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【謎の世紀】古墳時代についてマタ〜リと語ろう 2
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0193日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 06:52:21.09
>>190
古い時代にあったのは兄弟相続じゃなくて末子相続。
履中以降に現れる兄弟相続は末子相続から長子相続への移行期だと思えば
ぜんぜんおかしくない。
それと兄弟相続でも最後は末弟にいくんだから一世代あたりの平均年数は
兄弟相続と末子相続では同じ年数になると思われ。

>>192
そうともいえない
諸豪族の系譜でも兄弟が記されてる例では末子相続が多いことから
系図上で一子しか記されてない場合でも
その子は末子が少なくとも長子でない可能性が高い
0194日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 07:37:53.74
崇神の時代の逸話は、記紀で内容が違うんだよな。
四道将軍とかモモソヒメとか、古い伝承で何時のことかはっきりしないのを
全部崇神の代にまとめたって感じがするね。
古事記では、吉備との関わりはもっと古いんだよな。

崇神のころにヤマト王権を支えていた有力者を、「崇神が支配下においた」
という形で書いてるというか。

系譜は捏造してるとは思えんな。そのように伝わっていたのを書いた。
他の氏族との関わりがあるから、A家から嫁に来た妃を消すわけにいかんし、
そんなことしたら自分の先祖を消すことになるし、作ったとすれば先祖でない
人を先祖にすることになる。そんなことをする必然性もないし。

捏造ではなくて、後の天皇家につながる系統だけを取り出して書いていると
いうことだね。崇神以前は、特出した権力は持っていなかったんだろう。
崇神以降も王位継承の争いが頻繁に起きている。
そのような時代に、40歳の時の子供をわざわざ後継者に選ぶ必然性はない。
早ければ早いほうが良い。少なくとも20代のうちの子供だ。
0195日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 11:22:29.69
>40歳の時の子供をわざわざ後継者に選ぶ必然性はない。
>早ければ早いほうが良い。少なくとも20代のうちの子供だ。

史料を重視する限りそれはなさそうだな
思い込みを優先して史料の所伝を歪曲するのは賛成できない
むろん史料のかたる伝承がそのまま事実とは限らないが
伝承に訂正を入れる場合は確たる証拠がないとね
0196日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 12:01:34.19
資料を読んでも「わざわざ40歳以降の子を後継者に選んだ」って見つからんけどな
130歳を信じるならそうかもしれんが
0198日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 15:51:17.27
諸豪族とは違って崇神、垂仁、応神、継体などは第2夫人第3夫人以降の嫁が皇后になっている
0199日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 18:36:38.01
崇神の皇后は大彦の娘で第1夫人。垂仁が生まれる。
垂仁の第1夫人はサホ姫だが、皇子は口がきけずないから、
皇后に地位にはつけない。さらに、兄サホ彦とともに反乱で焼け死ぬ。
継体の皇后は欽明を生んだ正式な第1夫人の手白河皇女。
0200日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 19:17:03.18
継体の場合、入り婿だから手白香皇女を皇后にするしかないな

サホ姫は皇后だよ。兄が反乱を起こしたとき兄とともに焼け死んだから
ヒバス媛を2代目の皇后にした
0202日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 20:57:59.05
家康も正室→継室と晩年に正室を新しく置いているね
古代諸豪族と同じく家康側近の四天王は正室だけ
長子優先が確立していたから秀忠が継いだけど
崇神の時代なら秀忠でなく尾張徳川義直、紀伊徳川頼宣、水戸徳川頼房の
誰かが跡を継いでいたかもしれない
兄の豊城入彦は弟の活目入彦より20歳以上年上の可能性もあるな
0203日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 20:58:25.94
狭穂姫の残された皇子は誉津別命というのだが命がついている割に白鳥をみて
初めて言葉を発したとかショボイ伝承があるだけで、皇統には何の影響も与えていない
この人が応神天皇ではないかという人もいる
私は天智天皇の皇子である建皇子がモデルだと思っている
0204日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 21:04:34.04
崇神 遠津年魚眼眼妙媛→御間城姫 晩年の皇后の子が継いでいる
垂仁 狭穂姫→日葉酢媛 晩年の皇后の子が継いでいる
仲哀 大中姫→気長足姫 晩年の皇后の子が継いでいる
0206日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 21:43:42.45
目子媛は継体の地方豪族時代の夫人だから皇后じゃあないだろ
手白香皇女と婚姻して、即位できたと考えるべきだ
0207日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 21:59:43.40
晩年に婚姻した2代目皇后(正室)の子が跡を継いだ天皇

崇神 遠津年魚眼眼妙媛→御間城姫
垂仁 狭穂姫→日葉酢媛
景行 播磨稲日大郎姫→八坂入媛
仲哀 大中姫→気長足姫
継体 目子媛→手白香皇女
0209日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 22:08:44.65
>>207
長じて即位してから有力者の姫を娶ったのかな
0210日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 22:29:52.06
崇神〜応神は晩年の皇后の子が継いでいたが
応神の晩年の皇后の子の菟道稚郎子が仁徳に皇位を譲って自殺(仁徳に殺されて?)から
晩年の皇后の子は継がなくなる

崇神〜応神と応神〜天智の1世代の長さはかなり違う
応神〜天智が30年で崇神〜応神は40年ってこともあると思う
0211日本@名無史さん
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2014/10/31(金) 22:33:19.77
大仙陵古墳ほどの国家の大事業が記紀に載ってない
当時全長800m超の墳墓を造るのは大したことじゃなかったのかな
0213日本@名無史さん
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2014/11/01(土) 00:49:51.54
>>98
事代主直系の向家・富家に伝わる話がベースの擦り合わせ神代系譜で
大国主より以前の神代系譜は・・

・御中主命=国常立命(クナト大神)
クナト大神−八島篠−布葉之文字巧為(ふはのもじくぬす)−八束水臣津野−赤衾伊努意保須美比古佐倭気−大国主・・八千矛(大穴持)┬伊佐我(伊佐波)
                                                                                    ├阿遅須枳高日子
                                                                                    └高照光姫

・出雲・大国主神・・八代:八千矛神−九代:阿遅須枳高日子神−十代:鹽冶毘古能神=長髄彦−十一代:古事記の速甕之多気佐波夜遅奴美神=神門 速甕之建沢谷地乃身神(初代:旧出雲大社(杵築大社)司祭:神門氏)
・・十代神門 阿多神−十一代:出雲(神門)振根命=(倭健命)日本武命−十二代:神門鹽手命=神門伊賀曽熊命の子
建部氏(武部)、武内宿禰・葛城襲津彦・・蘇我馬子=島大臣。※@百済国、第二十五代:武寧(武内)王=斯摩王
出雲(神門)笠夜命、斯摩宿祢、島津(志摩)国造家の斯摩、志摩、島(直)氏の島族・・※A百済渡来島族の武蔵・千葉国造家

※@は、三韓討伐以降の在地官人が王族化し、その末代が倭史・和史と名乗り、白村江の敗退で、日本へ渡来。
し、日本国内でも、朝廷や出雲族と争い、神門神社を頼った記録が九州の神門神社周辺に残っている。
※Aは、同じく百済から渡来し、島族として帰化に成功した百済人が、武蔵・千葉国造家として関東平野へ移住した事を示している。
大宮・氷川神社などの祭神がそのようですね。
0214日本@名無史さん
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2014/11/01(土) 00:51:36.10
ゆえに、関東平野・東京湾周辺の古墳群を神門古墳群と呼ぶのでしょうか・・
0215日本@名無史さん
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2014/11/01(土) 13:32:06.31
>>214
新門古墳群て初めて聞いたな。具体的にどの古墳の集団を指すの?
まぁあまり歴史に詳しくないので検索してみたけどやはりヒットしなかったので。
0216215
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2014/11/01(土) 13:34:58.69
>>214
ああ、失敬。漢字間違えて検索してた(笑)ごめんごめん、理解したわ。
千葉に昔いたけど、市原の方には目が向いてなかった。
0218日本@名無史さん
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2014/11/01(土) 23:01:28.97
>>217
神門→ゴウド
0223日本@名無史さん
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2014/11/03(月) 07:52:00.34
なんで日葉酢媛命陵が晩年の妃なんだよ。
サホヒメが死んだのは赤ん坊を産んで間なしじゃん。
0225日本@名無史さん
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2014/11/03(月) 14:38:11.17
第一皇后の狭穂姫は垂仁天皇即位後2年目
第二皇后の日葉酢媛命陵は即位後15年目
即位したのが30として45歳
0227日本@名無史さん
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2014/11/03(月) 16:40:43.82
>>225
140歳を信じるのか。驚きだ。
サホヒメが死ぬ前に言い残したんだから、その時にお年ごろですぐに
嫁にもらったと普通は考えるけどな。
0228日本@名無史さん
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2014/11/03(月) 19:50:49.14
『釈日本紀』に引く『尾張国風土記』逸文では誉津別皇子は7歳になっても話すことができなかったとある
即位したのが30歳とする
狭穂姫との婚姻を即位直後(日本書紀は2年目)として
誉津別が生まれたのが32歳、7歳の時に垂仁は39歳
狭穂彦の乱直後(日本書紀は10年後)日葉酢媛と婚姻したとしても39歳
日葉酢媛2皇子・2皇女を産んでいる(15年以上か?)ので垂仁39歳〜54歳
十分晩年と言える
0229日本@名無史さん
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2014/11/04(火) 21:43:08.20
なんで7歳で乱になるのさ。
乱の時に生まれてすぐと書いてあるじゃん。
0230日本@名無史さん
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2014/11/04(火) 23:18:17.37
日本書紀には誉津別命は壮年になるまで話さなかったとある
日本書紀を信じるなら誉津別命は30歳以上
尾張国風土記逸文を信じるなら7歳以上生きたことになるね
0231日本@名無史さん
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2014/11/04(火) 23:46:29.07
>>225-230
いや両立するやん。矛盾は回避できてるやん。なんの議論だね?
>>227のツッコミがわからないんだが第二皇后が若い分には
垂仁天皇からしたら問題ないよね? あとホムツワケが何歳かは関係なくね?
サホヒコの謀叛は即位当初のことだろうからその頃うまれたんだろ
0232日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/05(水) 21:29:01.82
垂仁天皇はホムツワケが7歳にならないと再婚できないのか。
0233日本@名無史さん
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2014/11/06(木) 20:19:49.29
>>232
えw オマエは現代の庶民の結婚と同レベルで考えてんの?w

ここでいう結婚ってのはあくまで正式な結婚だろ
それならできるだろうけどするかしないかは本人の自由
あるいは政治的な事情もあったかもしれんしなかったかもしれん
少なくとも側女はいくらでもいるだろうから
性欲のはけ口って意味では女に不自由してないだろうし
0234日本@名無史さん
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2014/11/07(金) 07:37:34.29
どのスレで聞いたらいいのかわからんのでここで聞くけど
倭王武=雄略の頃って少なくともすでに関東九州の統一は終わってんだよね
これって景行天皇の時に征服したってこちょなのかな?

神武天皇は少なくとも日向・北九州・山陽・近畿南部と畿内は支配したんだよな?
崇神天皇の時は東海・関東・北陸・会津・丹波まで
景行天皇の時に出雲・南九州・陸奥の南部までほぼ統一?

邪馬台国が畿内説の場合、その時代は南九州のぞいて西日本統一→景行以前の状態?
邪馬台国が北九州だと、ヤマト朝廷が邪馬台国と別の勢力だったとしても記紀にあてはまる時代がないね
邪馬台国が南九州って説にするなら景行天皇以前の状態には合うが。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 07:42:54.02
景行天皇から神功皇后までは、
いきなり福岡にワープして、
九州を平定する話ばかりなので、
九州福岡の豪族のエピソードを引き写した話だと思っている。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 07:46:47.80
現在の日本を見ていてわかる
やってる事が間違ってるからなw
0237日本@名無史さん
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2014/11/07(金) 08:07:18.68
>>235
いきなりワープ?
ちゃんとその前の代までに吉備や出雲は征服された話が先行してるじゃん
記紀が描いてる歴史の全体の流れみないで
あなたが「いきなりそのページだけみて」感想いってるだけじゃないの?
0238日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 08:09:43.98
景行天皇に吉備や出雲の話、あったっけ?
0239日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 08:14:04.56
あれ、スサノオの話だけどw三貴神
0240日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 08:17:16.92
景行天皇から神功皇后まで、
応神天皇が生まれるまでに、
一回くらい畿内に帰ったんだろうか?
0241日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 08:18:22.98
天皇の話なんてあるの?
0242日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 08:23:25.50
天皇と天と、いわゆる神様の天は違うみたいだよ
詳しい人に聞いてみると良いよw
0244日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 11:04:28.22
景行天皇は、熊襲退治の時は、7〜8年は帰ってないね。

いきなり下関にワープし、戦を重ねて宮崎に6年仮宮、
さらに熊本、筑後を巡幸、ここでは戦闘なし。
この辺は非常に細かく書かれている。

筑後の浮羽まで行ったところで巡幸終了。
そこにどのくらいいたのかは不明。

また畿内までワープ?

けっきょく、下関だけ本州で、あとは九州の事跡だけで終わってる。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 11:06:41.93
景行天皇の熊襲退治は、
九州内で道筋を書けるくらいに詳しく細かく書かれている。

ただし、畿内への道は全く書かれていない。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 21:29:29.42
>>234
神武天皇の勢力範囲は葛城だけ。東遷も王権の移動というより貴種流離譚に属する流浪の旅と考えたほうがいい。
全国展開するのは崇神から。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/07(金) 23:19:03.04
>>240
畿内じゃなくて奈良へ帰ったのかなって思うね。
景行は大津に宮を移し、次の成務も大津のまま。
仲哀は敦賀から出発して、宮は九州になっててそこで死んでる。
ヤマトタケルがヤマトを歌ったうたがあるからヤマトにいたんだろうけど。
新羅から帰った時、ヤマトに入れない話があるから拠点はあったのかな。

巻向遺跡は四世紀中頃には廃れてるらしいね。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/08(土) 01:40:01.93
倭王武の上表文のような「大征服の時代」っていうイメージは
崇神天皇にはないね。これは完全に景行天皇だろうな
0249日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/08(土) 11:18:07.25
上表文にある「渡りて海北を平らぐること、九十五国」はいつの時代?
広開土王碑の時代かな?
0250日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/08(土) 17:01:17.95
事績で重なるのは

大乱〜崇神 信長
景行〜応神 秀吉
雄略〜継体 家康
0253日本@名無史さん
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2014/11/09(日) 02:13:20.05
古い神社の伝承って面白いね。
そういうところの周辺を発掘したらおもしろそうだけどなあ
0254日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/12(水) 17:41:16.69
考古学って面白いね。
寺沢氏なんか「ヤマトには纏向を生むものは何もない」って言い切ってる。
どこかの勢力が来たんだよな。

でも、なんで纏向だったんだろうな。
あの一体は、纏向以前は荒れ地だったらしい。縄文晩期に洪水が起きて、
弥生時代は人も住まない荒野たっだんだとか。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/12(水) 21:49:57.39
川からはずいぶん離れてて不便そうだし、何より平地の真ん中になんか作るってのが奈良以前の日本人の美意識から見て不自然なんだよな。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/13(木) 00:47:54.90
ん?南北を川で区切られた地域だし、中にも水路は多いと思うが?
0258日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/14(金) 11:39:07.68
纏向のことなら平地の真ん中ではないな。
山裾の小高い扇状地の裾というか。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/15(土) 18:37:05.14
>>254
>寺沢氏
の本は何か読んだけど、まったく内容に記憶がないほど、
印象がなかったけど、
「ヤマトには纏向を生むものは何もない」
ならば、
東海の土器が多いから、そこら辺りから来たとかいう、
デンパに近い研究者だったか。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/16(日) 08:21:43.89
東日本住民における顔面平坦度度の地域差と時代変化
http://ir.library.tohoku.ac.jp/re/bitstream/10097/22721/1/M1H160074.pdf 
川久保善智

東北地方や関東地方の集団では縄文時代から古墳時代にかけて平坦さが著明に
増加する変化が認められた。この平坦性の増加は渡来人の遺伝的な影響である
可能性がすでに指摘されているが、本研究においても顔面骨に著しい平坦性が
認められる西日本弥生人と東北地方や関東地方の古墳時代人の類似性が認めら
れた。

その結果、全ての平坦指数において北海道では縄文時代から近世までほとんど
変化がみられなかったが、関東地方や東北地方では縄文時代から古墳時代にか
けて著しく平坦性が増し、その後再び立体的になるという時代変化が認められ
た。東北地方や関東地方において縄文時代から古墳時代にかけてみられた時代
変化は先行研究によって遺伝要因の関与が指摘されているが、古墳時代より後
の時代変化には環境要因も大きく関わっていることが明らかになった。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/16(日) 11:54:18.63
環境要因で顔が立体的になるの?
遺骨が残る身分のサンプリングの違いな気がする。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/16(日) 17:30:03.31
>>260
遺伝子的にも形質的にも
>西日本弥生人と東北地方や関東地方の古墳時代人の類似性
が認められる、ということは、
崇神の四道将軍派遣以降、ヤマト王権がますます
関東、東北(といっても福島、宮城あたりまでだろうが)
及んだことの証左でもある。
文献的(記紀)にも一致する。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/18(火) 15:25:53.51
漢字以前の日本の歴史が曖昧なのは今の国境区分けでは受け止められない
入り乱れた状況があったからかも知れない
0265日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/19(水) 23:30:33.28
以前、>>73
>三国史記の将軍「于道朱君(ウチシュクン)」が武内宿禰で葛那古は葛城襲津彦

って話があったけど、葛那古は5世紀に新羅征伐に半島に渡った蘇我韓子の可能性もなかろうか?

三国史記の時系列や編年があってるかどうかもきちんと検討されていないみたいだし、
新羅の記録や伝承の混乱、創作もありえると思う
0266日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/23(日) 19:53:41.50
>>260
専門家によって言い方が違うんだよな。
「近畿の人間は朝鮮人にそっくりだから遺伝的にも近いに違いない」
とかいう専門家と、この違いはなんなんだろ。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/24(月) 00:02:05.15
>>266
挑戦がらみとか武洛がらみとかになると学者も平気でころころ主張かえるよ
学者ってのは院生から這い上がるまで想像を絶する苦労してて
性格が捻じ曲がってるからな
血みどろでつかみとった地位を絶対捨てなくないと思うし。
0269日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/26(水) 19:08:44.19
どうでもいいことかも知れんが、古代の「ヤマト」は磐余地域ってのが定説
らしいけど、いつから定説になったんだろう?
奈良の人間なんだが、どうも違和感があるんだよなあ。
葛城山の麓の方がふさわしいというか。
両方含んでいたような気もするけどね。
そこに立って周りを見回すと、ここがヤマトタケルの故郷だと実感するんだ。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/29(土) 13:20:32.36
斉藤某が出雲でDNA調査をしたらしいな。
調査はいいけど、結論の導き方がいいかげんなんだよな。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/01(月) 23:44:26.78
>>269
そういう説があるのはもちろん知ってるけど
別に定説になってるような感じもしないと思うけどな…?

元来のヤマトは奈良盆地の南半分なんじゃないの、普通に考えて。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/03(水) 19:22:47.49
>>273
そうか。
たまたまなのかなあ。最近読んだ本に2つもあった。
いつの間に定説になったんだ?と不思議で。

最近南の方へ行くようになって葛城山(含む金剛山)の存在感に圧倒される。
0275日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/05(金) 06:12:05.10
ヤマト王権は最初は磐余を含む奈良盆地南東部、
それから葛城地方などの南西部を収めて、
崇神の時代以前にすでに奈良盆地全体を掌握していたのだろう。
のみならず、奈良盆地に近接する地域も婚姻によって、
勢力圏になっていたのは、妃の名(出身地)でわかる。
河内はもともとが物部氏が大きな勢力を占めていた。、
当初のヤマト王権は奈良盆地南東部を中心に河内をも収めていたから、
ますは南西部の葛城地方を支配下に置くのは、
当然の流れになるだろう。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/05(金) 19:44:08.69
>>232
>ここでいう結婚ってのはあくまで正式な結婚だろ

現代的な意味での「結婚」という概念は当時なかったと思うが
そもそも当時に正室や妾という中国的な概念があったかどうかすら怪しい
通い婚が基本だし
0277日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/05(金) 22:41:22.64
側室がいたんだから正室は7年まって再婚したっておかしくないって言い分に
結婚という概念や正室や妾という概念があったかどうかわからないって返答は答えになってねーだろ
たとえ側室が居ようと7年も待つ必要はないって答えればいいだけだろ
0278日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/06(土) 00:00:45.43
九州の幾何学模様壁画の古墳がまったく話題にならないのはなんでよ。
0279日本@名無史さん
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2014/12/06(土) 00:01:53.98
文献の紀年が正しいか矛盾してるかのはなしをしてるんで、正室側室とか七年とかは本質じゃない。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/06(土) 06:30:33.54
鹿児島県の霧島温泉の近くに、「熊襲の穴」というのがあって、
洞窟の中に装飾古墳みたいな落書きが書いてある観光スポットがある。

装飾古墳って熊襲の文化じゃねえよな、とか思いつつ、
「西の正倉院」とか、観光のために捏造される地方史には辟易させられる。
0282日本@名無史さん
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2014/12/06(土) 21:04:08.36
妃というのはあるが「皇后」という概念があったかどうかは分からんね。
天皇も皇后も、後に作られた用語だし。
中世の天皇の妃だって、出路に応じた身分が付くが、正妃というのは特に
ない時期もある。
天皇家には、正妃と側室という区分けはないよね。
すべてが臣下であり、対等な関係はないんだろ。
唯一、天皇の娘を妃にした時はそれが第一婦人になるが。
0283日本@名無史さん
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2014/12/06(土) 21:08:00.26
>天皇家には、正妃と側室という区分けはないよね。

そんなことはない
0284日本@名無史さん
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2014/12/07(日) 13:10:15.99
>>282
桓武天皇とか源氏物語とか、母の出自と地位が問題にされる例はたくさんあるが。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/08(月) 02:10:04.22
>>282
古い時代になると天皇や皇族の母の名としてしか夫人の名が残らなかったらなのか、後の天皇を生んだ妃を後から皇后だったと呼んでる感がある
0286日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/08(月) 19:52:56.16
成務天皇とか清寧天皇の皇后がいないことになってるのって、
子供がいなかったからその母親たる皇后も名前が伝わらなかったのかもね
0287日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/10(水) 08:20:24.71
>>286
その二人は皇后を娶れる歳以前に亡くなったんじゃないか?
0288日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/10(水) 10:20:57.69
>>282
古代大王家では皇族出身の大后が強い権力を持ち
皇位継承に第一の発言権を持ち夫の死後即位した例も多い
推古天皇、皇極天皇、持統天皇、すべて大后(皇后)出身

藤原道長らが娘の立后にこだわったのも
正后とその他大勢の女御更衣とではまるで妃の待遇も発言力も違ったため

室町時代には天皇家にも公家にも金がなく摂関家も娘の入内に消極的だった
そのために正后が立てられず天皇のお手付き女官が次代天皇を産んでいた

江戸時代、明治時代にも正后とそのほかの側室たちとは全く扱いが違う
0289日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/10(水) 10:25:22.35
>>286>>287
成務天皇は子供いるよ
女子のみだが
母親の名前も記紀に書かれてある
いずれも豪族の娘で皇后は立てられなかったようだ

清寧は41歳まで生きている
生まれつき白髪の虚弱体質でおそらく童貞で生涯を終えられた
0290日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/11(木) 13:02:09.75
うまくは表現出来んが、江戸時代の武家のような、御台所と側室というような
区別はないように見えるね。
将軍家が前田と伊達と黒田から妃を迎えているような感じ。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/11(木) 18:35:36.22
古墳時代のスレなのに、律令国家の制度や平安を引き合いに出すのって変。
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