【勇猛】悪源太義平V【果敢】
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スレ落ちしたので立てました。
源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故に官位叙任も叶わず(本人が求めていたかどうか?)
嫡男として遇されないにも関わらず父義朝に孝行を励み六波羅清盛暗殺に執念を燃やした若武者を
多いに語って下さい。
なお「『義平』は武士起源論成立論を語る上での記号としてで」をルールとしましょう。
さらに中世宗教史、中世通運流通貨幣経済史も可とします。 >>274
義朝の血統なんですけど。
>>275
だから、敵味方両方居るし、
敵側にたった武士も、その後に大部分が頼朝に帰参している。
それに三浦とか房総平氏は、当初から頼朝側でしょう。
>>276
義家は、鎌倉の源氏館を放棄している。その時点で一回切れている。
それを義朝が、再建して、相模平氏や房総平氏との主従関係を作った感じ。 >>277
こいつ日本語わからない馬鹿だな。
頼朝は義朝の血統だが義平の血統ではない、ということもわかってないのか。
それに義平が一度として家督を継いだこともないことも無視しているし。
というか自分の間違いを認めたくないあまり話をループさせてるだけだな。 あ、どうしても五代を主張するなら、義平が家督を継いでいたことを示すソース、
義平から頼朝に当主が譲渡された事実を示すソースを提示してくれ。
ま〜軍記物を読んだ程度の知識しかなさそうなお前には無理だな。 義平は、鎌倉の源氏館の主じゃなかったのか?
東国の武士団を統率して、大蔵合戦をやったのじゃないのか? 2chって、なんでいちいちケンカ腰にならないと物が言えない連中が多いんだろう? >>280
家督を継いでない
頼朝に家督を譲ってない
頼朝は義平の血統ではない
はい論破 >>282
義朝も、頼朝には家督を譲ってない。
義平には、鎌倉の源氏館と、東国武士団の統率権を譲っていた。
義朝が、家督を誰に継がせるつもりだったか不明だが、
家督は、外観的・実質的には、
義朝→義平→頼朝、の順で移動した。 .
義朝流五代は、河内とは無関係なんだ。
やはり称呼は 『鎌倉源氏』 が妥当だと思う。 >義平には、鎌倉の源氏館と、東国武士団の統率権を譲っていた。
大蔵合戦に動員した兵力もこれだろう。 280
ただの鎌倉を拠点にした源氏の一人だけみたいって感じだがな
鎌倉平氏の鎌倉氏に女婿に入ったからそういう目で見られるが
棟梁だのは頼朝のときにできたんだろ
江戸時代の影響がでかい そもそも、源義朝も
河内源氏の棟梁ではなかった。
有力な一人だというぐらい。 つか関東の源氏の下についたのほとんど平氏のやつらだし
源氏同士はむしろ敵対しあい殺しあってる
義平殺したの叔父の義賢側だし義国と義光なんてはっきり
敵同士だし つか平氏関係の方が根付いたの先だろうがイマイチ起源が分からん 伊勢平氏っていうか、平正盛の後胤である六波羅流は、
武家平氏の中でも例外中の例外の勢力。
伊勢平氏は、武家平氏の中でも庶流だし、
その伊勢平氏の中でも庶流なのが、六波羅流。
武家平氏の大半が、河内源氏の傘下にあって
六波羅流も、最初のうちは、河内源氏の傘下にあった。
平正盛は娘を、河内源氏の嫡男の源義忠に嫁がせていたし
平忠盛の忠の字は、源義忠から貰ったもの。 >>287
義朝は、幼少期に房総に来ており、
上総曹司と言われていた位で、もうほとんど河内とは関係無い。
そもそも義朝流五代は、河内とは無関係なんだ。
やはり称呼は 『鎌倉源氏』 が妥当だと思う。 源為義も河内の所領なかっただろう?
河内の所領があったのは、源義家の三男で嫡男だった源義忠の後胤たちで
この系統は、源義忠の次男の源義高が継承したが
鎌倉時代でも、苗字を名乗らず姓の源を名乗り続けた。
よって、源頼信を初代とする河内源氏は、この系統が嫡流だとみたほうが良い。 源為義は、河内源氏でも在京源氏でも何でも良いよ。
為義は、関東にも鎌倉にも関係無いし。
でも、義朝流五代は、『鎌倉源氏』 だと思う。 源氏っていっても義朝派、義重派、義賢派、あと甲斐の義光派に分かれてるからな 為義よりも、
庶兄の義信(義親の長男)や、従兄弟の義高(義忠の次男)のほうが
官位は上だっただろう? つか官位で計るんだったら武家にならなかった公家で居続けたその他の源氏の方が上だわ 清和源氏も桓武平氏も本来の嫡流は
都での出世を目指したために武士団としては大成せずに
中級公家として存続していた。 >>300
源義忠の次男で嫡流を継承した源義高の子孫は
数代つづいたらしい。
河内守になっているので、河内源氏嫡流はこの系統だろうね。
清和源氏義忠流
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01016.htm 301
大和源氏に河内源氏として初期に畿内方面に定着してる
まあ東国の方は頼信以降の系統がほとんど
あとは平姓諸氏と藤姓諸氏、この辺は荘園関係だろう 義忠の次男・義高が河内の領地を相続したのは平家の後ろ楯があったのだろうな。
義忠の暗殺後、為義に屋敷を追い出された子供たちは、
長男は藤原経実に、次男以下は平忠盛に引き取られて養育される。
長男は経実の娘と結婚し、元服後の名は源経義
23・4歳のとき、園城寺において、父の仇・義光を殺害。
義光と対立関係だった下野の義国のもとへ逃げ、名を河内経国と変える。
源義朝が南関東で勢力を伸ばしてきたとき、義国との紛争を調停、
その後、義朝に臣従するが、
平治のとき挙兵を反対したが、義朝が聞かなかったため義絶して隠棲する。
なかなか面白い人生。 だから平家ってなんだらほい?
坂東平氏と伊勢の平家は別って説があるんだってな
藤原といえば足利荘は元は藤姓足利氏の所領やね >>305
元々は同じだけど、分岐が早い段階だろう?系図でみたら分かる。
初代の高望の子供の代で伊勢平氏と坂東八平氏は分かれていて、
しかも、その代から抗争を繰り返している。
伊勢平氏や北条氏は、高望の長男の正室の子供である国香の子孫、
坂東平氏は、高望の五男で側室の子供である良文の子孫。
その時代から、武家平氏は一族で抗争を繰り返していて
中でも、高望の長男の国香と次男の良兼と、高望の三男の良将の間は険悪だった。
三男の良将はやり手だったみたいで、
同母兄でもあった国香や良兼を官位で追い抜いたりしていて
両者は対立関係にあった。
この抗争は、国香の嫡男の貞盛と、良将の嫡男の将門との
抗争へと受け継がれる。
坂東八平氏の初代の良文の嫡男は忠頼は、将門の娘を嫁にもらっていたと思われ
良文の子孫は、将門の意思を受ついだ一族ともいえる。 常陸の大掾氏が坂東八平氏からハブられてるのは
国香の子孫だからか。 北条氏はほぼ平直方系で間違いないよ。
平貞盛系は、常陸の大掾氏は別として
北条氏にしても伊勢平氏にしても、京都での活躍を重きを置いていた氏族が多くて
系図も確かだよ。
疑わしいのは、秩父氏ら平良文系の平将常の後胤。
平将常の生年月日とか活躍年代に相当無理があるから。
平将門の部下だった多治経明の後胤では?という説もある。
確かに平良文系を名乗る坂東平氏には疑わしいのが多い。
平忠常の後胤である千葉氏などは、おそらく正しいと思うけど。 坂東八平氏は主に秩父氏、上総氏、千葉氏や、
これらの諸氏から派生した氏族などが入るが、
数え方はその時々の各氏族の勢力により様々である。
良文を祖とする坂東八平氏の中でも、
秩父氏をはじめとする忠頼の子将恒を祖とする氏族は秩父平氏と呼ばれ、
忠常を祖とする上総氏や千葉氏の流れは房総平氏と呼ばれる。
なお、『尊卑分脈』は三浦氏・鎌倉氏・長尾氏・大庭氏・梶原氏等の祖を、
良文ではなく良茂の子良正としている。
良文の兄とされる国香や良兼を祖とする本来の桓武平氏の一族は、
親王任国制度の下で、親王の代わりに実務を取り仕切る、
親王の血族・下級貴族として土着した。
特に北条氏・大掾氏・伊佐氏・鹿島氏(広義的には城氏・関氏・伊勢氏も含む)などは
有力在庁官人であり、同時に軍事貴族でもあった。
そのため、良文を祖とする坂東八平氏などの一般の武士団とは別格であった。 .
河内源氏と言う称呼は、何とかならないモンかね?
義朝五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、もうほとんど河内と関係ない。
特に頼朝-頼家-実朝の三代は、河内に行った事も無いんじゃないのか?
義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、むしろ 『鎌倉源氏』 と称するべきだと思う。 >>283
義朝と義平時代の鎌倉の源氏館には、
侍所みたいな機能は、既にあったのかね? 時は平治、花の都は平安城、我等は平氏也!
平の字が三つ揃って我等が勝利、誰が疑わん事有るべきか!
いざ、参る! 暫で有名な鎌倉権五郎の家は、源氏に追い出されたの? 北条氏が後半、安達氏を重視したのは
安達氏の家系が中途半端だったから。 ウィキペディア編集者ジャムリンによる自演が酷すぎる件
以下が問題の爆笑自演投稿
日本史板住人がWikipediaを弄るスレ PART20
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1372047431/l50
569 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:39:28.23
ジャムリンって何者なんだ?
そんな悪い奴なのか?
570 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:54:41.47
>>569
ジャムリンは偉大な天才歴史学者です。
イケメンで長身、髪はフサフサの美形青年です。
フェラーリ・ベンツに乗って美女に大人気、誰もが羨む男の鏡、神の化身のような大英雄です。 河内源氏は畿内と関東と中部と東北と複数に拠点を持っていた。 直方は誰から鎌倉をもらったんだ?
鎌倉氏?
丸子氏? やはりどうやった平直方が鎌倉を手に入れたのかは分からないままか。 桓武平氏の総領として
同族の鎮圧をさせられていた平直方。 直方も鎌倉氏と同様に丸子公景らの一族の子孫かも
"景"の字は受け継いではないが。 為義、義朝は子沢山なのに頼朝だけ子供が少なくないか? >>329
頼朝の子(男子のみ)
島津忠久、結城朝光、(夭折)、l大友能直、千鶴丸、頼家、貞暁、実朝
決して少なくないけどね。 なお、結城朝光は実朝の死後、後継の将軍候補にも上がっている。
朝光が拒否したので、仕方なく九条家から将軍を迎えた。 >>330
千鶴丸以降は知ってるが、それ以前のはいつ作ったんだろうか? 島津忠久、結城朝光、(夭折)、l大友能直は実子じゃないだろ。
みな有力御家人で、よりと元のつながりの深さを誇示するために
そう主張していただけ。 家康も源氏の末裔を自称してるけどわざわざ頼朝の子ってことにしなくてもいいのに 武士成立論において
中世の定義は「イエ」の制度の確立以外に暴力(武力)の中央から地方への拡散は看過すべきではない。
「京武者」や「検非違使」「預所」は分かり易いが、「台記」にもある「厩舎人」とは?
答えは当然、「武者」のことである。 >>330-333
ご落胤を主張するとっかかりだけはある>島津と結城
島津忠久 母が頼朝の乳母子丹後内侍 しかし、生まれたのは1160年代以前(島津伝承は1179年)。1170年代半ばには官職つきで記録に名前が載っている。
管理していた島津荘は近衛の荘園で父と推定されている惟宗氏が島津家人であるため父は惟宗一族というのが正しいと言える。
結城朝光 母は頼朝乳母寒川尼。ただし、生誕時(1167年)頼朝は流刑中なので寒川尼が頼朝に接触するのは難しかったと思われる。
丹後内侍、寒川尼とも頼朝の乳母やその一族なので、頼朝と性的接触があった可能性はある。(当時初体験の相手が乳母だったこともあったらしいので)
だが上記の通り落胤の可能性は低く、例え落胤だったとしても公的な父はそれぞれ惟宗氏、小山政光である事実は消せないので島津忠久も結城朝光が頼朝の子の権利を主張することはできない。 >>239>>287
義朝が、房総半島に送られたのは、まだ赤子の頃と言われており、
もはやこの段階で、義朝流は、河内源氏から枝分かれして『鎌倉源氏』
になったとみなして良いと思う。 .
確かに、義朝流五代(義朝-義平-頼朝-頼家-実朝)は、
河内源氏よりも、むしろ 『鎌倉源氏』 と称するべきだね! >>116
ゴメン、円珍より前から
佐伯氏(空海も)には秦氏や新羅との関係深い わざわざ頼朝の子孫を名乗る武家がこんなにいるって
鎌倉殿の権威は相当なもんだな 永井晋の 鎌倉源氏三代記 を読んでいるが、
河内源氏から 鎌倉源氏 を独立させたのが良いとしても、
三代に限定するのがどうかと思う。
義朝からなら5代だし、頼義と義家を入れれば7代だし、
三代(頼朝-頼家-実朝)だけとは、少し限定のし過ぎだと思う。 大河ドラマでブサイクで品のない奴が演じえてて萎えた。イメージとしては山田涼介なんだが。まあムリだよな予算的に >>346
あの大河では朝長演じた人の方が粗野で萎えたな。
波岡一喜はブサイクとは思わないし、義平のイメージからそんなに外れた感じでもなかった気がする。
ちょっと田舎のヤンキーに見えるとこもあったけどw >>347
義平は、
平治の乱のとき、傍観していた頼政を裏切り者と攻める(わざわざ敵に廻す)。
父義朝の死を聞くと、単身、京に戻って清盛暗殺をたくらむ。
(東国へ帰れば勢力を挽回できた可能性があるのに)
このような行動を見ると、ヤンキーとして描かれても仕方がない。 >>348
>父義朝の死を聞くと、単身、京に戻って清盛暗殺をたくらむ。
義朝死んでたら、庶子の義平だけが東国帰っても再起は無理だろう。平家に寝返った坂東武者に捕まって殺されるだけ。
元々義朝と別れて飛騨で再起計ってそこそこ兵集めたけど、義朝の死が伝わった途端皆逃げ散ったというし、
清盛暗殺も再起が絶望的になったからこその行動だろう。 >>349
確かに、関東で頼朝の挙兵に応じた武士たちは、清盛が自分の一家だけに
栄華を与えた反発によるもので、清盛栄華以前に積極的に匿った可能性は低い。
とは言え、保元乱でお尋ね者となって24年間潜伏した源義広の例もあるし、
当時の治安レベルでは皆無とまでは言えない。 >>349
少なくとも、母の実家の三浦一族は義平を匿うだろうし、
大庭など、義家以来の源氏に忠誠心を持ってる武家もいるし、
上総は、源氏をかついで東国の自立を志向していたといわれてるし、
赤ん坊の義仲を育てた(名前は度忘れしたが)武士もいるから、
当時の武士の忠誠心も軽視できない。
たった一人で清盛暗殺をたくらむより、東国で再起を期すほうが、
「武家の棟梁」の息子に相応しい生き方。義平は判断を誤った。 源氏系のお尋ね者を匿うのは(結果的に)見逃されているよね。
保元の乱のお尋ね者では、志田義広もそうだが、源行家、源義仲、源仲家、
源義久(源頼賢の息子)も匿われている。
逆に、徹底的に根絶やししたのが清盛で、平忠正の妻子、孫たちはもちろん
のこと、宇都宮業綱に嫁いでいた娘もその子もろとも取り上げ処刑している。
平家弘の血族もその血を完全に根絶やしにしている。 >>352
保元のとき、清盛が忠正の一族を徹底的に殺したのは、
為義一族の殺害を命じられた義朝にプレッシャーをかけるためだろう。 >>352
そんな清盛が、どうして、頼朝を助命して、義朝のもとの勢力圏に流したんだろうか? >>356
殺しつくして、殺し飽きたから。
保元の乱の敗北側への処罰は、凄惨を極めた。
崇徳上皇:自身は相模に配流。妻子は上皇の目の前で焼き殺される。
藤原頼長:首謀者として車裂きの刑+妻子皆殺し。
藤原忠実:鋸引きの刑。
平頼盛、池禅尼の系譜:死んだ家盛の妻子も含み、皆殺し。
平忠正:自身、妻子皆殺し
平家弘:三族皆殺し
源為義:義朝の系譜を除き、妻子、孫に至るまで皆殺し
その他、上皇方の公家、武家:悉く三族皆殺し
処刑者は数万を数えた。平氏が一族で要職を独占したのは、保元の過酷な戦後処理が原因の
著しい人材枯渇も要因の一つ。 あと、為朝はつかまったが、新宮行家や志田義広は20年以上潜伏に成功している。
最も、志田義広の妻子はこの時に皆殺しにされているけど。 >>356
三族皆殺しが大好きなのはわかったから
嘘をつくのはいいかげんにしとけ >>351
漏れも、そう思う。
平家サイドの関東武士も当然いるだろうが、
南関東に限れば、かなりの人数で義平を支持する可能性は、まだあると思う。
まず母の実家の三浦氏や上総氏、千葉氏は、
自立の為のシンボルを常に探しており、かばう可能性があるだろう。
極端に言えば、しばらく奥州藤原氏の所に逃げ込んで、
ほとぼりが冷めたら、関東に戻ってきても良いと思う。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>351>>363
もしそうなったとして、問題はそれが新たな源氏の内紛の種になるのではないかという事。
義平が生き延びて東国において彼が再起した場合、伊豆の頼朝との関係はどうなるのか。
いくら頼朝が嫡子でも、長兄である彼が大人しく頼朝に従うとは思えんしな。
かつて父義朝が弟の義賢と関東での勢力争いをしたのと同じ構図になるだけという事も有り得る。
それに義仲もいる。
義仲にとって義平は紛れもない「父義賢の仇」だけに、もし義平が生きていれば
義仲は平家などそっちのけでひたすら義平のみに矛先を向ける可能性は大きい。
範頼や義経も、義平が生きていたら頼朝よりも「同じ庶子の兄」である義平の方に親しみを感じたかもしれない。
あるいは史実にある「頼朝→←義仲」のような単純な構図ではなく源氏が三分裂していた?
そうやって源氏が争っているのを横目に平家は悠々と栄華を貪り続けると。 庶兄が嫡流弟に従ったケースというと、この時代にも奥州藤原氏の国衡というのがあるけどな。 それだけ為義系が割れていたら
上野国の源義重が黙ってないでしょう?
南関東は源義朝、北関東は源義重が勢力を持っていたわけだから。
とくに、義重は他の源氏一族との間で婚姻関係をもっていたわけだし。 そういや義重の娘が義平と婚約していたという話を何かで見た。
その後その娘は頼朝からも求婚されるんだけど。 >>366
内紛以前に義平も頼朝も義仲も何もできなかったと思う。
頼朝の挙兵が成功したのは、平氏政権の様々な矛盾が起きて、非親平氏豪族の地位や領地が脅かされたせい。
自分の権益に結び付かない限り東国武士が朝や義平を担ぐことはないから、平治直後義平も頼朝もなんにもできない。
匿うくらいならしたかもしれないけど。 >>366
治承の頃の話だと三分裂どころではない。
東国に限れば
反平氏で挙兵
頼朝(南関東)、義仲(信濃・西上野→越後)、甲斐源氏(甲斐、信濃の一部、駿河、遠江、伊豆の一部)
この三者で三すくみ
親平氏
城(越後・会津)
佐竹(常陸)
新田(上野)→途中で静観やがて頼朝に付く
藤姓足利(上野、下野)
城、藤姓足利は非源氏
静観
志田(常陸)1183年 野木宮合戦で頼朝と対立
というように複雑な勢力争いがある。
また、東国以外でも尾張源氏、美濃源氏、近江源氏などが挙兵している。
源氏は頼朝、義仲にのみ二分されていたわけではない。 >>369
婚約ではなく正式な婚姻だったと思われる。
吾妻鏡には義平後室ときちんと記載されている。
婚約という説がでたのは
新田義重生年1135年説によるものと思われる。
義重が1135年生まれだとしたらその娘はどんなに早くても平治の頃は十歳未満の子供。
だから婚約だったとされる。
しかし現在では1119年生まれ説の方が有力。
孫の年齢からみてもこちらの方が自然。
1119年生まれならば
義平と結婚させる年頃の娘がいてもおかしくないし、
周辺豪族との対抗の為に義平と婚姻関係を結ぶのに
大蔵合戦頃に結婚成立させるというのも考えられる。 >>368
北関東も複雑で
新田、秩父一族、藤姓足利と悶着抱えてたんだよね。
この中で新田が抜きん出いたわけではない。
あと一応、北関東の中には常陸も入るし(常陸には佐竹や常陸平氏がいる)、信濃や甲斐とも無縁ではいられない。 義平が関東で生きれいれば、
頼朝が伊豆に流されることはない。おそらく佐渡島あたりへ。
源氏の主導権争いを予想してあえて近くに置くということも考えうるが、
普通は、兄弟力を合わせて平家への謀反を企むのでないかと警戒する。 >>374
兄弟を引き離すというのはアリだと思う。
実際頼朝と希義は正反対の方角(伊豆と土佐)になったから。
ただし、「平家への謀反」というのは違う。
平治の乱は源氏対平家との戦いではなく、
信西を倒した勢力の内部分裂によって反信頼になった経宗惟方らが元々中立だった清盛を仲間に引き入れて
その結果に清盛と信頼から離れなかった義朝が戦闘を交えるようになっただけのもの。
義朝の子供たちに対する処置も平家への敵対者としての処置ではなく
朝廷に対する謀反への処罰だから。(警察力行使のみは清盛の担当だけど) >>366
新田は、義平に味方するだろう。
>>368にある様に娘が義平と結婚しているから。
>>373
ただ新田と藤姓足利の抗争は、なかなか決着がつかなくて、
その結果、足利俊綱忠綱親子は、平清盛に接近している。
そういう意味では、新田の勢力は、藤姓足利が
簡単にやっつける事が出来るのものでもなかった。
>>375
>朝廷に対する謀反への処罰だから。(警察力行使のみは清盛の担当だけど)
新田、三浦、上総、千葉、あたりの大武士団が義平をかばうとなると
国衙も手を出しにくいのでは? しかも新田、三浦、上総、千葉などは、
国衙に何らかの職を得ている可能性があるから、官兵としての武氏団が
捜索や逮捕に出動するのは、難しくなる事もあるのでは? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています