【勇猛】悪源太義平V【果敢】
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スレ落ちしたので立てました。
源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故に官位叙任も叶わず(本人が求めていたかどうか?)
嫡男として遇されないにも関わらず父義朝に孝行を励み六波羅清盛暗殺に執念を燃やした若武者を
多いに語って下さい。
なお「『義平』は武士起源論成立論を語る上での記号としてで」をルールとしましょう。
さらに中世宗教史、中世通運流通貨幣経済史も可とします。 >>東光寺座主善祐と密通して生まれた子供が陽成上皇の異父同母弟であり
その異父同母弟が満仲兄弟達の実父だということ。
wikiだとこの一文だけでも[要出典]の嵐だな >>197
この事実から〜と書いているが、その中で事実は密通があったということだけではないの? 在原業平と高子の不義の子も清和帝皇子とされているからね。
清和帝は16歳から26歳までの10年足らずで30人近い皇子皇女を作っているし
清和・陽成朝から光仁・宇多朝に皇統が移動して清和・陽成皇胤の地位の低迷は仕方ない。 当時、母系の後ろ盾が無ければ皇孫と言えども従五位下の叙爵もままならなかった。 >>192
やっぱりそうだったんだな。
納得したよ。 >>210
藤原高子は貞観8年に清和天皇に入内し、同年12月に女御宣下を受けている。
高子には陽成天皇、貞保親王、敦子内親王の3人の子がいるが、
このうち最も年長の陽成天皇は貞観10年12月16日の誕生、
貞保親王は貞観12年の誕生でいずれも入内後の誕生。
敦子内親王は生年不詳だが、内親王宣下を受けたのが貞観15年であり、
陽成天皇、貞穂親王の妹とされる。
高子が産んだ不義の子って誰? 小学校低学年の頃、「悪源太義平」のことを「亜源太義平」と認識していた。
当時通っていた書道教室で「飛んでゆく雲」を読んだのが義平との初めての出会いだった。
義平が清盛の暗殺に成功していたら、大輪泊は誰が築くの?
音戸の瀬戸の掘削工事は?
武勇に優れた義平といえど、清盛のように百年先を見通す英傑ではなかったのでは。
それより先に報復として頼朝が殺害され、さらに常盤と三人の子供たちが路頭に迷う可能性があるかも知れませんね。 その場合、池殿と後の小松殿が分裂して
帝と院も分裂状態で摂関家最後の巻き返しのチャンスだったかもな >>218
百年先の日本を考えるより自分の親の敵を殺す方が先だろうw そして河内源氏は身内同士の凄惨な殺し合いを続けてゆく。
「新平家物語」などの文学作品の影響で義平は清童だと信じていた頃がありました。
史実では妻を娶っていたのに。妻が幼くて子が生まれなかったのかも知れませんね。
新田氏以外の名も無い女性が義平の子を産んでいたとしたら、その子は歴史の表舞台に登場することはなく、
ひっそりと生涯を終えていたのではないでしょうか。特に女児の場合は。
「飛んでゆく雲」に登場する義平の子は源氏dqnの血を引くとは思えない、心優しい美男子でしたね。
悪源太義平は今後映像化されることはないのかな?
例の大河ドラマの不人気低視聴率から、中世もの=見たい人が少ない、の世論が形成されたからなあ。 >>221
歴史ファンとしては
大河ドラマ「平清盛」は結構見応えあったよ。
特に頼朝以前の為義・義朝親子の描写なんかね。 ヘロヘロ矢のゴミドラマ
悪源太役に優男を起用した時点で駄目だ あの悪源太の中の人は父親役の中の人より年上。
平治物語の虚構だけど橘と桜の場面は見たかったなあ。 中の人達が乗馬が苦手だったのかな。
内裏攻めの総大将重盛が徒歩なのがトホホだった。
「新平家物語」の平治の乱はスタジオセットながら重盛は騎馬で攻め込んでいた。
搦め手の池殿も八丁の次郎に追いかけられていた。 そうであれば為朝役の橋本さんはベストキャスチングだね。 そんくらいだね。
ともに負け戦の中で孤軍奮闘だから間違う人多いだろうなあ。
ある歴史愛好家のBBSでも「悪」という文字の話題から、
「悪源太という弓の名手が保元の戦いで」と知ったかかましたおっさんいたからワロタ 義綱が為義に討伐された理由ってなんだったんだ?
義忠暗殺の罪を被せられたにしては配流から20年以上経ってから
討伐するのはおかしいだろう。 >>232
義忠暗殺事件が1109年だっけ?
義綱捕縛−配流が1110年くらい?
河内経国が父の仇・義光を討ったのが1124年
為義が義綱を討伐したのが1132年
為義の頭おかしいとしか言いようがない >>233
なにがどうなってるのか? 河内経国ってだれ? 義光は義忠暗殺の真犯人だと発覚して常陸に逃れたとされてるけど、
もしそうなら義綱の冤罪は晴れていたはずだし
冤罪が晴れていなかったなら義綱討伐時に義光は既に死んでいて常陸に逃れるも何もない >>235
義光は真犯人だと発覚して常陸へ逃亡。
その時点で義綱は冤罪は晴れてたが、佐渡に配流のまま。
十五年後、義忠の長男の経国が園城寺で義光を殺害。
さらに八年後、為義が佐渡まで押しかけて行って義綱を殺害。
義綱あわれ。為義の頭おかしい。
あるいは、平忠盛に出世で差をつけられた鬱憤晴らしか? その当時の河内源氏の棟梁って
やはり源義忠とその子息のほうだろうね。
義親のほうは、庶子って感じだと思う。
お互い生前中から、義忠のほうが官位も上だし。
為義は本当に義親の子供なのか?? >>238
義親か義忠か、それぞれの母親の身分がどうだったかが重要だが。
義忠が河内の守、義親が対馬の守で、義忠のほうが上位。
しかし、これは朝廷が義忠のほうを優遇したからとも言える。
人望は義親のほうが上じゃないか。死後偽者が続出するほどに。
結局、義家の生前に義親は乱を起こして死んだのだから、
嫡男は義忠で決定。
その長男の経国も河内源太と呼ばれて将来の後継者と見込まれていた。
しかし、義忠の死亡時、10歳に満たない幼さだったので、
為義にその座を奪われた。 為義って、本当に義親の子供なのかな?
一部の説で言うように、義家の五男じゃないの? >>241
為義は、義親の4男で、他の兄弟と母親が違うので、
義家に養育されてたって説があるな。
義忠の跡をこいつが継いだのに関係あるのかも。
義忠が死んだとき、彼の長男・経国は9歳くらい。
源氏の棟梁としては頼りないってことで、
義家のもとの嫡男の義親の子供にお鉢が回って、
長男・義信にいくかと思ったら、なぜか為義に。
当時、為義は14歳、六条の源氏屋敷に住んでいて、
義信は京都にいなかったという説がある。真偽は知らない。
義信は20歳を超えてるし、源氏棟梁として遜色ない。
京都にいなかったら、呼び寄せればいいだけ。
そうしなかったのは、頭の悪い為義に跡を継がせて、
自分はこれを傀儡として、源氏の実験を握ろう。
そう考えた義光が為義を擁立したのであろう。
その後、義忠暗殺の黒幕であることがばれて、義光は常陸へ逃亡。 俺は生年月日から言って為義は義家の子供だというほうがしっくりくる。
もし、為義が義親の子供で四男だとしたら
義親って、義忠や義国とは、だいぶん、年が離れていることになるな。 >>243
義忠が死んだとき26歳
弟の義国は18歳
兄の義親は生年不詳だが、長男義信は20歳くらい
てことは、義親は生きてれば、35−40くらい(推測)
たしかに、義家の次男義親と3男義忠の年齢差は9歳以上と離れてることになるが、
4男義国との年齢差も8歳と離れている。
当時は、乳幼児死亡率が高いし、大人になる前に死んだ子は省略されているのだろう。
為義は14歳。義国の弟でも、義信の弟でも可能性はある。 >>244
なんで、為義は祖父の義家のもとで
養育されなきゃいけなかったのか?って話。
長兄とされる義信らは正室の子供で、義親の乱のときに
義信の外戚も一緒に失脚しているというのも影響しているかもしれんけど。
あとね、義親の長男の義信の長男に源義実(延朗)ってのがいるが、
この人が為義の長男の源義朝よりも7歳下なんだよね。
ということは、源義信の長男の義実は、義信が40歳の時の子供ってなるね。 >>246
為義が義家に養育されたのか、真偽はわからんね。
義朝は、為義の長男だけど、27歳のときの子で、
為義は14歳のときから、源氏棟梁で女はやりまくりだっただろうのに、
長男が産まれたのが遅いのが不自然とか思うけど、
当時は乳幼児死亡率が高く、成人する前に死んだ子は省略だろうし、
女子は、有名な男と結婚しない限り省略だし、
妻訪い婚だと、妻を自分の屋敷内に確保してるわけじゃないから、
産まれた子も、妻の男たちの中で、
その時点で最も将来性あると判断された男の子とされるのかもしれないし
だから、子供の年齢比べたって、義家の子か義親の子かなんてわからない。 義朝って本当に為義の長男だったのかな?
さすがに義賢、頼賢、為朝、行家よりは年上だと思うけど
義朝の前に思いっきり身分の低い女が生んだのとか育たなかったのとか、為義の婚姻路線の変更で離縁→子供とも縁切り
なんてのもあったのかな?
なんて考えてみる。 >>248
年齢的には長男の可能性は低い。
恐らく、夭折した上の男子がいると思われる。
但し、為義自体が義朝の系譜を除き保元で三族皆殺しになっているため(義広、行家、
義仲は行方をくらますことに成功したが、本来なら処刑だった)、資料は残らずかなり
謎な点が多いのも事実。 義家自体が、頼義が50歳超えた時の長男だよな。
その義家の嫡子である三男の義忠も
義家が40代の時の子ども。 >>248
長男だろうけど為義は後継者として義賢を考えていたフシがある。
だとすれば義朝は正室の子ではないということも考えられる。 >>252
>>253
義朝の母の父は、白河院の近臣の藤原忠清。権勢に繋がる
義賢の母の父は、六条の大夫の名前は忘れた
忠清の生前は、義朝が為義の嫡男だった。
しかし忠清が死んだので、為義は義朝を東国へ下向させた。
祖父の後ろ楯がなけりゃ出世の見込みがない。
嫡男が出世するかどうかは、家の繁栄に直結する。
東国下向の時点で義朝は廃嫡。10歳くらいだったらしい。
のちに義朝が、東国で在地の武士団を従え、さらに鳥羽院に取り入って、
父を出世で見返すようになるのは為義の誤算だった。 義朝ってやり手だったんだな。
為義もやり手だった。
二人とも嫡男だったわけではないのに、結果的に
源氏の正嫡として後世に認識されるまでになった。
結果、頼朝に引き継がれる。
そういう風に考えたら、義平も生き残っていたら、分からなかったな。 鎌倉悪源太が生き延びていたら…
木曽義仲を討ち、平家を討ち、鎌倉に幕府を築いてただろうね 悪源太は猪武者だから戦闘には強いが政治力はないよ。 戦いに勝てば即座に領土も簡単に手中と考えるのは、ノブヤボなどゲームで培われた考えだろう。
戦には強くても武家の頂点に立つ力がなかった義経がどんな末路を辿ったか、それすらも知らないとは…… 義平は政治力ありまくりだろう?
というか、三浦氏をはじめ、坂東武者の覚えめでたい。
頼朝は、生母が熱田神宮大宮司家で、京都の関係から、
義朝の正嫡ぽかったけど。
むしろ、経歴が為義や義朝に近いのは、義平だと思うけどな。
この当時って、嫡子のほうが京都で出世を目指して公家化するけど
庶子のほうは京都での出世を目指さず、関東で土木を従事し
大武士団を運営するってかんじ。
清和源氏全体でも、より嫡流に近い頼光の長子系は、公家になっているし、
桓武平氏のほうでも、嫡子系のほうほど、公家化している。 桓武平氏の嫡流である高棟王流は京都で中級公家だったし
武家として成長した桓武平氏高望王流のほうでも
嫡子系のほうは、どんどん公家化、平貞盛の嫡孫の平維時の嫡男の
平中方は京都の出世を目指し、そうではない弟の平直方のほうが
鎌倉で武士団を運営していた。
が、その直方の子孫たちも、殆ど在庁官人として、小規模の武士団だった。
嫡流ほど京都での出世をめざし、田舎で開発領主なんて、やりたがらない。
結局、桓武平氏の中でも一番大規模な武士団を運営していたのは
京都での出世を諦めていた末流の平良文の後胤たち。
あと、平貞盛の四男の平維衡の後胤である伊勢平氏。 直接の戦いには強いけど、源頼政をこのんで敵に回してしまってる時点で思慮は足りないよ。
関東の荒武者を統率するのと、京都を中心に日本を制圧するのではモノが違う。
というか、頼朝以前に「幕府」という概念がないのに、義平にどうやってその考えが思いつくと言うのか。
もしそこそこの政治力があっても、平将門同様に関東独立を唱えて箱根以東を支配するのがせいぜい。 頼朝にも幕府という概念
ないと思うけどね。
幕府という概念が強くなったのは、江戸幕府から。 .
河内源氏と言う称呼は、何とかならないモンかね?
義朝五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、もうほとんど河内と関係ない。
特に頼朝-頼家-実朝の三代は、河内に行った事も無いんじゃないのか?
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、むしろ 『鎌倉源氏』 と称するべきだと思う。 河内のことはともかく、その系図を「五代」とは言わん。
特に義平は家督を継いだわけでも何でもない。
義朝
├────┐
頼朝 義平
├────┐
頼家 実朝 年齢を考えるとこう書くべきだった失礼。
義朝
├────┐
頼朝 義平
├────┐
実朝 頼家 ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´J`) ∧_∧
/文室 \ 鎌倉 \ 上総 \ 三浦 ( ) パンツ脱いで待ってる
| 忠光 .| |悪源太| | 曹司 | | 胤義 / ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄  ̄  ̄ ̄  ̄  ̄ / .| | | 藤原信頼
||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
||. ( ) ~\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ骨は拾ってやるよ . \| ( )
| ヽ \/ ヽ. 負けたら絶交な
| |ヽ、二⌒) / .|後鳥羽| |
.| ヽ \∧_∧ (⌒\|__. / /
藤原隆家 鎌倉幕府というか
東国での開発領主の権益の自立という概念は、平将門にあったし、
やや弱いが、その次に、それらしき概念があったのは、源義家だろう。
だから、源義平も生きのこっていたら、
鎌倉幕府的な機構を統率していただろう。 河内源氏の歴代当主はこうだろう?
源頼信
源頼義
源義家
源義忠
源義高
この系統は、河内にずっと所領があったし
また、鎌倉時代以降も姓で源を苗字としても
名乗り続けた。 >>264
>「五代」とは言わん
義朝の血統なんですけど。
>>267
和田義盛が、石橋山の合戦に負けて船で
逃げている最中に源頼朝に侍所に任じる様に頼むシーンがある。
既に頼朝が、対平家の軍事蜂起を始める段階で、
関東武士に行政機構の構想があったのだろう。 >>259
>覚えめでたい
と言うか、三浦氏は、義平の外戚ですヤン。
義平の子供の頃は、三浦氏の館に住んでたんじゃないですか? 義平が当主ならば、三浦氏が鎌倉殿の
実権を握っていたかもな。 >>269
頼朝、頼家、実朝は義平の血統ではありませんよ。
頼家−実朝は「征夷大将軍」を継いだことで2代3代という数え方をされるが、
義平は事実上当主になったことはないから義朝−義平−頼朝という継承はない。
まして義平から地盤を継いだわけでもなく官位の継承もないので、「五代」の考え方は無理があるね。 >>271
義平が将軍だったら、三浦氏や新田氏が、執権でしょうね。
三浦氏は、やらたに北条氏に楯突いていますが、そういう思いがあったのかも。
>>272
義朝の血統なんですけど。
しかも、義朝や義平の家臣が、頼朝の蜂起に参加しているんですけど。 だから頼朝は義朝の血統だが義平の血統ではない、といってる。
家臣がどうたらいうんだったら、頼朝の家臣がその後頼家に背いているから相続していないと言う考えでよろしいか。 >>273
義朝や義平の家臣で、平治の乱で源氏側の主力だった者たちの多くは石橋山で頼朝と戦っているんだが? 家臣の話をしたら、頼信−頼義−義家−義朝まで数えないとダメだし。 >>274
義朝の血統なんですけど。
>>275
だから、敵味方両方居るし、
敵側にたった武士も、その後に大部分が頼朝に帰参している。
それに三浦とか房総平氏は、当初から頼朝側でしょう。
>>276
義家は、鎌倉の源氏館を放棄している。その時点で一回切れている。
それを義朝が、再建して、相模平氏や房総平氏との主従関係を作った感じ。 >>277
こいつ日本語わからない馬鹿だな。
頼朝は義朝の血統だが義平の血統ではない、ということもわかってないのか。
それに義平が一度として家督を継いだこともないことも無視しているし。
というか自分の間違いを認めたくないあまり話をループさせてるだけだな。 あ、どうしても五代を主張するなら、義平が家督を継いでいたことを示すソース、
義平から頼朝に当主が譲渡された事実を示すソースを提示してくれ。
ま〜軍記物を読んだ程度の知識しかなさそうなお前には無理だな。 義平は、鎌倉の源氏館の主じゃなかったのか?
東国の武士団を統率して、大蔵合戦をやったのじゃないのか? 2chって、なんでいちいちケンカ腰にならないと物が言えない連中が多いんだろう? >>280
家督を継いでない
頼朝に家督を譲ってない
頼朝は義平の血統ではない
はい論破 >>282
義朝も、頼朝には家督を譲ってない。
義平には、鎌倉の源氏館と、東国武士団の統率権を譲っていた。
義朝が、家督を誰に継がせるつもりだったか不明だが、
家督は、外観的・実質的には、
義朝→義平→頼朝、の順で移動した。 .
義朝流五代は、河内とは無関係なんだ。
やはり称呼は 『鎌倉源氏』 が妥当だと思う。 >義平には、鎌倉の源氏館と、東国武士団の統率権を譲っていた。
大蔵合戦に動員した兵力もこれだろう。 280
ただの鎌倉を拠点にした源氏の一人だけみたいって感じだがな
鎌倉平氏の鎌倉氏に女婿に入ったからそういう目で見られるが
棟梁だのは頼朝のときにできたんだろ
江戸時代の影響がでかい そもそも、源義朝も
河内源氏の棟梁ではなかった。
有力な一人だというぐらい。 つか関東の源氏の下についたのほとんど平氏のやつらだし
源氏同士はむしろ敵対しあい殺しあってる
義平殺したの叔父の義賢側だし義国と義光なんてはっきり
敵同士だし つか平氏関係の方が根付いたの先だろうがイマイチ起源が分からん 伊勢平氏っていうか、平正盛の後胤である六波羅流は、
武家平氏の中でも例外中の例外の勢力。
伊勢平氏は、武家平氏の中でも庶流だし、
その伊勢平氏の中でも庶流なのが、六波羅流。
武家平氏の大半が、河内源氏の傘下にあって
六波羅流も、最初のうちは、河内源氏の傘下にあった。
平正盛は娘を、河内源氏の嫡男の源義忠に嫁がせていたし
平忠盛の忠の字は、源義忠から貰ったもの。 >>287
義朝は、幼少期に房総に来ており、
上総曹司と言われていた位で、もうほとんど河内とは関係無い。
そもそも義朝流五代は、河内とは無関係なんだ。
やはり称呼は 『鎌倉源氏』 が妥当だと思う。 源為義も河内の所領なかっただろう?
河内の所領があったのは、源義家の三男で嫡男だった源義忠の後胤たちで
この系統は、源義忠の次男の源義高が継承したが
鎌倉時代でも、苗字を名乗らず姓の源を名乗り続けた。
よって、源頼信を初代とする河内源氏は、この系統が嫡流だとみたほうが良い。 源為義は、河内源氏でも在京源氏でも何でも良いよ。
為義は、関東にも鎌倉にも関係無いし。
でも、義朝流五代は、『鎌倉源氏』 だと思う。 源氏っていっても義朝派、義重派、義賢派、あと甲斐の義光派に分かれてるからな 為義よりも、
庶兄の義信(義親の長男)や、従兄弟の義高(義忠の次男)のほうが
官位は上だっただろう? つか官位で計るんだったら武家にならなかった公家で居続けたその他の源氏の方が上だわ 清和源氏も桓武平氏も本来の嫡流は
都での出世を目指したために武士団としては大成せずに
中級公家として存続していた。 >>300
源義忠の次男で嫡流を継承した源義高の子孫は
数代つづいたらしい。
河内守になっているので、河内源氏嫡流はこの系統だろうね。
清和源氏義忠流
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01016.htm 301
大和源氏に河内源氏として初期に畿内方面に定着してる
まあ東国の方は頼信以降の系統がほとんど
あとは平姓諸氏と藤姓諸氏、この辺は荘園関係だろう 義忠の次男・義高が河内の領地を相続したのは平家の後ろ楯があったのだろうな。
義忠の暗殺後、為義に屋敷を追い出された子供たちは、
長男は藤原経実に、次男以下は平忠盛に引き取られて養育される。
長男は経実の娘と結婚し、元服後の名は源経義
23・4歳のとき、園城寺において、父の仇・義光を殺害。
義光と対立関係だった下野の義国のもとへ逃げ、名を河内経国と変える。
源義朝が南関東で勢力を伸ばしてきたとき、義国との紛争を調停、
その後、義朝に臣従するが、
平治のとき挙兵を反対したが、義朝が聞かなかったため義絶して隠棲する。
なかなか面白い人生。 だから平家ってなんだらほい?
坂東平氏と伊勢の平家は別って説があるんだってな
藤原といえば足利荘は元は藤姓足利氏の所領やね >>305
元々は同じだけど、分岐が早い段階だろう?系図でみたら分かる。
初代の高望の子供の代で伊勢平氏と坂東八平氏は分かれていて、
しかも、その代から抗争を繰り返している。
伊勢平氏や北条氏は、高望の長男の正室の子供である国香の子孫、
坂東平氏は、高望の五男で側室の子供である良文の子孫。
その時代から、武家平氏は一族で抗争を繰り返していて
中でも、高望の長男の国香と次男の良兼と、高望の三男の良将の間は険悪だった。
三男の良将はやり手だったみたいで、
同母兄でもあった国香や良兼を官位で追い抜いたりしていて
両者は対立関係にあった。
この抗争は、国香の嫡男の貞盛と、良将の嫡男の将門との
抗争へと受け継がれる。
坂東八平氏の初代の良文の嫡男は忠頼は、将門の娘を嫁にもらっていたと思われ
良文の子孫は、将門の意思を受ついだ一族ともいえる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています