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藤原氏はなぜ長続きしたのか?
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0001日本@名無史さん
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2012/06/20(水) 02:12:42.95
奈良時代から明治まで
0182日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 10:39:09.92
日本語が藤氏有利に不公平にできてるから(人工比が違う)
藤さくさい藤語に敏感になり排除すればいいさ。
0183日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 10:39:12.41
>>98 三河が農民とか?wお前の頭は大丈夫か?w


室町幕府 西三河の日本支配構造

【奉公衆】
・奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである
・将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた
・奉公衆の人数は全国合計250〜300人
・三河国の奉公衆は全国で最大人数、又三河国出身の奉公衆も最大人数

・5番衆の番頭
一番番頭 細川氏、二番番頭 桃井氏、三番番頭 上野氏、、四番番頭 石垣氏(畠山氏)、五番番頭 大館氏

三河国の奉公衆一覧(全53家)
【藤姓熱田大宮司一族】
千秋、萩、星野、二階堂、毛利(大江氏流)

【足利一族】
荒川(戸賀崎流)、一色、伊奈、上野、吉良、天竺(細川氏流)、仁木、細川、三淵(細川氏流)、和田
【足利被官】
饗庭、朝倉、飯尾、岩堀、大草、高、久下、小嶋、中条、二宮、彦部
【三河源氏】
足助、水野
【三河伴氏】
設楽、黒瀬、富永
【美濃源氏】
土岐、長山(土岐氏流)
【桓武平氏】
伊勢、神谷、山下
【その他】
宇津野、大内、借宿、河内、小林、疋田、桜井、進土、杉山、堤、長、西部、本郷、松平、丸山、三浦、大和
0184日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 10:45:21.50
しかも農民とは真逆だろがw


日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝

◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数

◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている

◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ

◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
0185日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 10:46:29.28
巧みに差別用語を駆使する藤氏。藤が全てさ。
ちなみに藤姓を持つものは藤原氏ではない。
0186日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 10:52:08.12
>>174 秦氏と平氏はペルシャ。源氏は中央アジアの騎馬民だったから出自はペルシャだな。
蘇我の出自はよくわからんが藤原の出自は扶余。
0187日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 11:02:09.18
>>160 日本人が騙されやすく馬鹿なんではなくて、藤原にありがちな手法は言論統制や言論を支配して圧力をかける。いわゆる放送禁止用語とかも作っちゃう。
弱者や少数派を徹底的にこき下ろす。いじめとは藤原の縮図。
0189日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 11:41:27.12
バビロン捕囚があったからペルシャにいてた一派があったとさ。だからペルシャと混血してる。
秦の出自はイスラエル。
0190日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 11:44:43.20
アケメネスの時代だな
0191日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 11:52:21.61
>>161 こういうアメリカナイズされた嘘を兵器で広めるのが藤原。全人類の出自はアフリカかもしれないが、
コーカソイドはコーカサス出自。ノルディドはフェロー諸島辺りの出自。アトランティドはアトランティス出自だ。
スラブはスラブ出自。ウラリックはウラル出自。
0192日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 12:09:48.39
予想はしてたけどやっぱり現れた三河厨。
このスレカオスになってきたな。
0193日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 14:27:48.45
トンデモ満載。
誰か、わざとスレつぶしやっているのか?
0194日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 15:11:45.26
トンデモ論は個別にスレ立ててやってほしいなぁ。
レスする気も無くなって来るよ。
本人はトンデモと思ってないから性質が悪いんだけど。
0195日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 15:34:08.42
三河を農民気質とかwお前は司馬遼太郎か?w
0196日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 17:53:48.49
>>178
蘇我娼子の兄で連子の嫡男であったとみられる蘇我安麻呂は天智朝に没したとみられ、他の兄弟もいたようだがあまり動向が知られない。
蘇我安麻呂の子で、娼子の甥にあたる石川石足(蘇我氏は石川氏と改姓)は、
天平元年の長屋王の変で、藤原武智麻呂らと一緒に長屋王邸に赴き罪の糾弾を行っており、
また、この直前に石足は権参議に任じられていることから、藤原四兄弟の長屋王排斥に加わっていたとみられ、
娼子の縁でその子である武智麻呂らと親しい関係にあったことが分かる。
その後も石川氏は細々と朝堂にあったが、やがては没落していったようだ。
蘇我氏は藤原氏の外戚と言っても、蘇我と藤原の婚姻は娼子一人で終わったようで、
娼子の息子たちが石川氏の正室を娶るということはなかった。
娼子自身、大宝元年(701年)までには亡くなっていたとみられ、その後、不比等は
県犬養橘三千代を後妻に選んだこと、不比等が後宮運営に乗り出す手駒となった
藤原宮子や藤原光明子は娼子の子ではなかったことなども挙げられる。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/08(火) 21:00:52.22
平氏に政権を明け渡してから明治維新まで1000年近く国政から離れてたブランクあるのに
明治維新後にガチガチに自分の利権を固めた藤原一族ってすごくない?
0198日本@名無史さん
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2013/10/08(火) 21:30:20.50
>>196
なるほどね。蘇我氏との姻戚関係が続いていたわけではなかったのか。
そういえば三千代との縁も不比等にとっては大きなもんだよな。
数代後北家の冬嗣が躍進するのも妻の縁が有効だったらしいし
妻の選び方も巧みな一族なんだな。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/08(火) 21:35:22.79
>>197
一応突っ込んどくが鎌倉期は国政から離れてないから。
鎌倉幕府はあくまでも有力な地方政権で
国政全般を握ってないから。
承久の乱蒙古襲来を経て段々その影響力を西国まで強めたけどあくまでも地方政権。
国政を握ってたのは朝廷だからね。
0202日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 02:37:11.90
>>183-184
それはウソだらけだが、それが全部本当だったとしても、
「三河とえいえば農民」だろ。
どこのど田舎にも名目上の領主はいる。
でも農民しか住んでない。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 03:43:19.21
みなさんは愛子様とタルヒト様
どっちが次期天皇にふさわしいと思います?
俺愛子さま
0204日本@名無史さん
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2013/10/09(水) 05:29:09.56
>>202
お前は名古屋臭いな、気のせいか?w

万年パシリで悔しいんだろうが、その領主やら一人で戦うのかよ?w
その領主も当然三河武士で、現在まで残る名門の細川氏は代表的例だわな
三河で田畑を耕し、文武に励んで、軍事力を蓄積していた細川氏は、鎌倉末期に爆発した


尊氏が鎌倉を300人程度で出発し、三河に入る時に500人、三河を出る時には3600人に膨れ上がった話と辻褄があわんだろうが
0205日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 05:33:53.71
名目上の領主とは、これの事かい?w


足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。

19家とは

01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職


太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
0206日本@名無史さん
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2013/10/09(水) 08:53:54.93
三河馬鹿の岡崎市民は消えろw
2ちゃんねるのいくつのスレを占領してるんだ
他人の迷惑考えろ
0207日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 09:46:26.64
藤原季範って名古屋の熱田生まれで、京都にほとんど居住してるよな。
三河に居住してたことなんてあったのか?
0208日本@名無史さん
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2013/10/09(水) 10:09:21.10
>>201
しかしそいつらが摂関になることはなぜかない
0209日本@名無史さん
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2013/10/09(水) 10:09:53.02
尾張生まれの記録はどこにもないだろ、wiki情報は止めよ


大宮司になる前の分かっているのは、尊卑分脈に記載されている

・額田冠者(三河国額田郡)と呼ばれていた
・父親と三河に住んでいた


これだけ
0210日本@名無史さん
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2013/10/09(水) 10:20:43.76
正確には、頼朝は元大宮司の娘の子供だからな
家督を五男に譲って、数年後に自分の菩提寺内に寺を建てていると言う事は、三河に帰って、真の姿である三河武士に戻ったのかもしれん
つー事は由良御前が頼朝を生んだ時の父方の実家は、三河の屋敷と言う事になる

【1137年】神のお告げで大宮司職を五男の範雅に譲る
【1140年】夫妻で菩提寺である滝山寺(三河国額田郡滝、愛知県岡崎市)内に蓮華寺建立、仏性灯油料として三河国額田郡恵那河内郷を寄進する
【1145年頃】娘:由良御前が源義朝の室になる
【1147年】娘:由良御前が源頼朝を産む(生誕地は京都もしくは三河)
0211日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 11:57:33.26
>>208
鳥羽天皇が即位するとき、鳥羽天皇の伯父藤原公実が白河法皇に
新帝の外戚であることを持って摂政に任じられることを望んだが、
公実は祖父の代から大臣が出たことのない家の出あることから退けられ
藤原忠実が摂関の地位を保った。
これにより、摂関家が固定。
天皇との外戚関係に関わらず、藤原北家頼通流が摂関を世襲することになった。
0212日本@名無史さん
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2013/10/09(水) 14:16:01.40
そんな狭き門である摂関家なのに、なんであっさり断絶してるんだ鷹司…
養子のあてとかなかったの?
0213日本@名無史さん
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2013/10/09(水) 14:31:51.09
>>212
摂関家が養子を迎えることができるのは
他の摂関家からか、天皇の皇子だけだよね
0214日本@名無史さん
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2013/10/09(水) 15:04:28.07
>>211
でもそれで固まってしまうのが不思議
0215日本@名無史さん
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2013/10/09(水) 16:11:20.92
>>214
二つからくりがある。
それは「有職故実」(しきたりある種の儀式マニュアル)と「摂関家領」
この時期なぜか知らんが有職故実を知らないと政務ができないことになっていた。
有職故実は父親か近親者から習うか、
家に代々伝わる日記などを通じて男系子孫に伝えられる。
摂関には摂関の有職故実があり、摂関家(忠実の子孫)がそれを独占的に男系相続するようになっていた。

ちなみに平氏は成り上がりで有職故実を持たなかったので政治の場から除外されがちだったので
有職故実を持つ公卿と婚姻関係をむすび自分達の政策を通してもらっていた。

続く
0216日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 16:30:57.94
>>215続き
もう一つは摂関家領と武士。
鳥羽院政期、上皇の所有する荘園の数が爆発的に増大した。
この荘園からの収入が上皇の院政を支える経済力となり
治天の君が権勢を振るう要因の一つになった。

白河院政終盤、摂政忠実も積極的に荘園を集め始め莫大な摂関家領というものを作り出した。
(そるまでは摂関家各個人名義で荘園を所有、規模もさほど大きくない)
その摂関家領は忠実期の摂関家経済を支えた。
その後権力を握った平氏は摂関家領付きの近衛家の後ろ楯になり
一方源頼朝は朝廷対策として九条家に接近。九条家はその後鎌倉将軍を二代出す。
武家を味方につけた近衛、九条が数代かけて「摂関家」の既成事実を作り上げた。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 16:48:09.85
>>214
律令にある「蔭位の制」の影響が残っていたのも大きい
息子の官位は親父の官位によるというやつね

もともと世襲制である天皇制を壊さないために作られた法律だから
天皇だけでなく貴族も基本的には世襲を重視していた点では一緒

平安時代中期に摂関政治黄金期を作った藤原道長・頼通親子
特に姉妹が次々天皇の后になった頼通は、天皇のおじとして一人で50年も摂関の地位を独占
同様に天皇のおじに当たる頼通の弟の教通・頼宗も大臣を長期間独占したことで
他の貴族たちの官位は低下
他の家を出し抜いたことは大きい
0218日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 17:06:13.17
忠通の頃摂関家交替の危機があった。
平治の乱で藤原信頼が滅んだ後、二条天皇親政派が政権をとりかけた。
その際、二条親政派の二条天皇の母方の叔父大炊御門経宗が関白の地位を狙っていた
との見方がある。
経宗は関白師実の孫、有職故実も摂関家大殿忠実から習っていた可能性があるらしい。
一方忠通の方はというと忠通の嫡子基実は信頼の妹を妻に迎えていてその妻は基通を懐妊中。
謀反人信頼縁者としてヤバい立場にいた。

そのような中、忠通は後白河上皇と平清盛に接近。
二条親政派の経宗と惟方を清盛郎等に逮捕させて流刑に追い込み
我が子の関白の地位を死守した。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 17:29:38.20
>>217
父親の地位が子供に利益は同意なんだけど
藤原氏の場合父親が優遇したはずの嫡子の子孫じゃなくて
みそっかす扱いの弟の家系が勝ち組になるという不思議な現象が平安中期まであるんだよね。

基経の子
嫡子 時平
でも勝ち組は弟の忠平とその子孫

忠平の子
嫡子 実頼
でも勝ち組は弟の師輔とその子孫

師輔の子
嫡子 伊ただ
でも勝ち組は弟の兼家とその子孫

兼家の子
嫡子 道隆
でも勝ち組は弟の道長とその子孫
0220日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 18:31:52.78
>>219
せいぜい兄か弟・おじか甥での争いでしょ
父親が摂関でなければ息子は摂関になる資格すらない
摂関家固定の前から摂関になれる家というのは決まっていたということ
(父親が摂関であることが最低条件)

摂関家が嫡子相続になるのはもっと後
鎌倉時代にもまだ五摂家分裂などやってて
嫡子以外が摂関になったりしてるからね
0221日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 19:09:54.21
>>219
それ以前にも

不比等の子
嫡子 武智麻呂
でも勝ち組は弟の房前とその子孫

房前の子
嫡子 鳥養(鳥養早世後は次男の永手)
でも勝ち組は弟の真楯とその子孫

内麻呂の子
嫡子 真夏
でも勝ち組は弟の冬嗣とその子孫

冬嗣の子
嫡子 長良
でも勝ち組は弟の良房(養子の基経は長良の子だけど)

不比等も長男じゃないし、内麻呂も真楯の三男。
武智麻呂の嫡子豊成や宇合の嫡子広嗣も不遇。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 20:54:10.22
>>220
別に平安初期から嫡子相続だったと言いたいわけではない。
ただ年齢が上で弟たちより昇進が早く娘を早く入内させて外戚になるチャンスを先にゲットできる
兄の家系よりスタート時点で不利なはずの弟が何故か勝者になるケースが多かった
と言いたかっただけ。

それと摂関になる要件は忠実以前は
外戚になることということも重要だったと思う。
勿論父親の身分もあるが
逆に言えば摂関子息でないと入内させても外孫皇子を即位させることは出来なかったとも言えるのではないか?
0224日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 21:10:30.71
>>223
217は当初から摂関家が成立していたとは言ってないじゃん

まずもっとも重要だったのが蔭位の制
摂関になれる家柄というのはある程度決まっていた
そのことを言っているだけ

兄は娘を先に入内させることができるスタート時点では弟より有利だが
先に年を取ってしまう分弟より不利
娘に皇子が生まれる前に没してしまったり、自分が死んだあとで外孫が
帝位を追われることも多い
道隆や伊尹はいずれも早世によって外孫を守ることができなかったことが
原因と思われる失脚
0225日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 21:28:09.25
>>224
けどさ当初の蔭位の制って子供全てを高位につけるものではなかったよね。
親がパッとしない官位の人は初位あたりからスタートするけど
親が上位位階者の嫡子は五位あたりからスタートできるってこと。(庶子はもう少し下)
摂関は元々律令外の制度だし
平安に入ってからは人事権を握った摂政または関白がある程度自分に有利な任官ができたから
自分の子息を早くから高位につけたに過ぎない現象だと思う。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 21:33:30.86
>>224
道隆などの主流ハズレの要因は同意。
ただ、娘が生まれて、入内して、皇子が産まれて、その皇子が即位するまで生きている
を全てパーフェクトで抑えるのは相当の強運。
あと、既に母后になっている姉妹の支援を取り付けるのも重要。
このような強運を持っているのは藤原氏は兄より弟が持っていた時期が多かったといいたかった。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 21:41:39.89
>>209
そんなこと尊卑文脈には書いていない。
なんでそんな法螺を吹くんだよ三河農民。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 22:47:44.49
>>225
蔭位の制は出だしもそうだけど、人生の最後になっても
出世できる度合いは概ね親の官位相当だよ。

いくら人事権を握っても家柄相当でない人事は事実上行えなかったし
平安時代の摂関は独裁政権だったわけではない
0229日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 22:53:46.91
三河マルチにも相手をする人がいるのか。勉強になんなこのスレ。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 23:04:02.06
>>228
そうだよ。
院政期を迎えるまでは親以上の位階につくことはまずない。
むしろ主流派から外れた家は家格が下がるだけ。
独裁じゃないも同意。だからこそ周囲の反発を浴びないような人事を行わないと摂関といえどもうまく政局を回せない。
ただ>>217以下の書き込みが家柄こそが全てでというニュアンスに感じ取られ
他の要素が無視されていたように感じられたから、色々と書いてしまった。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 23:13:49.22
で一つもしもの話で検証したいんだが
一条天皇の皇子は結局彰子が産んだ皇子二人が皇位継承(三条天皇の後だけどね)するが
もし彰子が皇子を儲けず、伊周が失脚継続中で、右大臣顕光の娘が皇子を儲けてしまった場合どうなるかということ。

1 彰子が敦康を猶子として即位させ、彰子の兄弟が摂関になる
2 三条天皇に皇統がうつり小一条院が即位。道長がそっちに肩入れをする
3 顕光の外孫が即位 顕光が摂政になる

可能性としては1 2の可能性が高いと思う。
顕光ははっきりいって阿呆だから摂関になる可能性はないが
白河院が公実の摂政就任を拒否した理由の一つが「大臣経験」だから右大臣にももしかしたら資格があったかも知れない。
0232日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 23:23:16.14
それと摂政期特に兼家道長期は
先例崩し、新例創設の期間なんだよね。

○女院の創設
○四后並立
○一帝二正后
○大納言の娘(女成子)皇后宣下

これらのことができたのは兼家、道隆、道長の権勢と政治力の賜物。

もし、なんかの事情で兼家流がコケて他の家が上昇していたら
他の家が摂関になった可能性が全くなかったとはいい切れないと思う。
この時点ではまだひっくり返し可能だったと思う。
後の公実の摂関志望もまだ家格逆転可能意識が残っていたからこそだと思う。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 23:43:24.33
平安初期から中期にかけて重要なのは
外戚であること>>>>>摂関であること
摂関であっても外戚ではなかった頼忠は花山天皇退位→一条天皇即位
に伴ってあっさり関白を辞任
その後一条天皇外祖父兼家が摂政就任。
一条天皇母后詮子の支持を得て政界トップに立った道長は
文書内覧にはなったもののずっと左大臣のまんまで摂政関白には就任せず。
天皇の叔父(一条天皇)、天皇の中宮の父(三条天皇)、天皇の外祖父(後一条天皇)
として君臨した。
道長の時代までは摂関の地位は「帝の外戚」に付随してついてくるもので
摂関が先にありきではなく「外戚」が先にありきだった。
0234日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/09(水) 23:51:30.71
>>232
>大納言の娘(女成子)皇后宣下
これは道長側の意向ではなく三条天皇側の意向だったのでは?
道長にとってはあまり好ましくなかったと思う。
それにしてもこの時点で娍子の父済時が死んでいたのは道長にとって幸運だったな。
娍子は沢山の皇子皇女をすでに生んでいて無視のできない存在になっていたし
三条天皇も娍子押しだったから済時が生きていたら大臣昇進して
道長にとっては恐るべき存在と化していたかもしれない。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 00:27:59.53
摂関家の家格が平安中期からかたまりつつあった
という見方には賛成。
だけど遠い昔の蔭位の制の影響などではなく
ノウハウの有無の問題だと思う。
家柄だけは高く大臣を出せる村上源氏が外戚になっても摂関として君臨するのは無理。
何故ならば、摂関として切り盛りするノウハウの蓄積がないから。
長年摂関としてのノウハウを蓄積し、門外不出の日記(ノウハウの宝庫)を家宝としてもつ摂関家だから摂関家であり得た。
逆にいうとノウハウを伝授しうる圏内(摂関の孫)あたりまでなら摂関の地位を狙えたと思う。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 00:36:15.70
>>227
お前随分と態度でかいなw万年パシリの猿


額田冠者(三河国額田郡)の父親 藤原季兼


本名季風、三河国に居住し、参川四郎大夫と号すという



季範が11才の時に死んだんだが、季範をどこに住んでいたんだよ
父親は三河に住んでいたと書いてあるんだから、普通に考えて三河にいっしょに住んでいただろ
0237日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 01:04:22.97
三河は尾張の4倍も面積があるのに、
石高は尾張59万石に対し三河29万石で、半分以下。
地面の豊かさでは尾張は三河の8倍。

三河の領主はきついなあ。だからこんなにコンプレックス持ってるのか。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 01:18:04.65
>>235
なるほど
公家がそれぞれに家芸をもっていたように、
長年摂関の座を占めたことによって培われたノウハウが家芸の域にまで昇華されていたということですか
0240日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 02:12:41.44
藤原氏の荘園が増えていった時に、荘園の警備は大体は源氏に任されたの?
0241日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 02:25:14.52
なんで警備を大貴族の藤原氏がやらないといけないんだよ。
そういうのは下級の武家にやらせとけ。
0242日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 05:32:40.10
>>239
そうなんだよね。
本来は皇族がなるもので臣下がなるのは相当の異例。
だからこそ 外戚地位を獲得して「天皇の身内である」ということを持ち出さないと
当初は摂政になれなかったんだと思う。
臣下が摂政就任するよりわけのわかんないものが「関白」
天皇の相談役で他の誰よりも早く重要文書をみれるから権力を保持することができた
という不思議な役職なんだよな。
なんでこんな役職が長年権力を握り続けたのかが不思議。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 06:08:55.31
>>241
摂関家領が爆発的に増大した忠実期は摂関家私的家人な武士もふえていった。
その私的家人武士の中に源為義や平忠正などがいた。
彼らやその子息や家人が摂関家の警備をしたし、家人が摂関家に荘園を寄進するのを仲介したりしていた。
その摂関家私的家人の武士のほとんどは保元の乱で死亡。
(忠実が推していた頼長に従っていたから)
その後は平治の乱で勝利を収めた平清盛が接近し摂関家荘園の警備を平氏が請け負った。
平氏滅亡後は再び獲得した摂関家私的家人と鎌倉幕府御家人などが警備をしたと思われる。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 06:18:13.13
>>238
そうなんだよね。摂関家に限らず公家たちはいろんなノウハウ(有職故実)を
男系子孫に伝授していたんだよね。
だから院政期にいろんな院近臣家が成り上がりだすと「成り上がり」とバカにされる。
成り上がりも三代目くらいにはそれなりの家と認知されだすが
院近臣家は浮き沈みが激しいから結局没落するケースも多い。
成り上がり→没落の最たもんが平氏一門。

源頼朝は自分はとうてい宮廷社会ではやっていけないことを認識していたから
鎌倉に地方政権を作って決して自分は宮廷政治に加わろうとはしないかわりに
宮廷内に口をきいてくれる公家を使って政治介入しようとしていた。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 06:20:16.41
>>244補足
成り上がりとバカにされる理由の一つが
「有職故実の一つも知らない」ということ。
だから院近臣家は有職故実の獲得に必死になっていた。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 06:47:27.81
平安中期頃からは下級官僚もつく役職が固定化してきてくるんだよな。
三善氏なんかはその典型。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 07:12:35.06
>>237
名古屋が恥ずかしくてしょうがないコンプレックスの間違いだぎゃ〜だろ


こりゃ何だみぁ〜、何処の田舎モンだみぁ〜、名古屋だでかんわ



http://toppy.net/special/dubai0.html

「名古屋が元気」

こんな言葉をよく耳にします。名古屋以外の大半の日本人は、この言葉の裏に「トヨタが元気なだけで名古屋自体がなんぼのもんじゃい」という意味を込めて使っているにもかかわらず、
ほとんどの名古屋っ子は何を勘違いしているのか、名古屋が我が国のなかで最も元気だと、本当に褒められていると勘違いしています。



>名古屋が我が国のなかで最も元気だと、本当に褒められていると勘違いしています。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 09:24:33.12
>>239
皇族が摂政に就いたのって聖徳太子だけだろ
あれは懐疑的

明治時代以降は皇室典範で天皇が国事行為を行えないときは
皇太子や皇后、親王や内親王などの皇族が摂政に就く決まりができたけどね
0251日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 11:46:11.44
>>193 トンデモとか言うレッテルを貼れば相手が引くとおもっている藤氏
0252日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 11:48:09.54
日本英語化なんていうのは藤原のデマ。わかるな?今頃
英国は沈んでないといけないのだ。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 11:49:48.13
>>227 農民を馬鹿にする藤氏
0254日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 11:56:36.34
トンデモなやつが世界を支配している。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 14:37:10.61
百姓で思い出したが、これそっくりw

尾張国郡司百姓等解文

これとこれ

オッス、オラ名古屋だみゃ〜
名古屋イジメだみゃ〜、トヨタを悪者にするだみゃ〜
下請け虐めだみゃ〜、金よこせだみゃ〜

希望見えぬ「世界一」 トヨタの足元<1>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051102010405.html
>名古屋市近郊にある古びた工場
「身の丈見失うな」 トヨタの足元<2>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051202010650.html
>自動車部品の梱包(こんぽう)用段ボールなどをつくる「中央紙器工業」(愛知県春日町)の本社応接室
誰のための削減か トヨタの足元<3>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051302010937.html
>社長は創業以来の機械を今も操る=愛知県尾張地方で
町工場の事情がある トヨタの足元<4>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051402011210.html
>愛知県尾張地方の工場。トヨタの仕入れ担当者がストップウオッチ片手に乗り込んできた。
努力だけじゃ勝てぬ トヨタの足元<5>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051502011496.html
>部品メーカー「エイベックス」(名古屋市)社長の加藤明彦(61)
「つぶれても仕方ない」 トヨタの足元<6>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051602011791.html
>新川(右)の堤防が決壊し、水浸しになった住宅や工場 名古屋市西区
0256日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 18:22:32.83
>>242
>関白

似たような原理で権力握った例に、江戸幕府の側用人があるね
情報を握るものが強いのは古今変わらぬ法則なんだろう
こういった着眼点の良さが藤原氏の強さの一つだと思うわ
0257日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 18:24:50.86
三河馬鹿はコテハンにしろ
日本史板を荒らし過ぎ
0258日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 18:39:18.00
関白といえば豊臣秀吉が関白になったんだが
その時の政治運用はどうだったんだろう?
さすがに平安期のような運用
議定→奏上を最初に聞いてから天皇と決済内容を合議
という運用方法ではなくなってると思うけど。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 19:15:00.49
現代版 尾張国郡司百姓等解文(笑)


オッス、オラ名古屋だみゃ〜
名古屋イジメだみゃ〜、トヨタを悪者にするだみゃ〜
下請け虐めだみゃ〜、金よこせだみゃ〜

希望見えぬ「世界一」 トヨタの足元<1>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051102010405.html
>名古屋市近郊にある古びた工場
「身の丈見失うな」 トヨタの足元<2>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051202010650.html
>自動車部品の梱包(こんぽう)用段ボールなどをつくる「中央紙器工業」(愛知県春日町)の本社応接室
誰のための削減か トヨタの足元<3>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051302010937.html
>社長は創業以来の機械を今も操る=愛知県尾張地方で
町工場の事情がある トヨタの足元<4>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051402011210.html
>愛知県尾張地方の工場。トヨタの仕入れ担当者がストップウオッチ片手に乗り込んできた。
努力だけじゃ勝てぬ トヨタの足元<5>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051502011496.html
>部品メーカー「エイベックス」(名古屋市)社長の加藤明彦(61)
「つぶれても仕方ない」 トヨタの足元<6>
http://www.chunichi.co.jp/hold/2008/yui_no_kokoro/list/200805/CK2008051602011791.html
>新川(右)の堤防が決壊し水浸しになった工場や住民 名古屋市西区
0260日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 19:24:51.50
武智麻呂と房前は正一位太政大臣を追贈されてるのに
宇合は良継や百川が政権を握っていた頃でもそういうのがないのは何で?
種継の父親も無位無官のまま追贈が一切ないし。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/10(木) 19:45:54.47
>>260
武智麻呂と房前はいずれも、死後の天平宝字4年(760年)に
太政大臣を贈位されている。
当時は淳仁天皇の治世で、藤原仲麻呂が太師(太政大臣)になったのと同じ年なので、
執政者であった藤原仲麻呂の政策で間違いがない。
仲麻呂の実父である武智麻呂と、仲麻呂の正室・藤原宇比良古の実父で、
仲麻呂の義父に当たる房前の2人に贈ったものだろう。
良継や百川は生前太政大臣になっておらず(死後贈位)仲麻呂ほどの権力を手にしていない。
種継も生前は中納言が極官で、父に贈位するほどの大出世をしたとは言い難い。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/11(金) 00:57:28.80
三河勢5千は上方勢2万に匹敵する
(甲陽軍鑑)
0263日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/11(金) 01:56:46.64
織田軍、案外弱し
(上杉謙信)

徳川軍、悉く弱し
(岡部元信)
026510人に一人はカルトか外国人
垢版 |
2013/10/11(金) 03:06:12.75
★マインドコントロールの手法★

・沢山の人が偏った意見を一貫して支持する
 偏った意見でも、集団の中でその意見が信じられていれば、自分の考え方は間違っているのか、等と思わせる手法

・不利な質問をさせなくしたり、不利な質問には答えない、スルーする
 誰にも質問や反論をさせないことにより、誰もが皆、疑いなど無いんだと信じ込ませる手法


↑マスコミや、カルトのネット工作員がやっていること

TVなどが、偏った思想や考え方に染まっているフリや常識が通じないフリをする人間をよく出演させるのは、
カルトよりキチガイに見える人たちを作ることで批判の矛先をカルトから逸らすことが目的。

リアルでもネットでも、偽装左翼は自分たちの主張に理がないことをわかっているのでまともに議論をしようとしないのが特徴。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/11(金) 03:14:51.73
「平家にあらずんば人にあらず」
この句は藤原の影響力がうかがえる。ずんば言うてもうてるからね。
ズンバでGO!
0267日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/11(金) 14:04:13.27
>>159
応神天皇は久米系の天皇です。
母はクメノオキナガタラシヒメ(=神功皇后、実は即位して神功天皇)でやはり久米氏です。
息子のウジノワキイラツコ(=宇治天皇)も久米系です。

中臣・藤原氏はその遠祖である天種命(天児屋根命の孫)の妻が宇佐氏の娘・宇佐津媛です。
その間に出来た子が宇佐津臣で、この子孫からは母系の宇佐氏の祖霊神を祀る祠官家も出ています。
また、鹿島神宮の宮司家も輩出しています。

善光寺についてはよく分かりません。
ですが鍵になるのは麻績氏だと思います。

麻績(おみ、おおみ)氏はどうも近江国に関係の深い氏族のようです。
同国に根拠地がある久米系の息長氏や和邇氏との関係性がよく言われるようですね。

また和邇氏の本宗筋に当たる春日氏と中臣・藤原氏との関係性も大変に深いものがありますよ。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/11(金) 18:34:11.29
>>227
おい、パゴヤ


尊卑分脈

藤原季兼
・本名季風、三河国に居住し、参川四郎大夫と号す

藤原季範
・額田冠者(三河国額田郡)と号す



・額田冠者(三河国額田郡)と呼ばれていた
・父親と三河に住んでいた


間違っていないよな
今後は口答えをするなよ、そんな暇があるなら、パゴヤ城のシャチホコでも磨いていろ
0269日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/11(金) 20:55:10.93
>>221
聖武朝の永手・真楯、長良・良房のような同母兄弟でも弟に抜かれることはよくある
0270日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/11(金) 23:27:54.20
>>1
天皇との姻戚関係の独占
0271日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/12(土) 00:56:11.72
麻呂の京家は殿上からは速攻で消えたけど、公家としてはいつくらいまで残ってたの?
0272日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/12(土) 10:32:20.02
藤原氏の末流藤原紀香は男を使い捨て。キャリアの道具にした。
藤原の荘園のあった兵庫県神河町出身のマラソンの藤原正和、スポンサーに媚びない。
落ちぶれても名門出身の気高さが見える。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/12(土) 10:47:08.19
>>52
日本だと、一つの要因として
”文明化”(文字のある低のどの普及)より前に統一したということがあるかも、
弁韓なんかずっと小国で争ってたのに比べて明らかに早い。
もしかしたら過去の天皇はウィリアム征服王のように
外来からきて、素早く統一を果たしたのかもしれない。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/12(土) 10:54:56.50
って、思ったが、
外来種っぽい描写があるのって
ニニギと応神だけだし、
ニニギは全然統一した描写とかなし、
応神はもとからあったヤマト王権に入り婿したみたいだし、
関係ないか。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/12(土) 13:39:28.11
>>272
和歌山だろ紀香は。
満蒙開拓団、、藤原氏なんか?
0277日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/12(土) 22:35:07.33
看板を取っ替えひっ替えして知能が無い奴隷をコントロールしている。八藤最強。 
0278日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/13(日) 08:05:34.31
>>272
藤原紀香は平氏の末裔だといって
結婚式の時の十二単に平氏の紋を入れていたよ
0279日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/13(日) 13:51:07.74
藤原には日本を貶めた罪を償ってもらうさ。藤罪ってこと。い、さ。で。
0280日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/13(日) 13:52:32.22
とりあえず佐藤、伊藤、藤分の多さなんとかならないの?さ、藤罪やさ。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/13(日) 16:17:16.84
>>15 秦氏と藤原の出自は別なはずだが。根拠はあるのか?
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