邪馬台国は北緯32度付近の宮崎にあった
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邪馬台国は当時の天体測量の結果楽浪郡の南一万二千里、すなわち宮崎の何処かにあった。会稽は帯方郡の南一万二千里にある。編者陳寿は郡を取り違えた可能性が高い。 新富町川床地区の円形・方形周溝墓195基を造営した集落はまだ見つかっていない 法則性みたいなのはもう見えてる。
台地辺縁を徹底的に洗うべし。 畿内の先兵という言葉だけど、それってどうなの?と思います。
畿内式の土器も球磨盆地の土器もあるらしいし。
住居もこの地域に特有なものがたくさんあるらしいし。
鉄器なんかも九州北部から得て、やがて自分たちで加工するようになった気がします。
平和で農耕や自由な交易やっていたんじゃないかな。 >>212
海底遺跡が沈んで本土に移動したのかもな
沖縄の海底遺跡は何世紀のものなんだ? >>213
あんな山を越えて来ようとは思わんわ…
昔は狼も熊もおったしな
しかしそれだけに戦乱(倭国大乱)を嫌って移住して来た人々もいたろうな
甕棺は北部九州からの移住者だろう 日本最大規模の方形周溝墓群は360基はあった
そこには広大な水田遺構も出ていて相当注目されるべき遺跡
滋賀だったか 土器に関しては全国的に畿内式土器への指向性があるみたいだし実際優れた土器だが
住居に関しては花弁状から円形が崩れたものや全国的一般的な方形が多くなったのは劣化だな。 弥生時代や古墳時代の初めに宮崎で戦争の痕跡は無いの? 戦争の痕跡はないね。畿内は銅鐸が消滅したり集落が不自然になくなったりして
いるが、日向ではそのようなことはない。弥生時代から古墳時代へと文化が引き継がれ
繁栄を続けている。 そもそも日向は銅鐸が1個も出ていない(はず)
銅剣銅矛銅戈の出土例もごくわずか
それらは初期を除いて祭器に用いられたとされるが
そのような青銅器文化を経ずいきなり鉄器の所有が始まる 出雲は農道工事中に埋められてた銅鐸・銅剣にぶちあたったとかで大騒ぎだけどな
日向はそうなのか、神話でいえばスサノオのころ 出雲の銅剣が数百本出た遺跡は驚愕というかイレギュラーすぎるな 流入する鉄の威力に驚嘆して、あっさり銅器を埋めて乗り換えた感じですかねえ
そう言う意味では、国は簡単に譲るし、したたかといえばしたたか
出雲大社もいまだ健在だし 商売品じゃないかな。敵に奪われないようにまとめて埋めておいた。 国譲りと引き換えに鉄文化を受け入れた・・?
そう言えば、出雲山間部は古代から近代まで砂鉄産業が続いて繁栄したからねえ 銅鏃もきわめて少ないが無くはない
最近発掘された遺跡では鉄鏃の出土はありふれてる
銅鐸は見たこともなかったとしても銅矛は知っていたはず
銅矛は北部九州であれだけ出土し四国にも飛んで高知でも数十本出ている
日向がほとんど皆無
玉などは結構出土しているのだが青銅器の出土はきわめて少ない
鉄器は最初は墓から出土する傾向で威信財なりお守りなりとして通用している
しばらくすると住居に放置された形で出るようになる
青銅と鉄に対する姿勢の差が大きすぎる 日向神話より出雲神話の方が量が多い
畿内が出雲の影響下にあった時代があって自分たちのものとして伝わっていたものもあるからだろうな 鉄も北部九州から始まり弥生時代には北部九州が圧倒的多数。
銅鐸銅矛と違うのは南九州含めて全国に広まっていったこと。
実用品として優れたものはどの地域にも垣根なく広がっていくのだ。
鉄器に注目すれば高天原は北部九州だ。 北部九州は単に地理的に有利だったというだけだろう。古墳時代に入ってから発展を続け
たかどうかが問題だ。 北部九州に政権の中央部が存在していた時代が高天原時代、
天孫降臨〜神武東征時代が日向と考えるのが自然だろう。
北部九州は大陸からの異民族流入と出雲との戦争で疲弊し、実権を失い
親戚筋の日向に禅譲されたのではないか。
大隅半島は読んで字のごとく「クマ」であり、すなわち久米のこと。
熊襲の「ソ」は中国人が他民族をさす際に使われる慣用句。(現在の日本では「疎」の字があてられる)
つまり、天孫と一緒に降臨した久米族とは「大隈地方の人々」というほどの意味にすぎない。
恐らく、天孫の直接の先祖が筑紫から日向にやってきたのは非常に古い時代で
戦闘力の高い熊襲を恭順させたのも、実際には中央が乱れる以前の話であったろう。 たとえば、稲は朝鮮半島経由ではなくて、どうも南西諸島経由で南から
入ってきた気配がある。後のサツマイモや唐辛子にしても日本から
朝鮮半島に渡っている。このように考えると、古代の文化なども
南から入ってきた可能性があるな。
倭者、自ら太伯の子孫と称す、なんてあるくらいだから。 サツマイモの地方名:
本州では薩摩イモ、北九州では琉球イモ、南九州では唐イモという。(伝来ルートを暗示するか) 海幸山幸をその視点で読み解くと、非常に解りやすい。
二人が交換した、互いの道具は交易と支配の暗示。
恐らく、戦乱で追われた筑紫人はほとんど流民同然で日向の地に降り立ち、
携えてきた玉や鉄器で現地の海洋民と折り合いを付けたのだろう。
海幸が「兄」であることからも、当初の力関係は海洋民の圧倒的優勢であったと考えられる。
実際、農耕民は基本的に戦闘能力の高い蛮族に一時的に支配されるのが普通だ。
海幸が「なくした釣り針」とは人口増と農地の開発による海洋環境破壊の事ではないか。
宮崎平野の土壌を調べると、大淀川流域は全域にわたって深い森林であった事が解っている。
ところが、農耕民が西都、宮崎の両平野を開墾したために、
森林の持つ保水力と豊かな滋養が洪水によって失われ、結果として周辺の磯焼けがおこり、
主食である貝類や魚がいなくなった。
それに対し、海洋民が怒り、戦争の後、筑紫の民は敗亡する。
どこにいったか?「海流に乗って」「竜宮に行く」。
すなわち、黒潮に乗って、紀伊半島に向かったのだ。 出雲の国譲りには日向はまるで関係ない。
北部九州高天原からお前行けと命じられた忍穂耳は手に負えないと敵前逃亡。
他も投降したり言いくるめられたりで国譲りを成したのは伊都之尾羽張の子のタケミカヅチである。
日向神話の世界はそれより後の話しである。 紀伊半島で現地の王族の娘と懇ろになった筑紫人は、「数年を過ごした後」
鯛ののどに刺さった釣り針と姫を携えて帰還する。
つまり、紀伊勢力の海軍を借りて、日向の海洋民を追い払った。
その後、姫はお産のために日向を去る事になるが、二度と戻ってこない。
その時の子供の子孫が、つまり神武と同じ「高貴な正統」として後に現れるニギハヤヒの事だろう。 神武天皇はニギハヤヒ体制畿内の豪族ナガスネヒコに大敗し、
生駒山地を越えることが出来ず紀伊に転進(敗退)しているが、
一説には紀伊で傷が悪化して死去し、以後は紀伊豪族による
北伐譚とも言われる。 釣針千本てのは鉄器を手に入れた過程でしょう。
海幸は海人=はいと=隼人。
日向西部(薩摩大隅)の鉄器は日向東部(日向)地域に比べて今のところかなり少ない。
争いらしい争いだが、婚姻による宥和によりいったん統一し強力な隼人を味方とすることに成功した。
東征した先で神武天皇崩御後、大隅系妻の子は畿内系妻の子に誅殺されてしまった。
さらに日向東部(日向)から妻を娶るくせに西部から娶らない。
激怒した隼人は長年に渡って抵抗するようになって日向も疲弊して凋落した。 5世紀以後の薩摩+大隅北西部+肥後南部と日向+大隅南東部の墓制が明らかに違うのはその現われだろうね
前者は板石を積み上げて松かさ様の外観の石室に遺体を置いて埋めた墓
&前方後円墳はほとんど作らない
後者は竪坑を掘り横坑(羨道)を掘り家形(切妻型寄棟型)ドーム形の玄室に遺体を置き、羨道は石で閉塞する
&前方後円墳を作る
副葬品は武器が多い 「海人=はいと=隼人」
精薄は必ずこういうことを言い出す まあ、普通に海人は呉音で「ハイト」だからな。
読み方自体は何も間違ってないよ。
隼人は太白の末裔だと自称してるし。 どこから来たかというのは文献はもちろん遺跡遺物の共通性とか
遺伝子の傾向とかそういうものからも考察されているんだろうけど、
花弁状住居は愛媛の四国中央市でも出ているそうな。
土器の出土具合から豊後を経ない伊予との交流も考えられるらしい。 花弁状住居は宮崎や鹿児島東部に多く分布するけど熊本や大分にもある
福岡や佐賀には無いと言われていたけど佐賀から見つかった
佐賀のは弥生中期前半に建てられたもので今のところ最古になってるはず
北部九州からもたらされて日向で最も流行した可能性が出た 佐賀からたった一つ出たのが最古だって? まったく信じやすい性格なんだな。
佐賀のは日向からきた者が住んでいた所だろう。それが常識。 その可能性もあるし一つだけという点で弱みもあるけどこれより古いものは今のところ無い
弥生末〜古墳前期あたりの文化は北方や南方からいろんなものが入ってきて出来上がったものだからな
弥生中期前半の日向は遺跡数が少ない時期で結構自由に人々がやって来ていたのかもしれない
遺跡が急増しだすのは中期後半から後期だよ 最古級最大級は成果をアピールするための常套句
何れにせよ最古をアピールするほど3世紀から離れる 最古というのを眉に唾して聞かないと。どうゆう理由で最古と認定したのかな?
住居址が何世紀のものかなんて難しいんだぞ。 倭国大乱から逃れてやって来た人たちも多いと思うから北部九州が由来で不思議は無いと思うけどな。
鉄器は北方から入ってきたのはほとんど絶対だしさ。
戦乱の跡が無い?んならそのころは平和で平和を求めてやって来た人が多かったろうと思う。 >>254
倭国の乱がどこであった戦いだと思っているの? ヲタ臭い。
高地性集落も西日本全域から出るし、倭の大乱は九州限定ではないし、
つまるところ邪馬台国も九州ではなく畿内。
ヲタはいい加減それを認めろ。 むしろ瀬戸内地域を中心とする混乱。
国譲りは最終段階で国譲りされたのは畿内だろうと思う。
下克上みたいなものか。
邪馬台国は知らんけど畿内なんじゃないですか?と言っておけば面倒からすぐ離れられる。 島津初代忠久は惟宗氏の出で、国内最大の荘園であった島津荘園を治めることとなり
島津姓を名乗った。都城が島津家発祥の地と勘違いされるが都城は島津の名の由来だけです。
忠久は都城に住んだことも来たこともなく鎌倉にいました。山田聖栄の文献、三国名勝図鑑
では、初代忠久は先二出水に来て2年後に都城に住んだとされてますが、この文献も源頼朝
庶子説を広めるために捏造された可能性があり、他の文献等では4代までは薩摩に赴任せず、
5代貞久以降に現川内市に守護所が置かれたのが確かのようです。
だから都城でも島津家発祥とはせずに島津発祥としています。都城の島津伝承館の専門員が
書いた本にも島津氏は出水から都城に来たと書いてあります。どの守護も領地には住まず
鎌倉に住んでいたようです。特に遠地の守護はそうであり、家来を派遣していました。
そこで、元寇の役で博多に集められた全国の守護に北条時宗はそれぞれの領地へ赴任する
よう命令します。島津も5代の貞久から領地へ赴任したのでしょう。
それと、当時の守護は江戸の大名と違い守護であっても領地は土着の豪族が支配しており、
島津も出水から南下して薩摩半島を統一するのは戦国時代です。その後、義弘の時代に大隅、
日向と一気に支配します。
島津の名の由来は都城であり、川内で完全に土着するが家来の支配から考えると出水でしょう。
出水も何も異論を言わないから。また、都城は島津の一族の北郷氏(後の都城島津氏)が島津家の
家来として都城を治めていたこともあり混乱します。都城島津氏は江戸時代に改称しますが、
島津家の家臣で都城は私領です。故に大名ではなく城も持たず領主館に住んだわけです。
佐土原島津家は分家で大名です。都城を巡っては北郷氏(都城島津)と島津家の家老の伊集院家との
庄内の乱も重要です。都城では島津発祥だけが語られ庄内の乱がほとんど語られてないです。
余計なことで長くなりましたがご参考までに。
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-398.html そりゃまあ島津宗家も北郷氏も激怒するわ
秀吉の猿知恵常套手段やわ 瀬戸内系の土器の搬入は弥生後期中ごろまでが中心で後期後半にはなくなるようだ。
九州南部では薩摩まで分布するが宮崎平野部が最も多い。大隅あたりも結構ある。
平野部で目立つのが模倣品や在地と瀬戸内の様式を組み合わせたような形のもの。
搬入品より圧倒的に多くて外来文化に対する態度が分かりそうだ。
瀬戸内への逆の流れは弱いので一方通行的なのは認めざるをえないだろうな。 纒向の外来土器は時期で割合が違うからそっちの方に注目すべきだよな
後に吉備とか西の方の土器の割合が減ってるのは何を意味してんのかなあと 都城の方は縄文晩期にかかるレベルの古い時代の水田跡がある。
花弁状間仕切り住居もあるだろう。
南の志布志湾方面と北東の宮崎平野と違って古墳は少ないが中間点で何か置くには良い地だ。 本州の土器が九州に入っていてその逆は少ないというのは物資の流れを示して
いるんだろうな。 >>263
住む所と古墳を造る場所とはかなり離れていたということだろう。
人々は古墳のない所に住んでいたということだな。 盆地は風も弱くて生産にも居住にも適している
西都原や平野はは台風のたびに暴風 高すぎる堤防や無理なところに道路を作るから悪いんであって
土壌改良や森の若返りには台風は必要なんだよ 堤防も無い時代は氾濫が土壌改良になっておったろうな。
灌漑も施肥も無い時代だろうし降水量が多いのも氾濫も害でもあるがむしろ恵み的に捉えられていたかもしれん。 しかし台風時の風もとりわけ強いだろう台地辺縁を好んで居住地にしている
乾燥し易い土地の方が住環境としては適した面もあるとはいえ上り下りも大変だったろうに 農産物の手掛かりはないものか
水稲だけでなく、陸稲・そば・にわとり、麻とかで、それなら田んぼと畑の行き来に便利な辺縁とか イネ、アワ、ヒエ、キビ、ムギ、ソバ、シソ、ナス、山椒、桃、葡萄、他色々の果実種子
水は下に下りたついでに汲んできてたんだろうな
台地上でも窪んでいれば湧水がある場所もあるし 魏志倭人伝で出てくる植物の中に豫樟(くすのき)があるんだけど、
現在のクスノキの生息割合はwikiによると東海・東南海8%、四国12%、九州80%とのこと。
当然のごとく出てる。 朝鮮半島にはあるが日本には無い植物もあるとして、
使者がやって来るまでに見ればじゅうぶんとの意見が大勢だ。 楓香がフウという植物のことで当時の日本には自生していないそうだ。
18世紀に入ってきた植物らしい。
カエデのことだと言う人も居るし現代日本語訳すら定めきれていない。 クスノキの自然林は北部九州が北限。
それより北のクスノキは人手によるものと推測されている。 フウというのは台湾、中国南部が原産地らしいけど、
朝鮮半島でも確認されてるの? カエデは葉が5〜9裂するがフウ(楓)は3裂らしい。
トウカエデ(日本名:唐楓、中国名:三角楓)は3裂で、分布の中心は長江流域だが
遼東にも自生していて朝鮮でも育つはず。このトウカエデをフウと同一視した可能性
があるかな?葉が裂ける様子からぱっと見でカエデとも同一視したかもしれない。 それなら「使者がやって来るまでに見ればじゅうぶん」はやや早計の感あり 都城は熊襲が北上して宮崎、西都まで勢力を延ばした時に中継地点として発達したのでは。
諸県の君のような有力者もいたし。下手すると彼は応神天皇で東串良の唐仁古墳に埋葬された
人物で、神武天皇と同一人物で東串良の柏原から東征して宮崎、西都経由で美々津から再度
東征したかもしれない。東征は桜島、霧島などの火山の爆発で移住だった可能性もあり。 そのころの地域間関係は知りたいんだけど遺跡の状況から推測するしかないんだよね ・卑弥呼の時代の前、倭国大乱より前に始まった集落が、建て替えられながら
古墳時代になっても同じ場所で継続してる。
・奈良にあるような最初期の前方後円墳が宮崎市や西都原にも作られている。
・イザナギが禊払いをしたとされる阿波岐原(檍原)の比定地のひとつの檍古墳群には、
墳形と埋葬主体部が奈良のホケノ山と非常に良く似た古墳がある。
弥生末から古墳初頭のことだが想像される状況は一通りではないですよね。 簡単に言えば、奈良と宮崎とが同じ勢力の範囲内だったということだろ。 宮崎が前線?
他に攻めるところがあるんじゃないの? 宮崎も渡来系の熊襲の流れか。宮崎県から大隅・薩摩半島までのひむかの国だけが
空白地帯となっている。どうも神話に封じ込まれて歴史が捏造されている。
明治維新後も同じことが起こった。今後の遺跡発掘で新たな証拠が出ることを期待したい。 投馬国=馬を供給する国
邪馬台国=呪術で治め、馬の形をした台にある国(でも馬はいない)
変かな? そうそう
皇帝のおわす所みたいな意味の台だと言われることが多いけど台地のことだと言う人もいる 古墳も圧倒的に台地に多いのだが古墳と言えば盗掘痕のあるものも多い。
聞くところによると昭和になったばかりのころ何者かによってかなりが盗掘された。
持田古墳群が特に盗掘がひどいらしい。
生目古墳群の1号墳もそのころ壊されかけたらしく後円部の一部が削られてる。 ふんはどんどん壊されていく。卑弥呼の古墳はもうないかもな。 盗掘されているとしたら、盗掘品は誰かが持っているのかな >>295
県外の何処か誰か
当時の人が激怒しながら追跡調査して一部は照合されている
今までの判明分の合計で持田から出土した鏡は30数枚で画文帯が5、6枚あるらしい それとは関係ないけど穀璧についてこういう報告書が
文政元年戌寅二月日向国那珂郡今町農佐吉所有地字王之山掘出石棺中所獲古玉鉄器三十余品之一、
蓋日向上古之遺蹟多厶所謂王之山亦必非尋常古縁也
今見ル所ノ璧面恰粒子ノ如ク凸起セルモノアリコレ呉氏ノ所謂穀璧タルモノナリ
即コレ周代子爵諸侯ノ天子享用ノ器タリシモノナラム真二希世ノ珍宝卜称スベシ
弘璧ノ大サニツイテ云ヒ穀璧ハ製作ニツイテ云即コレ宏璧ニシテ穀璧タルモノカ
明治戊申二月念二日夜稿
文政元年戊寅二月、日向国那珂郡今町村農佐吉所有ノ字王ノ山カラ掘出シタ石棺中、
古玉、古鉄器三十余点ノ内ノ一ツデアル。
然ラハ如何ニシテ日向ノモノガ遠イ金沢ノ前田家二伝ハツタカトイフト、
彼ノ幕末ノ北地探検家トシテ有名ナ松○○○郎氏ハ、古器類アサリヲヤリ日向二来タコトモ前後四回二及ビ、
昭和三十年四月 日向遺跡調査報告書第二輯 宮崎県教育委員会 より抜 この穀璧が大和の地から出ていれば、畿内説で決まっていたものを・・・ 人力で整地できるくらいの小さな古墳が畑の中に散在しているわけで。
良心で保護されてきたものをわざわざ荒らし盗みに来ることに何か覚えなかったんかね?
出土の経緯があやふやになってしまったら何割も割引かれますわな。 穀璧じゃなくて持田古墳群の方ね。
穀璧は偶然出土したものを保管していた人が譲渡なりしたんだろうと思う。
行方不明になるよりはきちんと保管してくれる名家に渡して良かったとも言える。
事実今まで失われずに保管されているし。 鉄器という点から墓の築造は弥生後期後半以降だろうとは思うけど
石棺がどういう形だったかだけでも記されていればなあ
もう少し詳しい時代が推測できたかもしれんのに 時代は穀璧自体からも推測できるよ。後漢時代、つまり卑弥呼の直前くらいだろう。 その穀璧は周代のものだとされてますけどね。
伝世品なのかなと思うが推測でしかないし何とも言えんわな。 前田家に渡って良かったというか前田家だから渡したのかもしれない。
というのは余程の富裕者でなければ売り飛ばしてどこかに行くだろうし、
かといって国やその下部組織では強いバイアスをかける可能性がある。
第三者で確かな家に渡したいだろう。 串間からは明刀銭といって燕(戦国)の刀子のような形をした刀銭も出土している
明刀銭が出土したと伝えられる地は他にもあるのだけどね広島とか沖縄とか どこから出たのかそのへんを明らかにするための再発掘とかあるしな。
明らかにならないと穿った見方は消えんけど無いものはしかたない。 昔のそういう出土の仕方じゃ駄目だ
例えば後世の倭寇で分捕ってきたものだとかそんな可能性が排除できん ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています