>>182
吉野側の公家は少数派だろ
南北両朝に別れた公家はいくつもあるけど、それは各家の継承争いが原因の場合が多いので、
北朝で居場所がなくてしかたなく吉野に行った人の方が多いわけ。

一家一門をあげて吉野側についた公家は、かなり少ない。
ましてや、朝廷の実務を動かす官人で吉野に行った人なんてほとんどいない。

公家社会を動かしていた人々の大多数は北朝支持だったわけで。(といっても、その基準が在京か亡命政府かという点に求められた場合のが多いんだろうけど)


少なくとも、後醍醐の政権運営が多くの公家に批判されたのは間違いない。
南朝の重鎮たる北畠親房も政権批判を書物として残したぐらいに多く、後醍醐に対する批判があった。