清盛と頼朝はどっちがすごいの?
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どっちがすごいのか日本史的な意義を語るスレッドです。 上手い言い方を思いつくもんだな。それを単なるアホと言うんだよ
もう後白河暗主説は学界の定説になってる
頼朝が進軍する前に自分から武装して木曽に喧嘩売って
ぼろ負けして近臣の首晒されてるような男のどこが「変わり身が早い」んだよw
平治の乱の時も、信西を排除したはいいが二条が逃げちゃったから、
大慌てで自分も清盛の所に駆け込んで知らんぷりしてやっと助かったというのが真相だろ。
義経ごときに簡単に院宣与えちゃったり、頼朝に付け込まれるようなことばっかりやってる男のどこが
「変わり身が早い」「絶対君主」なんだ?単にそそっかしいDQNな男だったんだよw 後鳥羽は武芸の達人、後醍醐は半生、ゲリラ戦を戦い抜く強靭な意志があったが、
後白河は今様に狂ってた意志薄弱な単なる馬鹿だよ。
賢い奴、少しでも分別のある奴なら、貴重な繋ぎ役だった重盛の知行国をわざわざ取り上げて
清盛の神経を思いっきり逆撫ですることはあり得ない。
清盛はあれで完璧に切れてたからな。文句言ってる中で半分くらいは重盛問題だろ >>64
>学界の定説
誰が出してる学説?
論文と学者の名前を出してくれるかな? 上横手雅敬の任意の著書を読めば、はっきり後白河暗君説を採っているのが分かる。
管見の限りだが、それ以降の研究者で後白河を英主評価してる学者はいないね。
せいぜい猿知恵扱い。 上横手は後白河を「直情的で抑えが利かない性格」と評してるんだな。
法住寺合戦で自ら木曽と合戦に及ぶという好悪の情むき出しの性格を指して。
結果的に承久の乱を40年先取りして、上皇が合戦の当事者になって明雲が殺害されるという失態を演じている
結局、本命じゃない中継ぎだから政治のド素人
後白河自身も義経に院宣を下した時はバッシングを浴びて相当神経が参ってて、
政界引退の意向をほのめかしてる。頼朝の征夷大将軍を認めなかった神話は完全な誤りだよ
頼朝が望んでいたのは大将軍号であって征夷の職権には特段の意味を認めていない >>67
上横手雅敬は後白河を暗君だとは言ってない
むしろそれ以降の学者も後白河が英知の人だとは言わないまでも
「天皇家が滅びなかったのは後白河のお陰」としている
後白河が死ぬまで頼朝が征夷大将軍になれなかったことを見れば一目瞭然 >>69
言ってるよ。従来の後白河評に対して
「木曽に一時の感情で当事者として合戦を挑むような人間のどこが政略家なのか」と
後白河の行動が単に一時の感情に駆られたものが多かったことも指摘してる
後白河暗主説の決定版。
そもそも文治勅許の段階では後白河は完全に頼朝に振り回されて弱気になってるし、
上洛で関係は修復してる。頼朝が欲しがったのは大将軍号であって征夷に特段の意味を認めがたい
さらに頼朝は征夷大将軍と言う称号にさほど意味を認めていない
後白河と頼朝の関係は、混乱してアドホックな判断を下しまくる後白河に対して、
頼朝がとりあえず尻拭いをやってたというのが正確なところ。最後には頼朝に泣きを入れることになる >むしろそれ以降の学者も後白河が英知の人だとは言わないまでも
>「天皇家が滅びなかったのは後白河のお陰」としている
誰が言ってんだそんなこと?
無能な後白河以外に適当な治天がいなかったから武士に散々に食い散らかされたわけなんだが。 >>62-63
後白河は「一度決めたことは人が静止するのも聞かず絶対にやり遂げる」人だとも言われてるぞ
後白河は暗主は暗主でも扱いやすいタイプではないかも
「よくよく謹みて、いみじく計らいて、彼方此方しける」清盛と
「威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」な頼朝とでは凄さのベクトルが違うように思うが
清盛と頼朝ってテーマのせいなのか後白河スレになってきてるな 後白河院があまりにも統治能力がないから、
武家にいいようにされてしまったんだろうがw
皇室と朝廷の権威を地に落とした張本人だよ
もう凡愚すぎて歴史に名前を残しちゃったタイプ
同じ時間軸で登場してくる人物が清盛だとか頼朝だとか大物すぎて、
そのあげく、「なんかこの院もすごいんだろう」と、みんなが勘違いしちゃっている
その後の天皇家は、後鳥羽院をみても、後醍醐院をみても、
王政復古が悲願となっていて、その苦労は本当に涙ぐましいものがある
そこまで貴族社会を自壊させた後白河院は、朝廷にとっては完全に「0点」君主
後白河院をあたかも時代に翻弄された名君がごとく扱うのは、
あまりにも、うがった見方だろうよ
過大評価にもほどがある >>74
それは玉葉の伝聞証拠ね。兼実が直接信西から聞いたわけじゃないが、
そこだけ引っ張ってくるのはフェアじゃないよ
信西は「和漢の間、比類少きの暗主」と酷評した上で後白河の頑固な性格を
「褒めるとしたらそのくらいだね」とフォローしてるのだから
しかもこの時期、後白河がそのような政治的頑固さを発揮するとしたら、
二条への譲位の際にぐずったくらいしか考えられないでしょ。
欲の皮が突っ張ってるだけの馬鹿、と言うのが、おそらく信西の後白河評なんだよ
>「よくよく謹みて、いみじく計らいて、彼方此方しける」清盛と
>「威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」な頼朝とでは凄さのベクトルが違うように思うが
清盛の武断的なイメージは、意外と重盛のそれが反映してるんじゃないかと思われる。
重盛は戦闘では必ず前線に出たがるタイプだし、殿下乗合事件みたいな狼藉も平気で起こすしね…
一門の結束を保った点では清盛。
頼朝は息子も兄弟もバラバラな印象。
平家は一門が一辺に没落した感じだが、源氏は同族のつぶしあいで衰えた。 頼朝の開いた鎌倉幕府は源氏のイメージが有るけど、源氏の将軍家は三代で自然消滅的に終了。
後は頼朝の嫁さんの実家(平氏)が執権となって実効支配。
てことは、支配者/為政者や体面、形態は変わっても
平清盛が開いた平氏一門による実効支配が鎌倉幕府滅亡まで続いた事に。
後に実権を握った北条氏が平氏だっただけで
そのことと清盛は関係なくない?
そもそも北条氏はじめ頼朝を担いだ坂東平氏は
平氏一門だからといって清盛に優遇されたわけでもなく
むしろ平家が送り込んだ目代や平家と手を結んだ勢力に圧迫される立場だったんだから 秩父氏はそうでもないんじゃないの?武蔵は平氏の金城湯池でしょ
(もっとも河越、畠山、江戸らは勢力そがれてしまうが)
房総、相模や知行国主が変わった伊豆はそれに該当するけど >>80
頼朝は源氏の代表ではない。
関東武士の代表だ。 先生、頼朝の息子頼家の嫁の実家の
比企氏ってどんな氏族なんですか? 比企は野人の子 草莽よりいづ
系図詐称なんて信用しないったら信用しない >>81
北条が平氏だったというのは政子従位の際に
急に朝廷に提出した史料からだろ
信憑性は低い >>10
その頼朝に負けるようじゃ、国を開いたって、
中国に食い物にされるだけでない?w
頼朝も天下取っても後が続かなかったし、
どっちも大した人でないように思えてきた。
二人がいなくても、きっと代わりの人が必ず出て来るんでしょ。 >>84
頼朝より身分が上の人がいたということですか? >>90
オレは84じゃないけど、頼朝の頃の源氏長者(源氏の代表者、
源姓で一番位の上の人)は、村上源氏の源通親でしょ。 村上源氏と清和源氏は同族という意識があったのかね?
源融なんかは完全に貴族だけれど、清和は「王家の犬」©NHKだろ 同じ「氏」という意識は当然あったでしょ。だからこそ「氏の長者」と言うわけで。
室町時代は、村上源氏と清和源氏で長者を交替で分け合ってるしね。
それに、頼朝の時代、武者と貴族は別に対立概念じゃないよ。
関東武士団が担ぎやすい貴族として頼朝が選ばれたわけだし。 信頼除目とはいえ、「佐殿」は田舎武士にとっては
けっこうなブランドってことだね。 >>79
殿下乗合事件でムチャをしたのは清盛。それを聞いて「当家の滅亡は近い」
と嘆いたのが重盛。重盛は「わが命を縮めて一門の繁栄を永らえさせたまえ」
と神に祈ってそのとおりに早世した義人。法王を幽閉しようとした清盛を
「忠ならんと欲すれば孝ならず孝ならんと欲すれば忠ならず」と泣いて諌めたのが
重盛の真骨頂。重盛死去の後に清盛は、重盛生存中にはできなかった法王幽閉を
強行してしまう。 >>96
殿下乗合事件で基盛に報復をした人物は
「平家物語」では清盛だとし「愚管抄」では重盛としている。
平家が軍記物語で清盛悪で一貫していることを考えれば
殿下乗合事件の首謀者は重盛だろう。
>>1
答え、どっちも間抜け。
あの時代は
原典の本
史実
どちらでも
上総 千葉の話だろ 朝廷とは別の「幕府」を作ったのは、古今東西例はなく、見事というほかない
皇帝の下の王が実権を握る程度のものだけどね。
みかどが持つべき実権を臣下が世襲で持つのも前例があるし。 >>101
NHK清盛の頼朝談じゃないが、清盛の時代がなければ、頼朝の活躍はなかったと思う
従って優劣をつける意味がない 清盛のどうしようもなかった点は、門閥貴族化し、武士から離れたこと。
つまり、武士(荘官)の領有の概念への要求に答えず、武士から離脱
したこと。ある意味、平将門よりも失格。
もちろん、頼朝公と比較するのは、頼朝公に失礼。 義経好きからは嫌われてるがその他には嫌われてないだろ
好きでも嫌いでもない無関心が圧倒的 義経は室町時代にはすでに産まれた場所などが観光地になっていたにも関わらず頼朝は日本中から相手にされていなかったのは何故だろう やはり奇人変人のためか >>100
幕府を作ったのがみごとなことだとすれば、それは北條氏の功績だろ。
頼朝はただ担がれていただけの御輿。 ここではなんでこんなに頼朝は嫌われてるんだろう。自称頼朝の隠し子の末裔ってな戦国大名も
いくつかいるくらいで、幕府の初代将軍のイメージは武士の憧れだろ。
北条氏は軍事力で支えただけで、朝廷に対して東国政権を認めさせた政治力は頼朝独自。
承久の乱は、既に朝廷側のコンセンサスが得られた段階で、それが永続化することを恐れた
後鳥羽が慌てて起こしたもの。北条は既に固まった組織を維持する程度の政治軍事力を
持っていたに過ぎない。 頼朝がいなければ東国武士は朝廷と交渉する能力を根本から欠いているから、
地頭としての収入源など得られるはずもなく、武力を使えば単なる将門の乱程度の
反乱として処理され、独立を保ててもあくまで東国の一武力勢力として存続するだけ。
北条に権力が集中することもなく、すぐに内ゲバに乗じた朝廷側に鎮圧されるよ。 清盛は保元の乱の戦功なし おまけにヘロヘロ矢
頼朝は平家追討戦の戦功なし
北条もなし 安定政権を作るための必須要素を語るのに、政治力より軍隊指揮能力を上に置くようなら単なる馬鹿だよ。
平家追討の軍事力は誰の政治力で結集したのか分かってないのかと。 政治力なんざ軍事力の背景があったればこその二次的なものだよ。 軍事力は政治力がなければ結集のしようがない。
北条は頼朝存命時には、朝廷と交渉する政治力も、関東武士を糾合する力もない。
北条は徳川家康と同じで、天下を取りまとめる能力が天下人の近くにいた結果として磨かれ、
目の前にチャンスが転がったから手に取っただけだ。 軍事力という背景がなければ朝廷と交渉しうる政治力なんて発揮できるはずもないし、
絵を描いたのは北條氏で、朝廷と接触するのに源氏の嫡流という血筋が必要だったのは確かだが、
血筋は頼朝個人の力ではない。
まー、徒手空拳でうまく立ち回ったとは思うが。 頼朝という旗印に真っ先に乗っかったのが北条というだけ。
北条が旗印なら決して関東武士たちは糾合しない。ゆえに、軍事力の中心は政治力を持つ頼朝。 >まー、徒手空拳でうまく立ち回ったとは思うが。
徒手空拳で立ち回る能力を政治力と呼ぶ。単に徒党を組んで人を殺すだけなら
山賊や関東武士にもできる。 その当時の北条は政治力も軍事力もほとんど無いじゃん
あるのは頼朝の嫁の実家という婚姻関係だけ
頼朝死後に安定させていったのは政子とか泰時の功績ではあるけどさ >>110
保元の「へろへろ矢」は『保元物語』の主人公為朝の口上だから
話半分に受け取る必要がある。それに清盛方が上皇方ではなく天皇方に付いたことで
勝負が決したので、清盛の武力は充分役割を果たしている。
『愚管抄』では平治の時の清盛がかなり好意的に描かれていて、
むしろこちらのほうが実像に近いのでは。個人の武力もそう劣るものではなかったと思う。 上総広常と千葉常胤が頼朝に味方したのが最大の謎だ。
この謎が解けた人はすごいと思う。 源氏の身内争いのすごさは日本史でも異質だよ
シス暗黒卿もびっくりだわ >>121
東国はすぐに武力で解決しようとするDQNの巣窟だったからな。 >>119
『愚管抄』では泳ぎまわった挙句捕まったチキンDQNの実父だろ
たがが知れてるわ
個人の武力もそう劣るものではなかったと思う
といわれても完全に空想でしかないから >>124
『愚管抄』では悪源太に堂々と渡り合って称賛された豪胆な武将の実父ですが。
都落ち以降の平家方の実態がどうだったかなんて、誰にも分からない。
彼は敗軍の将だっただけに平家方の暗部を過度に背負わされている。
逃げ足が速いのが駄目ならば義経なんてもっと駄目なわけで。 >>125
『愚管抄』には悪源太に堂々と渡り合って称賛された豪胆な武将の記述なんてどこにもないんだけど >>124
「愚管抄」平治の乱では平重盛の武勇がたたえられてるよ
源義朝は追い詰められて敗走した 当時の大陸は宋の時代で
石炭を使用したプレ産業革命の時代が始まっていた
アジアの経済はプレ近代の様相を呈していた
これを理解していたのは清盛
彼は交易による富で日本を支配しようとした
頼朝は農村経済の代弁者
当時の日本は農村経済だった
農民の土地所有権と裁判権を勝ち取ることで
農民貴族による階級革命ともいえることをなしとげたのが頼朝の鎌倉幕府
世界が見えていたのは清盛
しかし日本の現実に立脚したのは頼朝
どちらが上かは簡単には言えない 別に頼朝は交易を否定してないし
清盛は500か所の荘園領主でした 確かに貿易を否定してはいないが、貿易の利益を取り込まなかったから
鎌倉時代を通してずっと辛かった。「質素倹約」は貧乏暮らしの裏返し。 だって宋が滅んでモンゴルが攻めてきちゃったからな
交易どころじゃなかったろ 勝ち馬に乗ったつもりが最後は落馬・・だからねw
清盛も頼朝とも同じく調子こきすぎた。
平氏政権の限界は、清盛の存命中にもう見えてた気がする。 そもそも鎌倉幕府を考え付いたのは頼朝?、坂東武士?
流人の頼朝は御輿に乗っただけという説もあるし 守護地頭を提案した大江広元・三善康信を招いたのは頼朝だから、
頼朝サイドの幕府案だろ
中央志向の頼朝と、土着志向の周囲とが綱引きしてたのが
ちょうどいいバランスの時にたまたま頼朝が死んで
以後その体制が定着したというのが実状だと思う
頼朝が長生きしてたらもっと朝廷に近づいていって
平氏政権と似たような形になってたんじゃないの
しかしそういう頼朝がトップでなければ、
諸々の制度が朝廷お墨付きにならなかったかも
鎌倉幕府と呼ばれる体制は実のところ状況の産物で、
始祖=発明者ではなく、むしろ幕府体制の利を生かして
長期政権を築いた後の世の武士達の方が偉いと思う >>141
頼朝がちょうどいいバランスからはみだそうとしたとき亡きモノにされたのかも
幕府という語は幕末の倒幕派の隠語だし
藩と言う語は大政奉還で主君が無くなってしまった大名を
朝廷の下に組み入れるために新たな行政組織としてつくったものだし
幕藩体制なんて明治時代もだいぶたってから東大の学者が文献で言ったものだし
歴史のなかでは幕府も藩もそんな語はないんだよね
>>146
ほ、ほんまか!目からウロコが落ちたわ!ありがとう教えてくれて! これより幕府を開く!
なんて言った人はいないわな
頼朝も尊氏も家康も 歴史がちょっと違ってたら鎌倉時代じゃなくて
藤沢時代とか逗子時代とか 鎌倉時代は最初の立ち上げ時だけ頭に源氏をいただきはした(源氏は僅か三代で消滅)けど
実情は最初(挙兵前)から徹頭徹尾、頼朝の嫁、正子の実家である伊豆平氏の北条政権。
とすると、源氏の衣を被った分家末端の伊豆平氏が本宗家を駆逐して取って代わっただけの構図?
米TIME紙
1000年を代表する偉人に日本人唯一選ばれたのが源頼朝
1000年を代表する奇人変人に日本人で唯一選ばれたのが源頼朝 しかし頼朝はなぜグロ好きだったのか >>147
千葉 vs 千田、佐竹
介八郎 vs 藤原忠清
介八郎 vs 印東常茂
三浦、中村 vs 大庭 清盛と頼朝はどっちがすごいかって?
全然比較にならないだろうが ヘソで茶を沸かした清盛と、嫁の尻に敷かれた頼朝。優劣つけがたい。 >>141
頼朝が中央志向というのは定説なのか
個人的にはあんまりそんな感じがしないのだが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています