記紀の年代は、当時の日本人が必死に考えて、これが正しいと信じたものを書いただけ
意図してウソを書いてはないとしても、全面的に信用できるものではない
食い違いの原因は、日本書紀によると持統4年に出されたという、中国暦法の公的採用の勅令
「元嘉暦と儀鳳暦とを行う」とされ、その実施は勅令の2年後の持統6年とされる
しかし、それ以前に日本がどのような暦を使っていたのかが、後世に伝わっていない

その直前、壬申の乱の日本書紀の記事に、おかしな記事がある
大海人皇子は天武天皇元年6月24日(西暦で7月24日)に吉野を出立し、まず、名張に入ったが
あまりの極寒のため、駅家を焼いて暖を取ったという
この記事はべつに天変地異を描いたものではなく、出征の経緯を淡々と列挙した記事だ

そもそも改暦に持統4年から6年まで要しているわけで、それ以前の日本の暦はまったく異質なものだったのだろう
それが伝わっていないために、おかしなことになっているわけだ