未然形は複数あるのにいずれも単体で使うことがない
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>>32
> 「「こんなに気持ちが離される」(であろう)ことはなかった」(であろう)」のに」
「するだろうこと」とは言えるが、「*するだろうことはない」とは言えない。否定の左に想定はない。
「であろうのに」全体が「まし」に対応する解釈だ。「まし」が想定であって、「まし」の左に想定はない。
> 仮に「想定の想定」がダメなら、「計画の想定」という言葉もダメになる。
「計画」と「想定」とは名前が違う以上、どこか違うんだろう。だから自包的にならない。 否定の左に想定はないってどういうこと?
もし◯◯ない。 とは言えないの? 「もし」は文末の「-ない」によって否定されてるのか? >>38 同じだよ。「もし」は文末の「-ない」によって否定されてない。
だいたい「?もしかしたら否定されない。」なんて言えるのか。 >>42
> ?とは言えないんだから
これ読めないだろ。だからこういう解釈はダメ。 クェスチョン・マークは?
と、読み方が定まらない。つまり読めない。
屁理屈はいい加減にしてどっか行け。
>>33
> 「するだろうこと」とは言えるが、「*するだろうことはない」とは言えない。否定の左に想定はない。
不自然でも文全体で意味が通じるかどうかという話だよ。無理矢理「未然」を強調してるから、
こんな風に言わないのは承知の上でござるよ。
> 「計画」と「想定」とは名前が違う以上、どこか違うんだろう。だから自包的にならない。
じゃ、「計画の計画<計画することを計画する」はどう想う?
「今はまだ夏休みだけど、次の正月に来年の計画を立てておくことにしようかな。」てな場合。
自分は全く自包的でないと想うんだけど。 >>48 「*もし○○ない。」とは言えないと言ってるじゃないか。
>>49 ひどく不自然な説明で頑張る必要があるのか。
>>50 2 つに定まっている。 >>49
> じゃ、「計画の計画<計画することを計画する」はどう想う?
「計画」が何かの文法カテゴリだったら、ダメだと思う。 >>>48 「*もし○○ない。」とは言えないと言ってるじゃないか。
そっちじゃないだろ。一行目の条件だ。 >>52 上に 4 つもあった。
>>54 否定の作用域に「想定」の機能は入らないということだと、理解できないものかね。 あると思えばいいんだよw
文法機能のスコープ (作用域) は必ず左方にあるんだから。 うん。縦書きの本でも左スコープ、右ヘッド (主要部)。 >>16
「じゃあ、私がこれをやる。」の「やる」は、強いて言えば未来形だよね? >>61 そのとおり。話者自身が決める未来だから、語用的に意志表明と解される。 「弾む」の語幹を「はず」から「hazum」にしようっていう議論は、
開音節の日本語では余り意味無いような気がする。
もしかして日本語が開音節なのは平仮名のせいじゃないかと思ったんだ。
でも文字が口語にそんな影響を及ぼすなんてあるわけ無いか。
と思って調べたらこんなサイトが。
ここの(3の項目に、動詞の語幹について面白い事が書いてある。
http://www.asahi-net.or.jp/~va4h-nsn/syllable.htm
ここを見たら語幹hazum説も頷ける希ガス >>1 日本語族の琉球語には未然形をそのまま使う文があるらしいぞ。
どういう用法なのかは知らんが。
頂けないから"頂いたら過去だろう”はダメだと思う。 おナラ、モグラ、フクラはぎ、など動詞を名詞化する用法があるな。 「おなら」はおそらく「おならし」の「し」が落ちたもの。
動詞の未然形としては「ふくれ」「ふくらさ」しかない。
「もぐら」「ふくら」の「-a」は化石的な接辞で、未然形とは別物だろう。 「おなら」についてはその通り。もとは女房言葉。
「もぐら」は「<むくらもち<うぐろもち」。「墳(うぐろも)つ」は土を高く盛ること。
おそらく「もぐる」の影響を受けて現在の形になったけど、「もぐる」は直接の語源じゃない。
「ふくらはぎ」は江戸以降の言葉。「ふっくらした脛」等の解釈が一般的だが、
それまで広く使われていた「こぶら/こむら」が音韻転換し「ふくれる」の影響を受けて変成した可能性もある。 動詞未然形には「ふくらま」「ふくらまさ」もあるな。
形態素 /*hukur-/ を立てたいところだが、/*hukur-e-/ の /*-e-/ が何かわからなくなるので、できない。
「もぐら」「ふくら」もやはり 1 形態素と見ておくほかない。 「ふくら/ふくらか (なり)」は、「ふくよか/ふくやか (なり)」とほぼ同義とされているから、
歴史的には「ふく」+「ら(か)」と分析すべきものだろう。
動詞未然形からは遠ざかって行く。 >>25
いろは歌の「む」ってどうなんだろう?
なんかこれって成立時代が新しいとかまことしやかに言われるけど、本当にそうなんだろうか? >>74 今様というスタイルが新しい。11 世紀以降のもの。
当時はハ行転呼や「む」>「ん」の変化が相当進んでいたはずだが、「にほへと(゙)」「つねならむ」と作られていることから、
あらたまった発音ではまだ niΦoΦe~do, tunenaramu も行われていたことがわかる。
助詞の「は」などは慣習で決まっていたようだが、それ以外は「仮名遣い」という概念がなかった。 今様と言ったって、この場合字数は決まっているのだから単に五七か七五かって話じゃないかな?
最初に いろはうた で五音あるし。 > 最初に いろはうた で五音あるし。
なんじゃそれはwww
47 文字を 1 回ずつ使うのがミソなのに、頭にそんなものを付けたら、「い」「ろ」「は」「う」「た」の 5 文字が 2 回になってしまうだろw
「いろはうた いろはにほへど」って何のことだよw >>77
だから元々字数が決まってる以上、スタイルで古い新しいはわからない。
いろはうたと言えばいろは歌でしょ、さねさしって何? 地名? 決まっているのは字数だけだから、どんなスタイルをとってもよい。
いろは歌より前に行われていた「あめつち」のように、ただ単語を羅列してもよい。
(「あめつち」は「え <e>」と「江 <je>」を区別する 48 文字だった)
七五調 4 句という今様スタイルが選択されているということは、字数と関係なく、それが新しいことを意味する。 >>79
>決まっているのは字数だけだから、どんなスタイルをとってもよい。
それでは歌にならない。
息継ぎを考えると12音4句しかない。 > それでは歌にならない。
必ずしも歌にしなくてよい。「あめつち」は歌ではなかった (「あめつちの歌」というのは通称)
どうしても歌にしたいということなら、平安中期以前の人に選択できたスタイルは、五七調の長歌だった。
源為憲『口遊(くちずさみ)』 (970 年) に紹介されている「たゐにの歌」は五七調だ。 >>64
文じゃなく単語だが、沖縄方言では
フィーチャサー「消防士=火(フィー)+消す(チャスン)」
チラアラヤー 「洗面器=面(チラ)+洗う(アラユン)」
ってな例がふんだんにあるらしい。
>>73
築く(つく)→塚(つか)
伝つ(つつ)→蔦(つた)
などもそうかも。 >>81
>どうしても歌にしたいということなら、平安中期以前の人に選択できたスタイルは、五七調の長歌だった。
歌にそんな制約はない、そういう類型が成立してからそういう制約ができる。
水泳競技にスタイルはあるけど、それ以外では溺れて泳げないなんてことはないのだ。 「歌」: 「スタイルに従って泳ぐ」、「言葉」: 「ともかく泳ぐ」、という関係ね。
歌とはある制約に従って言葉を使うこと。
いろは歌がそんなに古いものなら、七五調の歌が残っていない時代に、47 文字を 1 回ずつ、七五調で詠んだことになる。
七五調の歌が一般的になった時代に、そのスタイルを使って、47 文字を 1 回ずつ詠み込んでみたと考えるのと、どちらが合理的か。 >「歌」: 「スタイルに従って泳ぐ」、「言葉」: 「ともかく泳ぐ」、という関係ね。
>歌とはある制約に従って言葉を使うこと。
全然違うね。
言葉を書にのせるものが文字で、言葉を音にのせるものが歌だ。 一定の制約に従わないと、言葉は音に乗らない。
いろは歌や「あめつち」の場合の「文字」というのは、当時の日本語に存在した音節を指している。
拗音・促音・撥音といった特殊拍は未発達だったと思われる。表記法もなかった。
さらに清濁の別を文脈に任せて表記しないなら、音節数=仮名文字数となるわけだ。
今様というスタイルが成立してから、そのスタイルで 47 文字を 1 回ずつ読み込む工夫をした、と考えた方が合理的であることは微動だにしない。 >>82
> ってな例がふんだんにあるらしい。
ふんだんにはない。英語の -er から。戦後の語。 一般的でないのなら、ルーツに近いものだと考えるのが合理的。
作られてすぐ流行したと考える方がそれこそ今の商業的な考えだろう。
新しい事を言うにはそれだけの力が必要なので、時期を待たなければいけない。
その時に忘れていては元も子もないので、考えたときに書いておいた方がいいだろう。
たとえばコペルニクスの地動説のように死ぬまで言えなかったような事であれば、
成立した時期と発表された時期は全然違う訳だし、むしろ本人は墓まで持っていったのに、
後になって誰かが持ち上げた為にブームが起きて、当時は理解されなかった作品まで
掘り起こされて神様扱いされるなんてのは今でもよくある話だろう。 今様についての記述で古いのは清少納言や紫式部のコメント。
現存最古のいろは歌は 1079 年のもの。
「勅撰今様集」ともいえる『梁塵秘抄』の成立は 1180 年頃。
いろいろな仮定を重ねるより、いろは歌は 11 世紀に入って出来たと考えた方が合理的であることは揺るがない。
ウィリアム・オヴ・オッカムの剃刀だよ。
>>89
何が仮定なのさ?
むしろその100年の差はなんだ? メンバーが分裂してるって、当時のファンとしても心が痛いよ。
もうどうにもならないのかな・・・・? >>90
> 何が仮定なのさ?
・スタイル草創期の作品が残っている (まだ作品数が少ない)
・遊戯歌が草創期のスタイルを使った (よく出来てるねと多くの人に感心してもらいにくい)
・人伝・口コミが主な流通手段だった時代に、いったん埋もれた作品が復活した。
今様が広く知られるようになってから誰かがいろは歌を作った、と考えれば、上のようなありそうにない
(絶対ありえないわけではないが) 仮定を重ねる必要がない。完勝。
> むしろその100年の差はなんだ?
10 世紀末〜11 世紀初頭から流行し始め、11 世紀後半には一般的だったが、
俗謡が貴族文化の 1 つと認められるまでに、さらに 100 年を要したということ。
『中右記』1094 年 1 月 3 日条には、殿上で今様を朗詠したとある。 >>96
草創期というのはそっちが言い出した話であって、そんな仮定無くたって一向にかまわない。
今作れる歌は昔でも作れる、作れない理由があれば別だけどそんなものは提示されていない。
今様なんて知らない人でも、三、四、五の繰り返しのリズムを思いつくことは可能だろう。
他人の真似しかできない人はそもそも新しい歌なんて作れない。
>俗謡が貴族文化の 1 つと認められるまでに、さらに 100 年を要したということ。
それこそ仮定だ。
おたくという言葉ができる前からおたくは居るだろう。 >>97
> 草創期というのはそっちが言い出した話であって
>>88 が言い出した話。
歌でなければならないというのもそっちが言い出した話。
「あめつち」は歌ではなかった。仮定でなく事実。
> 今作れる歌は昔でも作れる、作れない理由があれば別だけどそんなものは提示されていない。
昔の歌と今の歌とが同じでないという事実が、理由がなくても昔は作れなかったことを示している。
事実、事実、事実。
> 他人の真似しかできない人はそもそも新しい歌なんて作れない。
すべての人が他人の真似しかできない。しかし完璧に真似することもできない。
違ってしまった所を「新しい」と称する。
「あめつち」も、「あめ・つち・ほし・そら、やま・かは・みね・たに…」と、単語を 4 個ずつ並べるスタイルは、
「天地玄黄」で始まる『千字文』の模倣だった。
> それこそ仮定だ。
今様が貴族の間でも流行していたという記述は少なくないのに、『梁塵秘抄』より前の実作は
いろは歌を除いて、1 首も残っていない。
事実、事実、事実。 >>92 なかったと思う。本土から入った事物は、ヤマトグチで「ショーボーシ」「センメンキ」と呼ばれていたはず。 >>98
>>88は「一般的でないのなら」と言っている。
つまり一般的でないから合理的でないと誰かに言われたから、
一般的でないの場合にもそれは不合理ではないと言っているにすぎず、
その前に一般的ではないと主張しているものがいたと考えるのが合理的だ。
ここまで書いたものの、最初に誰が言ったかはちゃんと確認していなかったが、
読み返したら実際、>>84がそう言っているので証明される。
あめつちの話も七五調が新しいと主張する>>79が出してきていて、
いろは歌は新しいという主張をしない方はあめつちが歌だなんて言っていない、
むしろ「歌にならない」と否定しているだろう。 >>100
> 一般的でないの場合にもそれは不合理ではないと言っているにすぎず
一般的になってから作られたと考えるのが最も合理的。
> むしろ「歌にならない」と否定しているだろう。
>>80。「どんなスタイルをとってもよい」 (>>79) を否定しているのだから、歌でなければならないと言っている。 >>101
合理的な証拠がなにも提示されていない。
100年の差は、むしろ一般的でない時に作られた証拠になる。
「いろは歌」が歌なのは当たり前だろう。 >>102
> 合理的な証拠がなにも提示されていない。
>>96。『吉野吉水院楽書』 (平安末期〜13 世紀中頃) には、「今様ノ殊ニハヤルコトハ後朱雀院ノ御トキヨリ也」とある。
後朱雀天皇は在位 1036-45 年。
> 「いろは歌」が歌なのは当たり前だろう。
「すべての仮名を 1 回ずつ使った言葉は、どんなスタイルをとってもいい」
↑
「それでは歌にならない。『いろは歌』が歌なのは当たり前だ」
支離滅裂。 >>103
>後朱雀天皇は在位 1036-45 年。
その時から一般的であったと主張する訳?
でも、その頃はおろか、その後1180 年頃まで、一首も残っていない(>>98)と主張するんだよね。
ここから言えることは、当時の人は歌を文書に記録する習慣がなかった、
或いはその記録が失われてしまったということだろう。
これでは仮に一般的になった後で成立したという仮定が正しいとしても、
記録されてないのか記録しなかったのか判断つけようがないから、
成立がいつ以前かはその記録からわかっても、いつ以降かは言えないということだね。 >>104
> これでは仮に一般的になった後で成立したという仮定が正しいとしても
11 世紀の半ばより少し前から、1079 年までの間ということになる。
『吉野吉水院楽書』の記述は、音楽家たちの記憶や伝承に基づくものであって、歌そのものの記録がないこととは関係がない。
今、後白河天皇のような天皇が現れたら楽しいだろうな。
私は本当は歌手 (それもポップスの) になりたいのだと言って、いきなり路上ライヴを始めたりしたら、日本中が明るくなるだろう。 >『吉野吉水院楽書』の記述は、音楽家たちの記憶や伝承に基づくものであって、歌そのものの記録がないこととは関係がない。
だったら書かれた時期が問題だな。
証言者が殆ど残っていない位の時間差があるとすれば、
具体的な年代を書いたとしてもそれは昔々と言っているのと大差ないだろう。 ・10 世紀末に今様が貴族に知られていたことは、『枕草子』の記述から間違いない。
「長くて癖がある」と、よい評価は与えられていない。
・『紫式部日記』1008 年 8 月 20 日過ぎの条に、道長の邸で、出産をひかえた彰子を慰めるために、管弦の未熟な若い貴族たちが今様を歌ったとある。
「彰子の気晴らしにはよい (下手な演奏を聞かされるよりまし)」とされている。
・>>96 に示したとおり、11 世紀末には殿上でも今様が歌われている。
『吉野吉水院楽書』の記述と特に矛盾する所はない。
『楽書』の記述を疑い、実際にはそれよりずっと前から今様は一般的だったとする主張は聞かない。
直接見聞きした人のいない伝承だからといって、不正確とは限らない。 >>107
「今様」なのだから、それらが共通する形式とは特定されない。
・4句が長いとは、どういう事なのか?
・「もしもピアノが ひけたなら
おもいのすべて うたにして
きみにきかせる ことだろう」 1句足りないな。
・無いものが流行ることはないが、古くからあるのであれば
周期的に流行っていたと考えられる。
仮に正確だったとして、問題は
それ以前はなかったという認識で具体的な年代を書いたのか、
少なくともその時代に流行っていたということで書いた年代なのかで、
それによって記述の意味が全く違うだろう。 >>108
> 「今様」なのだから、それらが共通する形式とは特定されない。
『梁塵秘抄』を見れば、確かに「今様」にはいろいろな形式があることがわかる。
しかし、いろは歌は間違いなく「今様」の 1 つだ。
> ・4句が長いとは、どういう事なのか?
さあ。「うた」と言えばほぼ短歌だったから、31 文字より長いということか、それとも旋律の話か。
> 古くからあるのであれば
この仮定が不要。 >この仮定が不要。
いつできたという記述でないかぎり、どうやっても仮定は必要。
流行ったという記述は、そのときまでに存在したということしか意味しない。 > いつできたという記述でないかぎり、どうやっても仮定は必要。
枕草子より古い記述はないのだから、出来たのはそれを大きく遡らない、と
1 つ仮定しておけば、「周期的に流行っていた」といった仮定は不要になる。
どうやっても君の負け。あきらめなさい。 流行が周期的なのは事実。
そうでなければ流行りも廃りも存在しない。 >>112 しつこいゾンビだな。
廃れたきり復活しない流行なんていくらでもあるぞ。
七五調の歌は原始時代から周期的に流行を繰り返してきたと?
記紀万葉にそういう歌は見えないから、院政期の前の流行は弥生時代だったのかな?
それとも、記録にないだけでとにかく流行してたんだ、文句言うなってことかwww
だいたい、「つねなら『む』」と作っているから古いと言うなら、どうして「え」と「江」は区別しないんだ? >>114
文句言っているのはあなたでしょ。
記録という証拠がない以上、あなたは仮説以外はなにも主張することができません。
>>115
> 文句言っているのはあなたでしょ。
当然だろ。君は「いろは歌はとにかく古いんだ。黙れ」と言ってるんだから。
> 記録という証拠がない以上、あなたは仮説以外はなにも主張することができません。
歌自体の記録はなくても、歌についての記述は残っている。
いちばん仮定が少なくて済む仮説の勝ち。 >当然だろ。君は「いろは歌はとにかく古いんだ。黙れ」と言ってるんだから。
勝手に記録を捏造しないでほしいな。
だから勝ち負けとか言っている人の仮説は信用できないだけの話。 > 勝手に記録を捏造しないでほしいな。
いろいろな仮定を重ねないと維持できないよと指摘しても、その仮説を捨てないのだから
「とにかくこうなんだ。黙れ」と言っているのに等しい。
> だから勝ち負けとか言っている人の仮説は信用できないだけの話。
「『勝ち負けじゃない』と言うのは、負けた側である」マルチナ・ナブラチロワ >いろいろな仮定を重ねないと維持できないよと指摘しても、その仮説を捨てないのだから
仮説を主張した事実はありません。
新しいという説を疑っていたら、実は流行したという記録しかない事が判明して、
やっぱり根拠薄弱でしたね。
> 仮説を主張した事実はありません。
それじゃ不戦敗じゃないかwww
> 新しいという説を疑っていたら、実は流行したという記録しかない事が判明して、
> やっぱり根拠薄弱でしたね。
いろは歌のような遊戯歌は、皆が知っているスタイルでやらないと、称賛されない。
十分な根拠だといえる。 勝利宣言をしても詭弁としか思われませんよ。
称賛されるためにつくったと主張するのですか? > 勝利宣言をしても詭弁としか思われませんよ。
「ガイドライン」で頭が埋まってるやつがそう思う。
米大統領候補は詭弁家なのかw
> 称賛されるためにつくったと主張するのですか?
「うまく出来てるだろ」と自慢できなければ意味がないだろう。
「あめつち」は千字文を模倣し、最終行を除いては、縁のある語を並べて、よく出来ている。
「たゐにの歌」は五七調の長歌風で、前半は万葉集第 1 番歌を意識しているが、後半の意味不明が甚だしい (無理があるのは仕方ないとしても)
いろは歌の完成度はやはり高い。 とりあえず、「勝利宣言」の意味が全く違いますね。
かたや、しかるべき機関の発表を受けてのもので、
なにも根拠がない勝利だからこっちのは詭弁な訳です。
苦笑)
ていうか、遊戯歌なんですよね?
仕方がないとか、そんなので称賛されるんですか?
素晴らしくても書き残されることは無かったというのに。 >>123
> なにも根拠がない勝利だから
根拠を否認してるだけ。いくら否認しても君の負け。
> 仕方がないとか、そんなので称賛されるんですか?
13 世紀末には既に、いろは歌は弘法大師が作ったという伝説があった (『釈日本紀』)
最大級の称賛だよね。
ちなみに、いろは歌にも無理をしていると思われる所はある。
「誰ぞ」は本来「誰だ?」「誰ですか?」の意味で、「誰が永久不変でいられようか」の意味なら
「誰か(は)常ならむ」と言うべきだろう。
> 素晴らしくても書き残されることは無かったというのに。
書き残されなければ今に伝わらないよwww >>125 していない。辞書でなく古典語のテクストを見て、「誰ぞ」がどのように使われているか調べること。 >>82
今頃思い出したが
カジマヤー「風車=風(カジ)+舞う(モーユン)」
ってのもあったな。
沖縄の長寿祝い行事の名だから戦前からあった名じゃないかな? わがよ(の春は)誰ですか?
そんなの続くわけなかろ ってそのまま読めばよくね?
だからこそ、千代に八千代に細石、な訳だろ、この国は。 >>127 それは本当に未然形なのか?
否定、使役、受動などで、「アラヤ(ー)」「マヤ(ー)」といった形は現れるのか? アラユン、モーユンの未然形はアララ、モーラ。
アララン (洗わない)
モーラン (舞わない)
アララリユン〜アララリーン (洗われる)
アララスン (洗わせる)
モーラスン (舞わせる) >>126
まー「誰が永久不変でいられようか」を逐語訳すれば「誰か(は)常ならむ」にはなるだろーがね。
「誰ぞ常ならむ」は「ぞ」で「誰」を強調した構文であり、特に「誰」という
疑問を表す語に伴う「らむ」は「(どうして)〜なのだろうか」という意味を持つ。
つまり「誰か(は)常ならむ」と細かいニュアンスの差はあれど本質的には変わらない。
> 辞書でなく古典語のテクストを見て、「誰ぞ」がどのように使われているか調べること。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E8%AA%B0&dtype=0&dname=0na&stype=1&index=11686900&pagenum=1
> 「これにて見苦しとは―も得言わじ」〈鴎外・舞姫〉
> 「嬢子(をとめ)ども―をし枕(ま)かむ」〈記・中・歌謡〉
「誰」そのものはそんなに特別なモンじゃない。「誰ぞ」は単に「ぞ」がついただけよ。 >>131
>>124の言いたいことは分からんでも無いがなあ。
>>124の疑問は、係り結び(とくに「ぞ」の係り結び)の本質に関わるもので、
「ぞの係り結びは倒置法起源である」という、やや古い説の考え方から生じる疑問と理解できると思う。
「ぞ」は、本来は言い切りの終助詞で(今でも名残が残っている【ぞ】w)、
「誰そ?」というのは「だれだ?」ということ。
「誰ぞ常ならむ」と言うのは、この上古語の空気感を強く残していて、
「どんな奴なんだよ?永久不滅なんて奴は…」
という意味に近い。こう考えると、結びが連体形になるのは、ごく自然な語感だということになる。
高校古文だと、>>131みたいな「強調ですが何か?結びはただのお約束ですが何か?」
と教えるんだけど、いろは歌は、この割り切りの矛盾が出てきている点だと思う。
俺は、>>131より>>124に、言語的なセンスを感じる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています