♪邪馬台国ドンと来い!♪126
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>>275
>硯は文字を書くために使う道具ですから
>北部九州では3世紀には文字が使われ始めていたって証拠ですよ
渡来人でしょうね。 @阿波 >>276
阿波には渡来人も来なかったんだw
邪馬台国論争に加わる資格ないなwww >>276
三雲遺跡だろ。
あれは楽浪帯方使がステイした滞在施設なだけで、定着した痕跡はない。 九州には支石墓も多いし渡来人が亡くなるまでいたんじゃないのか >>278
そもそも楽浪帯方使は倭にステイしただけで定着なんてしてないしw >>279
支石墓から朝鮮土器の出土がない。
つまり、弥生人が朝鮮南部からパクってきただけの墓文化。
>>280
定着してたら、瓦屋根に土壁の楽浪帯方系住居くらい伝わってるでしょ。
漢服も木沓も亀卜も漢字もな。 >>277
>阿波には渡来人も来なかったんだw
中国鏡や中国朱、鍛冶素材など倭国(阿波)に伝来している。
渡来人はぎょうさん来ていたことだろう。 @阿波 >>286
「内行花文鏡 阿南市国高山古墳」
国高山古墳は、阿南市内原町成松字山下21に所在する徳島県南部を代表する中期古墳である。
1982年には徳島考古学研究グループの測量調査により、墳長51m、後円部径約20m、後円部高2.5m、前方部長31m、前方部幅25.5mを測る、2段築成の前方後円墳とされた。
国高山古墳の副葬品:内行花文鏡、長方板皮綴短甲、鉄鏃(鳥舌鏃)、鉄剣、鉄槍、石製鞘入刀子、滑石製勾玉、鋤先、鉄製釣針ほか。
また、国高山古墳で出土した石製鞘入り刀子は、本来は鉄製であった刀子を、滑石や碧玉などの石で模造したもので、埋葬前の殯(モガリ)の場面で使用された祭祀具である。
国高山古墳からは徳島県下唯一の出土例として、8点の石製刀子が出土しており、状態のよい資料6点を展示しますので、ぜひこの機会にご覧下さい。
寺山3号墳を含む寺山古墳群から破片が出土した中国鏡「内行花文鏡」の流入経路についても考察。
「内行花文鏡」は萩原墳丘墓からも出土しており、「阿波枢要地域からもたらされた可能性が高い」とし、県北部の勢力とのつながりが深かったとみている。
舶載画文帯神獣鏡(阿王塚古墳)(宮内庁所蔵の優品)
面径14.0cm、内区欠
銘文
吾乍明竟 幽凍三岡
周亥无示 天王日月
充之序首 天下安平
四方服兮 天王日月
士官大吉 子孫番昌
□□□□ 立至三公
其市命長 天王日月
鳴門市・板野郡(旧板野郡)には,きわめて重要な遺跡群があります.
萩原墳丘墓・・・前方後円墳のルーツ,2号墓で中国鏡の破片・中国の朱,1号墓で画文帯神獣鏡の副葬
阿王塚古墳・・・2面の画文帯神獣鏡の副葬(宮内庁所蔵の優品)
天河別古墳群,西山谷古墳群・・・国内最古級の古墳を含む古墳群
黒谷川郡頭遺跡・・・朱の精製,弥生後期〜終末期の県内最大級の規模の住居遺跡
鳴門市の大代古墳出土の甲冑 @阿波 畿内説だと...
大国主 そんな人はいません、ただの伝説です
アマテラス そんな人はいません、ただの伝説です
ニニギ そんな人はいません、ただの伝説です
木花咲耶姫 そんな人はいません、ただの伝説です
神武 そんな人はいません、ただの伝説です
卑弥呼 そんな人はいません、実は◯◯姫で、王宮は纒向4棟だけです
九州説だと...
大国主 筑紫の前の倭王です
ニニギ 倭国の王都を筑紫伊都に定めた倭王です
木花咲耶姫 三雲南小路遺跡にニニギとともに葬られた王妃です
神武 筑紫を出て大和に入りました
卑弥呼 筑紫の日向の伊都でクジフル山に高千穂宮の楼閣高くして千人の奴婢が使え、太陽を象徴する史上最大の「八咫鏡」を持ち、その墓は伊都国代々の王家と同じ方形周溝墓であり古代神道の成立を示す鳥居に守られていました
どっちを信じる? 鳥居の登場は飛鳥時代以降じゃないか?
最初の鳥居は二本の柱に縄が架け渡されたものだったそうだが、
いずれにしても鳥居を象った埴輪がないからねえ。 >>292
>
>いずれにしても鳥居を象った埴輪がないからねえ。
畿内は祭祀の中心から外れた田舎だから。
出雲や筑紫の沖ノ島などが大事だから。 >>294
ん??
じゃあ、出雲や筑紫では鳥居の埴輪が出てるんですか? そもそも大型古墳を弥生時代に作らないし、当然埴輪もない。
魏志倭人伝にも埴輪なんて出てこない。
ただし平原遺跡に鳥居の痕跡はある。 >>296
ん??
埴輪は古墳時代の文物ですよ。
平原遺跡の痕跡が本当に鳥居なら、何で古墳期に鳥居の埴輪が一切ないんですか? 中抜けを埋めていくのが大事なのに理解できないバカがいる 三国志東夷伝韓条に、家屋が塚の如しって書かれてるから、
北部九州の王墓が丁度同じ。円型も方型もOK。 約十数メートルですね。
平原遺跡の大きさにぴったり。 自分たちに都合がいい単位を捏造するのは九州説のデフォなのか 三国志東夷伝は東夷伝里で統一されている、
という現実を直視するんだ。 一番現実が見えていない八咫バカがいうとギャグだなw >>310
頭大丈夫?
三国志東夷伝は東夷伝里で統一されている、
という「現実」を直視するんだ。 そう思い込んでいることが、既に現実が見えていない証左 三国志東夷伝韓条に、家屋が塚の如しって書かれてるから、
北部九州の王墓が丁度同じ。円型も方型もOK。 漢文読めないことをそんなにひけらかさなくてもみんな知ってるよ >>313
>三国志東夷伝韓条に、家屋が塚の如しって書かれてるから、
>北部九州の王墓が丁度同じ。円型も方型もOK。
こんなところにも、バカコピペを貼っているのかw
原文はこれだな
「居處、作草屋土室、形如冢。其戶、在上。」
居処、草屋、土室を作る 形は冢の如し。 その戸、上にあり。
塚というのは土を盛ったものだ
そして、家が塚、じゃなくて家の「形が塚の如し」だ
大きさを言っている訳じゃないぞ
同じ三国志に「冢足容棺」というっていうのもあるぞ
冢は棺を容るるに足る
三國志卷三十五/蜀書五/諸葛亮傳第五
冢足容棺が、冢の大きさを表しているなら、韓条の住人の家は
めちゃくちゃ小さいな
本当に、原文の漢文を読まずに、漢文が読めずに、コメントしているのも
九州説あるあるだよな だって竪穴住居の時代でしょ?
実際にそれくらいの大きさだよ。 九州説の言い分はだいたいわかった。
じゃあ、畿内説だと、八咫鏡ってのは何世紀に作られたどの鏡なの? 畿内説は何も説明できない。
時間猶予を与えたのにレスがない。 帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、魏の里が使われていなかったことは明白。 「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
「こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的 基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテー マを追い始めた1976 年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。」
寺沢氏は、纒向を邪馬台国のみならずヤマト王権と直結するものだということにすら疑問を呈しているではないか。
つまりは、畿内拙論者が纒向学を理解せずに歪曲して都合のいい部分だけ曲解して畿内説をでっち上げるために利用しているだけだということがわかった。
纒向学というタイトルには、邪馬台国畿内説との決別の思いが込められているのだろう。
「(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。」
大和が筑紫による征服の対象であったこと、それが大和における農業共同体の再編と階級支配の成立につながったことを示唆している。
これにて畿内説は完全に終了だが、纒向学は、大和が邪馬台国ではなかったことを前提に進んでいくだろう。
それは、卑弥呼より数百年の後に奈良盆地が権力の中枢となる過程を明らかにするだろう。 >>324
単純に歴史の連続性から考えて畿内=大和だよ
馬鹿なの? それは後世の話だし、世の中はそれほど単純ではない。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
7KF こんな古いニセスレまで使ってるのか?
九州説はとことん腐ってるな! >>323とか>>324とか、他のスレで既にバカにされたものを転記している 本当に九州説には、根本から腐ってるやつしかいないのか? あ、また間違えたw
× くまもん信者
○ くまモン論者 >>335
>もともと邪馬台国関連の総合スレだそうだが?
それは別にちゃんと進行してるんだよ
>>332にURLが書いてあるのが、その本当の総合スレ
ここはニセスレ何だよ これまで、私が書いた内容の一部は畿内説のテンプレに採用されてるけどね 九州説がよく言うことに、いちいち返答を作るのが面倒くさいから、
前に書いたのをコピペしとけばいいやと思ってさ 捏造、改竄、詭弁で正しいと言い張っても無意味
例
・短里とかいう架空の単位を捏造
・1里あたりの距離は区間によってバラバラであるにもかかわらず、短里とやらがすべてに当てはまると強弁
・末慮国から伊都国への方角違いを呼子を起点にして正しいとする意味不明な詭弁
・末慮国から伊都国への距離も末慮国の入り口から伊都国の入り口までの距離だという珍解釈
(そんな珍解釈をすると往路と復路で距離が異なってしまう矛盾があることに気づかない低脳ぶり)
・国の中に別の国があるという二重帳簿詐欺
・陸行一月を陸行一日に改竄 ~鏡座事
一面者。從月天顯現之明鏡。
圓形座。三光天衆五飛龍守護~五座。是天鏡尊之鑄造白銅寶鏡也。
月天所作三面之内也。
崇祭止由氣宮是也。
大田命曰久。崇~天皇御宇止由氣皇太~天降坐弖。天照皇太~與一處雙坐。
于時從天上御隨身之寶鏡是也。~代天御中主~所授白銅鏡也。
是國常立尊所化~天鏡尊。月殿居所鑄造之鏡也。三才三面之内。一面是也。
今二面者。天鏡尊子天萬尊傳持給是。次沫蕩尊。次伊弉諾伊弉冉傳持給天。
~賀吉詞白賜弖。日~月~所化乃眞經津鏡是也。天地開闢之明鏡也。
三才所顯之寶鏡也。當受之以清浄。面求之以~心。視之以無相無位。
因以爲~明之正躰也。今崇祭一面荒祭宮御靈。一面多賀宮御靈坐。
已上三面辭竟奉支。
一面者。八百萬~等以石凝姥~奉鑄寶鏡是也。是則崇祭伊勢太~宮也
一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。
中䑓圓鏡形座也。圓外日天八座。
一面者。日前宮座也。石凝姥~鑄造鏡也。初度所鑄不合諸~意。紀伊國日前~是也。
已上。~代寶鏡是也。 >>343
>古墳から出土した大型鏡としては、
バイアスがかかっており、すべて卑弥呼より後の古墳時代のものであり、ナンセンス。 平原を卑弥呼と同時代とするのもバイアスかけてる主張 >>345
平原遺跡から出土した耳璫の年代は魏晋代とされている。 >>347
ガラス製品の技術史的視点からは6世紀のものと似てる >>347
周溝の土坑墓から鉄製品が出てて、その編年からすると
平原1号墓は今言われている推定年代よりも古くなる 副葬品の方が信頼できるでしょ。
そもそもまだ畿内には鉄が確認されていなかった時代でしょ?
九州だけの鉄の編年は確定しているの? >>348
魏の頃にはすでに類似の製品が副葬されている。
だから古く取れば3世紀でも良い。
ただ、2世紀ではない。 >>350
周溝が埋まるほどの時間が経ってから作られた土坑墓に、
3世紀始め頃の遺物があるんだが? >>353
>コンタミ
土坑墓から出ている
まあ、粗末な墓だけれど、墓に埋納されたものなのは間違いないだろう そして、周溝が埋まるくらいの年月で、平原1号墓の被葬者への敬意は
その地から失われたようだよ
周溝の土坑墓、という言い方をしているけれど、周溝内の墳丘にも
土坑墓が掘られている 卑弥呼の墓でない理由にはならないな。
もはや平原遺跡で確定だろ。 根拠なく断定しても説得力皆無だと気がつかない伊都クズ脳 >>355
畿内説は根拠ない中傷が好きだよな。
でもそれで世間の畿内説への支持が高くなるわけじゃないぞ。 >>358
嘘スレ、偽スレ立てに、連投荒らしは九州説論者の悪評を大いに広めてるぞ >>356
>卑弥呼の墓でない理由にはならないな。
この言葉を書くにも何度目だろう?
逆なんだよ!
卑弥呼の墓とするのに十分な理由がない
割るための仿世鏡がたくさん出るだけのありふれた方形周溝墓の
どこが卑弥呼の墓なのかってこと 史上最大の銅鏡を何枚も副葬された、倭国大乱後の女王墓だからね。
お前さんの感覚の方がおかしいよ。 >>361
>史上最大の銅鏡を何枚も副葬された
これしか頼るものがないんだろ?
でも、最大といっても、似たような大きさの鏡はよそにもあるし、
よその大きな鏡と比べると、平原1号墓出土の大鏡は鏡面の文様が簡易版としか言えない
>>343で、上位九位までの鏡が全部見られるようにリンクをつけてあるから、
きちんと見てごらん
他の鏡は半肉彫りの見事な細工のものや、内行花文鏡でも平面部分にびっしり
文様が掘り込んであるだろ?
ただの同心円で面積をとってごまかしている平原1号墓出土鏡は、大きいだけの
手抜き鏡だよ
何枚もある、というけれど、半肉彫りの鼉龍鏡などは、一つの鋳型で1枚しか作れない
5枚も同笵鏡がある時点で、いくらでも作れる手抜き鏡ってことだよ >>362
文様はシンプルイズベスト、最も洗練されていると言える。
技術的には最高レベルだよ。
一枚しか作れない技術の方が上だとでも?
平原遺跡憎しでくだらないことを書くと、畿内説の品性が疑われるよ。 自分の主観が学問の根拠になりうると思ってると、知能を疑われる >>363
>文様はシンプルイズベスト、最も洗練されていると言える。
>技術的には最高レベルだよ。
ものしらずは無邪気でいいね
半肉彫りの「鼉龍鏡」や、「神獣鏡」の方が技術的には上
さらに青銅器を大きく作る技術なら、
2世紀時点で銅鐸は1メートル以上のものを作っている
単に丸い大きな銅の円盤を作ったってのを、えらそうにしてもしょうがないだろう
他の地域に何の影響も与えていないガラパゴス化した大鏡にすがるしかないのも大変だな 畿内の銅鐸文化は、九州北部の銅鏡銅矛文化に塗りつぶされ、銅鐸は放棄された。 >>366
>畿内の銅鐸文化は、九州北部の銅鏡銅矛文化に塗りつぶされ、銅鐸は放棄された。
それ、時系列がおかしいからww
銅鐸の放棄は、畿内第V様式に入る直前
その時点で、大和+河内〜環大阪湾が一つの勢力としてまとまっている
そして、出雲で加茂岩倉の銅鐸大量埋納と神庭荒神谷の銅剣他大量埋納も
ほぼ同じころ、
その後、巨大墳墓祭祀へと移行する
北部九州は、巨大墳墓祭祀=首長の地位の上昇に取り残されてる地域なんだよ >>366
「半肉彫りの「鼉龍鏡」や、「神獣鏡」の方が技術的には上」には
反論しないんだねww >>367
>その後、巨大墳墓祭祀へと移行する
ここにタイムラグがあるだろ。
筑紫からの勢力が西日本を席捲して、そこから内行花文鏡を副葬される前方後円墳の文化が生まれた。
平原女王と少なくとも同根なんだ。
でも少し違う枝だよね。
卑弥呼の即位直前に神武が筑紫を出て大和に向かい、瀬戸内の文化を吸収しながら大和にたどり着くと、出発地をぼかしてしまえば畿内説の骨格になるだろ? >>368
三角縁神獣鏡は技術的に質の低い鏡が多いと認識しているが?
文様がいい加減だったりボケていたり。
低品質のコピー品が多いからだろうけど。 >>370
現物見たら、そんな感想持たれてるのはごく一部だと気がつくよ >>369
>ここにタイムラグがあるだろ。
吉備や出雲は、巨大墳墓を2〜3世代回してるよ
青銅器祭祀が廃されてからの時間としてはちょうどだろう >>370
>三角縁神獣鏡は技術的に質の低い鏡が多いと認識しているが?
三角縁神獣鏡は、ピンキリなんだよ
優品のものは、それは見事な大鏡だよ
まあ、粗製大量生産のものの方が、数としてはずっと多いけれど >>374
古墳時代のものしか持ち出せないキナイコシが哀れだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています