藤原氏はなぜ長続きしたのか?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>271
少なくとも11世紀までは氏爵の対象に京家もなっている。
何十年かに一度みたいだけど。
それで偽京家が氏爵を得たのが発覚って言う記録がある。
だから少なくともその頃までは五位官人が居たはず。
確か系図では一二世紀くらいまで名前が残ってるらしいが、
その辺りになると他の証拠はなく不詳。 江戸時代の堂上南家は名跡を継いだだけで、系統は確か北家傍流。
でもなにか由緒があるんだろうから女系ででも繋がってるのかな?
いやまあ、この頃の堂上は多かれ少なかれは南家の血が混ざってるだろうけど。
地下官人(諸大夫等)で南家末裔を称する家はあったようだ。
この辺りは真偽不明?
譜代の諸大夫なら信憑性有りそう? 天皇とは別氏族の分を守り朝廷にしがみ付いたから。
終了。 大化改新を旧日本人による渡来人からの政権奪還の様に見せ掛け天皇の権威を高めてそれに寄生する手法で千年の成功を手にした
氏祖中臣鎌足は亡命百済人一世であり
百済本国の支援を受けて天智天皇を唆し
もはやすっかり日本人と化していて百済救済に乗り気で無かった百済系渡来豪族蘇我氏をクーデターにて滅ぼし権力を獲得したが
事実を息子不比等が捏造歴史書を用いて隠蔽した 姓は藤原氏系
父方の祖父は祖母の家の婿養子なのでY染色体は源氏系
母方は平家系
という場合には…?? >>315
藤原氏をはじめたいていの家では男系優先の女系継承も行われているよ
Y遺伝子だのなんだの言っている奴は天皇家から女系を排除する目的で
言ってるだけだろ >>311
横ですが。
偽京家って、正体は何者だったんです? 丹波かなにかの卑姓の下級官人で、当時の京家トップとくんでなりすまし。
おそらく賄賂でも送ったんだろう。
本来推薦されるはずだった人物が告発して発覚。
確か叙爵は取り消しになったけど他に処分は無かったんじゃないかとか、
なんかそんな話だった。
かなり前に読んだのでうろ覚え。
吉川弘文館の本で見たと思うけど、作者も題名も忘れた。
平安人名辞典の関係者の項にも出てたかもしれない。 長男優先という江戸の武家の方式を取らず、子孫の中の有能なものが
摂関になるという伝統が長続きした理由かも知れんね。
それと、王妃を出すべき王族(丹波氏や息長氏)が没落してしまって役目を
果たせなくなったんじゃないかなあ。
蘇我氏は、勢いに乗りすぎて、王を乗っ取ろうとしたから滅ぼされた。
藤原氏は、王妃は出すが、あくまでも臣下の立場を貫いたから潰されなかった。 >>319
藤原氏でも藤原道長以降は基本的には嫡男相続だよ
武家ができる前から藤原氏は摂関の世襲・嫡男相続をしていた
兄弟順にかかわらず摂関についた例があるのは藤原道長以前だろ
それも「娘を入内させ、天皇の外祖父になれるか」が判断基準で
有能な者が摂関につくという伝統があったわけではない 摂家分流以前に、摂関家に成人男子が欠けて、
たとえば当主が10歳未満なんて事態が起きたら、
閑院流や村上源氏あたりに摂家になるチャンスってあり得たんだろうか?
いくら摂家当主でも、儀式に携われる年齢じゃないと摂関にはなれないよね。
仮に実質的政策判断とかは後家の祖母ちゃんや母ちゃん、
出家済みの祖父ちゃんとかがするとしても、
儀式できなきゃ当面は資格がないよね。
そう言うことが生じてしまった場合どうしたんだろう。 >>321
摂関家も男子が多かったからね。
普通は当主が幼少なら父の弟が摂関を中継ぎして閑院や村上源氏には渡さない(実際にそういうことがあった)。
祖父・父・息子いずれも一人息子で兄弟なし、祖父・父は早世、息子は幼少ということが起きればだけど。
当時の一夫多妻ではそういうことも珍しいよね。 花山院とか大炊御門とかあたりはまだチャンスがあったかも。 >>317
>>318
「権記」に詳しく書いてある(長徳4年11月9日)。 wikiの藤原輔遠の項目にも、経過が書かれてるね。
でも、道長の時代に京家長者が残っていたことは驚き。 彰子長生きすぎだな
頼道も教通も
源倫子の血がすごいな…
しかし恐ろしいほどの近親婚約だな
天皇家は…
早死にしまくる天皇家を尻目に
藤原氏の長寿っぷり
彰子も定子も子供は早死にだったような…
女性は被害者だよな…勝ち組に見えて
天皇家との間の子供は近親間の子供だからよう死ぬわ 武家で藤原氏を仮冒するメリットってあんのかな?
清和源氏か平氏なら武家政権のトップに立った氏族だから価値はあるけど
秀吉みたいに関白になれるわけでもないし武家じゃあんまり箔がつかないだろ >>326
近親婚だから短命ともいえないけどね
結構長生きだった人もいるから
後一条天皇と中宮藤原威子の叔母甥婚の間に生まれた
・章子内親王…享年79歳
・馨子内親王…享年65歳
三条天皇と中宮藤原姸子のいとこ婚の間に生まれた
・禎子内親王…享年84歳
後朱雀天皇と禎子内親王のいとこ婚の間に生まれた
・娟子内親王…享年72歳 X遺伝子が一つしかない男の場合に悪影響が出やすいのかな? 彰子って11歳上の定子より寵愛を受けてなかったから
不細工だったんだろうか。その後なかなか解任しなかったのも
寵愛がなかったから?
私は彰子は一条天皇の子供を産んでない可能性もあるとみている
このころ藤原氏は強かったし、天皇の子供は遺伝子で天皇の
子供でなくても、形式的に天皇の子供を産めばそれでよい。
托卵での乗っ取りもあった可能性もあるとみている。
今の天皇が、つまり古代からの天皇の血を引いているかは遺伝子で調べて立証しない限り
証明はされてないのである。
まあ天皇ってのは権力者の操り人形だったから
別に高貴な家柄でも何でもないけどね >>331
彰子が定子より寵愛を受けていなかったという一次史料はないよ
彰子は12歳で入内して第一子を産んだのは20歳の時だが
定子も15歳で入内して第一子を産んだのは20歳の時
定子の時もなかなか懐妊しないので父の道隆が焦っている
(枕草子にこの記述がある。定子の懐妊は道隆死後)
托卵の可能性は誰にでもあるでしょ
ずっと内裏にいて一条天皇の傍に侍り続けていた彰子よりも
兄弟失脚後はほとんど里にいた定子のほうが托卵の可能性は高いけど >>331
定子が生きていた頃の彰子って今でいう小学6年生ぐらいで
多分まだ初潮もきておらず胸も大して膨らんでいない走り回ってる児童よりも
当時すでに20代でお色気ムンムンの定子の肉体のほうが魅力的でもおかしくない
定子があと10年生きていて定子34歳、彰子23歳でも
まだ定子のほうが寵愛が深かったというならともかく なにかで、平安期(中後期だったか?)で皇妃の第一子出産年齢は
20歳程度以上とか見たことがある。
栄養の関係とかなんだろうか?魚肉を食わないとダメとか?
早く子供を産ませろって言うプレッシャーもあるけど、
やはりある程度成熟しないと手を出しにくいんじゃあるまいか?
母親の方を死なせちゃうのもまずいしねえ。 細川は清和源氏だな
藤原氏の総理大臣は西園寺と近衛 細川ってそんな家格は高くないよ
鎌倉・室町初期までは足利家の家臣
足利家の執事の高家が滅亡後、斯波氏やら畠山氏やら赤松氏やらに混じって
成長してきた
足利家からしたら世渡り上手な新参者 >>334
2ちゃんのこの板にあるスレに書いてあったことだろ
この時代の皇后の初産年齢は19歳以上であることが多いのは
皇后が安全に出産できるように20歳近くまで
天皇と肉体関係を持たなかったせいだというやつ
何も天皇が入内してから何年も肉体関係を持たず
20歳近くまで后を抱かなかったせいではなくて
今にように肉も食べず栄養が悪かったせいだと思うよ
幕末も公家の姫でも初潮は17歳ぐらいだった
そら娘が第一皇子を産むかどうかで政治が動くのに
当時の貴族はそんな悠長なことやっていない
性欲で生きていたような平安時代の天皇・貴族が
夫婦になりながら5〜8年も一切手を出さずというのも普通はない 彰子の長寿を見て栄養不足だとはとても思えないが
やはり母型の倫子の遺伝子かな
弟二人も健康で長寿
オヤジは糖尿病でダウンしたけどね
不摂生せず長寿してまっとうする人は尊敬するわ
逆は軽蔑するけどな >>340
粗食のほうが長生きするんだよ
栄養が悪いと言っても現代人の食事じゃなかったってことだよ
彰子は当時の女性では最高級の食事をしていただろうし飢えていたはずはないが
現代人のように肉や魚を毎日たべたりする習慣は平安時代にはない
幕末の和宮でも初潮は17歳だった
和宮も当然飢えていたはずなどないし兄孝明天皇にかわいがられて
当時としてはかなり良い食事をとっていたはずの人だけど
紫式部日記や栄花物語を読むと彰子はかなり小柄な人だったらしいしね
今でも小柄な人は一般的に初潮も遅めでしょ(けして栄養失調なのではない) 定子はお産が悪くて死んだが、もし生きてたらやはり長寿だったんだろうか。
父兄ともども糖尿病だったらしいけど
>>341
平安時代は魚は食ってたらしいぞ?タンパク質なしでなんて生きていけないだろ
庶民は昆虫でも食ってたらいいぞ たしか、魚の干物とか食べてたらしい。
ただ魚肉を食べちゃいけない日があったとか。
ただし、地方から運ばれたもなが多いから保存の為塩分が強く
野菜も冬季の不足を補う為、冬季は漬物が多かったらしい。
酒は糖分多量。
糖尿になりやすい食生活だったかもね。 定子は従姉で彰子は従妹か…
定子の子供も彰子の子供も早死にした
それ以前に藤原詮子の子供の一条天皇だから
普通の従姉従妹よりも血のつながりが強いから
かなりの近親交配だな
詮子の夫の花山天皇も藤原の血を引いてたはず。
天皇が長寿になれないが藤原は長生きが多い。
女性はいつの時代も被害者だな
己の子供は早死にで先立たれ長生きする 白河院から後鳥羽院まで院政をとった上皇は長生きだよね。
その生母は全員非摂関家。
かなり血は薄まっていた。 それでも白血病とかで死ぬんだろ
年いってからの近親交配の遺伝病あるからね
やはり近親交配はダメなんだな >>344
詮子の夫は円融天皇。
>>345
院政期の天皇は多くが閑院流の母親を持つ。
院政初代の白河上皇の母親が閑院流だったので、以後、この系統がたびたび入内。
摂関家を外戚としていないが、やはり血縁はそこそこ近い。 閑院流、始祖は道長の叔父でしかも母は内親王。
どのみちこの頃の貴族はみんな親類で、
どこが外戚で大した差はない。
どのみちある程度は近親婚。 まあそれにしても、一条天皇から後三条天皇までの3世代6人連続で、
兼家濃度が高い天皇が続いたのは異常事態だなあ。
直接の外孫の一条・三条両天皇はともかく、
以後の世代にも次々と流し込まれた兼家の血。 後鳥羽院は母方が持明院(といっても兼家子孫だけど)
父方祖母が平氏(建春門院)だから多少は血は薄まっている気が。 >>350
持明院は藤原道長の子孫(そら道長の父兼家の血も引いてるけど) 後三条天皇はダブりがなければ本来126人いるはずの6親等までの先祖が
46人しかいないからな。これは記録的。 朝原内親王も相当だよね。
内親王だから父親が天皇なのは当然として、
母も内親王だから外祖父も天皇、
しかも父母は異母兄弟だから祖父と外祖父は同一人物。
更に外祖母も内親王だからその父親も天皇で、天皇家濃度濃すぎ。
これで異母兄平城天皇との間に男子ができていたら、
どれだけ純粋培養の天皇だよ。 >>353
ここは藤原氏スレだからスレチ
天皇家の異母兄妹婚は当時は普通のことで
桓武天皇も平城天皇も嵯峨天皇も異母妹と結婚してるからね。
藤原氏で関連のあるところでいうと
藤原不比等が異母妹を娶ってる。 平城天皇や朝原内親王の曾祖世代には、紀氏・和氏・土師氏・石上氏・阿倍氏・県犬養氏といった諸豪族がいるから、
6親等の範囲でみた場合だと、先祖の系統はわりに広がると思われる。
なにぶん史料が不足がちだが、ためしに平城+朝原男子の6親等までの先祖を探ってみると、
史料上確認できる人物、および諸豪族の男系祖(豪族間で養子関係が無いと仮定)だけで46人に達してしまった。
それ以外は豪族の妻やその先祖ということになるわけだが、仮にそのすべてを異母兄妹婚と想定しても70人近くにはなる。
豪族間で婚姻が重ねられていたとしたら、先祖のダブりが生じて人数ももう少し減るだろう。
しかし、たとえば平城&朝原の曾祖世代の橡姫・乙継・真妹・国咸・粳虫・広刀自らの母が同一人物、
といったようなウルトラCでも駆使しない限り、40数人のうちには収まらない。
いかに平安時代中期の皇室と藤原氏の血縁的密着度が濃厚で異常だったかが分かる。 まあ近世以前は程度の差があれ、だぶりがない方が珍しいんだろうな。
通婚圏が狭いから数世代遡れば大概はどこかで引っかかりが。
地縁が有っても身分が懸絶してるとそう言う関係になりにくいし。
縁もゆかりもない人との結婚が主流になったのは、昭和後半くらいから?
家の祖父母も戦前の結婚だけど、又従兄弟かなにかだった。
それ以前にもいろいろ関係有るらしいし。
田舎だとそんなもんかな? 昔の人は警戒心が強いから
親同士が知り合いであるとか相手の信用を重視していたのだろう。
昭和のはじめごろで7割ぐらいが見合い結婚だ 幼女のほうがいいだろという発想は、少数派
ロリコンどもめ。 藤原氏は道長の代まで長男が嫡流になれないというジンクスがある 幼女の方がいいだろってのは大抵、逃避だもんな
そいつらの前に成人女性もっていってみ?
だいたいそいつら逃げ出すから、、、 幼女の方がいいだろってのは大抵、逃避だもんな
そいつらの前に成人女性もっていってみ?
だいたいそいつら逃げ出すから、、、 ダ•カーポの枯れない桜とそいつらが戦ったら面白いよね……………… 藤原氏の始祖鎌足は旧来の中臣氏では無く百済系渡来人だから藤原氏は代々外交に強かった
あまり触れられないが権力獲得の過程で水運の要衝や名手も悉く抑えて居ったしね
外語外事に明るかったので平氏も源氏も蔑ろに出来なかったし足利氏は分家と謂う事になっていた
段々衰えたり混淆したりで家門の権勢は織豊時代に完全に跡形も無くなって貧乏公家の仲間入りを果たしたけど
公家を干し上げ徳川薩長と続いた武家政治がGHQ占領で終わって今また蠢動してるみたいだな
あたふた解釈改憲で朝鮮戦争の当事者に為ろうとしたりとかw >>356
うちも一緒。
地縁があっても対象となる家が限定されるんだろうか。
昭和一桁以前生まれの人たちは、従兄弟婚多いよ。
大叔母は二人従兄弟と結婚した。ただし二人共子はいない。
従兄弟同士で子がないとか、障害持ちとか割と多い気がする。
一族から養子を取って繋いでる。 >>371
それなりの家だと、結婚で一番重要なのが家格を合わせることだからね
いとこ婚は無難な選択になる
日本で血がどうのこうの言いだしたのは戦後からだろう うちは普通の農家だったが、祖母は兄嫁の従兄弟と結婚した
日本人は警戒心が強いんだよ
親兄弟気心知れた者同士が結婚してた 明治や大正の先祖の兄弟って、女はどこそこに嫁に行ったとか聞いてるし、
今も付き合いがあるけど、男兄弟ってほとんど聞いたことがない。
そもそもいなかったのか、連絡が途絶えたのか。
多産多死から多産少子になるころで、次男三男はどこかへ稼ぎに行って、そのまあ
音信不通になったんだろうか。
先祖を探すとか、こういう人たちの子孫だろうかと思うことがある。 >374
普通に分家するか、他家の養子になっているだろ >369
常識からみた場合、
明治天皇南朝末裔説同様、
藤原氏百済王家末裔説は、
信憑性が高い。 天皇を立てたからでしょう
北条氏が悪い見本
最後も壮絶だった 北条氏も皇族将軍を立てていたのだがな
天皇をたてることの重要性は認識していたのだろう 中国と戦争しちゃダメだ、親戚だったよー、藤原鎌足の娘は唐の皇帝の后、武周の皇帝だって。能『海人』
http://www.asyura2.com/14/warb13/msg/314.html
投稿者 飯岡助五郎 日時 2014 年 7 月 03 日 18:59:39: VssSC.kx7zq3c
藤原鎌足の娘、すなわち藤原不比等の妹が、唐の第三代皇帝・高宗の后になったと、能【海人】の台本に書いてある。
また、香川県さぬき市の志度町には同様の物語が【海女の玉取り伝説】として遺っている。
しかも、第三代皇帝・高宗の后から鎌足没後に追善の宝物が贈られたことを考え合わせると、
その后が則天武后であり、鎌足の娘は、高宗の崩御後に登位した武周の皇帝だったことになる。
◆海女の玉取り伝説<志度町<四国新聞社
https://www.shikoku-np.co.jp/feature/nokoshitai/densetsu/1/
時は千三百余年前、天智天皇のころ。★藤原鎌足が亡くなり、唐の第三代皇帝、高宗に嫁いでいた娘は父の追善のため、三つの宝物を贈った。
しかし、都への船が志度浦にさしかかると、三つの宝物のうち「面向不背(めんこうふはい)の玉」が竜神に奪われてしまった。
鎌足の子の不比等は玉を取り戻すため、身分を隠して志度へ。海女と契り、一子房前をもうけた。不比等は数年後、素性を明かし、玉の奪還を海女に頼む。 ◆能【海人】
http://www.city.nabari.lg.jp/hp/page000013000/hpg000012989.htm
房前の父である★淡海公(藤原不比等)の妹が唐土高宗皇帝の后になられ、藤原一門を供養する寺である興福寺へ三つの宝を送られた。
しかしその内の一つの明珠がこの沖にて龍神に取られてしまった。
淡海公は身をやつしてこの浦に来て、海人に玉を取り戻してもらうため、海人乙女と契りを結んで一人の子供(今の房前の大臣)を設けたのだと。
http://www.syuneikai.net/ama.htm
シテ「今の大臣淡海公の御妹は。もろこしの高宗皇帝の后に立ち給う。かの后の御氏寺なればとて。
興福寺へ三つの宝を送らるる。花原磐泗浜石。面向不背の玉。ふたつの宝は京着し。名珠はこの沖にて龍神にとらる。
大臣御身をやつし。かの玉をかずかせんが為にあま乙女と契りをこめ。一人の御子を儲け給う。今の房前の大臣とかや。
http://japanese.hix05.com/Noh/5/yokyoku501.ama.html
シテ詞「今の★大臣淡海公の御妹は。唐土高宗皇帝の后に立たせ給ふ。されば其御氏寺なればとて。興福寺へ三つの宝を渡さるゝ。
華原磐{くわげんけい}泗濱石{しひんせき}。面向不背の珠。二つの宝は京着し。明珠はこの沖にて龍宮へ取られしを。
大臣御身をやつし此浦に下り給ひ。いやしきあま乙女と契をこめ。一人の御子を設く。いまの房前大臣これなり。
◆則天武后 立后 永徽6年(655年11月上旬)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9#.E7.AB.8B.E5.90.8E
◆藤原鎌足 死没 天智天皇8年10月16日(669年11月14日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E9%8E%8C%E8%B6%B3
◆武周皇帝(則天武后) 在位 690年10月16日 - 705年2月22日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%87%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%90%8E#.E7.99.BB.E4.BD.8D
■こりゃぁ大変だ。中国と戦争しちゃダメだダメだ。中国皇室のお母さんは日本人女性だったんじゃないか。親戚だぁ。 こうやって見てみると中国あたりの王朝論とか憧れてるのが分かるなお前らって >>380
どんだけ遠いかわからんの?
大体、現代の自称漢民族と古代の漢民族は別民族だし、今現在侵略してきてるじゃないか 漢の時代の血なんてどんだけ残ってるんかな?
蒙古や満族の血の割合のほうが多かったりしてw >>374
大正生まれの祖母は7人兄弟でうち男兄弟は5人いたがうち3人が戦死
(長男は家に残り、末の弟は終戦時に8歳だったために徴兵されず)
あの時代は戦死多いと思うよ
あとは普通に次男以下は都会へ丁稚奉公に出されるというのはあったと思う
田舎の兄が生きているうちはいいだろうがその子や孫の代になると疎遠になっていくだろうと思う
女子は近所の農家へ嫁ぐとずっと実家と音信あるんだろうけどね 北家が南家、式家と決定的な差をつけたのはどのあたり?
南家は三守の頃まで大臣を出してたみたいだが 冬嗣が相対的に優位に立って良房が決定的に差をつけて基経が格を固定した。 俺齋藤なんだけど、藤原さんは齋藤のことどう思ってるの?
ちなみな経験上北家系の人とは仲良くなる
逆に南家系の人と付き合うと裏切られたりするね(^_^;)伊藤さんとか酷いやw >366
近衛秀麿は世界的な指揮者として活躍したよ 親類は戦争しちゃダメとか言い出したら、
近世以前のヨーロッパは戦争できないな。
まあその方が平和で良いけど。 国同士の友好を深めるために王族同士で結婚は
昔からよくあるだろ >>389
音楽の指揮なんて地下官人にやらせればいいのに。
摂関家が自らすることではない。
東儀家や多家あたりに命じてさせておけば十分。 確かに 極悪一族だが、武力で打倒されなあかんほど 憎まれてたかは微妙
みんな時平神社とかに参拝しとるし 平安時代末期には堂上公家の大半が藤原氏になったから
藤原氏抜きでは、朝廷の運営ができなくなったのだろう 中臣鎌足が百済の人質王子とかその息子4人が活躍したり話が出来すぎ
藤原氏の戦略が朝鮮的なのは策士に朝鮮人が紛れ込んでる可能性は高いが 少なくとも鎌足以来ずっと
代々日本に住んでいれば出自としては十分良いだろう 逆説的な言い方になるが、
藤原氏は直系の男子に拘らず、
女系でも、血の繋がりのない婿養子でも、
藤原という一族にとって有益な人間だけを厚く取り立て、重用したからだ。
しかし、藤原には影の支配者一族がいた。それはユダヤ人。
つまり、割礼を受けた正当な男子のみが継ぐものだったはず。
今も生き残っているかは明らかではない。 平安時代以前に娘を帝の妃にすることに
全力を挙げた功が奏したのだろうな 皇別プラス1氏族で構成される貴族社会って世界的にも珍しいんじゃないかな? メディチやハプスブルクも 藤原氏ほどはアレしてない 刀伊入寇では 体を張って国防に努めたしな
藤原ファミリー >>403
摂関家から羽林家まで藤原氏と源氏で占められてて名家でようやく平氏、
菅原氏とかは半家クラスだからな 幕末維新期の堂上137家を家系で(実際の血筋ではなく)類別すると、
藤原氏が7割、皇別(源平安清)が2割、残りの1割が中臣・菅原などその他の氏族。
明治の華族令で初めて爵位を授かった137人の当主の男系先祖を辿ってみると、
実に6分の5が藤原氏(つまり鎌足に辿りつく)で、その半分以上は日野流・勧修寺流など道長以前の分派。
皇別は7%(しかも小槻氏に繋がる藤井家を除けば、源平などではなくみな後陽成帝の後裔)、
残り1割が中臣・菅原などその他の氏族。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています