これは「存在」という観点から見ている場合のことで、 英 there is an apple 西 hay una manzana という場合、これはりんごという物が一個存在しているということに言及するのみ
これを複数にして 英 there are apples 西 hay manzanas とすると、りんごがバラバラに(無秩序に)複数個存在しているという意味になる 英語もスペイン語も何かにつけて冠詞を用いたがるので、 英 there are some apples 西 hay unas manzanas ということが多く、吾人もこちらの言い回しを普段は踏襲する フランス語に至っては ○ il y a des pommes × il y a pommes と、不定冠詞の使用が義務付けられてすらいる 0407ボケ老人 (オイコラミネオ MMdf-WOrK)2019/11/04(月) 11:04:23.26ID:XlW6jtHfM こんなことは皆の衆には常識だわな、何も目新しいことなど無いかと思ふ
芬語文法はやや・ややこしいw omena の複数主格は omenat だから、 there are some apples on the table を *pöydällä ovat omenat と訳したら、 フィン人の先生にいきなりダメ出し食らった pöydälla(単数主格 pöytä)'on the table'、ovat(不定形 olla) 'are' だからダメなはずはない
吾人のフィンランド語の先生は日本語が堪能で大変美人で優しかったから、このように説明して下さった: そのりんごって、普通にりんごが複数個テーブルの上にあるだけでしょ? omenat というと、何か特定のりんごのことになるから partitiivi(分格)を使って pöydällä on omenia と言いなさい、と。
んで吾人は早速「それって on 'is' じゃなくて、やはり複数ならovat じゃないんですか?と食らいついた。 先生曰く、ovat というのは omenat という形が文の主語になる場合しか使えないから、単に何の特定も受けないりんごなら、何個あろうが on(三単現)です、と。
ここに至って吾人はようやく納得した。 我々が通常「複数」という文法概念で理解しているものは芬語では2通りの解釈になる @ some apples:バラバラに存在する、まとまりのない複数個のりんご A the apples:特定のりんご複数個(例えば今日吾人が買ってきたところのりんごとか)
洪語でりんごは alma であり、複数主格形としてはちゃんと almák という形が存在する。 でも何個かあると言いたい場合、néhány 'some, several' なる語に続く名詞は単数形しか取れず、 動詞も自動的に3人称単数現在形になる: az asztalon van néhány alma (van は存在を示す動詞の3単現で、複数形なら vannak)
しかし、「そのテーブルの上にある(複数個の)りんごはとても美味しい」なら nagyon jók az almák, amelyik az asztalon vannak となる。 nagyon「とても」 jó「良い、美味しい」(-k は複数を示す語尾) amelyik は先行語が複数形を取る場合の関係代名詞。
洪語と芬語の決定的な違いは、前者には定冠詞が存在する(a/az:この2形の使い分けは後続語が母音で始まるかどうかだけであり、単複の区別はない)ことで、 almák と複数形を使う場合は、何かしら限定を受けているのでほぼ自動的に az almák と定冠詞がつくことになる。
つまり、限定を受けない複数個のりんごなら alma であり、日本語の「りんご」と同じで、それだけでは1個だけのりんごのことか、複数個のりんごなのかの区別は付かない。 区別は付かないというより、そういう区別を日本語とハンガリー語は必要としていない。 0409何語で名無しますか? (アウアウウー Sa2f-O9d7)2019/11/04(月) 11:42:29.72ID:j0q3jteUa そういやアエネーイスって未完なんだよな ローマ人の由来がトロイア人なんてのはどれくらい信じられてたやら
Arma virumque cano, Troiae qui primus ab oris Italiam, fato profugus, Laviniaque venit 0410ボケ老人 (オイコラミネオ MMdf-WOrK)2019/11/04(月) 11:42:57.88ID:XlW6jtHfM>>394氏の仰る >単語に単複の区別ないから
この短い一言は真言であると、印欧語文法においても吾人は思ふ
単複(印欧古語には更に双数もある)や限定・非限定の区別などは、より緻密な表現を日常的に要求されるようになって、後代の言語で発達し、文法的に確立・整理されたもので、 そこから出発して、上の芬語や洪語に見える現象を加味して考察することで、各印欧語が単複の区別や冠詞の発達の過程において、どういう変遷を遂げたかがより良く理解できるのではないかと、齢3桁数字になって考えるようになりますたw 0411ボケ老人 (オイコラミネオ MMdf-WOrK)2019/11/04(月) 12:08:04.38ID:XlW6jtHfM>>407 の >omena の複数主格は omenat だから、 >there are some apples on the table を >*pöydällä ovat omenat と訳したら、 >フィン人の先生にいきなりダメ出し食らった だが、「例のそれらのりんごはテーブルの上にある」という意味なら正解ではないかと、後でフィン人の先生に確認したが、それでもダメだそうなw
何故なら、フィンランド語の語順は比較的緩やかといっても、そういう限定を受けたものとかは必ず文頭に出さないとダメだそうで、 omenat ovat pöydällä なら 'the apples are on the table' の意味となって、正規の芬語表現となるとのことだった。 あの優しかった先生は今どうしていらっしゃるのでしょうか?
Opettajani, kuinka voitte? Erittäin paljon kiitoksia teille siitä, että olette ollut hyvä suomen kielen opettajani. 0412何語で名無しますか? (ブーイモ MM76-Xwhm)2019/11/05(火) 12:44:17.16ID:99dO1fvTM >単語に単複の区別ないから これは古典ラテン語?不可算名詞? 0413何語で名無しますか? (アウアウウー Sa2f-O9d7)2019/11/06(水) 02:29:15.39ID:eCaaBHBQa どうみても英語の話だが 0414何語で名無しますか? (スププ Sdbf-d9E7)2019/11/08(金) 16:39:02.46ID:82urgwoXdhttps://i.imgur.com/W9ujfsf.jpg0415何語で名無しますか? (アウアウウー Sacf-Z/J3)2019/11/10(日) 01:59:50.05ID:R6TtojrMa>>414 ラテン語じゃねーとわかんねーわ 0416何語で名無しますか? (ワッチョイ 0669-Ks/Y)2019/11/16(土) 10:57:11.33ID:az0MOat30 Neues Latein Lexicon 現代日常生活ラテン語15000語 ドイツ語分からんけどkindleで715円と安いから買ってしまった。 イタリア語版もあるけど Lexicon recentis Latinitatis 電子化されてないから諦めた。 0417何語で名無しますか? (ブーイモ MM0d-1knO)2019/11/17(日) 12:50:28.34ID:Atb9wOvjM わたしは11月20日(水)18:00の素敵なお知らせをチェックして たおちゃんの養分になろうと思います
「毎年この時期になると」という枕言葉が当てはまるもので、あまり日本人は知らないかと思われるのが、1948年のウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)にVermont Roysterという人が書いた社説 'In Hoc Anno Domini' である。 これも又、それ以降毎年この時期のWSJに再録される、知る人は知るが知らない人は全く知らない、クリスマスの風物詩と言えるだろう。
勿論ここでその内容についてアレコレ講釈垂れるツモリは無い。 その社説のタイトルはラテン語であり、直訳すると「この主の年に」となるが、これでは平成生まれの現代っ子には、「オタク、日本語不自由な方ですか?」とでも言われてしまうに違いないw Anno Domini は例えば2019 ADという時のADのことであり、Dominusはキリストのことなので、「キリストの年、キリスト生誕後〜年」という意味であることは言うまでもない。 hoc は「この」という指示代名詞なので、結局その社説タイトルは「今年は」という意味である。
anno は annus(アヌスと発音する勿れ)の奪格で、実際には位格的に使われて、物事が行われる時を表している。 これは印欧祖語にあった位格をラテン語が失う過程において、その機能(の一部)が奪格に吸収されたためである。
これは前置詞 in を取るとより明確になり、それを踏襲しているのが、先に挙げたWSJの社説のタイトルである。 0432ボケ老人 (中止 MM4f-f5qH)2019/12/25(水) 20:48:48.30ID:shxaCp8MMXMAS ラテン語で副詞的に「今年は」という場合、hoc anno でも in hoc anno でもどちらでも良い。 強いて言えば、前者は古代ラテン語的、後者は後代ラテン語的である。 特に口語(俗語)においては、その明晰さ故に前置詞が頻用される傾向にあった。
とは言え、前者の方の言い回しは、中世に入っても口語的にもまだまだよく用いられていたと見え、現代スペイン語ですら普通 este año と言い、これを en este año とすることは慣用的でないと言える場合も少なくない。 例えば Este año voy a pasar la Navidad con mi novia. のような文では、これを En este año 〜 とはあまりしない。
のみならずスペイン語には hogaño「今年」という副詞も有るが、これは正に先の hoc anno がスペイン語に引き継がれた形である。 (ラテン語の c[k] が母音に挟まれる位置で有声化してg になるのは、スペイン語における規則的な音韻変化)
ところで、これに関して吾人が思い出すのは、学校で英語の授業が始まったついでに、独学でスペイン語を学び始めた中学生の頃のことである。 先の西語文は This year I'm going to spend the Christmas time with my girlfriend. とでも英訳することができる。 吾人がその当時考えたのは、this year も este año も、このままではむしろ主格的に見えてしまうのだから、やはり前置詞 in/en を取った方が良いのではないかということであった。
ドイツ語では 'in diesem Jahr' のように、ほぼ例外なく前置詞 in を付ける。 だが、ドイツ語に近いオランダ語では Een witte kerst zit er dit jaar helaas niet in. 「今年はホワイトクリスマスにはならなかった(今年のクリスマスに雪は降らなかった)」 のように、英語同様前置詞無しが普通。
結局、これはその言語での慣用に従うと言うほかないのだろうか? 0434何語で名無しますか? (中止 bf69-FRUu)2019/12/25(水) 23:29:17.06ID:/YLQ5vKt0XMAS 西洋近代語の成立に影響を与えているのって、前期が翻訳聖書・詩人で、後期が文法書・辞書・言語マニュアルみたいな気がしてる。 0435何語で名無しますか? (ワッチョイ a69d-/WEI)2019/12/26(木) 21:16:07.64ID:x17Igam+0 そこにはグーテンベルクによる出版業の発明という偉業が深く関係しているのです 0436何語で名無しますか? (ワッチョイ c9f0-E95m)2020/01/01(水) 09:44:32.19ID:ocS5e3ZG0 ドイツ語でも対格でdieses Jahrというだろ 0437ボケ老人 (HappyNewYear! MMd6-Q+5r)2020/01/01(水) 21:00:20.28ID:xsfHBGRqMNEWYEAR Dieses Jahr war so ein wunderschoenes Jahr. So soll es immer bleiben, wie in diesem Jahr.
冒頭の独文はある歌の歌詞からの引用だが、 「今年は素晴らしい一年でした。いつも今年のように(素晴らしい年で)あって欲しいものです。」 のような意味である。 独語万年初級の吾人の作文だと、wie in diesem Jahr ではなく、wie dieses Jahr としたに違いない。
それでも誤文とは言えないと思ふ。 >>436でご指摘のように、時を表す対格としても dieses Jahr を使えないことはないし、 jedes Jahr「毎年」などは、副詞の場合も、ほぼ常に対格で(前置詞無しで)用いられる。 他方、スペイン語もオランダ語もそれぞれ en este año/in dit jaar とすることもあるので、この使い分け(前置詞の有る無し)に法則的なものをたてるのは難しいような希ガス 0438ボケ老人 (オイコラミネオ MMd6-Q+5r)2020/01/01(水) 21:31:17.87ID:xsfHBGRqM 先ほども 'Wie ich dieses Jahr Weihnachten erlebte' 「私が今年のクリスマスでいかなる経験をしたか」 なる独文が目にとまった。
クリスマスツリーを買ったが、当然車には入り切らないので、家まで引きずって歩くことになり、背中を痛めてしまったという話だが、なんとか家の中にツリーを建てた後 'Mein neunjaehrige Tochter hat in diesem Jahr darauf bestanden, beim Schmuecken mitzuwirken.' 「私の9歳になる娘が、今年はツリーの飾り付けを一緒にやりたいと主張した」そうな。
こちらでは、先のタイトルの文章とは異なり、やはり前置詞付きの in diesem Jahr という表現が使われている。 これを吾人が西訳しろと言われれば、 'Este año mi hija de nueve años insistía en su participación de la decoración (del árbol de Navidad)' とでもするに違いない。 この文章で、吾人は este año を en este año とすることはまずないと思ふ。 (100回に一回くらいは無意識のうちに en を書くかも知れないが)
しかし、「今年は」というごくごくありふれた副詞句で、前置詞(in/en)をつけるかどうかで一世紀(100年!)近くも迷ってるのは、世界広し・奇人変人多しと言えど、吾人くらいのものだろうwww 語学の万年初級とは、かくもオソロシイものなのである! 0439ボケ老人 (オイコラミネオ MMd6-Q+5r)2020/01/01(水) 21:34:11.34ID:xsfHBGRqM 訂正 >>438 >'Mein neunjaehrige Tochter hat in diesem Jahr darauf bestanden, beim Schmuecken mitzuwirken.' は 'Meine ...' の間違い。