ナポレオンのおかげで
ロシア武装勢力や軍の興味が北海道から逸れ、日本も助かった

幕府は、弱小の松前藩〔渡党というアイヌ一派〕にエゾ地との独占「交易」権を与えたが
渡党の他のアイヌには、「心任せに(勝手にさせろ)」、支配するな、と幕府からクギ刺され、放任主義

 vs清朝) 松前の放任に付け入り、山丹交易(朝貢交易)を通じて清朝がアイヌに朝貢させ
山丹人がアイヌに借金させ、借金のカタにアイヌを居住域に連行し使役する等

 vs帝政ロシア) ロシアの囚人兵・コサック軍団がエゾ地に侵攻
北方からアイヌを制圧して毛皮税など苛酷に収奪、日本側の警備兵も圧倒

 http://www.worldflags.jp/blog/2957/
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 1806年10月、武装商船2隻で樺太のアニワ湾に上陸、松前藩の出先の番所を襲撃し、
 日本人4人をカムチャッカに拉致、翌年6月に釈放しました。

 これに対して幕府は翌年3月に蝦夷地全域を幕府直轄領としましましたが、
 フヴォストフらは4月には択捉島ナイホを襲撃、
 夜襲で南部藩・津軽藩を敗走させ、警備にあたっていた6人の武士を捕えた。
 さらに、5月から6月にかけて、今度は北海道西北の礼文、利尻両島周辺で日本の船を襲撃し、
 利尻島に上陸、放火、略奪、拉致など大暴れをしました。
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 ただし、1807年と言えば、ヨーロッパではナポレオンの全盛期、
 ロシア兵は西に転じざるをえず、交戦はありませんでした。

 各藩は寒さと食糧不足、とりわけ野菜不足で栄養のバランスを失し、
 かっけなどの病人続出となり、
 1808年夏の帰還までに、斜里の津軽藩だけで72人が死亡し、
 17人だけが生き残りという惨状でした(「松前詰合日記」藩士の斎藤勝利による記録)。