俺うまいこと言ってるって気になってるつぶやき多すぎ くる年の冬にまたどんな演劇を見せてくれるのか
期待してる ttp://www.nett.or.jp/nett/pdf/nett22.pdf
ttp://www.midorii-clinic.jp/kyuukei/img/japan.pdf
堺屋太一 ttp://shomon.livedoor.biz/archives/cat_794516.html
ttp://wiki.livedoor.jp/shomon/d/Wiki%a1%a1%be%ad%cc%e7
吉本
ttp://lovetri2.jugem.jp/?page=6&cid=13 キネマ旬報 読者選出ベスト・テン 屋台的映画館
ttp://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/3643/report1.html
ttp://kajipon.sakura.ne.jp/kt/kurosawa.html
黒澤 ttp://sextar.jp/
宮路
ttp://toukoucity
古川 ttp://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:SN2rx03Ti1oJ:r-2ch.com/t/soc/1297855549/+&cd=4&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja
ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/soc/1339505020/
ttp://kohada.2ch.net/test/read.cgi/eco/1339505293/
ttp://kohada.2ch.net/test/read.cgi/eco/1355559830/
ttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/soc/1349604384/
堺屋太一
ttp://toro.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1338710124/ ちょっと余談になりますが、そうなった結果現代は、小説を書くのが難しくなっております。ものを考えない人間も悩まない人間も、非常に描きにくいのです。
私はここまで、この高度で複雑に発達した現代社会では、人は自分の状況を把握するために、いろいろな抽象をするという話をいたしました。
物事を見つめることは、現代ではすなわちどう抽象するか、どう簡潔に俯瞰するかに収斂していきます。
大量の情報も物事を記号化し抽象化することを加速しています。そうして、できるだけ簡単な言葉、わかりやすい言葉、広告で言えばキャッチコピーを私たちは待ち望んでいます。
要するに、物事を手際良く抽象化し、それ以上は問わない。問うたら最後、生きることが難しい。そういう時代を私たちは生きております
ttp://www.mmjp.or.jp/machi/52/sp2-takamura.htm 官僚による規制については、小学校の校舎は全国的に南向きに建てるように定められている(!)が、寒い地域は良いとして沖縄県では暑くてしょうがない…などの例が挙げられている。
かつては全国画一化が大量生産の工業化社会建設に有利だという考えだったらしい。こんなところまで。また、住宅地・工業地・商業地などに区域を分け、学校の近隣での酒類販売禁止、
病院のそばにはパチンコ店開店不可、など「大きなお世話」のような規制が多すぎる。著者は同じ規制であれば「この地域は騒音何ホン以内」などの環境規制に変更すべきだという。 ところが日本では妙なことが起こった。「棲み分け理論」というものが出て、
「それはダーウィン以上のものだ」と言うのである。しかし「棲み分け」などという
現象は、ダーウィンやウォレスの時代から観察されている。これをデュヌイは
進化が行きどまった状況であると明快に説明している。
ダーウィンが観察した頃のガラパゴス諸島では「棲み分け」が行われていた。
この島は地質学的に早い時代に南米大陸から切り離されていたからである。
ニュージーランドでもそうだった。ユーラシア大陸から早い時代に切り離されたため、
哺乳類がおらず、鳥たちは飛ぶ必要がなく、羽根を退化させてしまったほど完全に
棲み分けていた。ただし白人と共に鼠や猫や犬などの哺乳類が入ってくるまでは、
の話しである。(ちなみに初代のニュージランド総督はダーウィンの乗った
ビーグル号の艦長だったフィッツロイであった)。
外敵が入って来たとたんに平和な棲み分けの世界はこわれる。飛べない鳥の
多くは絶滅して、今残っているのは絶滅寸前に保護されたものばかりである。 いや、実際には、原発論議も碌にしないままに、イノヴェーションこそが日本経済の活路と叫び立てつつ、高度情報(および技術)社会の到来が言祝がれ、
その路線をひた走るのが日本国家の未来に可能な唯一の道と喧伝されている。
それ以外のビジネス論はどこにも見当たらない有様である。今の日本に最も重要な文化的テーマの一つは、技術論についての思想論を彫琢することだと思われる。
産業から排出され廃棄されるゴミのことをデブリ(debris)という。そしてデブリにまつわる「文明の被害」は、
自動車事故や食品公害や薬品被害のことをはじめとして、戦後の69年間をとっただけでも、この日本列島で百万の人命が損傷されている。
心身に回復困難なダメージを受けて生きている者も含めれば、とくに情報社会の作り出す(自殺などの)精神障害のことを考慮に入れると、
技術文明の繁栄のもたらしたいわば「文明の被害」は、我が国だけで数百万人、という数字になるのではないか 府県を越えて流通する本は全て東京都で検閲する。
こそこそと東京都以外で出版されては困るので、全て東京に持ってくるようにしたのです。
そのことが今も厳格に守られて、大阪市で出版した本を橋ひとつ向こうの尼崎市で売るのにも、
必ず一度東京都へ持ってこないと絶対に許さない。
一時はそれに反発してダイエーが出版社から本を直接買い取るとか
長野県や香川県の本屋さんが元売り業を試みるといった動きがありましたが、
強烈な圧力で潰してしまいました。
これが今の再販(売価格維持)問題で話題になっている点です。
本の場合は東京へ一回運んで、また送り返してもそれほどコストはかかりませんが、
雑誌の場合は締め切りが1日早くなるという問題があり、週刊誌などは東京以外では絶対につくれません。
このため、大阪毎日新聞が発行していた経済雑誌の「エコノミスト」も
編集局を昭和34(1959)年に東京へ移しました。
PHP研究所は京都の出版社ですが、雑誌に関する限りは「PHP」本部を除いて編集局を東京へ移しました。 あらゆる分野の高級で最新のものが東京に集中しているような印象を全国に与え、
国民の東京憧れムードを煽る一方、地方には文化想像力がないような錯覚を植え付け
地方嫌悪の印象を助長した。そしてそれが原因となって、
今や地方にはファッションを生む雰囲気も、テレビ番組を造る能力も、
雑誌を出版する人材も全くないとの「神話」が作り上げられている。
だがこれは「神話」であって事実ではない。情報発信機能の欠如という不利を克服して
地方から新しい業種業態が起り、新しいファッションが生まれ、
有能なファッションデザイナーや建築家が数多く登場している。
ある総合研究所が調べたところでは、戦後の新業種新業態の発生や
流行したファッションの発生源はほとんどが地方であり、東京は人口比率よりも少ない。
ただそれが「流行」と認められるためには、
東京のマスコミが取り上げられた場合に限られる。
そしてそのためには東京の中心部、千代田、中央、港、新宿、渋谷の五区で
話題になる事が条件になっている。
同じ東京でも、台東区や墨田区ではマスコミが取り上げないのだ。
情報発信機能が東京に、それもごく狭い五区に集中したために
東京は地方の情報が入らない「孤独な巨人」になってしまったのだ。 概念は「コンセプト」っていうんですよね。
わたしもその時までコンセプトということばを知らなかったんですが、
カナダのモントリオールの博覧会に行ったら、テーマよりもコンセプトの話をしている。
コンセプトを求める、これが今の愛知博覧会がうまくいかないことにも関わっているんです。
テーマとコンセプトを混合しているから。
コンセプトの次には、ストーリーが要る。
その次には一般のひとに理解してもらうために、ストーリーを明示するシンボルが要ります。
シンボルができたところで、次にマスタースケジュールを作り、
マスタープランを作るという、この順番を必ず踏まなければならないんです。
これは博覧会学として1870年くらいから定着しているんです。 新しい商品というのは、いずれにしても売りにくい。
しかし売れたら爆発的に売れることもありますよね。
ならば、日本では、例えば薬でも、改良型の薬品ばかりで飛躍型の薬品は少ない。
ましてや、電気製品といったものになると、飛躍型のものをつくるのはたいへんだ。
まあ、今度のプレステ2もそうかもしれませんけど。
糸井 あれも改良型ですね。
堺屋 日本で飛躍型の商品は何があるのかというと、まあ新幹線はそうでしょうね、きっと。
あれは世界的に言って、そう。あとは何がありますかね?・・・引越しセンターがそうですよね。
あれも日本独自。そして、万博はそうなんですよ。
一方、オリンピックは改良型なんです。だから、売りやすいんですよ。
万博は一回一回違う創造物だから売りにくいんですね。
だから愛知万博は大変なんですけど。でも、「インパク」はもっと売りにくい 世界ではじめてですから。
それで、インターネットに詳しいひとに来てもらうと、今のインターネットの使い方、つまり
「便利な」インターネットの使い方になります。
しかし、わたしたちの見出しというのは、「楽しい」「おもろい」インターネットなんです。
現在では、いまだに「便利な」インターネットの範囲をこえてないんです。
糸井 それがお金をとりやすいんです。
堺屋 「楽しい」インターネットというのは、おじいさんが見て楽しい、お父さんが見て楽しい、
お母さんが見て楽しい、一家で見て楽しい、いろいろとそういう要素があって、
特に、さきほどおっしゃったように、ある地方のひとが見て楽しい、というのを、
数限りなくついてゆくと、自分の同好の士を探すことができていいんです。 満足が大きいとは、主観的なものです。物財が多いのは客観的なものです。二十歳の時に小型車を買ったほうが、四十歳になって大型車を買うより幸せだよと、こういう議論になっています。
そうすると、消費が先行して貯蓄が減少しますから、需要が多くて、供給が少ない。
知価社会に先行したアメリカは貿易赤字になるわけです。ここから通貨問題がおこるのです。貿易赤字のアメリカは、
ドルを垂れ流すようなってきます。そのドルを使って、アジアの国が工業化していくわけです。
アメリカは近代工業社会から知価社会になり、規格大量生産が衰えました。だから、アメリカは大量にものを日本から買いました。
一方で、ドルを垂れ流したことで、アジア諸国、やがて中国が工業化してきます 文化の中心は東京にあるのであって大阪には何か違うもんしかないと、そう割り切って考えているんじゃないかと思う。
以前は大阪というのは比較的東京に対抗しているところがありましたけど、もう過去の話ですよ。
すべてが東京からの再拡散で、全国がこれだけ平準化されてしまっちゃっている。それをもう一回崩して、以前の地方色豊かな時代に戻そうというのは、あんまり現実性がないと思うんです。
堺屋 いや、あると思いますよ。またそれがなかったら、日本は世界の都市間競争に対抗できないんじゃないでしょうか。
岡田 競争というのは経済的な競争のことですか?
堺屋 文化的、発想的競争です。それがソフトウエアを生んだり、芸術を生んだりして、経済力に転化しますけどね
岡田 でも、三権というのは、僕らとわりと距離がありますよね。
そこらへんでホイホイと生活している人にとっては「政治ってよくわかんねーよ」とか。司法と言っても「離婚するときには家庭裁判所というのがあるのか」とか、せいぜいそのくらいの関係しかないですよね。
堺屋 そう。離婚や交通事故で訴えられたり借金に追われたときぐらいで、たしかに司法は日本人には縁遠い。でも行政は逆に身近で、なにかことが起こると政府はなにやってる、役所の規制がどうだとか言う。
―― 頼りますよね、みんな。
堺屋 頼りすぎなんですよ。だから今は行政だけが強くて立法と司法が空虚なんです。厳密には民主主義じゃなく官僚主導制の国なんですね。面白いことに日本のヒーローには公務員が多い。
とくに江戸以降は水戸黄門、遠山の金さんなど行政府の人ばかりでしょう。公務員でないヒーローというのは、国定忠治だとか藩随院長兵衛などのアウトローしかいないんです。こんな国は世界中にはありません 一億総不動産屋になったから、何を言うても、何百万平米とか、
後楽園何個分とか、そういう面積で言いたがる。
糸井 入れ物だけに値段がある。
堺屋 そのとおりですね。値段でも言う。総工事費何兆円とか。
そういう、円と平米から逃れたいんです(笑)。
糸井 (笑)何の単位になるか、わからないですけどね。単位のつかないものでしょうね。
堺屋 単位のつかないニューユニットが、おそらく何年かのうちにはできるんでしょう。
糸井 はい。バリューということですね。
堺屋 それはね、万国博覧会だったら、どのパビリオンがよかったかと、
入場者数と感動度をかけあわせるんですね。
糸井 感動度っていうのは何ですか?
堺屋 出てきた出口のところでアンケート調査をして5段階に書かせるんです。
それでおそらく、感動度というのは、くりかえしでわかるんじゃないかと。 「都心部は車を通さない流入規制をしき、緑による圧倒的魅力を作っていく」
大阪市を4エリアと南北、東西の2軸で区分けし、全面緑化した御堂筋沿いにLRT(次世代型路面電車)を
通すという長期的目標から、JR大阪駅北側の再開発区域「うめきた」緑化などの短期的施策まで、「緑」を
キーワードに大胆な街づくり案を盛り込んだ。
ただ、実現に要する財源や事業主体の検討はしていない。過去、関西空港開港(1994年)を当て込んだ
府の大型プロジェクトが次々に破綻した苦い経験から、小河氏が学んだ都市計画とは、「大きな方向性を
指し示すもの」。それが現在の行政の役割との思いがあった。 「夢物語とは言いませんが(中間案は)理想像ですね。もっと現実的に考えていかないと。15年にこれ、
20年にこれをやると」
通産官僚時代、大阪万博を企画し、成功に導いた堺屋氏は、中間案を「都市ビジョンゼロ」と酷評した。
これにはたまらず、小河氏が「今までのように行政が決めてしまう、それはやめておこうよということ」と
反論、「先生の考えは古い」と語気を強めた。
2人の席は50センチほどしか離れていなかったが、街づくりの考え方には埋めがたい溝があった。
もう1人、小河氏の向かいに座る特別顧問の上山信一・慶応大教授も、中間案を冷ややかに分析した。
「東ベルリン(大阪市)に初めて(府が)入れるようになったので、いろいろ絵を描いてみた、という感じ。
府と市が一緒に夢を語るのはすごく楽しいんでしょうけど、市外との関係が設計できていない」 岡山県の宇野港から船で20分程の直島に、美術館とホテルが一体になったベネッセハウスがある。船着場から丘の頂上にいたる斜面に安藤忠雄設計の建物が点在し、その内外にさまざまな現代美術作品が散らばっているのだ。
1995年の第2期工事完成以後初めて再訪の機会を得た私は、この施設の着実な成長ぶりに思わず感嘆の声をあげた。小さなケーブルカーで本館とつながれた新しい別館は、丘の上に置かれた楕円形の冠のようで、
中庭では水と空が対話し、外に向けては瀬戸内海の絶景が見渡せる。92年に完成していた本館とも併せ、自然の地形をうまく利用してその中に建築を埋め込んでゆく安藤忠雄の建築は、ここに最良の結実をみたと言えるだろう。 ところが、文部科学省は、「心の教育」と称して、道徳教育の読本を与えたり、
奉仕活動を義務付けたりと、あくまで協調性重視の規格大量生産型教育を押し売りしようとしている。 あまつさえ「ゆとり教育」では、算数が得意でも円周率は3と教え、天文に興味があっても星座は二つしか教えない。
「知価社会」に向けて子供の好きなもの、得意なものを伸ばすのではなく、逆に学習を制限している。
教育官僚には、規格大量生産社会のための画一化教育しか思いつかない。「ゆとり教育」は、画一化教育のまま内容を空疎にし、教師にゆとりを与えただけのものである 日本では広告は必要悪の様に思われていますが、本来広告は、生産が上がる、大量生産効果でコストが下がるというそういう広告理論でした。
最近は広告は心理的価値を上げるものにもなっています。例えばラグジュアリーブランドがあります。広告によって持っている人がいいものを持っている様に思う。
すると本来の値段の何十倍の値段で売れる。これは持っている人が満足して嬉しく思う事が、市場原理の広告の価値になっているという例です。
こうした状況を日本でもつくり、日本初のブランドを世界に広げられるようにしたいと思っており、そういう意味で広告の規制緩和をしたいと思っています。
今まで広告は汚いものだと思っていたものを変える。2〜30年前は服に広告をつけている人はいませんでしたが、今はTシャツは全て広告がついています。
情報の一つとして重要な意味があるのです。楽しみ特区では、広告規制は全面的に緩和して大いに華やかで楽しい特区を作ろうと思っています 堺屋太一氏は、今回の大災害は「人命や物財に甚大な損失を受けただけでなく、
戦後日本の 社会体質と発想の硬直による不備があからさまになった。」 −と言う。
ここから立ち直り「世界の冠たる国」にするには次のような方針が必要だ。
1.「古い日本」に戻そうとしない。
日本は近代2度敗戦したが、以前をしのぐ豊かな国を創った。
それができたのは、敗戦前の「古い日本」を再現しようとしなかったからだ。
今回は官僚主導の工業社会を復活させてならない。
2.国のかたちを変える。
「東北復興庁」を設け、将来的には地域主権型の「東北州」へ発展させる。
それに併せ他の地域でも「州庁」を設け、東京一極集中を脱する。 規格大量生産で非常に成功いたしまして、たくさん物をつくって、どんどん使い捨てをする。そういう構造をつくり上げて成功したのでございますが、その構図はもうやっていけないというのがこの九〇年代になってはっきりしたと思うんです。
それで、今私たちは、この大量生産、大量廃棄ではなしに、新しい知恵の時代をつくらなきゃいけない。
それぞれに個性的な需要をつくり、そしてより循環型の世の中をつくらなきゃいけない。今度、三月二十日に企画庁でも循環型社会と少子高齢化社会の国際シンポジウムなどを開催するんですが、
私もいろいろとその点を研究してみましたけれども、やはり資源を節約するということは、何か資源のかわりのものに置きかえるわけでございます。そうすると、結局資源のかわりに置きかえるのは人間の力、つまり技術であり、
頭脳であり、デザイン力である。そういったものをどんどん高めて、循環型の資源を減らしても労働需要が減らない、そういう構造につくっていかなきゃいけない。そして、あわせて高齢者も働けるような社会につくっていく。
そのために、今例えばIT、情報技術などというものはそんなに大量に資源を使いませんけれども、これでいろんな人が交信をする、いろんな人が楽しみをし、便利をする。そうなりますと、資源が少なくて経済が発展し、生産性が向上する社会ができるんじゃないか。
だから、単に経済を回復させるといっても、前と同じ規格大量生産の時代の形に戻すというのではなくして、構造を改革して、
こういう情報技術であるとかデザインであるとか介護であるとか、そういう面に持っていかなきゃいけない、こう思うわけであります。設備投資などを見ましても、まさにそういう新しい分野に非常にお金が流れるような形になってきた 今のタクシーの問題でございますと、交通の問題あるいは労務の問題、いろいろな点で検討すべきことはございましょうが、
数量的な問題で規制するのがいいのかどうか、これは私は大変疑問に思っております。需要、供給の関係から何台という従来のやり方は大変問題があって、むしろ自由競争に任すべきではないかと思っております。
もう少し詳しく申しますと、今までの計算方法でございますと、タクシーの一日の運行費用、
コストが同じだと仮定いたしますと、乗り手が少なくなると一人当たりの費用が高まってくるんですね。例えば、今東京あたりで実車率が四六%ぐらいでしょうか、昔は五十数%、
一〇%ぐらい下がっておると思いますけれども、そういたしますと、昔は五十五人で割っていたコストを今度は四十五人で割ることになりますから、
はやらなくなると値上げする、値上げするから余計はやらない。これは、かつて国鉄やあるいは石炭なんかでも経験したことでございます。
そういうこともございますので、ここは経済的に見ると、タクシーという業界の切磋琢磨というようなことで、技術開発が必要でございましょうし、いろいろな点が改善されて進歩することが望ましいと思います。
そのほかに、御指摘の交通問題であるとかあるいは運転手さんの健康問題だとか、そういったことはそういう観点から、経済ではないそういう観点から検討さるべき問題だと心得ております。 -消費税を引き上げるという路線ですが、本来なら年金も医療も介護も保険ですから、
保険料を上げて不足分を税で賄う議論もあってもいい。保険料なら納めた記録が残るので給付と負担の関係が明確になるメリットもある。
ところが増税話が先行している。消費税引き上げ自体が狙いではないかと思えます。
-堺屋:おそらく、その通りでしょう。いまや年金保険料は払っている人が全体の六割しかいない。
本来なら特別に貧困な人以外は払ってもらわなくてはいけない。それなのに基礎年金の五割を税金負担にするとか、どんどん税金依存に傾いてきた。
-長谷川:税金を納める国税庁と保険料を払う日本年金機構は一体化した方が効率的です。二重行政の解消にもなる。
民主党も歳入庁への一体化を言っていたのに、いっこうに実現する兆しがない。
-堺屋:市町村税と都道府県税と国税は三重になっている。加えてNHKは別。
保険料も別。これは官僚の権限意識ですよ。たとえば納税者番号制度を導入する。そしてパスポートから住民登録まで一緒にすればいい。 IT革命を推進するためには、第一にハードウエアである施設の充実、第二にソフトウエアである利用技能の普及、第三に情報の中身であるコンテンツの創造、この三面を同時並行的に、かつ飛躍的に拡大発展させることが重要であります。
例えば、便利なITの使用法が広がり、楽しくおもしろいコンテンツができれば、多くの国民がこれを使うようになり、それがコストの引き下げを通じて、より安くより速いネットワークを形成することになります。
そしてそれがより多くの人々の利用を促し、ますます多様なコンテンツの供給が可能になります。このような善循環を形成することによって、
本格的なIT社会、つまり高度情報通信ネットワーク社会が生まれ、それをてことして日本の経済と文化の新生が実現できると思うのであります。 高村 本や新聞を読むのは何のためか。子どもが童話を読む時、一つの別の世界に触れることで、自分の家族がいて、自分がいると知る。同じように、本や新聞を読むのは、
自分の位置を知るためです。この国や世界で今、何が起きているのかを知り、自分の存在を時代の中で位置づける作業です。それをしなければ、自分の生活圏だけしか知らない人間になってしまいます。
藤原 他人や、自分の知らない世界への想像力も育ちません。
高村 今はネット時代で世界中から情報が入るけれど、それらはバラバラに散らばっている。まとまった世界観を持ち、世界を俯瞰(ふかん)する目を持とうとしない大人が増えています。
藤原 その意味では危機的です。
高村 ウィンドウズ95が世に出たころから情報通信革命が始まりました。これが将来何をもたらすのか、想像する言葉を大人は持ちませんでした。
生み出されたものは、情報だけが山のようにあふれる、まとまりのない社会でした。人は目の前の情報、気に入った情報だけを見て、それ以外は捨てるようになってしまった。
藤原 しかも、知的判断に基づいた情報の選択ではありません。
高村 情報を言葉によって有機的につなぐ作業を通じて、情報は初めて知識となります。そして世界像を自分なりにつかみ取ることができる。
無数の情報があるだけで知識が豊富だと勘違いしてはいけない。自分の気分や感性に合う情報だけを引っ張ってくる人は大人とは言えません。
他人の意見を聞き、いくつもの見方があることを知り、それを論破するならさまざまな根拠を積み上げていかねばなりません。それに至るには忍耐、誠実さも必要です。ところが、米国のイラク戦争開始の論理、
日本の政治でも道路特定財源や暫定税率に関する与野党の論争を聞いていると、自分の都合に合う情報だけで論議をしているのではないか、と思えてしまいます。大きな世界像をとらえないところにまともな論議は成立しません。
高村 自分の言葉、他人の言葉、世界の言葉を聞き、自分なりの世界像の中で自分を位置づける、という志を持ってほしい。
言葉の体系から世界をとらえるということを拒否していたら、人類は滅んでしまう。それくらいの危機感が私にはあります。 高村 世の中には「知的」という言葉に抵抗感を示す人もいますが、「世界の中で自分を位置づける」という
作業は最も合理的な生存戦略だと思うのです。世界を、時代をとらえて生き延びることを考えるということ。だから、それができないなら人類は滅ぶと言っているんです。
藤原 「難しくて、できそうにない」という若者には。
高村 とりあえず新聞を読みましょうと言います。いきなり専門書なんて私だって読めません。目の前で起きていることを大半の人はテレビで把握していますが、何年何月何日には世の中で何が起きたかを
網羅的に書いてある新聞の方が、同時代の世界像をつかみやすい。私にとっては、新聞を読んで学校に行く、というのは中学校のころからの習慣でした。
藤原 一方で、テレビによるイメージが与える影響は大きい。
高村 先ほど生存戦略と言いましたが、それには「だまされない」という意味も含みます。為政者にだまされない。
詐欺師にだまされない。怪しいと見抜くには、相手の言っていることを自分の世界像の中に置いてみることです。
その時に「おかしい」と思えばだまされない。人間、生きていくには「見抜く」ということが大事。しかし、テレビの映像だけでは、見栄えとかパフォーマンスでコロッとだまされる恐れがあります。
藤原 活字を通じて事実をつかむということですね。
高村 活字に親しむということは、自分探しをするのではありません。むしろ逆で自分を客観化するということだと思います。世界の、日本の、大阪の中の私を知る。徹底して客観化、相対化する作業です。
藤原 今なら、まだ間に合いますか。
高村 いえ、怪しくなっています。言葉を情報のツールとしか思っていない風潮が広がっています。ツールなら信号と同じ。
言葉とは形になっていないものを形にする。世界像を形にするために言葉がある、ということを強く訴えたい。 /// 日本型社会主義と資本不足時代の金融 19 /////////
これに対して、結果平等型社会の時代では、株式投資は「特殊なもの、
ギャンブル的なもの」「社会的にあまり役に立っていないもの」とした見方が
社会的な考え方として共有化・規範化されていった。そこでの考え方は、
形式資本主義、実質社会主義であり、高度成長期まで、企業のダイナミズムの
視点がなかったのである。
さらに、多くの人は株式投資をする余裕がないため、企業が株式を発行しても
発行額面価格(五〇円)以下で発行されることが多く、銀行が大きな企業の
株式を引き受けていた。それにより、メインバンク制の株式持合と銀行を中心
とした企業集団が形成されていった。この時代は、「つくれば売れる時代」であり、
重工業などの企業に資金を貸しても、倒産のリスク(信用リスク)を考える必要は
なかった。 堺屋太一氏は、戦後の日本の金融は“規格大量生産”に奉仕する存在で、リスクを取る姿勢がなかったことを指摘。こうした金融思想はもはや時代に適合しないにもかかわらず、いまだにそこから脱却できないことが問題の根源と説明する。
日本の金融を正常化するには、銀行がお金を右から左に移す「ブローカー」にとどまるのでなく、リスクの分担・分散ができる「ディーラー」にならなくてはいけない。そのためには、リスクの分散ができる自由で多様な金融市場が必要だと説く。
刈屋武昭氏は経済活動を行う「家計」「企業」「政府」の3主体の中で、家計の消費・貯蓄と企業の生産・蓄積の関係がダイナミックに結びつき、価値を創造していくことが重要だと説く。
金融はこうした関係を進展させるため、多様なリスクに関わる金融商品を社会に提供する「リスクテイク機能」を発揮することが求められると解説する /// 日本型社会主義と資本不足時代の金融 21 //////////
かりに大きな信用リスクが実現(貸し倒れ損失の発生)しても、会計制度や税制で
国はそれを補っていたのである。すなわちリスクは国に移転され、そのことにより
倒産リスクとしての信用リスクが広く薄く国民に移転されていた。その結果、銀行は
利ざや収入が保証されていたため、銀行の利益は成長の一途をたどっていた。
また、金利は規制され、銀行金利はすべて同じ、さらにもの不足の関係もあり、
恒常的なインフレ的な状態が続いていたので、企業の銀行借入の金利負担も
和らいでいたのである。・・・・・ 、“『レディ・ジョーカー』を書いた時点で、同時代を事件を通して描くという形は作り上げてしまった”と語り、
“事件や中身を変えても、小説の中身としては焼き直しにしかならない。作家として、次は違うところに出ていかなければならない”と決意したのである。 では文学とは、何だろう。それは感受性で言葉を書くということだ。江藤の生涯をつらぬくのは、政治や経済、国際関係から日常生活
にいたるまで、人間が演じるすべての劇を、感受性で批評した点にあった。
一例を挙げよう。私たちにとって「生きる」とは、他人と出会うということに他ならない。難しい話ではない、日常生活を想像してほしい。
私たちは来る日も来る日も、気のあわない人間とともに生活し、気にかけ、比較し、悪口を言いながら過ごしている。つまり「生きている」
わけだ。
この「私」からみて異様な存在、それが他者だ。江藤の漱石論は、この日常生活で誰もが感じる違和感から、出発した。漱石の前には、
西洋文明という普遍的価値観が、襲いかかってきた。それはみずからの考えを正義=普遍的であると信じて疑わない他人と同じである。
漱石は、その他人=西洋文明を前にして、激しく傷ついた。他人のすべてを受け入れれば、自分は壊れてしまう。でも、他人を拒絶する
ことはもはやできない。では、どうすればよいのか−。
こうした他人との齟齬(そご)を、私たちはどこにでも見いだせるではないか。だがそれを、国家同士のかかわり、あるいは文明論に
作品化できる人間はマレなのだ。それが漱石であり、他ならぬ江藤淳その人であった。経験は、誰の前にでも転がっているが、
ただそれを後世に残る言葉にできるのは、感受性にめぐまれた人間だけなのだ。
では日本という国家にとって、他人とは誰か。それはアメリカに他ならない 江藤は、明治以降のアメリカと日本の関係を考えた。まったく違う価値観をもつ他人を認めず、自己拡張に取り憑(つ)かれたアメリカ。
それに出会ってしまった明治日本。「この崩壊の過程−危機の只中(ただなか)で、日本人はどのように自問したか。それを問うことは、
ほとんど明治以後の文学を問うことである」(『日本文学と「私」』)
「崩壊」と「文学」という言葉に注目すべきだ。文学は、政治経済、あるいは歴史と無縁の、夢物語などではまったくない。自国の文化が
崩壊するかもしれない危機を感じとり言葉にすること、つまり時代に密着し直視すること−これが文学なのだ、江藤はそう考えた。
だから江藤の漱石論、勝海舟論などはすべて、「敗戦論」であり「戦後論」なのだ。昭和20年の「崩壊」を考えるために、書かれた
「文学」なのだ。
政治とは、崩壊を食い止めつづける静かな営みだ。そして勝海舟こそ典型的政治家なのだ、江藤はそう思った。海舟は華やかな
ヒロイズムとは無縁だった。だが周囲の戦後知識人を見てみよ、自分の政治的理想を謳(うた)いあげているだけではないか。
現実を直視せず、理想論にはしっているだけではないのか。
「このようになにをやっても『ごっこ』になってしまうのは、結局戦後の日本人の自己同一性が深刻に混乱しているからである」 /// 成功のシナリオ、失敗のシナリオ 8 ///////
資本主義というものは、根本的には個々の資本家が自由に経済活動を行い、利益を
追求することによって成立しているはずなのですが、日本には本当の意味での自由な
資本家がいません。
個々人の自由意思による経済的利益の追求によってではなく、政治家と官僚による
統制によって経済活動が動かされています。その点を見ると、日本の経済構造は
社会主義かと見紛うばかりです。
/////////// 堺屋 太一, リチャード・C. クー /// 文化的、発想的競争です。それがソフトウエアを生んだり、芸術を生んだりして、経済力に転化しますけどね。たとえば、アメリカは、ニューヨーク、ロサンゼルス、ピッツバーグ、アトランタなど、いろいろなところからあらゆる情報が発信されている。
そのうちでどれが勝ち残るかという競争で、常に刺激を受けているわけです。ニューヨークの文化も、ハリウッドの文化も、その次を戦々恐々として、自らも新しいものをクリエイトしていこうとしている。しかし日本にはそういう状態がまったくありません。
これは放送局もそうだし、雑誌社もそうだし、証券会社も、政府官僚もそうですよね。もう東京で決めたら、全部に知らせたら、地方からの反応はなくていいんだと。だから地方からの反応はなくても東京さえ通ったら、すべてOKという発想になっていますね 日本経済には資本の論理が働いていないことを象徴する出来事が、投下資本に
対するリターンの低さです。この十数年は特にそれが目立ちます。一九八〇年代の
後半以降、銀行預金にしても株式配当にしても、投資に対するリターンが
一%を切るレベルにまで落ちこんでいるのです。
日本人の個人金融資産は、総額一二〇〇兆円を超えています。他の国では
考えられないほどの、ものすごく大きな世界一の金額なのですが、この膨大な
金融資産が果たして国民の生活水準の向上に寄与しているでしょうか。
一人当たり、一家庭当たりに換算すれば、受け取る金利や配当はすずめの涙
というのが実感でしょう。一二〇〇兆円の金融資産が、諸外国並みにせめて
五%前後のリターンで回収できれば、日本人はもっと豊かな生活が楽しめる
はずなのです。
資本へのリターンの低さを示すもう一つの例は、最近問題になっている諫早湾の
干拓事業です。私は総投資金額を聞いて驚いたのですが、このプロジェクトに
政府はなんと二三七〇億円を投下するというのです。 では、このプロジェクトが完成したら、いったいどれだけのリターンを生み出す
のでしょうか。これ以上田畑を増やすわけにはいかないのですから、ゼロに
近いというのが本当のところでしょう。それほど収益性の低い事業に、三〇〇〇億円もの
巨費を投じるのですから、日本が資本主義国家とはとても思えません。
諫早湾の問題は、全体のなかのごく一部の問題に過ぎないと思います。大小合わせて
無数の公共事業が、リターンが限りなくゼロに近い水準のまま至る所で行われています。
資本の論理が働いている社会なら、こんな馬鹿げた投資は絶対に行われないはずです。
諫早湾の干拓には、税金と財政投融資のお金が投入されています。財政投融資の
主な原資は郵便貯金です。つまり、郵便貯金のお金は、諫早湾の干拓のように、
リターンが限りなくゼロに近い分野に投資されているわけです。
公共部門である郵貯が行っている投資全体が、民間金融機関の投融資よりリターンが
高いとはとても考えられません。国民金融資産の一二〇〇兆円の約四分の一が、
このような無駄遣いに回されているのです。 しかも二〇〇三年度の税制改革によって、預貯金よりも株式投資の方が資産運用上、実質的に有利な情勢となった。
たとえば、一億円を都市銀行に普通預金として預けた場合、その金利収入は一体いくらになるのかといえば、たったの一万円である。そこから二〇%の源泉分離課税を引けば、手取りは八○○○円にしかならない。
これに対して、同じ一億円を配当利回り三%の銘柄に投資した場合、三〇〇万円の配当に対して一〇%、三〇万円の源泉分離課税を納税する必要があるが、
二七〇万円の収入を得ることができる。しかも総合所得とは関係なく、全額が手取りとなる ほとんど三年といわず、それ以上長く持ち続けて、放りっぱなしという表現のほうが近い。
なぜならばその理由として、まず第一に景気のサイクルは概ね三?五年で好不況が変わることが上げられる。景気の変動からみても三年という期間に意味がある。第二に、三年すれば経営者の資質や能力に対する評価もできるようになることが上げられる。
三年の間に、経営者がどのような経営を行ってきたか見定めることが重要である。日本の上場企業の経営者の在任期間は大体四年である。この四年の在任期間中の三年で、その企業の業績が上向き、株価が上昇していれば、この間の経営者はかなり有能だと判断できる。
反対に、経営者が四?五年たっても変わっていなければ、企業トップの人事が梗塞している可能性が強く、特別な理由もなく、いつまでも同一人物が経営者の座に居座っている状態は、あまり企業環境がよいとはいえない 「キャッシュフロー」とは、たとえば製造業者ならば、売り上げの金額から生産に必要な全てのコスト
(賃金、原材料の購人価格、生産設備の償却等々)を差し引いた金額から、さらに借人金の支払い金等々を差し引いて残った経常利益を、「現金」の収支で示すものである。
つまり、「キャッシュフロー」が「赤字」ということは、その企業の資産が「現金」から「物」に代わっていることを示し、
反対に「黒字」ならば、資産の重点が「物」つまり「固定資産」から「現金」、すなわち流動性の高い資産に転化していることを示す。
「デフレ時代」において最も重要なことは、この「キャッシュフロー」を極力「黒字」にしていくということである。
企業の持つ資産内容を「固定資産」から「流動資産」に転化させる努力を怠れば、文字どおり「勘定あって銭足らず」という状態になってしまう。
帳簿上いくら経常利益あるいは最終利益が「黒字」であっても、現実に資産内容が「固定資産」拡大となっていれば、
必ず大きな「値下がり損」がそのなかに含まれており、そうした経営状態の事実が、「キャッシュフロー」の「黒字」と「赤字」に表れるのである それはMBAの授業で、M&A(吸収合併)の授業を受けた時に、「M&A
の中で付加価値はどこから生まれてくるのか」というディスカッションを
したのです。その中でどういう答えが出てきたかというと、例えば会社を
買収する時に借金を増やす。その借金を増やすことによって納税不要になり脱税ができる。
これは付加価値なのだというのが一点。
もう一点は、買収する時に、既存の契約を全部、再交渉する。つまり、今まで従業員などと結んでいた賃金契約を破って、自分たちにとって都合のいい低い賃金制度につくり直せるというのが付加価値の源です。
こういう話を聞いて、これはどう見ても新しい価値を生み出しているわけではなく、ただ単に、以前は税金という形で国や国民に流れていた価値、もしくは従業員に流れていた価値を、経営者のほうへ流しているだけである。 「その第一は、過剰な金融取引や商品投機、そして誤った経済哲学と経済理論のせいである」
「世界の金融は、82年からイギリスのサッチャー政権が行った金融自由化からはじまった。それが86年には『ビッグ・バン』と呼ばれるほどの巨大現象に」発展する。時を移さずアメリカでも金融の自由化が進み、株式等の取引手数料も自由化された。
このため手数料は極端に低下し、手数料収入では喰っていけなくなった証券会社は、短期の低利資金を集めて高利の長期投資に回す投資銀行と化した」
「金融市場は実に単純、それを動かす動機はただ二つ、『強欲と臆病』である。…強欲は少ない資金でより多くの利益を得るための梃(レバレッジ)を生み、
臆病は元利の安全を求めて保証取引を作った」「90年代、様々な金融技術が考え出され、『金融工学』なる言葉もできた。だが、それらは所詮、
二つの矛盾した目的を言葉巧みに繋ぎ合わせただけで、何一つ新しい価値を生み出していはいない」「90年代に拡大したデリバティブとは、
結局は危険付き利益のキャッチ・ボールだ」「サブプライム・ローンの破綻に発した金融危機が、全世界にまたたく間に広がったのには、21世紀の国際金融の脆弱にして巨大な広がりがあった」 「今日の最大の問題は、世界経済の体質と構造の変化に、人類の知識と制度がついていっていないことだ。つまり、改革の行き過ぎではなくて、改革の遅れなのである」。
では、どんな体質と構造の変化があったのだろうか。
「冷戦構造の消滅とドルの流動でグローバル化が進んだ結果、巨大な企業は国境を越えて工程別に立地を選ぶようになったのだ」「中国やアジア諸国などの新興工業国に多く立地したのは、
最も資本集約的な中工程」、つまり部品製造や製品組み立て工程である。…中国などには膨大な投資資金が流入、コンピューター制御化された生産設備が立ち並んだ」「これに対して日本や欧米に残るのは、熟練工の『匠の技』に頼る古い工場である」
「水平分業から工程分業への変化は、先進国の社会をも激変させた。ここで企業や都市の盛衰を決めるのは、ビジネス・モデルが技術開発、マーケティングの中核となるごく少数の人々である」「今や先進地域の都市間競争は中核100人の争奪戦となっている」
「ビジネス・モデルを創ったり、製品のデザインをしたり、金融や法務やマーケティングに携わる人々にとって、生産手段とは何だろうか。多くの場合、物財は情報網につながったパソコンぐらいで済む。
本当の生産手段は、本人の知識と経験と感性である」「知価創造に携わる人々は、何よりも自分の好きなところに居住し、好きなところで働き、好きな状況で知的刺戟を受けて生産手段たる知識と経験と感性を補充する 金融業者に倫理を説くのは無駄。金融業者があくどいことは、
シェイクスピアでも近松門左衛門も書いている。金融業者に望むのは、倫理よりも理性である。もう少しましな人材を育てる教育をすべき ・今や先進地域の都市間競争は中核100人の争奪戦となっている。リチャード・フロリダは、これを「クリエイティブ・クラスの争奪」と呼んでいる
・世界の巨大な国際企業の本社機能は地方都市に分散している。大都市に集中しているのは金融と商品の取引所だけ。
今回の金融危機と大不況の原因は大都市で作られた。東京一極集中を今も進める日本が、実体経済で最悪の落ち込みになったのは不思議ではない ・マッチで放火する者がいれば、放火犯を逮捕すべきだが、マッチの販売を統制すべきではない。ここ数年、日本では1、2の事件で、法を改正し制度を変更することが多い。例えば、05年に一人の建築士が構造計算書を偽装していたことが発覚した。
それだけのことで建築基準法を変更、07年6月以降、建築着工面積が大幅に減少、GDPが0.6%も下落した。国民経済に与えた損失は中越地震よりはるかに大きい。
しかもその後も膨大な手続き費用がかかるようになっている。官僚統制の恐ろしさは、誰も反対できない極端な少数の例を挙げて規制権限を強化し、一般的な利便を失わせコストを吊り上げる点にある。かつて、地球上の半分を占めた社会主義政権は、
そのために滅亡したが、今の日本も同じ道をたどっているように思える。建築基準法、金融商品取引法、貸金の利子制限からタバコ自動販売機のタスポカードや自転車3人乗りの禁止まで、煩わしくて効果不明の統制強化が続いている /// 成功のシナリオ、失敗のシナリオ 16 ////////////
日本では、土地を持っている人に金融がついて、持っていない人には融資が
されない。そして、仕入価格が安い土地を持っているのは、戦前からの伝統を
誇っているような大企業です。しかし、こういう大企業では、新しい能力や
産業は開発されません。
お金を貸している先が収益性の高い事業に成功しないのですから、銀行だって
高い利益が得られません。当然、高い金利を預金者に払えなくなります。
定期預金金利が〇.三%とか〇.三五%というあきれるほどの低金利になっているのは、
まさにこの土地担保融資がもたらした最悪の結果だといえます。 その間にもドルは垂れ流されて世界に溢れた。それでもドルが、国際基軸通貨としての価値と地位を保ったのは、ドルを借りて金利を支払う借り手がいたからである」「金融では、短期の運転資金が最も安全、
長期の設備資金はそれよりもリスクが高い。最も危険なのは長期の消費者金融である
」「80年代からのアメリカの借り手創りも、この順に広まる。ジャンク・ボンドは運転資金、アジア投資やITブームは設備資金、そして21世紀になって急増したサブプライム・ローンは
最も危険性の高い低所得消費者への長期融資である」「サブプライム・ローンはペーパーマネー体制を支える究極の借り手だった。
それが崩壊したことは、ただの債務者破綻ではなく、ペーパーマネー体制そのものに対する絶望にも繋がる大事件である タスカさんのいうように、本来、資本は高い利益が見込まれる分野に投資されます。
しかし、日本ではお互いの顔のつながりとか、系列とか、業界の申し合わせとか、
長い取引関係があるとかで、投資先や融資先が決まってしまいます。
確かに、これは資本主義とはいえません。
ですから、ビッグバンが改革の対象にしているのは、単に民間企業の東京金融市場
だけではなく、郵便貯金や財政投融資などにも及ばなければならないということになります。
そうしないと、ビッグバン自体が機能不全に陥るでしょう。 /// 最適工業社会の繁栄と限界 98 ////////
他方、農業や流通業、企画調査、知価創造などには、いまなお生産性を引き下げる
ことを是認する風潮がある。大して売れないのに深夜まで店を開いている小売店、
やたらに人を集め分厚い報告書をつくる調査会社、観客には分からぬところに凝る
映像制作者、納税者名簿だけを頼りに見も知らぬ他人を勧誘して回る証券マンなどが
それである。こうした分野は、日本語と集団主義的人脈と政府の保護政策に守られた
鎖国状態だから、いまも石門心学が通用している。ただ重大な違いは、効率主義の
影響で、これに従事する人々が高所得を求め、政府が高価格を維持する統制と
競争制限を行っていることだ。 いま、日本が直面する第三の「壁」、あらゆる分野で続発する不祥事も、まったく
同根の問題である。極端な供給者保護のもとでは、事業さえ拡大すれば巨利を
得ることができる。その一方で過剰供給を防ぐべく官僚主導の協調体制によって
拡大抑制策が採られている。これでは、各業者が官僚統制の抜け穴を探し、
内密のうちに事業を拡大しようとするのも不思議ではあるまい。そこから生じるのは、
多額の費用と時間をかけての人脈づくりであり、官僚政治家への接近であり、
いろんな形でのリベートや補填である。今回の証券業界の損失補填は、その
露骨な一例に過ぎない。
/// 最適工業社会の繁栄と限界 93 ///////////
大銀行が絡んだ不正不当な融資もまた同じ構造から生まれている。政府の
保護下にある銀行は、預金貸出しの規模さえ拡げれば必ず儲かると確信していた。
とくに供給が制限されている土地に対する融資にはその信念が強かった。とくに
ゴルフ場は造成が制限されているうえ、人脈づくりに利用される施設だから有利と
見られていた。日本の金融業者は、政府の保護と供給規制に頼る以外には、
担保評価も人物鑑定もできないほどに無能力化していたわけである。 /// 最適工業社会の繁栄と限界 94 ///////
これは、経済界に限ったことではない。上部組織の指導に従って協調する風習は、
はるかに末端にまで浸透している。農民は農業指導員の指示した日時に農薬を撒く。
天候の変化や地区の実態に適さない指示でも従うため、その撒布量は膨大になるが、
政府買い上げの米価がその代金を埋める仕組みになっているので、逆らわないほうが
よいのである。
小売業者はメーカーと卸業者の指示で商品を並べるだけである。そこには自営業者と
呼ぶにふさわしい創造性と責任感が見られない。保護と競争制限でその必要もなかった
からである。医師は高価な検査機器と薬剤を使うばかりで問診の技能を失ってしまった。
多様な医療の競争がないためである。 堺屋 経済拡大の方法としては、予算を付ける以外に規制緩和という選択肢もあるのに、官僚がそちらを選ぶことはまずない。例えば厚労省の傘下には社会福祉法人がありますが、
出資金に対する配当ができないから資金が集まらない。これを株式会社化して資金調達可能な形にすれば、
医療や社会福祉に様々な事業者が参入する。待機児童の問題などすぐ解決する。農水省の農業法人しかり、文部科学省の学校法人しかりです。
ところが役人は、あれもダメこれもダメと手足を縛り、それで赤字分は国が補填してやると。これが国家予算を膨らませる仕組みですね。 国の借金を増やしている張本人は、官僚だということです。財務省が財政再建に努力しているなんて、全くの間違いですよ。
かつて帝国陸軍は、敵を減らすどころか、次々に戦線を拡大して敵を増やしていった。その結果、徴兵権を強くし、軍人のポストを増やし、
予算を獲得して組織を拡大していったんです。同様に財務省も、赤字削減どころか実は拡大している。
赤字予算を組んで権限を見せつけ、やがては増税して日本経済を財務官僚の指導下に置く。これが本当の狙いです。 古賀 財務省も民主党も自民党も今の大勢は消費税アップしか言いません。これは大いに問題です。というのは、堺屋さんが言われたように役所には様々な利権があって、何か新しいことをやろうとしても、全く自由に動けない
これからの成長分野としてよく挙げられるのが、農業、医療、再生可能エネルギーの3つですが、本気で農業参入を自由化しようとすれば農協と闘い、農水省の利権を潰さないといけない。
医療では病院を株式会社にしようとすれば医師会と闘い、厚労省の利権を潰さないといけない。再生可能エネルギーも、新規参入自由化のために電力会社や経産省と闘う必要がある。
でも、官僚も団体も徹底的に抵抗しますから、政治家にとって改革は非常な困難を伴う。だから、結局、最も弱い相手に無理を押しつける。それが、国民に対する消費税アップです。「増税を訴えるのが本当に責任ある政治家だ」
などともっともらしいことを言っていますが、逃げているだけじゃないかと思う。成長分野をちゃんと育てることができたら国の収入も増えて増税せずに済むかもしれないのに、頑なにそれをやろうとしない。 一本のネクタイに見る知価 - 堺屋
いまタスカさんが指摘された問題は、これからの経済を考える場合にじつに
重大な要素を含んでいると思います。単なる知識の集積、単なる情報処理能カだけでは、
もう人間はコンピュータには勝てないということです。
人間が持っている知的な価値、私のいう「知価」が問われる時代になるのです。
コンピュータがどれほど発達して安価になっても、コンピュータが決して
持てない能力を私は知価と呼びたいのです。
/////////// 堺屋太一, リチャード・C. クー /// は不況ですから、昔のマルクス主義なら経済恐慌から金融恐慌になるという理窟になるのでしょうが、
僕らは絶対にならないと考えています。その根拠としては、価格と価値の乖離が著しいですから、
先進国で了解させすれば価格は地域によって設定することが可能であり、それは価値とは関係なく成り立ちえます。遊離した価格の振る舞い方は人間でいえば意識と同じで、
つまり経済が意識をもちはじめたわけです。無意識に恐慌にはなることはありえない、というのはその根拠なんです。
価値というのは人によって考え方が違いますけれど、価値の浮遊性というのを例えば商品の例で言えば、商品の価格といいますか商品の値段というのは、
商品を作るために費やされた労力とか賃金とかその他を含めたもので構成されます。ところが、そういうものとかかわりなく価格は決ってしまうし、
決めることが出来るということが現在とても大きな特徴です。価値の源泉に関係なく価格が決ってしまうのです。浮遊させることが出来るのです 一時期、表舞台から身を引いていたが、一昨年末に自らのファンドを立ち上げ、低い株価純資産倍率(PBR)で
キャッシュリッチな中堅企業への投資を開始した
――そんなに悪い経営がはびこっているか。
「日本企業は現金を持ち過ぎだ。過去20年、日本の国内総生産(GDP)はほぼ横ばいだ。
その間、上場企業の純資産は2倍以上に増えた。企業の持っている現金は220兆円程度あるとされる」
「企業に金融資産が溜まり過ぎて、滞留しているためにデフレになったと考えている。このお金を動かさないといけない。
消費税を3%引き上げるために、5兆円の補正予算を組んだ。しかし、企業に溜まっているお金を2%使えば済んだはずだ」
「資金の使い道は、設備投資でも、従業員の給料でも、M&Aでもいい。しかし、使いきれないなら株主に返さなければいけない。
株主はそのお金を再投資するかもしれない。個人だったら消費をするかもしれない。付加価値生んでいるのは営利企業だけだ」
「富を生んだ結果としてのせっかくのキャッシュを銀行に置いておくだけだったり、有価証券投資しているだけでは日本経済はよくならない。
お金を循環させなければならない
投資有価証券の用語解説 - 貸借対照表の借方の資産の部、固定資産のうちの「投資その他の資産」のひとつ。
企業の持ち合い株式や、関連会社の株式の他、満期までに期間が一年以上の債券、市場での価格がない有価証券などを指す。 上場企業である以上、現金の溜め込み過ぎは敵対的買収のターゲットに
なりやすくなるぞい
企業がこの低金利時代で220兆円も現預金で持ってるわけねーだろ
売掛金だったり、固定資産や外国債権になって運用されている
つうか企業が国内に投資しないのが問題、海外にいっちまう
内部留保を蓄えるのは、大切なことなんだぜ。
任天堂みてみなさい。連続で赤字たれん流しても、
会社として普通に存続していける。
巨額な内部留保があればこそ。
赤字転落、資金繰り困難になった場合、
内部留保ないと即倒産という可能性がたかまる。
実際、将来性があっても資金ショート起こして倒産した会社もある。
3年間利益なしても存続できる現金はあったほうがいい
内部留保は、不景気の時に土地を安く買ったり建物を安く建てるために使うんだから、
長い目で見れば株主の利益
配当出さないから 安定的株主が育ちにくいんだよな
なので乱高下する 配当率からしたら
たいして魅力はないのが株式市場 値が上がったら増資するし 吉本 教養については、学校や学歴がどうだということとは
全然関係ないよ、と思います。
今の現実と、昔の現実をよく考えあわせられる人、そういう人がいたら、それが教養のある人です。
それだけの教養があれば、これから先どうなるかということを、そんなに長い未来のことは言えなくても
少なくとも数年間の、まあ、景気が良くなるか悪くなるかとか、そういう問題についてならば、
見通しはつけられるんじゃないでしょうか。
今の知識人がダメなのは、どちらか一方がないからです。
一方しかない、ということは、それじゃ全部もない、というふうになります。
知識がある人はたくさんいるし、専門家というのもたくさんいます。
その人はある分野についてよく知っていることはわかりますが、
それは、日本の社会の全体や大多数がどうなっていて、
どう展開し、どうなっていくかをわかる人でしょうか ここに二本のネクタイがあるとしましょう。同じ質の絹で作られたネクタイですが、
一本は三万円、もう一本は五〇〇〇円です。二つの間の値段の差は、一方が
有名なデザイナーがデザインした有名ブランド商品だからです。この差が知価だと
私は考えます。つまり、三万円のプランド品のネクタイといえども、ハードの価値は
五〇〇〇円に過ぎず、ソフトの価格、つまり知価が二万五〇〇〇円なのです。
もう一つの例を挙げましょう。いま世界で一番のお金持ちは、マイクロソフトの
創業者のビル・ゲイツ会長です。ご存じのように、マイクロソフトはパソコン用の
ソフトウエアを作っている会社です。
カーネギーやフォードの時代には、鉄や自動車のようなハードを作る人が
世界一のお金持ちでした。しかし、現代では、ソフトを作る人、つまり知価を
創造する人が一番お金持ちになり、世界経済をリードする時代なのです。
繰り返しになりますが、このような時代の変化に対応することが、ビッグバンの
最終的な目標なのだということを、私は強調したいのです。 ・スパイの行動原理とは、つまるところ「裏切り」にほかならない。
(p14)・・・自らの中心を空虚化することに悦びを感じるようなマゾヒスティックな人間こそがスパイになる。
・どんなに自らを虚しくしていっても、最後まで決して消すことができないのは、その人間の身体です。
・私は(スパイであった)ル・カレと違って、物書きというのは基本的に白紙の存在だと思っております。(p16)・・・空虚と白紙は違う。
空虚であることに悦びを感じるマゾヒズムは、私にはまったくない。
・(『黄金を抱いて翔べ』の)幸田というどこかしら空虚な主人公は、金塊に蟲惑的なものを感じたのだろうと思います
阪神淡路大震災から)現在までの十九年間に私が何を発見したかと申しますと、スパイとはおよそ真逆のもの、すなわち、
人が生きることの意味や、命があることの重さ、といったものです 特許やデザイン、商標、著作権といった知的財産が富を生み、人々の生活や考え方、企業の価値を大きく変えつつある。
元経済企画庁長官で作家の堺屋太一氏に、知財の秘める力を聞いた。
――1985年に書いた「知価革命」という本で「次の社会は、知恵の値打ちが支配的になる社会『知価社会』になる」と指摘されました。
「予想した通りの社会が、予想以上の速さで進展している。そして、日本は立ち遅れている 米国では(歳出削減と規制緩和を重視した)レーガノミクスが進んだ1980年代、すでに知価革命が始まっていた。
『高速・大型・大量』を追求する技術の進歩はピタリと止まったが、日本は80年代以降もそれまでのやり方を続けてしまった」
――知財では欧米が明らかに先行しています。どこに違いがあると考えますか。
「仮に知財を特許のような『理系知財』と、デザイン・ブランドなど『文系知財』の2つに分けるとすると、
日本が特に遅れているのは文系知財だ。その重要性が本当に認識されているとも思えない。米アップルのようにグローバルに通用する商品の価値の大部分は、
今やデザインやブランドだ。日本では大量生産向けの ブランドは生まれているが、グローバルに通用するラグジュアリーブランドが生まれていない」
――その原因は。
「難しい問 題だが、価値観によるところが大きいと考えている。戦後の日本は『効率・安全・平等』を正義としてきた。高度経済成長期を経て、
その中でも特に『安全』が 絶対的になった。そうした中で『楽しみ』は排除され続けた。だが、真に価値のあるデザインやブランドは、楽しみや多様性のなかから生まれるものだ」
「問題の根源は日本の官僚規制にある。安全だけを追求し、規格に沿った大量生産を推し進める社会に官僚規制が誘導したからだ。
そうした中で、『文系知財』の重要性に対する理解が進まないまま今に至り、何でも集団で、当たり障りのないようにやる癖が日本企業についてしまった 「だ が、本当に価値のある知財は集団心理から外れた個人から生まれるものだ。江戸時代の人形浄瑠璃作者、近松門左衛門は舞台に初めて自分の名前を表示した作家 だが、当時この行為は『やめさせたきもの近松の名付け』と酷評された。
だが今に至るまで残っているのは、『これは俺がやった』と言えるような名作があった からだ。個人がヒーローになれなければ、これからも今の日本の状況は続いてしまう」
――今後、日本で『理系知財』が生まれるプロセスに変化は起きるでしょうか。
「20世紀の知的活動は大学に集中していた。だが19世紀やそれ以前は、大学ではなく在野の研究者が知的活動をリードしていた。いま再び環境が変わりつつあり、大学以外から知価が生まれる流れがいっそう強まるだろう」
「近年、大学から自立した研究所が多く生まれてきている。先進国で少子化が進めば大学は縮小し、これまでのように知的活動を担いきれなくなる」
「シェールガスの産業化に最も貢献したのは、大学ではなく民間の地質調査会社だ。最先端の遺伝子治療も民間の研究機関がリードしている。大学から漏れ出た知価を民間の研究機関が受け止められるよう、しっかりとした収益が上げられる知財の創造普及の仕組みが必要だ」
――日本の知財を強くするため、「官」には何が課題でしょうか。
「2つある。ひとつは分野ごとの縦割りだ。例えば特許の保護は特許庁が所管しているが、実際にそうした技術の普及となると分野ごとに所管官庁が縦割りになっている」
「もうひとつは人材だ。今の役所に各分野のプロはいない。戦後、東芝の研究所所長が郵政省電波局長を務めたことがあり、日本でテレビが急激に普及した。各分野のプロを各官庁のトップにつけるようなことがもっと増えてもよいと考えている 堺屋太一「歩いて暮らせる街づくりをすれば原発いらない
経済の中心が規格大量生産から知価創造に移るなら、都市の構造も変えなければいけない。それが「歩いて暮らせる街づくり」である
戦後、石油文明の時代は、エネルギー多消費型の生活態度、社会構成がいいことになっていた。住宅地から工場街やオフィス街や商店街に、長い距離を電車や高速道路で結ぶんだという計画を立てた。
これは明らかにエネルギー多消費型なんですね。ここは住宅専用地、工業専用地と分けて行政するのがやりやすいという官僚的発想なんですよ。省エネルギー型の生活、
美意識に変えなければならない。例えば、歩いて暮らせる街づくり。だいたい1キロ半径の中にすべてのものがあると。住宅もあれば商店街もあればオフィスもあれば、遊興施設もあれば病院も学校もあると。そうすると、
少なくとも10年間に25%ぐらいのエネルギーを減らせます。そうすると、今の原子力発電も順次やめていくことも不可能ではない。この東日本大震災を機会に、官僚主導の文明から自由選択の文明に変える、これが1番大事なポイントですね 当時、世界的人気の社会情報学者マーシャル・マクルーハンは「テレビが普及した世の中では博覧会など時代遅れ」と断言
会場跡地をはじめ多くの資産を残した。何よりも日本国民に、夢と期待と思い出を残すことができた
多くの経営ノウハウと有能な人材を生み出した。体制や倫理観を異にする国々との付き合い方も学べた。規格大量生産社会にふさわしい金融機関を核とした企業系列が形成された。
そして建築、デザイン、ファッション、工芸、イベントプロデュースなどの分野で、世界で活躍する人材を大勢世に送り出した
「人生は玄(くろ)い冬から始まり、青い春を迎え、やがて朱(あか)い夏に至り、白い秋に入る」
私の人生を顧みても、この例えはうなずける。日本の戦後70年もそれに似ている。ただし、私の体験と知識では、四季よりもきめ細かく、ほぼ10年ごとの7期に分けられるように思う
敗戦」から、日本は見事に立ち直り、以前よりもはるかに豊かで世界に畏敬(い・けい)される国になり得た。それまでの倫理と体制を改め、新しい文明に適した状況を樹立したからである。
今また直面する「冬の時代」も、日本と日本人は乗り切るだろう。新しい人類文明に適した倫理と体制を生み出すに違いない /// 真の構造改革とは 17 ///////////
したがって構造改革の目的はただ一つ、国家体制を官制経済から市場経済に
移行させることである。経済を権力の侵蝕から解放し、経済(=市場)のものと
するのである。
利権を本質とする官制経済体制を形成する要素は次の四つである。第一に
行政が「公共事業」および「経済振興」を展開する"政策"、第二に開発法、振興法、
整備法、事業法、政省令、規則、許認可等からなる"法制度"、第三に補助金、
特別会計、財政投融資計画で構成される"財政制度"、そして第四に特殊法人、
公益法人、許可法人など官の企業群を擁する"行政組織"だ。 /// 成功のシナリオ、失敗のシナリオ 67 //////////
何もしなかったといっても、省庁の再編は曲がりなりにも実行されて、官庁の数も
減り、その名前も変わっています。しかし、日本社会の本質的な部分は何一つとして
変わっていません。官僚がものごとを決定して、政治家が有権者に取り次ぐという
構造は変わっていないのです。
そして、各業界は官僚主導の護送船団に安住し、業界の談合システムは依然として
続いています 町人が米相場を支配しているのが気に入らなくて、吉宗は米投機を禁じて、
米価の統制をやろうとしました。投機相場があるからこそ、豊作のときに余った米を
買って、不作に備える商人が出るのですが、吉宗は強引に投機をやめさせたのです。
その結果、豊作の年に米価が大暴落して、農民も大名も困り果てることになりました。
ところが、すぐそのあとでは大凶作が起こり多数の人々が餓死するまでになります。
「享保の大飢饉」といわれる事件です。
///////////// 「未来はいま決まる」 /// 形而上学的な世界観を身に付けたわけですが、これは存外に動かしがたい背骨のようなものでありまして、まさに私の人とな
りの基本がそうだということであります。例えば、人間とは何かを日常的に考えていると
言えばまるで漫画ですけれども、「人間は何故こうなのか」、「世界は何故こんな風になって
いるのか」、「人間は何故戦争をするのか」、「国民国家は何故必要なのか」、いつもいつもそ
んな問いをたてることを止めることができません。そういう頭と言いますのは、簡単に言
ってしまえば、ものを考える頭であります。たいして立派な答えがあるわけではありませ
んけれども、とにかく問い続けます。問い続けて、考え続けることがそのまま生きている
ことだという、そういう頭であります。
もちろん世の中にはいろいろな頭があります。問いを発する前に放浪をしている頭とい
うのもあります。スポーツで鍛えられた体には、「何故」という問いは無用であります。そ
ういう身体が必要とするのは機敏に反応して判断する頭であって、迷い悩む頭ではありま
せん。政治家の頭もどちらかと言えばそういう筋肉質の頭であって、基本的に迷い悩むの
は不得手、と言うより無用かもしれません。また、健全に生活を営む頭というのも、心身
のバランスに気を配って、無理をしない頭であって、ぐずぐず考え込んでしまう頭ではな
いかもしれません。
翻って、問いを立てて、ものを考え続ける頭というのは、考えるために考えるというよ
うなところがありまして、一般的には生きるのにあまり役に立つものではないと言えます。
最初に、読書でご飯は食べられないと申しましたけれども、ものを考える頭も生きること
にかけては不器用であります。ちなみに、そういう頭が奇跡的に成功すれば、立派な学者
になったり、宗教家になったりすることもありますが、普通は実生活の役に立たないばか 吉本隆明
「逮捕されたり、取調べを受けたりしている芸能人のうち一人くらい『マリファナを吸ってな
にが悪い。芸能だって芸術と同じように、時として法のかなたへ越境する精神の自由が無けれ
ば開花しないものなのだ』と主張する奴が出てくることを祈り、期待します。」 インターネット、携帯電話と、コミニュケーション手段が発達していくのが最近の世の趨勢で、これに逆行することはできないんですが、コミニュケーション自体が自己目的化したら、それはちょっと病気です。 Wバニラリッチ先行予約したよん
ちなみにスレ荒らされてるけど>>674はわたしだよん 「西洋人は日本にものを考える人間がいないと思っている」と危機感を示して、 たびたびアメリカに行って現地の知識人と交流を持とうとしている。
「アメリカから帰ってきた時に読んだのですが、吉本隆明が高橋源一郎との対談のなかで、私のことを嘲笑していたのを覚えています。嫌な言い方をしていたので、今も覚えているのですが、
「ほんとうにいい仕事をしていたら外国に行く必要なんかない、向こうからやって来て、カラターニなんていうだろう、ワッハッハ」というのです。
そのとき、それは違うと思った。そんなことは絶対にない。自分が出て行かなかったら、向こうは来ない。来るとしても、向こうにも別の動機があるわけで、彼らに都合よく料理されるだけです。」
〜 オリエンタリズム について、柄谷行人 作家・司馬遼太郎は、江上波夫を“最も敬愛する人”と言い、「独自の仮説なくして「学問なし」という信念の司馬は、
“日本の考古学者で、40年の時に耐えうる仮説を提示し得た学者”として、江上に対し最高の評価をし、敬意を払っている 山崎正和は、『柔らかい個人主義の誕生』(中公文庫、1987年)においてこれを『淋しい群衆』と訳した。
理由として「原著の内容から見て、現代の大衆は客観的に孤立してゐるといふより、心理的に淋しがってゐる、と解釈した方が、ニュアンスに忠実だと思はれたからである」 冬の公演控えてるんだからスレ汚さないでくれないかなあ 日本文化の中心は稲作で成り立っている。稲作を守ることは、日本文化を
守ることだ。だから、米価は引き下げてはならない、もっと補助金を出しなさいと
農協は主張するのです。このような文化的大義を前面に立てた言い方は、
再配分運盟が自分の利害を守るための典型的な手法になっています。
先程も申しましたが、ある経済的問題に関して、フランス政府がフランス文化を
守れというときには、その裏には確実にフランス版再配分連盟の力が動いて
います。それと同じことが、日本でも起こっているのです。
/////////// ピーター タスカ ///
確かに、経済面で市場の要請に逆らうことをしようとする人は、その
大義名分として「自国文化」を持ってくる場合が多いようです。また、
「安全」の確保を主張する場合もあります。
彼らのいう文化のなかには、「伝統文化を守る」ことから「他国文化の
流入を防ぐための言論統制」までが含まれます。また、安全のなかには、
「国防上の必要」から「事故」や「青少年の非行防止」までが含まれています。
////////// 堺屋 太一 /// だからスレ汚さないでっての
どうせなら岡田利規の引用を貼れっての 村上春樹は「終戦後、悪かったのは軍閥で、天皇もいいように利用され、国民もみんなだまされて、
ひどい目にあったという考えがある」とし「結局、誰も悪くないということになってしまった」と述べた。
日本人が自ら犠牲者であり被害者という誤った認識の中にいるという説明だ。
村上春樹は「(日本が起こした戦争に)中国人も韓国人も怒っているが、
日本人には自分たちが加害者でもあったという発想が基本的に希薄だし、
その傾向はますます強くなっているように思う」と付け加えた。
福島原発事故にしても「誰が加害者であるかということが真剣には追及されていない」と指摘した。
村上春樹は「加害者と被害者が入り乱れているということはあるが、このままでいけば
『地震と津波が最大の加害者で、あとはみんな被害者だった』みたいなことで収まってしまいかねない」
と懸念を表した。
村上春樹は普段インタビューをしないことで有名だ。
社会問題について、小説家はステートメント(声明)を出すのではなくて、
フィクションという形に思いを昇華させ、立ち上げていくべきだということだ。
村上春樹は「僕らの世代は60年代後半に、世界は良くなっていくはずだという
ある種の理想主義を持っていた」と述べた。「ところが、今の若い人は世界が良くなるなどとは思わない、
むしろ悪くなるだろうと思っている」とし、遺憾を表した。
その一方で「ある程度、人は楽観的になろうという姿勢を持たなくてはいけない」と強調した。
村上春樹は「60年代に持っていた理想主義を新しい形に変換し、
若い世代に引き渡していくことも重要な作業」とし「若い世代に向けても小説を書きたい」と述べた。 スレ汚さないで
誰かに読んでほしいならツイッターかブログでやって
読まれなくてもいいのなら独り言板でやって 谷川俊太郎
「身体を使ってお金を稼いでいる人たちは、姿も言葉もとても具体的なのに、
僕のように言葉だけで生きている人間は、存在も言葉も何だか抽象的な感じが
する。詩人なんて、具体的に生きている人たちに基本的には負けていると僕は
思うんです。ただ、言葉だけで勝負することはそれなりに大変で、僕の場合は
はじめから言葉や詩を信用していなかったことが書くエネルギーにつながって
いたようなところがある。生まれてくる言葉に対して、ああでもないこうでも
ないといちいち否定して、“これじゃどうしようもないから、違う書き方をし
なければ”と思いながら、前に進んできたような気がします
この先、どんな詩を作っていきたいか訊ねると、「より新しく美しい言葉、
いや、美しい生き生きした言葉……かな。でもそれは単語じゃなく組み合わせ
なんです。使い古された単語をうまく組み合わせて、新しい美しいものを作る
のが、詩の基本ですから」 相棒13 2014年12月3日(水) よる9:00〜9:54 第7話「死命」
享(成宮寛貴)は、悦子(真飛聖)から情報を得て、保険金殺人の疑いがある案件を単独捜査していた。被疑者は
田無(米村亮太朗)という30代の男。彼は、4年前に20歳も年上の女性と結婚したが、2年後にその女性が急死し、
巨額の保険金を受け取っていた。田無をマークしていた享は、右京(水谷豊)の助言で捜査一課に応援を要請。
身柄の確保に動くが、追い詰められた田無は、享の目の前で自殺してしまう。捜査に落ち度はなかったものの、
ショックを受けた享は辞職を考える。そんな中、田無の墓参りに訪れた享は、そこで彼の友人だという
若い女性・美波(清水くるみ)と知り合う。享は美波に誘われ、若者たちを支援する団体へと向かうが…
保険金殺人の疑惑がかけられた若者と、その友人を名乗る女性、
警察を辞める決意を固めた享。そのとき右京は…!?
事件の先には、現代社会に潜む巨大な“闇”が広がっていた!
ゲスト:米村亮太朗 清水くるみ 阿知波悟美 藤井美加子 「本当に冗談みたいな解散ですよね。私たち有権者に理解できるような理由が一つも見あたらない」
今後、アベノミクスの失敗で経済指標は悪くなる。このまま解散を引き延ばせば来年4月の統一地方選で大負けするから、
その前に……と安倍さんは思ったのでしょう。要するに経済失政を覆い隠すための手段に過ぎないということです
地方を元気にするには、地場の中小企業が生産性を上げ、自分たちで雇用を生み出していくしかない。構造改革は待ったなしの状況なのに、
アベノミクスでは相変わらずばらまき型の公共投資をして国への依存を助長し、地方の活性化を妨げている。
さらに休業手当や賃金の一部を助成する雇用調整助成金にしても、非効率な企業を延命させ、経済の新陳代謝を遅らせるだけ。それよりも会社をたたみやすくしたり、新たな産業を呼び込む制度を整えたりするのが先でしょう
戦後の歴代政権の内閣法制局が積み上げてきた憲法解釈を、いとも簡単に変更した。しかも、それをしたのは同じ自民党中心の安倍政権。いったい何の権利があって、と憤りを覚えます
戦後69年、日本人が守り続けた『戦場で人を殺さず、殺されもしない』という歴史に終止符が打たれる。安倍さんの言う『積極的平和主義』で平和が維持できると考えるなんて、それこそ妄想以外の何ものでもありません
2年前の消費増税を巡る3党合意と議員定数是正の公約が置き去りになっていること。靖国神社参拝で中国や韓国などとの関係をこじらせたこと。
「戦後レジームからの脱却」を掲げながら、米国の意向に沿って米軍普天間飛行場の辺野古移転を進めたこと……。
私には安倍さんが、軍部の台頭を許し戦争への道を歩み始めた昭和初期まで歴史を巻き戻そうとしているように見えます。安倍政権が長期化したら、私たちはどこまで連れて行かれるのか。来年は戦後70年です。
この節目の年を安倍首相のもとで迎えることの意味を、私たちはもっと深刻に考えるべきではないでしょうか 小説の舞台にしたのは1980年代です。当時の国会議事録を丹念に読みました。その頃も汚職などの不祥事はありましたが、国会では中身のある議論をしていた。
与野党ともに、まともな政治家がいたのです。2000年代以降の政治家たちは軽すぎて小説にならない。うちわやSMバーが、議事録にも残る国会で議論されるなんて、恥ずかしい限りです
経済効率からも、巨額の賠償リスクがある原発を抱えたまま会社を経営していけるわけがない。これもまた妄想ですね
今のうちに、という本音が透けて見えるから、言葉の一つ一つに重みが感じられない。安倍さんの、安倍さんによる、安倍さんのための解散・総選挙であることを裏付けたと言っていい」
消費増税についても、法律から景気条項を外すから次は必ずやると言いますが、その時にも安倍さんが首相を務めているという保証はない。
政治家は、そこまで考えて一つ一つの決断をすべきだし、有権者は彼らの言葉が信じるに足るかをしっかり吟味しなければなりません
「確かに受け皿になる野党はないかもしれない。700億円もの経費を使うのに、今やる必要のない、意味の薄い選挙かもしれない。
それでも投票所には行くべきです。そして、考え抜いた1票を投じてほしい。白票だっていいんです。これは、有権者の『意地』の問題なのです」 スーパープレミアムソフトWバニラリッチ見たよん
三月の5日間好きな人にはお勧めだよん KAATでチェルフィッチュ。コンビニという完全にコード化された世界と、脱コード化された身体とのコントラスト。台詞は、かなり網羅的なコンビニ論だったけど、個々の登場人物に効果的に割り振られていた。
女性店員役の女優さん、特に素晴らしかった。ユーモア。そして、時々苦しげ。
平野啓一郎) 一昨年昨年のシリアス路線より
「三月」以来の当たり路線である今年の作風の方が
見てて楽しいし満足なのは否めず
でも岡田利規はいろいろ試すだろうし
見るこちらとしてもそうあってほしい
プロデュース側は悩ましいだろうけど 僕らは敬い弔うことで死者と「外交」する。墓参りとかお盆とかね。そして、科学や合理的思考の発達でそういう文化がどんどん無くなってきたことが、
例えば今の日本の社会に支障をきたしている気がしたんです。(岡田利規 松村翔子
‏@mtmrskmmrt チェルフィッチュ辞めたことで、自分自身がやっと生き生きしだして、複雑な思いもあるけどすごく清々しい気持ち。
役者としての伸びしろ、ようやく見つけることができた感。お芝居って楽しんで取り組んでいいんだよなと。当たり前だけど。 かれらに閉塞感のあることは否定しないけど
じゃあそのチェルフィッチュ内での閉塞感と
チェルフィッチュ外すなわち社会を覆う楽しむことの強迫
楽しめという圧力についてはどう考えるんだろう
彼女はあくまで個人的に楽しんでると云うだろうけど 第18回鶴屋南北戯曲賞に、12月19日の第1次選考会でノミネートされたのは6作品。上田久美子『翼ある人びと −ブラームスとクララ・シューマン』、
宮藤官九郎『万獣こわい』、桑原裕子『痕跡(あとあと)』
内藤裕子『初萩ノ花』、田村孝裕『世界は嘘で出来ている』、岡田利規『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』。
第2次選考会が1月27日に開催され、受賞作は、桑原裕子『痕跡 (あとあと)』 山縣太一
僕は演劇を観て面白いと思った事がないんだけどそれはなんでなんだろうとずっと考えていて今も考え中。
でも一番観たいのはなんだかよくわかんないけどすごいというのが観たい。という事は演劇がつまんないのは
日常よりも感覚や動作が簡単簡素になっているのかもしれないと思い日常の無自覚で豊かな身体を自覚を持って舞台にのせる太一メソッドを考案。
ダンサー手塚夏子から身体の細かい意識の持ち方や身体を変化させる事で感情も操作する技術を学ぶ。チェルフィッチュというカンパニーで国内海外で高い評価を得るも
創作における価値観の違いやお金のストレスでチェルフィッチュから少し離れて自分で納得するまで試行錯誤を重ねて作品を創作したいと思案しています ■坂を上りきり、下ってゆく
『下り坂をそろそろと下る』はこれまで経済成長を「是」としてきた日本が、どうすれば経済成長をしないなかで生き抜けるかについて指し示した社会論。タイトルの「下り坂」
とは司馬遼太郎の『坂の上の雲』(文藝春秋)にかけたもの。平田さんは「日本はもう開化期ではなく、
下り坂にはいっている。しかしそれを悲観するのではなく、そろそろと、おおらかに下ってゆければ」と同書に込めた思いを語った。
■日本はアジア唯一の先進国ではない
平田さんは同書で少子高齢化、人口減少という経済成長をしない前提での新しい社会の作り方を提案している。そこで大事なのは「3つの寂しさ」と向き合うことだという。
その3つとは「もはや経済成長はしない」「もはや工業立国ではない」「日本はアジア唯一の先進国ではない」。
その中でも一番難しいのは、アジア唯一の先進国ではないと認めること。どうしても私たちの中にアジアに対する優越感がある、
と平田さんは自身も含め振り返る。それを解消し差別意識をなくしてゆかなければならない。それができない人がヘイトスピーチや嫌韓や嫌中、無理矢理の日本礼賛にはしってしまっているという ■正解はない
寂しさに耐えながらどう下り坂を下ってゆけば良いのか。平田さんは様々な土地の取り組みを例にあげ考察をすすめている。アートを媒介としIターン人口を増やしている小豆島や、東北の女川町で行われた伝統文化の復活から団結を取り戻した事例などをあげて解説している。
しかしこの下り坂は初めて経験する事柄であり「正解はない」と平田さんは説く。皆で迷いながら心配しながら「大変だよね、寂しいよね、でも希望もあるよね」と「おろおろと歩く」いう姿勢が人間としてあるべき姿だとも語った。
■韓国と寂しさを共有する
また平田さんは日本と同様に高度経済成長が終わりつつある韓国と寂しさを共有することにより、日韓関係のぎくしゃくを解消できるとも説いている。お互いに現実を見つめ合い、
張り合わず、寂しさを共有することにより、東アジアの未来が見えてくる可能性があるんじゃないかと語る。
また世界一の技術水準をもつ日本の新幹線がなぜ世界で売れないのかを考えることにより、異文化理解が進むのではないかとも説いている。
最後に平田さんは日本は下り坂だという現実を認めつつ、おおらかに、ときにユーモアを交えながら「下り坂だけど、下り坂にもいいところはあるよね、というやり方をみんなで見つけてゆくことが大事」と今後の日本に必要な寛容さとリアリズムの重要性を静かに語った 言葉以前の叫び、物語化する直前の身振り、意味になる前の無意識、世界のすべてに繋がる得体の知れないものが
そこにあるように感じられた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています