【謎の世紀】古墳時代についてマタ〜リと語ろう 2
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0153日本@名無史さん
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2014/10/25(土) 23:13:53.39
応神天皇の崩年が甲午で394年で、
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年
成務天皇の崩年が乙卯で355年
崇神天皇の崩年が戌寅で318年か258年とされるが、
垂仁・景行・成務三天皇は直系で相続しているので崇神崩318年は無理があるから
むしろトヨは崇神の一世代後で豊城入姫命こそ正しいと思う
その場合卑弥呼はモモソヒメ命だろう
0154日本@名無史さん
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2014/10/26(日) 10:11:17.72
応神天皇の崩年が甲午で394年 → 正解 
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年 → 303年
成務天皇の崩年が乙卯で355年 → 295年

ですっきりするでしょう。
303年〜394年が、半島から実力者が次々にやって来た時代で、
万世一系の建前が成立しないので、記紀が書けなかった。
0155日本@名無史さん
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2014/10/26(日) 10:20:56.57
おいおいw
またチョンコロが喜びそうな説に持っていってるなw
0156日本@名無史さん
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2014/10/26(日) 12:06:37.62
154
それだと崇神天皇の崩御年は198年になるんだが
つーか当時の朝鮮人自身が朝鮮人に渡海侵攻能力はないって言ってるから
0157日本@名無史さん
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2014/10/26(日) 12:25:45.67
分かってるよwww
邪馬台国だの魏志倭人伝だの突然、話が湧き上がってきたのは
日本国内からだからな
チョンコロが後世になって日本国内に住み着いて威張りだしたか
あるいは当時の宗教関係などから利用するように生まれたのか?

どっちにしろロクなもんじゃあないんだよ

遡及方を適用するなら朝廷関連やら徳川だの過去の日本国内の
戦犯には償ってもらわなきゃな
0158日本@名無史さん
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2014/10/26(日) 12:30:33.10
歴史では美化されてるけど実際の性格なども違うようにも描かれてもいるんだよなw

これはマスゴミの犯罪な、小説家やら思い入れで評価は変わるからなw
どうやって手段絡みに持っていったんだ?お前らな
0160日本@名無史さん
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2014/10/26(日) 19:15:17.08
>>68
俺の妄想説では宿祢の「スク」は 佐、介、助 つまり次官のことだと思う
たとえば信長の称した上総介は上総守が上総国長官で、その次官になる。
大国主命の国造りを助けた神が「スクナヒコナ」。少彦名と書かれるが
助ける彦 と云うのが元の意味だったのではないか

武内宿禰、蘇我稲目宿祢と書かれるのは彼らが大王を助けて政務を執る立場
大臣だったから。そういえば武内宿禰の後継氏族から大臣でている
0161日本@名無史さん
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2014/10/26(日) 22:17:16.62
>>152
卑弥呼 垂仁の異母兄姉弟の豊鍬入姫
台与   景行の同母兄妹の倭姫命

21 :日本@名無史さん:2014/09/09(火) 17:42:31.06
神武天皇を1世とした時の世代数
25世. (38代)  天智天皇.  626-672
42世. (77代)後白河天皇 1127-1192
72世(125代)  今上天皇 1933-
古代〜中世 1世代平均29.47年 25世   天智天皇(生年. 626)から42世 後白河天皇(生年1127)まで
中世〜現代 1世代平均26.87年 42世 後白河天皇(生年1127)から72世   今上天皇(生年1933)まで
古代〜現代 1世代平均27.81年 25世   天智天皇(生年. 626)から72世   今上天皇(生年1933)まで

時代が古くなるほど1世代あたりの年数は長くなる
生年が確定している天智を起点に父の父の父の・・・と1世代29.47年で遡ると・・・
626 25天智 626-672
596 24舒明 593-641
567 23押坂彦人大兄皇子
537 22敏達 538.?-585.?
508 21欽明 509.?-571.?
478 20継体               (武烈)
449 19彦主人王     (清寧)(仁賢)
419 18乎非王       (雄略)(市辺押磐皇子)
390 17意富富等王   (允恭)(履中)
360 16若野毛二俣王 (仁徳)
331 15応神
301 14仲哀
272 13日本武尊
242 12景行
213 11垂仁  田道間守(たぢまもり)=難升米(タヂマ)
183 10崇神  四道将軍=倭国大乱
0162日本@名無史さん
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2014/10/26(日) 23:04:23.69
なるほど
一応崩御年も妥当な範囲にあるな
0163日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 19:26:32.30
磯城県主って三輪氏と同族で、磯城県主家が絶えて大物主神の祀り方がわからなくなったから大田田根子が呼ばれたんじゃね?
って思ってたら太田亮の姓氏家系大辞典に俺の説がそのまま乗っててわ
戦前の学者ってすごいな
0164日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 21:03:10.80
>>161
天智天皇〜孝明天皇までにした方がいいと思う。明治以降は条件が違いすぎるから
だいたい1世代27年だった。

古代史は史料が少なすぎて所詮、水掛け論になってしまうのだが、継体以前の
大王位は血縁による世襲ではなかったと云う説も有力になってる。
0165日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 21:07:49.96
164
だが系図を見れば血縁で結んであるけどな
つうか系図の見方を変えた方がいいって話なのかな
0166日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 21:50:09.66
>>164
学者の言う「世襲王権が確立した」を曲解した奴が言ってるだけだ。
それ以前は即位には豪族による推挙の過程があったのが欽明朝以後なくなったってだけだろJK

第一倭の五王は中国側に姓が倭だと名乗り出てるんだぞ、血統の概念はあったに決まっている
0167日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 21:55:27.71
あと、古代は職掌は伴造、国造、県主みたいな一般官吏だけでなく大臣や大連のような要職に至るまで世襲だったからな
だったら大王も世襲と考えるのが当たり前だろ
なのに王朝が一つでなかったなどというのは万世一系を否定したいだけのただの妄言と言わざるを得ない
0168日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 22:09:40.66
>>164
天智天皇〜孝明天皇は1世代平均28.02年

だいたい28年
0169日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 22:16:13.63
>>165
記紀以前の聖徳太子関係だったと思うが、継体天皇から後は、大王位はその血統より外に出た
ことがない書かれている史料があった。それ以前は一系で世襲されていなかったということだろう。

倭の5王の讃、珍、が兄弟で後、済=允恭、興=安康、武=雄略と世襲されるのだが
珍と済=允恭の続柄が中国側史料に書かれていない。允恭は雄朝津間稚子宿禰尊と書紀に
書かれているのだが、宿禰という姓は王族らしくない。
記紀は天皇家が日本を統治する正統性を述べるものであるから、本来一系でなかった王統を
一系に作り変えたのだと思う。
0170日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 22:22:34.95
>>168
>古代〜現代 1世代平均27.81年 25世   天智天皇(生年. 626)から72世   今上天皇(生年1933)まで
>天智天皇〜孝明天皇は1世代平均28.02年

矛盾してないか
0171日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 22:28:47.54
矛盾してない
0172日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 22:46:00.15
>>167
大王にふさわしい人物が倭国を構成する有力氏族によって大王に推戴されていたのだと思う

遥か後の時代である飛鳥時代でも、即位儀礼として形式的になってはいたが
臣(まえつぎみ)が新大王を推戴する形をとっていた。
0173日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 23:03:30.73
>>169
以前読んだ本にあったのがソースかよ
それこそ左翼学者の脳内妄想だろ
それに天武天皇は諡に真人が入るから血統が変わったてか?
幾つも王等があったってじゃあ残りの王統は何処に消えてなんでわざわざ越前から継体天皇が来たんだか説明ができない。
記紀通りの系譜であったほうが自然
0174日本@名無史さん
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2014/10/27(月) 23:06:06.01
あと允恭天皇の宿禰は履中天皇の大兄に対応すると思われ
0175日本@名無史さん
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2014/10/28(火) 00:42:33.12
>>169
宿禰が允恭天皇の姓? 名前の後ろについてるのに?w
あと五王の倭王済は「倭済」って書いてあるの知らんの?
姓が倭氏なら倭讃と同姓だから男系で同族だっていう表現だろ。通説だがねw
0176日本@名無史さん
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2014/10/28(火) 08:55:16.78
その時代、姓はまだ無かった
俺の妄想説では宿祢は大王を助ける地位にあった人物
だから、珍の死後、珍の大臣にあたる地位から大王位に就いた
0177日本@名無史さん
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2014/10/28(火) 08:59:15.12
妄想乙
0178日本@名無史さん
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2014/10/28(火) 09:37:42.43
妄想だ、ええ妄想なんだよ
撮り鉄、乗り鉄、車両鉄 皆、鉄道会社の社員でもない素人が鉄道で楽しんでいる
古代史なんて史料が少なすぎて最後は水掛け論に終わるんだから
歴史の探求はプロであるその道の専門家に任せて、素人は自説を妄想することを楽しんだらいい
0179日本@名無史さん
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2014/10/28(火) 09:51:05.37
最高にアホだな、コイツ
0180日本@名無史さん
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2014/10/28(火) 11:23:54.84
「僕は専門家じゃないから妄想を垂れ流してもいいんだ」って考え方、最低だな
チラシの裏にでも書いてろ
人としての礼儀を考えろよ
0181日本@名無史さん
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2014/10/28(火) 18:01:20.50
基本となるのが、崇神の崩年干支を318年と定めるかどうか。
ほぼ文献的、考古学的にほぼそれが定説になっていて、
他の説だと牽強付会の感をまぬがれない。
318年から考察していくと、流れがだいたい見えてくる。
初代、神武からはじまじって、十代崇神でヤマトの王から、
日本(大八洲)の統治者になっていく流れが。
0182日本@名無史さん
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2014/10/28(火) 18:13:19.98
鉄器を作り始めたのが7世紀ころってのはハッキリしてんだろ
伊賀甲賀は忍びの里、近江商人は武器商人
まあ畿内で始まってるわな
0183日本@名無史さん
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2014/10/28(火) 18:13:24.79
鉄器を作り始めたのが7世紀ころってのはハッキリしてんだろ
伊賀甲賀は忍びの里、近江商人は武器商人
まあ畿内で始まってるわな
0184日本@名無史さん
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2014/10/29(水) 12:13:23.22
>>172
そうだよ、だから別々の氏族に押される皇族同士で皇位争いがあったんだろ
そこまでは記紀の伝承と矛盾しないじゃん。
万世一系を否定する根拠にならんよ。
モンゴルのクリルタイも父系血統の範囲内でしか候補は選ばれない。
群臣が推戴する形があったからといって
血筋まったく無関係に王が選ばれた証拠にはならない。
0185日本@名無史さん
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2014/10/29(水) 14:44:31.07
>>184
なぜ群臣が推戴するのか。大王が後継者を指名すればそれで済むことだ
そうでないのは昔は倭国を構成する有力氏族が自分たちの中から大王を選んでいたからだと思う
モンゴルの例も、もっと昔は選挙王政だったのでは
中国でも夏王朝から血統による世襲は始まった。それ以前の三皇五帝時代は世襲ではなかった
しかも、夏王朝1代目禹、2代目啓が即位するにあたって別の候補者がいたが諸侯が彼らを支持した
ことにより即位している
0186日本@名無史さん
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2014/10/29(水) 18:32:27.25
>>161
卑弥呼が豊鍬入姫だったら
卑弥呼の墓=ホケノ山古墳となるから
箸墓古墳みたいな年代の矛盾はなくなるな
0187日本@名無史さん
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2014/10/29(水) 19:31:21.56
>>153
応神天皇の崩年が甲午で394年で、
仲哀天皇の崩年が壬戌で363年
成務天皇の崩年が乙卯で355年
崇神天皇の崩年が戌寅で318年か258年とされるが、

崇神の没年は318年でも矛盾はないよ。
事績等から、崇神は平均より長命、成務は後継者も残さず早死していると思われる。
仲哀も長命ではなかろう。神功皇后は応神の成人までは生きていたはずだが。

崇神没年が258年ならば、まさに魏志倭人伝に書かれた最中の人になる。
同時代にもかかわらず、何も記されていないのは矛盾する。
0188日本@名無史さん
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2014/10/29(水) 19:57:56.98
桓武天皇の祖父志貴皇子の生年が不明。
天智天皇生年626年、志貴皇子、光仁天皇(709年)、桓武天皇(737年)、嵯峨天皇(786年)
嵯峨天皇は桓武の49歳の子。桓武は父の光仁天皇も当初は皇位を継ぐ予定ではなかった。
当然桓武も末端の王族でしかない。天武系の生きている子孫の多くが臣籍降下し、
王族がほとんど残っていなかったからか、高齢で生まれた皇孫である父が急遽
皇位を継ぎ、桓武が皇太子になり、后を取り高齢で子をなした。
そのため、天智天皇から4世代後の嵯峨天皇まで160年にもなる。

他の10世代が平均26年で260年、この4世代が160年、合わせると14世代で420年で
平均すれば30年になる。
だからといって、天智天皇から遡る場合、平均を30年にするのが正しいとは
思えない。
0189日本@名無史さん
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2014/10/29(水) 22:15:38.34
>>188
欽明は安閑宣化が継体と同じ仁賢天皇の皇女を皇后にしたことから
継体が50歳以上の時の子だろうし
応神も神功が麛坂皇子忍熊皇子らと戦ったことを考えれば
仲哀は少なくとも40歳、50歳や60歳の時の子の可能性もある
0190日本@名無史さん
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2014/10/30(木) 06:43:07.50
代数より世代で考える方が数値は安定してる。27年〜30年だな。安本なんて天皇の代数で1代10年だから
卑弥呼が天照大神になってしまう。
だだし、古い時代は末子相続の可能性や、兄弟なのに親子として
記録に残されているかもしれない。兄弟相続が履中以降なのはおかしい
0191日本@名無史さん
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2014/10/30(木) 11:06:42.87
前スレで諸豪族との系譜比較で崇神天皇が神武天皇の5世孫あたり、
垂仁・景行と成務・仲哀が同世代とした方がよいって表があったな
それなら崇神崩年が318年でもおかしくない範囲になるし巻向遺跡との整合性も取れるしいいんじゃないかと思うんだが
0192日本@名無史さん
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2014/10/30(木) 16:15:41.31
諸豪族は第1夫人の子が跡を継ぐけど
拡大期の大王家は政略結婚によって第2夫人(30の時の妻)第3夫人(40の時の妻)が皇后になることが多い
だから諸豪族より1世代が長くなる
0193日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 06:52:21.09
>>190
古い時代にあったのは兄弟相続じゃなくて末子相続。
履中以降に現れる兄弟相続は末子相続から長子相続への移行期だと思えば
ぜんぜんおかしくない。
それと兄弟相続でも最後は末弟にいくんだから一世代あたりの平均年数は
兄弟相続と末子相続では同じ年数になると思われ。

>>192
そうともいえない
諸豪族の系譜でも兄弟が記されてる例では末子相続が多いことから
系図上で一子しか記されてない場合でも
その子は末子が少なくとも長子でない可能性が高い
0194日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 07:37:53.74
崇神の時代の逸話は、記紀で内容が違うんだよな。
四道将軍とかモモソヒメとか、古い伝承で何時のことかはっきりしないのを
全部崇神の代にまとめたって感じがするね。
古事記では、吉備との関わりはもっと古いんだよな。

崇神のころにヤマト王権を支えていた有力者を、「崇神が支配下においた」
という形で書いてるというか。

系譜は捏造してるとは思えんな。そのように伝わっていたのを書いた。
他の氏族との関わりがあるから、A家から嫁に来た妃を消すわけにいかんし、
そんなことしたら自分の先祖を消すことになるし、作ったとすれば先祖でない
人を先祖にすることになる。そんなことをする必然性もないし。

捏造ではなくて、後の天皇家につながる系統だけを取り出して書いていると
いうことだね。崇神以前は、特出した権力は持っていなかったんだろう。
崇神以降も王位継承の争いが頻繁に起きている。
そのような時代に、40歳の時の子供をわざわざ後継者に選ぶ必然性はない。
早ければ早いほうが良い。少なくとも20代のうちの子供だ。
0195日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 11:22:29.69
>40歳の時の子供をわざわざ後継者に選ぶ必然性はない。
>早ければ早いほうが良い。少なくとも20代のうちの子供だ。

史料を重視する限りそれはなさそうだな
思い込みを優先して史料の所伝を歪曲するのは賛成できない
むろん史料のかたる伝承がそのまま事実とは限らないが
伝承に訂正を入れる場合は確たる証拠がないとね
0196日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 12:01:34.19
資料を読んでも「わざわざ40歳以降の子を後継者に選んだ」って見つからんけどな
130歳を信じるならそうかもしれんが
0198日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 15:51:17.27
諸豪族とは違って崇神、垂仁、応神、継体などは第2夫人第3夫人以降の嫁が皇后になっている
0199日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 18:36:38.01
崇神の皇后は大彦の娘で第1夫人。垂仁が生まれる。
垂仁の第1夫人はサホ姫だが、皇子は口がきけずないから、
皇后に地位にはつけない。さらに、兄サホ彦とともに反乱で焼け死ぬ。
継体の皇后は欽明を生んだ正式な第1夫人の手白河皇女。
0200日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 19:17:03.18
継体の場合、入り婿だから手白香皇女を皇后にするしかないな

サホ姫は皇后だよ。兄が反乱を起こしたとき兄とともに焼け死んだから
ヒバス媛を2代目の皇后にした
0202日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 20:57:59.05
家康も正室→継室と晩年に正室を新しく置いているね
古代諸豪族と同じく家康側近の四天王は正室だけ
長子優先が確立していたから秀忠が継いだけど
崇神の時代なら秀忠でなく尾張徳川義直、紀伊徳川頼宣、水戸徳川頼房の
誰かが跡を継いでいたかもしれない
兄の豊城入彦は弟の活目入彦より20歳以上年上の可能性もあるな
0203日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 20:58:25.94
狭穂姫の残された皇子は誉津別命というのだが命がついている割に白鳥をみて
初めて言葉を発したとかショボイ伝承があるだけで、皇統には何の影響も与えていない
この人が応神天皇ではないかという人もいる
私は天智天皇の皇子である建皇子がモデルだと思っている
0204日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 21:04:34.04
崇神 遠津年魚眼眼妙媛→御間城姫 晩年の皇后の子が継いでいる
垂仁 狭穂姫→日葉酢媛 晩年の皇后の子が継いでいる
仲哀 大中姫→気長足姫 晩年の皇后の子が継いでいる
0206日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 21:43:42.45
目子媛は継体の地方豪族時代の夫人だから皇后じゃあないだろ
手白香皇女と婚姻して、即位できたと考えるべきだ
0207日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 21:59:43.40
晩年に婚姻した2代目皇后(正室)の子が跡を継いだ天皇

崇神 遠津年魚眼眼妙媛→御間城姫
垂仁 狭穂姫→日葉酢媛
景行 播磨稲日大郎姫→八坂入媛
仲哀 大中姫→気長足姫
継体 目子媛→手白香皇女
0209日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 22:08:44.65
>>207
長じて即位してから有力者の姫を娶ったのかな
0210日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 22:29:52.06
崇神〜応神は晩年の皇后の子が継いでいたが
応神の晩年の皇后の子の菟道稚郎子が仁徳に皇位を譲って自殺(仁徳に殺されて?)から
晩年の皇后の子は継がなくなる

崇神〜応神と応神〜天智の1世代の長さはかなり違う
応神〜天智が30年で崇神〜応神は40年ってこともあると思う
0211日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 22:33:19.77
大仙陵古墳ほどの国家の大事業が記紀に載ってない
当時全長800m超の墳墓を造るのは大したことじゃなかったのかな
0213日本@名無史さん
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2014/11/01(土) 00:49:51.54
>>98
事代主直系の向家・富家に伝わる話がベースの擦り合わせ神代系譜で
大国主より以前の神代系譜は・・

・御中主命=国常立命(クナト大神)
クナト大神−八島篠−布葉之文字巧為(ふはのもじくぬす)−八束水臣津野−赤衾伊努意保須美比古佐倭気−大国主・・八千矛(大穴持)┬伊佐我(伊佐波)
                                                                                    ├阿遅須枳高日子
                                                                                    └高照光姫

・出雲・大国主神・・八代:八千矛神−九代:阿遅須枳高日子神−十代:鹽冶毘古能神=長髄彦−十一代:古事記の速甕之多気佐波夜遅奴美神=神門 速甕之建沢谷地乃身神(初代:旧出雲大社(杵築大社)司祭:神門氏)
・・十代神門 阿多神−十一代:出雲(神門)振根命=(倭健命)日本武命−十二代:神門鹽手命=神門伊賀曽熊命の子
建部氏(武部)、武内宿禰・葛城襲津彦・・蘇我馬子=島大臣。※@百済国、第二十五代:武寧(武内)王=斯摩王
出雲(神門)笠夜命、斯摩宿祢、島津(志摩)国造家の斯摩、志摩、島(直)氏の島族・・※A百済渡来島族の武蔵・千葉国造家

※@は、三韓討伐以降の在地官人が王族化し、その末代が倭史・和史と名乗り、白村江の敗退で、日本へ渡来。
し、日本国内でも、朝廷や出雲族と争い、神門神社を頼った記録が九州の神門神社周辺に残っている。
※Aは、同じく百済から渡来し、島族として帰化に成功した百済人が、武蔵・千葉国造家として関東平野へ移住した事を示している。
大宮・氷川神社などの祭神がそのようですね。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/01(土) 00:51:36.10
ゆえに、関東平野・東京湾周辺の古墳群を神門古墳群と呼ぶのでしょうか・・
0215日本@名無史さん
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2014/11/01(土) 13:32:06.31
>>214
新門古墳群て初めて聞いたな。具体的にどの古墳の集団を指すの?
まぁあまり歴史に詳しくないので検索してみたけどやはりヒットしなかったので。
0216215
垢版 |
2014/11/01(土) 13:34:58.69
>>214
ああ、失敬。漢字間違えて検索してた(笑)ごめんごめん、理解したわ。
千葉に昔いたけど、市原の方には目が向いてなかった。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/01(土) 23:01:28.97
>>217
神門→ゴウド
0223日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/03(月) 07:52:00.34
なんで日葉酢媛命陵が晩年の妃なんだよ。
サホヒメが死んだのは赤ん坊を産んで間なしじゃん。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/03(月) 14:38:11.17
第一皇后の狭穂姫は垂仁天皇即位後2年目
第二皇后の日葉酢媛命陵は即位後15年目
即位したのが30として45歳
0227日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/03(月) 16:40:43.82
>>225
140歳を信じるのか。驚きだ。
サホヒメが死ぬ前に言い残したんだから、その時にお年ごろですぐに
嫁にもらったと普通は考えるけどな。
0228日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/03(月) 19:50:49.14
『釈日本紀』に引く『尾張国風土記』逸文では誉津別皇子は7歳になっても話すことができなかったとある
即位したのが30歳とする
狭穂姫との婚姻を即位直後(日本書紀は2年目)として
誉津別が生まれたのが32歳、7歳の時に垂仁は39歳
狭穂彦の乱直後(日本書紀は10年後)日葉酢媛と婚姻したとしても39歳
日葉酢媛2皇子・2皇女を産んでいる(15年以上か?)ので垂仁39歳〜54歳
十分晩年と言える
0229日本@名無史さん
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2014/11/04(火) 21:43:08.20
なんで7歳で乱になるのさ。
乱の時に生まれてすぐと書いてあるじゃん。
0230日本@名無史さん
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2014/11/04(火) 23:18:17.37
日本書紀には誉津別命は壮年になるまで話さなかったとある
日本書紀を信じるなら誉津別命は30歳以上
尾張国風土記逸文を信じるなら7歳以上生きたことになるね
0231日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/04(火) 23:46:29.07
>>225-230
いや両立するやん。矛盾は回避できてるやん。なんの議論だね?
>>227のツッコミがわからないんだが第二皇后が若い分には
垂仁天皇からしたら問題ないよね? あとホムツワケが何歳かは関係なくね?
サホヒコの謀叛は即位当初のことだろうからその頃うまれたんだろ
0232日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/05(水) 21:29:01.82
垂仁天皇はホムツワケが7歳にならないと再婚できないのか。
0233日本@名無史さん
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2014/11/06(木) 20:19:49.29
>>232
えw オマエは現代の庶民の結婚と同レベルで考えてんの?w

ここでいう結婚ってのはあくまで正式な結婚だろ
それならできるだろうけどするかしないかは本人の自由
あるいは政治的な事情もあったかもしれんしなかったかもしれん
少なくとも側女はいくらでもいるだろうから
性欲のはけ口って意味では女に不自由してないだろうし
0234日本@名無史さん
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2014/11/07(金) 07:37:34.29
どのスレで聞いたらいいのかわからんのでここで聞くけど
倭王武=雄略の頃って少なくともすでに関東九州の統一は終わってんだよね
これって景行天皇の時に征服したってこちょなのかな?

神武天皇は少なくとも日向・北九州・山陽・近畿南部と畿内は支配したんだよな?
崇神天皇の時は東海・関東・北陸・会津・丹波まで
景行天皇の時に出雲・南九州・陸奥の南部までほぼ統一?

邪馬台国が畿内説の場合、その時代は南九州のぞいて西日本統一→景行以前の状態?
邪馬台国が北九州だと、ヤマト朝廷が邪馬台国と別の勢力だったとしても記紀にあてはまる時代がないね
邪馬台国が南九州って説にするなら景行天皇以前の状態には合うが。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 07:42:54.02
景行天皇から神功皇后までは、
いきなり福岡にワープして、
九州を平定する話ばかりなので、
九州福岡の豪族のエピソードを引き写した話だと思っている。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 07:46:47.80
現在の日本を見ていてわかる
やってる事が間違ってるからなw
0237日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 08:07:18.68
>>235
いきなりワープ?
ちゃんとその前の代までに吉備や出雲は征服された話が先行してるじゃん
記紀が描いてる歴史の全体の流れみないで
あなたが「いきなりそのページだけみて」感想いってるだけじゃないの?
0238日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 08:09:43.98
景行天皇に吉備や出雲の話、あったっけ?
0239日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 08:14:04.56
あれ、スサノオの話だけどw三貴神
0240日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 08:17:16.92
景行天皇から神功皇后まで、
応神天皇が生まれるまでに、
一回くらい畿内に帰ったんだろうか?
0241日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 08:18:22.98
天皇の話なんてあるの?
0242日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 08:23:25.50
天皇と天と、いわゆる神様の天は違うみたいだよ
詳しい人に聞いてみると良いよw
0244日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 11:04:28.22
景行天皇は、熊襲退治の時は、7〜8年は帰ってないね。

いきなり下関にワープし、戦を重ねて宮崎に6年仮宮、
さらに熊本、筑後を巡幸、ここでは戦闘なし。
この辺は非常に細かく書かれている。

筑後の浮羽まで行ったところで巡幸終了。
そこにどのくらいいたのかは不明。

また畿内までワープ?

けっきょく、下関だけ本州で、あとは九州の事跡だけで終わってる。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 11:06:41.93
景行天皇の熊襲退治は、
九州内で道筋を書けるくらいに詳しく細かく書かれている。

ただし、畿内への道は全く書かれていない。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 21:29:29.42
>>234
神武天皇の勢力範囲は葛城だけ。東遷も王権の移動というより貴種流離譚に属する流浪の旅と考えたほうがいい。
全国展開するのは崇神から。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 23:19:03.04
>>240
畿内じゃなくて奈良へ帰ったのかなって思うね。
景行は大津に宮を移し、次の成務も大津のまま。
仲哀は敦賀から出発して、宮は九州になっててそこで死んでる。
ヤマトタケルがヤマトを歌ったうたがあるからヤマトにいたんだろうけど。
新羅から帰った時、ヤマトに入れない話があるから拠点はあったのかな。

巻向遺跡は四世紀中頃には廃れてるらしいね。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/08(土) 01:40:01.93
倭王武の上表文のような「大征服の時代」っていうイメージは
崇神天皇にはないね。これは完全に景行天皇だろうな
0249日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/08(土) 11:18:07.25
上表文にある「渡りて海北を平らぐること、九十五国」はいつの時代?
広開土王碑の時代かな?
0250日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/08(土) 17:01:17.95
事績で重なるのは

大乱〜崇神 信長
景行〜応神 秀吉
雄略〜継体 家康
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