漢委奴国王印 いわゆる金印
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天明年間、筑前国那珂郡志賀島志賀島に於いて甚兵衛なる百姓が田圃仕事中に偶然発見したとされる。
・「漢委奴國王」を何と読むのか?
→かんのわのなのこくおう
→かんのいとのこくおう
文化庁編「新増補改訂版 国宝事典」(便利堂、1976年)
「その訓みについてはなお定説をみない」
・後漢書の印綬と同一か?
後漢書「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」より
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」
・そもそも真物か?
出土地も確定できない問題がある 171 :日本@名無史さん:2012/06/03(日) 09:23:26.07
「漢委奴国王」の金印ストラップ人気 福岡市博物館
福岡市・志賀島で出土し、市博物館が所蔵する国宝「金印」をデザインした携帯ストラップが人気だ。
亜鉛合金製だが、黄金の輝きは本物そっくり。
1個千円。4月から販売し、約300個売れた。「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた
印面も蛇型のつまみも細かく再現されている。
市博物館には同じ大きさのレプリカ金印(3675円)もあり、「もっと手ごろなものを」と企画した。
約7割の大きさだが、弥生時代に贈られたとされる本物と同じ中国製だ
http://www.asahi.com/national/update/0602/SEB201206020010.html
http://www.asahi.com/national/update/0602/images/SEB201206020011.jpg
写真:福岡市博物館が作った金印ストラップ拡大福岡市博物館が作った金印ストラップ
>本物と同じ中国製だ
コーヒー噴いちまったじゃねぇか! 「親魏倭王」の金印が何処に埋納されているのか興味があるけど、
いつの日かこの金印が発掘されるようなことがあったら日本中が大変なことになるだろうな。 >>4 親魏倭王の金印は日本にあるとすれば、大和が九州邪馬台国を制圧したときに手に入れて、現在は宮内庁がもっているということになります。 俗に言う「魏志倭人伝」の内容自体がデタラメだし w 気まぐれの記念ホルダーみたいなものだったらイヤだな。 盗品・売買品・質流れ品の可能性やあと偽造の疑いも完全に晴らすことはできてない
出土状況も明らかでないただ日記のような記述があるだけ
参考史料程度にとどめるのが正しい姿 偽造たって、金製なんだろ?
無茶高価なのに、何のメリットあるの? 学問が盛んな時代に現れた愉快犯
藩主の徳を称えるため
だったはず、小説では 出土物を調べ、忽ち後漢書を引用して由来を論説した亀井南冥の博学ぶりも
贋作説者の手にかかると偽造の張本人にされちゃう気の毒さだ
仮に贋作だとすると、何を手本として作ったのだ
寸法重量字体それに蛇鈕、参考にできる品がどこにあったのだ 奴国にせよ委奴国にせよ、志賀島はどう関わるの?
首都があったの? >>19
風土記に記載があるとかいうんでなかったっけか たとえば、糸島や博多の古墳から盗掘した本物を元に、レプリカを創って志賀島で出土したかのように自演したとか
明石散人はそんな推理をしてたような 偽造たって、無茶金かかるぞ。
金印って内部は別の金属で、金メッキでもしているんか? 漢の倭の奴の国王と三段に呼ぶのは、奴国に対して
失礼な印の造り方でありえない。
倭の人偏を省略するなんて、正式な印の造り方ではありえない。
ここは、漢の委奴国(伊都国)王印と呼ぶのが正解。 かんのわのなのこくおう
と呼ぶと発表した人は志賀島が、奴国の領域という先入観念からの発想にある。
石井好氏は調査で、志賀島は「天御中主」を祭る密度が最も濃い地域
海人ー天ー伊都国の領域と発表している。 国家の印にしても地方の印にしても大事なものだから受け継ぐ者がいなかったのかな。
どういう経緯で土の中に埋まったのかの方が気になる 越青邑君 瓦鈕
越貿陽君 瓦鈕
※宣帝時期贈給少數民族的官印首字始署“漢”,
下為民族名。東漢印沿襲宣帝以來傳統,首字也多署“漢”。
新越餘壇君 瓦鈕
新難兜騎君 瓦鈕 志賀島、能古島、室見川を堺に西の日向川や、吉武、金武などの遺跡は
伊都国の遺跡だろう。
イザナギが生の松原付近の小戸で禊したとしても、伊都国の王ならば
伊都国に出雲から戻ってきたのだから、不思議では無い。
糸島から日向峠に登ると、
日向峠の出口には飯盛神社があり、
そこにはイザナミが祀られている。
そこから海に向かうと小戸港である。
立花山はかなり離れた東区の方だから、
別の山か地名を指しているのかもしれない。 室見川という名も、イザナギがイザナミの室を見てしまった、禊の
由縁を記録したのかもしれない。 いまぐぐってみたが、見事に、室見川の名前の由来に関する情報が
見当たらない。 イザナミを祭るとかイザナミのお話を見て後から作ったに決まってんだろ・・・
俺の田舎の三重にも日向はある東京にも日向和田とかあるがそこが邪馬台国かああん?
水行十日陸行一月で東京かあ・・・九州よりは可能性あるな
邪馬台国東京青梅説始めていい? 同じ地名がある場合、その地名の根源地がある場合があるようだ。
石井好は「伊都国日向の宮」の書で、丸地名の根源が伊都国で
その拡散密度の勾配がー1乗で良く合致していると報告している。
日向は知らんけど。 ・「漢委奴國王」を何と読むのか?
→かんのわのなのこくおう
→かんのいとのこくおう
中国人学者間での有力説は
→漢委なこくおう。「委」を使ったのは
他の冊封国と違い中国の風下ではあるが中華秩序の外に位置する独立した地域という認識の為だろうと 漢が奴国王に委ねるという解釈は、肯定するにも否定するにも、
決定打がなく難問だね。
国王印をもらったようならば、王の名前が残っていてもよいのだけど。 官印というのは官職名や爵号を刻んだものだから、
漢が奴国王に委ねるという解釈は、除外していいと思う。
「漢委奴國王」をどう読むのかを考えるには、当時の印章について
深く知る必要があるので・・・
羅福頤主編《秦漢魏晉南北朝官印徴存》檢索表
ttp://bbs.sssc.cn/viewthread.php?tid=148379&extra=page%3D1 対等関係だった時期の匈奴の単于にも玉印を贈っているから
中華秩序の内と見做さず、漢委〜と刻んだ可能性も除外できないでしょ。 匈奴の単于の場合は「匈奴単于璽」だけど、史書を読めばその特殊性は容易に理解で
きる。
多くの修飾辞は、「帰義」、「率善」、「率衆」といった2字での構成。
1字の「親」の場合は「親+国号」の形式。
「委」が修飾辞なら「委漢」の方が自然だと思う。
他に「漢委」が修飾辞であることを証明、またはその可能性を見い出すような文献や
印章などの遺物がないかぎり除外したほうがいい。
「漢委」が修飾辞である可能性はゼロではないけど、推測を根拠にする行為はかなり
危険なので・・・
無い無いそれは絶対に無い。
委漢だと委の前に省略された目上の存在が漢に委ねる意味になる。
例えば委漢奴国王だと、(任命するにも拘らず主語を省略した誰か)が
漢に属する奴国の王へ委ねる、となり意味不明な印章になってしまう。
同時代の漢書にも(偉い人)委任〜 (偉い人)委政〜 という表現はよくあるし
諸葛恪伝に「大行皇帝委弃万国 群下大小莫不傷悼」の一文が
東夷伝に「而公孫淵仍父祖三世有遼東 天子為其絶域 委以海外之事遂隔断東夷」が
宋記に「漢委蕭何以関中 唐委劉晏以東南」の一文が
貞観政要に「秦任趙高卒致傾敗 漢委王莽遂成簒逆」の一文がある 委漢だと委の前に省略された目上の存在が・・・・>>とりあえず、「委」を「親」に
「漢」を「魏」に置き換えて考えてみたが・・・・43がそのように考えるのかよくわからん。
なんどでもいうが、官印というのは官職名や爵号を刻んだもの。
印文を普通の文章のように解釈することの方がおかしい。
例えば、「漢委奴國王」を「漢が奴国王に委ねる」と解釈をした手法を用いて
「晉高句驪率善邑長」、「晉率善韓佰長」を解釈することは不可能。
とりあえず、当時の官印の印文を用いないのは何故?
40で提示したリンク先ににたくさん載っているだけど・・・ そもそも、漢の委の奴の国王と最初に読んだの誰?
やっぱ亀井南冥が最初なの?
金印発見の報はすぐに京、大坂、江戸の学者達にも伝わったらしいが、委奴(イト)と読んだ人はいたのかな?
蛮夷の国や民族は基本二文字が中華思想的にデフォなんで、委奴でも不思議じゃない気がする >>44
所詮仮定の話だから何とも言えないけど
例の2つは晋の官職や冊封を受けての称号なのに対し
仮に漢「委」奴国王だった場合は、中華秩序の外のその辺をおまえに委ねる
という感じの意味になるから、晋の(に属する)高句麗の善く率いる邑長や
晋の(に属する)韓の善く率いる佰長と違って、漢は委ねる奴国王に、みたいな意味になる。
漢の皇帝が中国の秩序下に無い相手へ印章を贈った例が他に無いから
まあその辺はアレだけど、当の中国人が冊封体制の外だという仮説を唱えてるし
無碍にも出来ない思うけどなあ 「漢委奴國王」印の文字改行が
漢
委奴
國王
となっている。漢が奴国王に委ねるならば
漢委
奴国
王
とかにならないだろうか。 「漢の委の奴国の王」だろ。
「国王」という称号は漢代において一般的ではない。
「漢匈奴悪適尸逐王」「漢匈奴悪適姑夕且渠」「漢匈奴栗借温禺鞮」印からすると
王朝名を先頭に以下、民族名・部族名・官爵名になる。
委奴をイトと読めば、それはイト族であって倭族(倭人)ではない。
それだったら倭伝には記載されない。 >>1
残念ながらその解釈は成立しない。
1 その解釈でわ、あくまで大和がちいさかったころの小和しかハンズにならない
2 その後、事実上シナ、半島、大和はモンゴル属国になったため
(大和700〜900年) (半島700〜1900年) (シナ 700〜1900年)
もはやシナ主権性ならず、シナが属国となり、
日本はほげん、へいじ、へいけ、承久と大和をやぶったため、別解釈になる。
そしてそんなことより、中元に覇をとなえた日本のほうがすごいんだが。
中原に覇をとなえたことが、もっともおそろしいから、ってうそ虐殺 つくるのやめようよ。
そして、シナは常にモンゴル属国なため、朝貢の主権性がないんだよ そもそも
柵、朝貢とかふざけすぎだろ。
1 シナが常に柵される属国。 完全に
『シナがモンゴル属国だっただけ』
2 朝貢とかいうけど、シナが常に朝貢してたろ。なんで清前からシナが貿易下位で属国なんだよ。
3 そもそも柵、朝貢というなさけない制度はシナがしてもらったため、条約上正規の性質がない。
4 また、下調べ、事前協議ない状態で、しかも政治者じゃないものとも結ぶため
(非政府間条約) すでに政治条約として機能しない。
5 明なんかは完全に。
元属国で主権国家でわない、盗賊国家の明が死ぬほど、元の再来をおそれ、主権国家と独立するため、
単于を撃破して、いわば、周辺の 覇=@で独立国の日本国に
独立承認を拝受願いに来て
しかも
アホの盗賊だから、日本にびびりまくって 海賊なる偽か遺族をつくって恫喝←一蹴
すでに日本の行政でもない天皇の独断専行でむすばされそうになった条約で
しかもその天皇流され、足利が独断専行
しかも足利は行政でも、主権でもない。 ぶっちゃけ権限内、個人間という条約つまり条約じゃない。
そして明が独立を拝受して、そして、
『ヲマ、状況が状況だから承認してやるけど、ヲマ、海賊とかなめたことぬかしたら、惨殺だからな、中原とか燃やすからw』
とかいわれて、けん制され、犬のごとくびびりまくったんだろ。
アッホだろ。そして底面だからその条約10年で破棄されんだぜ。詐欺だし、シナ勝手なこと抜かすし。
そしてやはりこの条約、正規条約でもなく、
ただの1日本有力者承認でしかないんだよな。
まぁ歴史的に見れは、日本が柵し、日本が覇で、日本が中原に覇をとなえたと。
そもそも歴史的に
1 首都を制圧して覇をとなえるだけで、毎回毎回完全にシナ支配者になれる。盗賊上がりだろうと、
2 外国人でも
という歴史で
上都 北京 成都 南京 というほぼ全都をおさえるとう前代みもんの快挙をした。
でうそ虐殺作成と、そりゃおそろしいよな。政治の正当性がないから歪曲と >>49-51
リアチョンかw
捏造工作はまず本国でやれよw
日本での工作は在日韓人団体に頼めw 委奴(イト)と読む場合は福岡県糸島市を比定している
ここは、いわゆる魏志倭人伝にある伊都国と同じ
金印を授かって50年後に倭国王帥升が朝貢しているが、この帥升をイト国の王と推定する人は多い
誰に下された印にせよ、何故に流れ流れて志賀島なんかに埋まっていたのだろう
これこそ最大の謎ではないか 西戸崎って江戸時代はどんなとこだったの?ただの農地?
蛇の形をした紐通しは何の意味があるのさ
あんまり蛇にも見えないけど >>58
> 蛇の形をした紐通しは何の意味があるのさ
『漢旧儀』の規定によれば、・・・
皇帝・皇后は螭虎鈕、皇太子・丞相・大将軍・列候などは亀鈕、諸候王は橐駝(駱駝)鈕、そして千石以下の役人は鼻鈕とされている。
その適用の厳しさは、出土印を網羅した『秦漢南北朝官徴存』(羅福頥編1987)で検証できる。
・・・駝鈕は漢代を通じて匈奴などの北方諸民族(韓族を含む)に61例と集中しており、諸候王が漢朝廷のそれでないことがわかる。
つまり、明記はされていないが、『漢旧儀』の諸候王が正確には外臣である北方民族の諸候王をさすことを示している。
東夷の得た官印の最古の遺存例は、‥‥平壌市出土の「夫祖ワイ君」駝鈕銀印である。
紀元前後のころのものだが、以後、晋印に韓・濊・夫餘・高句麗の例がある。
韓が駝鈕であるのをはじめ、馬鈕をまじえるものの駝鈕が多い。
したがって、駝鈕を東夷を含めた北方民族(北狄)用とする印制が確立していることを理解できよう。
(「漢委奴国王」金印は)蛇鈕という特異な鈕の形態を理由のひとつとして偽物説がつきまとう段階があったが、
雲南省晋寧県石寨山6号墓からの「滇王之印」蛇鈕金印の発見と、
岡崎敬による綿密な論証によって、現在は真印と認められている。
・・・すなわち後漢において北狄に駝鈕、西南夷に蛇鈕を与えるという印制が確立したと推定できるのである。(高倉洋彰) 漢舊儀補遺卷上
諸侯王印,黄金橐駝紐,文曰璽,赤地綬。列侯黄金印,龜紐,文曰印。謂刻曰某侯之印。丞相、大將軍案:初學記引無「大」字黄金印,龜紐,文曰章。謂刻曰某官之章。御史大夫章。匈奴單于黄金印,橐駝紐,文曰章。
漢舊儀補遺卷下
冊皇子為諸侯王,皆於上東門中,以東門在卯故也。
諸侯王薨,天子遣使者往,使者皆素服。
ttp://www.chinapage.com/big5/history/hk6.htm
ttp://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wa04/wa04_06647/index.html
夫租ワイ君 銀印駝鈕
ttp://www.whj.dl.gov.cn/info/158883_179845.vm
晉率善韓佰長 駝鈕
晉率善韓佰長 駝鈕
晉率善[*佰]佰長 駝鈕
(晉率善貊佰長)
晉夫餘率善佰長 馬鈕
晉高句驪率善邑長 馬鈕
晉高句驪率善邑長 馬鈕
晉高句驪率善仟長 馬鈕
晉高句驪率善仟長 馬鈕
晉高句驪率善佰長 馬鈕
晉率善穢佰長 馬鈕
(ttp://gsm.nricp.go.kr/_third/user/frame.jsp?View=search&No=4&ksmno=7381)
魏烏丸 11個中-駝鈕11個
魏鮮卑 3個中-駝鈕3個
晉烏丸 12個中-馬鈕12個
晉鮮卑 16個中-馬鈕15個、亀鈕1個 誤>62 諸侯王印,黄金橐駝紐,文曰璽,赤地綬。列侯黄金印,龜紐,文曰印。謂刻曰某侯之印。丞相、大將軍案:初學記引無「大」字黄金印,龜紐,文曰章。謂刻曰某官之章。御史大夫章。匈奴單于黄金印,橐駝紐,文曰章。
正>諸侯王印,黄金橐駝紐,文曰璽,赤地綬。列侯黄金印,龜紐,文曰印。丞相、大將軍黄金印,龜紐,文曰章。御史大夫章。匈奴單于黄金印,橐駝紐,文曰章。
金印は江戸のゴッドハンドかもしれん。
伊都国は重要なキーポイントで畿内説にとっては伊都国はどうしても九州の北岸に持ってこなきゃならない。
糸島と伊都国に目を付けた。
倭人伝ではどうやっても伊都国を糸島に持ってこれない。
だが奴国を福岡平野に持って来れば、伊都国を糸島にできそうだと。 >>67
それはわかるがこないだ科学鑑定の途中経過みたいな
本が出てて、大陸で発見された印と同一工房説は否定されてね?
つまり専門家の説とか意見も怪しい、という意味なんだけど。 金印は本物やもしれぬが
本当は福岡平野の真中で見つかったことにしたかったのだが人目が多いでな・・・
志賀島でも意の大半を叶えてくれるよって
現地民に銭を握らせ畑を耕していたら出たと、な
弥生後期の層は数十センチで出ることもあるが1m50から2mくらい下にあることが多いのよな
畑を耕していたら出る、ほぼありえんのよな
記憶や口承にあったものはどうにもならぬので誤魔化しずらししたものが記紀と思うくらいに考えるべし
外国のものは焚書も改変もできなかったのでおかしなことになっとる 福岡奴国の税関のような機関が置かれていたんだと思う 志賀海神社は小さな神社だが、代々阿曇氏が祭祀を司る
鹿角堂があり鹿の角一万本以上が奉納されている
筑前国風土記に神功皇后が三韓征伐の際に志賀島に立ち寄ったとの記述がある
志賀島は古代は神聖な場所であったのだろう >>65
正論が主流になることはまずないのが、日本の学界 蛇鈕というが、あんまり蛇に見えないのが難点だ
製造に失敗して意図したのと違っちゃったんだろと、贋作説の三浦さんが言っているが
そこのところは同意したくなる 漢(皇帝)は奴国王(師升王・・・スサノオ)に印を委ねる。 ぬ、な、や、ま、ら・・・国、領土、領域、領地、土地(場所)などを表す古語。
奴国・・・「なら」 >>77の説はまさしくそうだね。日朝同祖論で必ず出てくる。 >>75
そうそう。
しかもすぐに説明書作った人が「ヘビ」と言い切っちゃってるのが
一番笑える。
お前知ってた犯人の一味だな、って告白してるようなもんだ。 疑い出すと、廣陵王璽も ぁ ゃ ι ぃ ということになる >>81
古墳から出土したんじゃなくて、発掘現場から出た土を捨てた山から出てきた
・・・のだってな 石器はちょい心得がある人ならあちこちで掘り出すことができるけど、
金印を偽造するとなると、無茶金がかかるから偽造説は怪しいな。 古代○○の金細工のニセモノ(素材は金)なんてのは今でも普通にやってるが 志賀島が神聖な場所だったとすれば、金印がそこにあっても全然不思議ではない
おそらく奴国王は後の阿曇氏だったのだろう
阿曇氏は志賀島を聖地とし、綿津見三神を祀った
金印があっても不思議ではない 阿曇族は全国に散らばっている。
倭乱の敗者側だろう。 >>88
そんなモン、金メッキだろ?
金印は全部金だからな。無茶高価。 小判数十両分を無茶高価と呼ぶのは評価の分かれるところだな >>92
金メッキって、パチモンと贋作を一緒にするなよ >>91
>阿曇族は全国に散らばっている。
>倭乱の敗者側だろう。
うんにゃ。神武天皇の祖母と母は阿曇氏だよ。
全国に領土があるのは、天皇家譜代の重臣として日本を山分けにした結果。
明らかに勝ち組の方。だから邪馬台国との関係はよかった筈だ。
つまり奴国の覇権を倒したのは邪馬台国ではなく、須佐之男を奉じるどこかの国で、
邪馬台国がその国を倒す事で奴国は邪馬台国の臣下になったのだろう。 弥生時代末期、
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)国も、跡継ぎを巡る「大乱」で卑弥呼(アマテラス)に国を譲る。
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向→神武東征≡瀬戸内海⊇≡大和
....................隼人(鹿児島)
筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国(後の熊襲)を滅ぼす。
その男系末裔であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東征(東遷)。大王に即位し、大和朝廷を樹立。
※記紀が投馬国王の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の叔母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
(台与の子孫である)大王家の時間軸操作。
-大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=投馬(日向)系大王
※
-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>>>ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇、筑紫系天皇の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都
一白
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