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【勇猛】悪源太義平V【果敢】
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0001日本@名無史さん
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2013/10/10(木) 12:29:24.94
スレ落ちしたので立てました。

源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故に官位叙任も叶わず(本人が求めていたかどうか?)
嫡男として遇されないにも関わらず父義朝に孝行を励み六波羅清盛暗殺に執念を燃やした若武者を
多いに語って下さい。

なお「『義平』は武士起源論成立論を語る上での記号としてで」をルールとしましょう。

さらに中世宗教史、中世通運流通貨幣経済史も可とします。
0002日本@名無史さん
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2013/10/10(木) 15:13:16.22
>>1
スレ立て乙
0003日本@名無史さん
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2013/10/10(木) 16:22:21.83
前スレの結末はどうだったの?
昨日夜、見たときは980番代だったと思うけど知ってる人が居たら教えてください。
せっかくの良スレだったので残念です。
0004日本@名無史さん
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2013/10/10(木) 23:14:22.16
武家源氏と切っても切れない八幡信仰の謎について

総本社宇佐八幡宮では祭神が応神天皇と神功皇后と比売神の八幡三神とされているが
元々は国造宇佐氏も氏神だったとされる。
しかし八幡神の出自について豊前国風土記や宇佐託宣集には渡来してきた神と記されている。

聖武朝の鎮護国家仏教により八幡大菩薩の神号が贈られ本地垂迹思想により阿弥陀仏が八幡神の本地仏とされたように
神仏習合の象徴のようになってしまい実像が見えなくなっていく。

本来の八幡神はいったい何だろう?
0005日本@名無史さん
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2013/10/10(木) 23:24:17.21
>>4
八幡の神←やはたのかみ←八つ(たくさんの)波の神。つまり海の神でしょう
0006日本@名無史さん
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2013/10/10(木) 23:49:05.61
たしか満仲の伝承にも八幡神のお告げが出てきて矢を射て落ちた場所に八幡神社を勧進したんだっけ?
0007日本@名無史さん
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2013/10/11(金) 00:05:21.11
八幡神が降り立った場所は九州北部の春香という所らしいね。
宇佐にはそこから遷宮されたらしい。
0008日本@名無史さん
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2013/10/11(金) 07:55:26.18
八幡(数多くの旗)と言えばチベット仏教を連想する。

数多くの旗を神の依り代とするチベット仏教ははるか北方のモンゴル高原から移入されたと言われている。
この風習がモンゴル高原から満州族に伝播し新羅を経由して本来の倭人(海人族)の手を経由して日本に渡来したんじゃないかな。

八幡神は鍛冶の神ともされている。
八幡信仰には製鉄鍛冶の職能集団が関わっていたことは九州北部の伝承や遺跡発掘で明らかになっている。
さらには八幡信仰の源流を辿れば中央アジアの突厥の製鉄鍛冶職能集団にまで行き着くのではないだろうか?
0009日本@名無史さん
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2013/10/12(土) 15:49:44.67
源氏の白旗
0010日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 13:12:30.51
源氏は新羅系、平氏は百済系
0011日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 14:12:17.02
昔の源平合戦の映画や大河ドラマで
源氏の白旗には黒墨で笹竜胆が描かれていたんだが
義朝や頼朝が笹竜胆の紋章を使用したという史料は無いんだけどね。
0013日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 16:15:27.27
>>11
それどころか奥州征伐の際、佐竹氏が無紋の白旗を引っ提げてきたら
頼朝が「お前のところの白旗が無紋なのはけしからん。
今後は自分ちの紋を旗にいれろ
と言った。
これから嫡流を主張したい頼朝は無紋で
家紋入り白旗は庶流ということにしたかったらしい。
0014日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 17:18:45.44
>>11笹竜胆は村上源氏の家紋だったと思うんだが。
(自信ないので詳しい人ヨロ)
0015日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 19:54:41.86
>>14
信濃の村上氏じゃなかったかな。

笹竜胆=源氏というのは江戸時代に作られたイメージみたいだね。
0016日本@名無史さん
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2013/10/13(日) 19:59:44.78
多田の満仲流嫡流は源氏将軍三代が滅んだ後まで名字を名乗らず本姓の「源」を名乗っていたみたいだね。
0019日本@名無史さん
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2013/10/14(月) 13:33:20.53
為義って博打か借金のカタで源氏重代の太刀を熊野別当に取られたんだよね。
0021日本@名無史さん
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2013/10/14(月) 15:35:10.30
その太刀を義経が熊野別当湛増から返してもらった。
0023日本@名無史さん
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2013/10/14(月) 19:08:49.17
その都度名前を変えてるから分からないけど

満仲が特注した太刀は髭切丸・膝丸があるね。
当時の刀匠は筑前の出自と言われているね。
0025日本@名無史さん
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2013/10/14(月) 19:48:48.56
おたふく
0026日本@名無史さん
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2013/10/14(月) 19:58:47.97
>>24
君の言うソースって現存する一次史料のことなのか?
もしそうであれば刀銘どころか刀匠を特定することは永遠の謎になる。

伝承から現存一次史料との照合を勘案する緻密な作業が必要であることは承知しているが。
0027日本@名無史さん
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2013/10/14(月) 20:36:12.71
>>26
そこまでは要求しとらんです。
伝承は伝承で楽しみたいんでね。
ただ伝承か歴史学の認証付きかの区分をしたうえで書いて欲しいと思うし
伝承は伝承のソースがあると思うんで、どの伝承(熊野とかどっかの神社とか)くらいは教えてくれると
読んでて嬉しい。
0028日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/14(月) 21:24:33.69
ありがとう
再検討するね。
0029日本@名無史さん
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2013/10/14(月) 21:41:27.83
去年のドラマで、義朝が、
源家重代の太刀の名を、
『友切り』から「髭切り」に変更したとか言ってたな。

為義が熊野にとられた太刀は別の太刀だろう。
0030日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/14(月) 21:57:44.25
『吾妻鏡』によると
義朝愛用の太刀「吠丸」が後白河法皇に献上された
とあるね。
0031日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/14(月) 22:09:46.51
髯切が後代斯波高経の手に渡るまでの経緯は何となく理解できなくもないが、
それが最上家に渡った理由がわからんな。
将軍家の宝剣として寺に奉納されていたものを、新田義貞が鎌倉を攻め滅ぼしたドククサにパクり
さらにその新田を滅ぼした斯波高経の手に渡る。

その後噂を耳にした尊氏から求められても渡さなかった物をなんで庶流の最上に渡すのか。
しかも庶流と言っても最上は高経以降の斯波武衛家の流れではなく甥の系統。
普通に考えれば最上家に渡ったものは偽物だって思えるよな。
尊氏がうっとおしいから、遠い出羽の地にいる甥っ子にあげちゃいましたって言い訳作るために。
0032日本@名無史さん
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2013/10/15(火) 10:48:20.90
養寿寺(西尾市平坂町上矢田)蔵の吉良氏系図によれば、
兄・吉良満氏には友切丸、弟・国氏には髭切丸の両剣を
それぞれに授けたと記す。
なお、国氏・満氏兄弟はこの友切・髭切に宿る神霊を畏れ、
両剣を御剣八幡宮(西尾市西尾城趾内)に納めて崇敬したと伝える。

これはどうなるの?
0033日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/15(火) 11:36:32.92
頼光の太刀がどうして河内源氏に伝わったのか不思議だね。
0034日本@名無史さん
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2013/10/15(火) 11:40:40.89
>>32
捏造だろう。
髭切り・友切りは、同じ太刀の変名だし。
源氏の宝刀が、なんで吉良氏などに伝わるのか。
0035日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/15(火) 21:14:06.13
髭切って複数振りつくられたんじゃね?
0037日本@名無史さん
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2013/10/16(水) 01:59:50.92
>>35
後三年の役の際に、義家が東北の刀鍛冶の名人に作らせた太刀で、
毛深い蝦夷の首を斬ったら、髭までバッサリと斬れたので、
『髭切』と名づけた・・・・。
という話だから、当然一本しかないはずだ。
0038日本@名無史さん
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2013/10/16(水) 09:09:41.90
伝説の方が複数あるんだろう。
でどの伝説がホンモノかわからなくなってるんじゃない?
0039日本@名無史さん
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2013/10/16(水) 10:09:28.41
源氏八領にしても盾無がなんで武田氏なんかに伝わったのか不思議だ。
0040日本@名無史さん
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2013/10/16(水) 10:13:09.31
清和源氏なんて全てが嘘で塗り固められた氏族だよ。

血統といい、系図といい、伝承といい、宝物といい
0041日本@名無史さん
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2013/10/16(水) 14:48:30.64
武士は公家に比べると下克上が容易だから。
成り上がりが箔を付けるために家系を捏造するのはよくある話
清和源氏は武家の頂点の一角で歴史も長いので、怪しげな系図や伝承が多くまぎれこんでるだけ
0042日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/16(水) 17:23:47.06
>清和源氏は武家の頂点の一角で歴史も長いので、怪しげな系図や伝承が多くまぎれこんでるだけ

それが全てだろ?
阿蘇氏や諏訪氏などの社家とは月とスッポン
0043日本@名無史さん
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2013/10/16(水) 17:33:15.28
清和源氏は経基、満仲の年齢からして怪しい
0044日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/17(木) 06:56:24.74
日本は応仁の乱以前と以後ではまるで別の国のようだ。

軍事貴族が武家であることの必須条件であり貴種であるが故に日本全国どこでも神輿に担いでくれる在地勢力がいた。
その典型が治承寿永の乱であり南北朝の動乱であった。

しかし結城合戦を嚆矢(今川軍の寄子寄親制)として応仁の乱を境に武士階級に地侍層さらに賤民までもが入り込み
本来の武家はその家臣団にそれら新興勢力を内包せざるを得なくなり、やがて下剋上を誘発することになる。
武家について言えば、内訌、乗っ取りによって貴種性、系譜は怪しいものとなる。
0045日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/17(木) 19:43:17.63
為朝は伊豆大島に流されたんだよね。

今回の台風26号の被害に遭われたた方、お亡くなりになった方のご冥福とお見舞いを心より申し上げます。

ところで為朝と義平は面識があったのだろうか?
伊豆と相模では地理的にも近いし当人達の年齢も近い。
0046日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/17(木) 20:03:45.02
>>日本は応仁の乱以前と以後ではまるで別の国のようだ

なるほど、源平貴種はおろか皇室、摂関家までも衰微した下克上の時代だからな。
ただ、国人・地侍層というのは、もともとは平安末期〜鎌倉初期に支配権を掌握した源平貴種や板東平氏、
南北朝期に支配権を掌握した足利源氏の一門に対して、零落、没落していた古代豪族、中央貴族の末裔層、
あるいは無数に枝分かれした藤原氏、源氏、平氏系の末端地方武士の「下克上」にすぎなかった面もあるのではないだろうか。
北条早雲は伊勢平氏系の室町幕府役人の系譜、斎藤道三は藤原氏系の北面武士の系譜だしな。

本格的な「下克上」というのは、やはり先進地帯の近畿や尾張で松永氏、織田氏、羽柴氏などといった本当に氏素性の定かでない
成り上がり勢力ぐらいで、大体の地方では結局、古代・中世以来の家系の間での権力移動にすぎなかった面もありそうだ。
0047日本@名無史さん
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2013/10/17(木) 20:33:32.73
>>46
確かに貴殿のお説のように国人・地侍層は軍事貴族及び零落した中央貴族の庶流末流が在地の古代氏族に入婿して在地勢力となったと思われる。

私が書いたように今川氏を始め戦国大名化した東海地方の下剋上が顕著であると思うが
関東においては応仁の乱以降全国に先駆けて本来の武家が壊滅してるんだよね。

西国九州においても怪しげな源氏を名乗る連中が戦国大名化していることも忘れてはならないと思う。
0048日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/17(木) 20:39:47.27
補足
今川氏の家臣団ね。
0049日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/17(木) 22:16:26.87
鎌倉の御家人は坂東八平氏の流れを組む関東の武士が多かったが、それらも結構仮冒説が多いよ。
三浦氏や、大庭・梶原・長尾等多くの庶流を生んだ鎌倉氏のような有力豪族ですらそうなんだから。
0051日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 12:30:10.94
九州の豊後西部の山間部には梶原景時末裔を称する梶原姓が結構いるよ。
景時一行は駿河国で打ち取られてるのにどうやって九州まで落ち延びたのだろう?

「吾妻鏡」によれば景時は上洛して九州の軍兵を集め、武田有義を将軍に立てて反乱を企てたとされてることから
九州になんらかの軍事基盤を持っていたことは確かであろうが庶流か家人が景時末裔を称したのだと思う。

同様に没落した源平諸家は化冒僭称に使われやすい。
三河松平郷に流れ着いた時宗の遊行僧は新田氏末裔を僭称したしね。
0052日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 12:33:43.34
ごめん
×化冒→○仮冒
0054日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 13:40:44.85
>>51
梶原一族はそのほとんどが景時とともに滅んだけど、生き残りもいて
たとえば景茂の子・景俊は足利義氏の被官になっている
また、鎮西奉行の武藤資頼の妻は景時の娘だから、その縁を頼って九州へ渡った一族もいたのかもしれない
0055日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 15:12:56.53
まあ
族滅なんてそう簡単に出来るものじゃないって。
0056日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 15:26:40.94
>>54
その梶原一族を打ち取った武士の一人は吉川氏の祖、吉香友兼なんだけど
藤原南家工藤氏流なんだよね。
あの承平・天慶の乱でヘタレっぷり満点の常陸介藤原維幾の末裔なんだな。

300年近く掛けてたくましくなったもんだね。
0057日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 15:46:28.20
>>56
なんとも感慨深いね

承平・天慶の乱といえば、同じくヘタレっぷりを晒した源経基の末裔があんな戦闘民族になるなんてなぁ
0058日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 15:57:32.66
同じく承平・天慶の乱で
将門から逃げ回ってた印象強い平貞盛も
子孫から有力武家バンバン輩出してるな
0059日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 17:05:22.70
逆に
坂上田村麻呂の子孫は頭脳労働者である文官になっている。

武士って中下級貴族に筋肉馬鹿の血がどこかで注入されて誕生したような気がするね。
0060日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 17:36:37.94
まあ、文官だって先祖は軍事力でのしあがったわけで
0061日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 18:57:07.77
>>59
現代でも弱っちい男はハンサムウーマンに惹かれるからね。
その結果、豪傑が誕生したんだろうね。
0062日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 19:03:28.53
>>58
鎮圧勲功者としては秀郷流が第一とされてたのに時代を経るごとに子孫はショボくなってるね。
0063日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 19:17:08.43
>>62
源平・南北朝時代は存在感バリバリだっだんだけどな>秀郷流
戦国時代になると関東の秀郷流の多くは貞盛末裔の後北条相手に没落余儀なくされた
0064日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 19:46:33.17
秀郷流も仮冒が多い・・・って言うか秀郷自身が出自を仮冒してるって言われてるしな。
0065日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 20:01:09.29
>>63
確かに関東においては応仁の乱後も命脈を保ってたのは小山氏下河辺氏結城氏などがいるけど
九州の少弐氏大友氏系は秀郷流らしいね。
近世大名の鍋島家は眉唾ものだと思うよ。
0066日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 20:15:35.42
そう考えると
明治維新の西国雄四藩って本来の武家じゃないんだよ。

薩摩島津家→惟宗氏
長州毛利家→大江氏
肥前鍋島家→少弐氏末裔を仮冒
土佐山内家→出自不明
0067日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 20:19:39.32
長谷川平蔵は藤姓秀郷流
0068日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 20:22:57.81
>>66
系譜上はどの家も関東なんだな
島津も片方のルーツは比企だから
0069日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 20:28:33.48
長谷川平蔵って布衣だっけ?

旗本も布衣じゃなければショボい。
布衣は六位相当だけど大夫じゃなきゃ秀郷流の面目は無いね。
0070日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 20:31:08.41
出自不明の土佐山内ってある意味凄いね。
0071日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 20:43:52.85
>>68
出自がまともなのは毛利家だけでしょ
0072日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 21:35:49.38
土佐山内氏も一応山内首藤氏の末裔秀郷流を先祖に求めてなかった?

鍋島家は一見冒涜くさいけど
鍋島町の観音寺にある過去帳によると
鍋島経直の娘が少弐教頼に嫁いだのが確認できるらしい
0073日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 21:35:52.87
幕末でこそ雄藩扱いだが、そもそも大した功績も無いのにド田舎とは言え土佐一国の大名になれた山内家って凄い。
薩長土肥の中で初代藩主が断トツでショボい土佐山内。
長宗我部家が可哀想だ。
0075日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 21:43:12.69
>>72
その仮冒のせいで読み方でもめる山内家
「やまうち」でいいんだっけ?
0076日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 21:48:52.39
そもそもなんで武家は源氏だの平氏だの仮冒する必要があったんだ?
秀吉みたいに新しく姓を作るなり適当な公家に養子入りすればいいのに
0077日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 21:53:06.66
秀吉は下賎の身から一代で天下人になったから、仮冒するにしても白々しすぎて無理があるからな。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 23:09:26.91
近世大名で意外と出自がまともなのは松前蛎崎家だったりしてな。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/19(土) 05:02:31.54
>>78>>79
河内源氏義光流若狭武田家の若様が蝦夷に渡って網元の総元締めになったんだよ。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/19(土) 05:16:43.20
漁師が源氏を名乗るのはまだかわいい方で
海賊までもが源氏かいな?

摂津渡辺党→まあ許せる。

村上水軍(河野、来島など)→ホンマかいな?

肥前松浦党→ギャグのレベル。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/19(土) 08:48:56.06
>>81
河野は越智宿禰とも桓武平氏良文流河越氏系ともいわれるが出自不明だね。

松浦党についてだけど
990年源頼光が肥前守として渡辺綱を伴い任地に赴き綱の現地での落とし胤の孫が松浦久とされてるけど
頼光は都の貴族として遥任の可能性が高く、さらに最新の研究では渡辺綱は家人ではなく同盟者であり頼光四天王は虚構とされている。
松浦久なる人物が従五位検非違使であったならば庶孫でありながら綱の官位を超えていることとなり不自然である。
松浦氏や蒲池氏は偽源氏といわれても仕方ない。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/19(土) 12:03:42.93
武家の由緒書きで最高に笑えるのはどこの家だろう?

ちなみに豊臣秀吉が摂関家の猶子として提出したのは
母親は萩中納言の娘(更衣)で分けあって尾張中村で秀吉を出産した(皇胤をほのめかす)というものだったらしいね。

これを超える爆笑由緒書きはあるのかな?
0084日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/19(土) 12:20:12.04
秀吉のは流石にムリあるが

那須とか宇都宮とか
鎌倉時代から続いてる名家ですら
都の貴族の落とし種にルーツ求めたりしてるんだよな
0085日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/19(土) 13:00:43.73
加賀前田家も結構笑えるね。

初代利家は菅原氏末裔を称しているのに
父親の尾張荒子前田利昌は藤原北家利仁流斉藤氏庶流を称していた。
その利昌は父親さえ不明だという。

中世の荒子は伊勢湾の最奥部に当たり河口部の水運の利便性が指摘されている。
利昌は水運業者(海賊衆)であり、主筋の尾張前田家の系譜を仮冒したのであろう。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/19(土) 13:17:59.63
宇都宮氏の祖先とされる藤原道兼−道隆−兼房は代々粗暴な人だったらしく、雅なのに獰猛な宇都宮氏に通じるところがあるような…
仮冒だとするならけっこう良いチョイスw
0087日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/19(土) 14:42:56.99
周防大内氏なんて百済聖明王の第三子琳聖太子後裔と称し
本姓である多々良は琳聖太子の上陸地の地名にちなんでいるとか。

しかし大内氏がこの由緒を突如言い出すのは14世紀からだとか。
まあ言い出しっぺは李氏朝鮮と独自貿易を始めた大内義弘あたりだろうけどね。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/19(土) 15:14:07.96
賀茂氏の先祖なんて八咫烏だよ(笑)

『新撰姓氏録』では、八咫烏は高皇産霊尊の曾孫である賀茂建角身命の化身であり
その後賀茂県主の祖となったとしている。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/19(土) 15:44:37.42
池田光政の「家系図は只今作成中であります」は清々しい開き直りだな。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/19(土) 16:11:56.97
>>88
それをいったら天皇家の先祖は太陽と鰐(サメ)なわけだが。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/19(土) 16:54:59.36
相模公
0093日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/19(土) 17:53:00.36
義平の後裔を称する家ってあるのかな?

ちなみに琉球王朝は公式に源為朝後裔を称してるけど。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/19(土) 20:05:03.45
>>93
北陸の方だったかの青葉の笛伝説では義平の娘がいた
とかあった気がする。

正妻の新田娘との間には子が無かったようだね。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/20(日) 17:55:51.46
義平伝説が関東以外の地域(美濃、飛騨、北陸)に残ってるのは何でだろう?

大蔵合戦以降、平治の乱まで各地を活発に動き廻っていたのかな?
義朝の長男として在地武士の糾合担当だったのかもしれないね。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/20(日) 20:53:25.02
>>95
その伝説が本物かどうかはわからないが
伝説が伝わるにはつたわるだけの需要があったからだと思う。
為朝伝説にしても頼朝落胤を言い始めた島津に対する対抗措置だった
という説もあるみたいだし。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/20(日) 21:00:04.27
伝説といえば飛騨地方に
将軍時代の頼家が上洛の途中にやってきたという伝説がある。
頼家は将軍時代上洛はしていないのにね。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/20(日) 22:54:56.42
>>96
北陸の青葉の笛伝説は源義仲の進撃路と関係あるかもね。

平家の大軍を破り北陸方面から上洛した義仲軍の略奪が酷かったらしいから
その途上の被害を受けた地域に義仲の天敵の義平伝説が生まれたのかな?
0099日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/24(木) 20:28:29.39
平氏が百済系というのは、桓武平氏=百済系桓武天皇の末裔だからわからないこともないが、
源氏が新羅系というのは、新羅三郎義光の名乗り以外に何か根拠があるのだろうか?
0100日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/24(木) 20:34:51.17
>>99
八幡信仰を調べてみるといいよ
0101日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/24(木) 20:53:22.48
スレ違いだったらごめん。
大河ドラマ等の時代劇映像作品では平安時代後期〜末期の武士は
その人物の官位官職にかかわらず、どんなときにも、どこへ行くにも直垂を着ているけど、
当時の武士の普段着は水干じゃね?

義平の衣服
暴れるとき 直垂
普段着 水干
よそゆき 布衣

義朝
暴れるとき 直垂
普段着 水干
よそゆき 狩衣
五位武官の束帯

朝長
普段着 水干
よそゆき 狩衣
五位文官の束帯

頼朝(少年期)
普段着 水干
よそゆき 狩衣
六位蔵人の束帯

朝長と頼朝は暴れが想像できない(笑)
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