日本語は助詞だけの言語
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名詞や各単語はすべて支那語かサンスクリットからの転用で、
それを補うように助詞がある。日本語は助詞だけでなりたつ
不思議な言語なのでは
ないだろうか? >>61
カイリョウ など しなく とも ヒョウキ を カナ だけ に して いれば アジア の キョウツウゴ くらい には じゅうぶん なりえた。
ケイザイ キボ と くらべて ニホンゴ が ひろまなかった ゲンイン は ナンカイ な チュウゴク モジ の シヨウ に ある。
とくに ニホンゴ の チュウゴク モジ は ナン トオリ に でも よめる から、
ホンケ チュウゴク より カクダン に むつかくしく なって いる。 日本語最大の欠陥である同音異義語を無くさねばアジア共通語になどなれまい。 ある意味漢字は「共通語」だったよ。
部分的には、漢字を介して日本語が中国語圏に影響したから、今でもそうかも。 >>63
ケッカン が ある ゲンゴ なら ニホン での キョウツウゴ に なる こと が そもそも フカノウ。
ニホンゴ は ハツオン も やさしい から ヒョウキ を カナ に する こと で、
ガイコクジン にも カンタン に はなせ、 ヨミカキ できる よう に なる。 語呂合わせではない。
まともに勉強しない言語学者がアホなだけだ。
AN語との近似とか、朝鮮語とかの共通点を探ろうとしてはいるが、同じモンゴロイドだ。
分岐した時代の違いがあって、中国語との分岐は一万年前とか、朝鮮語との分岐は5000年とか、
そう言った時代に分岐して交流が無ければどんどん変化して違う言葉になっていく。
おいらにゃ、島言葉も下北弁も日本語とは思えないくらい理解できん。
コトバ の オト など かぎられて いる の だ から、
その テイド の ルイジ なら あらゆる ゲンゴ で みいだせる だろ。 中国語と日本語の類似には一つのルールで成り立っている。
例えば
「蝉」。中国語では「sen」だが日本語で「semi」
「金」kinが「kane」になるように後から母音が追加されている。
中国の方で母音が消えただけかもしれないが。
「銭」も「zen」から「zeni」になる。
これなどは8世紀に来た言葉だろうが。
「蛙」も「kei」が「kaeru」
偶然では済まされないくらいの相似がある。
日本に稲作水田を伝えたのは中国江南から来た半農半漁の人々だったろう。
この人たちが言語を伝えなかった筈がないではないか。
「田」は「den」であり、「ta」に変わったのだろう。
「苗」が「myou」であり、「m/n」交替して「nae」に変わった。
「茎」は「kei」から「kuki」に変わった。
「米」は「mai」だが「kome」となっており、
「mai」から「me」になり「接頭詞」の「こ」が付いたと考えられる。
外来の物には外来語の名前が付くのは当然だ。
長い年月のうちに大和言葉として定着したのだろう。
「馬」については朝鮮も中国語も「ma」だからどちらの言葉か区別出来ないが
「ma」に「u」がついて「uma」になる。
「梅」は中国語で「me」だがこれに「u」がついて「ume」になった。
梅の木は奈良時代に中国から伝わったとされている。 >>71
> 中国語と日本語の類似には一つのルールで成り立っている。
ごめん、頭悪いから、どこにひとつのルールがあるのかわからない・・・ >>71 銭>ゼニなら田>デニにならんと辻褄が合わんな。
>>72
ごめん、ちょっと間違った。
ルールは一つじゃない。三つくらいあるね。
末尾母音の追加。
一音の言葉に接頭詞がつく。
子音交替。
海と言う日本語だけど、
今は中国では「hai」と言うが、昔は「me」と言っていた筈だ。
なぜなら「海」には「毎」という旁が入っている。
「毎」は「mai」であり、中国語では旁が読みを表す。
「母」も「mo」だし、「m」音を含んでいなければおかしい。
中国語でも「毎」は「m」音を含んでいた。
そう考えれば、中国でも昔は「mi」と読んでいて、
これに「う」がついて「umi」になったと考えるべきだ。
ちなみに韓国では海を「he」と言うが、金海は「kime」と読む。
中国も韓国も昔は同じ「me」あるいは「mi」と読んでいたと
考えるべきだ。
東アジア大語族なる物があった可能性は高いと思うがね。
>>73
ルールに例外は付き物。 >ちなみに韓国では海を「he」と言うが、金海は「kime」と読む。
wwwwwwww 言葉が數多存在する以上、似た音が在っても不思議ではない。 そもそも3000年前の江南のが漢語系かという問題も
チベット・ビルマ語族でも漢語とは別系統のかも
これは安本美典の説か たかが 2500 ネン マエ に タイリク の ゲンゴ を はなす シュウダン が ニホン に わたって きて ソレ が ニホンゴ の キソ と なった の なら、
もっと カンペキ な オンイン タイオウ が タイリク の ゲンゴ と あって しかる べき だ な。
ホンド ニホンゴ と オキナワゴ は 1500 ネン イジョウ マエ に わかれた と いわれて いる が、
コチラ は カンペキ な オンイン タイオウ が ある。 沖縄は800年前に高麗人によって支配された。
半島高麗語の影響があっても不思議はない。
グスクと言う城は朝鮮式の城だがね。高麗瓦の出土もある。
http://syurijyou-kigen.seesaa.net/article/167471693.html >>81 また朝鮮人の捏造話を広げる魂胆がアリアリだな。
朝鮮語でシロをグスクという証拠をあげろ。 グスクは沖縄語だ。日本語ではない。聖域と言う意味だろう。
朝鮮式城に沖縄語を当てはめたのだろう。
関東連合死ね!
朝鮮総連死ね!
民団死ね!
日本共産党死ね!
ブリティッシュカウンシル死ね!
革マル、中核、社民党、民主党、「がんばろう、日本!」国民協議会死ね!
山口組、稲川会死ね! ネトウヨの仕業と思われるコピペ荒しがこんなところにまでw 海を「うみ」と発音する意味はなんだろうね?中国思想の影響かな 日本語では海は「あま」だ。
漢字が入って来た頃に百済から海を「み」と読む読みが入って来た。
一音の言葉では言いにくい事があって前に「う」が付いたのだろう。
「うみ」の読みも「あま」も近い言葉ではあるがね。
ちなみに、天を「あま」と読むようになったのは奈良時代からだ。 海の境を指す「うなさか」と言う言葉がある。
広々とした海を指す「うなばら」と言う言葉もある。
ウとはなんだろうな。 海のことをワダツミというがこのワダは南島語batangという説がある。
一日中、バタン、バタンと波が打ち寄せている擬声語だろう。
water,wasser とも似ているが、これは水をバシャバシャかける擬声語だろう。
ギャク に いえば ニホンゴ の ゴゲン が ガイコクゴ に つながる なら、
その ガイコクゴ の ゴゲン が ニホンゴ だ と いう こと も できる な。 >>94 高句麗語 内米(ナミ)=海
ツングース語 ナム・ラム=海
ところで、「助詞」を英語で何というんでしょうか?
国際的な言語学には国文法にいう「助詞」に該当する概念はあるのでしょうか?
「後置詞」とか「接尾辞」の一種かとも思いますが、後置詞なのか接尾辞なのか?
日本語の正書法がそもそも分かち書きをしないので、どっちか区別がつかないです。
>>98 助詞=helping wordではないかな。
そのものずばり直訳ですねw
国際的に、言語学的に、通用するんですか? >>101
だからそれは「助詞」の訳として適切なのかと>>98は問うているんでしょう。
>>102には「助詞」という訳が書かれていないのは見て分かるはず。
つまり、「助詞」というのは言語学的には存在しない用語なんだよ。 >>98
>ところで、「助詞」を英語で何というんでしょうか?
エイゴ バン の ウィキペディア では ジョシ は 「Japanese particles」 と なって いる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_particles
>「後置詞」とか「接尾辞」の一種かとも思いますが、後置詞なのか接尾辞なのか?
ジョシ なの だ から セツビゴ で ない の は たしか。
ウィキペディア では ニホンゴ の ジョシ は ガイコクゴ の コウチシ に あたる と かいて ある な。 ttp://ejje.weblio.jp/content/particle によりますと、
particleには、不変化詞、小詞、もしくは、小辞、接頭辞・接尾辞
のいずれかという訳語が与えられています。
「不変化詞、小詞」とは、ttp://ejje.weblio.jp/content/particle によりますと、
「副詞の一部・冠詞・前置詞・接続詞・間投詞など語尾変化のない品詞」とされます。
助詞は、たしかに、この不変化詞のカテゴリーには該当しそうな気がするのですが、
それがそのまんま助詞のカテゴリーと定義してよいのか判断しかねます。
そうすると、接続詞やら間投詞までも助詞ということになってしまいそうですので。
となると、もう一つの訳語である小辞、接(頭・尾)辞ということになります。
つまり、後置詞ではなく? あくまでも接辞であると??? >>103
> >>102には「助詞」という訳が書かれていないのは見て分かるはず。
> つまり、「助詞」というのは言語学的には存在しない用語なんだよ。
「文法不変化詞」には「助詞」も含まれるでしょ。それ位は察してね。 >>106
「含まれる」のと「同義」は違いますでしょう?
「含まれる」というならば、接続詞も間投詞も副詞の一部も前置詞も冠詞も
すべて助詞と同義ということになりますが。
「ああ」「やあ」「まあ」「えい」「とう」「おお」「もしもし」までも助詞とは
ふつう言いませんよね? >>105
> つまり、後置詞ではなく? あくまでも接辞であると???
後置詞(postpositions)は別に否定されてないんじゃないかね。
これだって小詞(particles)の一つなんだから。
>>107
> 「含まれる」というならば、接続詞も間投詞も副詞の一部も前置詞も冠詞も
> すべて助詞と同義ということになりますが。
「A⊃B」という関係なのに、BがAと同義(=)にはならないでしょうに。
日本語文法を西洋文法に無理矢理「翻案」してるんだから、どうしても細かい概念は
包括的に捉えざるを得なくなるんじゃないかな。 英和辞書の誤訳にはparticleは接尾辞とあるのに、結局、後置詞ということになるの?
>>104さんが書くには、wikipedia英語版の著者は後置詞に相当すると定義しているようですが。 「自立語+助詞」を不可分なひと纏まりとするならば、助詞は接尾辞。
「自立語」+「助詞」を別個とするならば、助詞は後置詞。
つまり、文法の捉え方次第。まあ、後者の方が一般的だろうけど、
この板でも日本語の「名詞+助詞」を格変化と捉える御仁がいる。 とすると、日本語国文法の助詞は、particleと意訳するよりはpostpositionと意訳したほうがよさそうなのに、
英和辞書ではparticleのほうを選択しているのはなぜか? >>99
auxiliary wordとか、accessory wordとか? >>112
格変化として捉えた方が西洋人には馴染み深いからじゃないかな。
日本語と同じ膠着語であるハンガリー語やフィンランド語すらそうなんだから。
その代わり、格の数が15だの20だのってなことになってるけどねw
日本語の助詞というカテゴリーには節・句・文全体を修飾する終助詞みたいなものも含まれるからなあ。 「おう翔太、お前東京の大学出やったな。お前1〜10まで数えてみい。」
「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10」
「なんやそら、全然出来てへんやないか。舐めとんか」
「1!2!3!…」
「違う!もう一遍」
「1!!!2!!、」
「違うもうええ!哲、お前やれ」
「12〜3〜4〜5〜67〜89〜10。」
「…。こうやろうが。大学まで行かしてもうて数の数え方も知らんのかいな。
親御さん泣くで。英語もええけど日本語ぐらいまともに喋れるように勉強せえ。
なにも敬語を完璧にせえとか求めとらん。お前らどうせ無理やろ。けどな、数も数えられんかったらわしらの仕事命に懸わるんや。
哲でも昌でも、先輩によう聞いて、しっかり憶えとけ」 助詞の英訳が英和辞書を引けばで解決できると言ってた人はどこへ逃げた? >>118
>>101-102あたりじゃないか。英和辞書を引けばいいじゃんみたいなマヌケなレスしていた。
>>98が調べた上であえてしている質問だとは思わなかったんだろう。 >>121
>>98 の文から辞書を引いたかどうか判定できたのなら、結構超能力あるよw
だから >>101-102 は「辞書を引いてないのか?」と問うたのであって、
それを見て「英和辞書を引けばで解決できる」と解釈したおたくも >>117 もかなりの超能力者だね。 「……なんで辞書を引こうとしないの?」を
辞書を引いたかどうか質問したと解釈するのは
かなり無理があるけどなw
どう読んでも、「辞書を引かない(で質問する)理由はなぜ?」
としか解釈しようがない。 まあ、辞書を引いて考えることをすすめているけど、解決できるという保証はしてないな。 >>98が答えを予期して↓ここまではっきり書いているのにね。
> 「後置詞」とか「接尾辞」の一種かとも思いますが、後置詞なのか接尾辞なのか?
>
> 日本語の正書法がそもそも分かち書きをしないので、どっちか区別がつかないです。
けっきょく>>98の書くとおり、後置詞(postposition)なのか接頭/尾辞(particles)なのか、
ってところで、いまのところ誰も答えられないじゃないか。>>98に逆戻りってことになっている。
まあ、最初に質問を書くと、後に続く文はちゃんと読まない人が多いんだよな。
逆に、途中で疑問を書くと、最初に書かれた結論は忘れ去られるから不思議。 >>98が訊きたいのは結局のところ日本語の助詞は接辞なのか(後置)詞なのかってことだよね?
仮名の綴りだと分かち書きをしない。
しかしローマ字書きの場合は助詞は独立の単語として分かち書きされることが多い。
ところが、仮名で綴った場合に分かち書きをあえてするとローマ字書きとは違って、
「私 は 日本語 を 話します」とは書かず「私は 日本語を 話します」と書く人が多い。
つまり、綴りを見ても結論が出そうにない。
英和辞書を引けば引いたで、接辞という意味をもつparticleと訳されているかと思えば、
別の資料では後置詞と直訳できるpostpositionとも説明されたりしている。
だから英語訳を参照しても、この疑問には簡単に答えが出そうにない。
とすると、言語学的(専門的)には実際のところどう考えられているのですか?と。
>>128
カナ での ワカチガキ も ジョシ を クベツ する タンゴ シキ が イッパンテキ。
ニホンゴ でも ジョシ と セツジ は メイカク に クベツ して いる だ から、
ニホンゴ の ジョシ は コウチシ と みて おけば マチガイ ない の では ない か。 >>129
>タンゴ シキ が イッパンテキ。
「タンゴ シキ」ガイミフナンダガ。
ちゃんとかんじでかいてくれよ。 この ブンミャク に おいて タンゴ シキ の イミ が わからない の で あれば、
チュウゴク モジ を つかおう と わからない の では ない か。 わかりますよ、いとも簡単単純にわかる
やってみればいい どう わかる の か グタイテキ に いえない ヤツ の セットクリョク は カイム。 >>129
◆KoZTgemFLMさんのような分かち書きをする人はそういない気がするんだけど、そうなのかな?
国語の文法書とかを見ると、あくまでも文法的な分かち書きだけど、「ぞうは はなが ながい」
としてある場合が多く、「ぞう は はな が ながい」というのは珍しいように思います。
しかも、「ぞうは、はなが、ながい」とは書けても「ぞう、は、はな、が、ながい」とは書けない。
名詞と格助詞または係助詞との間に読点を入れることができないことから考えると・・・ >>136
タンゴ シキ は めずらしく ない。
むしろ カナガキ を シュチョウ して いる モノ は タイハン が タンゴ シキ で かいて いる。
ブンセツ シキ は きわめて まれ。 >>133
「この」「の で」「では」は、それぞれ「こ の」「ので」「で は」と書くべきではないの?
そのへんの統一規則はどうなっているんでしょう? >>136
「どう」わかるかなど無関係w
やってみればいいでしょ
やってみるより具体的なことはないでしょw
どうなの? >>138
「この」 は レンタイシ。
「ので」 は ジョシ と ジョドウシ だ から つづけない。
「では」 は ジョシ ドウシ の レンゴ だ から つづける。
>>139
わかる の が ジジツ なら グタイテキ に セツメイ できる だろ。
カンカクテキ な もの だ から セツメイ できない わけ だ。 やれるのかやれないのかやりたくないのか知らないが、いっけんにしかずってことだが? >>140
やれるのかやれないのか?それともやりたくないのか? >>140
なぜ >>142 の トイ に こたえない? アルファベット表示ではモンゴル語・トルコ語の助詞はだいたい接尾語として扱っているな。
>>140
連体詞というのは国文法でも不要な品詞だという見解があるらしいな。 >>140
やれるのかやれないのか?それともやりたくないのか?
なぜこたえない? 他の板がキャップ・削除パス漏れで大変な騒ぎになっているので、
万が一この板にも被害が及んだときに備えて避難所のアドレスを貼っておきます。
言語学・日本語・方言
http://jbbs.livedoor.jp/study/10958/ >>145
ヤクワリ が はっきり して いる から なくす ヒツヨウ は ない と おもう が な。
コレ が フヨウ なら フクシ も フヨウ と なる。
メイシ に ジョドウシ が ついた だけ の ケイヨウ ドウシ は いらない が。 言語学では、格助詞は clitic と言われることが最近では多いのではないでしょうか。
日本語では「接語」などと訳されることが多いようです。接辞(affix)と語(後置詞)の中間といった単位です。
音形(とアクセント)が一定、あるいは規則的に変化するという点では、接辞よりも独立度が高く、
つねに他の自立語と一緒でないと発話できないという点では、語よりも独立度が低い。
そのような単位を接辞や語と分けて、「接語」と呼んでいます。
日本語の格助詞や副助詞は、この接語に近いのではないでしょうか。
ただし、日本語の格助詞、副助詞および「助動詞」などと呼ばれるものは、
文法理論や文法学説によって接辞と分類されたり、語(後置詞)と分類されたりします。
定説はない、というのが現状です。 >>150 モンゴル語やトルコ語でも語幹に続けて書いたり、分かち書きしたり、基準がはっきりしませんな。
英語で slow ly,look-ed などと書くことはないのにな。
>>151さん
そうですね。
言語学では表記(分かち書きしているかいないか)は接辞か語かを決める基準になりません。
表記には表記独自の伝統的な慣習があるからです。
モンゴル語やトルコ語の場合(よくは知らないんですが)語幹末によって、くっつくものも形が変わりますよね。
そういう場合は、語幹によって規定されるところが大きいので独立度が小さく、接辞とみなされるのが一般的なのではないでしょうか。
日本語の格助詞などは、モンゴル語派やテュルク語派の言語と違って、接辞というには独立度が高過ぎることから、
接語(あるいは語)とされることが多いのではないでしょうか。
(ただし、奥田靖雄らの教科研文法では、接辞扱いですね。そういう立場をとる研究者もいます。) ベトナム語のように、1つの名詞であっても音節ずつに分かち書きする習慣の言語だってあるからな。
ましてや語尾だけ分かち書きなんて、珍しくもなんともない。 >>152
トルコ語に代表されるアルタイ語っぽい言語にはいわゆる「母音調和」があるので、
日本語でいう「…ですか」の「か」の母音部分が五段活用みたいに変化しますね。
でもこれは、分かち書きが綴り上の便宜や慣習であるように発音上の便宜・慣習であって、
母音調和もまた、狭義の文法(統辞構造)とは独立と見なせるのでしょうかね。
分かち書きが綴り法であるのと同様に、母音調和は発音法と見なせますから。
これによって意味論に変化が起こるわけじゃありませんし。
たとえばスワヒリ語の場合、人称から時制からすべて接辞を動詞にくっつけて表現し、
母音調和はありませんから、接辞を日本語の助詞のように接語とも見なせるような気もします。
ただし名詞のクラスという概念があるので、その意味では接辞かもしれませんね。
エスペラント(語)の場合は、例えば動詞につく-i / -as / -is / -os / -usが単語によって
変化することはないので、このかぎりでは接語と見なせるようにも思えます。
しかしそれらが接続する動詞は語幹ということになっているので、
それを語幹と見なすか独立した語と見なすかによって意見が分かれてくると思います。 >>154さん
母音調和は、音韻論と形態論にまたがる現象であって、単なる発音法ではないと思います。
アクセントと同じで、母音調和の範囲がひとつの単語内だけにとどまるのか、もっと広い範囲にまでおよぶのかは言語によっていろいろであると思われます。
トルコ語に関していえば、《母音調和のおよぶ範囲が語である》という主張はおかしくはありません。
詳しいかたが書き込んでくださるといいのですが。
服部四郎が1950年に発表した「附属語と附属形式」という論文では、語と接辞を分ける基準が書いてあります。
簡単にいうと、次のようになります。
(1) いろいろな品詞の語につくことができるのは、語である。
(2) 二つの形式の間に自由に現れることができるものは語である。
(3) 位置をひっくり返すことができれば、どちらも語である。
この基準で行くと、スワヒリ語の動詞につく人称・数・時制をあらわす形式は接辞だろうし、
エスペラント語の動詞につく-i / -as / -is / -os / -usもおそらく接辞であろうと思われます。 ちなみに服部(1950) の基準で行くと、日本語の格助詞、副助詞は語(後置詞)ということになると思います。
(1) あいつにだけは話さないでくれ。
(2) あいつだけには話さないでくれ。
(3) 行くだけ行ってみよう。
(4) 単に美しいだけでは評価されない。
基準1と(2)(3)(4)から「だけ」が語であると認定されます。さらに、基準3と(1)(2)から「に」も語であると認められます。 >>155
レスありがとうございます。
音韻論と形態論にまたがる現象というのは具体的には例えば
どういうことをおっしゃっているんでしょうか?
母音調和それ自体は、分かち書き同様に、語や文の意味まで
なんら変化させてはいないと思うので・・・
やはりそれ自体の独立した慣習としてあるんじゃないでしょうか?
ちなみに、日本語の読点は、分かち書きと似た機能をもっていて、
それがあるかないかで文の意味を変える場合が稀にありますけれども。 >>157さん
私の理解ではトルコ語の母音調和は、母音(音素)が《前舌母音》e,i,ö,ü と《奥舌母音》a,ı,o,u に分かれていて、
ひとつの単語の内部には、前舌母音だけあるいは奥舌母音だけが現れるという現象です。
だから、接辞もひとつの機能に対して複数用意されていて、たとえば対格接尾辞は、
直前の母音がe,i なら i、a,ı なら ı、o,u なら u、ö,ü なら ü がつきます。
adam「人」なら adam-ı「その人を」となります。
これは、単に発音が違うのではなくて、形態が違うと考えます。
つまり、トルコ語では母音の音韻システムが接辞の形態に影響を与えているという意味で「音韻論と形態論にまたがる現象である」と書きました。 この音韻論と形態論にまたがる現象は、日本語にもあります。連濁です。
くつ(靴) → ながぐつ、かわぐつ、ぬのぐつ
さくら → おおしまざくら、やえざくら、やまざくら
/k/>/g/、/s/>/z/ への変化は発音の変化ではなくて、音素の変化です。
意味は変わっていないんですけど、機能が変わっています。
つまり、濁音になっていることによって、複合語になっていることがしめされているのです。
だから、「くつ」と「-ぐつ」、「さくら」と「-ざくら」は同じ形態素ではありますが、
形態は違います(「異形態」と呼びます)。 >>158
私は言語学の専門家じゃないので詳しくは分かりませんが、
音韻は発音上の分節、形態は綴り上の分節と理解してよろしいんでしょうか。
現代トルコ語は、例外はあるかもしれませんが、表音文字で発音されるとおりに綴られる言語だと思いますので、
その場合、発音の変化はそのまま綴り上の変化に反映されることになりますよね。
このことから、あえて言いますと、私が「発音」という場合、
木村さんのいう「音韻論と形態論にまたがる現象」のことを指していると言ってよいんじゃないかと思えます。
いずれにしても、トルコ語の母音調和(音韻論と形態論にまたがる現象)の原則(前舌母音と後舌母音が混在しない)は、
やはり意味とは独立の体系であって、それによって語や文の意味に変化を与えないんじゃないでしょうか。
日本語の「ますか」の「か」を表すトルコ語のm(iの上の点がない字), mu, mi, m(uの上に"がある字)という変化形がありますが、
これは日本語の動詞の何段活用とは違い、この変化によって意味上の違いは生じませんよね。
音韻や形態というより、むしろ純粋に音声学上・(前舌後舌という)生理学上の調和の問題であるようにすら思えます。 >>159
ええと、その、「発音」の変化と「音素」の変化の違いがちょっと分かりません。
母音調和の場合は、音素の変化とは言えないのでしょうか。
「意味」と「機能」の違いもちょっと分かりません。
意味が変わらず機能が変わるとはどういうことなんでしょう?
私が思いますに、日本語の連濁にみられる例えば「くつ」と「-ぐつ」、
「さくら」と「-ざくら」の間には、意味の上でも違いが生じているように思えます。
「くつ」の意味範囲と「ながぐつ」の「ぐつ」の意味範囲は合同にはならず、
後者の「ながぐつ」は起源においては複合化であっても一つの独立した単語になっています。
「ながいくつ」と「ながぐつ」はもはやイコールではないという理由によります。
私はそう考えているのですが、言語学者の間では受入れられない考えなのでしょうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています