邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった
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邪馬台国は当時の天体測量の結果楽浪郡の南一万二千里、すなわち宮崎の何処かにあった。会稽は帯方郡の南一万二千里にある。編者陳寿は郡を取り違えた可能性が高い。 後漢の頃の第二天蓋法、すなわち夏至の時の影の長さより、南北距離を求める法が開発された。邪馬台国の位置もこの法により定められたと考えられる。 ×邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった
○女王国は北緯32度付近の宮崎にあった
邪馬台国は30王国で構成される連合王国だった。
卑弥
日向
いずれもヒメと発音したと思う。 なるほど、ヒメタタライスズヒメは神武の嫁。
五十鈴川は高千穂が水源だし、何本かの小さな川を挟んで耳川(御川)、その隣が
尾鈴山(御鈴)、そして西都原古墳群は「妻」にある。
神武は外来だね。
宮崎で現地勢力と政略結婚して、この国の相続権を手に入れたんだろう。
某盆地人はリアルでも電波甚だしい
少しは自省してくれ 對馬國…対馬
一大國…壱岐
末廬國…唐津市付近
伊都國…神埼市付近か
奴國…筑後川下流域〜熊本市〜八代市付近(最盛期には烏奴國支惟國を経て博多湾岸まで)
不彌國…三井(みい)郡付近
邪馬壹國…
斯馬國…宮崎市東部〜佐土原町付近(成立当時の那珂郡) 大島・島之内・田島
已百支國…国富町木脇付近
伊邪國…西都市三宅付近
都支國…都農町付近
彌奴國…日向市美々津付近 旧名美彌
好古都國…延岡市付近 旧名県・英多(あがた)
不呼國…豊後大野市付近
姐奴國…大分市付近か
對蘇國…阿蘇外輪山を隔てて蘇奴國と対をなす大分県竹田市付近
蘇奴國…阿蘇北麓東部阿蘇市一の宮付近
呼邑國…阿蘇南麓 邑→陽 向陽つまり南麓
華奴蘇奴國…阿蘇北麓西部か
鬼國…宇佐市付近
為吾國…みやこ町行橋市付近 祓郷(はらいごう)という地名あり
鬼奴國…遠賀郡・宗像郡付近
邪馬國…中津市付近
躬臣國…玖珠郡
巴利國…現うきは市 旧生葉郡
支惟國…現筑紫野市 旧御笠郡
烏奴國…鳥栖市付近 視野が狭い。九州とみる以上、甑島や屋久島、種子島も考えないと。 俺は今まで、まったく別の理由で邪馬台国は鹿児島県出水市だと思っていたけど
いま調べたら、北緯32度の線が市を貫いてた
>>1よ、いいこと教えてくれてありがとう 次スレ立つまでここでも使おう
875 :日本@名無史さん:2013/01/04(金) 18:48:51.86
最近の大分県佐伯市・竜神池の津波堆積物調査では、
西暦200年頃、東日本大地震クラスの巨大津波が九州東海岸を襲ったことが分かった。
およそ卑弥呼の時代である。
(下のアドレスpdfのp6〜p7、No.3の堆積物黒バンドは西暦684年の天武地震、No.4のバンドが卑弥呼時代のもの)
http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/nankai_trough/5/iin_okamura.pdf
また天照神話には、スサノオノミコトが高天原へ上がる際に、
山川が揺れ海原がとどろいたので、アマテラスはスサノオが攻めてきたと想い、弓矢を構えたという
巨大地震と大津波で皆々が疑心暗鬼になっていたことがうかがえる。 同上、ここでも使おう
991 :日本@名無史さん:2013/01/20(日) 00:41:05.96
ネット上でも公開されてる尾花A遺跡というのを見てみれ。
場所は川南町、東九州道の工事にかかる発掘調査じゃ。
竪穴住居246軒規模のAD100-400頃に集中する遺跡。
漫然と建築されたわけでなくAD250くらいに異変が見られる。
鉄器も多いしC14年代測定なんかもたくさんやってる。
考古学ファンには面白い。
992 :日本@名無史さん:2013/01/20(日) 07:37:14.82
http://goo.gl/maps/UvYrx
既に道路になっとる
調査区域は道路建設にかかった50×500m内ほどの細長い23,400u(2.34ha)
南方の一ツ瀬川近くの宮ノ東遺跡も同様でこの道路建設にかかる区域だけ
ということで図面を見ると外に続いていることが明白
広い平野の中でたったこれだけの幅でピンポイントでこんな偶然があるかという 卑弥呼の倭国は30国、江戸時代の九州諸藩は36藩
およそ良く似た状況ではなかったかと思える
宮崎は、佐土原藩、高鍋藩、それと戦国時代までは神高千穂に三田井氏もいた
321 :卑弥呼は満州にいた:2013/01/20(日) 22:46:46.69
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kyushu_map.html
この地図を見ていると面白いことに気付く。
北部九州には藩がたくさんあるが南部九州には少ない。
とくに薩摩と大隅は鹿児島藩一藩だけだ。
しかもその鹿児島藩が七十七万石と最大である。
これはちょうど狗奴国一国で女王国諸国と対立していることに似ている。 「古代史 パンドラの箱」で検索したら、恐ろしいものを見てしまった。 『日本古代史を科学する』(中田力著)の邪馬台国宮崎平野説がひどくおもしろかった。 弥生時代終末期の北部九州、筑紫・博多。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)の奴国【銅鐸祭祀】も、跡継ぎを巡る「大乱」により卑弥呼(アマテラス)
の邪馬台国【銅鏡祭祀】に国を譲る【銅鐸処分→九州=銅鏡に鋳直し/九州以外=埋納】。
これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と全面戦争になり、「和」国は分裂、卑弥呼は急死する(弟/魏の将軍張政/狗奴国による暗殺説)。
-分裂した「和」国
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)筑紫/宇佐┃→安芸→吉備→「大和」朝廷
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向┃↑ ≧神武東征ルート≧
...................隅国(鹿児島)┘
卑弥呼の跡を継いだ♀女王「台与」は投馬国長官♂を婿として迎えた後、旧奴国&隅国(隼人)と軍事同盟を結び、肥後狗奴国
(後の熊襲)を一網打尽にし、「和」国を再統一した。
その男系先祖の出自を後世に伝えるため、神武は日向(投馬国)から出航し、倭(和)国の首都を筑紫・博多から、先遣隊長ニギ
ハヤヒが拓いた奈良・三輪山麓(纏向)へ東遷。その女系先祖・卑弥呼(アマテラス)台与以来の【銅鏡祭祀】「大和」朝廷を創始。
※古事記・日本書紀が、日向長官の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の伯母・卑弥呼(アマテラス)を
その姉としたのは、「大和」朝廷・天皇家(♂日向長官と♀筑紫女王「台与」夫妻の子孫=神武の末裔)による系図操作。
銅鐸祭祀をしていた漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は、倭(和)建国の偉大な功績を消され出雲に祀られる。 -「大和」朝廷における、♂日向(投馬国)系大王と♀筑紫(邪馬台国)系大王の(双方の直系男子途絶による)政権交代
4世紀〔前期古墳〕三輪(銅鏡)王朝(1神武〜14仲哀)=♂日向(投馬国)系大王【四道将軍、ヤマトタケル征東、熊襲討伐、国造任命】
5世紀〔中期古墳〕河内(鉄剣騎馬)王朝(15応神〜25武烈)=♀筑紫(邪馬台国)系大王【倭の五王(讃珍済興武)→獲加多支鹵大王】
→(高句麗の南侵に脅かされた)百済・新羅・伽耶(任那)への軍事援助により「鉄の大量供給ルート」を確保し、王権強大化
6世紀〔後期古墳〕近江王朝(※26継体〜38天智〜50桓武〜現在)=♂日向(投馬国)系大王
※
-26継体・27安閑・28宣化=日向系大王〔樟葉宮→筒城宮→弟国宮→磐余玉穂宮〕
…継体の「大和」入りが筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫国造・磐井の乱」を誘発
-29欽明〜♀35皇極(37斉明)=筑紫系大王〔飛鳥・板葺宮〕
…筑紫系大臣、蘇我氏(娘達を続々大后に→外戚として大王を操縦)による日向系皇族大弾圧→「乙巳の変」(大化の改新)へ
-38天智・39弘文=日向系大王〔近江大津宮〕
…「白村江の戦い」惨敗→百済滅亡で半島権益(鉄の大量供給ルート)を完全喪失。国力大幅低下&大増税→「壬申の乱」へ
-40天武〜♀46孝謙(48称徳)=筑紫系「天皇」〔飛鳥・浄御原宮→藤原京→平城京/恭仁京/難波宮〕
…両系和解の古事記・日本書紀・風土記編纂(日向系大王の活躍=筑紫系大王の活躍)→「長屋王の変」「道鏡事件」へ
-49光仁・50桓武〜南北朝〜現在=日向系天皇〔長岡京/平安京〕
…筑紫系天皇の奈良〔平城京〕から、本拠地・近江(琵琶湖)近くの〔長岡京/平安京〕に遷都 >>16
中田 力氏も、伊都国は佐賀平野にあった、の説かあ。
最近は佐賀平野を経由する説が多いんだね。 日向といっても広い、宮崎といっても広い、さてそのどこにあったのかが問題だ。 普通に考えれば、
宮崎ではここが 邪馬台国女王之都 のダントツ第一候補だよな
天岩戸、天岩戸神社、高千穂神社、三田井氏伝説とその小字には神殿、その他にも神話伝承史跡にあふれかえってる
http://shogo33333.ninja-web.net/miyazaki-kourakuti/takachihokyou/takachihokyou.html 西都原に比べれば、宮崎市の古墳はつつましい感じなのがなんとも不思議発見・・、 >>24
へー、あっち方面の方はそういうことをなさるんですか?
それで近世はいつ頃、江戸時代とか?? ざんねーん、
霧島は鹿児島県と宮崎県の県境で、霧島連峰のひとつの活火山、まあ南高千穂だ
>>22 は神高千穂(上高千穂)で宮崎県と大分県と熊本県の三県境で、いわば北高千穂なんだよ、阿蘇山の東な >>21
南面が開けた場所無いのか?日に向うだからな日が立つが列島の東の端
南面がひらけた場所堀まくれよ九州人。 >>28
サゼッション サンクス。真南向きは意外になくてねえ、
日向はあらかた東南向きなんでそれならいっぱいある >>13 なんかはそうだね >14
の旧藩絵図をみると、延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩とある。
邪馬台国の時代、宮崎には4カ国くらいあってもよさそうだ。 宮崎の山中には、五ヶ瀬・高千穂もあるなあ、合計候補は五カ国か。 4世紀代の古墳だけを見ると延岡(+富高支部)、川南・持田、西都原、生目(+檍支部、本庄支部)
の4つくらいの勢力があったようには思う。
規模を見ればそのころは生目が第一勢力だったように見えるしそう書いてる人も多いな。
西都原は規模がそんなに大きくはないが数は相当多いのだけどな。 前スレのあの遺跡は竪穴建物246、石包丁233に対し石鏃97鉄鏃50だ。
鉄製工具32鉄製漁具4他不明鉄器鉄片110程度か。
石鏃は5.3cm9.4gの人体に対して殺傷力がありそうなものもあるが大半が長2、3cmのたぶん古来からの狩猟用。
前線基地なら土器のほとんどが畿内系なり瀬戸内系なり北部九州系なりに偏らなきゃおかしいわけだがそんなこと無いしな。
畿内なりの前線基地の可能性を常に考えるが剣も矛も出てないし可能性は極少ではないかなと素人は思う。 むしろきわめて治安が良い平和が想像される
環濠とかあっても厳重なものではない
戦死遺体とかどこか一箇所でも出てたか
あの遺跡はどうか分からんけど鹿児島県や人吉盆地と共通する土器石器もあるし元々熊襲とか無かったんじゃないの 日向神話にはホオリ命(山幸)とホデリ命(海幸)の喧嘩(戦争)らしいものは描かれてるな。
滅ぼすんでなく組み込んだということになっている。
あとは婚姻で同盟的に統一していったような感じ。
高天原がどこかってことになるんだが…
在地より優れた土器文化を持った人の移入があったとして、その人々は初期にいくらか搬入する。
しかし住むなら絶対作らなきゃならないのでその場合は作ったことのある土器に偏るな。
外来側が在地側を討伐対象のような敵対対象とはせず、在地側も平和で受け入れる環境なら、
代を経るごとに在地や周辺のものが取り込まれ(弱)、逆に浸透(強)していき、特異性が弱まっていく方向になるな。
しかしそれら外来の人々の少なくとも集落の初期には周囲と違った特異な様相がなきゃならん。 そのカギは、やはり鉄製武器器具の存否ではないでしょうか、
これが一番説明しやすい特異な様相かと 土器が伝わるのって隣から順に長い年月かけて…とも限らんよな
何十日かで来れるし移住して珍しい土器作ってれば教えてくれってことになりそうだし
鉄器は材料を仕入れないとどうにもならんけど 宮崎には甕棺とか木槨墓とかほとんどの住居に主柱の無い集落とかどこから来たのって感じのがある。
甕棺とか木槨は北部九州と中国?と思うけど柱の無い住居の集落はモンゴル?
柱が無いなら壁が柱の役割もしているってことだが。 宮崎の弥生後期の集落遺跡で破鏡(前漠鏡)が6.4uの小型住居内に廃棄された状態で見つかった。
去った住人が不要と考え、住居廃棄後にこれを目にした者も欲しがらなかったと思われる。
鏡を欲しがる卑弥呼と異なるぞ。 まとまって移動したんでなければ去ったというか死んだ可能性の方が大
組織を離れ一家族一個人で生きるのは難しいつか6.4uなら個人か?
亡くなった人が大事にしていたものを盗むのは良くないと思って住居解体の後に鏡ごと竪穴を埋めでもすればすぐ分からなくなる 治安が保たれた平和が維持されるには、飢饉が起こらないか
起こってもじゅうぶん代替可能な豊かな海の幸山の幸が必要。
飢え死にしそうになって近隣の集落に蓄えがあれば誰かが絶対
「隣を襲撃して奪い取ろう背に腹は代えられない」そうだそうだと
こうなる。怨恨が生まれて連鎖増殖して大乱状態になる。
近隣でなく遠いここまで平和が脅かされれば守るために武装化する。
5世紀以後とか見れば武器馬具類で溢れて完全に武装化している。 邪馬台国でググった件数:
北九州説や筑後山門説なぞ、声の大きい一部の人間の意見らしい。
まあがんばってるのは熊本県下の人吉・阿蘇と鹿児島県えびの市、どれも山中だね。
ダントツは西都市で32万6千件もあった(驚)。高千穂も少なくない。
そのわりに西都原古墳群を紹介するHPの写真は桜や菜の花メイン、肝心の古墳群の迫力に乏しいな。
村人が働く芋畑の中の古墳をかすめ飛ぶ戦闘機の写真なんかいいと思うけどね。
"邪馬台国福岡説" 117,000 件 (朝倉 27,500、山門 15,600、八女 12,800)
"邪馬台国大分説" 88,600 件 (宇佐 41,400)
"邪馬台国宮崎説" 83,100 件 (西都326,000、高千穂 26,800)
"邪馬台国熊本説" 77,400 件 (阿蘇 32,900、人吉 31,800)
"邪馬台鹿児島説" 78,000 件 (えびの 60,200、大隅 12,400) なぞとは引っかかる言い方だな
全国どこでも各自の自論を尊重して進めていけばいい
先鋭化したりステルスマーケティングみたいなことやってもつまらんだろ
知らんことを知れれば面白いし面白くなきゃ意味ない 世間で畿内説と九州説と言っても九州説=北部九州のことだからな
マスコミが取り上げるなり自治体がアピるなり余程しない限り泡沫
そんなんせんでいいけどたまには古墳以外の遺跡も保存してもらいたいもんだな
宮崎にそんな金の余裕があるはずもないが 世間でいわれるのは「どこが好きか」というレベル。学問的な話とは無縁。 新田原辺りの台地集落は保存状態良さそうだし、
川沿いたんぼの遺跡は津波かぶってて散々だろうから、
西都原古墳とセットで三か所を見学できると、お勉強コースにいいんだけどね 倭国大乱(桓霊間とすればAD146-189)の時代に軽武装で居れるものだろうか。
僻地だが大乱が冷害や旱害による食糧不足が原因だとすれば南下圧が強まりそうなものなんだけど。 それは大いに有る
しかし宮崎県には無い、発掘する金が無いのだ >>50
異民族同士なら殺し合うだろw
南は異民族の領域か?日本の運命を決めるさあ、ファイルアンサー。 ネット上で見た都道府県別の白血球抗原?の遺伝子出現頻度を見た限りでは異民族と呼べるような差異は無い。
自分は理系ですら無いのでただ数字眺めただけで何のことやら説明できるものではないけど。
宮崎と岡山は結構近いような傾向に見えた。
10通りくらいの遺伝子の組み合わせの格数字が畿内以西のどこにもに共通するところが無いものは無いみたい。
どこかに似通った数字の県がある。
ただ一つだけ突出気味なのがあってそれは沖縄の数字に割と近いが宮崎や沖縄よりもっと高いとこがある。 尾花Aの北50mほどの竪穴住居から鏡1面が出ていたりする。 その住居は36uで特段大きいわけでもなくてそこで最大の住居は2倍以上の面積がある
そこの北500mほどに湯牟田遺跡てのもあって、放射性炭素年代測定ではAD70〜240前後
出土鉄器の中には重量765.7gの朝鮮半島製の鉄斧もあるそう 有屋室父母兄弟臥息異處は花弁状住居のことだって言う人がいるしそうかもと思ってたけど
弥生終末期にはノーマルな方形ばかりで円形もちらほらって感じになってるみたいだ
弥生後期の紀元後まで混在してるんだけど集落の中の花弁タイプの割合が小さくなってるみたいだし
だんだん廃れていったのかもしらんね
花弁状の方が高い処に寝たり棚として使ったりデザイン的にも衛生的にも優れてると思うんだけどな ネットで湯牟田遺跡のレポート見たけど
普通の集落?で、斧とか鉄製品が普通に出てるんだねえ 武器になるようなものは弥生時代のものは鉄鏃石鏃それぞれ数本と鉄刀1本くらいか
多数なのは磨石とか石包丁で狩猟と農耕の普通の集落だと思うんだけど鉄器が結構出てるね こんだけ山で隔てられてれば攻め込もうとも思わんぞなもし 鉄器を保有する行為が北から入ってきたのは疑いがないんだが
鉄器を専ら北から何らかの方法で入手したのか、自ら製作もしていたのか AD100年代くらいに鉄器が急速に増えてるな
紀元後100年くらいまでは鉄器は希少…だと思ってるんだが、、、
台地辺縁なんだが奥まってて緩やかに下がるから台地上からも近付かないと見えないだろう
つまり隠れ家みたいなとこの1軒から19点の鉄鏃鉄片が出ていたり(向原第一)
この住居はAD50くらいに営まれたみたいなんだがかなりイレギュラーに見える 量は少ないけど、かなり進んだ技術を有していたことは間違いないね。
南九州は、呉から技術を入れていたのではないかな。 C14年測はたくさんの試料を測定して真ん中あたりを…でおよその目安に使うのは良いんだろうが
1つや2つの測定結果を過信していいもんでもなかろう
土器編年を軽視しちゃいかんね >69
東シナ海を直で渡っていた?
漂流してたまたま流れ着くことはあっても計画的に渡海とか考えにくいな 奄美以南でしか採れない貝製の腕輪が九州各地から畿内までの古墳で出てるしね
つまり行き来していたということ
ずっと行けば台湾さらに呉の南部に達することまで知っていたのかどうか
少なくとも間接的には知っていたんじゃなかろうか 弥生中期から瀬戸内系の土器が多くなるし伊予や吉備との行き来があったのも確実
北部九州系の土器もあるので北部九州との往来も 鉄滓が出てもそれは素材としての鉄を入手して鉄製品に加工したものだろうな もし吉備にも北部九州にも行っていたなら銅鐸や鏡の様子を知っていたはず。
見はしなくても話としては。 弥生時代の人骨の殺傷痕は、石鏃によるものが一番多いらしい あの時代の遺跡って殆ど台地上だね
数メートル程度の微高地もあるにはあるけど 西都など低地のインター付近も発掘調査したと思うんだけど
どんな具合だったかご存知の方いらっしゃいませんか? 西都インター周辺は
蔵向 確認調査の結果、調査不要
大辻屋敷 終了(平成10年度)
小田河原 確認調査の結果、調査不要
宮ノ前 確認
宮ノ東 確認 本掘
ってなってるみたいだよ 調査不要ということはなんも出てきそうにない?
川の氾濫とか津波とか?
ありがとう 2000年くらい前の巨大津波を経験して台地に住むようになってたのかもしれないね 宮ノ東というところは数百軒以上の竪穴建物が出ている遺跡だけど
そのあたりは入り江の最奥だったのかもしれない
ttp://flood.firetree.net/?ll=32.0773,131.4248&z=4&m=3&t=2
+3mではないのだけど土砂の堆積期間が短いので
全国的にこんな感じになっていた場所は多いと思われてる とりあえず尾花A遺跡とか宮ノ東遺跡とかの隣接地と、
目の前にあるのにほとんどが手付かずの古墳。
掘る前から何かあるのが分かってるとこだけでも膨大だ。
予算があるんだろうかw まあどっちにしろ数百年後…大和朝廷の統治が確定して、
薩摩や大隅を分離して律令制を広めようとしたころ、
長期に渡る戦いによって疲弊し荒れ果てていたんではないかな。
古墳規模縮小が全国的傾向に増して著しいのでは…
代わりのように地下式横穴墓が増えるけど、古墳を作る国力が無くなっていったんでは。
地下式横穴墓の副葬品にも武器は非常に多いが農具が少ないように思う。
国力人力をすり減らして行ったのかな。 やっぱり戦をしていたんだろうか
だとするといったい何百年平和が訪れなかったのだろうか
平和は大事だは そう。日向は元々大隅薩摩を合わせて日向国。建日別。熊曾国。同族的であり戦に明け暮れていたわけではなかった。
記紀によれば何かの理由で日向(薩摩大隅日向)から東征した。
純粋な日向の系統はすぐに絶え、大和の血がだんだん濃くなりアイデンティティは無くなった。
大和に近い圧を受け易い日向(のち+薩摩)は婚姻と不戦を選び、大隅(はじめ+薩摩)は徹底抗戦を選んだ。
初めは日向勢力も大きく何度も日向から妻を迎えて例えば雄略天皇の皇后も日向女の娘である。
同時に大隅薩摩との争いが不可避となり日向豪族も戦いを余儀なくされた。
大和と隼人の間で退くに退けない状況。
争いは数百年に及び疲弊していき豪族の力は次第に弱まり人々は貧しくなり少なくなり古墳を作る力はなくなり、単なる大和の先兵と化して行った。
大和から最も遠い大隅コア部の反乱が隼人の最後の抵抗である。
全てが終わった時、日向には荒れた土地とわずかな人しか残っていなかった。 似たようなことを近現代に見たようなことがある気がする
火の鳥みたいな話を書けそうだななんか 日向から東征軍を出したというならば、その日向の系統がすぐに絶えたなどという
事態に陥るはずはない。日向は古墳時代の唐書から古墳時代を通じて繁栄を続けて
いる、これは東征した地域からの物資が入っていたからこその繁栄だ。
大隅が徹底抗戦? 大隅に大きな古墳があることを知らんね。大隅と薩摩が戦った
なんてことはないよ。 絶えてはないけど、手研耳は誅殺されて神武天皇と畿内の妻との子が継承してるよ。 >>91
大隅と薩摩が戦ったなんてどこにも記されてない。
あえて言えば大隅と大隅だろうか。
古墳時代の大隅の南東部と北西部で同じ主義とは言いがたいな。
南東部では大きな古墳を作ってるな。 同族だから戦わないってのもよくわからんな
普通近所の連中と土地争いが戦争のもとじゃないの? それよりwikiの隼人の項をなんとかしたらw
地下式横穴墓の解説とか滅茶苦茶だ
出典が何十年も前のばかり1960年代とか何を考えてんだかな
別にwikiだからいいけど 荒廃した日向を素通りし隼人の乱を鎮圧して捕虜を連行していく大和の軍が去ったそのころ…
眼下の荒れ果てた田畑跡・破れた家々・打ち棄てられた構造船、傍らの草茫々の古墳を
ぼんやりと眺めながら袖にてんとう虫が止まり涙が頬を伝う我王500歳的な人は絵になる。
ほんとはその2、30年後の大和の平城京郊外で両腕を失った彫物師の我王だけど。(火の鳥)
そんな風景が広がっていたのではないかと割と思うな。
他がいちはやく戦乱から離れ開墾に没頭していた時に戦いを繰り返した結果か…と。 戦いを繰り返したとしても好き好んでやったんじゃなければ災難もいいとこだ 隼人にしろ別に悪事を働いたわけではない自衛行為だろうがそういう時代なので仕方ない。
西岸を行く大和役人一行を侮辱とか言われるが過程を無視しちゃいけない。
日向が数百年かけて得たものがかつての同胞の薩摩大隅との間の遺恨と自国の荒廃だけだったとしても
その非は自らに求めるしかない。災難は大和がもたらしたものではない。自ら呼び込んだようなものだ。
いや単にそういう時代だった。そんな大昔の真偽もどうだかってことで何も思わんだろ普通。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています