アートのぎりぎりを探求したいスレ
このスレは、某荒らしスレの内部で行われた議論とコミュをもとに
新規にスレたてしたものです。
「これってほんとにアートなん?」
「そもそもアートってなんなん?」
「うんこって綺麗なん?」
こんな素朴な疑問を酒の肴にしながら、あーだこーだ話をするというアバウトなスレです。
(あと、ラピスラズリーという荒らしに対する牽制かつ警備員の詰め所でもあります。)
では、皆さま、どうぞよろしうに。
前スレ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1308382790/
精神病というのは「思考や経験、感情が混乱して仕事ができない。他者との関係が確立できない」人
であると定義されている。
これがスタンフォードの見解であり、知っておく必要があるだろう。
「仕事ができるか」「他者との関係が確立できるか」で病気のラインを切ろうとするスタンフォードの
姿勢はいいと思うけどね。
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|ミヽ::::::::: _,,、----、{ ゝ ::::|
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,r--───-----'^ニニユ;; 《;・;.》 |──-、....,,,,,r' |
( (_,,.r..三三)/f・・)、~~ i i| ~`=-''/ t. |
`ー---─f''''' |:::...... イエエエフ|:: | i| | `ノ
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`t i| ヽ.::::::`====':丿 r-''''' ̄
|  ̄ ̄ ̄ ̄ .i 糸冬
| H A N S H I N | 製作・著作NHK
あなたが嘘をつくから. bobomaria: http://youtu.be/DbObDy5Se9k さんから
この曲、エレガントで夏らしい曲です♪
20代の頃に戻った様な感じです・・
日本の一番良い時を想い出させてくれるメロディですね〜☆
「案山子」さだまさし。
この歌は、大学に合格して上京した男と実家の「情報」の問題を扱っている。
家族というコミュニティーのどちらに正統性があるのか、便りをよこさなければカネも送らない。
実家としては、共同体のコンセンサスを作ることを要求しており、相互交流を求めて、
共同体の力の最大化と普遍性への志向を男に求めているのだ。
大学に合格して上京した人は、実家に普遍性を与えるために連絡はするように。
じゃなければカネはもらえなくなる。ファミリーの強さに関わるからだ。
http://www.youtube.com/watch?v=aeRWeAtvGj0
野田政権の大型プロジェクト「久里浜の夜明け作戦(オペレーション)」
GDPを糖質先生の思想を言論市場に投げ込むことによってあらゆる思想の世界に嵐を巻き起こし、
経済規模を発展させる作戦。
作戦司令部は久里浜御用邸にあります。
「スーパースター」マドンナ
http://www.youtube.com/watch?v=vUZqg1mwBuA
ブランド(糖質先生)
マイケル・ジョーダン(DeNA)
アルカポネ(右翼や中核派)
アブラハム・リンカーン(野田内閣総理大臣)
ブルース・リー(ボクシング界)
トラボルタ(タモリ)
ジェームス・ディーン(キムタク)
すべてを制圧した次世代君主。
モンスター・マッチ・ポンプ
解説)タイガー・ウッズが、ガッツポーズをするともはやだれも止められないことから、
彼のガッツポーズは「モンスター・フィスト・ポンプ」と呼ばれている。
この糖質版が、「モンスター・マッチ・ポンプ」と呼ばれている。
これが起きるともはやだれも止められないのだ。
後方支援はスタンフォード大学と東大法学部。
「コミュニティーの力の最大化とフリーライド」〜くれそうでくれぬものなりの解決法。
コミュニティーがあるとすれば、特定の人物が優れたパフォーマンスを公的空間で
行う。周囲はその力の最大化に協力するのが正解だ。
そのキーパーソンの足を引っ張る奴はコミュニティーにとって有害でしかない。
そのうえで、ベストのパフォーマンスを行う人間を輩出する。
それがうまく行けばコミュニティーは、キーパーソンが行ったパフォーマンスから得たものを
自分たちがもっているものとうまく「交換」することでそのコミュニティーは安全が守られる。
その「交換」を行う手段は「民主的であること」に求めるしかないようだ。
その交換がうまく行くことを保障するのがうまくできたルールであり、それがなければならない。
他のコミュニティーに貢献しないメンバーだって自分の利益を求めて行動するが、
うまくそれをルールに織り込んでいかなければ交換はうまく行かない。
反則をやって交換を求めたならば道徳の問題と直面する。
道徳やルールにしたがって一部のメンバーが獲得したものと交換するのがそのコミュニティーの
安定と繁栄をもたらす。
必要なのは道徳とルール、そして民主的であることだ。
それなくして、分け前にあずかろうするのならば、その交換はうまく行かないし、
まさに「くれそうでくれぬものなり」で終わるのがコミュニティーというものだ。
うまく、道徳やルール、民主的であることを理解すれば、コミュニティーは繁栄するが、
高度な学問を踏まえなければならないし、いかにコミュニティーの力を最大化するかを
考えるリーダーが必要になる。
それがなければ自分の利益しか求めない他のファクターには失敗だけが残る。
道徳とルール、民主的であることを踏まえないと、突出した人間の分け前にはあずかれないのだ。
不満が残れば、いろんな意味でコミュニティーの失敗が待っている。
http://hougakukyoushitu.cocolog-nifty.com/thirdroundthriller/2012/05/post-ed91.html
「かもめはかもめ」は「死」や「敗北」がなければ人間の感情は何もかも乗り越えようとする哲学をうたっています。
「死」「敗北」があるから人間の「怒り」は「落胆」に変わる。自分で敗北をしっかりと設定して落胆している情景が鮮やかに描かれています。
http://www.youtube.com/watch?v=tYUCDfCj3c4
「夏をあきらめて」はいいですね。ゾロアスター教では「火と水は人を純粋にする」とされていますが、
水によって感情が純粋になった人間の情景をうまく表現しています。ゾロアスター教の普遍的な部分なのでしょうね。
http://www.youtube.com/watch?v=6EW-ULHepuY
「未来の思い出に」人生のピークに舞い上がらずに「魂と肉体の同居」を心掛けてこの曲を聞くと、
その人はおそらくモンスターに化けるでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=-R2ZLGv1GEA
「空も飛べるはず」「われ思うゆえにわれあり」(コギトエルゴスム)というのは、
自分の心の探求は「誰にも知られない安全な作業である」という意味です。
ヨーガはまさにデカルトのコギトエルゴスムの全知全能を感じる世界なのです。
人間が全知全能でいられる「内省」という作業は二つの「直接性」があります。
@心に自然にわき出てくる。A価値に頼らない。という作業です。
記憶はいい記憶も悪い記憶もあるので「内省」の作業では用いません。
この作業が人間を全知全能にします。ヨガで全知全能になれる
http://www.youtube.com/watch?v=l7RSwnxathQ
「精神病」
思考や経験、感情などの混乱によって仕事ができないか、他者とのコミュニケーションができない
状態の人を言う。
このラインで精神病を切ることは非常に有意義であり、相手の悪口で「キチガイ」と安易に言うことは
できないのではないかということになる。正確な理解が必要だ。
統合失調症や躁うつ病、うつ病などの病気が挙げられるが、時には自傷行為は自殺など、
自分に危害を加えることもある。
これらの病気の研究は西洋医学によって研究が洗練されたものであり、それ以外の地域では
別の説明がなされていた。
西洋医学でも、超自然的力によって引き起こされると考えられたようであるが、他の地域では
何かに憑りつかれてトランス状態になったのではないかと考えられたようだ。
西洋医学が翻訳されてから病名が定着するようになったのが正確な理解だ。
昔は、薬の効果も明確ではなかったために、精神医学なんて錬金術だという指摘もあった。
精神病という外部からは分からないトランス状態の人を「治療する」といったら、医者は
まさに錬金術のように金儲けをしているだけだという指摘がなされたのだ。
この指摘は極めて重要だ。
治せないのに薬を投与したり高額な施設に閉じ込めたりするのならばまさに精神医療は
錬金術と同じだとされたのだ。
心は、肉体とは異なるものであるとして「病気ではない」とする見解はしかし共通認識には
ならなかった。
なぜなら、精神病患者は、ホモセクシュアルや幼児愛、反社会的人格障害のように
「文化の一員になれずに道徳的判断もできない」という意味では、健常な状態ではない
という意味では見解は一致していたからだ。
また、ディスチミアのように「低いレベルでのうつ病」という中間状態が精神病患者と健常者
の間に存在することも指摘された。
精神病を研究するうえで、まず一つの方法は「肉体的病気を比べてみる」という方法がある。
統合失調症や躁うつ病、うつ病、反社会性人格障害などを、ガンや骨折、インフルエンザ、
ケガなどと比べてみると、「プロフェッショナルの競争力を落とす」という点で共通している。
これは極めて重要な指摘だ。
ピアニストが統合失調症になったらもはや天才ではない。「プロフェッショナルとしての競争力を落とす」
という現実を知らないといけない。
精神病の患者にプロフェッショナルの天才はいないという事実は理解しないといけないのだ。
精神病を分析・分類するうえでは二つのアプローチが考えられている。
@健常者と比べて何が違うのか。
A患者が本当にやりたいことがどのようにできなくなるのか。
この二つのアプローチが詳細になされるのが精神病の分析・分類の方法だ。
精神病の分類はいろんな観点からなされている。
@原因の探求が薬への依存を少なくするのか。
A症状の探求。
B神学を排除してトランス状態を説明する。
Cサイエンスからどこまで探求できるのか。
この四つの観点からいろんな病名が分類されてきた。素人には「トランス状態」としか分からないのだ。
フィジカルな病気だって「健常者と比べてみる」ことから病気であるかそうでないかが明らかになる。
その上で「仕事ができない」「他者とのコミュニケーションができない」というあたりで限界線を
切って行ったらいいのではないかと考えている。
また、やりたいことがないのならば健常者も病人も同じではないかという指摘も重要だ。
この研究で明らかになったのは、「プロフェッショナルとしてのパフォーマンスを落としていないのなら
精神病でも何でもねえな」ということを正確に理解しない人は言論界の弱者だということだ。
病気に関しては端的に「その人の力」で判断しようという発想もあるし、価値中立的に探求して行こう
という発想もあるのだ。
いろんなアプローチが可能なのが精神病なのだ。
このジャブに対応できる奴は精神病院にはいない。
「スーパーハーンズ〜右の世界観」
http://www.youtube.com/watch?v=D6JZZ3UGzmI
これ以上俺を通院させることは「病人観察データ収集」を俺に続けさせるだけだ。
病人と仮病の見分け方は分かっています。
「夢だけ見てる」CoCo
本来、病人とは「力のない人間」であり、うつ病の人間には何も実現する力はない。
そういう力のない世代に、一定の支持を受けた「むなしさだけがともなう曲」である。
人生には積み重ねた真実がなければ目的の達成はなく、自分の位置を正確に他人に
発信させるという作業を行いながらプロジェクトは進行していく。
そういう基本を完全に喪失していた時代の若者がこの曲を「CoCoのベストソング」に
選出している。ニーチェの「ツァラツストラはこう語った」を完全に忘れた時代に
若者はこの曲を聴いてしまった。
http://www.youtube.com/watch?v=uIe5rS7itUk
精神病を「力の強弱」で判断するという見解には異論もある。強さという価値とは中立的に
病気というものを見て行こうという見解だ。
そこでは「寿命」と「生殖能力」、「人間の本質」などをにらみながら、病名を発見していこう
という発想がある。
精神病院をなぜかうろついているチンピラ連中の「寿命」「生殖能力」「人間の本質」などを
見ていくといい動物観察にはなるだろう。
病気というものをどのように考えるかはいろいろな価値と関わる。
「寿命」「生殖機能」「人間の本質」をにらみながら病名を分類してみてもいろいろな問題がある。
子供のマスターベーションへの依存は「生殖機能」という意味では極めて健全であるが価値を
持ち込むと好ましくないものと考えられるだろう。
逆に、ホモセクシュアルというものは「生殖」にはつながらないけど、「弱者狩り」という発想は
ハンティングが行われていた時代には「価値」があったのだ。
時代の価値に依存してしまうのが病名であることになる。
このことから、やはり、病気は「力の強弱」で判断して行こうという方向性にも向かうわけである。
「妄想」
この言葉を正確に理解する人間が政治的強者だ。大きく分けて二つある。
@ハイソサエティの人に愛されているのではないかという妄想。
A自分はすでに死んでいるのではないかという妄想。
この二つに絞るのが妄想の研究なのだ。
ハイソサエティの人に愛されているのではないかという妄想は、街で見かけた車のナンバープレート
や、紫の色からすら人は感じるとされるのだ。
架空請求で「松潤からメールが来た」というのはこのポイントを標的にビジネスをしている。
さらに、自分はすでに死んでいるのではないかという妄想もある。風邪をひいたりしてひどい目に遭った後に、
自分はすでに死んでいるという妄想に憑りつかれる人がいて、彼とキスをしても愛されているとは思いながらも
リアリティがなく、自分がすでに死んでいるのではないかという妄想から抜け出せないそうだ。
この二つの妄想は「それを否定する証拠を突きつけるのが非常に困難」であるとされ、
この二つの妄想を基盤に研究は進んだのだ。
妄想というのは、非合理的なものであるが、いろんな研究が可能である。
ハイソサエティの人に愛されているために、他の街の住民で自分に敵対する者は
街を出ていかなければならなくなるだろうなどという妄想まで生じるそうだ。
いろんな興味深い研究がなされている。
以下で書いていきたい。
妄想の研究は、「心」の哲学と、神経の研究である「精神医学」の哲学の二つの方向からアプローチされた。
どのように妄想は生じるのか。
一風変わった経験から生じているのか。
理性的に何かが欠落しているという苦痛からその妄想を信じているのか。
非病理学的に信じているものからそのディテールの新鮮さが形作られているのか。
妄想はなかなか精神病のような「人間の力の強弱」とどのようにつなげていいのかは明確ではない。
タモリ氏も「趣味は妄想」と冗談めかして言っている。
妄想を精神医学の見地から分析しようとする手法もある。
精神分裂病などで妄想という言葉が使われるが、これらの妄想と健常者の妄想は、価値中立的に
考えると、区別は明確ではない。
このことから、病人の妄想というものを病理学的に追及してみる発想がある。
「現在そこにないものを非合理的な発想で信じている」
「彼らの経験や環境を不確かな発想で理解している」
「病理学的には混乱しており落ち着かない物事の解釈をしている」
「発想そのものが社会人としては弱者の発想であり、ネガティブな存在である」
「脳の機能が歪曲されており、何かが欠落している」
このあたりで、妄想というものを病気なのではないかと精神医学の方面からは説明するしかないようだ。
この、妄想とは病気なのではないかという問題には批判がなされている。
たとえば、宇宙人に誘拐されたというような類の話は多くの人に共有されていて、
非合理的ではあるものの、「そこにないもの」とは言い切れないという視点がある。
さらには、彼らの経験や環境から理解したことを案外正確に述べることがあり、
「不確かな発想」とは言い切れないものがある。
「混乱して落ち着かない」という点も同様である。
また、妄想を信じることをやめたら自己評価が一気に低下して自殺してしまう人もいて、
必ずしも妄想をネガティブな発想とは言い切れない部分がある。
また、脳の機能の歪曲なども、物事の理解の核心部分に生じているとは
必ずしも言い切れず、どのように「病気である」とするかは非常に困難な部分がある。
つまり、精神医学の世界から、妄想を病気であるとは必ずしも位置づけられないのだ。
妄想は「道徳」と関わる。有名人に愛されていると考える人は、自分が社会でそのように
扱われないことからモラルに反した行いや犯罪を起こしかねないし、
自分は二人いると考える人も「自治」をその人に委ねられるのかという問題が生じる。
そういうあたりは冷静にそのような妄想をする人と道徳の問題として考えていかなければならないだろう。
なお、私の知り合いの精神科医にお話を伺ったところ、いくら経験豊富であったとしても
そんな患者がいたら見てみたいものだというぐらいサンプルの数は少ないそうだ。
「社会システムを変える方法」〜スタンフォードの見解。
まず、社会で尊敬されることだ。そのあと、ある制度を批判して牢屋に入れられるのだ。
これが、社会システムを暴力を使わずに変える方程式だとされている。
牢屋というのはそのように戦術的に使うことが可能なのだ。
スタンフォードがこれを指摘している。
社会で尊敬されている人が牢屋に入れられることそのものが「社会の道徳パラメーター」を
変えてしまうのだ。
社会で尊敬されている人が、政治犯などで法律に抵触して、牢屋にぶち込まれることそのものが、
「法律的に容認できる政治空間」を作るそうだ。
まさに、このような手法は牢屋を活用した高度な技術なのだ。
牢屋でミオブロック(筋弛緩剤)を静脈注射されないためには、強烈な国益の志向と
人々の尊敬が必要だ。
それをもっていないと命の担保はない。
革命は簡単でいて難しいのだ。
いろんな人の和解のために「許し」の研究をしている。
基本的に、間違った行いをした人に対してポジティブな効果をもたらすのが「許し」であるが、
基本思想は「全知全能の神が、自分たちが何をしているか分からない人間を許す」
というものなのだ。
人間の無知が許しにつながるのであって、「知らなかった」ということが基本になる。
意図的にやったものはなかなか許しにつながらない。
また、能力で劣ることは許しにはつながらない。
たとえば、下手くそなピアノの演奏を客は許さないだろう。
そういうことから研究していかなければならないのだ。
プライバシーと名誉棄損は「のぞき見」と「人気を下げる」のどちらかで区別されるけど、
プライバシーに関しても「暴露されると人気が下がる」という発想がある。
さらには、プライバシーを暴露されると「他人がもっている自分の一貫性が崩れる」という考えも
スタンフォードが指摘している。
他人の個人情報を適当に扱うと「その人の周囲の一貫性を崩す」という攻撃になってしまうのだ。
復讐は「私はそう欲した」しかし「時間はもう戻らない」ということを経験した人間が発信源に
なるようだ。
こいつらの出す「戦術的劇的電波攻撃(頭の混乱を引き起こす攻撃)」をうまく回避しないといけない。
年寄りの言葉は特に危険だし、70歳を超えて「もはや刑務所にぶち込まれない年齢」になったら
もっと発信源は危険になる。
下層のゾーンからはタランティラが毒を発信してくる。
40代から60代の国家統治を担うものはこの発信源の危険地帯と向き合っている。
天皇皇后両陛下はもはやこの毒を発信し始めている。
それがあのファミリーの実質的コンセンサスを作っていて、他の下層タランティラと同盟を組んでいるのだ。
俺の戦いはまさに毒にやられる戦いだ。
「プラグマティズム」〜民主党凌雲会の意思決定の哲学。
プラグマティズムとは、二つの流れがあるグループでどのように意思決定をするかの研究だ。
基本的に「タフな感情」と「柔らかい感情」がつねにあるとされ、
タフな感情は「現実的」「悲観的」「非宗教的」な感情を基盤にしている。
一方、柔らかい感情は「理想主義的」「楽観的」「宗教的」な感情を基盤にしているのだ。
柔らかい感情は意思の自由を認め、教条主義的であり、タフな感情は運命論的であり、懐疑的だとされる。
この視点を基盤に、組織の意思決定の研究を進めていきたい。
プラグマティズムは、たとえば「ほとんど子供は科学的に生まれている」というように、
経験主義にとられることができる側面と、宗教的側面を持つ領域での判断に用いられるのだ。
物事の判断は完全なサイエンスではないことからプラグマティズムが生じるのだ。
真実への忠誠心と、ロマンティックな心の和解の試みであるともいえる。
1 :ラピスラズリーKoD KoM ◆qEXC5T91OM3i :2012/06/06(水)
ィ,-' __ _ _ ヾ_ , ,ィ
\ 、_,/ /,.イ `ヾト、 、_ゝ,イ!,.イ!/ノ
\ ィァ'_,..ィ´ |/ア 、,ヽ ! _`! | ヾ - /イ
\ \ ,ィ,. / !/_,r'゙´´ ` '´ ゙!イ _,.ゞ``
\ ヽ、 !' 'イ! イ ,.' 了 ,. - ト、,.ヽ、_,、ーZ
\ ゝ,、_ ト!iヽ! !'ヽ{ ´ ̄,.` ー' !` ̄ 、i ,ヽ!゙i
\ i,! /7゙'Tー-ゞ,ヽ' 、 ゙ ̄ , / ィ-!ノ´!|' !'
\!| !i ! | `0、!.ヽ、 ー ' ,イ!'゙'`
`ヾ,!__ ヽ、 ヽ 、 ,ニ、ァ`,ニ ´!
` >^ヽ,、ヽ.゙'Lノ- ‐ '´_,.ゝ、
/ー ,、 ゙> ○=ーニ二、`ヽ`ヽ
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/ _,,.. イ ヽ! ,. ゚__/ /___ トヽ ト、 |
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!' / ハ;:.. .. .: ,. ´ !|_,./' / |
O | / ト、::,/ ,.ノイ=ヲ\ !
!' !/ ,..イ____,./ ヽ
,..、 O / ,ハ i「 ̄ア゙ O
! ヽ、 ∠ニ -‐ `) / ヽiL ,.'
ヽ. ヾー- ‐'' ´ _,.. イ / O{
`ヽ '' " ト―--- 、 '´ ヽ、
ヽ. ! ー 、--― ' ヽ ★明主様の水晶世界を語るスレッド 17
``ヽ. ヘ ヽ;:... ,.○ 神秘の宝石騎士団
`ー、 !、 \::... ;.:..,..イ|{i|ハ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/gallery/1338987157/l50 「ブッダ」
ゴータマは、仏教の教祖と位置付けられているが、哲学者として見てみると興味深い。
彼は、人間の「苦痛からの開放」を探求した人物であり、その苦痛の原因を探れば
苦痛から解放されると考えたのだ。
しかし、その苦痛の原因を探るのはまさに高度な学問であり、仏教への道を高度な
学問にした人物だ。
「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味であり、苦痛からの開放の方法を知っている人だと
される。
仏教においては、ゴータマ以外にもブッダはいるとされる。
問題は「苦痛からの開放」であり、ゴータマだけがブッダではないとされたのだ。
しかし、高度な学問が要求され、それが仏教であるとしたという意味ではまさに教祖であった。
苦痛のない場所を涅槃と呼ぶが、ブッダというのは涅槃への道を知っている人という意味だ。
では、ブッダの生涯から振り返ってみよう。
80歳まで生きた人だが、560BC〜480BCまでだとされているものの、最近の研究では、
405BCに亡くなっているのではないかとも言われている。
ネパールとインドの国境付近のシャカ族という裕福な家庭で妻子とともに暮らしていたが、
苦痛から修行生活に入った。
彼は最初は苦痛から悟りへの道を求めたが、やがて瞑想から苦痛の開放の手法を学習し、
45年間の間、弟子を指導した。
ブッダは、自分をあくまでも苦行者と位置付けていた。その方がその地域で人々の理解が
得られたからだ。
しかし、ヴェーダやウパニサッドの描くような、「いい行いにはいい果実を、悪い行いには悪い果実を」
という発想が人間の輪廻転生を描く世界観では、苦行というものがどのように説明できるのか
という不満があったのだ。この不満を「ヘテロドクス」と呼ぶようだ。
ブッダは「私」「私のもの」という発想を捨てなければ、これらの伝統的考えを抜け出すことは
できないと考えたのだ。
そういう意味では、現代の哲学から見ればブッダは明らかに哲学者としての合理性は
失っていたのだ。
しかし、「最期に人間を救うのはこの境地なのだろう」と位置付けられ、ブッダをスタンフォードは
高く評価しているのだ。
あらゆる哲学は実践がなければならないが、ブッダの場合は「私」「私のもの」という発想を
捨てるということがどのように苦痛からの開放につながるかの実践がないという批判を
受けた。
単なる形而上学であってはならないとされたのだ。
しかし、のちの世代の弟子たちによってその教義は洗練されていったのだ。
ブッダは没後一世紀ほどの間は、彼に関する記述は書かれていない。
しかし、その後、パーリ語やサンスクリット語となって書かれるようになった。
文献がないということも問題であったし、彼の語る言葉が超人のごとき人物像を求めていること
も問題であった。さらには、口伝で伝わる間に多くの仏教徒によってセクトが分かれて、
いろいろな解釈の対立が生じていたことも問題であった。
しかし、ブッダの影響がそれほどまでに大きかったからこそ、没後も語り継がれたというのが
真相なのだ。
のちの仏教の発展は後継者の業績に委ねるとして、スタンフォードはブッダの実際の
業績の分析を試みている。
ブッダの教えの核心は以下のものであると言っていい。
@苦しみがある。
A苦しみには原因がある。
B苦しみは止まるではないか。
Cそれならば苦しみを止める道を探求しよう。
これがまさにブッダの探求の核心なのだ。
ブッダの探求は、「私」「私のもの」という発想を捨てることに始まり、さらに「カルマと輪廻転生」
にまで発展しているようだ。
しかし、現代の哲学からの評価を与えてこの論文は終える予定だ。
ブッダにとって「カルマ」というものがそれまでの「いい行いにはいい果実を、悪い行いには悪い果実を」
という輪廻転生の教えを脱するカギとなる概念として発展している。
発想としては「我々の一族は伝説からの教えを受けている」として輪廻転生を説明するセクトもあり、
また、いろんな概念の再編を行うセクトもあったが、
ブッダの場合は「伝説からの教えを受けた」という発想が主流としてメインストリームに
なったようだ。
輪廻転生とカルマの研究をスタンフォードはこのようにとらえている。
仏教において「苦」とは、痛みだけではない。フラストレーションや孤独、さらには移り変わる世の中で
何かを望むことすら苦とされた。
これらを高いレベルでまとめて「苦」という言葉にしたのだ。
人生の状況や出来事の中で満足ができないことがある場合に生じるのだろうとブッダは考えた。
人生において「満足できない」ということはかなり普遍的なことであり、そのために「苦」という概念が
かなりオープンな議論を可能としたのだ。
ブッダは、苦に原因があり、それを止められることを知った。
その仕組みさえ分かれば、将来の「苦」もなくせるだろうと考えたのだ。
その「苦」の仕組みを「十二縁起」として明らかにした。
十二縁起という物事のつながりが苦をもたらしているのであり、それさえ理解すれば
将来の苦をなくせるとしたのだ。
最後には「病気と死」があるが、これはもはや「輪廻転生」をうまく説明するしかなかった。
受験生は何が幸せなんだろう?と考えたことがあるだろうか。
「自分は確実に学習している」「周囲と良好な関係を築いている」「自分で判断している」「いい競争をしている」
これらが自分の心にポジティブなスピンを与えていれば人間というのは幸せなのだ。
「自分を偽ることこそが高度な学習につながる。時には倒錯してまで人間は自分を偽る」
音楽を聴いてタバコを吸って倒錯して高度な学習をしている男。
http://hogakukyoushitu.cocolog-nifty.com/photos/shiryoukann/m1150001.html
宗教で重要なのは「時間の使い方」なんですよ。
将来の運命を予測するのもまさに宗教の核心を形成するし、過去の我々には経験できない
時間を「俺のものだ」と独占しているのが天皇家なんです。
宗教と時間というのは密接にかかわっているんです。
プラトンやニュートンが「時間への尊敬の絶対性」という考えをもっていたようだ。
天皇家のイデオロギーはプラトンやニュートンを基盤にしていて、
それに対抗する宗教は「将来」を標的にするしかなかったのです。
「時間を止める」ということを考えてみよう。
「ゾーンA」「ゾーンB」「ゾーンC]というように、時間を止める空間が異なっていなければ
「スタープラチナ」は成立しない。
相手が止まっていてこちらだけ動いているというのは「ゾーン」が異なるからだ。
これを「ローカルフリーズ」と呼ぼう。
もし、すべてのゾーンが一斉に止まるのならば「空虚な時間のパーティー」に祝福されるだけだ
とされていて、時間を止めることに意味がなくなるのだ。
これがスタープラチナという技術だ。
時間というものを位相幾何学で考えると「一本のライン」であることは明らかであるが、
一本のラインのタイムストリームがあると考えると、出来事との関係が説明できるし、
「始まりはいつだったのだろう」という疑問もわいてくる。
さらには、ラインをゆがめてタイムスリップするという発想も生まれる。
すべて、時間を幾何学的に一本のラインであると考えるから生まれる発想だ。
しかし、タイムスリップというのは「自然法則に反するだろう」というのがスタンフォードの
見解のようだ。
一方で、「時間というのは一時的な秩序に過ぎないのではないか」という強烈な主張がある。
人間はそれぞれの物語をもっており、「Aシリーズ」」「Bシリーズ」というような物語に
時間が関わっている。
そのようなシリーズに、比較可能な共通項として時間が秩序として存在するとしたのだ。
これはかなり有力な主張だった。
「Aシリーズ」には「A神学」が生まれる。これと「Bシリーズ」「B神学」はどう関わるのかが問題だ。
「伊豆の踊子」の学生さんと踊り子は俳優と女優がのちに「シリーズ」「神学」を作ることになるが、
それらのシリーズを作った人たちも実はセックスをしているのが現実だ。
結局、3次元(3Dビュー)と4次元(4Dビュー)というのは物の見方なんだよね。
空間と時間を感じるのは同じだけど、それを「同じ空間」と考えるのが3Dビューで、
「違う空間」と考えるのが4Dビューなんだよ。
ひきこもりでも、ムチャクチャ勉強して学習すれば、3Dビューで同じ空間で見るよりも、
4Dビューでその成長ぶりを眺めたほうがいいことがある。
時間と空間という発想から、「時間が違えばその空間も違う」という発想をとるのが4Dビュー
なんだよ。
その方が物事の見方がうまく行くという概念なんだよ。
心と宗教板の救世の提案で世界が平和。(本当に)3を見て下さい。
見るだけでいいです。本当の美術がここにある。すごすぎる。 ぴったり一年前ではないよね
「一年前」の方は厚着だし・・ 許しとは「関係の再構築」をすることで、相互の悪い感情を解消することができる。
一方で、DVのように「構造が残っているうちは許してはならない」という側面がある。
許しの研究はまさに「サルベーション」にもつながる研究だ。
許しの基本は「何も知らない人間たちがやったことを、全知全能の神が許す」ということだ。
「人を許す」のは実は簡単なのだ。しかし、簡単に人を許しまくる人は自尊心に欠けるし、厳しさもない、
道徳心も確立していないとされる。
怒りや憎しみの炎は自尊心を基盤にしている。
「許せない。許せるはずがない」というのは強烈な自尊心を基盤にしているのだ。
「償い」さだまさし
http://www.youtube.com/watch?v=9KGro0gAZAE
この曲で踏まえなければならないのは、遺族の奥さんが貧乏人への復讐を
成功させて、自尊心が満たされたから許されたということを基盤にしているということだ。
この研究はスタンフォードのものだが、「絶対に許されないこと」をした人間も
「相手の自尊心」さえ狙って行けば許されるということを明らかにしているのだ。
その人が何を嫌っているのかをしっかりと理解しないといけない。
政治闘争でこいつらに手を焼かされた。こんな皇室政治は二度と起こしてはならない。
「死ね死ね団のテーマ」
http://www.youtube.com/watch?v=Mj7U9Je0w5w
ゴルゴ13「キャサワリー」より。
プロは一瞬のチャンスも逃さないものだぜ。お前があの瞬間に引き金を引けなかったのを見て
お前の銃が海水でダメージを受けたのが分かった。
イランとサウジアラビアはライバル国家であり、イランの体制転覆をアメリカが狙っている。
イスラエルは議会の4分の3の連立政権を組み、イランの核施設攻撃を用意している。
イランへの経済制裁は止まらず、イランはもはや「力の均衡」を維持するためには核を持つしかない。
そんななかで、世界最高の国民監視システムをもつイランが、
「瞬間的にサウジアラビアの皇太子をロックオンして殺害した」のが真相だ。
瞬間的にロックオンして殺さないのならもはやプロの世界では「殺さない」ということだ。
「今日をこえて」岡林信康
人間は、他人に心をかき乱されながら生きていくものだし、他者に自分の位置を教えてもらいながら
生きていく宿命だ。しかし、他者からの「戦術的・劇的攻撃」から身を守るためには時には
「俺だけは特別だ」という意識が必要になる。
http://www.youtube.com/watch?v=6qkMTYO9NS4
3次元(3Dビュー)と4次元(4Dビュー)というのは物の見方なんだよね。
空間と時間を感じるのは同じだけど、それを「同じ空間」と考えるのが3Dビューで、
「違う空間」と考えるのが4Dビューなんだよ。
ひきこもりでも、ムチャクチャ勉強して学習すれば、3Dビューで同じ空間で見るよりも、
4Dビューでその成長ぶりを眺めたほうがいいことがある。
時間と空間という発想から、「時間が違えばその空間も違う」という発想をとるのが4Dビュー
なんだよ。
その方が物事の見方がうまく行くという概念なんだよ。
「光太郎は天皇制とともに死ぬ」
聖書に「士誌記」というのがあるが、ここで出てくる「サムソン」という男が
死ぬときに宮殿を破壊して敵とともに死んだという記述を、イスラエルは
採用し、1960年代に「サムソンオピニオン」というのを採用した。
イスラエルは、自国が滅亡するときには核兵器を使用して敵とともに滅亡することを
政策としてまとめあげたのだ。
皇后美智子は、光太郎の死を願っており、もはや、私がノーベル文学賞を
受賞したことから、打つ手を失い、いつまでもぐずぐずと対応が取れない状態だ。
ノーベル賞ほどすべての区切りになる時期はないのに、いつまでも動かず、
薬物攻撃で自体の長期化をはかり、私の自殺を待っているのだ。
美智子は矢う物攻撃で事態を長期化させているために、私は決断を迫った。
「光太郎が死ぬときは天皇制が終わるときである」
という認識を国民で共有するように求めたのだ。
天皇は「ノーベル賞など欲しくはなかった」と事態の混乱にイラついており、
君主としてノーベル賞の権威を否定している。
何度もいうが「光太郎が死ぬときは天皇制が終わるときである」
という認識を国民で共有してもらいたい。
サムソンオピニオン発動のときだ。
皇后美智子は久しぶりに「聖書勉強会」を開き「士誌記」の朗読を
始めている。
ノーベル賞のプリンスと天皇はもはや「イコールフッティング」が完了しており、
決断力のない天皇の機能不全にまず私が「サムソンオピニオン」
の存在を明らかにしたい。
「光太郎が死ぬときは天皇制が終わるときだ」
スタンフォードのようなアメリカの大学のエリートの姿を知りたければ、
ゴルゴ13の「デッドアングル」に出てくるカッツ・ドーベルという
人物を見るといい。
カッツはゴルゴのライバルだ。
「プラトンのドクトリン」
我々の世界の認識方法は誤解や間違いに満ちている。しかし、プラトンは
そういう世界にも真実や完璧さが実はあるのだろうと考えたのだ。
我々の誤解や間違いによって見える世界の中にある「真実や完璧さ」を
プラトンは「イデア」と呼んだのだ。
これがプラトンをアリストテレスやカント以外に並ぶものはない哲学者と
位置づけさせた理由であった。
「ぶおーとした世界」の中で「空気が悪いな」としか感じない我々の感覚
の中にある真実に哲学があるという意味だろう。
へげぞさんのタイトルだけ見てみると面白い。
デカルトの「コギトエルゴスム」(われ思うゆえにわれあり)という議論の中で、
人間というのは「心に自然に湧き出てくるもの」を「価値に頼らずに」感じれば
全知全能だとされているのだ。
つまり、この「二つの直接性」さえ守れば人間は「おれはぜんぶだ」という
気分になるようだ。
このへんはデータ不足なので皆さん試してみてください。
「おれはぜんぶだ」へげぞ
http://ssstory.net/ssstory/story_luv/index.php?search_data=20100908044223583&page_num=4&anthology_name=&poetname=&count=97
「プラトンのパズル」
結局、ぶおーとした世界においては、いろんな仮説を立てるし、不明確さの中で
いろんな理論を立ててみるけど、それらの仮説が有効であるかはなかなか
証明は難しい。
アリストテレスやアクィナス、カントもこれらを試みたけど、
もっとも大胆な形で仮説を立てなのがプラトンだったのだ。