【松下村塾】吉田松陰を語れ【幕末】
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松陰は陽明学だよ。思いっきり間違えおって。 最終的には反儒教系やん。皇国の皇国たる所以について、
儒学的な普遍の原理を捨てて、万世一系の天皇の存在に求めたのだから この人ほど「頭の良い脳筋」は珍しいと思う。
身近にいたらさぞかし鬱陶しかっただろうな。
朱子学は「天皇万歳」
陽明学は「知行合一」
で良いんじゃないか。 野生の雀は働かなくても、金が無くても生けていける。それは神様が食べ物
を与えてくれるからである。人間も贅沢をしなければ同じ様に生きていける。
お米は百姓さんの汗と膏の結晶である。その苦労も知らずに感謝もしないでご
飯を食べている。
君達が働いて(百姓さんの肉体労働に比べれば遊んでいる様な仕事)得たお金は
百姓の生き血を吸って得たものである。分からなければたとえ話で説明しよう。
武士は百姓から取り立てた年貢をお金に買えてそれで生活していた。商人等は
そのおこぼれで生活していた。百姓がみんなの犠牲になってくれたから生活出
来たのである。今でも弱者の百姓を食い物にしているのである。百姓は君達の
寄生虫がいなければもっと豊かに生活出来るのである。
百姓は消費者が決めた米価でしか米は売れない。それでは、農機具の経費は賄
えない。他の職業は必要経費を引いても利益が出るのである。百姓だけが虐げ
られている。神聖な百姓の生き血を吸って成り立っている悪の経済が滅びる時
が来た。天罰てき面になる時が来たのである。
雋傑坂本龍馬では、海援隊の集合写真の向かって右から菅野覚兵衛、白峰駿馬、
陸奥宗光、坂本龍馬、岡本健太郎、長岡謙吉となっているが、私の見立てでは
謎の人物(白峰駿馬の耳の形と異なる)、千屋寅之助、山本洪堂、勝海舟(龍馬
に化けた)、溝渕広之丞、謎の人物(長岡謙吉の丸顔とは異なる)となる。海援
」隊員としては千屋寅之助(変名菅野覚兵衛)の一人が正しいだけである。山本
洪堂、溝渕広之丞は土佐藩士である。なぜ、偽の龍馬と海援隊の写真を撮る必
要があったのか。メーソンは龍馬を暗殺した為に怨霊を恐れたのである。この
写真と龍馬の立像写真と坐像写真は暗殺直後に撮られたものである。だから、
偽の海援隊の写真の中に暗殺を手助けした土佐藩士が写っているのである。龍
馬の立像写真と同じ演台に後藤象二郎が肘を掛けている。これも暗殺に土佐藩
が関わった証拠である。これらの写真は龍馬暗殺直後に撮った写真である。福
井で見つかった龍馬の写真は暗殺後数年経ってから撮られたものである(頭の
剥げ具合で分かる)。悪い事をしても神様が本当の事を表沙汰にする。
安保体制はそれ一つで孤立してゐる問題ではなく、わかり切つたことですが、新憲法とワンセットになつてゐて、
どうしても切り離せないやうにできてゐて今も続いてゐる。このワンセット関係、換言すれば、シャムの双生児の
やうにおなかまでつながつてゐて頭が二つといふ状況を十分把握しておかないと、安保、憲法は論じられないと
思つてゐる。安保は新憲法における欠陥、すなはち安全保障についての無力を補填するといふ形でできてゐる。
アメリカの本音としては日本を属国にしておきたいけれども、まあ日本が強くならない程度の憲法ぐらゐは
与へておかうと考へたわけですね。さういふ背景を考へると、安保、さらに沖縄の問題が派生的な二次的な
問題だといふことがはつきりしてくる。
私が諸君に、目前の変転する事象に惑はされることなく、根本的なことだけを考へてくれと言ふのは、憲法が
このままでは、日本の防衛問題も最終的な解決はつかない、日本が本当に姿勢を正して本来の姿に戻るには、
このままではだめだと思ふからであります。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 三、安保、新憲法はシャムの双生児であるといふことについて」より このやうな日本の生温い状況が、現在および将来にどのやうな意味を持つてゐるかを探つてみれば、これは
安保以前、安保以後の問題ではなく、精神の問題であると考へられる。精神といふと、またいつもの精神主義かと
いはれるかもしれないが、われわれの決意としては、吉田松陰の「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」との
信念で行くほかないと思つてゐる。「功業」といふのは、自分が大政治家として権力を握らなければ役立たない。
そしてその権力を背景として自分の考へたことを実現していくことが「功業」の意味で、それはいづれは
大勲位の勲章をもらつて、うまくすると国葬にまでしてもらへるみちです。
しかし、「忠義」は枯野に野垂れ死にするみちです。何の効果もなく、人のわらふところになるかもしれず、
その瞬間瞬間には、全く狂人の行ひとしか見えないやうなことになるかもしれないわけです。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より 吉田松陰が「狂」といふことを盛んに言ひ出したのは晩年ですが、やはり松陰の時代にも、全てをシニカルに
見てわらひ飛ばすやうな江戸末期の民衆の世界があつたわけで、とにかく毎日が楽しければよく、明日のこと
など考へる必要がないではないか、お国なんかどうなつてもよいといふやうな民衆の心理的基調があつた。
さういふ基本的メンタリティがあつたわけです。さういふ状況の中で、松陰は、孤立して狂つてゐるのでは
ないかと疑はれるほど精神が先鋭化していくのを自覚したに違ひない。そして、松陰が異常に孤立した、
自分一人しかゐない、自分が狂人だと思つた段階から明治維新は動き出したわけです。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より 私は、諸君がこれを肚の中に一人一人持つてもらひたいと思ふ。左翼の大衆運動といふものは、大衆を
動かさなければどうにもならないので、まづ大衆を巻き込んで、彼らの大きな力で状況を変へていく、といふのが
基本的な立場ですね。赤軍派の場合は例外と言へるかもしれないが、左翼は一般にさうですね。ところが
われわれの立場は、孤立を恐れない、孤立でほかにみちなく、助けてくれる身方もゐない、さうなつた状況から、
初めて何かが始まるのです。いはば絶望からの出発といふのが特色だと思はれる。いはゆる能動的虚無、
さういつた絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人間は、松陰の忠義のみちを行くことはできない。
かりにも世間を甘く考へて、世間の支持を期待したり、大衆をあてにするやうな思想の磨き方ではどうにも
ならないところまで来てゐることを自覚して欲しい。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 七、絶望から思想を磨くといふことについて」より 「君子素餐するなかれ」
2ちゃんねらーの耳には痛い一言だが
松陰先生から門弟山田顕義(市之允)に送った扇面の中に
その1節がありましたね。
「100年は一瞬のみ
君子素餐するなかれ」 建替えとなったら、喰う物も着る物も無くなるぞ。何事も行であるから喜ん
で行して下されよ。今度の行は世界の臣民皆二度とない行であるから、厳しい
ぞ。この行出来ねば灰にするより外ないのぞ。この世の事は神と臣民と一つに
なりて出来ると申してあろがな。早く身魂磨いて下されよ。それで神かかれる
様に早う大洗濯して呉れと申しているのぞ。掃除出来た臣民から良き御用に使
って、神から御礼申して末代名の残る手柄立てさすぞ。神の臣民、掃除出来た
らこの戦は勝つのぞ。今は一分もないぞ、一厘もないぞ。これで神国の民と申
して威張っているが、足許からびっくり箱があいて四つん這いになっても助か
らぬ事になるぞ。穴掘りて逃げても、土潜っていても灰になる身魂は灰ぞ。何
処にいても助ける臣民行って助けるぞ。
今は善の神の力が弱いから善の臣民苦しんでいるが、悪神総がかりで善の肉
体に取りかかろうとしているから余程褌締めてかからんと負けるぞ。親や子に
悪の神かかりて苦しい立場にして悪の思う通りにする仕組立てているから気を
付けてくれよ。
今度は千人万人力でないと手柄出来んぞ。世界中総掛かりで攻めて来るのざか
ら、一度はあるにあられん事になるのぞ。大将ざからとて油断出来ん。富士の
山動くまでにはどんな事も堪えねばならんぞ。上辛いぞ。どんな事あっても死
に急ぐでないぞ。今の大和魂と神の魂と違う所あるのぞ。
悪の仕組みは、大和魂を根こそぎ抜いてしもうて、日本を外国同様にしてお
いて一吞みにする計画であるぞ。日本の臣民悪の計画通りになりて尻の毛まで抜
かれていても、まだ気づかんか。上からやり方変えて貰わねばどうにもならんぞ。
メグリ(罪を償う様に巡って来る事)ある金でも物でも持ちていたらよい様に思
うているがえらい取違いであるぞ。早う神の申す事聞きて下されよ。
悪の総大将(メーソン)は奥に隠れてござるのぞ。一の大将(アメリカ)と二の
大将(ロシア)とが大喧嘩すると見せかけて、世界をワヤにする仕組、もう九分
通り出来ているのじゃ。
世界一平に泥の海であったのを作り固めたのは国常立大神であるぞ。親様を
泥の海にお住まい申さすはもったいないぞ。それで天にお上りなされたのぞ。
雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神様御手伝いでこの世の固め致した
のであるぞ。元からの龍体持たれた荒神様でないと今度の建替えの御用はでき
んのざぞ。世界作り固めてから臣民作りたのであるぞ。何も知らずに上に登り
て、神を見下ろしている様で、何でこの世が治まるものか。天と地の御恩とい
うことが神の国の守護神に判りておらんから難儀な事が愈々どうにもならん事
になるのぞ。臣民生れ落ちたら産のお水を火で暖めて産湯で浴びせて貰うであ
ろうが。そのお水はお土から頂くのざぞ。焚き火ともしは日の大神様から頂く
のざぞ。御水と御火と御土でこの世の生きあるもの生きているのざぞ。
天の益人の家の中に神土で富士の形作りてその上に宮作りてよいのぞ。礼拝
の仕方書き知らすぞ。旧三月三日から始めて下されよ。一拝二拝八拍手せよ。
一二三四五六七八九十と言高くのれよ。ひふみ三回のれよ。これは祓いの歌で
あるぞ。終わって一二三四五六七八九十、一二三四五六七八九十百千万と言高
くのれよ。天の日月の大神様弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ。地(くに)の
日月の大神様弥栄ましませ弥栄ましませと祈れよ。終わりて八拍手せよ。雨の
神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神様、産土の神様に御礼申せよ。終わり
てから神々様の気頂けよ。神前に向かって大きく気を吸い肚に入れて下座に向
かってはきだせよ。八度繰り返せよ。終わって八拍手、一拝二拝せよ。
天の異変気付と申してあろうが、宵の明星が東へ廻っていたら愈々ざぞ。夏
雪降る事もあるのざぞ。神が降らすのでない、人民が降らすのざぞ。人民の邪
気が凝りて天にも地にも訳の判らん虫が涌き、病ひどくなって来るぞ。
神は元の大神様に延ばせるだけ延ばして頂き、一人でも臣民助けたいのでお
願いしているのざが、もうお断り申す術無くなりたぞ。 学問の世はすみたぞ、学者は閉口するぞ。商売の世もすみたから商売人も閉
口するぞ。力仕事は出来んし、共食いするより外に道ないと申す人民ばかりと
なるぞ。
今の政治はむさぶる政治ぞ。神のやり方は与えっぱなしぞ。今のやり方では
世は治まらんぞ。道理じゃなあ。与えると弥栄えるぞ。国は富んで来るぞ。神
徳満ち満つのじゃ。取り上げたもの何にもならんのじゃ。奉げられた物だけが
真じゃ。田から家から税金とるでないぞ。年貢取り立てるでないぞ。金はいら
んと申してあろが、暮らし向きのもの只でとらせよ。日の光見よと申してあろ
うが。働かんでも食べさせてやれよ。その所に神の政治始まるのじゃ。お上は
幸で埋れるのじゃ。仕事さしてくれと申して、人民喜んで働くぞ。皆々神の魂
植え付けてある神の子じゃ。
楽してよい御用しようと思うているのは悪の守護神に使われているのざぞ。
人の殺し合いでこの世の建替え出来ると思うているのも悪の守護神ざ。肉体い
くら滅ぼしてもよき世ならんぞ。魂は鉄砲でも殺せんのざぞ。魂は他の肉体に
移りて、目的たてるのざぞ。いくら外国人殺しても、日本人殺してもよき世は
来ないぞ。今までのやり方すっかり変えて神の申す様にするより他に道ないのざ。
今度(太平洋戦争)捕らえられる人民沢山あるが、今度(世界最終戦争)こそひ
どいのざぞ。牢獄で自殺するものも出来て来るぞ。女、子供の辛いことになるぞ。
実地の大峠の愈々となったらもう堪忍して呉れとどんな臣民も申すぞ。人民
には実地に目に物見せねば得心せぬし、実地に見せてからでは助かる臣民少な
いし神も閉口ぞ。身魂の悪き事している国程戒め致すのであるぞ。神の子は神
の気(霊)頂いているのざから食う物無くなっても死にはせんぞ。今度の御用は
どこ探しても判りはせんのざぞ。人民の頭でいくら考えても智しぼっても学あ
りても判らんのじゃ。ちょこら判る様な仕組ならこんなに苦労致さんぞ。神々
様さえ判らん仕組と知らしてあろが、何より改心第一ぞと気付けてあろが、神
示肚に入れば未来見え透くのざぞ。理屈悪と申してあろが、悪の終わりは共食
いじゃ、共食いして共倒れ、理屈が理屈と悪が悪と共倒れになるのが神の仕組じゃ。
光る誠の行さしたら皆逃げてしまうから、ここまで甘くして引っ張って来た
なれどもう甘く出来んから、これからはキチリキチリと神の規則通りに行うか
ら、お手柄結構に褌締めて下されよ。この世は神の国の写しであるのに幽界か
ら移りて来たもの(悪霊)の自由にせられて、今の体裁この世は幽界同様になっ
ているぞ。地は国のやり方せねば治まらん。早う気付いた人民から救いの船を
出して下されよ。これと信じたら任せ切れよ。損もよいぞ。病気もよいぞ。怪
我もよいぞ。それによってめくり取って頂くのぞ。むぐり無くなれば日本晴れ
ぞ。今がその借銭済しぞ。
お日様赤いのでないぞ。赤いとばかり思っていたであろうがな。まともにお日
様見よ。緑であるぞ。お日様も一つでないぞ(三つ)。寒さ狂うぞ(氷河期)。
血尊べよ。血は霊であるぞ。神であるぞ。血にごしてはならんぞ。血はまぜこ
ぜにしてはならんぞ。交ぜる事は乱す事ざぞ。学はこの大事な血乱す様に仕組
ているのざぞ。(肉食、混血、献血、臓器移植、遺伝子操作等)それがよく見え
る様にしたのは悪神ざぞ。人民の目くらましているのじゃぞ。科学科学と人民
申しているが人民の科学では何も出来ん、乱すばかりじゃ。神に尋ねて神の科
学でないとなにも成就せんぞ。1に1たす2ばかりとは限らんのじゃ。
おろしあに上がりて降りた極悪の悪神。愈々神の国に攻め寄せて来るぞ。北に
気付けと、北が愈々のキリギリざと申してくどう気付けてありた事近うなりた
ぞ。ロシアは太平洋戦争終結間近かに、日ソ不可侵条約を踏み破って満州に居
た日本人を踏み殺し、関東軍の兵隊をシベリアに抑留して重労働させて酷死さ
せた。北方領土をぶん取って盗人猛々しく、対日戦勝記念日とか設けて北方領
土を我物と誇示しようとしている。それを真似して中国が尖閣列島、沖縄を、
韓国が竹島、対馬をぶん取ろうと策動し始めた。北朝鮮の拉致もシベリア抑留
に比べたら子供騙しだ。悪の親分がロシアで子分がその手先になっているのだ。
朝鮮戦争がきっかけで攻め込んでくる。味方と思うた米国まで裏切って攻めて
来る。世界が一つになってメーソンの命令で攻め込んで来る。
三島由紀夫は生前に吉田松陰を尊敬し、松陰の狂に憧れ、ついには実行してしまった人物であるが、実は
三島由紀夫が自決した昭和45年(1970)11月25日は、陰暦で換算すると吉田松陰が刑死した10月27日だった
このことからしても三島は、松陰に対し、相当の思い入れがあったと言えるだろう。
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われわれの決意としては、吉田松陰の「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」との信念で行くほかないと思つてゐる。
「功業」といふのは、自分が大政治家として権力を握らなければ役立たない。
そしてその権力を背景として自分の考へたことを実現していくことが「功業」の意味で、
それはいづれは大勲位の勲章をもらつて、うまくすると国葬にまでしてもらへるみちです。
しかし、「忠義」は枯野に野垂れ死にするみちです。何の効果もなく、人のわらふところになるかもしれず、
その瞬間瞬間には、全く狂人の行ひとしか見えないやうなことになるかもしれないわけです。
吉田松陰が「狂」といふことを盛んに言ひ出したのは晩年ですが、やはり松陰の時代にも、全てをシニカルに
見てわらひ飛ばすやうな江戸末期の民衆の世界があつたわけで、とにかく毎日が楽しければよく、明日のことなど
考へる必要がないではないか、お国なんかどうなつてもよいといふやうな民衆の心理的基調があつた。さういふ
基本的メンタリティがあつたわけです。
さういふ状況の中で、松陰は、孤立して狂つてゐるのではないかと
疑はれるほど精神が先鋭化していくのを自覚したに違ひない。
そして、松陰が異常に孤立した、自分一人しかゐない、自分が狂人だと思つた段階から
明治維新は動き出したわけです
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★三島由紀夫 「『孤立』ノススメより★
吉田松蔭死んだ
松陰死んだ
しょういんしんだ
小陰唇だ 全然
すぐ風邪を引くような人だった
しかし学問では誰も勝てなかった
論争ではどこにも隙がなかった
妥協を全く行わない人だった
個人的な役得を一切無視し、思う真理を追及する人だった
ゆえに、井伊直弼が彼を処刑した後には、無垢の義人を殺害した幕府は倒される必要がある、という門人らにとっての大義名分が残った 要するに何か言いがかりが必要だったのな
さすがチョン州 麻原は私利私欲が見えていたからなあ。いくら義を叫んでも松平容保と同列に見える。
権力争いをした場合も結果が良ければ尊敬されるのだが、権力を手に入れ損ねた場合は卑劣という評価しか残らない。 叔父の玉木文之進の私塾ではあの乃木希典も松陰と机を並べ
例の有名なスパルタ教育を受けていた。
この苛酷な迄にストイックな精神性を重んじるDNAは、後の日本軍に受け継がれていく。 寺子屋の和算の精神性重んじてればマヌケなボロ負けなんかしなくて済んだのに スゴいスゴいと言われる割に
深く語れる人は少ないイメージ 梅田雲浜に関わったばかりにとばっちりくらった可哀想な人
幕末の長州がたどった数奇な運命をお先に体現しちゃった感じ いや松陰のキチガイ行動(誉め言葉)の数々見てると
早逝は時間の問題だったねw >>40
吉田松陰は玉木文之進のスパルタ教育は受け継いでいない。
松蔭は基本的に穏やかで優しい人。
高杉晋作や久坂玄瑞のような才気迸る弟子には厳しく接することもあったらしい。 それに比べて戸塚ヨットスクールは、学校にも家庭にも居場所がないような、
イジメラレッコやヒキコモリにスパルタ教育するんだから「仁」がないよ。
吉田松陰なら萎縮しているような生徒には、まず愛情をかけるだろうね。 他にもあるだろうが、↓に萩市明倫小学校の松陰教学の紹介がる。
h ttp://www.youtube.com/watch?v=NyG2xkGqvsQ
福井の永平寺町でも、道元を教えていたと思うが、こういうのを
許容している町には、モンスターはいないだろうナ。 王陽明と吉田松陰
ともに病弱で優しい人柄だけど、いざとなると誰よりも豪傑になれる。
吉田松陰も、
「一言する時は必ず温然和気婦人好女の如し。是れが気迫の源なり」
(言葉を発する時は温かい婦人や優しい女性のようにする。普段の謙虚な態度が、いざという時の気迫の源なのだ。)
と言葉を残している。 >>50
その理想主義者を慕った高杉晋作、伊藤博文が現実を動かした。
というより吉田松陰はあの時代にかなり早い段階で現実と向き合った人だろ。 >>52
幕末、長州萩で若者を教える私塾の先生をやっていた。
その生徒が幕末に活躍したので、先生も偉かったとなった。
h ttp://www.yoshida-shoin.com/
生徒に偉いのが出ると先生も偉いとなる例は多い。
手足が不自由でも教えることはできる。手足が自由なら
やって見せることもできる。
比叡山の円仁も「大師」になったが、その繋がりで祖師の
最澄も「大師」になった。 あとは黒船来航の現場まで行って、藩に情況報告したり、
事としては目立たないけど、かなり重要なことをしている。
しかも藩命じゃなく、個人で。
それを平和な時代からの感覚で、独りよがりな男とするのは了見が浅い。
乱世はルール守っているだけでは対処できないから、乱世なのだから。 当家から吉田松陰が出たんだって爺さんが言ってたw
まぁ百合之助さんの家を言ってるんだろうが吉田家じゃないが
代々北古萩の貧乏武家で同性だから少しは関わりが有るかもしれんが
爺さんも次男坊だし確認出来ない 事を成した人間なら日本史上に数多いるけれど、
吉田松陰ほどの純粋さを成した人間は数少ないのではないか 純粋さってより「行動力」と「好奇心」が共に突出している、稀有で異様な人物
本当に「自力」での異様な「行動力」・異様な「好奇心」、どちらかの一方持ってるだけでも稀有だとは思う
今なら政治家兼研究者兼教職者兼テロ主導者兼、思想家って所だし
変人には違いない
松陰と野山獄で親しくなり松下村塾で教師をしていた富永有隣は
維新後不平士族の反乱に共謀した罪でかつての教え子達に追い回されたが、
その頃しばらく土佐勤王党の生き残りに匿われていたそうだ。
江藤新平は助からなかったが、富永は生き長らえて良かったな。 竜馬をヤったのとか、長倉新八とか生き永らえた人っているよね。
何が分かれ目になったのか不思議。「徳」があったんかな。 聞かれても無い、いらんことをペラペラ喋ってしまう人だからなぁ
木戸孝允や久坂玄瑞らはこのおっさんが何か勝手なことを
やらかさないかいつもヒヤヒヤしてたと思うぞ アメリカへの密航が失敗して捕まったって人が多いけど、
旅籠の無銭飲食とかで逮捕状出てたのを失敗して絶望してた松陰が出頭。
勘違いしてべらべら余計な事しゃべったから罪が無銭飲食から密航になって、
井伊直弼に処刑されたんだろ。
歴史って面白いな。
井伊直弼も牛タンの味噌漬けを水戸の殿様にあげなかったのが本で暗殺されるとかホントバカくさいよね。 >>68
松蔭が処刑されたのは密航じゃないだろうが 松陰はやはり、日本の根本的な問題、そして忙しい人たちが気がつかない問題、しかし、これをはづれたら
日本が日本でなくなるやうな問題、それだけを考へつめてゐたんだと思ふんです。それだけをあまりに強く考へ
つめたために首切られちやつたんだと思ふんです。わたくしは、精神といふものは、いますぐ役に立たんもんだと
いふことを申し上げました。
わたくしは、自分の書いたものや、いつたものが、いますぐ役に立つたら、かへつてはづかしいといふふうに
考へてをります。ですから、たとへばけふ申し上げたことが、あるひはみなさんのお心のどつかにとまつて、
それが十年後、二十年後に役に立つていただければ、それはありがたいけれども、あつ、三島のいつたことは
おもしろい、ぢや、けふ会社で利用して、つかつてみようかといふやうなことは、わたくしは申し上げたくもないし、
申し上げる立場にもゐないと思ふんです。わたくしは、その、ぢや日本の精神ていふのはなんだ。日本が日本で
あるものはなんだ。これをはづれたら、もう日本でなくなつちやふもんはなんだと。それだけを考へて生きて
いきたいです。
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より (中略)
そして、いま非常な情報化社会がありますから、精神といふものはテレビに写らない。そしてテレビに写るのは
ノボリや、プラカードや、人の顔です。それからステートメントです。そして人間はみんなステートメントやる
ことによつて、なにかしたやうな気持になつてゐるんです。わたくしは、そこまでいけば、どんなことをやつた
ところで、目に見えない精神にかなはないんぢやないかといふふうに思つてゐるんです。昔のやうに爆弾三勇士、
あるひは特攻隊、ああいふやうなものがあつたときに、はじめてこれはすごい、これはテレビにも写らなかつた、
なにも出なかつたが、これはすごいといふ一点があると思ふんですが、いまテレビに写つてるものは、どんなものが
出てこようが、結局、情報化社会のなかでとかし込まれて、また忘れられ、笑はれ、そして人間の精神体系に
なにものも加へないままで消えていくんぢやないか。
わたくしは、政治自体も非常にさういふ点で危険な場所にゐると思ひますのは、政治もあらゆる場合に
ステートメントだけになつていく。
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より そのステートメントが情報化社会のなかで、非常なスピードで溶解されて、ちやうどあたかも塵埃処理のやうに、
早くこれをすべて始末しなければ東京中が塵埃でうづまつてしまふ。紙くずでうづまつてしまふ。それで
情報化社会といふものは過剰な情報をどんどん、どんどん処理してゐるんです。この東京といふもの、日本と
いふものは、近代化すればするほど巨大な塵埃焼却炉みたいになつてくる。そのなかで人間はなにをすべきかと
いふことについて、わたくしはなんとか考へていきたいと思ふんですが、その精神が、それぢや、どうして行動に
結びつくか、といひますと、わたくし、やつぱり陽明学の信者なんです。(中略)日本の知識人はいままで、
知つて行なはなかつた人間ばつかりだつた。(中略)
自分の知つてることは、小さなことですが、知つてることだけ行つてみる。行なつてみた結果、失敗するかも
しれません。さういふところで、みなさんにつながる。
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より 松陰って過大評価されすぎというか、変というか。
吉田松陰密航ってどうみても 松陰側が悪いというか、先方に狙撃されて
海の藻屑とならなくて良かったねとしかいえんのだが。。。
深夜2時にごろに密航(?)の為刀を持った二人組の男が近づいてきたら
当然のごとく警戒するだろうし、夜襲と思われても仕方がないし。
その後の松陰の逆恨み的な倒幕思想を見るかぎりそうとう狂っているとは
思うのだが。 >>76確か密航する前に関係者に手紙渡してたみたいです。
あと、ペリー自身もその時のことを語った記録があるらしいです。
好奇心旺盛な民族が生まれたこの国の前途はなんと有望なことかって。
むしろ過小評価と僕は思うけどな、一つの宗教となって世界中に信者がいてもおかしくないと思う。 >>78
いや、普通に考えれば杉家の係累の方でしょ? 周りの迷惑を考えない人ではある
もう少し長生きすればテロリストになってたかも かくすればかくなるものと知りながら
やむにやまれぬ大和魂 時代は変わり 時は過ぎ
全てのものが変わっても
歴史が彼を審査する
吉田松陰 審査する
松陰 審査する
吉田松陰の辞世の句と土方歳三の辞世の句って似てるよね 身はたとえ・・・のことを言っているんじゃない?
辞世の句ってなんかパターンがある気がしないでもない。
どっちが先かは調べてないが、
大内義隆
討つ人も討たるる人ももろともに如露亦如電応作如是観
三浦義同(道寸)
うつものもうたれるものもかわらけよ くだけてあとはもとのつちくれ
大内義隆の方の下の句の漢文は原作があって、蓮如のご文章にも趣旨が
引用されている(と見たことがある)。 ちょいと気になったのでぐぐってみたら、更にあった。
後醍醐天皇
身はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思う
「竟に諸候恃むに足らず、
公卿恃むに足らず、
草莽志士糾合義挙の他にはとても策これ無き事 」
足らず、足らず、足らず・・・というのがずっと続いて
しかる後に草莽が出てくる。足りていると思う人がいる
うちはダメだ。>>96 は含蓄ある名言。脱帽。脱皮。 いやしくもよく志立たば、為すべからざるの事なく、為すべからずの地なし 松下政経塾の塾生はみんな何かが欠けているようだね。それは何かと
尋ねたら。。。。 松陰は女のように優しく、反面情熱的な人間だった。彼は30年という短い生涯の中で
多くの人間をその情熱で突き動かした。幼いころ彼は神童と呼ばれており、
10歳で藩校明倫館の兵学師範として教壇に立った。その賢さを支えたのは、
読書の量だと言われている。松陰は、密航の罪で投獄されている間も読書をしており、
投獄期間の1年でおよそ600冊の本を読んだと言われている。
松陰の開いた塾として、松下村塾が有名なのは言うまでもない。その門徒は90名程度
と、私塾の中では門徒が少ない方であった。松下村塾の特徴は、学費がないこと、
入門の身分が定められていないこと、教科書や時間割がないことなどが挙げられる。 しかも生徒全員が思想家になったわけでもないんだよね。
特に塾を開いた当初はその辺の子に手習いを教えてただけだったし。
そのうち、元々国事に関心のある若いのが集まってきて、思想家の養成所
みたいになっちゃったわけだけど。
「その辺の子が松蔭に啓発されて志士になった」的な解説は間違いだと思う。
少なくとも、何かをしなければいけない、と思ってる連中が、脱藩したり、
黒船に密航しようとしたりした、先輩活動家の松蔭の元に集まった、って
事だと思う。 13歳くらいで大人に教えてたというから凄いな。彼がいなければ伊藤博文とかもなかった。 その少年は爆弾発言・行動で大人たちどころか藩をも危険に晒すバカであった
アイツは氏ぬ運命だったんだよw 松陰が高く評価した入江九一の死に様って、wikipediaでは銃撃されて負傷、切腹になってるけど
司馬遼太郎の小説などでは顔面に槍を食らって即死になってるんだが、どっちが正しいの? >>107
その場に居合わせたヤツの証言では目を槍で刺されて後自刃だな
介錯断られてすぐ脱出したから腹を切るとこまでは見てないようだが 今年の夏に萩に行ったけど、古地図のまんま地形変わって無さ過ぎだろ
地形? 山を崩すとか海を埋め立てるとかないナ。
しかし萩駅から東萩駅を繋ぐ道路は整備されつつあるし
西の玉江の山の方から萩駅の近くへの道路建設は進んで
いる。また萩市自体は町村合併で広大になった。貧乏は
変わらないが。
古地図といえば明治の元勲たちが通よった弘法寺前近辺
に昔のハナヤギはない。側の大衆食堂で昼飯などを食え
ば川向うに葬祭屋のホールが見えて想い出に耽るばかり。 >>111
そうそう、お城からの海岸線とか、山の形とかね
あと道路も整備されていても、道の筋自体は増えたり減ったりして無いし
外堀?の道路がきれいに整備されていたが、あれが堀だったと名残もあるし
基本、空襲で丸焼けになった都市と違って
お寺やらは当時の場所に、古地図の当時の名前で残ってるし目印に出来る
萩は町を古地図頼りでもスマフォのナビ並に散策することができるね 29歳で死去って…
60〜70代の爺ちゃんと思いこんでたww しかし今の29の人が「講孟余話」を読んでも理解できんだろう。 吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫) [文庫] は、どーよ。 皇国史観は松陰の専売ではない。言いだしっぺはもっと古い。 志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない
世俗の意見に惑わされてもいけない
死んだ後の業苦を思い煩うな
目先の安楽は一時しのぎと知れ
百年の時は一瞬にすぎない
君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ
http://www.youtube.com/watch?v=x3nGVfymDgk
玉木文之進のエピの方がおもしろい
少年吉田が論語を読んでいるときに蝿を追っ払う
それを見た玉木がぶん殴った
テレビで知ったけど 大塩平八郎の『洗心洞箚記』は乱によって禁書になったはずなのに、松蔭はどこで入手して呼んだんだろう。
知ってる人はいる?
あと、この本を褒める感想を残してるけど、出典はどうなってる? 尊攘急進派じゃなく、尊攘急進「者」。子弟などみんな宥めた。
残りは→http://okwave.jp/qa/q5778941.html 松陰【憂国】から【改革】へ
命を懸けた行動に追いやったモノは松陰の中の「愛国心」であった。
事破れて獄中の人となった松陰の中の「愛国心」と「危機感」は、行動を断ち切られたとき、ますます熾烈になっていった。
http://www.togyo.net/meigen/19.html >事破れて獄中の人となった松陰の中の「愛国心」と「危機感」は、行動を断ち切られたとき、ますます熾烈になっていった。
間寛平と同じく止まると死ぬ人だったから、獄中でも暴れまわったのだろう。 驚きの日本史3」 この国のかたち
第三に、のちに国を誤らしめたものだが、徹底した民族主義と侵略政策がある。
安政一〜二年(一八五四〜五五)に萩の野山獄において、松陰は「来原良三に与ふるの書」中で、
「天下の勢い日に両夷におもむき、二虜いまだ平がず……和親以て二虜を制し、間に乗じて富国強兵し、
蝦夷をたがやし満州を奪い、朝鮮に来りて南地を併せ、然るのち米を拉ぎ欧を折かば、事克たざるは
なからん」と書き(『吉田松陰全書第二巻』)、また『幽囚録』には、「宜しく蝦夷を開墾(かいこん)して
諸侯を封建し、間に乗じてカムチャッカ、ウォトクを奪い、琉球に論(さと)して朝観会同すること内の緒侯と
比(ひと)しからしめ、朝鮮を攻めて質を奉らしめること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、
南は台湾、ルソンの諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし」と書いた。
この安物のシャンパンのように、景気はよいがあとで悪酔いする松陰の侵略思想が、黒船の侵略によって、
アヘン戦争によって敗北した中国と同じく欧米の植民地になるとおびえていた勤皇の志士たちに歓迎され
たことは云うまでもないが、そののち松陰の云った通り、日本は明治、大正、昭和と延々八○年をかけて、
台湾征伐、日清、日露の両戦役、朝鮮合併、シベリア出兵、満州建国、中国侵略、対米戦争、ルソン占領
とやったのだから、松陰の予言をえらいモンダというべきか、維新の元老以下の長州閥、宇垣閥、統制派と、
形を変えて続いた陸軍軍閥と、三井、三菱、住友などの旧財閥による「軍産複合体」の結合をバカの一つ
おぼえの産物であったとすべきだろうか。
http://blue.ap.teacup.com/asakawa2005/114.html 今もそうだが徳川斉昭も似たようなことを言って世間のウケを狙うということがあったように
133の主張のような売名行為は珍しくないよ。松陰は国学者の梅田雲浜へのライバル意識が相当強かった
のは大獄での取り調べで雲浜の同志扱いされたことに腹を立てていることからも明らかなように
本人は相当自己顕示欲が強かったようだね。 NHK、佐久間象山はよかったな。
吉田松蔭はちと明るすぎない?? コラ、松陰先生を呼び捨てにするな。
しかし会津主役で描くから、薩長はバカもの悪者で描かれるのだろう。
コワい話だ。 松陰先生でもやることやったことあるかもしれないのに、お前らときたら もしも松蔭が進歩的または民主的な思想の持ち主だったら
その後の日本の歴史も少しは違ってたんだろうがなあ >>134
ただの売名目的や世間のウケ狙いにしては物騒な主張だな
世上の流行にのっただけのことなら無責任な発言であるし
逆に確信犯ならば悪性のナショナリズムを煽るものだろ >>142
進歩的とか松蔭に時空を越えろと言ってるわけかw 教育者としては申し分ないがのに、なぜあんな無鉄砲だったんだろう だから陽明学の徒はアカンのよ。
松陰しかり、西郷隆盛に三島由紀夫しかり。
高杉はあれでいてちょっと違うからね。 死は好むべきものにあらず、亦悪むべきにもあらず。
道尽き安ずる、便ち是死所。
世に生きて心死する者あり。身亡びて魂存する者あり。
心死すれば生くるも益なし。魂存すれば亡ぶも損なきなり。
死して不朽の見込みあらばいつでも死すべし。
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。 ■
通名の方々:
教師(教員、学校の先生)・大学教授・医師(医者)、看護師・法曹界(弁護士、検察官、裁判官)・内閣総理大臣・閣僚・事務次官、官僚・
地方自治体の長(知事、市長、町長、村長、区長)・地方議員・公務員(国家、地方)・警察・消防・自衛隊・親方日の丸会社・
経団連・経済同友会・日本銀行・公益法人・旧軍人・巣鴨プリズン
焼き肉屋・定食屋・そば屋・うどん屋・お好み焼き屋・寿司屋・ラーメン屋・レストラン(フランス料理、イタリア料理、スペイン料理、和食・・)・
スーパー・コンビニ・デパート・八百屋・肉屋・魚屋・花屋・酒屋・靴屋・服屋・デザイナーズブランド・薬局・寺・喫茶店・パン屋・ケーキ屋・
文房具屋・本屋・自転車屋・眼鏡屋・時計屋・スポーツ品店・楽器屋・床屋・美容室・不動産屋(大家)・消費者金融・映画館・パチンコ屋・カラオケ・
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■ 井上真央が15年大河主演「吉田松陰の妹」
女優井上真央(26)が、再来年15年に放送されるNHK大河ドラマの主演に内定したことが15日、分かった。
演じるのは、江戸幕末の長州藩士、吉田松陰の妹。現在放送中の綾瀬はるか(28)と同じく、幕末・明治維新の女傑となった。
(中略)
題材も吉田松陰の3姉妹に決まったという。同局に詳しい関係者は「綾瀬さんが演じた新島八重のように、
幕末には偉人を陰で支えた女性がほかにもいる。今回もそこにスポットを当てることになる」と明かした。
吉田の弟子で若くして自刃する長州藩士久坂玄瑞に嫁ぐ、三女美和子が井上が演じる役柄とみられる。
http://topics.jp.msn.com/entertainment/general/article.aspx?articleid=2284588
女傑・・・? >>152
江姫の焼き直しみたいなつまんないドラマになりそう
もういい加減古代史を解禁せえやといいたいわ 篤姫の時、桂のクレで連名俳優だったから、今度は大久保や小松が
連名になるのかな。 玉木文之進の首刎ねた人?
そのシーンは絶対やってほしいな。 /\
/ ⌒ \
/ (山口県) \
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/____/_____________________\ >>139 京都大にある木像が一番似ているそうだけど、このくらいの精悍な
ルックスで超優秀となればモテそうですよね。
>>142 当時としてはかなり進歩的で民主的だったのでは? 松蔭は檄モテの素質があったにもかかわらず、一生童貞だったんだね。 >>157
>>160
来年の大河「花燃ゆ」
盛り上げようにも、史実となる情報が少ないが故、なかなか盛り上がりませんな…。
>>158
あなたが真っ先に反応しておりますねw 山口県民は吉田松陰と呼び捨てにはしません。
必ず吉田松陰先生と呼びます。 明治になって松陰先生の妹さんにインタビューした話が出版されていて
ネットでも出てくるが、それを見ると女はもとより、酒やたばこにも手
を出したことはないみたい。ひたすら公に身を挺するのみ。公の概念が
今とは違うが。 獄中で出会った高須久子という12歳年上の未亡人との
ラブロマンスがあった?とも言うけどねえ
獄中で久子と松陰が詠みあった相聞歌が残ってるんだよね
肉体関係はなかったと思うけど 吉田松陰の辞世の歌新たに1通
幕末の志士に大きな影響を与えた思想家の吉田松陰が、処刑される前に書いた辞世の歌が新たに1通、見つかったと京都市の美術館が発表しました。
吉田松陰は、高杉晋作や伊藤博文など、多くの幕末の志士を育てた思想家です。
「安政の大獄」で29歳の若さで処刑される直前、「此程(このほど)に思(おもい)定めし出立(いでたち)はけふ(きょう)きく古曽(こそ)嬉(うれ)しかりける」と、
死の覚悟を詠んだ辞世の歌を残しています。
これまで、家族に宛てた1通が見つかっていましたが、京都市東山区の井伊美術館が、同じ歌が書かれたもう1通が見つかったと発表しました。
井伊美術館の井伊達夫館長が、競売に出されていた巻物に同じ歌を書いた紙が貼られているのを見つけ、複数の専門家が調べた結果、
直筆とみられることが分かったということです。
この巻物は、安政の大獄を行った井伊直弼の家臣、長野主膳の手紙を集めたもので、歌の裏には、松陰の辞世の歌であると主膳が書いたとみられる
文字も残されているということです。
辞世の歌を複数の紙に書くことは珍しくないということで、井伊館長は、「政敵だった主膳も松陰の資質を認めていたからこそ残したのではないか」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140124/k10014727511000.html >>160
大河では11月末まで主人公が生存する必要があるだろ?
松陰の場合、それだと明治維新までの数多の事件の大半が最終回に集中してしまって、ややこしいだろ? 吾輩皆に先駆けて死んで見せれば、あるいは観感してたつものあらん。 1年後には吉田松陰と久坂玄瑞に詳しい人が増えるからここもにぎやかになるな 首相は今年夏、靖国に参拝しない。
かわりに8月4日か新暦9月20日、松陰神社にお参りするかも。
そこでまた某「お隣の国」が激怒して、
なぜわざわざこの時期に「松陰」なのかを知り、
ますます反日を強めると思う。 大河板の「花神」スレによると、いままで総集編以外は「上海みやげ」の回しか残ってなかったビデオテープが、
さらに数話分発見されたそうな。
全52回−(第19回「上海みやげ」+第24囘「奇兵隊」+39回「周防の人々」+最近発見させた1本)=48回
話数的には、松蔭死後の話ばかりみたいだが。 / / 攘尊 ヽ \ ヽ ヽ
/ / 夷王 \ ヽ (大和魂の結晶)
/ / ヽ 幕 \ ヽ ヽ
/ | ヽ \ 府 \ ヽ ゝ (昇華)
ノ 丿 \ を \ ヾ
ノ | | 丶 \ 倒. \ (気化)
/ \ せ \/| (液化)
ノ | | \ | ↑
/\ \ | ( ↑
/ \ / | ) (
/ \  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ( )
/ \ ) ( 悪魔の証明
 ̄| 最 | ̄ ノ⌒ ̄⌒γ⌒ ̄⌒ ゝ / /
| 長 強 | ノ 朝敵扱い ゝ / /
| 州 は | 丿 ゞ _/ ∠
| よ | 丿/|/|/|/|\|\|\|\|\ゝ \ /
| の | │ V
――.| う .|――――――――――┼―――――――――――――――――
巛巛巛巛巛巛巛巛 人巛巛巛巛巛巛巛巛巛巛 狂の精神 敬親「そんなことできるんか。じゃけど、できんことは証明できんよのう。よし、そうせい。」 愚かなる 吾れのことをも 友とめづ人は わがとも友と
吾れをも 友とめづ人は わがとも友と めでよ人々
吾れをも 友とめづ人は わがとも友と めでよ人々 燃ゆ 尊王攘夷って現在から見れば結局時流が読めていなかった奴らでしょ
松陰についてもその識見は評価しないかな まったくだ。
幕府側で考えつかなかった独自の外交案を思いついたわけでもないし、幕府側で把握できてない独自情報を入手できたわけでもないし、
識見に関しては大した人物じゃないな。
カリスマ性とか説得能力みたいなのが圧倒的だった点ぐらいじゃないか? >>191
命をかけてアメリカに密航しようとした松蔭に向けるべき言葉ではないな。 同期とか試行錯誤、失敗談は面白いけど、具体的な成果物は何も作ってないよね
多数の弟子たちが大成したという点が唯一の(しかし絶大な)成果だ。 むしろ松陰が認めてるような奴はダメで、熱心な弟子じゃない奴が大成したんだけどな
テロリズムをやった奴が行動を起こした奴=偉いという価値観を持つキチガイを大量に育てたという実績がある
タリバンを率いたオマル師、イスラム共和政で石打ち刑とかやってたホメイニ師、
まあそんな立ち位置だわなw 藩は兵学者としての吉田寅次郎に期待したのに大量にタリバンを育成
>>191
建前としては尊王攘夷って通用したかも知れないけど、基本、知識階級は海外留学したがった時代
本気でぶっ放した奴は松陰弟子くらいだな
下手に身分の低い足軽とか集めちゃったからそいつらが出世欲で暴走したんだよね
だから高杉みたいに世子側近で良い家柄の子は途中で付いてけなくなってる面もある >>192
カリスマ性って、魔法使いになりかけてたことくらいだろ
長州藩の党派抗争か何か知らんけど庇護者がいて松陰に甘かったんだよ
あんなの薩摩や土佐なら藩父の一言で上意討ちだわ >>197
土佐も、武市をもっと重用してやれば、また違った展開になってたかもな。 いや、樟蔭が一対一で説得した相手ってかなりの頻度で樟蔭に心酔してるだろ
カリスマ性っていう言い方はおかしいかもしれんけど。 >>197
カリスマ性はあったと思うよ。
開祖自らが「狂者」と自称した極端な学派・陽明学の体現者だからな。
性善説を盲信し、どんな状況でも理想論を説くある種の狂人。
師やマスコットとして見れば、魅力的だったと思う。
家族や友人には絶対したくないが。 松陰はカリスマというか、青少年に悪影響与えてるマルクス主義哲学者みたいな感じだな。
家柄の良い高杉家とかあの先生の所へは行っちゃいけませんって言われて、息子も素直に従ってるからな。
ただし、貧乏で上に行けない足軽クラスの奴らにとっては東大の元准教授くらいの奴がオラたち草莽に教えてくれてるだ
みたいな感激があって、そういう貧民どもが尊攘激派的な心酔者になっちゃった感じだな。 >>199
それは相手が攘夷思想に染まってる時はという条件付だな
論争相手なんて心酔どころかウンザリしてる感じだし。福島瑞穂みたいな。 松陰って最後はただの観念論者というかテロリズム煽動者になってしまったからな
自身の処刑も信念に従った自爆テロみたいなもんだから
あとこの人の書簡読んでると評価がクルクル変わったり相手の立場とか全然考えてなくて、
人格とか脳に欠損があったんじゃないかなとすら思える >>201
> 家柄の良い高杉家とかあの先生の所へは行っちゃいけませんって言われて、息子も素直に従ってるからな。
従ってないだろ
夜中にこっそり家を抜け出して通ってたんだよ >>203
取り調べで梅田雲浜の与党とみなされてキレたようにな。
死後の過大評価がいかにすごいことか。 久坂玄瑞は存命中は塾に顔を出さなかったが没後は塾の代表者的にふるまった 世古格太郎(延世)って密勅事件で安政の大獄に連座した尊攘派の同囚だから
松陰を悪く言う必然性って特にないよね。唱義聞見録でも他の箇所は特に悪く言ってないし。
だから「吉田もこの死刑に処せられるべしとは思わざりしにや…実に無念の顔色なりき」
という記述も信用に値する。松陰はこの10日前まで死刑どころか遠島になるとも思ってなかったんだし、
どうやら死罪だと悟ってからは騙された、騙されたと手紙で怒ってるし >>214
元々、安政の大獄って、十四代将軍の座を巡る政争の報復人事であって、思想統制とかじゃなかったよな >>216
当初はそうでも途中から報復人事の粋を越えとるよな いずれにしても松陰は自分から老中殺害を建白した馬鹿 >>219
そもそも、開国業務担当で日本の将来を担うはずの要人だった間部を殺害しようとか、鎖国続行派、反動派の活動じゃん
それの提言に関与とか、松陰の頭がおかしくなってたとしか思えん
それか、松陰の開国提言がポーズだったか。 松陰が罪状を軽くしようとして進んで自白したという説は絶対におかしい
だって松陰は法廷を「建白」の場として捕えてるんだから
もし自白が失敗だと気づいたなら第2回、第3回の取調で撤回の言動を見せてるはず
しかし松陰は撤回どころか意気軒昂そのもの
そこまでするなら死罪を覚悟していてもおかしくなさそうだが
手紙を見る限り遠島すら考えておらず、お預けか国元で謹慎だろうと思ってた >>220
従来「密航」とされてきたのは「墨夷膺懲」つまりペリー殺害のためだったという川口説なら出てる
それだと久坂玄瑞と交わした手紙の内容も納得できたりするし、思想にも一貫性が出てくる
たださすがにそこまでは納得できないものもある なるほど
松陰の学識の先進性は幻というか幻想というか、事実無根だったという疑いが出てくるわけだな 松陰はアメリカにいって何をすべきかを箇条書きで書物の枠外に書いてたりするから
それはないと思うよ
しかしドラマを合わせて新史料発見みたいなの多すぎる・・・ >>224
墨夷膺懲説はドラマに合わせたどころか10年以上前からあって、
田中さんの論文集にも載ってんだけど…? 墨夷膺懲説はペリー暗殺のほかに密航後の要人暗殺説とかもあるんだよ
で根も葉もない俗説かと言えば肥後勤王党との交流や後年の松陰の回想から見て、
平和的な密航を考えてたとは言えない状態なので扱いに困ってる状態 >>225
今年も新史料見つかってるんだが・・・
それがドラマを合わせたようでなんだかなぁっていう あと松陰の自筆のオランダ語とかも出てきてるよ
枠外にいろいろ書いてるものとかに結構重要な記載があったりして面白い
萩博物館に今度行くから見てくるよ >>204
従ってる。高杉家は叔父の田上宇平太を頼って松陰が上府したくらい縁があったが、
祖父の又兵衛は孫の行動をかなり制約してた
松陰が野山獄に投じられた当時の3月25日も父の小忠太が日夜俗論を申し付け、
「これに背けば不孝になり候ゆえ、そむく心にはなりかね」という弁明の手紙を送ってるほど。
江戸に送られた後にわいろ用の金を差し入れたり世話を焼いてた高杉が第4回取調(ここで松陰厳罰が決定)
の直後に江戸を離れたのは父の周旋と見られる。高杉は一貫して父親に弱い。 >>227
長州藩は維新後に史料が散逸して今蒐集してる状態だからね
東行庵も史料の保存状態以前は悪かったし
薩摩も維新後と西南戦争で史料が消失してしまったが島津久光がこれを嘆いて市来四郎に蒐集を命じたが、
散逸が多いのと、あと自分の家が「保守派」的言動を取ってたことを恐れて出さない家も多かった
ただし攘夷目的の渡航論は既存史料(含む藩外)で、論文自体ももう20年くらい前から出てる
「池田屋事件の研究」を書いた中村武生も支持してる
正直何とも言えない
ただ幕府が再戦するものと信じ込んでた松陰がすぐ外国ウェルカムになるものかなという疑問はある
あと国禁を犯したと言っても、安政の大獄では同情者の存在を信じ無根拠な楽観論に満ちてる松陰が、
下田で死罪をあれだけ思いつめるというのも、後年の回想の文言も、ちょっと解せない
(実際に「密航」の件では川路聖謨や阿部正弘の主張で死罪どころか国元謹慎に収まってる) ×再戦するものと
○再度の来航の際には必戦するものと 頼・飯泉・橋本の3人の斬首が10月7日だけど、10月5日の松陰の第3回の取調後は危機感がない
10月5日から16日までの間に何があったのだ 吉田松陰 幽囚録
現代語訳編集
日が昇らなければ沈み、
月が満ちなければ欠け、国が繁栄しなければ衰廃する。よって、国を善良に保つのに、むなしくも廃れた地を失うことは有り得て、廃れてない地を増やすこともある。
今、急いで軍備を整え、艦計を持ち、砲計も加えたら、直ぐにぜひとも北海道を開拓して諸侯を封建し、
隙に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流して内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉っていた昔の盛時のようにし、
北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、少しずつ進取の勢いを示すべきだ。その後、住民を愛し、徳の高い人を養い、防衛に気を配り、しっかりとつまり善良に国を維持すると宣言するべきだ。
そうでなくじっとしていて、異民族集団が争って集まっている中で、うまく足を上げて手を揺らすことはなかったけれども、国の廃れないことは其の機と共にある。 尊皇攘夷、間部暗殺、倒幕、明治帝政…
結局、基地外のように見えて物事の本質を判っていた松陰は凄い。
勝安房、佐久間象山、そして松陰寅次郎。この3人が傑物だべ。 なんだ、思想家じゃなく扇動家、アジテーターじゃん。 >>234
明治〜昭和前期にかけて今じゃ想像もつかないほど大きな影響を与えた志士
とは言えるだろうけど、傑物かどうかと言われるとウーンだね。
むしろ>>233に見るように明治要人の対外侵略政策を規定したというほうが注目されるかも。
対ロシア・満州への内陸進出、対朝鮮強硬論は少なくとも幕府の熟練した外交官たちにはあまりなかった。
この点は佐久間象山とも関連してくるが
まず松陰の思想が変遷したのか、それとも一貫してたのかによって膨大な言動の解釈が変わってくる。 松陰が学んだ佐久間象山は物凄い国際情勢に通じてたし洞察力もあったけど、
きわめて猜疑心に富んだパワーポリティクスの信奉者って面もあるんだよね。
だからインド大反乱や太平天国の乱に強く注目し、イギリス艦隊の来航は遅れるはずだと考え
(結果的には的中するけど、ハリスの情報は必ずしも嘘ではない)、アメリカに対して全く心を許してない
彼が献策した岩瀬・井上・川路ら外国事務者は相手と直接会ってるから、
そこまで強い猜疑心は見られないんだけど、象山の冷酷な国際情勢認識が松陰に影響を与えた可能性もある。 >>237
幕府側だって、アメリカの使節が正直一辺倒で来るとは思ってないから入念に下調べして、
ペリーの外光発言にあった嘘や誇張をいちいち指摘してたじゃん 吉田松陰 幽囚録
現代語訳編集
日が昇らなければ沈み、
月が満ちなければ欠け、国が繁栄しなければ衰廃する。よって、国を善良に保つのに、むなしくも廃れた地を失うことは有り得て、廃れてない地を増やすこともある。
今、急いで軍備を整え、艦計を持ち、砲計も加えたら、直ぐにぜひとも北海道を開拓して諸侯を封建し、
隙に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流して内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉っていた昔の盛時のようにし、
北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、少しずつ進取の勢いを示すべきだ。その後、住民を愛し、徳の高い人を養い、防衛に気を配り、しっかりとつまり善良に国を維持すると宣言するべきだ。
そうでなくじっとしていて、異民族集団が争って集まっている中で、うまく足を上げて手を揺らすことはなかったけれども、国の廃れないことは其の機と共にある。 >>238
だから幕府外交はあれでいいんだよ。ハリスの言う情報が全部ウソだとか決めつけずに裏取ったでしょ
象山は基本ハリス情報に裏があると思ってて結果的には当たったけどはっきり言って疑いすぎてたわけだし。
そして、そのリアリズムから来る警戒意識が松陰みたいな純朴な理念主義者に移植されるとえらいことになる 象山「他人を見たら泥棒と思え」→松陰「分かりました!他人は泥棒なんですね!」
こんな感じ。 ""満州事変""
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「佳子様眞子様 彼氏」
「秋篠宮 彼氏」
で検索して下さい。
※1番目〜3番目以内に、
【婚約】秋篠宮家の佳子様と眞子様の彼氏事情【結婚】が表示されます。 吉田松陰 幽囚録
現代語訳編集
日が昇らなければ沈み、
月が満ちなければ欠け、国が繁栄しなければ衰廃する。よって、国を善良に保つのに、むなしくも廃れた地を失うことは有り得て、廃れてない地を増やすこともある。
今、急いで軍備を整え、艦計を持ち、砲計も加えたら、直ぐにぜひとも北海道を開拓して諸侯を封建し、
隙に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流して内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉っていた昔の盛時のようにし、
北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、少しずつ進取の勢いを示すべきだ。その後、住民を愛し、徳の高い人を養い、防衛に気を配り、しっかりとつまり善良に国を維持すると宣言するべきだ。
そうでなくじっとしていて、異民族集団が争って集まっている中で、うまく足を上げて手を揺らすことはなかったけれども、国の廃れないことは其の機と共にある。 吉田松陰 幽囚録
現代語訳編集
日が昇らなければ沈み、
月が満ちなければ欠け、国が繁栄しなければ衰廃する。よって、国を善良に保つのに、むなしくも廃れた地を失うことは有り得て、廃れてない地を増やすこともある。
今、急いで軍備を整え、艦計を持ち、砲計も加えたら、直ぐにぜひとも北海道を開拓して諸侯を封建し、
隙に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流して内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉っていた昔の盛時のようにし、
北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、少しずつ進取の勢いを示すべきだ。その後、住民を愛し、徳の高い人を養い、防衛に気を配り、しっかりとつまり善良に国を維持すると宣言するべきだ。
そうでなくじっとしていて、異民族集団が争って集まっている中で、うまく足を上げて手を揺らすことはなかったけれども、国の廃れないことは其の機と共にある。 http://hideyo-noguchi-mri.com/council
あの神の手、福島孝徳脳外科医も野口英世支持者だ
http://m2.upup.be/j3GS6yJ1hv
野口英世と大隈重信
http://l2.upup.be/CfE8fOSdgr
野口英世と東郷平八郎
http://m2.upup.be/qH7YjpjAGW
日本人最初のカラー写真、野口英世(大正3年アメリカで撮影)
野口英世
学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。
1907年(明治40年) - ペンシルベニア大学名誉修士
1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士
1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士
受賞歴
1913年(大正2年) - 勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク)
1914年(大正3年) - 勲三等(スウェーデン)
1915年(大正4年) - 勲四等旭日小綬章
1920年(大正9年) - ジョン・スコット・メダル名誉章(フィラデルフィア)
1924年(大正13年) - レジオンドヌール勲章(フランス)
1925年(大正14年) - 正五位、コーベル賞牌
1928年(昭和3年) - 勲二等旭日重光章、防疫功労金牌(フランス) 要するに麻原と同じ
反体制思想で武力テロを推進した 福沢諭吉「脱亜論」 1885年3月16日 時事新報
日本の不幸は中国と朝鮮だ。
この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているが、
もともと人種的に異なるのか、教育に差があるのか、 日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。
地球規模で情報が行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、
過去に拘り続ける中国・朝鮮の精神は千年前と違わない。
国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。
もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。
「東アジア共同体」の一員として その繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。
日本は、大陸や半島との関係を絶ち、 欧米と共に進まなければならない。
ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。
私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。
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ィjj)))))))))!!!!!彡ヽ,
/ミ/ ,}彡ヘ
|ミ{ -‐ ‐ ‐ ‐- {三=|
El==; ゚ ''==. |ミミ,|
`レfォ、,〉 :rfォ.、, !iル┤
. { `¨ i ・、¨ ´ `{ゞ'} 支那、朝鮮とは
. | '`!!^'ヽ .「´ 付き合うなと忠告しておいたのに。。。
! ,-ニ'¬-、 ,!|,_
. \´?` / ∧ヘ、
__/〉`ー ' ´ / 〉 \
_, ィ´「∧ / / 」¬ー- 、_ 幕府の駄目な所は
日本を幕府のもの、もっと言えば徳川家のものって勘違いしてた事だろうなぁ
だから潰された
そういう連中って必ず潰される
また外様っていっても毛利って老舗の強力大名家だし
いつまで、外様とかいって疎外してるんだろうかと
そんな、いじめみたいな制度を取っ払って
有能な連中を引っ張ってきてればいいのに・・・
そうしてれば、潰されずにすんだと思う
家康ならもっと国内親和政策してたはずだよ こういう国難の時だからすべての大名の力を合わせて挙国一致でがんばらなあかんといって、
賛成するまで説得する、反対意見の大名が一人でも居るうちは強行しないという方針で、
(天皇家も大名と同格と見なしつつ)説得した幕府に対し、251みたいな的外れなことをいうヤツが少なくないのが現実 的外れじゃないよ、的外れだと思うのは
幕府側からの目線で見てるからだよ
まず、説得っていう立場が上から目線だろw まず、外様ってなんだよ・・・
外様って
そんな制度ぶっ壊せよ
なぜ政治参加させないの?
徐々に〜じゃ遅いよ
その前に潰されるぞ、てか、潰されたけど
薩摩から篤姫を娶りました、なかなかいい作戦じゃ
毛利は?
家康なら毛利と融和しただろうね
幕府が老舗大名を舐めてたから
倒されちゃった・・・
要するに、幕府内部からの改革のスピードが遅すぎた
幕臣にも有能な人間がいた
その人達の意見が反映されなかったんだろう
松陰がペリーがきてから6年が経過したのに
幕府は全然駄目だって、処刑のまぎわの手紙に書いてる
その通りだと思う、期待してたらガッカリする 外様ってのは、主従関係が弱い、厳密な意味では家臣じゃないって事だ
家臣じゃないから命令系統がきっちりしてない、厳密な意味では幕臣じゃないから幕府の中のことに口を出せないんだよ
外様が幕府政治に参加できる制度ってのは、外様大名の独立性を否定することと同義で、
諸大名を幕府の支配下に服させる必要があったわけだ。無茶すぎるだろ
それ以外の方法で外様大名も日本全体を動かす政治に参加させる方法として考案されたのが大政奉還で、
幕府も大名の1つになって、大名たちの合議で(つまり外様大名と同列の立場で)日本全体のことをやっていこうって手法
これまでの多くのノウハウを持っている上に国力(軍事力でも経済力でも)が最大規模の大名となる徳川が議長となって大名議会を主導する仕組みになるから、
薩摩や長州らの意見が少数派意見のまま、主導権を取り上げられてしまう制度なわけよ
>松陰がペリーがきてから6年が経過したのに
>幕府は全然駄目だって、処刑のまぎわの手紙に書いてる
薩長を筆頭とするテロリストどもが国内を乱すから改革が進まなくなったんだろ 日本を植民地にしようとする諸外国
それを阻止すべく万策尽くす幕府
アヘン戦争と同じように、諸外国は内乱・内戦から武力介入のパターンを日本でも画策していた
幕府は日本中から有能な人材を集めて対策を施した
一方で諸外国の思惑に乗って内乱を起こしていた売国奴もいた
最低なのになるとマセソン商会の手下として人身売買や外国の武力を背景にした恐喝、内戦準備活動をした人物までいる
慶喜が日本を救うために大政奉還して諸外国の軍事介入を阻止しなかったら、日本は植民地になってた
それこそ吉田松陰の思惑どおり
成敗されずにいれば功労者として坂本龍馬が植民地の現地人監督だったろう まあ、松陰が狙ったのがそういう方向とは思わんけど、薩長のいろんな策動は当時の外交でかなりマイナス面をもたらしてたね
関税自主権がないのは単に関税率を適切に設定しうる役人を育成するまでのつなぎという意味にすぎなかったのに、
薩英戦争の戦後処理の一環で懲罰的関税が設定されたのが関税不平等の始まりだしな
長州の方も、日本を植民地化させかねない極めて危険な戦いを引き起こした前科持ちだ 関税自主権にせよ領事裁判権にせよ、日本と外国の法体系や経済構造が全く違うし、
領事裁判権の場合は日本人の外国居住がまだの時代だから「不平等」というのは適切じゃない
「変則的」とか「暫定的」とか言う言葉を使うべきなんだな、本当は
幕府官僚、たとえば岩瀬忠震、井上清直らは通商条約の無勅許調印を推進した責任者だけど、
ちゃんと交渉史を読んでみると知識量でも理解度でも、その辺の民間人つかまえて領事にしてるハリスなんか圧倒するくらい頭がいい
で、そういう高度な交渉史を読んだあとで吉田松陰の国際情勢認識とか見てみると…
正直笑うしかないな。政治的に幼稚なのは確かだろ。松陰を論じる際に先見性みたいなのは期待するほうが間違い。
その辺の酒場で飲んだくれてる大学の先生の意見を国政に採用するようなもんだよ。 関税率の固定は通商当時は両方にとって便利だし、しかも日本側に結果的に相当有利だった
それでも当初の従価税は分かりにくかったが
そこが国内産業を保護したい日本側にとっては一種のねらい目だったわけだけど
しかも安政年間なんて国内で対水戸藩、対朝廷の紛争抱えてる時に、
よくあれだけ実務吏僚がいい度胸で頑張った者だと思って感心するな。
井伊直弼は実際は違勅とか結構気にするタイプで、最後まで迷ってたから、
たぶん岩瀬忠震にどやされなかったら決断がつかなかったじゃないか。
松陰も井伊直弼の藩政改革を賞賛してる口なんだよね。だから井伊直弼への批判はそれほど出てこない。 >>255
>薩長を筆頭とするテロリストどもが国内を乱すから改革が進まなくなったんだろ
これは違うくね?
少なくとも長州が関連するテロが横行するのは安定の大獄以後だよ
あと、薩長薩長っていうけど
一番は水戸だろw お世継ぎ問題も絡んだ内ゲバ ただ長州の攘夷は薩摩と違って一過性もしくは一藩単位のそれに終わらなかったのが問題かなあ
小倉藩領侵攻、処罰問題の浮上、監察使派遣と国内政局を強引に主導することになった
この問題で在京諸藩はほぼ長州ストッパーに転じたし、
その後の朝陽丸事件の発生で九州諸藩も長州と決別してしまった
薩摩の島津久光の行動は勅使下向に随伴するなど、一応、従前の形式を踏まえたもの
そして彼自身は反幕の動きが先鋭化しないよう、慶応3年まで厳しくハンドリングしていた >>261
は?
全国的な影響はいろいろと残しただろ
薩英戦争の戦後処理で幕府と薩摩藩に多額の賠償金支払い義務が生じた件、薩摩藩は踏み倒したけど幕府は踏み倒してないだろ?
それと、関税が大幅変更されて、懲罰的関税にされた。
それまでは関税自主権がないと言っても日本側の利益も考慮した課税方式を考えることになってたのが、日本の利益を考慮しない方式に変わったじゃん。
こっちのは明治維新後も踏襲されて長く残っただろ 明治日本の産業革命技術&施設、世界遺産登録へ!
これぞまさしく、薩長出身を中心とする若者や青年たちの功績を、世界が認めた、っちゅうことや。
反日左翼共、もはやこれまでぞ! >>264
このコピペあちこちで見るけど萩城下町と松下村塾のどこが明治日本の産業革命遺産なのかという根本的な疑問
勧告を行ったイコモス側は「九州・山口と関連地域」を「遺産製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」と変更して対象を明確化しろと言ってるから、
明らかにこの趣旨から外れるんだが 至誠にして動かざるは未だこれあらざるなし、じゃあ。 世界遺産になったのは産業革命遺産だからな
反射炉はともかく萩城下町や松下村塾は産業革命とは何の関係もない
はっきり言ってどこかの政治家さんの圧力で混ぜ込んだだけ
シリアルノミネーションの悪用だと今反発してる韓国あたりに指摘されたら結構微妙
看板に偽りありだから、副題に九州山口とか苦しいの付けてるけど、これを変えろと言われてるんだから あのマッカーサーが「神を見た」と言ったのが、
日露戦争講和時の乃木希典 と 大東亜戦後処理の時の昭和天皇だから。
世界列強が認めた、ということや。 神もいろんなのがいる
アメリカが戦ったフセイン・ビンラディン・ホーチミン・ヒトラー・昭和天皇
乃木も頭を使わず機関銃装備の要塞に肉弾攻撃なんて馬鹿野郎
自国の兵士や国民の命を大量消費して自分の欲望を満たすのはゲス野郎 >>272
乃木の場合、事前の戦力予測が間違ってて、要塞が完成して軍が駐屯してしまったら手強いからその前に叩く!という方針で開戦したのに、すでに完成ずみで軍が入った後だった
未完成で防御の弱い要塞用にブドウ玉主体で弾薬を発注してたが、完成した要塞には榴弾じゃないと効果がないとか、幕僚本部のミスが主な原因で現場の指揮である乃木の対処し得ない部分が苦戦の大きな原因 松陰と山県太華との論争(と言える程かとも思えるが)、あの意味するところをしっかり理解できるかどうかが、
現代に生きる人間として、歴史観・文明観を正しく持ち得ているかどうかの分かれ目ですな。
松陰の方が滅茶苦茶、感情論、空理空論のように見えて(太華の解釈。そして少なくない現代の凡人歴史学者の見方)、
現実−欧米列強が日本を植民地化しようとしている。その現実の中でどう対応するのか。−を直視し、具体の対応策を探しているわけだ。 安倍がアメリカの意向に従い日本で植民地政策を実行中なのにも関わらず
口では愛国神を訴える
吉田一派も解釈では強引に国のためだと解説しても、やってることは外国の利益になるテロや内戦 >>274
あれは普通に山県太華のほうが正しい
というか松陰が厨二病こじらせてるから論争になってない
そもそも「欧米列強が日本を植民地化しようとしている」という前提が間違ってる
大槻盤渓の具申とか読んでみ。 1980年代のポストモダンあたりから松陰思想の独善性が挙げられて
それまでと潮流が完全に変わってきた 欧米諸国が善意で近づいてきてるわけじゃないことぐらい幕府だって百も承知だったんだが >>269
伊藤博文 飯田俊徳 正木退蔵 渡辺蒿蔵 品川弥二郎 野村靖を輩出したことで
江戸時代に鎖国状態にあり、西洋技術に門戸を閉ざしていた日本は
19世紀中葉に近代化の取組を開始してから、非西洋地域で初めて、かつ
約50年間という極めて短期間で飛躍的な経済的発展を成し遂げた。
すなわち世界遺産の登録基準(iv)
歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、或いは景観を代表する顕著な見本である。 >>279
いくらそんなこと言ってもイコモスが「石炭鉄鋼造船」に変えろと言ってんだからしょうがないよ
松下村塾は技術者を育成する教育機関じゃなかったわけだし
イコモスの勧告が通ったら松下村塾と萩城下町は外れる
日本みたいに「関連」を入れれば何でもおkなんてデタラメは通らないからね 確かに「遺産」ではないわな。
今なお、我々が松陰先生の教えに従い、いや、共に学びながら、世の中を営んでいる。
つまり村塾は現実社会・政治において機能しているわけで。 とにかく松陰、あるいは藤田東湖、会沢正志斎、山県大弐の著作を読んで、尊皇攘夷、尽忠報国の志をしっかり持ちたい。 排外思想を植え付けられて国粋主義に走るわけか。テロリスト一直線だな 徒らに太平を唱ふるは、固より論なし。
尊皇攘夷は尽忠報国の大義なり。
国の存するや自ら存するなり。外に待つことなし。外に制せらるることなし。故に能く外を制す。
我れ万死自ら栄とす。 >>276
242がいいように一度疑いだしたら列強すなわち侵略者でしかないのだろう。
フランスのオールコックが幕府に肩入れしすぎて更迭されたように
戊辰戦争の混乱期の態度が不干渉なのにそのような歴史的事実を無視して
大政奉還も植民地支配を回避するためなんて言っちゃうんだからな。
どれだけ白人コンプレックス激しいのかと。
むしろ中国の洋務運動同様、明治政府がいかに外国思想の流入を警戒、特に
教育において皇民化教育推進したように、橋本左内が最初福井藩の教育改革
で登用され、それまでの藩主への忠誠を涵養する場でしかなかったモノを自由主義的なものに
変えようとしたのと比べると明治国家の教育は明らかに後退している。 伊勢谷友介の村塾、いいね。
ワシもあと25年くらい遅く生まれてきたら、入塾志願し、チャンス得たかも知れん。
その前に、あと150年早く生まれていたら、松陰先生に師事し、幕末維新の英傑に伍して働けたのに…
ああ、生まれる年代が違ってしまった>< 松陰の出発点は兵学者としてのそれで、関心は海防策。本来は実務家。
象山塾でも攘夷打払論ではなく海外雄飛論の影響を受けた
ところが象山という人が非常にリアリストというか、国際情勢を冷徹に見る人
その影響をもろに受けて、中二病をこじらせ満州からフィリピンまで侵略しろとか言い出す
さらに民衆まで巻き込んだ水戸藩の改革に強い影響を受け水戸学にとっ捕まる
会沢正志斎などは藩主に直接言上できる兵学師範としての松陰に利用価値を見いだすから歓待される
で、こうオルグされる
「長州藩ってクソ田舎だね、君は国を守る守るというけど、その守るべき国とはいかなる国なのか?」
こうやって水戸学系や勤王思想家たちと論争してるうちに、お馬鹿な松陰は本来の目的を見失って尊王絶対主義に転じてしまいましたとさ
というお話 水戸藩て内訌があまりに悲惨だから忌避する人が多いけど、
元治の内乱では諸生派・激派鎮派ともに百姓の参加者がとんでもなく多いからな
諸生派も劣勢だったのに農民が多数参加して撃退に成功してる
「百姓までなんか難しい議論してるし主体的に藩に奉公しようとしてる
水戸藩スゲー」
いっぱい騙された人がいるんだから、中でも騙されやすい松陰君が騙されるのも無理はないのですよ
あの友達との日時が間に合わないから脱藩するとか言うとんでもない奇行も、この辺から発している
たぶん諸隊設立のアイデアも村田清風の雑戸をもって夷人に当てろとかじゃなくて、
水戸の農兵から出てるね
水戸藩は何十年も先行してるから 尊皇と海防策は=やで。朝鮮王と我が帝とは意味が違うで。幕府が何で外交やるんだ?
江戸博の「花燃ゆ展」や「長州幕末検定」で勉強や。 >>289
朝廷が外交能力を持たなくなってた以上、幕府しか担当できる機関は存在しなかったしな
朝廷の外交方針というか指向が荒唐無稽で、幕府の方針が現実的だったという現実をみても、幕府が外交を担当したのが正解だったとしか言いようがない
もし幕府じゃなく朝廷が最初から外交を担当してたら日本はイギリスかフランスかロシアの植民地になってて天皇家は滅亡してたはずだ >>289
松陰が海防策から出発しながら、議論などを通じて尊王絶対論に転じてるのは明らかで、
その思想的転向は本人自身が言ってることなんだが。 宇都宮黙霖・吉田松陰往復書簡
草莽崛起も水戸の影響なのはほぼ間違いない この人って結局、最初は象山のパクリで、その後は会沢正志斎をぱくっただけの人だったなw
しかもぱくった内容も間違ってたというおまけつき
流されやすくて批判能力なかったんだと思う 松陰先生の語録・著作の数々は、尊皇攘夷論&武士道論共に今の時代にも通用する普遍的なものですね。
シナの恫喝に屈することは、天道に反するわけだし、
小手先の知識やマニュアルだけでは仕事はできない・人材育成できない、士魂が大事、
というのは、どの職場でも幹部の訓示において明らかですからね。 >>294
普遍的じゃなく「ふへん」的だろ
大ふへん者、のふへん。 横井小楠が水戸藩の党派抗争の弊害に気付いて次第に批判的になって言ったのに対して、
松陰は逆にのめり込んでいったわけだから、とても現実の反芻や再検討に裏打ちされた普遍とは言えないだろ
むしろ人間が観念的に先鋭化していく時に陥る陥穽の典型例を示してると思うんだがな
そういう意味じゃ普遍的ではある、シナの恫喝だの天道だの言い出す観念的世界把握の人間に受けてるわけだし 結局は、倒幕・大攘夷をやってのけた訳よ、我が皇国日本は。
松陰先生は先を見通していたわけよ。
水戸学はやはり御三家の一として敬幕の限界があったわけで、松陰はこれを乗り越えたよ途中から。
勝、象山、松陰、高杉、それから相国入道に織田右府。これら、皇国日本の誇る天才よ。 >>297
主君の逆賊認定を取り消せと言って御所に武力で押し入ろうとして撃退されるような悪辣な大名が勝ち残るという、かなり恥ずかしい経緯をたどってなかったら世界的に誇れただろうにな、惜しいことだ その後仲間割れして殺し合いに発展したこともな。
国会開設が渋々だったことがこの連中が誇らしいなどと言えない
権力亡者であることもな 松陰先生の時代、尊王攘夷の義挙を実行するのは草莽の志士ということになった訳だが、
当今は真逆だな。
当今の草莽(庶民)の多くは、確信犯的中華主義or純粋な似非平和ボケ。
尊王攘夷の義挙を成し遂げ、我が皇国を守るのは、あくまでも政権与党の政治家や専制有司(官僚たち)なんだよな。 >>299
松陰先生の魂は、その遺志に違うことなく、弟子たちの心に留まり、
以て維新回天の大業が成し遂げられたわけよ。
その礎の上に、今日僕らが生きている、それを忘れてはならんじゃろ。 人心を失ひ、民怒を犯し候は、実に国家の御大事、万事の成敗皆ここに卜すべく候へども、
俗情に拘はり姑息に安んじ候は、その害実に言ふべからず(橋本景岳綱紀)
法的安定性とか民意に阿ってはいかん。
我が神州を守るために、何が必要か、それが問題なんだよ。 赫々たる我が神州は、天照大神が天孫に命じ給ひしより、皇統一姓を無窮に伝え、
天位の尊さは、日月の侵すべからざるが如しであり、
易姓革命とやらで王朝が常に交代するシナとは根本的に違うんだ。
皇国日本は夷荻(シナ)に制せられる必要は全くないし、逆にこれを制してこそ日本(人)の本領だろう。
そういう気概を持たない衆愚に、この国の舵取りを任せるわけにはいかんのだ。 天下の為に立てさせられ憲法を、天下の為に改めさせられ候に、何の憚りあらんや。
平常の事は平常の法に従い、非常の際は非常の制を用ひ候事、古今東西の通義である。 松陰先生を攘夷派テロリスト呼ばわりする香具師らは、
反日左翼・中華主義の反安保・反原発運動家な訳で、
その頭悪さ&奸物度は、
河上・神代ら攘夷派テロリスト>>小栗ら売国奴幕閣>>(越えられない壁)>>それらの人々 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まあ、テロを起こしたわけではないし、テロリストじゃないかもしれん。
テロリストたちを先導したのは事実だが、直接的に命令しうる立場じゃない。 >>309
将軍殺すから武器貸せと言ってるのだから立派なテロリストだよ
おまけに暗殺要員の調達まで依頼してるんだからきわめて悪質な教育者でもある
松陰教育者説を唱えてた研究者って馬鹿じゃないのか
どこの教育者が暗殺要員の調達を依頼するんだよ 松陰は江戸護送の最中に長州藩によって殺害されるのではと疑っていた。
一方、井伊直弼は松陰処刑の前月9月中旬には「水戸一条」も落着したと認識し
茶会など催しているので、松陰に対する尋問の態度が急に変化した10月16日頃は比較的平穏な状況。
老中評議で専断できたわけでない井伊直弼が松陰の極刑を決定したと考えるのは無理がある
特に間部詮勝の威勢がよく、井伊は松陰江戸到着前に辞任の意向を伝えるまでになってる 井伊にとってはその後始まる勅書返納問題のほうがウェイトがはるかに大きく、
10月頃にたかが梅田雲浜の知り合いのたわけた一囚人の相手をしてる余裕なんてない
それにしても、松陰って研究が進めば進むほど残念な頭の人よね…
松陰の独自性とか言われてたものって、ほぼ水戸の直輸入だし
どれだけ洗脳されやすい人なの >>313
その、水戸からの輸入物件でさえ、幕府の新方針(阿部)の後追い、二番煎じのものが大半だっただろ
見識の独自性と優秀性が否定されたら、残るは。 >>310-314
吉田松蔭は単なるアホなのか?
でもよ、そのアホの考えを広めようとする奴らは社会の害悪だな 松陰の家紋カッコイイな。
強そうでワクワクしてくる。 >>311
ぜんぜんちゃうぞ
弟子達は寧ろ師匠をある種の反面教師的にも見てた
司馬遼太郎の雑記でも
先生があれだけ堅物で潔癖なのに
弟子達がその部分を全く受け継いでないのが面白いってあったけど
だから思想で固まるというより、寧ろその括り(固定概念)を取っ払った事が大きい
これって実は権力側からは非常にやっかいなんだよね >>319
いや、確実に影響されてる。
久坂玄瑞は若干割り切った面もあるらしいけどそれでも世界観は受け継いでるし、
高杉晋作とかは心酔。 影響はされていても、ちゃんと自分の中で取捨してるから
先生の事は好きだが言いなりになってないのが、弟子達が成功した要因だよ
霧がかかったような状態で、道標だけ示してくれたら
歩くのは自分達自身だから
その後は自分達で判断して歩く、つか、歩いた
だいたい、弟子が先生に血判状を送って自重を求めるってのがw
いかに、松陰がエキセントリックな人だったのかがわかる >>321
この分析が参考になるよ
「たしかに久坂はその意見書や書簡の中で海外雄飛論を記している。
朝鮮・満州・広東・ルソン・インドからアメリカ・ヨーロッパまで自由に往来し、
諸処に官邸を建て兵士を置くべしと(廻瀾条議)。しかしこれは空疎な観念論であり、
現実的な政策目標と言えるものではなかった」
「文久元年6月22日の入江九一宛書簡で久坂は長井批判を詳細に述べているが、
その中で航海遠略は師・吉田松陰の説であり当然と述べている。
しかしそれは日本が台湾・ルソン等を要害として西洋夷狄を防がねば患害の根は断てない、
という軍事防衛的論理から来ているものであった。
外国との非軍事的で日常的な交流という視角、開国論にとっては不可欠の視角が久坂には完全に欠けていた」
「久坂にとっての神聖空間である日本を外の汚れから遮断する、こうした内向きの志向が彼の外交論なのである。
こうした中に彼の海外雄飛論を置けば、それが列強の圧迫を受けている事実への観念的な反発であり、
空疎な修辞であることが明らかになるだろう」
「そして即今攘夷は…開国への手順ではなく、文字通り夷狄を追い払う戦争であったのである」
(「文久二年の政治過程」高橋秀直)
廻瀾条議に記された朝鮮から満州、ルソンに至る進出という妄想が松陰のそれだったことは言うまでもない
順調な洗脳だね 間に乗じてカムチャッカ・オホーツクを奪ひ、琉球に諭し、
朝勤会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、
古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、ルソン諸島を収め、
進取の勢を漸示すべし
恐ろしいことに、この松陰の誇大妄想的構想は明治以降の官僚・軍人も幼少期の教育で影響を受けたりして
そのまま日本の国家方針になっていく。 つーか、そんなの松陰以外でも普通に考えてた事だから
あまりにも普通 >>324
松陰以外の人は同時に外国の文明の導入や近代化にも触れてるんだよ。
そうしないと「海外雄飛」すら不可能だから。
だから松陰や久坂の軍事だけで構成された海外雄飛論って、
国内改革を前提とする長井のそれとは似て非なるものなの。 伊藤博文直話に出てくるな
晩年の伊藤が言ってた
あの当時にして長井雅樂の言ってた事はそう間違ってなかった ルソンやカムチャツカへの進出を想定するなら、
当然、造船・製鉄と言った産業振興が必要になるしそれには外貨獲得も必要
結局は通商の是認も必要になるが
松陰や久坂はその段階で抵抗するんだからただの空想。もはや大攘夷とは言えない 松蔭の主眼というか主題は攘夷じゃなくて、倒幕だと思うよ。
松蔭はおそらく日本で最も早く、徳川と江戸幕府に問題解決能力が無いことを見抜いた人。
どこで見抜いたかといえば、おそらく一回目の伝馬町投獄やろな。あれはほぼアウシュビッツ。
松蔭を語る時、攘夷とか対外政策は多分おまけ。
松蔭の功績というか事績というか実地は、倒幕運動。 >>328
>どこで見抜いたかといえば、おそらく一回目の伝馬町投獄やろな。あれはほぼアウシュビッツ。
どこが?
伝馬町のどこにガス室が? >>329
お前知らないの? 文政期の伝馬町は、年間収容者1,300人で刑死・牢死者1,200人。
安政期に伝馬町に入った松蔭自身も、日に三人の牢死人が出てるって手紙を弟子に書いてる。
全部記録に残ってる事だ。 >>330
だからどこにガス室があるのか聞いてるんだが?
中世の牢獄なんざどこも似たようなもの
何の罪も無い大量の人間が拉致されて拷問で虐殺され行方不明
正確な人数すら資料が証拠隠滅されていまだに判明しない方が時代も同じでアウシュビッツ並み 江戸時代にガス室なんてあるわけ無いだろ。虐殺の代名詞で使ったんだよ。バカなの?
>中世の牢獄なんざどこも似たようなもの
中世の牢獄はどこも似たようなものとかいうソース出してね
ちなみにもっと古いフランス革命時でもバスティーユ牢獄には7人の老人しか居なかったw
後段はただのバカ。具体的な数字も出せずに自分の妄想で多いと主張されても困る。
何人の犠牲者が何年の期間で出たかという事を推論でもいいから論拠を示して出さないと議論にならん。
まあそれとも数字の上でもアウシュビッツ並というなら、太平洋戦争の倍の人間を特高警察は殺した事になるなw 虐殺の代名詞で使いたいなら時代も違いガス室と強制労働と民族差別の象徴アウシュビッツなんか持ち出すのがバカ
単純な数字だけで比較するのもバカ
特高警察は理不尽な拷問虐殺であり証拠隠滅までして正確な数字が判明していないだけでも
裁きによる正式な処刑をしていた伝馬町より遥かに悪質 レベルが低すぎる。具体的な数字を聞いたら逆ギレかよw
しかもアウシュビッツをガス室と強制労働と民族差別の象徴と言っておきながら、特高に例えてるのはお前だけどねw
ああちなみに伝馬町の死者はそのほとんどが裁きに依る正式な処刑じゃない。
極悪な衛生面と過激な拷問が死因の九割以上だ。無知は恥ずかしいなw
レベルが低すぎてちょっと相手にならないな 吉田松蔭は拷問も受けてないし衛生面が悪くて死んだのでもない
吉田松蔭が道連れにした弟子が長州藩萩で入れられていた獄の方が衛生面でも最悪
その証拠に弟子は獄死
伝馬町だろうが萩だろうが当時の日本の獄は同レベル
つまり毛利長州藩にも問題解決能力は無かったでFA ブッブー。
伝馬町での拷問は自白を取るために行うものであり、自首した松蔭が拷問されなかったのは当然である。
また松蔭が入れられたのは伝馬町牢屋敷の揚屋という身分の高い者が入れられる牢屋で衛生面は良かった。
最悪だったのが庶民が入れられる大牢で三十畳敷ほどの部屋に百人以上が詰め込まれた。牢死者の殆どはここ。
金子重之輔は身分が低く大牢に入れられ、それで体調を崩してしまったと松蔭は手紙を残している。
さらに言えば伝馬町牢屋敷は拘置所的な機能を持つ場所。例外を除き、長くても数年しか滞在しない。
長期間収容される者は殆ど居ないにも関わらず伝馬町は大量の死者を出したことになる。
翻って萩の野山獄は刑務所機能があり、数十年囚われた者もいたが衛生面での牢死は少なかった。
結論。お前はただの無知。もう少し勉強してから書き込まないと恥をかき続けるだけだぞ。 ただ最後の一文だけはピンポーンだな。毛利長州藩に問題解決能力はなかったのは事実。
だから松蔭の弟子たちは自らの手で諸隊を率いて決起し、最終的に問題を解決したわけだな 岩倉獄の話を野山獄にすり替えるお前が恥知らず
地元長州藩のアウシュビッツ獄すら改革できず弟子を死なせた吉田松蔭に何もできなかったのは自明の理 自分の無知と間違いは全部棚に上げて、人のミスだけ取り立てるクズがいるなw
だから松蔭は書いてるじゃん。幕府も長州もいらない。自分一つの体があればいいって。
その意思を汲んだ弟子が諸隊でやったのが明治維新。長州長州言ってるお前は最初から的はずれなのw
高杉山縣らは決起した時は藩主が出て来ても撃ち殺す覚悟をしてたの ただのカルトテロリスト集団だからなw
主従の恩なんかどうでもいいのが長州w 長州藩も幕府もアウシュビッツやってたって自分で行ったくせにw
それに反抗したら主従の恩なんてどうでもいいカルトテロリスト集団てw
やっぱただのバカか ああ、最後には全部論破されて何の反論も出来なくなって誤字を指摘して終わりましたとさ。
どっとはらい 論破されたのは
幕府伝馬町獄をアウシュビッツにたとえたら
長州萩の岩倉獄も伝馬町と同じレベルだと指摘され
誤字までやらかすほど火病起こしたお話にならないバカ まだいやがったのかwじゃあお前の例えた特高警察=アウシュビッツとか
岩倉獄=アウシュビッツとかいう低レベルのソースを持ってこいよwあと中世の監獄はどこも一緒とかw
一個も論拠示さず言いっ放しは気持ちいいだろうけど、横から見れば単なるバカだぞw
何の反論もできないバカであることをまず知ろう 不衛生な牢獄で獄死しているんだから長州の岩倉獄も幕府の伝馬町獄も同じだな。 吉田松蔭もまずは身分で天国と地獄ほど待遇に差のある野山獄と岩倉獄の差別を無くして改善させるようすべきだったんじゃ?
従っただけの弟子がアウシュビッツみたいな不衛生な牢獄で獄死したんだから
申し訳なさから幕府より先に長州藩なんかぶっ潰すべきだと
幕府より先に長州藩主暗殺からが順序だろ 結局自分の出した論のすべてに論拠を示せず逃亡したかw
まあ無知は黙って引っ込む位の分別は付けられたのかなw 論破されても居座って勝利宣言とかw
2chも緩くなったなあw
特高がアウシュビッツと言うおばかさんは小学校からやり直そうね コイツが何故悪名高い特高を庇うのか謎・・・。
まさにゲシュタポだろ。 もうここまで来ると哀れさを通り越して存在価値すら危ういな
アウシュビッツとゲシュタポは違うもの
ああそうか、この二つを区別する脳みそがないのか
それなら言っても仕方ないな まさに
という日本語を知らない在日か
理解する脳みそが無いんだな なんかほんとに哀れになってきた
まさにも何も、特高をアウシュビッツにたとえた事を10ぐらいのスレで忘れてるんだから
あれか記憶ができない系の障害の方か
だから論破された事すら認識できないのか
かわいそうな人だな >>328で
>おそらく一回目の伝馬町投獄やろな。あれはほぼアウシュビッツ。
とたとえた事も忘れ
アウシュビッツと伝馬町獄は違うもの
という区別する脳みそが無い
記憶力が不自由な哀れなかわいそうな障害者 伝馬町がアウシュビッツだなんて新説初めて聞いたわ
しかも松陰は門弟の高杉らを通して金、筆紙、書籍なども差し入れてもらってるし
牢番にも親切にしてもらってる、だいいち揚屋入りそのものが老中暗殺計画なんて自分から進んで自爆したから送られたんだろ
函館戦争の幹部たちが放り込まれた辰の口なんて松陰より酷いぞ
松陰はまだ身分別だったが辰口は殺人強盗とかやった奴との雑居房だったからな
もっとも彼らは金なんか差し入れるまでもなく他の囚人が驚愕して牢名主になってしまったが >>328
>松蔭の主眼というか主題は攘夷じゃなくて、倒幕だと思うよ。
アウシュビッツお前無知もいい加減にしろよ
松陰は安政期に論争してるが倒幕論には積極的に与してない
徳川氏を倒しても代わりに足利尊氏が台頭したら何にもならんという立場だからだよ
だから松陰はあくまで幕府に諌争して朝憲に従わせることにこだわった
そのために間部や水野忠央らの暗殺の計画は立てたがこれは「君側の奸」を排除するというオーソドックスな方法
藩に投獄されて自暴自棄になった最終盤以外はあくまで政道の誤りを正すという立場 >>328
>松蔭を語る時、攘夷とか対外政策は多分おまけ。
>松蔭の功績というか事績というか実地は、倒幕運動。
嘘つけよこのクズ
松陰は論争ではっきりと尊王絶対主義への転向を表明している
松陰的にはまず尊王で、天皇が攘夷意思を持ってる以上は攘夷なんだよ
松陰は倒幕なんて考えてない、絶対者である天皇の言うことを聞かん幕府の奸物を叩き斬れというに過ぎない
倒幕なんて発想が出てきたのは幕臣からも大政奉還論の原型が出てきた文久からで、
それも武力討幕ではないからな >松蔭はおそらく日本で最も早く、徳川と江戸幕府に問題解決能力が無いことを見抜いた人。
>どこで見抜いたかといえば、おそらく一回目の伝馬町投獄やろな。あれはほぼアウシュビッツ。
ついでにこれも無知の極みで、スレでとっくに指摘されてるが
松陰は第1回、第2回、第3回の尋問(10月上旬)までは楽観的なんだよ
自分の建白を評定所の役人がかなり好意的に聞いてくれている、建白が嘉納されるだろうと思って
だから自分の運命についても「遠島か、他家預けか、国元押し込めか、まあ遠島はないだろw」と超楽観してる
10月16日の第4回の尋問になって急に役人の態度が変わり
「まったく僕を騙した」と地団駄踏んで悔しがってたのはそのあと。
処刑を言い渡された時も世古格太郎の唱義聞見録では
「吉田は死刑を言い渡されるとは思ってなかったのか実に無念の顔色であった」
と記されていて感情的に整理が出来てなかったことが窺える
(※もっとも松陰はこの段階では死罪を予想してたはずだから「裏切られた」と思いこみ悔しかったのだろう)
世古は同囚だから嘘を書く必然性は何一つない
要するに10月上旬までは楽観的だったからこそ「実に無念の顔色」だった松陰が
「進んで老中暗殺奸臣排除の建白をして当然に揚屋に送られて、そこの環境が劣悪だったから幕府を見切った」
なんてのは明白な間違いだし、それじゃ松陰はただの馬鹿じゃねーかw
いくら馬鹿でも牢屋が汚いから絶望するような馬鹿じゃねえよ
松陰的にいえば違勅問題で騒いで藩に野山獄に投じられてた時のほうがよっぽど絶望的になってたのは書簡類ですぐ分かるんだが
野山獄に入ってた時はこのまま何もできずくたばるのかと思ってたから、
江戸に護送されると知った時はむしろ喜んだんだぞ馬鹿が うわーw バカがいっぱい釣れてるなw まあめんどいから近いやつから論破してやるかw
>>364
お前は読解力が小学生以下。松蔭の刑罰がどうのなんて書いてない伝馬町がどんな場所だったか書いただけ
頭すんげー悪いなーw コミュ症だろw >>363
お前もまったく読解力ないなw功績で事績で実地と書いてるだろw
松蔭が攘夷やった事績があるなら書いてみろやw
ああ、あれか。留学するつもりじゃなくて実は異人を斬るつもりだったとかいうヨタでも出すのかなw
お前も頭が悪すぎ >>362
これも同上だなw もうちょい読解力から鍛えろよ。
自分の都合のいい情報しか頭に入らないのはビョーキ >>360
少し上のスレを確認する頭がないのかい? その辺の事情はもう書いているよw
>>359
もう字も読めない奴は相手するだけ無駄な気がしてくるぞ
虐殺の代名詞で使ったってちゃんと書いてるだろ?字を読む練習しなよ
まあ江戸時代にガス室云々言う常識じゃ無理か?w しかし改めて見てもすげーなここは国宝級の釣り堀だなw
暇な時は相手してあげるよ アウシュビッツ364に反論できず
松陰自身の言動だから反論しようがないよなw >>372
頭の悪さもここに極まれりだよな
一回目の投獄って書いてるのにそこにわざわざ二回目の投獄を書いてどうするんだw
自分の処遇が絶望的になることと、伝馬町の惨状と、江戸幕府への批判は別物だ
まあバカだから全部同じって思ってるんだろなw
昔の2chはこんなバカすぐに排除されてたけど、頭のいいのは全部snsとかに流れてるな
今はこんなバカしかいないw そもそも伝馬町牢獄、特に松陰が居た牢は書き物も出来アウシュビッツなどとは比較にならない
つまり>>328は完全に否定された
>松蔭の主眼というか主題は攘夷じゃなくて、倒幕だと思うよ。
>松蔭はおそらく日本で最も早く、徳川と江戸幕府に問題解決能力が無いことを見抜いた人。
>どこで見抜いたかといえば、おそらく一回目の伝馬町投獄やろな。あれはほぼアウシュビッツ。
>松蔭を語る時、攘夷とか対外政策は多分おまけ。
>松蔭の功績というか事績というか実地は、倒幕運動。 >>374
だから虐殺の代名詞だって何度も書いただろw
大牢と揚屋の違いも既に書いてる。その上で松蔭が伝馬町の惨状を見聞した事も書いた。
論破されて涙目な上に字が読めないバカは消えろよw 松陰は牢獄の環境(しかも庶民よりは恵まれてる揚屋)を見て絶望して討幕を決意したのか
すごい新説だな
外国の脅威より汚い牢屋のほうが重大問題だったのか
それ志士と言えるのか? 伊豆で捕縛された松陰を取り調べた役人・番人はおおむね同情的だったし、
江戸の北町奉行所での尋問も留守役松浦安左衛門が尽力してくれたので金子ともども感謝していたのだし
伝馬町獄でも同囚はおおむね同情的
下田渡海一件に関しては松陰は厚遇されてたと言える(むしろ象山のほうがトバッチリで大変だった)
連累者についても肥後藩は宮部鼎蔵を庇ってるが幕府はそれを黙認してるし相当恵まれてるよ >>376
反論できなくなると現実のほうを曲げにかかるバカw
伝馬町は汚い牢獄程度ではない。
年間千人以上を収容し、九割方を裁判にかけず牢死させた大虐殺の場所。
そういう現実を弁えないで汚い牢獄とかアホだなw >>378
松陰が伝馬町獄にいたのは4か月くらいだぞ
それも密航は取調官が同情的で供述書整えてくれたり寛典が予想されてたとはいえ
本来は国禁破りで原則死罪なんだから何が虐殺なんだよ それに伝馬町獄についての知識もずいぶん偏ってるんだが、
あそこは判決が下った者も収容されてる施設だから刑死者が出るのは当然なんだぞ
火事のときに解き放ちをやってたから高野長英が火を付けさせて逃げちゃったのは有名だろ
一体何をソースにアウシュビッツなんて思い込んでるんだ >年間千人以上を収容し、九割方を裁判にかけず牢死させた大虐殺の場所。
これどこソースなの?
1000人は多いときで普段は300人程度だろ
未決囚は当然判決が下るから死者には刑死者も含まれる
永牢を申し付けられた者は当然刑期中に没するものもいる
それも含めて年間でならすと数十人程度だぞ犠牲者は
未決既決や無罪推定が働かず劣悪な環境なのはどこの牢でも大体同じようなもの
それにしたって収容者の9割も死ぬような施設では全然ないわけだが何を根拠にそんな妄想してんだ >>379>>380>>381
無知は怖いねー。江戸しぐさを信じてる奴と変わらないなw 平松義郎の『近世刑事訴訟法の研究』を読みましょうね
この本は伝馬町入牢者に発行される御証文引合帳について可能な限り収集分析したおそらく唯一の資料。
文久時の年間収容者数は約1,300人 内処刑は100人程度だが牢死は1,000人を超えると明記されている。
江戸幕府が正式に発行した書類をソースにしており完全に信頼できるもの。
さらに安政期の松蔭が書いた手紙にも大牢からは一日に三人の死者が出ていたという記述があり裏も取れる。
ちなみに慶応時には年間死者が2,000人を超えたって記載があったりするからなw
江戸幕府はおまらの信じてるような妄想の産物じゃないんだよw それ、裁判が終わる前に病死する率が高いだけじゃないかとも思うんだが
とはいえ、裁判が終わる前に死ぬ率が8割越えと考えるだけで十分に異常ではある。 >>382
お前が未決の9割殺されたとか、松陰が伝馬町獄を見て討幕を決意したとか、
意味不明な珍説がどこから出てきたのかどうもおかしいと思ったら、
半世紀前の平松博士の本を読んだわけじゃなくてこれをソースにしたんだろ?
お前の言ってることと酷似してる。
ttp://inzainewtown.blog.fc2.com/blog-entry-1901.html
↑
これにも幕末期(文久・慶応)の特殊事情が述べられてるが
宣告刑の決定には老中評議が必要で、処理件数に限界がある
(だから井伊直弼が独断で松陰の刑を決めたというのは俗説)
しかし情勢不穏(攘夷浪士の蜂起が頻繁に発生)などで特に安政期頃から逮捕者・未決囚が急増し
(当然武士身分や浪士の逮捕者以外に、増えていた百姓一揆なども含む)
施設は急に増やせないから牢内の環境が劣悪化し、慶応期に獄死者が続出してるんだよ。
本来なら軍事裁判所の辰の口で函館幹部などが強盗殺人など一般刑事犯と雑居してたのも、
一言でいえば当時の情勢不穏に発端する過剰収容の問題。つまり幕府の問題というより社会情勢の問題。
それが一時的要因であることもまさにお前の言う「御証文引合帳」ではっきりしてる。
というのはそれ以前は数十人程度で推移してた獄死・刑死者が
100人を超えるまでに増加したのは文政期に入ってからだと分かるからな。
ついでに言うとこれ刑死者の推定については完全な私見だし、
ことに松陰については相当デタラメな記述だぞ。
なぜなら松陰書簡を見る限り伝馬町獄入獄中を含む期間、取調の役人や同房者は彼に同情的であり、
特に松浦安左衛門は供述をうまいこと書いてくれたのを金子ともども感謝してるのがはっきり分かるからな。
さらに松陰が井伊直弼を尊敬していたのは「強引なリーダーシップがあったから」ではなく、
当時、井伊直弼の藩政改革によって彼が名君と認識されてたことにあったのだからはっきり間違い。 アウシュビッツのおかげで思わぬ法制史に話がズレてしまったが
とりあえず話を戻すと
・松陰は牢屋を見て討幕を決意したわけではない
・松陰はそもそも倒幕に懐疑的
(彼は基本的に安政中期まで諌争論。安政5年に国元で投獄された頃から情緒不安定になってくるが密航事件の頃は全く違う)
・まず「倒幕」じたいが具体的な構想たり得ていない
・松陰は尊王絶対主義で、攘夷論は尊王論から出てきている
留置場を見て討幕を決意したとか駄法螺吹いてるとアホかと思われるぞ。 >>383
だから端的にいえば過剰収容の問題で、
しかも年間牢死者1000人とかいうのは安政から慶応にかけての時期。
幕府が監獄問題に手が回らなかったのは事実だが、
べつにそれを統治能力の問題と結びつけて考える必要はない。
というのは明治政府も辰口牢獄問題に見るように過剰収容問題を解決できてないから。
むしろ内乱時の混乱で松陰の時代よりさらに酷くなってる。 >>382
無知は怖いねじゃなくて、
無知なのは伝馬町獄の入牢者(既決含む)が急増したのが江戸期終盤になってからなのも知らず
「ならすと」平均数十人とわざわざ書いてやったのに気付かないお前だよ。
260年間で平均数十人なら江戸時代通算で獄死者は数万人程度。まさに推計と一致する。 付け加えると文政期から過剰収容問題が発生したのは治安の悪化ももちろんあるが、
内済による社会的制裁が機能しなくなり裁判による公的機関の制裁に移行する例が増えたため。
それまで各自に任せてた刑罰機能を幕府が一手に背負う形になったのだから当然処理案件は増加する。 >>384
>一言でいえば当時の情勢不穏に発端する過剰収容の問題。つまり幕府の問題というより社会情勢の問題。
だから江戸幕府は地元の治安すら維持できないクソ組織ってことだろw
それを見聞した松蔭が倒幕に傾いてもなんら不思議がないっていってるだけなのに何を必死に擁護してんの?w
>>385
事績の話をしてんだよw 日本語読めてますかw
松蔭がやった攘夷の事績を出せよw
>>386
>幕府が監獄問題に手が回らなかったのは事実だが、
>べつにそれを統治能力の問題と結びつけて考える必要はない。
バカかよw 年間2000人も死者を出すようになっちゃ統治能力疑われて当然じゃねーかw
お前も現実見ずに何を必至に擁護してんだよw
>>387
論破されると言葉の端々に拘るバカw >>388
それつまり江戸幕府は統治能力も問題解決能力もなくしましたって結論になるぞw ああそれからならすと平均数十人って資料を出せるもんなら出してみろよw
確定したソースに基づいたそんな資料見たこと無いがなw あと初期の明治政府が云々言ってる奴もバカ。
制度を整えるまで時間がかかるのは当然の事。
ちなみに江戸も開府当時は数千人処刑したって資料もあるからなw
まあバカにそういう難しいことも求めても無駄かな >>392
お前まだ松陰が牢屋に怒って倒幕を決意したとかいう珍説を並べるつもり?
江戸期の公事は近代刑法と違うんだから公的機関が認知し処理する件数(必ずしも犯罪件数と一致しない)
が安政期に入って急増し、一方の刑事収容施設が特定の場所にあれば過剰収容問題は発生するのが当たり前だろ。
今よりはるかに小規模な予算で運営されてるし、土地の自由売買自由利用が認められてるわけでもない。
それに明治期のデータも取ってみると、宣告刑で文久〜慶応初年あたりで死刑は30〜60件だが、
明治に入ると3〜5年あたりに実に20倍に跳ね上がって1000人超えてるんだぞ。
つまり明治政府は過剰収容問題をそれまでの江戸期のペースからは想像できないような厳罰主義で解決してるんだが もうこれ以上の議論は無駄だな。
過剰収容が統治能力の欠如を示すというなら現代日本は20年前よりはるかに統治能力欠如してる勘定になるが、
凶悪犯罪の発生も人権状況もはるかに改善されてるだろ。 >>389
じゃ年に1000人の獄死者出す代わりにそれまでの30倍もの人間の首切る政府はもっと統治能力が欠如してるんじゃない?
未決が結果的に獄死するのは宣告刑の段階では少なくとも慎重に処理が行われてるからすぐ処理件数が増やせないという謙抑的な姿勢を示すけど、
未決は施設問題で変わらないうえに死刑の宣告件数が1000件に達したらそれは恐怖政治以外の何物でもないだろ。 >>393
で? アンタはまだ現実を見ないつもりかいw
御託を様々並べても、江戸幕府が時代の流れについていけず何万人の無辜の民を裁判も行わず殺した事実が揺らぐのかね?
明治期の話を持ちだしてw 俺がしてるのは松蔭の話だがバカには区別が付かないのかな?
仕方ないから付き合ってやるが、新しい政府が誕生した時には刑死者は増加するのは仕方のないこと。
厳罰主義は意味不明w 江戸幕府が殺ったのは厳罰主義ではなく裁判も行わず刑死させる虐殺。
更にその厳罰主義の中身は一体何か調べてから言ってるのか?
明治期には叛乱事件が多発してそれらは裁判され斬首されてるけどね
ちなみに初期江戸幕府は島原の乱の四万人を虐殺する厳罰主義で解決してるなw >>395
政治の形態が変容する時にそれくらい死人が出るのは当然じゃん
明治政府に対しては幾多の叛乱事件があった。内乱罪が死刑なのは当然で世界中そうだよ。
上にも書いたけど江戸幕府は島原の乱で老若男女の区別なく四万近い住民を処刑した。
それと比べても、まだ明治政府が恐怖だというならやっぱバカだな >>391
その前にお前「御証文引合帳」が同書に文久2年から慶応元年の4年分しか載ってないのは知ってるのか?
江戸時代を通じて処刑者は分からんとご本人が言ってるんだぞ。 >>397
じゃ明治初年に50人程度だったのが明治3年から1000人超えてるのはどう説明するんだよ。
明らかに厳罰主義に転じてるからだろうが。それから後もしばらく幕末期の30〜60人の10倍くらいの宣告刑が続くんだぞ。 >>394
バカを一匹見逃していたなw
過剰収容と環境の劣悪化による裁判前の牢死を同一視する頭の悪さをどうにかしてほしいなw
それとも今の拘置所でも九割が死んでるとか言うのかなw バカだからいいそうな気もするなw >>396
この議論を松陰スレで続ける意味があるかどうか知らないけど、
まず松陰が刑務所問題に怒り狂って討幕を決意したとかいうアホ丸出しの主張は取り下げろ。
さすがに笑う。
無辜の民って発想じたいが近代刑法のそれであって、
江戸期の刑事法は自白の獲得が基本な上に無罪推定の原則もない
だからこそ内済による社会的制裁で刑罰の機能を代替させてたんだから
それがなくなれば幕府が扱う未決囚は急増する、急増しても獄は1か所しかないから、
文政期程度の増加ならともかく安政期に入るとさばききれなくなり過剰収容問題が発生する
現代ですら代用監獄問題や過剰収容問題が発生しても何十年経っても手を打てないのに
明治期だって刑事法は実は江戸期よりあいまいになってるんだぞ。江戸期の刑法廃止した後で法の欠缺が発生したからじゃんじゃん死刑が執行されてるし、
13年になってやっと法律顧問の指導で治罪法が出来たくらいだからな。 >>398
>その前にお前「御証文引合帳」が同書に文久2年から慶応元年の4年分しか載ってないのは知ってるのか?
これ間違いだからw 隔年だけど残っててちゃんと本にまとめてあるよw
バカは本を読んでから質問しましょうねw
あと俺が問題にしてるのは松蔭の見た幕末の伝馬町の惨状だよw 話をあんますりかえんなw
>>399
こいつもまためんどいな。俺が言ってるのは松蔭の見た伝馬町なんだよw
初期の政府が厳しいのは当たり前だって言ってるだろが。
GHQと極東裁判所でさえ1,000人以上に死刑宣告しただろが。
その一員のソ連に至ってはシベリア抑留で五万以上殺してるんだぞ。 >>400
スペックを超えて収容されてるんだから過剰収容問題だろ。
明治期だって監獄の公衆衛生問題が改善されるのはかなり遅くなってから。
松陰が伊豆で逮捕された時も半畳程度しかあてがわれてないんだぞ。
今より公的制裁にかかる処理件数が少ないし、200年くらいそれでやってきたのだから、
刑事施設なんてその程度。
ましてやアウシュビッツとか…馬鹿じゃねえのとか言いようがない。 >>401
やっぱばかなのかなあ……ちゃんと文字が読めてない。
松蔭は怒り狂ってじゃなくて、江戸すら統治困難な江戸幕府を見限ったって言ってるんだよ。
過剰収容で数千人が死亡する問題すら解決できないのが江戸幕府なんだよ。
あと現代云々は馬鹿過ぎるw
過剰収容は問題だが、大量の死者が出るのとはまるで違うw
まあバカだから区別付けられないんだろなw
明治の話はしてないって、何度言ったら分かるのかねw
まあ江戸幕府の無能さを擁護できない論点ずらしだろうけどさw >>402
だから特殊事例だった安政期の伝馬町獄を松陰さんが見て討幕を決意したというのなら、
さっきから何度も聞いてるじゃないか
「松陰が牢屋を見て討幕を決意したという珍説をまだ主張する気か?」と。
答えがイエスならお前は独自にスレを建ててアウシュビッツとの比較をやってればいいんだよ
どの松陰研究者に聞かせてもそんな説唱えてる奴は皆無だから。
大体幕末の史料じたい4年分しか残ってなくて、著者自身が処刑の実態が分からんと言ってるものを、
相手しててバカバカしくなってくるわ。 >>403
やっぱバカだなw
現代の刑務所の過剰収容=未決勾留者数千人の死亡がお前の中では同一なんだなw >>405
お前、平松義郎の『近世刑事訴訟法の研究』を本読んだの?
ちゃんと中期や前期についても隔年だが資料は残ってて収容者や刑死者についてもキッチリ記述があるぞw
それに俺の話してるのは松蔭の見た牢獄であって初期中期の江戸幕府じゃない。
ホントばかだよねw >>402
だから他のは隔年しか残ってないから
幕府刑政の実態では文久慶応を分析対象としたうえで処刑実態が分からんと言ってるんじゃん。馬鹿なの? >>407
お前は平松の同書どころか松陰の書簡類も読んでないだろ。
少なくとも伝馬町獄をアウシュビッツとかどこをどう突っ込めばいいんだよ。
刑事法や法制史もろくにやってないだろ。 >>407
だからさっきから聞いてるんだが
「松陰は幕末の過剰収容問題を安政の最初の入獄で見て討幕を決意したのか?」
という質問への答えはどうなってんだよ。
まさかイエスとかいう気じゃないだろうな。それ完全に否定されるからこれ以上主張するならネタスレでも立てろ。 >>408
意味不明。なんで隔年で残ってる資料が役に立たないわけ?
しかも最も多い死者は処刑じゃなくて未決囚の牢死なのにw
それに問題は幕府の形政じゃなくて裁く前の収容所の問題なのに
頭悪すぎ >>409
読んでるよw 読んでないオバカさんはお前だよw
俺が書き込む前まで、伝馬町の惨状も知らなかったのはお前だろw
アウシュビッツは大量虐殺の代名詞で使ったって何度言わせれば分かるんだよw
字が読めないのかよw
>>410
だから何度も言ってるだろ。
大量の死者を出す伝馬町の惨状を見た松蔭が、幕府を見限った可能性があるって。
九割が裁判も受けられず死亡する牢獄を見て何も思わなかったとは考え辛いって言ってるだけだ。
バカなのかよw >>406
お前は単に近代の刑事法の感覚で江戸期の刑事の実態を論じてるから
「過剰収容」が江戸期に発生してることが理解できないんだよ。
いずれにせよ明治期に入っての死刑宣告数の激増を見れば、
明治政府は法の欠缺を利用した徹底した厳罰主義によって施設の不足の問題を「解決」したことが分かる
それこそお前が大好きなアウシュビッツがユダヤ人問題を「存在の抹消」によって解決したようにな。
ともかく松陰が刑務所に怒って倒幕を決意したとか言ってる奴とまともに議論する気が起きないんだが…
アウシュビッツを笑われたのがそんなにむかついたのかよ
でも誰でも笑うけどなw >>413
>大量の死者を出す伝馬町の惨状を見た松蔭が、幕府を見限った可能性があるって。
>九割が裁判も受けられず死亡する牢獄を見て何も思わなかったとは考え辛いって言ってるだけだ。
それこそお前の主観だろ。何だその手前勝手も甚だしい結論はw
松陰は諌争によって幕政を変革しようとすることにこだわったのは前述のとおりだし、
だいたい安政期の入獄で牢屋問題で倒幕論を展開するようになったなんて仮説は、
書簡を分析しても全く荒唐無稽。 >>415
>明治政府は法の欠缺を利用した徹底した厳罰主義によって施設の不足の問題を「解決」したことが分かる
>それこそお前が大好きなアウシュビッツがユダヤ人問題を「存在の抹消」によって解決したようにな。
だからお前はアホなんだよ。過渡期に処刑が増えるのは自然だって何度言ったら分かるのw
もう字を読めないやつを愛艇にするのは辛いよw
明治政府はその後刑法を制定して裁判前に大量の死者を出すようなことはしなかった。そんだけだ
>アウシュビッツを笑われたのがそんなにむかついたのかよ
むかつかないよ。ただお前らの江戸しぐさ信仰を笑ってるだけだw >>411
だから未決囚の獄死は過剰収容によって発生したものであり、
その過剰収容も犯罪発生件数の増加を必ずしも意味しないし
幕末の宣告刑が数十人程度なのに対して明治政府は1000人以上に死刑宣告してるから、
過剰収容問題はおそらく引き継がれたまま宣告刑においてもとんでもない厳罰主義なんだよ。
そして伝馬町獄だけでなく他藩の公事を見ても大して状況は変わってない。 >>417
ところが過渡期の処刑の増加では説明がつかないんだなこれが。
戊辰戦争のあった明治初年にやはり50人程度だった処刑数が明治3年から5年にかけて1000人以上に一気に跳ね上がり、
その後も年数百人の宣告刑ペースが続いている
要するに幕末の過剰収容問題を明治政府は片っ端から首切ることで解決してるんだし、
過剰収容についても国事犯を扱う辰の口に一般受刑者放り込むほど酷くなってるんだが。 伝馬町だけで入獄者の劣悪な待遇があったのならともかく
他藩でも続発する一揆の公事で似たようなことやってるからな。
少なくとも伝馬町獄はアウシュビッツではないし(むしろ手続を守ったがゆえに処理が遅れている)
ましてや松陰の幕府への態度とは何の関係もない。 昨日からこの騒ぎが続いてるけど
アウシュビッツと松陰となんか関係あるの
他スレでやりゃいいのに めんどくさいからコイツの言うことを前提にすると
幕府は激増する刑事裁判を真面目にやってたから結果的に獄死者が出たに過ぎないわけだよな。
それのどこが虐殺なのか全くのナゾだな。
刑務所を見て討幕を決意した論とかはもう論外だけど。 火事が起きたら解き放ちがあり、戻ってきたら罪一等を減じられるアウシュビッツって斬新だな
ずいぶん優しいなw >>418
犯罪発生件数の話なんて誰もしていないバカなの?
末期の幕府は捕縛した未決囚の大量死すら解決できなかったって言ってんの。
ちなみに五代将軍の綱吉は牢死問題を解決できてるんだがなw
あと明治政府の話はしてないのにw やっぱ頭すごく悪いよね
明治政府の話は知らないが版籍奉還とか廃藩置県とか
徳川幕府の領土とかちゃんと勘定して言ってるのか?
>>418
>要するに幕末の過剰収容問題を明治政府は片っ端から首切ることで解決してるんだし、
>過剰収容についても国事犯を扱う辰の口に一般受刑者放り込むほど酷くなってるんだが。
んで、その後刑務所作って問題を解決するんだろ? それでなんか問題あんの?
残りも似たり寄ったりで草 >>423,>>424
すげーなw 未決勾留者の九割を殺して優しい所かw 刑事裁判を真面目にやる→未決勾留者を虐殺するかやっぱバカは違うなw >>428
お前らホントおもろいよなw
伝馬町で大虐殺が遭ったって意味でアウシュビッツっていったら全員発狂して反論してくるんだもんw
それで肝心の幕末に毎年千人以上、捕縛された九割以上が死んでたとかまったく知らないんだから
バカの見本だよねw まだ言い張るかアウシュビッツ
松陰が書き物したり差し入れ要求したりしてる件についてはスルーか だから大牢と揚屋の違いを書いてるだろが。ああバカだから読めないのか。 差し入れ要求できる環境がアウシュビッツとかウケる〜 伝馬町がアウシュビッツなら極寒の地で強制労働を強いた樺戸集治監なんてリアルにラーゲリじゃねえかw 松陰が入ったのは揚屋なのに大牢に怒って倒幕とか言う糞バカ理論 >>429
収容人数に処理件数が追い付かず獄死者が出たというのを虐殺とは言わんよ。
即決裁判でジャンジャン首切るのは虐殺だろうけどな。 戦前・戦中に思想犯としておよそ7万人が検挙され、その内拷問死した人は194名。 獄死した人は1503人に上るといいます。 >>399
ええと、明治元年頃ってまだ幕末の状況の方が近くて明治政府の時代じゃなくないか?
明治元年正月の王政復古号令とかは、まだ新政府の始まるより以前じゃん。
明治3年4年あたりまでは倒幕内乱時代の延長だろ?
>>426
1300人の9割で1000人か、斬新な計算法だね
もともと江戸のような大都会は疫病による死亡率が高いんで、その街中より以上に環境が悪いってだけでも死亡率高騰は起こりうるだろ
江戸に働きに出た庶民の相当数が(伝染病じゃなく)脚気で病気療養に田舎へ帰るような時代、
帰ることができない立場の囚人や拘留者は伝染病以外にも致命的な病気に罹患する危険が高かったわけだしな。 アウシュビッツがキチ松陰ヲタの割に字間違えてて草不可避 バカだねーw 伝馬町を見たっていってるのに体験したに自分ですり替えるアホどもw
>>435
お前ホントおもろいなw 北朝鮮向きの人間だなw
>>437
な? どれだけ江戸幕府が酷いか分かるだろ。
その数字も徳川領の関東人口と戦前日本8000万人の対比だから救いようがないw
>>438
バカになりたくなかったら本を読もうな?
文久年間の死者は1200人以上って書いてあるんだよ。
いちいちめんどいから数字丸めてるだけ
>もともと江戸のような大都会は疫病による死亡率が高いんで、その街中より以上に環境が悪いってだけでも死亡率高騰は起こりうるだろ
ああつまり江戸は九割の人が死ぬ場所だっていいたいわけだなw すげえバカ
今日もバカばっかw 今日の一番のMVPバカは裁判を殺らずに牢屋に入れたまま殺しても虐殺じゃなくて、裁判して処刑なら虐殺っていう奴にしとくわw また今日も誤記指摘しかでしか反論できませんでしたかw
まあバカが文字を読めるようになっただけ進歩だから褒めとくよw >>440
自分の読解力の低さを人のせいにするなよ。それとも曲解の癖が抜けないだけか?
普通の人なら病気療養のために田舎に帰るところを獄につながれてたら帰れないから病死に直結しかねないだけなんだが。
江戸での脚気発症率の高さ、脚気療養のための帰郷の多さ、その上での脚気死亡者も少なくない
まあ、帰る田舎がない人も少なくないから療養に帰れなくて死ぬってとこかもな
それ以外にも伝染病も多くて、倒れる人は多かった。
近郊農村と江戸では平均寿命が明らかに違うって程度には、成人の死亡率が高い。
>その数字も徳川領の関東人口と戦前日本8000万人の対比だから救いようがない
(横レスだけど)
あれ、吉田松陰って関東の人だったっけ? おかしいな アウシュビッツバカはwの時とwの時があるな
他で自演してきて直し忘れか 長州萩の岩倉獄でも松陰の弟子金子が劣悪な環境で獄死している
奇兵隊の被差別部落隊員らは名札差別を受けた末に差別リストラ
抗議したら斬首
岩倉獄はアウシュビッツで長州はドイツナチスだな >>445
自分で曲解しといてそれを人のせいにされても困るんだよねw バカだから理解できないのかな?
綱吉の時代、伝馬町で牢死者が多発した時は将軍が指示して食事・衛生環境を変えて改善してる
吉宗の時代の一時期なんてほぼ牢死が根絶されてる。
つまり牢獄に入れても衛生管理ができれば、牢死者多数なんてことにはならないんだよバーカw
>あれ、吉田松陰って関東の人だったっけ? おかしいな
ああすまん。国事犯は幕府が裁くとか、自首した下田は天領だとか奉行所が置かれてるとか
それくらいの議論の前提知識だと思ってたが、お前らバカで知るはずないの忘れてたわw
他ももう内容で反論できなくなりつつあるのが哀れというかなんというか 哀れなバカは自分から死刑になりに行った吉田松陰とアウシュビッツ。 >>441
刑事訴訟法もない即決裁判での処刑って旧ソ連の粛清より酷いんだが… >>449
反論できなくなってるのはお前じゃね
明治以降の死刑宣告数を挙げられてからアウアウ状態だろ アウシュビッツの主張
松陰は恵まれた揚屋に入り差し入れを貰い手紙も自由に出せるし同囚のいじめもなかった
しかし刑務所問題に憤慨した
そのわりには小伝馬獄の待遇改善の建白一通すら出さず帰萩後もほとんど関心を示してないのに討幕を決意した
結論 松陰はキチガイ >>402
>GHQと極東裁判所でさえ1,000人以上に死刑宣告しただろが。
極東軍事裁判の死刑判決は7名だよ >>397
何か勘違いしてない?
戊辰戦争は明治2年には終結してるし、
内地での戦乱での責任者処罰なんて明治5年にはとっくに終わってる
明治3年から5年までって内乱罪での処刑が急増したわけじゃないよ
しかも宣告刑での死刑選択はその後も数百人という異常なペースで続いてる
1200人とか言う信じがたい水準まで達したのが明治3〜5年あたりというだけで江戸期に比べたら明治以降は凄いペースなんだぞ
これは明らかに一揆、集団請願などへの弾圧もふくむ厳罰化傾向
なぜそんなことになったかは一揆の発生率やその処理を見たら分かる
(明治になってから一揆はさらに増加してるし、その後いったん減少するが10年代に入って激増する)
江戸末期は慣例的に子供まで殺すことはなかったが武一騒動では子供殺されてる
つまり明治政府は徹底した弾圧に転じてるから死刑宣告数が異常な増加を見せてるんだよ
そして江戸期の刑法を廃止したうえ大逆の規定がなくなってしまったので
刑法に基づく裁判それ自体がないんだ。
ほぼ条理による裁判と処刑。 ↑がやや不正確だったので正確に説明すると
・謀反大逆条は置かれないから、処罰の根拠規定がない。
よって「内乱」に相当する人間は条理によって死刑を言い渡されるか、
ただし刑事法のルートに載せない(つまり殺害してしまう)ケースも相当あるから暗数となる
・一方で百姓や都市民の一揆・請願に対しては兇徒聚集罪により造意者に斬を厳格に適用する
・さらに同罪の従たる者でも殺人放火などを犯したら絞に処すると言う死刑の「幅」の拡大
つまり内乱の増加というより一揆の増加とそれに対する凄まじい厳罰、
さらにその厳罰傾向が一般犯罪にも反映されることで死刑宣告数が何十倍もにはねあがってるんだよ。
簡単に言えばひっとらえた奴を片っ端から吊るすか斬るかして強引に抑え込んでいってるのだよ。
江戸期のように刑罰の言渡の手続を守ってたらこんな異常なペースにはならない。 さらに付言すると、この年間1000人死刑宣告は新たな犯罪に対応するものであり
「溜まっていた未決囚」に対して下されたものではないから、刑事施設問題は未解決のまま、
いやもっと酷くなってる。
それが函館戦争の幹部たちが収容された明治2年の辰の口に一般重罪人が雑居してた理由。
松陰の頃と違って揚屋や大牢といった身分上の区別すら事実上ない。 おーおーw 今日も今日とてよくバカが騒ぐわw
>>451
だからお前は即決でも裁判をして殺すのは酷くて、未決のまま数万人を虐殺するのはおkなんだろ?W
もうバカというより人権を知らないカスだな。
>>453
ようやくまともな方のバカが出て来たが、バカはやっぱりバカだから添削してやる。
>松陰は恵まれた揚屋に入り差し入れを貰い手紙も自由に出せるし同囚のいじめもなかった
しかし『弟子の入れられた大牢では日に三人以上の死者がでており、弟子もこの牢獄で体調を崩した』
『松陰は未決囚の待遇改善すら出来ない幕府を見限るようになる』
>>452 >>449 >>455 >>456 >>456
だから何度も言わせるなよw 俺が問題にしてるのは伝馬町の惨劇が松陰の思考と事績に与えたか否か。
そこにお門違いの明治政府批判持ちだしてどうするw 別に明治政府が無罪だと言ってる訳じゃないのに。
バカって議論の訓練受けてないから被害妄想と自意識過剰でそういう論理のすり替えばっか得意だよねw
まあ付き合ってやらんこともないけど、初期の政権は厳罰傾向になるのはどこも一緒。多分理由はそれだけじゃないの?
お前らが初期明治政府を批判したいなら、初期の江戸幕府がどうだったか資料を示して教えてくれよ。
ちなみに初期の江戸幕府では山野永久が都合6,000人の罪人の試し切りを行ってるという資料がある。
また試し切り可能な死体は死因や身分で非常に限られるから、処刑の実数はかなり上になると予想できる。
プラス言えば明治政府が管轄した領域と江戸幕府が管轄した領域の比較や人口比の比較をする必要がある。
これらをソース付きで証明出来た上で、明治政府が江戸幕府に比して獰猛だったと結論付けられる。
バカじゃない限り、こんな基本くらいきちんと確認してから主張するだろうからさっさと俺に解説してくれ
初期江戸幕府の状況て結構興味あるからぜひ知りたいね。 >>454
それA級戦犯容疑者の中での死刑確定者だろ
B級C級の容疑者では死刑判決は多い
つか実のところ、A級戦犯容疑者の死刑確定者もB級かC級の容疑でゴリ押ししての死刑確定だったはず 松陰は
国のために命を捧げる志士を自称しながら
牢屋の待遇が悪いから倒幕をしました もし幕府が丁重にもてなしてたら幕府の犬になってたんだろうな
クズめ ここ最近に出回ってる合成写真みたいなのはぜんぜん似てない >>458
>『弟子の入れられた大牢では日に三人以上の死者がでており、弟子もこの牢獄で体調を崩した』
>『松陰は未決囚の待遇改善すら出来ない幕府を見限るようになる』
だからこの認識がそもそも間違ってるって。
松陰は帰萩後も幕府を諫めると言う立場を取ってるから、倒幕論とは一線を画してるんだわ。
密航の時にぶち込まれた獄の状況を見て幕府に絶望したならその後に倒幕論になってないとおかしいだろ。
いつまでこの刑務所論争やる気なの? 大体、松陰の書き物見ても伝馬町の獄がぎゅうぎゅう詰めで絶望した、幕府はもう終わりだなんてギャグみたいな結論は出てこねえよ。
松陰の時代には各藩の牢屋敷でも永牢を申し付けられて獄中で没する人間大勢いるんだし。 >>461
これも不正確だからついでに直しておくけど
極東軍事裁判で死刑判決は7人で、しかも全員、通例の戦争犯罪(B級)で有罪とされている
「B級C級でごり押した」のではなく、A級やC級で起訴したものの
結果的に立証がうまく行かず、従来から罰せられてきたB級に該当する人間しか極刑食らってないの。
だからBC級戦犯のほうが立証が容易で死刑がバンバン出るのは当たり前。 >初期の政権は厳罰傾向になるのはどこも一緒。多分理由はそれだけじゃないの?
いやお前今まで厳罰化否定してたじゃん
単に内乱件数の増加によるものだとか言ってたくせに、
今さら厳罰化認めるのかよ。だったらこの話はもう終わりだろ。 自称、国のためには死を恐れない志士
しかし牢屋が混んでたから激おこ
それが吉田松陰さん 松陰の書いたものを読んでると精神的ダメージが大きかったのは安政5年の投獄時
この時はリアルにうつ病状態
江戸に召喚されることが決まって逆に喜んだほど
そりゃ田舎の牢に閉じ込められてるより幕府の評定で所信述べてるほうが本望だからな >>468
バカに物を教えるってホント大変だよね。
俺は最初から松陰の見た牢獄を問題にしてるのであって明治期云々はお前らバカが持ちだした話題だ。
で、俺は明治初期に厳罰傾向似合ったか知らないって言ってるんだ。
問題を持ちだしたのはお前なんだから厳罰化したか否かはお前が答えるんだよバカ。
だいたい処刑件数の増加=厳罰化とかいうのがバカ。厳罰の判断は江戸幕府と明治初期の政府の刑法の比較から求めるもの。
元々江戸幕府の治安維持能力は非常に低く、検挙率はかなり悪かったという資料もあり、処刑数の増加は検挙数の向上を示す物かも知れない。
プラス最低限後期江戸幕府による刑死牢死者と初期明治政府の管轄範囲と人口比率を用いた比較をしてようやく厳罰化したか分かる。
そういうことをソース付きの資料で開示して説明できれば、やっとバカは卒業だ。
断片的な都合のいい情報を持ってきて論じられるものじゃないんだよ。
俺は知らん。俺が知ってるのは江戸末期の伝馬町の惨状。
だがお前は明治政府が厳罰化したと知ってるんだろ? ソースの付いた情報を出して説明してくれよ。実際ちょっと興味ある。
ただそれをクリアしても江戸幕府は厳罰云々以前のレベルで、治安維持と法の適正運用すら出来ず
未決囚を大量に死なせたカスだということを肝に銘じろ。
残りは放っておいてもいいか バカに日本語を教える先生ってホント大変だよね。
>厳罰傾向似合ったか知らないって言ってるんだ。
カースw アウシュのおかげで松陰=ただのバカ
という結論が出たね。 差し入れができるアウシュビッツ。
アウシュビッツは楽ちんだった。 で、何の話をしてたんだっけw
アウシュビッツのせいで松陰が刑務所おたくという印象しかなくなった >>477
ワロタ
しかも牢獄改善運動はしなかった教えなかったから、弟子どもが牢獄ぶちこむ立場になったらもっと酷くなったというオチ 牢屋絡みで言うなら、長州藩の安政5年の松陰投獄経過のほうが酷いんだよね
玉木文之進が辞職願を出して抵抗し、同時に松陰をなだめて謹慎という形で収まりかけたのに、
12月になり玉木がいなくなった途端に投獄を命ぜられている
罪名は何かと抗議した弟子たちも相手にされていない
松陰も当然抵抗したけど、健康を害していた父の看病という弱みがあってことを構えられず、
借牢願を出すことに同意せざるを得なくなった 松陰はこの段階で死を賜ってもいいと言ったので、父親の病状を逆手に取られたことになる
入牢を延期してくれたと言うのはその一部だけを切り取った間違いなんだよね
罪名不詳の入牢に同意する代わりに、せめて親を看病させてくれと言う願いが認められただけ 吉田は中下級武士、神主、僧侶専用の牢屋に入れられた。
足軽の金子は武士と認められず庶民専用の牢屋に入れられ病気を悪化させた。 刑務所オタクだったんだろうな松陰は
自分自身も何回も入りたがってるし 松陰は刑務所オタクだった
そのために倒幕をした
もうこれでいいじゃん 鉄ヲタが列車に忍び込んで勝手に運転するようなものだな。 日本一の牢屋、伝馬町を極めた男として永久に歴史に残るよ
松陰も本望だろう
牢屋マニアの憧れの甲子園に2回出場したようなものだからな アウシュがうるさいから西欧の刑務所事情も調べてみたけど、
伝馬町と大差ないな
自由刑(徒刑)が主流になるのは革命後だから、欧州の監獄も未決囚であふれかえっていた 牢屋の状態にキレただけで江戸幕府を打倒した男
これは偉人ですわ 安倍晋三が異常に心酔してるから、
田布施村の朝鮮人の可能性も考えたほうが良い。 吉田松陰。
刑務所マニアが嵩じて刑務所に入りたがった男。
趣味が実益を兼ねた男 松陰の著作なんて新興宗教の教祖が書くデタラメなテツガク書みたいなもんだな。
信者は自分の見たいものしか見ない的な意味で。
会沢正志斎と東湖がごちゃごちゃになった俗流水戸学に過ぎないのに。 前橋市が公認展示「吉田松陰の刀」に持ち上がった真贋論争
明治維新150 年が来年に迫り、各地で観光客誘致の取り組みが進んでいる。
そうしたなかで、維新の精神的指導者といわれる吉田松陰の形見の品を巡り、
思わぬ騒動が持ち上がった。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170416-00000013-pseven-soci&p=1 長州は水戸薩摩に比べて政治活動のスタートが遅いから
ペリー来航直後にも俺たち色々やってたぜと張り合うためだけに
死んだ後で担ぎ出された人
幕府を倒したのは長州じゃない
ましてや松陰なんて全然関係ない 吉田松陰(幽囚録)
現代語訳
日は昇らなければ沈み、月は満ちなければ欠け、国は繁栄しなければ衰廃する。
よって、国をよく保つ者は、有る領土をむなしく失わないだけではなく、ない領土を増やすのである。
今、急いで軍備を整え、軍艦の計画を持ち、大砲の計画も充足すれば、すなわち北海道を開拓して諸侯を封建し、
間に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流して内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉らせていた古代の盛時のようにし、
北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、しだい進取の勢いを示すべきだ。
その後、住民を愛撫し、国土を養い、辺境の守りに気を配って、つまり堅固によく国を維持するといえるのだ。
そうでなく諸国民が集まって争っている中で座りこみ、うまく行動することがなければ、国は㡬らかのうちに廃れるのだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています