藤原氏はなぜ長続きしたのか?
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>>583
兄弟とかいって、同母兄弟であって父親は不明。
仮に実在したとしても2000年くらい前の人物だけど
そのY遺伝子の系譜は1万年以上前。 タイラは幼稚で凶暴だったな
そもそも平氏は国司として短期間都から派遣されてきた代官にすぎないのに
いつからオレ達タイラの子孫と“民族名 質問1
明治以降の戦争に藤原氏が関与してるのでしょうか?
質問2
政治や経済に、今でも藤原氏の影響力ってあるんでしょうか? 巨勢の家系も現代まで存続してるから、藤原の系統がいまだに存続してたとて疑問に感じる程でもなくない? 俺がちょっと疑問に感じたのは、GHQが財閥解体したのはわかるけど、
公家華族までも廃止したってのは、戦争に影響を与えたからなのかな?
ということで… >>589
参議院の前身である貴族院は華族の世襲だったもの
民主主義国家にするには不要だろ 壬申の乱の時藤原家は当然大友皇子派だったと思うのですが、
乱後、不比等はじめ藤原家はますます勢力を強めていますね。
なんのお咎めもなかったのでしょうか?
御教示宜しくお願いします。 この時代は史料が限られるので以下の点から考察してみてください。
・藤原不比等は壬申の乱当時数え年14歳(いまの中学1年生)
・乱に勝利した天武天皇は藤原鎌足の娘つまり不比等の姉妹を夫人としている
・天武天皇が直々に臨終の床を見舞った鏡姫王は藤原鎌足の嫡妻だった >>591
実際に藤原不比等はしばらく日陰者となっているよ。
族長の中臣金に連座したようだね。
藤原不比等が再び現れるのは、持統天皇になってから。
どん底から這い上がった点は評価すべきだと思うが。 藤原氏も何度も何度も危機を迎えてるけどその都度復活してよりパワーアップしてるな
漫画の主人公みたいな奴らだw
藤原広嗣の乱、藤原仲麻呂の乱、薬子の乱と藤原氏が起こした乱が何度も潰されてるけどそのたびに他の家が取って代わって立ち直る
他の一族は一度大きく叩かれるとそのまま消えてしまってたから藤原氏のしぶとさが半端ないな 藤原氏の台頭って持統天皇の「自分の血族を天皇に」と言う意思が原因だよな
まぁ結局グダグダになって天武系が途絶えるんだけど
皮肉なもんだ 平安時代の摂関家って何て言うか明るい人が多いな
図太くて冗談が好きで友達に居たら楽しそうな人が結構多い
大鏡とかはちょっと脚色多いけど他の資料とかでもそんな感じなんだよな
麿は・・・とか言ってるナヨナヨイメージとだいぶ違うな >>596
そら持統天皇は権力持ってたもの
自分の子孫が天皇ということにしたいだろう
自分の後は嫁の連れ子に継がせるという男天皇がいないのと同様
自分の血を引かない夫の子など天皇に値しない 藤原氏がどうのと言うよりも皇族のゴタゴタが隙を与えてるな
持統天皇→聖武天皇即位
称徳天皇→光仁天皇
平城天皇〜仁明天皇までの上皇祭り
この辺りで付けこむ隙を盛大に与えてるな >>599
聖武天皇以降は母方藤原氏の天皇がほとんどなんだから
藤原氏は天皇の敵対勢力どころか味方だからねえ
たくさんいる異母兄弟たちに打ち勝って天皇として即位するには
外戚である母方の藤原氏の力が必要不可欠で歴代天皇が頼ってきたいきさつもある >>1
天皇家と同じ貴種だから滅ぼさず大切にしてきた。日本は魏晋南北朝隋唐から影響受け、出来た国家だから、官位の貴賎意識や血統名族や正閠論にうるさい。 皇室が貴種であるというのはわかる。
だが、藤原氏(中臣氏)は、もともと蘇我氏・物部氏・大伴氏などの名族より
格下の一氏族に過ぎない。藤原朝臣を賜ってからにわかに台頭したに
過ぎない。
だから、蘇我氏・物部氏・大伴氏が表舞台から退場していったように、
新たな実力ある氏族が台頭して、その氏族が皇室を戴けば、藤原氏も
退場させられてもおかしくはなかったのではないか?
>>1はそのことを問いたかったのではと思う。 藤原氏は何度も何度も普通なら失脚する難事にぶつかるけどそのたびに別な系統が取って代わって復活してたな
南、式、北、京と不比等の息子達の家がそれぞれ別の物の様に動いてたのが安全装置に働いてた
他の有力氏族は氏の長者が倒されたらそのまま一族全部滅んでたな >>604
蘇我宗家が滅んだら傍系の蘇我山田石川麻呂が台頭するなど
宗家が滅んでも傍系が台頭しようとしたんだけどね
飛鳥時代頃だと傍系もまだ枝葉が広がっておらず数が少なかった
藤原氏は短期間に一族をもの凄く増やしている
不比等が藤原姓は自分の子孫しか名乗れないことにしたので
不比等の時には一人だけだった藤原氏が
他家へ嫁ぐ女子は除いて男子のみで
子の代には4人→孫の代には21人に増えている 藤原氏が生き残った理由
@皇室のゴタゴタに便乗
・持統天皇の系統維持の保護役として地位を確保しそれを足掛かりに人臣皇后や外戚の地位を得る
・称徳後や平城、嵯峨、淳和、仁明期などの継承の混乱に付けこんで光仁天皇や光孝天皇のような傍系の人物を即位させて権力を確保
A南、式、北、京の四家
・不比等後に広がった4兄弟の家系が他系統が潰れてもすぐに入れ替わり宗家没落後も藤原氏を維持
B徹底的な他氏排斥
・大友氏、紀氏らの対抗できる有力氏族を徹底的に排除し、朝廷に「藤原氏と臣籍降下した氏族だけにしてしまった」 なんでエイトマンの話ばかりなの?
『ザ・モモタロウ』に登場するテングテング〜エイトマン もし平氏政権が100年単位で続いていれば、藤原氏没落の原因になっていたかも知れない
と思う。
「天皇の外戚」「朝廷の高官の独占」を平家は藤原氏から奪って、家格第一の貴族になって
いただろう。やがて、摂関も平家から輩出するようになってもおかしくはない。
藤原氏は歌学を家業とする中級貴族として細々存続したのではないか? 藤原が生き延びたのは、国家が安定した時の宰相が藤原だったから。
そして、天皇家が神輿になって生き延びたのと同じく、藤原も軍事力を持たないが「権威」を
手に入れて家が生き延びた。
他民族に支配されるとその権威は消えてしまうというか意味がなくなるけど、日本では
それがなかったから古来の権威が生き続けた。
欧州の貴族階級は、先祖が○○王に領地を貰った由緒ある家系とかを誇る。
あるいはカペーの子孫の家柄とかハプスブルグの末裔とかイギリス王家に繋がるとか。
イスラム世界でも、ムハマンドの子孫を誇る王家がある。
軍事力だけでは人心を支配することは難しい。
何らかの「権威」を利用するほうがやりやすいのはどの民族も同じこと。 >>589
身分制を否定したアメリカに占領されたからだよ。
欧州の貴族社会を否定して平等な国を作ろうとしたのがアメリカ。
平等の中には有色人種は入っていなかったけどなw 「権威」に徹したことが生き残った原動力だろうな。
和歌や短歌、その他「文化」を家業にして、野蛮な武士に「文化」を与えることで。 まぁ要は外戚と言う立場を利用した寄生だからな
朝廷の権威が低下すれば必然的に無意味な存在になる
藤原氏も外戚になれなくなった時期に衰退するし >>612
朝廷の権威が低下すれば公家全体の権威が低下しただろ
藤原氏に限らない
そら武家だって幕府が潰れれば幕府高官たちも地位を失職するし 秦氏と密接な藤原氏は、個人紋として茗荷。丸じゃ無く八角形だと最高。 日本は魏晋南北朝のパクリすぎ
南北朝時代で三国志の魏の子孫が権威だけあった貴族王侯として残ってるのと同じ。 いまのところ
日本史の覇者は藤原氏だろう。
全国の藤家一族の多さといたら。 >>616
三国志や水滸伝にも周王室の
末裔とか登場してたようなw。
だが、名目だけとはいえ
国の統治を続けていたのは
日本の皇室だけだぜ♪。 やはり藤家は天皇側近の
第一だな。
内藤、武藤、佐藤、斎藤
は皆、天皇の元側近たち ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 象徴天皇制の開祖だからだろ
日本人にあってる統治システムってわけだ 乙巳の変からの藤原のゲスっぶり見てると朝鮮の歴史みたい、鎌足って日本人なの? 藤原氏の繁栄は持統天皇以後の皇室の内部抗争に根っこがある
藤原氏自身がどうのよりもそういう隙を与えた持統天皇に遠因がある われわれは
われわれは
賢いから
賢いので
長続きしました。 江戸時代の将軍家や大名家は箔付けに正室は五摂家から迎えてたからな
完全に血統のみが存在意義のある家柄だった >>623
朝鮮渡来説あり。名前に生物の名前をつけるのが、当時の朝鮮の名付け方とか。 この国はある意味では北朝鮮以上の国民を騙す国家だと思う 北朝鮮以上に国民を騙し詐欺師の様に搾取する
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蹴鞠の会で出あったというのは、新羅の金春秋と○○(忘れた)。それを中大兄と鎌足がまねしたか、
引用した。「藤原家は孫呉の兵法などを日常読んでいた家だから、そこらへんの家がかなうはずがない。」
という文を昔読んで、なるほどなあと思った。文は武に勝るというのは、チャイナ朝鮮系だよね。
日本人は、「ガタガタ言ったら、叩き切ったる!」だからね。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
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URL 藤原って名字の奴に藤原氏直系の子孫はいない
藤原不比等の子孫は近衛、九条、鷹司、一条、二条のいずれかを名乗っている
全国の藤原さんは先祖が無知な見栄っ張りのカッペだったことを自覚して生きるように >>1
やり方が半島式だからのさばり続けた。
やっぱアイツら日本人じゃないぞ! 明治時代の苗字令の時は庶民が藤原を名乗るのは禁止されてたぞ
全国の藤原さんは先祖が無知な見栄っ張りのカッペではなく
在日だよ 研究科に電話したら、研究科執行部が誰かは答える必要のないこと、とか言ってきた笑
そんなことしても、研究科の執行部は研究科長ってことじゃん。
そんなことしても意味ないのに。今日書留で発送するらしい。
前回の書面が研究科長名義だったから、それを周りに見せられて、ヤバいと思ったんじゃないの? 一週間練りに練って、何を言い訳するんだか笑アカハラの証拠になるだけでしょ笑 どんどんヤバさ晒してるよ。
何をしてるんだろう?
楽しいわ笑 いつ、どこで、誰が、どうやって藤原氏のDNAを解析したのか?
色んなスレで「藤原氏のY遺伝子は〜」と書かれる度に問いかけるのだが、未だ誰も答えてくれない 解決済の質問
なぜ藤原氏は五摂家に分かれたのですか?
近衛・鷹司・一条・二条・九条 ベストアンサーに選ばれた回答
「氏」と「家」は概念が違います。
藤原「氏」というのは「藤原一族」という意味で、
近衛「家」というと「近衛」の家系を指します。
平安中期までは、官職は相応の官位のもの中から適任者が選ばれて就任するものでした。
相応の官位に登るには相応の氏出身でなければならなかったので、
特定の氏のものは特定の官位に付きやすいということはあっても、
親から子へ世襲されていくものではありませんでした。
それが、平安後期になって特定の「家」が特定の官職を請け負って世襲していくようになります。これが「家」の成立です。
一系統であった「藤原」が五つに分かれたというのではなく、
家の成立により五つの系統に固定されたというものです。 その他の回答
藤原氏は過去大きく2回本家が分離しています。不比等の知恵がはいっているのかもしれません。
1回目は藤原4兄弟といわれる時代で、南家・北家・式家・京家です。
藤原最大の家系が南家で、南家仲麻呂は長屋王を滅亡させるほどでしたが恵美押勝の乱で一時衰退。
しかしまた桓武天皇の時勢力を伸ばす。伊予親王とその母藤原吉子(南家是公娘)に謀反の疑いをかけ自殺に追い込んだ事件を期に南家失脚。
式家は広嗣の乱で一時衰退、平安初期藤原仲成/薬子の時代再び繁栄する。その後陰謀の渦中暗殺されその後式家は衰退する。
最後に残ったのが北家で、嵯峨天皇の腹心として、北家の冬嗣が勢力を延していく。摂関家は北家限定です。
激動の時代を4家で乗り切り最終的に藤原氏の家系は繁栄し続けました。
これが次の武家政権との政治闘争の時に北家の本家をさらに5家に分け藤原氏の家を守ろうとしたのです。
北家・五摂家これが朝廷内での出世の条件にもなりました。 南北式京の4家に分裂
何百年も続く熾烈な権力闘争のなかで、そのうちの3つは潰れたが、北家は生き残った
こうしてみると、「藤原氏のリスクを分散するため、不比等が4家に分割した」というのもうなずける >>638
>藤原不比等の子孫は近衛、九条、鷹司、一条、二条のいずれかを名乗っている
全部、藤原北家の系統だけど、他にはホントにいないんかい? スレチだけど近衛文麿の嫡男文隆が亡き後、なぜ細川家から養子を迎えたのか?
なぜ文隆の後を弟の通隆が継がなかったのかも謎。
長男に何かあったら女系の孫ではなく、次男が継ぐのが定石だと思う。 武家の方に摂家と同じように確実に資料に残ってる(仮冒ではなく)現在まで続いている藤原姓はあるの 皇別摂家(こうべつせっけ)とは、五摂家のうち江戸時代に皇族が養子に入って相続した後の3家(近衛家・一条家・鷹司家)およびその男系子孫を指す。
太田亮が近衛家に対して用いたのが最初であるが、学術用語・専門用語として定着することはなく、系図愛好家・好事家らの間の隠語でしかなかった。 五摂家が続いたといっても、近衛家・鷹司家・一条家は江戸時代に断絶し、天皇家から養子が入った
実質的に藤原氏とは言えない
もちろん、皇族である以上、藤原不比等や藤原道長の血筋を受け継いでいないわけがないのだが 契丹(キタイ)族の王朝・遼でも、父系は耶律氏、母系は蕭氏の出身が続き、一種の二重家系みたいな王朝になっていた
日本の天皇家と藤原氏も、これと似たようなものだが、続いた長さが違う これで、もしも藤原氏が朝鮮半島出身だったら、このスレはさぞかし荒れることだろう >>654
通隆氏には子はいないし、結果的に良かったかもよ
近衛家の次期当主の忠大氏には男子が3人もいるしね 中臣鎌足の出自はナゾに包まれている
「朝鮮半島出身」という可能性も否定できないのではないか >>667
僅かな可能性に民族願望を寄せるな気持ち悪い >>669
可能性があるとすれば藤原不比等の方だろ 出自のよくわからない藤原鎌足が、どうしてあれほどまでに中枢の権力を握ることができたのか
関裕二さんは、鎌足は百済の王:豊璋であったといっています。
そんな馬鹿なと思いつつも、その論拠にはとても説得力があります。 扶余 豊璋(ふよ ほうしょう、生没年不詳)は、百済最後の王である義慈王(641年 - 660年)の王子。
『日本書紀』での表記は扶余豊璋もしくは徐豊璋であるが
『三国史記』では余豊璋もしくは徐豊璋、『旧唐書』では余豊もしくは徐豊である。
また、『日本書紀』にも登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある。
(提供:ウィキペディア)
倭国滞在中、百済本国が唐・新羅に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国した。 てか突然扶余から中臣になる意味がわからん。天皇が姓あたえてるなら歴史書に載るだろ。 >>672
善光が喘ぐTENGA生産者としてクダラノコニキシとして実在したんだから兄だけ倭人のフリしたりせんだろ普通に考えて
しかも一応貴族のクダラノコニキシの兄が帰国したのなら何らかの記録があるはず
もっと言うと豊璋を帰国させたあとに鎌足の行動記録が残ってる時点で有り得ないわけで、無能チョンコの民族願望でしかない 江戸時代からの五摂家は、天皇家から養子が入って、名目だけの藤原氏になった
もはや、単なる「天皇家の母系」となった 豊璋は正体を隠すために、天智天皇から藤原鎌足の名をもらって帰化した。
日本への朝鮮人の乗っ取りは朱鳥631年の天武天皇時代から始まっていた。
http://livedoor.sp.blogimg.jp/gardendesigner-eye/imgs/7/5/755542fa.jpg 朝鮮ヒトモドキはまともに文字が読めないからネトウヨは分かりやすく絵にしてあげてるんだぞ
涙を流して感謝し、諸手を挙げて喜ぶべき
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1552557172/15
ネトウヨが莫迦の一つ覚えでAA貼りまくるワケw
半島のためにやってるそうです。半島のために・・ネトウヨは悪魔ですね! 糞チョンのことなんて関わりたくないから、ごめんだねw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています