【勇猛】悪源太義平V【果敢】
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スレ落ちしたので立てました。
源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故に官位叙任も叶わず(本人が求めていたかどうか?)
嫡男として遇されないにも関わらず父義朝に孝行を励み六波羅清盛暗殺に執念を燃やした若武者を
多いに語って下さい。
なお「『義平』は武士起源論成立論を語る上での記号としてで」をルールとしましょう。
さらに中世宗教史、中世通運流通貨幣経済史も可とします。 >>125
将門や満仲には「犬養」、
秀郷には「鳥取」という氏族が関係している。 >>120
そういえば近江源氏の山本義経も義光の子孫だよね。
山本義経は治承寿永の乱の時園城寺と提携していたりするよね。
同じく山本義経は義光子孫の武田信義と一時期連絡をとって共同行動を
取ろうとしていたみたいだし(玉葉より) 俘囚≒蝦夷じゃないと思う。
俘囚は中央で失脚した古代軍事氏族の物部氏や大伴氏の末裔が主体だと思うよ。 敗れた物部守屋一族への弾圧は苛烈を極めたみたいだね。
勝者の蘇我馬子ー聖徳太子ラインは百済系で相当腹黒かったみたいだね。 大化の改新は百済系同士の内紛であって壬申の乱が本当の革命だよ。 はるか昔に大和朝廷に軍事的に敗北した側の戦闘技術が新興武士の戦闘技術の起源だなんて理解しがたい説だな。
>>俘囚は中央で失脚した古代軍事氏族の物部氏や大伴氏の末裔が主体だと思うよ。
こう考えれば、中央貴族が失った往古の勇猛さと戦闘技術が逆輸入されたものとなる。
だけど、大和朝廷側の末裔に「俘囚」という言葉が使われたとすると変ではないのかな。 >>131
聖徳太子側から反逆者(大逆罪)の烙印を押された敗者は未来永劫罪は許されないから
蝦夷の領域で生き延びるしか方法は無く、製鉄や騎射などの軍事技術と共に移入したんだと思うよ。 「夷種衆多、逓相合従、賊徒数万、窮寇死戦、一以当百、難与争鋒」
夷(えびす)の種(ともがら)は衆多くして、逓(たがい)に相合従す。賊徒数万、窮寇死戦せば、一もて百に当りて、与(とも)に鋒(ほこのさき)を争ひがたし。
(『藤原保則伝』古代政治社会思想) まあ武士の戦闘技術のルーツは色々求められるけど
主流は畿内を発祥とする八幡宮、賀茂神社系だろうね。
神社の「神人」というと現代感覚では神主なんかをイメージするけど
実態はチンピラ・ヤクザなんだよね。 >>134
だけど怖いよね。
21世紀の現代でも聖徳太子や藤原氏を批判すると
直ちに、押さえ込もうとする勢力が現れるからね。
なんでだろ? 『続日本後紀』(承和4年2月)
弓馬戦闘。夷リョウ生習。平民之十不能敵其一。 >>138
一次史料の部分的抜粋を張って何が言いたいんですか? 藤原氏の政治手法とは自家の繁栄。競合という意識はないんだとおもうよ。
悪徳と言うか常に円を張って隙を狙ってるといったところか。 源実朝は藤原摂関家と関係の深い三浦氏に消されたけどね。 >>140
藤原氏は天皇家を滅ぼさず共存を図ったじゃんw
鎌倉幕府には摂家将軍を差し出し
室町幕府には御台所を差し出し
江戸幕府にも御台所を差し出した
現在も宮家の女王が嫁いだりしてる >>143 そういうとこが
>>140 の言ってる性悪ってことだよ
とにかく聖徳太子や藤原氏に批判めいたこと言うと速攻、変なのが湧いて来るんだなw 推古天皇=持統天皇
聖徳太子=藤原不比等
このように故事に擬えて権力の正統性を図ったのは光明皇后一味だよ。 中世以降の藤原氏の犯罪
源実朝暗殺
足利義満暗殺
織田信長暗殺
孝明天皇暗殺(主犯は三条実美)
第二次世界大戦参戦(近衛文麿)
細川連立政権崩壊(自民党政権の復活)
自民党清和会の独裁←今ここ 武士の成立過程で重要な武器として「太刀」がある。
1966年に石井昌国が提唱して以降、蕨手刀から毛抜型太刀への変遷に着目し太刀の源流を
蕨手刀に求める説が主流となり、1995年には下向井龍彦が同様の立場から俘囚の積極的関与によって
武士成立の重要な要素と考える説を提唱していた。
しかしながら近年の研究により石井説の再検討が指摘されているのだ。
蕨手刀の年代出土例が関東以西ほど古く関東、東北南部、東北北部、北海道と順を追って新しくなるという。
しかも太刀の構造上の問題を忘れてはならない。
太刀は茎式鎬造で蕨手刀は共鉄式平造である。
蕨手刀の進化型は毛抜型太刀(俘囚刀、衛府太刀)であることには異論はないが武士の太刀とは決定的に構造が異なるのである。
毛抜型太刀と太刀は構造上、系統が異なることは否めない。
実は正倉院御物には茎式鎬造の大刀がある。
基本的には直刀であるが茎を差し込む柄の角度により腰反りの効果を得ている。
武士の成立過程において前段階の律令制軍事戦闘技術の連続性は重要な要素であるといえよう。 蕨手刀は北関東、信州あたりで生まれ北日本に伝播し東北の地で進化した。 残念ながら
その進化した毛抜型蕨手刀と武士の太刀に連続性は無い。 >>150 の補足であるが冶金工学的にも作刀工程にも両者には技術的断絶がある。
先ず冶金工学的側面において太刀は鋼を鍛えることによって脱炭し炭素含有量を1%程度の剛性の最適化を実現した。
昨刀技法面において太刀は鎬造を用い臍を切ることによって驚異的な軽量化を実現し剛性は損なっていないのだ。
二尺未満の毛抜型蕨手刀が三尺近い当時の太刀(江戸時代の打刀よりはるかに長尺である)と同寸の物を作ったならば
とても日本人の体格では取回せない代物になるであろうことは想像に難くない。
さらに拵においても太刀は刀身を柄に完全固定せず茎を一つ目釘により遊びを設けショックアブソーバーの役割をもたせている。
これは蕨手刀の共鉄造とも一j線を画し、機能面においても毛抜型蕨手刀よりも打撃時の衝撃を吸収することに成功している。 >>144
摂家将軍も足利家・徳川家に御台所を出したことも
藤原氏が画策したことではなくて全部向こうから請われたことじゃないね?
藤原氏が性悪でなかったら、婚姻を請われても全部断らないといけないわけか。
変な奴だ。 >>153
藤原氏側がそう仕向けたんだよ。
ぶぶ茶漬でも食って帰ってくれ。 変なのが湧いてきたんで無視して
武士論の実証科学的議論をしようよ。 >>158
花郎がどうとかわけわからん事言ってるし
朝鮮ドラマの見すぎなんだろうな 新羅の「花郎」は弥勒信仰そのものである。
八幡宮は神仏習合を基本とし神宮寺(弥勒寺)と併設されていることが最大の特徴である。
総本社宇佐八幡宮の弥勒寺は辛島氏によって建立され別当職を代々受け継いでいる。
八幡信仰は「香春」の神が源流とされ、辛島氏の故地は新羅領域の加羅国であり、弥勒信仰と共に
辛島氏は九州北部香春の地に移住して来た製鉄技術を持つ新羅系渡来氏族である。 満仲が作らせたと伝えられる源氏重代の太刀「髭丸」は伝承によると筑前の刀匠の作刀とされている。
筑紫の鍛冶集団は香春の製鉄民をルーツとしていることから天慶の乱鎮圧に父経基に従い西国に出陣した満仲が
彼ら香春の鍛冶集団と何らかの接触を持ち吸収したことは十分考えられる。 大陸朝鮮と日本の間で決定的に違うのは弓と鐙
朝鮮は日本のような長弓でも武蔵鐙でもなく大陸の猿真似、没個性
朝鮮との連続性はないといえる >>165
よく勉強してるが浅学だね。
君の言う武蔵鐙とやらはスリッパ型でその成立は12世紀なんだね
古代末期、武士の萌芽期においては環状鐙であり律令軍制と共通なんだよね。
長弓についてだけど
元寇でのモンゴル軍(高麗軍)も複合弓の短弓も長弓も使用してるけど何か? >>165
後学の為に教えといてやるけど
日本の長弓の特異性はその使用方法にあるんだよ。
馬上での長弓の使用は日本独自であり、その秘密はグリップの位置にあるんだよね。
弓の下半分の握り拳二つ分下部をグリップすることによって馬上での取回しを容易にすると同時に
弦の強張力効果と矢の弾道降下を防ぐことに成功してるんだよね。 大陸は騎馬兵が弓を放つので短いけど
日本は基本、歩兵が主力なので、弓が長い。 日本弓について
「重藤の弓」が有名だけど複合弓の普及は実は鎌倉期以降であり
治承・寿永の乱当時は古代以来の丸木弓が普通に使用されていたんだよね。 那須与一の弓は複合弓だった可能性はあるね。
ソースは失念したけど一部文献によると、丸木弓の外側(射手から見て)に燻した真竹を
膠で張り合わせて漆で塗り固めたものだったらしいね。 源氏が新羅系とよく言われるのは、血統的に新羅人の子孫という意味ではなく、
新羅のスピリットを継承しているって意味なの? 下河辺龍彦は歴史学は科学だと言い切っている。
各史料の比較、推論、「史料批判」によって歴史の真実が見えてくる。
即ち、武門源氏=清和源氏の根拠は余りにも脆弱だ。 そうだね。
武門源氏が清和源氏であるとの同時代史料では「大鏡」のみであり
後代の史料は全てこれに倣っているだけ。 >>178
皇族の母系はたえず変わるだろうw?
一代ごとに生母は変わるんだからw >>183
その殆んどが渡来系。
息長氏、百済王。 源満仲の出自は
陽成帝の母后藤原高子が不義密通し東光寺座主善祐の児を妊り、寛平8年(896年)9月に
廃后されている。
陽成上皇は退位後、頻繁に摂津国で下人を引き連れ狩猟を行い乱暴狼藉を働いたとされている。
摂津国多田院の近くには東光寺の末寺が存在する。
以上の事柄より
満仲兄弟の実の父親は陽成上皇の異父弟であり
満仲兄弟は陽成上皇の取り巻きとして狩猟に供奉し乱暴・狼藉時には暴力装置として機能していたと思われる。
また、経基との関係は
満仲兄弟の叔父である陽成上皇が兄弟を同族の経基の養子とさせ皇孫裔に潜り込ませたのである。
満仲兄弟の実の祖父東光寺座主善祐は秦氏の出自である。 武家源氏は清和源氏ではなく
清和の后藤原高子の不義の子孫なんだな。
満仲が藤原摂関家に接近して四位まで位階を進めることが出来た説明がつく。
その秘密を知った頼信はコンプレックスから息子に「義」の諱を与え頼義とし
河内源氏は代々「義」を通字としたんだな。 >>195
藤原高子は清和天皇の死後、僧と密通して皇太后を剥奪されたというだけで
別に陽成天皇は不義の子ではないだろ >>196
ちゃんと嫁。
東光寺座主善祐と密通して生まれた子供が陽成上皇の異父同母弟であり
その異父同母弟が満仲兄弟達の実父だということ。
この事実から
満仲と摂関家との関係(母系では藤原基経の曾孫であり皇太后高子の孫)が解明出来るし
父とされる源経基(天慶の乱勲功者)を遥かに凌いで位階を進めた理由が分かる。
さらに
「頼信の告文」の謎も説明出来る。
それは 源家の秘密を知ってしまった頼信の苦悩(本当の祖父が陽成上皇の異父同母弟であったことへの)であり
信仰している八幡神に対しての申し開き(陽成帝の末とすることでの賜姓源氏の正当性の主張)である。 陽成源氏説は、世代数からみて、どう見ても無理がある。 >>192
>以上の事柄より・・・・・・・・・・・・・
その異父同母弟が満仲兄弟達の実父>>197と言えるのかねえ?
その異父弟という善祐の子にして満仲の実父自身については、史書には
どう記録されているのかね? >>197
高子と善祐の間に子はいないんだが。
だいたい高子が僧善祐と密通して皇太后を剥奪されたとき
高子は55歳だぞ?
高子が皇太后となった元慶6年(882年)には密通はまだなかったのだし
皇太后になったときにすでに高子40歳。
皇太后剥奪が寛平8年(896年)でこの前後に満仲父が生まれたとして
高子は50代半ばで出産か? >>202
>高子は55歳だぞ?
?が付いているから疑問文と判断できるが、
高子の年齢は55歳なのかを聞いているのか、意味不明。
>高子は50代半ばで出産か?
疑問文として意味が通じる。 >>203
高子が僧善祐と密通して皇太后を剥奪されたとき高子は55歳←これは史実
?を付けたのは55歳で出産したと本気で思っているのか、という疑問符。
高子が没したときの年齢、皇太后を剥奪された年は確定している。 清和源氏説:清和天皇−貞純親王−源経基−源満仲
陽成源氏説:清和天皇−陽成天皇−元平親王−源経基−源満仲
これを比較してみろ。
世代数でみても、陽成源氏説は無理がありすぎるんだよ。
清和源氏説でみても、満仲って経基が10代の時に生まれたような子どもなのに、
経基よりもちょい上の元平親王の孫が満仲だなんて
世代数からみても、無理有りすぎ。 皇別氏族って、いついつに臣籍降下したかによって
その後の昇進などに影響する。
源経基は、清和天皇の第6皇子の子供だから、立場が微妙なんだよ。 少しでも歴史の隙間があるとウリジナルはそこに入り込んでくるのである >>東光寺座主善祐と密通して生まれた子供が陽成上皇の異父同母弟であり
その異父同母弟が満仲兄弟達の実父だということ。
wikiだとこの一文だけでも[要出典]の嵐だな >>197
この事実から〜と書いているが、その中で事実は密通があったということだけではないの? 在原業平と高子の不義の子も清和帝皇子とされているからね。
清和帝は16歳から26歳までの10年足らずで30人近い皇子皇女を作っているし
清和・陽成朝から光仁・宇多朝に皇統が移動して清和・陽成皇胤の地位の低迷は仕方ない。 当時、母系の後ろ盾が無ければ皇孫と言えども従五位下の叙爵もままならなかった。 >>192
やっぱりそうだったんだな。
納得したよ。 >>210
藤原高子は貞観8年に清和天皇に入内し、同年12月に女御宣下を受けている。
高子には陽成天皇、貞保親王、敦子内親王の3人の子がいるが、
このうち最も年長の陽成天皇は貞観10年12月16日の誕生、
貞保親王は貞観12年の誕生でいずれも入内後の誕生。
敦子内親王は生年不詳だが、内親王宣下を受けたのが貞観15年であり、
陽成天皇、貞穂親王の妹とされる。
高子が産んだ不義の子って誰? 小学校低学年の頃、「悪源太義平」のことを「亜源太義平」と認識していた。
当時通っていた書道教室で「飛んでゆく雲」を読んだのが義平との初めての出会いだった。
義平が清盛の暗殺に成功していたら、大輪泊は誰が築くの?
音戸の瀬戸の掘削工事は?
武勇に優れた義平といえど、清盛のように百年先を見通す英傑ではなかったのでは。
それより先に報復として頼朝が殺害され、さらに常盤と三人の子供たちが路頭に迷う可能性があるかも知れませんね。 その場合、池殿と後の小松殿が分裂して
帝と院も分裂状態で摂関家最後の巻き返しのチャンスだったかもな >>218
百年先の日本を考えるより自分の親の敵を殺す方が先だろうw そして河内源氏は身内同士の凄惨な殺し合いを続けてゆく。
「新平家物語」などの文学作品の影響で義平は清童だと信じていた頃がありました。
史実では妻を娶っていたのに。妻が幼くて子が生まれなかったのかも知れませんね。
新田氏以外の名も無い女性が義平の子を産んでいたとしたら、その子は歴史の表舞台に登場することはなく、
ひっそりと生涯を終えていたのではないでしょうか。特に女児の場合は。
「飛んでゆく雲」に登場する義平の子は源氏dqnの血を引くとは思えない、心優しい美男子でしたね。
悪源太義平は今後映像化されることはないのかな?
例の大河ドラマの不人気低視聴率から、中世もの=見たい人が少ない、の世論が形成されたからなあ。 >>221
歴史ファンとしては
大河ドラマ「平清盛」は結構見応えあったよ。
特に頼朝以前の為義・義朝親子の描写なんかね。 ヘロヘロ矢のゴミドラマ
悪源太役に優男を起用した時点で駄目だ あの悪源太の中の人は父親役の中の人より年上。
平治物語の虚構だけど橘と桜の場面は見たかったなあ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています