【勇猛】悪源太義平V【果敢】
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スレ落ちしたので立てました。
源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故に官位叙任も叶わず(本人が求めていたかどうか?)
嫡男として遇されないにも関わらず父義朝に孝行を励み六波羅清盛暗殺に執念を燃やした若武者を
多いに語って下さい。
なお「『義平』は武士起源論成立論を語る上での記号としてで」をルールとしましょう。
さらに中世宗教史、中世通運流通貨幣経済史も可とします。 >>394
その平氏は朝廷の中に食い込むことによって権力を得ていた。
朝廷がなかったら平氏は権力を握れなかったんだよね。
しかも平氏は政権運営のノウハウをもっていなかったから
婚姻等で「親平氏公卿」に政権運営をお願いしていたというのが実情。
(治承三年の政変以降もね)
その親平氏公卿だって平氏都落ちの時はさっさと平氏を見限っていた。
まあ、白河院政期や鳥羽院政期に比べると政権運営がガタガタなのは認めるけど
(院も摂関家も絶対的政権運営力を持つことができなかったから)
成り上がりの平氏が入り込もうとしても入り込みきれなかった頑なさがあるのは事実。 平安時代になると、
律令制が、弛緩して、分権的な王朝国家になっている。
桓武天皇が、常備軍を廃止して、地方民兵(兵:つわもの、後の武士団)に
軍事を全面的にアウトソーシングしているのだから、当然そうなる。
この時点で、律令制はグラついているのだから、
朝廷のパワーも昔ほどではない。事実、平将門や藤原純友、
前九年の役や後三年の役など、地方での反乱も散発し始めている。
そしてそれを鎮圧したのも、常備軍ではなくて地方民兵(武士団)。 >>396
>律令制が、弛緩して、分権的な王朝国家になっている。
元々この国が強権的な中央集権国家であった時期の方が短い。
鎌倉室町期も分権的だし、江戸時代は将軍の権力が大きかったが原則的には
藩連邦国家という状態。
大化の改新以降の奈良期までの一時期と明治以降中央集権になったくらい。
軍備のアウトソーシングだけ問題にしているが、
この頃地方の政治のありかたもかなりアウトソーシングしていた。
国ー郡ー里という支配制度が崩壊して
国司は在地の有力農民を通して年貢の取り立てや行政を行うというようになり
納税や、行政もアウトソーシングされていた。
ではアウトソーシングが国家の弱体化を示すものであるかといえばそうではない。
飢饉の時期などを除き、きちんと年貢は都に運上されていた。
既定の年貢を納められない国司、国で問題を起こした国司は解任または次期役職の着任拒否になっていた。
つまり、年貢はきちんとおさめられ、当時なりの国務はきちんと行われていたのである。
アウトソーシングされていても、王朝国家は機能していた。
また、荘園制が問題視されているが、
実は鳥羽院政期以前の荘園は規模も数も小さく国家財政を脅かすほどの規模はなかった。
鎌倉時代に入っても、国衙:荘園の比率は7:3だった、 >>397
>朝廷のパワーも昔ほどではない。事実、平将門や藤原純友、
前九年の役や後三年の役など、地方での反乱も散発し始めている
一応これらの乱を時系列に並べてみよう
桓武天皇以降
810 薬子の変
あ 中120年
936-941 承平天慶の乱
い 中80年
1019 平忠常の乱
う 中30年
1051-1062 前九年の役
1083-1087 後三年の役
え 中20年
1108 源義親の反乱
え 中50年
1156 保元の乱 参考 飛鳥奈良
645年 乙巳の変
か 中30年
672年 壬申の乱
き 中70年
740年 藤原広嗣の乱
く 中24年
764年 藤原仲麻呂の乱
律令政治を導入して、中央集権を行い、常備軍があったなら飛鳥奈良時代と
常備軍の無かった平安時代と戦乱が起きる頻度はさほど違わない。
(もちろんすぐ鎮圧されたのも含めると微妙に違うだろうが)
武士の時代になった鎌倉室町期はそれこそ戦乱の連続で上記以上の頻度で戦乱が起きている。
あ の期間を超える大規模戦乱の無い時代は
島原の乱〜戊辰戦争 の230年くらいしかない。
しかも、この期間の無戦乱は世界史の奇跡を呼ばれるものでめったにあるものでもない。 >>398訂正
桓武天皇以降
810 薬子の変
あ 中120年
936-941 承平天慶の乱
い 中80年
1028-1030 平忠常の乱
う 中20年
1051-1062 前九年の役
1083-1087 後三年の役
え 中20年
1108 源義親の反乱
え 中50年
1156 保元の乱 一つ気を付けてほしいのが
上記の平安時代の合戦で鎮圧に成功できたのは「地方武士団の協力を得られた」
という点が大きいこと。
では、なぜ地方武士団の協力が得られたのか?
弱体化しまくった王朝のはずならば協力が得られないはずである。
前九年の役でさえ、頼義軍の勝利の最大の要因は地元豪族の清原氏の協力を得られたことによるものである。
頼義の私的な郎党の数は実は非常に少ない。
ではなにゆえに頼義が清原氏の協力をとりつけることができえたのか?
清原氏の利害という問題が最大の要因であろうが
頼義が陸奥守であり、都に強い人脈を持つ人物だったという面を見逃すことができないはずである。 また、上記の表に書いてはいないが
平安中期の1019年に「刀伊の入寇」という事件が起きている。
これは大陸の民族が九州近辺に攻め寄せた事件であるが、
この攻撃を藤原道長甥の太宰権師藤原隆家指揮の元
地元豪族の協力を得て撃退させることに成功している。
もし王朝国家に何の力もなかったら、豪族たちは太宰権師の指揮に従うであろうか?
武力がアウトソーシングされたからといって無力化されたのではなく
アウトソーシングされた武士団を縛り付ける何かが王朝国家にあったとみるべきではないのか? アウトソーシングといえば江戸時代もかなりのアウトソーシング時代だったよな。
庄屋や名主という人にかなりの権限を与えて
年貢の納入に責任を持たせたり、その地域の住民の面倒を見させていたからね。
役人は必要以上に地域に介入しない。
都市部では大家と店子というように、借家の大家や町の有力者にその住民の管理の権限を与えていた。
戸籍管理は寺社任せ。
アウトソーシングにより
少数の役人で多くの民間人を効率よく支配できるようにできていて
しかも200年の超安定政権を保っていた。
アウトソーシングも使いようということかな。
スレからずれてスマソ。 アウトソーシングを引き受ける人材というか階層が
存在したことが大きいのではないだろうか? しかし桓武天皇は、金がないから平安京の建設の一時ストップと
常備軍の廃止を決定しているのだから、やはり朝廷は、弱体化しているのでは? >>405
予算不足はいつの時代にも起こるもの。
安定政権の時代の江戸期もいつも予算不足。
戦争も遷都も恐ろしい大金がかかるもの。
しかも桓武天皇は二回も遷都している。
戦争と遷都両方やって予算不足にならない方がおかしい。
むしろ、戦争の方は挫折したとはいえ、戦争と二回の遷都をさせうる力があったことの方を評価すべきでは? あと常備軍の廃止といっても朝廷が兵隊に給料払っていたわけではない。
兵隊にでること自体が納税だから。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 鎌倉殿って源義朝が元祖らしいね
学者の間では義朝嫡流が名字を「鎌倉」と称していたとする見解がある 鎌倉は相模公の居所だったので源氏の本拠地となった。 今日は旧暦12月26日
かつての内裏も今は古びた(明治末〜昭和)の住宅密集地
発掘で保元内裏の紫宸殿の白砂が出てきたと聞いたことがある 鎌倉源氏の初代は源義朝。
鎌倉源氏は、河内源氏の庶流。
河内源氏の嫡流は、源義忠の次男の源義高の後胤と受け継がれていた。 保元年間の3年間に美濃、飛騨、越前に魏平の痕跡があるね
本拠地の鎌倉を離れていた時期が有ったのかな?
それとも鎌倉と京を頻繁に往来して東山道中に拠点を新設しょうとしてたのか? もし平治の乱が起こらずに1170年を迎えていたら
義平は30歳になっていて武将として心身みなぎる絶頂期だろう
相模、南武蔵の本拠地に加えて新田の婿として北関東にも勢力圏を広げ、秩父氏、畠山氏を傘下に収めて
事実上、鎌倉殿になっていたかもしれない
また、保元年間に東山道中に残る義平の活動の足跡は京都の動静にも気を配っていたことを示すものであり
当時の最大軍事貴族である平清盛を牽制する役割も義朝から与えられていたに違いない 頼朝は京都志向で
義平は三浦氏の支援の下、鎌倉殿として関東にいたかもな。 義平は義朝が17歳のときに作った子供なので可愛いわが子というより忠実な自分の子分として扱っていたのかもな 暴走族(房総族?)上がりとび職の若親分義朝のヤンキーDQN息子義平 頼朝のことだから幕府誕生の時に義平がいたら結局粛清しそう 頼朝は義兄弟の一条能保や幼の馴染の吉田経房と仲が良かったからたとえ義平に武力で敗れたとしても院庁別当ぐらいに収まっていそう 最近の研究によると頼朝は少年時代から院近臣のエリートコースに乗っていた
受領叙任は確定していて平治の乱が無ければ従三位蔵人頭新院別当までは昇進出来た >>424
まだ30歳のセレブ若熟女上西門院に仕える少年経房と頼朝
なんかAVに出て来そうな設定だな
その頃、坂東では兄義平は田舎のヤンキーであった 平治の乱が起こらなくても
藤原多子再入内、中宮姝子出家で朝長失業の危機か? >>423
一条能保や吉田経房は関東で幕府を開いた頼朝との縁を買われて
朝廷でも出世したというのがあるからどうかな
院庁別当はさすがに都でも大臣家クラスが任じられるので
頼朝では無理だと思う だけど、なんで頼朝は曲がりなりにもエリートコースに潜り込めたんだろう?
由良の実家だって受領クラスの熱田神宮大宮司家じゃないか
もしかしたら後白河のお稚児さんやってたりしてw >>428
由良の兄弟で嫡男だった範忠が従五位上内匠頭だから
都で出世というよりも熱田大宮司としての収入でやってる感じだろう
由良の姉妹が上西門院女房と待賢門院女房になっていて
その縁で頼朝も上西門院蔵人などになっていたが
女院は生涯未婚で一代限りだからその縁でどこへもぐりこめたかは微妙 >>423 壇の浦夜枕合戦記なんてcoverしてやらんかな。 悪源太って「平治の乱」の時に六条河原で我が先祖の一族である源頼政のおっちゃんを襲撃したアホだろ?
よくも源三位頼政を襲ったよなぁ・・・アホだw 昔の東海道は相模国三浦半島から走水海(浦賀水道)を渡って上総国を通るルートだったんだな
おそらく少年時代の源義朝は浦賀水道を行き来してたんじゃないかな >>431
吉川栄治だっけ? 小説内でそこんとこ露骨に叩いていたね。 >>432
え? てことは、東海道の終点は江戸ではなかったの? >>431 源三位は遠い親戚だが、木曽義仲の親父義賢は叔父だった。
>>436 三番目は義経? >>436
大庭を射損ねた為朝より義平の方が騎兵としては上。
最強は足利忠綱、次いで熊谷直実、畠山重忠のどちらか。
>>437
義経は腕力が弱すぎる。 >>1
>なお「『義平』は武士起源論成立論を語る上での記号としてで」をルールとし・・・・・・・・・・・・・・・・
武士起源論??成立論??
前スレは、こちらの方では?
【つはもの】武士の起源と成立について【もののふ】
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1292733807/ ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
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