そう。日向は元々大隅薩摩を合わせて日向国。建日別。熊曾国。同族的であり戦に明け暮れていたわけではなかった。
記紀によれば何かの理由で日向(薩摩大隅日向)から東征した。
純粋な日向の系統はすぐに絶え、大和の血がだんだん濃くなりアイデンティティは無くなった。
大和に近い圧を受け易い日向(のち+薩摩)は婚姻と不戦を選び、大隅(はじめ+薩摩)は徹底抗戦を選んだ。
初めは日向勢力も大きく何度も日向から妻を迎えて例えば雄略天皇の皇后も日向女の娘である。
同時に大隅薩摩との争いが不可避となり日向豪族も戦いを余儀なくされた。
大和と隼人の間で退くに退けない状況。
争いは数百年に及び疲弊していき豪族の力は次第に弱まり人々は貧しくなり少なくなり古墳を作る力はなくなり、単なる大和の先兵と化して行った。
大和から最も遠い大隅コア部の反乱が隼人の最後の抵抗である。
全てが終わった時、日向には荒れた土地とわずかな人しか残っていなかった。