天皇の日本史
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日本の天皇というのは独特なもので、いわゆる万世一系ですが、
長い歴史のあいだには、いつそのまま亡びても不思議はないほどの
危機を何度も経験しています。
天皇の地位が力で奪えるものであったなら、藤原氏、源頼朝、北条泰時、
織田信長、豊臣秀吉、その他日本史の上にあらわれた実力者たちが、
いつでも天皇に代わることができたでしょう。
しかし実際には二千年近くのあいだ一度もそんなことは起こらなかった。
これは日本の不思議であり、日本史の不思議です。
ヨーロッパだったら王を倒した者はそのまま王になる。
そのため近世のはじめまでは血腥い戦争の連続だった。
日本ではむしろ相争う権力者の両方が天皇をかつごうとする。
なぜか?
それを実際の歴史に即して考えてゆくのがこのスレのねらいです。 要するにそのころになると日本の国としてもそろそろ仏教が必要になってきた。
東アジアの情勢をみると日本はいつまでもまとまりのない国のままではいられない。
東アジアのどの国もがそうであるように、中央集権国家を成立させなければ
これらの国からの脅威をまぬがれない。
しかし、それぞれの部族がそれぞれの神様を持っているようでは、
中央からの威令は行われないから、この際、部族信仰を超えた普遍宗教である仏教を興隆させることにしよう。
こういうきわめて政治的な理由で、仏教の本格的な受け入れが始まったんだと思う。
これが聖徳太子の時代だ。 蘇我馬子 → 我蘇りし馬屋の御子
厩戸皇子 → 厩で生まれた御子
聖徳太子 → 聖人で徳の高い太陽の御子
冠位十二階 → 黄道十二星座、十二支族、十二使徒
聖徳太子の逸話(十人の声を聞き分けた)→失われた十支族をまとめる長、レビ族
確実にユダヤ教と原始キリスト教(ミトラ教、太陽神信仰)の影響を受けている。
イエスはエッセネ派(ミトラ教の一派)に属してグノーシス主義者だった。
原始キリスト教はその実態はミトラ教で、グノーシス主義と融合していた。
従って蘇我氏がグノーシス主義の流れを汲む仏教を日本に広めようとしたのは、
そもそも神道自体がミトラ教の流れを汲んで作られているので、何ら不思議ではない。 イエス本来の教え(イエス自身の思想)であるグノーシス主義を、
日本に広めるために仏教(東洋グノーシス主義の流れを汲む)を持ち込んだ。
イエスはユダヤ教の一派ではないし、
イエスの思想はローマカトリックが始めたキリスト教とも本質的に関係がない。
だから当時主流だったが後に異端として駆逐されるグノーシスの生き残りである、
東洋グノーシスを日本に持ち込んだ。
東洋グノーシスにはゾロアスター教、マニ教(やがて滅んだが)など様々な分派があったが、
日本には仏教として伝えられた。 儒教も当然入ってきている。
むしろ入ってきたのは仏教より儒教の方が早いんじゃね。
ただその入り方が、中国の学術文化と一緒にジワジワと浸透してきたために、
儒教だけをとり上げては論じにくい面がある。
この儒教もつきつめると天皇制とは相容れないんだよな。
天皇制というのは世襲でしょ。
儒教思想は帝王に徳がなければ世襲を許さないからな。
仏教のように具体的な抵抗の例をあげることはできないけど、
とにかく本質的には性が合わない。
そういうことはあったけど、聖徳太子の時代になると憲法にしても冠位にしても、
基本的には儒教だよな。
推古朝の政治は儒教の政治だったとさえ思えてくる。 聖徳太子の時代には仏教も儒教も国家をつくるための、
あるいは天皇の支配を高めるための手段にすぎなかった。
本質の相違はこの際問題にならなかった。
そういうことでしょ。 和を以って尊し・・・なんかは儒教的だな。
日本に入ってきた仏教は大乗仏教の方だから、
儒教の影響を受けていても何ら不思議ではないからね。
というか儒教と大乗仏教が同時に輸入されたと思える。
いずれにしろ神道や皇族の作り上げた宗教観というのは、
渡来人が日本列島に持ち込んでごちゃ混ぜにした宗教観ってことだ。
唯一、日本にオリジナリティがあるとすれば自然崇拝しかない・・・orz
自然崇拝は世界どの地域どの民族にも普遍的にありえた原始宗教の基本だからね。
アマテラスなんてのは日本オリジナルの神ではないwwあれは太陽神ミトラの成れの果て。 ところで太子と馬子との関係が興味深いな。
印象批評的ないい方するけど、馬子の方は政治的権力をにぎって実際政治をやっている。
太子はちょっと政治的中枢から離れて斑鳩宮に住んだりして、精神的権威として立っている。
そうすると馬子は覇道、太子は王道を行なっているわけで、二人は分業関係にあるような気がする。
そして太子の歩んだ道は、後世の天皇の道になるような気がする。
権力でなく権威で生きていくスタイル。
天智天皇とか天武天皇のような人は、日本史の中でも例外的な、中国皇帝に近い人だけどね。
そうすると、聖徳太子のあり方というのが、日本の天皇のあり方のモデルとして、
崇められたという一面もあるのかもしれない。
太子信仰というものもあったしな。 蘇我馬子 → 我蘇りし馬屋の御子
厩戸皇子 → 厩で生まれた御子
聖徳太子 → 聖人で徳の高い太陽の御子
冠位十二階 → 黄道十二星座、十二支族、十二使徒
聖徳太子の逸話(十人の声を聞き分けた)→失われた十支族をまとめる長、レビ族
実像はどうであれ、少なくともネーミングはユダヤ&キリスト教そのまんまwww 天智天皇という人は、天皇家にはめずらしいパーソナリティの人だな。
何か外国人の血でも入っているんじゃないかと思うぐらいに意志的で厳しい人だ。
まず蘇我馬子の子蝦夷とその子入鹿を退治した。
これは改新のために計画したクーデターだから論外だが、
この入鹿暗殺のときに味方した倉山田石川麿も後に邪魔になると処刑したし、
有馬皇子もかなり残酷に殺している。
目的のためには手段をえらばないところがある。
一方古代人にはめずらしい組織力があり、理智的判断も持ち合せている。
織田信長、豊臣秀吉の古代バージョンだな。
歴史の曲がり角には、こういうタイプの人が出てくるもんだ。 入鹿は父蝦夷以上に権力欲が旺盛で、人民を使って自分の生前の墓をつくったり、
天皇だけが使う陵の名でそれをよばせたり、従兄の古人大兄皇子の擁立をたくらんで
山背大兄王を殺したりして、皇極女帝をしのぐ勢いだったからな。
滅ぼさざるを得なかっただろうな。
これを亡ぼして、新しい体質の国をつくるよりほかにないと考えられたのだろうな。 中大兄皇子は孝徳、斉明両天皇の皇太子をつとめ上げるんだけど、
その間17年もあった。
聖徳太子の方は30年間太子のままだったから、これにはおよばないが、
いずれにしても年をとった皇太子であった。
中大兄がすぐ天皇になれなかったのは、やっぱり聖徳太子の例にならって、
皇太子摂政という形式の方が政治がやりやすい、という知恵がそのころの
宮廷人にあったんだろうな。
まだあとにも続くな、この伝統は。
若いときは自分でやる。
自分が象徴的地位に立つと人にまかせる。
一種の隠居だな。 なぜ聖徳太子は権威で中大兄は権力になったか、
という問題もそれで説明がつきそうだな。
中大兄は蘇我氏を倒した。
そして鎌足を蘇我氏の地位につけなかった。
もしつけていれば、聖徳太子が権威でその下に権力の馬子がいたように、
自分が権威になって、その下に鎌足を権力にするという図式が成立する。
ところが中大兄は天皇家の安泰を計って、その関係を成立させまいとしたわけで、
そうなると自分みずから権力をとらなければならない、そうすると、孝徳天皇を立てて
その下に自分がつく方が自然な形になるんだな。 謚号に『徳』『聖』等が入る場合は貴人が非情に不味い死に方(非業の死)をした人の霊魂が荒び祟り成すのを 畏れた場合に))贈られるのが不文律。 斑鳩の法隆寺(蘇我本宗家の邸宅(宮居あと))辺りは日に向かい東西南北他の神霊結界の中心、正に王者の都するに相応しい王城の地 桓武天皇は天智以来、奈良時代を通してそうだった古代型天皇という感じの強い人だな。
平安京という立派な宮殿をつくったが、宮殿をつくるというのは自分の威厳をしめすための手段だ。
その意味でも最後の古代型天皇で、以後新しく宮殿をつくる天皇は、日本にあらわれない。 嵯峨天皇になるとだいぶ桓武天皇と違ってくるな。
あまり俗事が好きじゃないというか、父親の桓武天皇のやり方に反発を感じていたのかもな。
桓武天皇は武断の人で古代帝王という趣だったからな。
蝦夷征伐も大動員してやってるし。
これに批判的で自分は文でやるんだ、その際唐文化を充分輸入して唐風でいくんだ、と思ったかもしれない。 聖徳太子は実は天皇で、あの時代は南北朝だった、みたいな説を上げてた人がいたけど意外とつじつまが合ってて面白かった。
隋の史書の記述との一致とか あのころの天皇をみると兄弟間の争いが烈しくて、ある天皇がなくなると、
その弟と皇子が皇位を争って弟の方が殺されるというケースが多い。
そういう皇位争いが嵯峨天皇はイヤになっていたということもあるだろうな。
実際、嵯峨天皇は大家族主義で、皇子たちを仲良くさせて自分の在世中は争わせなかった。
そして自分から子供に姓を与えて、さかんに臣籍降下させている。
こんなことも桓武天皇だったらしなかったろうな。 臣籍降下というのは、平たく言えば皇族の口減らしでしょ。
いくら天皇家だって、皇族が無制限に増えたらたまらないだろ。
臣下におろされると、たとえ皇族出身でも官職につけることができる。
皇族のままで臣下とおなじ役人になって出勤してくるのはまずいもんな。
天皇の威厳が保てなくなるからな。
戦後はともかく、戦前までは宮家の殿下がサラリーマンになったらおかしいという雰囲気はあったんじゃね。
まあ、それと同じ感覚でしょ。 皇室の立場で権力本位に考えてみると、太政大臣とか、
そういう枢要な地位は天皇の次男や三男でガッチリ固めておく方が、
得策だという気がするけどな。
そのほうが天皇家に権力を集中しておけるじゃん。 奈良時代のごく初期まではそうだったんだよ。
ところが、平安時代に入ると親王や皇孫が大臣になるのは
おかしいという考えになって、皇子たちは臣籍降下させてから
官職につける、ということになった。
血なまぐさい皇位争いが続くので、これを避けるという意味もあった。
宇多天皇になってからだが、やっぱり自分の息子を源氏におとすんだな。
というのは、自分の息子には藤原氏の血が入っていないので、
もし皇子のままでいて、将来皇位を主張するようになると藤原氏に対して
相すまん、という意味からだ。
これは、宇多天皇が藤原氏のおかげで皇位についた、という経緯が原因しているわけだけどな。 臣籍降下と言えば「源氏物語」だな。
ずいぶん思い切ったフィクションだと思うな。
光源氏が天皇の女御と密通してできた子供が天皇になるんだから、
大胆不敵なストーリーだよな。
戦時中よく発禁にならなかったな。
軍部が不勉強だったのかな。
何しろ万世一系を問題にする人にとっては、大へんなことだろ。 光源氏も男系の皇統に属する人だからまあ、多少はね? 当時、「源氏物語」に似たような話が実際にあったしな。
在原業平は藤原高子と関係があったといわれている。
高子は清和天皇のお后になって、次の陽成天皇を産んでいる。
そうすると高子が業平の子を身籠っていないにもせよ、かなり「源氏」と似た話だよな。
そういえば、業平は平城天皇の孫だったな。
自分は皇族であるにもかかわらず、非常に不幸だという気持ちをいだいて東下りする。
これがそのまま「伊勢物語」になる。 臣籍降下された当人は、身の不幸を感じさせられただろうな。
まあ、文学というのは、何か不遇なものがないと生れないし、
だいたい順調に出世した人が、文化的貢献者になれるわけがないよ。
それではあんまり虫がよすぎる。 嵯峨天皇時代の代表的な唐風文化といえば、これはもう、空海・最澄だろ。
この二人の天才は、おもしろいほど対照的で、日本における指導者の二つのパターンの原型になっている。
簡単に言えば、最澄は戦闘的でマジメ人間、空海は世渡りのうまいソフトな人間だ。
最澄は法相宗とカンカンガクガクの議論をたたかわせるし、本山の延暦寺は比叡山に置いて、きびしい修行をするわけだ。
一方、空海の真言宗は政治的な動きをする。
わざわざ京都から遠く離れた高野山に道場をかまえながら、実際には高雄の神護寺を足場に宮廷社会の中に着々と地歩を築く。 たしかに対照的な二人だが、これは性格的な違いより、天台と真言、
つまり、戦闘的な法華経と宇宙包容主義の大日経とのちがいじゃね。
まあ、禅宗でいうと、道元と栄西だな。
道元は福井の永平寺にこもり、栄西は貴族のご機嫌をとって貴族社会に
くいこんだわけだ。 桓武天皇までは、早良親王の例でみるように、
不遇な皇子が政治的に動くけど、嵯峨天皇以降は、
その不満のハケ口が文学や風流にむかう。
このへんの時代の相違が面白い。 もうこのころになると、不満を持った親玉を、後押ししてくれる有力な氏族がいなくなっちゃったってことでしょ。
奈良時代には、大伴とか佐伯という豪族がまだまだ強大で、藤原氏に十分対抗できた。
ところが時代が平安にかわるころはすっかりおとろえて、藤原氏しか残らなかった。
その藤原氏に最後の挑戦を試みるのが大伴家の子孫の伴善男だ。
平安京応天門が炎上すると、伴善男は左大臣源信の仕業だと訴えるわけだが、
太政大臣藤原良房のために伴善男のざん訴だという決定がされ、源信は無罪、反対に伴善男は遠流になった。
それに共犯ということで紀豊城も流罪ときまった。
この結果、良房は臣下ではじめての摂政になり、古来の名族大伴・紀両家は政界での勢力をすっかり失ってしまう。
応天門の変は、藤原氏繁栄の第一歩で、このあたりから皇室といえども、藤原氏に対しては手も足も出なくなってしまった。 阿衡事件というのもあったな。
宇多天皇が即位するとき、藤原基経を関白にしようとして、橘広相に詔を起草させたところ、
「阿衡に任ず」とあったため、基経はつむじを曲げちゃったという事件(877)。
要するに「阿衡」というのは名があって実がないことじゃないかとゴネた。
結局、天皇が勅書の非を認める宣命を出して、事件は解決するわけだが、
これは藤原氏の天皇に対するイヤガラセだろ。
宇多天皇が即位する時、藤原氏がイチャモンをつけたということは、象徴的なことで、
最初にガーンと一発くらわせたようなもので、勝負はこれで決まった。 宇多・醍醐の治世といえば、延喜天暦の治といわれて、後世の人、
とくに天皇親政を標榜した人たちの理想になってるけどな。
後醍醐天皇の建武中興の政治スローガンが「延喜天暦の治にもどす」じゃなかったっけ。
しかし、実際のところ親政どころか、権力を藤原氏にもぎとられた時代だったというわけだ。 まあ、それはそれとして、延喜天暦の治はいい時代だと思うけどね。
つまり、桓武天皇までのような古代帝王の親政ではなくて、
天皇自体はむしろ権力から解放されて風流の世界に入り込んでいく。
同時に文化が国風文化になって落ち着いていくんだからな。 藤原氏ってのは実に興味深い家柄だな。
天皇家は万世一系だけどな、藤原氏も万世一系なんだよ。
藤原氏は決して地方勢力の上で成長したものではない。
藤原氏が平安時代に独占的になるのは、
天皇家が古代において蘇我氏をはじめ対等の勢力がいっぱいあった中で頭角をあらわしていったのと同じように、
佐伯氏とか大伴氏を掃討して生き残ったのだと思う。
天皇家の成長過程と、藤原氏の成長過程が同じようなものだということはたしかだ。
しかし常に黒幕でいたいという家柄なんだな。
南北朝時代がすごい
天皇家は勢い余って絶滅させられていたかもしれない
南北両朝揃って人質になっていたことがあるんだから >>44
藤原氏自体が大きいし、また天皇家と同じように権力を持っていたからね。
だから地方の物持ちなども、やっぱり藤原氏は中央で権力を持っているから、
自分の地位を中央で認めてもらうには、藤原氏についた方がよいということになって、土地を寄進したりする。
またそれが藤原氏の勢力を強くするということで、シーソーゲームのような関係だな。 藤原氏が強いとなったら、地方の金持ちたちはその名声をきいて、土地を寄進するようになるわけか。
ところで、日本という国は、へんぴな田舎にまで中央の情報が伝わっているのは驚きだな。
都会の華やかな文化とか、そこに働く人は尊敬すべきであるという情報が、北は陸奥から南は九州まで通じている。
テレビも新聞もない時代にどうも奇妙な気がするな。
業平が美男子で、その上路用のカネをたっぷり持っていたからかもしれないが、
「伊勢物語」を読むと、都のやんごとないお方で教養のあるお方だから、尊敬するという考えがちゃんとあるもんな。 宇多天皇あたりからかな、人の祟りをやかましくいうようになったのは。
奈良時代の人間の心は、伝説と神話の世界にさまよっていた印象があるけど、
平安時代になると、疫病が蔓延するのも、ある大臣が不慮の死をとげるのも、
みんな怨霊の祟りのせいになる。
自然や神ではなく、人間を怖れるようになったということだな。 菅原道真のあと、急速に国風文化がおこってくるな。
政治的には絶対天皇制から、摂関政治へ、
文化的には唐風から国風へ、それぞれ転換する基礎をきづいたのが、
宇多天皇の時代だったと言えるんジャマイカ。 その摂関政治と武家政治とを結ぶ、ちょうどその中間に院政という特殊な制度がある。
その代表として白河法皇と後白河法皇がいる。
院政をはじめたのは白河上皇だ。
白河天皇が、当時声望高かった実弟の三宮に皇位を譲りたくないという強い執念が、院政開始の直接の動機だった。
そのためわずか8歳の善仁親王を強引に皇位につけ、上皇でありながら、政務を執った。
しかし政治的独裁者ってのは、後継者をきめないのが常でしょ。
それによって、後継者たちに忠誠を誓わせることができるからな。
もし、自分の地位を脅かす者がいれば、たとえ自分の息子でも容赦なく抹殺する、
これが独裁者のやり方だと思うんだが、白河天皇がやったことはこれとはまったく逆なんだよな。
そのあたりが疑問だ。 >>51
院政自体は江戸時代まであったんだがな
院政が否定されたのは明治時代
そもそも明治以降は天皇の生前譲位が禁止されたから上皇不在 今の天皇って
南北朝時代の時に正式な天皇が南朝って
されたからちゃんとした血が入ってないとか なんで大覚寺統の傍流に過ぎない南朝が正統扱いされてるの? 天皇は政治的独裁者どころか、政治を主宰している人とはいえないでしょ。
まつりごとという言葉で表わされるように、政事と祭事の両方がまざり合っているのが日本の天皇の本質だ。
古い時代にさかのぼるほど祭事、つまり宗教的な色彩が濃い。
早い話が、古代の天皇はシャーマンの親方みたいなもんだ。
だからこそ、現代まで続いてきたんで、もし天皇が西洋風の統治者だったら、ずっと前に滅ぼされちゃっただろうな。
現在でも天皇の本質は、シャーマンの親方にあるわけで、実際、
天皇のいちばん大切な仕事は宮中の賢所で重要なお祭りの主宰をすることだ。
そういう観点から院政の意味を考えると、白河院は伝統的なシャーマンの親方から、一歩、
人間臭い政事の世界へ足を踏み入れたくなったといえるんじゃないかな。
シャーマンの親方の地位は、堀川天皇に譲ったでしょ。
祭事の主宰は、天皇家の血筋でありさえすれば、8歳の子供でも一向に差しつかえがない。
しかし政事の責任者、いまの言葉でいえば元首ということになると、8歳ではどうしようもないないからな。
つまり、天皇が娑婆臭いところへ下りて来た。
これが院政の意味だと思う。
そう思って見ると、白河院以後、およそ100年間の院政時代に現れる上皇は、つき合い易い風貌を持っているような気がするよw 天皇というのは、つねに政治以外のもう一つの精神的権威であって、
これが一貫して続いていて、一方、それに対して権力者がつぎつぎと交代していく、
これが日本の政治の原型だと思うけど、ただ見落としてはいけないのは、
天皇にも権力を手に入れたいという根強い欲求があるってことだな。
それが時によっては院政になり、場合によっては後醍醐天皇のように天皇親政になる。 お隣の中国では、日本の天皇とはちがって、皇帝は自分の哲学を持ち、
きちんと世の中を管理していかねばならんという思想がある。
だから、中国の歴史をなまじっか、かじった天皇は「オレもいっちょうやってみるか」
という気になるんじゃないかな。 世の中は正常でない、朕みずから改良してやろうというのが白河院の立場だろうと思う。
実は天皇制にとって、それが、なによりも危険なんだけど。 それにしても藤原時代以後の貴族社会は面白い世界だ。
院政を経済的に支えたのは受領層だ。
受領というのは出身からいえば武士や下級の公家だが、
これが国司に任命されても地方生活をいやがる上級の公家に代わって実際の地方行政をやる。
たいへん金の儲かる仕事だったらしく、院の庁に多額の寄付をして受領の資格を買う連中が増える。
ところが、その背景として面白いのは、上級公家の方はいたって退嬰的で、
互いに地方へ赴任しないように規則を作って牽制しあっていたらしい。 またそんな雰囲気だから、多少とも国家元首的な政事責任を感ずる天皇は、
なんとかしなければならんと思って、院政を考えたんだろうね。
そんな責任なんぞ感じないで、悠々と遊んでいればよかったのにね。
お妃をたくさん置き、血筋を絶やさぬよう日夜、奮闘努力していればいんだよ。
天皇の最大の責任は、血筋を絶やさぬことなんだから。 その点、後白河法皇は見上げたものだ、法皇になってからも、
ちゃんと子供をもうけていると、「愚管抄」で褒めているよ。
普通出家すると、妃たちとの関係が絶えてしまうのにと、
著者・慈円は大真面目で感心している。 天皇は神だったんだ。
天皇自ら政治を行えばただの人になってしまう 後白河院は、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽まで5人の天皇をみている。
これは白河院の場合と同じように、自分の眼の前をつぎつぎと天皇が代るのを眺めながら、
自分の皇統がずっと続いてゆくさまを見て楽しんでいるという感じがする。 信西入道が後白河院を評して、日本・中国を通じてまれにみる暗愚の天皇だが、
二つだけ徳を持っている、一つは他人に相談しないで物事を決めること、
もう一つは聞いたことは絶対に忘れない、年月がたっても心の底におぼえていることだ、といっている。
信西はさらに注を加えて、最初の特質は従来の天皇観からすれば大きな欠点だが、
ほかに欠点が多すぎるので、せめてこれを徳とするだってさw
従来の天皇は、自分では何事も決定しなかったのに、後白河院は先例を無視してどんどん自分で決めちゃう。
同時代の人間に言われてんだから、まあ、そういう人なんだろうよ。 南朝と北朝どっちが正統なのかそろそろ白黒付けようぜ >>62
後白河法皇が、嘉応元年(1169年)の出家後に儲けたのは
晩年の寵妃・丹後局との間に儲けた覲子内親王一人だけだろ 慈円の兄九条兼実は丹後局を嫌っていたし
愚管抄でも別にほめてないが >>69
信西の批評だという点が面白いな。
信西は稀にみる秀才で、中国の歴史に関する学識が深かったから、
天皇は中国の皇帝のようにならねばならないと思っていたかもしれない。
信西自身は少納言どまりの身分の低い貴族だから、政局を動かすことができない。
そこで、後白河院を通じて自分の理想を実現しようとしたのかもな。 >>69 面白い
>>70 北朝、断じて北朝
南朝なんか最後のほうでは全国的に支持を失ってるんだぞ
どっかのサイトであった解説
北朝:現実主義、融通が利く、武家と調和、権威とわきまえ権力を求めない
南朝:理想主義、教条的蒙昧、武家と敵対、権威のみならず権力も求める >>73
中国でも六朝までは政事責任者は上級貴族だ。
家柄がないとちゃんとした地位につけない。
ところが、唐代(618〜907)になると、家柄がなくても官人採用試験にパスさえすれば宰相にだってなれるようになった。
そういうことを藤原時代の日本人が知って、秀才の下級貴族はかなり不満を持ったということも想像できる。 信西はあるとき、藤原頼道(摂政・関白)のところへ行き、
自分はこんなに勉強したのに偉くなれないとさめざめ泣いたという話がある。
信西は唐の科挙制度のことはくわしく知っていただろうから、
門閥制度の現状に対して激しい不満を抱いていたと思う。 >>78
いや、藤原頼通って信西が生まれる前に死んでるだろ 後白河法皇が、裏でいろんな画策をし、1人1人宿敵を自滅させていった陰険な
マキャベリストだとする解釈はいつごろから固定化されたんだろうな。
昔からの説じゃなくて、案外、吉川英治あたりが最初かな。
井上靖の「後白河院」もそうだが、しかし、後白河院がそこまで計算してやったとは思えないな。
どちらかというと、フラフラ泳いでいく型だったような気がする。 保元の乱のときは、後白河院はなにもできなかったろうな。
信西、平清盛、源義朝たちの取巻きが勝手にことをはこんだわけだ。 >>81
平清盛の嫡母である藤原宗子が重仁親王(崇徳皇子)の乳母であったことから
清盛は最後まで態度保留で崇徳は清盛の支援を期待してたんじゃなかったか
後白河の側で保元の乱を主導していたのは信西とはいえ
いくらなんでも後白河本人もかつては居候するほどの仲だった実兄に帝位を渡さない
覚悟はあったはず 後白河院はもともと天皇になれそうもなかった人だからな。
だから、若いころから今様をやったり、遊女とつき合ったりしていた。
ところが、逆にそういうところが買われてひょんなことから天皇になった。
敏腕のホープよりも、新橋や赤坂で相当の実績がある、
おっとりした人を社長に据えたほうがいいと取巻きは考えたんだろう。
本人はまさか社長になるとは思っていなかった。 >>70
現在の皇室の見解では南朝が正統みたいだね。 >>83
後白河院は女遊びの経歴を買われて天皇になったわけではないし
もともとそれほど帝位から遠かったわけでもない
後白河は后腹だし2番目・3番目の兄は障害児だったため早くから長兄・崇徳が夭折もしくは男子がない場合のスペアだった
鳥羽上皇が晩年に美福門院を寵愛して母待賢門院が出家に追い込まれ異母弟近衛天皇が即位したため少々グレはしたが
実際に後白河が白拍子と遊んでいるさなかにも美福門院は後白河の皇子(後の後二条)を養子にしていた それにしても遊女から今様を習う天皇というのは、当時の宮廷社会の常識からいってもまことに革命的だな。
身分制度があれほどやかましい宮廷のなかに、どうやって遊女を入れることができたのか? >>86
宮中にずっと住むのは天皇と皇太子(東宮)だけ
即位前の後白河は宮中に住んでないよ >>86
お気に入りの遊女には下級女官として適当な身分をやればいいだけだ。
もちろん、実際は仕事をさせないで、今様を歌合せたりなんかする。
いまだって、特定の関係の女性をとりあえず秘書として入社させておく、
という手があるだろw 当時の遊女は売春婦そのものだが、それほど問題にしたかどうかだな。
むしろ一種の職業婦人だという気持ちの方が強かったんじゃね。
たとえば、左大臣にまで昇った藤原頼長は自分の日記の中に、
たまたま遊女のことにふれ、「これと通ず」と堂々と書いているくらいだからな。
まだ梅毒も渡来してなかったしね。 後白河院は、結局、何をしたらいいのか、自分としていったい何をしたいのか、わからなかった人だろ。
権力者になりたいと、さほど思っているわけでもないし、
権威という点では、すでに最高の権威で、これ以上望みようがない。
しかも、自分をめぐっていろんな人間がうごめく。
それに対しても同じ程度の愛情と同じ程度の迷惑を感じている印象だ。
後白河院と対蹠的なのが清盛で、あれだけの地位につきながら、
絶えず自分が誰であるか証明しなければ不安だったんだろうと思う。
そのために、白河法皇の御落胤説にすがったり、ついには安徳天皇の外戚になる。
そこで初めてホッとしたとたん、皮肉なことに清盛の凋落がはじまるわけだ。
何かしっかりしたものを必死につかみたがっている清盛が、
彼の望むものをすべて持っているにもかかわらず、
何をしたいのかさっぱりわからない後白河法皇を眺めている関係は、なんともいえず面白い。
歴史の皮肉だな。 >>88
さすがに庶民出身の遊女に官位を与えて宮中に召し出した例はないよ
同時代に庶民出身の常盤が九条院の雑仕女に選ばれた例があるが
これも殿上はできず(清涼殿に上がることができない)天皇にお目見えできない
(常盤が十二単来て貴族出身の女房同様に中宮のお傍でお使いなどの仕事をしていた大河の清盛はおかしい。
雑仕女って炊事洗濯などの水仕事を主にする下っ端)
そもそも後白河は在位2年で退位している
2年間ぐらい宮中に白拍子を呼べなくてもよかったと思うんだが
行幸や行楽で宮中を出れば訪問先や別院へは白拍子を呼んでもいい >>90
御両人の話が合う部分があったとすれば、白拍子のことかなあ。
清盛は本当かどうか知らないが、祇王・祇女とか仏御前とかに熱を上げた履歴があるから、
白拍子についてなら、お互い気安く語り合えたかもしれないなw >>69
実際の院政は後鳥羽上皇の承久の乱の失敗で終わるわけだが、そこで天皇制本来の姿に戻る。
つまり、天皇は祭りを、幕府は政治をするようになる。
ただ一度だけ、後醍醐天皇が天皇親政という少し変わったやり方をして、
それは成功することなく足利幕府に引きつがれる。
それ以後は政治をリードする天皇は出てこなかった。
つまり、院政時代は天皇が支配者意識にめざめて、
この日本国を藤原家に代って統治してやろうと思ったわけで、その意味では変則的だが、
逆にいえば、天皇の本質を鏡で照らし出したような時代といえる。
天皇という試料を歴史の実験室に入れて、どこまでがシャーマンの親方で、
どこまでが国家元首なのか、反応させてみたのが、院政時代だ。
その中で生れたのが、後白河院という、歴代天皇のなかできわめて特異な変種だったということだな。 武家政治の時代は幕府が権力で朝廷が権威だから、天皇家としては政治に責任を持たなくていいし、
ある意味では気楽な時代だ。
ところが天皇の中には幕府から政治権力を奪おうとして無理をした人がいる。
後鳥羽上皇と後醍醐天皇だ。
後鳥羽上皇は頼朝が幕府を開いて三代目の実朝で源氏が断絶したときに、
これを機に執権の北条義時を討とうとして逆に敗れて隠岐島に流された。
しかしこの後鳥羽以上にすさまじい権力欲を持った天皇が後醍醐天皇だな。
これも幕府を討とうとして逆に笠置山で敗れ隠岐島に流される。
ところが後鳥羽院は隠岐島では和歌を詠んだり、のんびり風雅を楽しんでいたが、後醍醐天皇は、
隠岐からさかんに綸旨を出して、諸国の武士に協力を要請した。
そしてやがて隠岐島を脱出し、尊氏が六波羅探題を倒すのに乗じて京都にもどり、建武の親政をはじめる。
ところがこの親政はむしろ武士の所領をとりあげてしまうので、
不満を持った武士たちは尊氏をいただいて京都に攻めのぼる。
後醍醐天皇は吉野に逃れ、南北朝の争乱がここからはじまるわけだが、その最中、
亡くなるときに天皇はわざわざ自分の遺体を北面にして葬るように遺勅する。
天皇は南面して葬られるのが普通なのに、朕は京都の天をにらんで死ぬといって、片手に剣、
片手に法華経を持って亡くなったというんだから、かなりはげしい意志の持主で、
ちょっと日本人離れした怨念の人という感じがする。 当時は大覚寺統と持明院統が交互に天皇を出す時期で、
皇太子になってもなかなか天皇になれず、
即位したのが32歳、当時としては例がない。
その間に政治への関心が高まっていたんだろ。 父親が後宇多天皇だから、4代も間があって天皇になるわけだ。
その間相当な不満が鬱積していたこともあるだろうな。
政治好きの背後には、宋学の影響があると思われる。 宋学のなかには大義名分の思想があって、これは王道を尊び覇道を卑しむという考え方だ。
つまり、幕府を倒し、王政を復活させようという後醍醐天皇にとって、うってつけの思想だった。 しかし、どうなんだろ。
後醍醐天皇のやり方をみると、宋学という筋道の立った思想のほかに、
密教的というか呪術的な影響がみられるよな。
吉野へ逃れたときに活躍する山伏とか、真言立川流などという邪教など、
後醍醐天皇のまわりには、なにかドロドロしたものがあるように感じてならないんだが。 天コロ様の権威を利用すれば、
実権を握りつつ、無批判に天コロを崇拝している愚かな大衆を支配できる。
それに尽きる。 >>98
まあ、あのころの人の宗教生活は、天台・真言を信じながら、
禅僧に近づき、同時に念仏を唱える。
天皇はすべての宗派に公平・平等であるべきだとされていたからな。
よくいえば八宗兼学、悪くいえば雑信仰だ。 >>95
大覚寺統と持明院統の対立は、たんなる天皇の対立ではなく、公家社会の対立でもあったからな。
大雑把にいうと、上級貴族は持明院統、下級貴族は大覚寺統を支持したようだ。
それについては「徒然草」におもしろい話が載っている。
あるとき、腰のまがった眉のまっ白な西大寺の静然上人が参内するのをみて、
西園寺実衡が「なんと尊いお姿だろう」と感嘆したところ、側にいた日野資朝が
「年をとっただけで尊いなら、老いさらばえたむく犬も尊いだろう」とうそぶいて、
彼のもとにその犬をおくったという。
西園寺のような上級貴族と資朝のような下級貴族の伝統や先例に対する
感覚のちがいをよくあらわしているエピソードだと思う。
資朝や俊基が目指したのは古臭い伝統の破壊、いまの言葉でいえば反体制運動だな。 武士についても同じようなことがいえる。
足利尊氏は源氏の正嫡、武家の正統だ。
身分の低い武士は北朝側についてもたいして出世は望めない。
そう思って南朝側をみると、あそこなら案外、出世できるかもしれないというんで、
後醍醐天皇のまわりに集まってきたんだろ。
南北朝の対立といっても、べつにイデオロギー的に真っ二つに割れているわけじゃないからな。
一家の中でも、惣領が尊氏側につけば、それと反目する庶子が南朝側につくという具合だった。
あくまで利害打算で動いてんだから。 後醍醐天皇の政治スローガンは、一口に王政復古、天皇親政といわれるけど、
実際、建武中興でやったことは、土地をすべて天皇家のものにしようとするようなムチャクチャなことが多く、
いったいどんな政治構想があったのか疑問だな。
もちろん、初期の段階で関所を廃止し経済活動を活発にしようとしたり、
米の価格を抑制する政策を推し進めたりするんだけど。 >>103
初期の段階は、宇多・醍醐・村上天皇の延喜・天暦の治、
いわゆる摂関政治以前の天皇制にもどそうという理想は持っていた。
ただし、延喜・天暦の治を理想の時代とするのは後世の虚像だけどね。
実際は平将門の乱があったり、非常に乱れていた。
後醍醐というおくり名はあきらかに醍醐天皇を意識している。
しかし、ふつうおくり名は亡くなってからつけるんだが、後醍醐というのは生前からの自称だ。
そこに延喜・天暦を再現したいという情熱はうかがえるけど、
現実はもはや古代天皇制に戻れるような時代ではない。
後醍醐天皇はこういう歴史の現実が見えなかった。
建武中興の失敗の原因はこれにつきると思うな。 >>101
大覚寺統と持明院統の争いは天皇家及び
西園寺家と洞院家(洞院家は西園寺家の傍流)の争いが発端
下級貴族と上流貴族に分かれて対立していたわけではない
実際に南朝と北朝に兄弟が分かれて仕えた例も多数 >>105
むかしあったある型を理想化して、それを再現するというかたちで革新のスローガンを掲げる。
これはひとつのパターンだね。
相手側の尊氏も鎌倉幕府初期の北条義時・泰時の時代を理想の政治体制とし、そこへもどすといっている。
明治維新だって、王政復古だからな。
意志を決定するときいつも不安で、一種の理想形をつくって、それのアナロジイで自分の意志を決める。
まったくの新しい原理じゃダメなんだな。
この傾向は政治ばかりではなく、仏教の場合も同じだな。
法然や親鸞、戦闘的な日蓮さえ「本文に曰く」といい、権威を過去の経典に求めている。
法華経や涅槃経にこう書いてある、といわないとみんなを納得させることができない。
独創じゃダメなんだ。
こういう本文主義は現在まで続いているよ。 DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
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DQN「おきに流されるって、北条政子かよwww」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています