【謎の世紀】古墳時代についてマタ〜リと語ろう 2
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そういえば奈良の都塚古墳が
基壇を整えてその上に階段状に積み上げられていた方墳?だったと
発掘でわかったとかいう記事がでていたね。
実際に稲目なのかどうかはわからんらしいけど。 武内宿禰関連の子孫云々の記述は他の豪族も全部あてにならんだろう。
何百年も生きたという人間の子孫がどうのという記述を素で受け取るやつは
頭がおかしいとしか思えない。
武内宿禰について書いてたやつは、漢文は下手くそとは言え、当時の朝廷内での
知性は卓越していたろう。当然そんな記述の非現実性については重々承知。
そんな非現実的なことを書いた理由は、当時のいくつかの豪族の格付けを同格と
位置づける手段が、血筋しかなかったからだ。
伝承上の人物の年齢を何百歳と書こうと誰も困らんが、
朝廷権力の担い手同士の諍いは非常にまずい。
書いた当人も、よもや千数百年後の人間が、その記述を素で受け取るほど
頭が悪いとは思っていなかったろうさ。
とはいえ、蘇我以外の名前が挙がる豪族は歴史的に実在した可能性が高い。
蘇我については、そもそも豪族だったのか?というのが問題の出発点だ。
蘇我のように自身の祖神を持たない「豪族」というのは一種の形容矛盾だろ。 寿命の長さがありえないことが
武内宿禰の実在性や子孫の系図を否定する根拠にはならない なんていうか「古代史のなぞ」的な本読んでそれで古代史語ってる感がすごい
武内宿祢の年齢を理由に非実在とすれば多くの学者が実在と認める120歳の崇神・110歳の応神・124歳の雄略ですら非実在になるんだが 第一すでに没落した葛城・平群と中堅豪族の紀、大臣を出し続けた蘇我をどうしたら同ランクに見えるんだw 都塚古墳関連で、稲目が高句麗の女を娶った話は信じられている割に、
狭手彦が高句麗の姫を奪って来た話が信じられていないのは何で? 武内宿禰って武内が姓じゃないの?
宿禰が姓なの?
この人の身内ってナントカの宿禰ばっかりだよね。
五月みどり、小松みどり姉妹みたいなもん? 質問に答えるよスレがあるんだからそちらでどうぞ。
単発Q&Aなモノを書いてもスレチでしかない サデヒコは批判しかできない学者が重箱の隅をつついて
この話は信用できませんねえとか言ったんじゃないの
武内宿禰の時代は姓は未発達だし、そもそも皇族なので姓はない
宿禰はこの時代の豪族の尊称の一つで豪族なら貴賤に関わらず使われた 「宿禰」で興味深いのは、日本書紀における6世紀代の実例が、蘇我稲目・蘇我馬子・紀男麻呂の3名に限られること、
紀男麻呂が皇別の紀氏出身なら「紀臣男麻呂」あるいは「紀男麻呂臣」とでも書かれていて良さそうなのに(神別の紀氏なら紀直)、
欽明朝〜崇峻朝まで一貫して「紀男麻呂宿禰」という記載であること、
そして、蘇我馬子についても「宿禰」の称が付されるのは基本的に崇峻朝までであり、その後は回顧的記事での使用を除けば、
天武朝の八色の姓の「宿禰」(むろんそれまでの宿禰とは意味が違う)まで、上記の称号としての「宿禰」の用例は見当たらないこと、
などが挙げられる。 >>58
スクネは役職というか身分みたいなもんで子孫に継承されるんだな
スクネの子もスクネ >>61
稲荷山鉄剣の【足尼】がスクネだとする見解もあるがどうなのかねぇ
デキスギのような気もするが >>63
たしか続日本紀に、「足尼」は「宿禰」とするように、とかいう記事があったと思う。
その他、古文献で「足尼」と「宿禰」が対応するようだから(例えば平群の都久宿禰と都久足尼)、
まず間違いないと思う。 蘇我稲目も上宮聖徳法王定説・天寿国繍帳で足尼って書かれてるな 刀禰は、戸主 > toushi > toshi > toji > 刀自のように、戸の兄(tonoe)からきている気がするけど、
宿禰ってどういう意味なんだろうか? 大兄(オホエ)に対して少兄(スクナエ)ではないかと。 あるいは
オホアニ(ネ)→オホネ〔大尼・大禰〕
スクナアニ(ネ)→スクネ〔足尼・宿禰〕 大碓命 オホウス
小碓命 ヲウス
のようにオホエとヲエになるんやないかという疑問はあるけど、
ありえそう 孝元天皇の子には、大毘古命(大彦命)と少名日子建猪心命(少彦男心命)という例があるね 三国史記の将軍「于道朱君(ウチシュクン)」が武内宿禰で葛那古は葛城襲津彦
倭国の使臣、葛那古が来朝して客館に滞在していた。
于老はその接待の役に任ぜられた。彼は倭の使臣に戯れて
「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にする」といった。
倭王はこれを聞いて怒り、将軍、于道朱君を派遣して、
わが国に攻めて来たので、大王はこれを防ごうと柚村に出て居た。
于老は大王の所に行って「こんどのこの患は、私が言葉を慎まなかったのが原因でありますので、
私がその責に当ります」といって、ついに倭軍の所に行って
「前日の言は、ただ冗談に言っただけである。どうしてそのような言を信じて、
軍を起こしてこのように攻めてくるのか」といった。
倭人はこれには答えないで、彼を捕まえて、積み柴の上において焼き殺してから去って行った。 >>73
三国史記は時代的には日本書紀を参照可能なんだが、こんな屈辱的な話が朝鮮の記録に独自に存在したんだろうか "大兄"去来穂別(履中)と雄朝津間稚子"宿禰"(允恭)ってのも似たような範疇かも。 >>70
興味深いけど、これだと音読み訓読みごっちゃになるよね
その辺掘り下げてみたい 于道朱君おもしろいね
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/uchi/uchisuk1.htm
これを読む限り、三国史記って、
全然史料批判されずに、基本無視されつつ、都合のいいところをひっぱられている印象を受ける >>76
大尼・大禰のことでしょうか。
これは「先代旧事本紀」に出てくる、物部氏の役職や一種のカバネ的名称です。
実際にあったかどうかは分かりませんが、伝えられてきたのだとすれば無論後世の当て字と思われます。 つか奴らが資料使うときって、チェリーピッキングしてる所しか見たことが無いんだがwww
対馬は昔朝鮮領だった〜とか實聖尼師今七年の記事(倭国が対馬に軍営を置いて兵糧を蓄え、我が国に侵攻しようとしている!)知ってたら絶対言えんわな。
瓠公とか絶対知らんだろうし。 >>75
確かに天皇なのにスクネっているんだよね
となると、役職やカバネだと説明つかなくないか?! >>79
日本人を絶対的劣等民族と言っときながら、片方で古代朝鮮人の子孫だと言うからな >>80
カバネというよりカバネ的「名称」かな。
○○ワケ天皇(皇子)、なんてのも相当するかも。
時代は違うけど、○○大兄皇子とかもね 武内宿禰って武内が名字じゃないの?
なんか身内の名前がナントカの宿禰ばっかりなんだけど。
宿禰が姓なの?
五月みどり、小松みどり姉妹みたいなもん? ごめんなさい>>84=>>58です。
うちのケータイが>>56で止まってたんで
二度質問してしまいました。 >>83
となると、>>70が真実味を帯びてくる
単なる大小を指す言葉なのか
ところで、仁徳天皇紀にスクナという怪物が出てくるが無関係なのか もしかしたら邪馬台国の時代から蘇我入鹿まで二重統治制だった?
邪馬台国時代は聖権の卑弥呼と俗権の男弟とによる祭政二重統治制
崇神天皇〜蘇我入鹿は聖権の大兄(オホネ)系の天皇家と俗権の少兄・(スクネ)系の宿禰の祭政二重統治制 二重統治じゃなくて多元統治だろ
王族含め諸豪族がそれぞれ土地と人民をもつ小首長
大王はそれらの最終的なまとめ役
7世紀はそこから天皇を頂点とする公地公民・中央集権・官僚体制への移行の歴史 武内宿禰の話が嘘っぱちとは思わないね。
成務天皇と同日生まれで、5代の天皇に仕えた。
日本書紀の120歳とかを信じるとうそっぱちかもしれないけど。
有栖川宮幟仁親王は73歳まで生き、4代の天皇に仕えた。
亡くなった時大正天皇は生まれていたから、5代ともいえないことはない。
どんな庶民でも、祖父、父、自分、子、孫の5代を知ることは難しくはない。
特別長寿と書かれているんだから、80歳に近かったのかもしれないが。
活躍したのが、30代〜50代に相当する働き盛りの期間だと考えられる。
でっち上げる必然性はない。 >>87
ありえるかも
『隋書』「東夷傳俀國傳」より
俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟
(訳)
倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺(かふ)して座す。
日出ずれば、便(すなわ)ち理務を停め、いう、我が弟に委ねんと
兄 大兄 オオエ 天皇 祭 聖
弟 少兄 スクネ 宿禰 政 俗(軍) 二頭政治という指摘は今までにもあったと思うけど、
それを大兄、宿禰という名前と結びつけたのは画期的かも。
乙巳の変によって「宿禰」の意味が分からなくなって、
記紀ではその扱いがぞんざいになった可能性もある。
また、大王が亡くなって次の大王が決まるまでの間、宿禰が大王になる、
あるいは兼任するということもあったのかもしれないが、
そういったことが乙巳の変によって失われてしまったということも考えられる。
そう、考えると、兄弟統治(実際の兄弟である必要はないが)ということで、
一つの名前で記されてたとすると、
一人の天皇が100年以上も生きたという事も説明がつくかも。 二王制ってスパルタかよ
新羅の王家が三系統あるってのも意味わからん 日本書紀は年齢を盛ってるね。
だけど、古事記には年齢はなくて没年の干支がある。
崇神没年318年説を取れば、武内宿禰の年も荒唐無稽ではないかな。 継体の晩年になって、それこそどこの馬の骨ともわからん蘇我がいきなり登場し、
以降他の豪族を押しのけ、継体後の歴代天皇の外戚となる。
まあ、そもそも継体自身もどこの馬の骨ともわからんやつだが。
仏教導入時にも、他の豪族の「んなよその宗教入れて、祖神はどうすんだよ!」という
猛反対にもかかわらず、蘇我と天皇は、受け入れ強行。
「もうでかい古墳なんてつくるんじゃねーぞ」と禁止令まで出す。
異文化の二人組み押し込み強盗にのっとられたんだよ、畿内は。 >>94
継体天皇の皇子が続々即位しちゃって王権が乱立したってのも結構リアルだよね >>90
欽明天皇→蘇我稲目
用命天皇→蘇我馬子
聖徳太子→蘇我蝦夷
山背大→蘇我入鹿
生没年から検証しました。 >>94
傍流が何かの拍子で王統を継いだ場合権威づけに外来の思想や宗教持ってくる
ってホントどこにでもある話だな >>91
ヤマトタケル(明治以前の読みはヤマトタケ)=「武」内宿禰(弟は「甘美」内宿禰)
景行天皇=武雄心説があるみたいだね
ヤマトタケルは武内宿禰(たけうちのすくね)の若き姿
http://www.geocities.jp/shoki_otoku/
↑
この幻の皇統系譜説を参考にするとこんな感じかな
皇統 スクネの系譜
開化天皇 大彦
崇神天皇 彦太忍信命
垂仁天皇 景行天皇=武雄心
仲哀天皇 成務天皇=日本武=武内宿禰
麛坂皇子 応神天皇
仁徳天皇 宇治稚彦皇子(武・内宿禰の内は宇治に通ずる>>77)
履中反正 允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰)宿禰から異例の即位 倭の五王済は前王との関係不明 >>96
ちなみにこれは天智天皇が山背王=蘇我入鹿暗殺して、日本書記を編集したという意味です。武内宿禰以降の子孫は歴代の天皇ということになります う〜ん、こういうのはどうなんでしょうね?
古墳を潰して宅地にしたところに住みたいですか?
知ってたら無理ですよね。
↓小倉北区日明一本松塚古墳
http://kitaqare.d.dooo.jp/images/hist0205.jpg 古墳時代前期〜中期の天皇(大王)実年代化(古事記の没年情報+中国皇帝への朝貢記録+同時代人)チラ裏
★三輪(佐紀)朝=【列島統一→半島派兵(高句麗・新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源を獲得)】
10祟神(〜318年)…纏向に東遷280年頃(西晋滅亡前夜)?四道将軍派遣290年頃?大田田根子
11垂仁(情報なし)…330年頃没、新羅王子「天之日矛」帰化、田道間守 、野見宿禰vs当麻蹴速
12景行(情報なし)…343年頃没、日本武尊の熊襲討伐・東征340年頃、大臣・武内宿禰(〜応神)
13成務(〜355年)…国造/県主設置
14仲哀(〜362年)…新羅派兵に反対し、神罰により崩御(暗殺か)
神功(※〜389年)…「旨」三韓征伐(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→「神功52年」372年百済・近肖古王より贈呈)
★河内朝=【半島派兵(高句麗との戦い&百済支援)本格化】
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)
18反正(〜437年)…「珍」(438年)
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)←「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)23顕宗(情報なし)24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
※神功皇后…日本書紀による没年情報 「倭の五王」の正体判明!「倭の七王」だった!〜隠れていた2人の倭王(17代履中と25代武烈)〜
413年/421年/425年「賛/讃」…仁徳
430年★「倭国王」…履中
438年「珍」…反正
443年/451年「済」…允恭
460年/462年「倭国/興」…安康
477年/478年「武」@…雄略
502年※「武」A…武烈
★430年の「倭国王」が履中 → 438年「讃の弟珍立つ」の真相
430年に中国の南朝(宋)に朝貢した「倭国王」が「讃」ではなく、「讃の子」で、
その8年後の438年に「珍」が朝貢した時に、倭国の使臣が「先代の弟」と説明したとすると、
台与以来約150年ぶりに朝貢してきた倭王=「讃」のイメージが強烈だった宋側にしてみれば、
名前不明で影の薄い先代「倭国王」の弟ではなく、先々代「讃」の弟と錯誤した可能性がある。
もし【父「讃」→「倭国王」/「珍」兄弟】ならば【父(仁徳)→(履中/反正)兄弟】となり、
記紀(大和朝廷)の天皇系譜と合致する。
※倭王「武」は2人いた。
502年、南朝(梁)の「武」帝が征東大将軍に進号した倭王「武」が、477年/478年の倭王「武」(興の弟)とは別人で、
雄略(幼武)の孫の武烈とすれば、雄略の没年489年や、雄略没後の大混乱(24年間の朝貢中断)とも整合する。
∴@讃(仁徳)→A倭国王(履中)→B珍(反正)→C済(允恭)→D興(安康)→E武1(雄略)→F武2(武烈)
「倭の七王」となる。 そういう推測は倭王の名前からできるが、中国は勝手に外人の姓名を漢字に直すんだよね
クシャーナ朝のヴァースデーヴァは波調だし 自然科学分野では光の速さは一定だなんてありえない!なんて言う馬鹿はいないのに
人文科学分野では105みたいな知ったかが湧くのってなんでだろう 泰氏が漢族はどうかはわからんが、漢文明圏からの移民であるというのは通説だろ。
他の連中にも同類がいても何の不思議もない。
記紀にある各豪族の勢力圏なんてのは、後世の記述だからそれ自体は何の根拠にもならない。
オーストラリアは昔からイギリスの領地でした、というレベルの話。 単純に機織りが秦で、事務係が文部アヤベだっただけの気がする
あるいは辰韓(秦韓)の移民という内容が含まれるのか
後で始皇帝の子孫とか言い出したから秦の字が着いてるだけじゃないのか
日本人はシャレの表記を楽しむ風情があるからね >>109
>>110
通説にたいして適当な妄想垂れてんじゃねーよ、池沼 >>111
おまえの知ってる通説を簡単に説明してくれや 仲哀天皇は302年崩御
応神天皇は394年崩御
神功皇后の胎中にて即位したとされる応神天皇と
394年崩御の応神天皇とが同体であるということは
天皇位の継承が名跡継承方式であったことを物語る。
胎中天皇が仲哀天皇の実の子であれば、
却って天皇位継承権がなかったのではないか。
神功皇后が出産遅延の努力をしたのはこのためである。 >>117
景行朝から仁徳朝まで仕えた武内宿禰がいるのだから、応神天皇がそんな長生きだったとは考えられずむしろ短命だったのでは。
那珂道世博士は仲哀天皇崩御年を362年としていてこちらの方が正しいと思われる。
また血統を重んじていたことは顕宗天皇・継体天皇の例を見ても明らか >>116
年代が比較的明らかな時代の安閑天皇以降でみると
安閑天皇70歳
宣化天皇73歳
欽明天皇63歳
敏達天皇48歳
用明天皇48歳
崇峻天皇40歳
推古天皇75歳
聖徳太子47歳
舒明天皇49歳
皇極天皇67歳
弑逆された崇峻天皇を除くと平均60歳 >>104
502年は中国側の王朝交代により進号で高句麗や百済にも同時に進号させているのでその時代に倭王武(もしくはそれの後継者)が朝貢したわけではないと思われ 古墳の周濠、あれって、大阪人ならボートレースをしてたと思うよな。
10人漕ぎの大型軽野(カヌー)が一団となってコーナーを抜けるには、
仁徳天皇陵のような大型レース場が要る。
古墳時代の土豪というには、住民から税金を取っていたわけではない。
寺銭が主な収入源だし、大きなボートレース場を持つことが大王の条件。
江戸時代には、地外法権で規制の緩い寺の境内が賭博場として使われ、
寺に寄進した場所代が寺銭と呼ばれた。 今、地方に行って立派な建物と言えば、役所などの公共施設とパチンコ屋。
3〜7世紀に次々と造られた前方後円墳はあまりにも豪華すぎる。
なぜそんなものが必要だったのか?誰が金を出したのか?
日本人は昔から賭け事が大好きで、大王は賭博王だったと言うのは頷ける。
大型古墳は、ボートレース、競馬、相撲などの複合賭博場だったのだ。
賭博で負けて土地を失った農民を人夫として働かせ、大型古墳の賭博場を全国に展開した。
運だけで大王になれた時代、いや、運が悪いと奴卑、すごい時代だった。 古代住之江ボートの元締めが住吉大神様であった、ということですか?
初めて知りました。納得です。ありがとうございます。 >>122
古墳を作るのは大変だから
仏教を取り入れて火葬になったと思う >>43
50年差で同じ名前の人物が登場するのに別人とはそちらの方が不自然
どちらかの記事が時代を誤って書かれているとみるべき >>126
むしろ名前が同じだから同一人物に違いないという考えが不自然 古事記にしても日本書紀にしても編纂者は本当に愚かなことをしてくれたよな?
天皇制の権威づけのために系統や歴史を盛りすぎたせいで
実在したであろう君主や巫女の記述があいまいになり
あげく「架空の人物」に近い扱いで教科書にすら取り上げられない
何やってるんだか全く 古代住之江ボートでツケマイというテクニカルは
あったのでしょうか? 蘇我氏渡来人説とか寝言は寝て言えって感じだな
百済と高句麗の区別もつかない奴が学者できるってのもすごいが >>127
仮に同一人物でないにしても
氏族名+官名
で両者が一致した、つまり親族の可能性が高いわけで どうしても渡来人にしたいやつがいるんだね。
心配しなくても渡来系といえば、みんなアフリカからの渡来人だよw
記紀の時代、どの氏族が渡来人かの記録があるのに、わざわざ詐称する必要は
ないだろ。 >>133
色々ツッコミたいけど、
あなたのいう一致している「氏族名」と「官名」って何? >>128
神武天皇や決死八代はともかくそれ以降は全員実在して
事績も誇張はあるにせよ記紀の通りだと考える学者は最近多いよ 欠史八代とか王朝交替説とか訳の分からん説よりも、記紀のほうが考古学と
整合性があるんだよな。なんという皮肉 箸墓、西殿塚古墳、西山古墳、メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳、このあたり誰なんだろ。
開化陵ってどんな評価なんだろ。見たことないからなあ。
改修されて元の形が不明で発掘もしてないから評価の仕様がないのかなあ。 どっかのサイトの受け売りだが、
主神でアマテラスを祀ってるのが1200,
副で祀ってるのが5000だとか >>138
崇神天皇陵より古いとなると、それこそモモソヒメ命やいわゆる四道将軍のだれかくらいかなあ
吉備津彦兄弟や丹波道主王は地方に下ったみたいだけど彦坐王や大彦命は崇神天皇より年上だろうし、本人が地方に下ったわけでもないみたいだし可能性は大きいと思う >>141
初期の大きめの古墳がヤマトに多すぎるんだよな。
天皇だけだと余ってしまう。卑弥呼とトヨを入れても余る。
なんというか、有力者がヤマトに集住し、そこで古墳をつくったかのような。 天皇陵だけじゃなくて皇后陵も考えればいいんじゃない?
御間城姫命は父が大彦命、兄が武渟川別命だし全員皇族だからみんなあのあたりに埋葬されててもおかしくないし 箸墓:モモソヒメ命
西殿塚:孝元天皇
西山:伊香色謎命か欝色謎命
櫻井茶臼山:大彦命
スメリ山:彦坐王
まあこんなところか?
でも延喜式に見える孝元天皇陵が小さい古墳だというのはむしろ誇張等をしておらず正確な気がするから分からんなあ… >>15応神(〜394年)…「禰(でい)」
>>16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
仁徳の弟らが、倭珍、倭済であり
後期九州王朝へ分岐している。
軍事指導専従の統合参謀本部として
かつての「倭国」の名義を再興したわけだ。 >>141
大彦は中央の安倍氏の祖先だから中央にいた可能性あるが
彦坐王は但馬に下ってんじゃないの? >>146
そこに住む一族の初代が磐余彦・吉備津彦みたいな称号を名乗るケースが多いみたいだから
丹波道主王こそ初代で彦坐王は下ってないと思ったんだけどどうだろう
と思っていろいろ調べてみたら彦坐王墓って岐阜なのか… 彦坐王ってなんか岐阜と関係あるっけ?
なんで岐阜ってのを宮内省も認めたんだ? 彦坐王は近江・山城・春日じゃないのか。
椿井大塚山古墳あたりはどうだろ 確かに椿井大塚山古墳の方が大きさ的にもいいとは思うんだけどね…
たしか群馬のある古墳が毛野氏の祖先の皇族の陵墓にしてはどうかと働きかけがあったとき
「それなりの証拠がないと比定出来ない」と言われたという話を聞いたことがあるんだが
あんな小さな古墳のどこを見て皇族の陵墓と認めたんだろうか >>146
但馬は当時は丹波だし、古墳から見ても丹波一族がいたんじゃないかなあ。 トヨと崇神の関係が気になるなあ。
トヨは248年頃に13歳で、266年に朝貢しているっぽい。
崇神の一世代上くらいじゃないかと思うけど、記紀に出てくる誰かであっても
おかしくないね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています