♪邪馬台国ドンと来い!♪126
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九州説の言い分はだいたいわかった。
じゃあ、畿内説だと、八咫鏡ってのは何世紀に作られたどの鏡なの? 畿内説は何も説明できない。
時間猶予を与えたのにレスがない。 帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、魏の里が使われていなかったことは明白。 「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
「こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的 基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテー マを追い始めた1976 年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。」
寺沢氏は、纒向を邪馬台国のみならずヤマト王権と直結するものだということにすら疑問を呈しているではないか。
つまりは、畿内拙論者が纒向学を理解せずに歪曲して都合のいい部分だけ曲解して畿内説をでっち上げるために利用しているだけだということがわかった。
纒向学というタイトルには、邪馬台国畿内説との決別の思いが込められているのだろう。
「(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。」
大和が筑紫による征服の対象であったこと、それが大和における農業共同体の再編と階級支配の成立につながったことを示唆している。
これにて畿内説は完全に終了だが、纒向学は、大和が邪馬台国ではなかったことを前提に進んでいくだろう。
それは、卑弥呼より数百年の後に奈良盆地が権力の中枢となる過程を明らかにするだろう。 >>324
単純に歴史の連続性から考えて畿内=大和だよ
馬鹿なの? それは後世の話だし、世の中はそれほど単純ではない。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
7KF こんな古いニセスレまで使ってるのか?
九州説はとことん腐ってるな! >>323とか>>324とか、他のスレで既にバカにされたものを転記している 本当に九州説には、根本から腐ってるやつしかいないのか? あ、また間違えたw
× くまもん信者
○ くまモン論者 >>335
>もともと邪馬台国関連の総合スレだそうだが?
それは別にちゃんと進行してるんだよ
>>332にURLが書いてあるのが、その本当の総合スレ
ここはニセスレ何だよ これまで、私が書いた内容の一部は畿内説のテンプレに採用されてるけどね 九州説がよく言うことに、いちいち返答を作るのが面倒くさいから、
前に書いたのをコピペしとけばいいやと思ってさ 捏造、改竄、詭弁で正しいと言い張っても無意味
例
・短里とかいう架空の単位を捏造
・1里あたりの距離は区間によってバラバラであるにもかかわらず、短里とやらがすべてに当てはまると強弁
・末慮国から伊都国への方角違いを呼子を起点にして正しいとする意味不明な詭弁
・末慮国から伊都国への距離も末慮国の入り口から伊都国の入り口までの距離だという珍解釈
(そんな珍解釈をすると往路と復路で距離が異なってしまう矛盾があることに気づかない低脳ぶり)
・国の中に別の国があるという二重帳簿詐欺
・陸行一月を陸行一日に改竄 ~鏡座事
一面者。從月天顯現之明鏡。
圓形座。三光天衆五飛龍守護~五座。是天鏡尊之鑄造白銅寶鏡也。
月天所作三面之内也。
崇祭止由氣宮是也。
大田命曰久。崇~天皇御宇止由氣皇太~天降坐弖。天照皇太~與一處雙坐。
于時從天上御隨身之寶鏡是也。~代天御中主~所授白銅鏡也。
是國常立尊所化~天鏡尊。月殿居所鑄造之鏡也。三才三面之内。一面是也。
今二面者。天鏡尊子天萬尊傳持給是。次沫蕩尊。次伊弉諾伊弉冉傳持給天。
~賀吉詞白賜弖。日~月~所化乃眞經津鏡是也。天地開闢之明鏡也。
三才所顯之寶鏡也。當受之以清浄。面求之以~心。視之以無相無位。
因以爲~明之正躰也。今崇祭一面荒祭宮御靈。一面多賀宮御靈坐。
已上三面辭竟奉支。
一面者。八百萬~等以石凝姥~奉鑄寶鏡是也。是則崇祭伊勢太~宮也
一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。
中䑓圓鏡形座也。圓外日天八座。
一面者。日前宮座也。石凝姥~鑄造鏡也。初度所鑄不合諸~意。紀伊國日前~是也。
已上。~代寶鏡是也。 >>343
>古墳から出土した大型鏡としては、
バイアスがかかっており、すべて卑弥呼より後の古墳時代のものであり、ナンセンス。 平原を卑弥呼と同時代とするのもバイアスかけてる主張 >>345
平原遺跡から出土した耳璫の年代は魏晋代とされている。 >>347
ガラス製品の技術史的視点からは6世紀のものと似てる >>347
周溝の土坑墓から鉄製品が出てて、その編年からすると
平原1号墓は今言われている推定年代よりも古くなる 副葬品の方が信頼できるでしょ。
そもそもまだ畿内には鉄が確認されていなかった時代でしょ?
九州だけの鉄の編年は確定しているの? >>348
魏の頃にはすでに類似の製品が副葬されている。
だから古く取れば3世紀でも良い。
ただ、2世紀ではない。 >>350
周溝が埋まるほどの時間が経ってから作られた土坑墓に、
3世紀始め頃の遺物があるんだが? >>353
>コンタミ
土坑墓から出ている
まあ、粗末な墓だけれど、墓に埋納されたものなのは間違いないだろう そして、周溝が埋まるくらいの年月で、平原1号墓の被葬者への敬意は
その地から失われたようだよ
周溝の土坑墓、という言い方をしているけれど、周溝内の墳丘にも
土坑墓が掘られている 卑弥呼の墓でない理由にはならないな。
もはや平原遺跡で確定だろ。 根拠なく断定しても説得力皆無だと気がつかない伊都クズ脳 >>355
畿内説は根拠ない中傷が好きだよな。
でもそれで世間の畿内説への支持が高くなるわけじゃないぞ。 >>358
嘘スレ、偽スレ立てに、連投荒らしは九州説論者の悪評を大いに広めてるぞ >>356
>卑弥呼の墓でない理由にはならないな。
この言葉を書くにも何度目だろう?
逆なんだよ!
卑弥呼の墓とするのに十分な理由がない
割るための仿世鏡がたくさん出るだけのありふれた方形周溝墓の
どこが卑弥呼の墓なのかってこと 史上最大の銅鏡を何枚も副葬された、倭国大乱後の女王墓だからね。
お前さんの感覚の方がおかしいよ。 >>361
>史上最大の銅鏡を何枚も副葬された
これしか頼るものがないんだろ?
でも、最大といっても、似たような大きさの鏡はよそにもあるし、
よその大きな鏡と比べると、平原1号墓出土の大鏡は鏡面の文様が簡易版としか言えない
>>343で、上位九位までの鏡が全部見られるようにリンクをつけてあるから、
きちんと見てごらん
他の鏡は半肉彫りの見事な細工のものや、内行花文鏡でも平面部分にびっしり
文様が掘り込んであるだろ?
ただの同心円で面積をとってごまかしている平原1号墓出土鏡は、大きいだけの
手抜き鏡だよ
何枚もある、というけれど、半肉彫りの鼉龍鏡などは、一つの鋳型で1枚しか作れない
5枚も同笵鏡がある時点で、いくらでも作れる手抜き鏡ってことだよ >>362
文様はシンプルイズベスト、最も洗練されていると言える。
技術的には最高レベルだよ。
一枚しか作れない技術の方が上だとでも?
平原遺跡憎しでくだらないことを書くと、畿内説の品性が疑われるよ。 自分の主観が学問の根拠になりうると思ってると、知能を疑われる >>363
>文様はシンプルイズベスト、最も洗練されていると言える。
>技術的には最高レベルだよ。
ものしらずは無邪気でいいね
半肉彫りの「鼉龍鏡」や、「神獣鏡」の方が技術的には上
さらに青銅器を大きく作る技術なら、
2世紀時点で銅鐸は1メートル以上のものを作っている
単に丸い大きな銅の円盤を作ったってのを、えらそうにしてもしょうがないだろう
他の地域に何の影響も与えていないガラパゴス化した大鏡にすがるしかないのも大変だな 畿内の銅鐸文化は、九州北部の銅鏡銅矛文化に塗りつぶされ、銅鐸は放棄された。 >>366
>畿内の銅鐸文化は、九州北部の銅鏡銅矛文化に塗りつぶされ、銅鐸は放棄された。
それ、時系列がおかしいからww
銅鐸の放棄は、畿内第V様式に入る直前
その時点で、大和+河内〜環大阪湾が一つの勢力としてまとまっている
そして、出雲で加茂岩倉の銅鐸大量埋納と神庭荒神谷の銅剣他大量埋納も
ほぼ同じころ、
その後、巨大墳墓祭祀へと移行する
北部九州は、巨大墳墓祭祀=首長の地位の上昇に取り残されてる地域なんだよ >>366
「半肉彫りの「鼉龍鏡」や、「神獣鏡」の方が技術的には上」には
反論しないんだねww >>367
>その後、巨大墳墓祭祀へと移行する
ここにタイムラグがあるだろ。
筑紫からの勢力が西日本を席捲して、そこから内行花文鏡を副葬される前方後円墳の文化が生まれた。
平原女王と少なくとも同根なんだ。
でも少し違う枝だよね。
卑弥呼の即位直前に神武が筑紫を出て大和に向かい、瀬戸内の文化を吸収しながら大和にたどり着くと、出発地をぼかしてしまえば畿内説の骨格になるだろ? >>368
三角縁神獣鏡は技術的に質の低い鏡が多いと認識しているが?
文様がいい加減だったりボケていたり。
低品質のコピー品が多いからだろうけど。 >>370
現物見たら、そんな感想持たれてるのはごく一部だと気がつくよ >>369
>ここにタイムラグがあるだろ。
吉備や出雲は、巨大墳墓を2〜3世代回してるよ
青銅器祭祀が廃されてからの時間としてはちょうどだろう >>370
>三角縁神獣鏡は技術的に質の低い鏡が多いと認識しているが?
三角縁神獣鏡は、ピンキリなんだよ
優品のものは、それは見事な大鏡だよ
まあ、粗製大量生産のものの方が、数としてはずっと多いけれど >>374
古墳時代のものしか持ち出せないキナイコシが哀れだ。 >>375
本当にバカなんだな
>>374は、>>369の「そこから内行花文鏡を副葬される前方後円墳の文化が生まれた」に
対する返信なのだから、古墳時代のことを示すのが当然だろうに 現代の祭の画像を見て、弥生から受け継がれてる!
などと主張する時代オンチが実在するらしい 今夜もキナイコシによる日本の伝統行事への攻撃が始まりました。 今夜も伊都クズが歴史音痴、学問無知っぷりを晒します 別起源のものを、矛という文字が同じだというだけで、
弥生以来の北部九州の伝統祭器がーとか言っちゃう歴史音痴がいるらしいな >>383
>敗者は引っ込め
敗者の九州説が書き込みしても構わんよ?
ただ、論理的な受け答えができない人は、単に迷惑だがな
あと、荒らすことしかできない人とか
九州説は、そんなのしかいないけどさ 起源が同じって主張の方が何ら実証出来ておらず
学問的には妄想と判断されるな 同じ形、同じ名称で、それが違うと言うなら、違うと言う方が証明してくださいよ。 何百年と時間が空いているものを同一起源と主張するのなら
時間的に連続しているものだということを実例で示さないと 古墳時代、飛鳥時代、奈良時代の祭祀用矛の実例を示してよ >>387
>同じ名称
弥生時代の遺物を「矛」と名付けたのは江戸時代の学者なのだがwww
バカにも程があるwww 弥生時代の矛は中国から伝わった矛そのものでしょう。 >>391
順番としては
1 後世に何らかの機会に銅矛が見つかる
2 その時代、あるいは後世の学者が考証する
3 彼らの知る「矛」に似ていると気がつく
4 「矛」と名付けられるだから、弥生時代に「矛」ないしは「ホコ」と呼ばれてたかどうかなんて分かりゃしないよな 日本の伝統文化をdisりはじめたよ。
そうまでしなければいけない畿内説って何なんだろうね。 >>392
弥生時代の銅矛の祖形は朝鮮半島のものだよ 論理的な実証ができなくて「伝統文化」とかw
日本の文化では嘘をつくことは恥ずべき行為ですよw 弥生時代と平安時代の矛が連続していないという根拠は?
中国の矛と日本の矛が違うという根拠は?
矛が半島起源だという根拠は? >>399
でたなwお得意の曲解w
直接には朝鮮半島から伝わっているのだから
その時点で中国での呼び方がそのままかどうかわからない
って指摘なんだよ
弥生時代の平行時期に朝鮮半島でも矛と表記されてた証拠でも探したら? >>401
そんなにバカだとアピールしなくても
周囲には伝わってるから >>401
連続してると言い出したのはお前
はやく実例を挙げろよ それが歴史学的に通用すると思ってるの?
思ってるのだとしたら、ご愁傷さまw
あなたの主張が歴史学で認められることは永久にないからw >>405
それを論証するのが研究だよ
結論連呼するだけなら自己崇拝の宗教 時間差を無視して
名前だけにこだわるのって
八咫バカと同じ芸風だね 九州北部は中国の影響下そのままで、銅矛も銅鏡も中国のものがずっと使われて、中国語で矛と鏡と表記されているのに、それを否定とか、わけわからん。 その矛を使った祭祀が弥生時代から平安時代まで続いてるというから
証拠を示せと言っているのに一向に証拠を提示せずに結論連呼とか
マジで頭の構造がワケわからん じゃあ、魏志倭人伝の倭国と日本が連続していなくてもいいよね。 >>391
>弥生時代の遺物を「矛」と名付けたのは江戸時代の学者なのだがwww
どこの誰? 百科事典マイペディアの解説
矛【ほこ】
鉾とも書く。金属製の両刃の利器に長い柄を付けた刺突用の武器。日本では弥生(やよい)時代から鎌倉初期まで用いられた。 >>415
弥生時代は祭祀じゃないだろ。
勝手に歪曲するな。 >>419
論点は平安時代の矛を用いた祭祀が弥生時代から連続してるかってところだから
矛と呼ばれる武器の存在自体は論点じゃないよ 春日大社の神宝「鹿島立御鉾」は、奈良時代初期の創建の際に鹿島神宮から遷されたものだそうだ。 >>423
逃げに入ったか。
弥生時代と平安時代の矛が連続していないという根拠は?
中国の矛と日本の矛が違うという根拠は?
矛が半島起源だという根拠は? >>391
>弥生時代の遺物を「矛」と名付けたのは江戸時代の学者なのだがwww
どこの誰? >>425
半島起源など誰も主張してないぞ
日本語の読解力に難があるな 矛バカが鼻息荒く提示したサイト
http://www.kyobunka.or.jp/gaiyou/ken.html
>剣鉾は,祭礼の神輿渡御(みこしとぎょ)の先導を務め,悪霊を鎮め
>る祭具です。剣鉾の原型は,古代の武器であった銅剣,銅矛などに結び
>つける説もありますが,定かではありません。
>古代の武器であった銅剣,銅矛などに結びつける説もありますが,定かではありません。
実は自爆でしたとさwww >>402
>弥生時代の平行時期に朝鮮半島でも矛と表記されてた証拠でも探したら?
お前が半島と言い出したんだろ。 >>397
>>>392
>弥生時代の銅矛の祖形は朝鮮半島のものだよ 祖形と起源の違いがわからない低能です
弥生時代から平安時代まで「九州の矛からの進化をたどることができる」といいながら
その過程をまったく提示できない嘘つきです 牛頭天王の信仰が入ってきたときに、その武具が日本になかったので、それまでにあった矛の文化と結びついた。
そのため、日本では牛頭天王の祭りで祭器として矛を用いる。 >>434
>それまでにあった矛の文化と結びついた。
はい、ここがウソ
論証抜きで言い張ってもだめだよ
牛頭天王を祭る寺社で、矛をご神体や祭器にしているところはないと思うよ
少なくとも、普通にググっても出てこない
つまり、それは一般的なことではまったくないってことだ
さあ、論証できるなら、がんばって論証してみてくれ 八坂神社では不満なのか?
畿内を代表する大社なのだが。 歴史の長い神社なので、ほとんどの神宝は後世のものだが、神宝には矛も含まれている。
そもそも祇園祭が矛を祭ることから始まったことも忘れてはいけない。 繰り返しになるが、奈良を代表する春日大社も、神宝は矛だ。 大阪の住吉神社も調べたら、もともとは神代草薙剣があり、熱田神宮に移されたとのこと。
こちらは明確に、古墳時代より前(弥生時代)の剣として祭っていたわけで、神社に武具を祭るのは珍しくないようだ。
また、弥生時代と平安時代などは文化的に断絶があるわけではないこともわかる。 ・神社の主張を無批判に採用しているところ
・さらにその主張を無検証で弥生時代のことだと断じていること
・仮に弥生時代のことだとしても古墳、飛鳥、奈良をすっ飛ばしているところ
いずれも歴史を研究するという自覚があるなら無視できない事項 神武より前の時代を神代と呼ぶが、神武が卑弥呼の時代なら、神代とは弥生時代になる。
それは筑紫の王国が全国に稲作を含む弥生文化を広めていった時代だ。 >>443
>・神社の主張を無批判に採用しているところ
史料を無視する理由にはならない。
畿内説は文献を無視し過ぎ。
それでは古代史の政治は捉えられない。
>・さらにその主張を無検証で弥生時代のことだと断じていること
神武より前なら弥生時代だろう。
あなたの考えでは、神代は何年代?
>・仮に弥生時代のことだとしても古墳、飛鳥、奈良をすっ飛ばしているところ
その間の記録がそこになければしょうがないだろう。
お前さんみたいなのが、歴史を消して歩いているんじゃないか? >>446
>神武より前なら弥生時代だろう。
>あなたの考えでは、神代は何年代?
横からだけれど、神武は卑弥呼より5世代程度前だよ >>446
・史料批判って知ってる?
・神代は神代 年代なんてあてはめない
・物証を示すのが科学的な態度
非科学的非歴史学的態度に終始してるねw >>446
史料を鵜呑みにするなら神武はBC660年即位
ちょっと前の年代観なら縄文時代
最近のAMSなら弥生時代前期
弥生前期であったとしても青銅器は広まってない
輸入品がちょろっとある程度
世代的にはそれよりさらに遡る訳で だからこそ、史料批判で実年代に較正しないとね。
イザナギが博多湾で矛をゴロゴロしていたのなら、九州に銅矛文化が上陸してからの話と考えられる。 応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。
平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。
・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年
・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年
・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、
「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。
11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。
神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。 伊都クズにとっては学問的に適切であるかどうかなど関係ない
ただただ自分に都合がいい結論を連呼したいだけ 複数スレをageて順繰りに書き込んでるけど旗色悪いとageないらしい 漢文読めずに珍読を連発
考古学の成果を知らずに珍説を多数
歴史学の方法論を理解できずに珍論に固執
まるで珍獣 伊都クズ
連続句読点
「キナイコシ」
八咫バカ
矛バカ
珍獣
いろいろあるなw >>457
あなたのいう「学問」は、自分に都合のいい妄想による砂上の楼閣 しばらく前に、楼閣を楼蘭って書いてる人がいたけど、
どんな入力をしたらそんな間違いになるんだろう >>462
>自分に都合のいい妄想による砂上の楼閣
伊都クズの主張のことですね
激しく同意します >>462
マジレスしといてやると
伊都クズを批判してる側ってことは
歴史学の方法論通りあやしい史料には依拠しないということので
その上に妄想の楼閣なんか建つはずがない
論理的思考を訓練した方がいいぞ >>466
>怪しくない史料って何?
怪しいか怪しくないかは、0or1じゃないのは分かるよな?
いや、分かってたらそんな疑問は持たないかw
きちんと史料の限界を意識しながら、考古遺物等で裏付け、クロスチェックをして
信頼に足ると判断できる部分を精査しながら読む文献が怪しくない史料だよ
史料の限界を無視して魏志倭人伝原理主義的な読み方をしてたら、それはもう
怪しい史料だけれどw 怪しくない史料なんてない
だから最初に史料批判を行う必要がある 伊都クズが歴史学オンチの妄想チェリーピッカーだということを満天下に知らしめる良スレ 研究者でもなければ怪しいと判断することはあっても
怪しくないと決める必要がある機会なんてないと思うが ハイキングでたとえると
・この先は危なそうだから進むのは止めておこう
→一般人でもあり得る判断
・この先が本当に危ないのかあるいはルートとして使えるのか確認しよう
→一般人はまずしない判断 トンデモさんは、
地図もみないで「俺様が迷うはずがない」ないと自分を過信したあげく
あらぬ方向につき進んで別の山に登ってるのにまったく気が付いていない
ってところかなw 九州説がよく使うダメ論理
邪馬台国は魏志倭人伝にしか書いてないんだから、
魏志倭人伝を正しいとするのは絶対の前提
魏志倭人伝は正しいのだから、伊都国は末盧国の東南五百里でなければならない
末慮国は呼子
こんなやつw ありとあらゆる史料が畿内説を否定しているからね。
全てを史料批判の名の下に黒塗りしないといけないね。 >>477
>ありとあらゆる史料が畿内説を否定しているからね。
だったら、一つでも二つでも「具体的に」示してくれよ
どうしてそんな簡単なことができないんだい? >>476
>魏志倭人伝を正しいとするのは絶対の前提
邪馬台国論争は魏志倭人伝に記載内容を議論してるんだから
小さな誤記はあったとしても基本的に魏志倭人伝の記述内容は正しいとして議論しないと話にならないよ
大前提を否定したら議論にならなし何の結論も出ない。 >>476
神々や日本人の総歴史を著したといわれる古事記や日本書記に
邪馬台国や倭国群そして卑弥呼の記述が全く書かれていないのが原因でしょ
今や古事記や日本書記の信頼性信憑性に疑いを持つ人達が増えつずけてるけど >>481
>今や古事記や日本書記の信頼性信憑性に疑いを持つ人達が増えつずけてるけど
そりゃ、信頼性信憑性に疑いを持つのは当たり前。
だって、記紀は倭国(阿波)国内で起こったことを書いているんだから。 @阿波 >>481
記紀は神武以降は基本的に畿内の歴史書となっている。
だからこそ、邪馬台国は畿内ではなく九州だと考える根拠でもある。 >>480
>小さな誤記はあったとしても基本的に魏志倭人伝の記述内容は正しいとして議論しないと話にならないよ
その線引きがおかしすぎるって言うんだよ
しかも恣意的
末盧国が呼子とか言い出すのはいい加減にしろや >>484
魏志倭人伝の骨子を無視するなら、君は邪馬台国を論じなくて良いよ。 >>484
>末盧国が呼子とか言い出すのはいい加減にしろや
そうだね。 末盧国は世界文化遺産の福津・宗像方面だね。 @阿波 >>483
>神武以降は基本的に畿内の歴史書となっている。
神武の時点で、卑弥呼より前なんだから、卑弥呼の時代も畿内の歴史でいいんじゃないの それなのに卑弥呼が記紀に登場しないから、そもそも畿内の人物ではないのだろうという話。 >>484
原文を尊重してるだけです
原文を無視して恣意的に解釈してるのは君だ。 >>484
ちなみに末盧国を呼子とは言ってない
末盧国は現在の唐津市など東松浦半島付近の国邑で
魏使が末盧国に付いた場所が呼子付近。 >>490
>ちなみに末盧国を呼子とは言ってない
そうだね。 末盧国は世界文化遺産の福津・宗像方面だね。 @阿波 >>488
>それなのに卑弥呼が記紀に登場しないから、そもそも畿内の人物ではないのだろうという話。
いや、倭迹迹日百襲姫命という名前で記録されてるよ
崇神天皇代の、ヒメ王で祭祀王として描かれているし、その死が特別なもので
大いに墓を作ったことも記されている >>489
>原文を尊重してるだけです
>原文を無視して恣意的に解釈してるのは君だ。
>>490
>ちなみに末盧国を呼子とは言ってない
>末盧国は現在の唐津市など東松浦半島付近の国邑で
>魏使が末盧国に付いた場所が呼子付近。
呼子では、末盧国に着いたことにはならないし、呼子でも伊都国へは東南陸行にはならない
それでも間違ってないって強弁するから、おかしいって言われるんだよ 呼子は末盧国の北端で壱岐に一番近いから最短の航路を採って呼子に着いたんだよ
呼子は末盧国の一部だから末盧国に着いたことにる
呼子からほぼ南下し唐津市中心で方向をほぼ東に変えて進んだから伊都国へは東南陸行と記したんだよ。 末盧国に至る行程に方角がないだよね。
普通に考えたら南下だから松浦と考えがちだけど、次の陸路の行程考えると上陸地点は宗像しかないわな。 伊都国東遷スレ 9
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1532907357/
614日本@名無史さん2018/08/06(月) 22:38:58.11
祇園祭の山鉾はめちゃくちゃ大きいぞ。
でもちゃんと九州の矛からの進化をたどることができる。
↑
たどることができるといいながら、結局その過程を明示することはありませんでした
つまり、大嘘つき なぜ日本の歴史をそんなに分断・抹消しようとするの? >>495
>呼子は末盧国の北端で壱岐に一番近いから最短の航路を採って呼子に着いたんだよ
既にここから事実誤認がある、というか歴史が分かってない
この時期まだ領邦国家段階にはないから、面積を持った国とか
領土の範囲とかいう近代〜現代の概念で国を捉えるには間違い
中心となる集落と、そこと直接水管理などで関わる範囲が国だよ
末盧国は唐津平野の範囲で、東松浦半島の先端付近は無人の地では
ないだろうが名もなき集落だよ
これを末盧国と言い張る辺りがイタイ
>呼子からほぼ南下し唐津市中心で方向をほぼ東に変えて進んだから伊都国へは東南陸行と記したんだよ。
そこから北に行かないとどうやっても伊都国には着かない
こういうごまかしをしてまで、魏志倭人伝に書いてあることを
正しいとしなければならない辺りが史料の限界無視の原理主義だって
非難されてるのは分かるかい?
九州説は魏志倭人伝の「方角の間違い」を絶対に認められないんだよなw
まあ、もともと末盧国から東南陸行五百里は、伊都国行きの旅程では
なかったのだろうけれど >>496
>末盧国に至る行程に方角がないだよね。
ただ、壱岐のところで、南北市糴と書いてあるから、
壱岐から南へ行くと考えるのが素直な読み方だと思うがね こいつの「素直な読み方」は根拠のない妄想に過ぎない。
文献は無視するくせに、妄想は撒き散らす。 >>501
その通りだ
倭人伝では、壱岐から航行するのは、北と南に限ると限定しているわけだ。
もう一つ、末蘆国から東南とは、
東南の方角に至ることのできる道を行くこと五百里で・・・、という指示である。
エデンの東と同じで、五百里陸行した結果が東南の地であるべき、という意味なのだ。 >>500
>末盧国は唐津平野の範囲で、
それも間違い。 末盧国は福津・宗像方面 対馬海流を無視してはいけない。 @阿波 >>502
>文献は無視するくせに、妄想は撒き散らす。
どこが妄想なのか、「具体的に指摘」してね!
でなければ無意味
末盧国から東南陸行五百里で伊都国と書いてあるけれど、
比定地の紛れのない伊都国から見て北西五百里は、どうやっても海の上
これで、魏志倭人伝の旅程、方角は正しいって言い張っても無駄だろうに >>506
>比定地の紛れのない伊都国から見て北西五百里は、どうやっても海の上
その比定地が、まぎれもなく間違っているんだよ
東南陸行五百里は、素直に佐賀平野の川上さ、倭人伝の道理は正しい! >>505
>ずいぶん方向がずれてるね
方向って、なんの? @阿波 >>510
>おまいのアタマの中の羅針盤が、だよ
は、は、 そうかもね。 @阿波 >>508
>素直に佐賀平野の川上さ
その佐賀の川上で、一大率はどうやって、臨津搜露するんだい?
その川上の伊都国のどこに「津・みなと」があるんだろう? >>508
>素直に佐賀平野の川上さ
その佐賀の川上から、奴国はどっちに行くんだい?
その場合の奴国の比定地はどこ?
戸数二萬餘戸は、遺跡の発掘状況から考えて、定説どおりの
福岡平野以外には考えにくいと思うが? 松浦は現在の松浦郡唐津
伊都国が小城、多久付近
奴国が佐賀市大和町から佐賀市内
ウミ国が大川城島付近
あとは水行有明海へ >>512
>その佐賀の川上で、一大率はどうやって、臨津搜露するんだい?
末蘆国・唐津における渡海の好機は、倭人伝にある通り6月と12月
その時を見計らって、一大率は末蘆国・唐津へ出向き、舟を待って臨津搜露した。
>>513
>その佐賀の川上から、奴国はどっちに行くんだい?
倭人伝にある通り、東南の方角100里だ。
現在の佐賀県庁一帯。当時は水田開発で大にぎわいだったのだろうな。
>>515
その通り
倭人伝の主要な舞台となった国々は、肥前肥後(および日向)の肥グループだったわけだ >>516
>現在の佐賀県庁一帯。当時は水田開発で大にぎわいだったのだろうな。
その辺、弥生時代末期にはまだ海だよ
「北部九州における縄文海進以降の海岸線と地盤変動傾向」
下 山 正 一 1994年
第四紀研究 (The Quaternary Research) 33 (5) p. 351-360
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/33/5/33_5_351/_pdf/-char/ja
この論文、図7の遺跡分布の図が左右反転してたりして、実際の地図と重ねにくいけど、
その前の図6を現在の地図と重ねると、柳川市役所は弥生末期でもまだ海の中、
大川市役所も海岸まで500メートルくらい
この論文では筑後川の運んだ砂による鳥趾状三角州を弥生末期には陸化していると
しているけれど、その西側には大きな入り江が入り込んでいて、佐賀駅から500メートルくらいの
ところまで海になってる 弥生時代の筑紫平野は、筑後川は大きすぎて灌漑に利用できないし、まだまだ陸地化途上だし、
大きな国をそこに求めるのは無理がある >>517
リンク先の佐賀平野の陸地化図面見た
>・・・ど、その西側には大きな入り江が入り込んでいて、佐賀駅から500メートルくらいの
ところまで海になってる <
でもな、この解説レスは ↑ 縄文時代の海岸線を示すぶっとい黒線のことではないか。
弥生末期は点線だから、佐賀駅から南へ7-8qあたりまで陸地化しているようだよ。
再確認してくれ、、、 >>516
>末蘆国・唐津における渡海の好機は、倭人伝にある通り6月と12月
そんなこと、どこに書いてある?
12月の冬の日本海をなめてないか? >>520
>景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。
>其年十二月、詔書報倭女王曰、「制詔親魏倭王卑弥呼:帯方太守劉夏遣使送汝・・・
この通り倭人伝には、卑弥呼の使いは6月、その詔書報礼は12月と書いてあるだろ。
おれも不思議だったのだが、
近年の九大の観潮レーダー観測の結果、
6月と12月の新月?だか、満月?だかの前後数日間に発生する「離岸流」というのに乗れば、各海峡間を1日で渡れるのだそうだ。
九大の研究も素晴らしいが、
古代人の航海術にも、驚異的な知識技術の蓄積があったのだなあ・・・、と感激した次第。 弥生期の海岸線は、あまりよい推定ができないので、堆積層の暑さで適当に決めたって書いてあるだろ?
それに、海が堆積三角州で埋まったところは地下水の塩分が多いから稲作に向かない
いずれにしても、佐賀県庁あたりが弥生末期に大集落になってるってことはないよ >>522
>其年十二月、詔書報倭女王曰
これは、皇帝が詔書を作った(皇帝の行為)が12月という意味で、実際にその詔書を持って
対馬海峡を渡るのは12月じゃないだろう
よく読んで >>524
>其年十二月、詔書報倭女王曰
「制詔親魏倭王卑弥呼:帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都巿牛利奉汝所献男生口四人。。。
今以難升米為率善中郎将、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見労賜遣還。。。
今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、装封付帯方太守假授。。。
又特賜汝紺地句文錦三匹、、、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤。。。
皆装封付難升米、牛利還到錄受。。。<
・景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。
(六月には、帯方郡経由で京都へ達した。皇帝は6月ころには到着を知っていたので)
・其年十二月、詔書報倭女王曰→→皆装封付難升米、牛利還到錄受
(12月には、倭女王に曰く。難升米、牛利が帰り来たらば目録を受け取れ)
再度、よく読みました。↑こんな時系列ではないでしょうか。
渡海のチャンスはかぎられていたので、
12月中には倭女王に伝わるよう取り計らった(そして、その通りに運んだ)・・・、でよいのじゃないの 基本大陸王朝側基準で書いてあるから、
景初二年六月は、(倭女王が大夫難升米等を遣わし郡に詣で、天子に詣で朝献するを求めたので)
「太守劉夏が吏将を遣わし京都に詣でるを送る」なんだよ
そこから半年がかりで洛陽について、その年の12月に皇帝から詔書をもらえる
6月に皇帝が倭の朝貢を知ってた訳じゃない >>516さんは、「唐津における渡海の好機は、倭人伝にある通り6月と12月」と
いう訳ではないのは確認できたかな?
冬の日本海はやばいよ 水行を考える場合の補助として「陸行」を見てみた方がいい
「漢書 後漢書 三国志 宋書 南斉書 梁書 魏書 北斉書 隋書 南史 北史
旧唐書 新唐書」の範囲の「陸行」の全文検索結果について、書いておく
この範囲に「陸行」は全部で15件
漢書 3件
「陸行載車,水行乘舟,泥行乘毳,山行則梮」
禹の治水エピソード
「轉粟西鄉,陸行不絕,水行滿河,不如海陵之倉」
陸を行くものは絶えず、水をいく者は河に満ち 人が非常に多い様子の表現
「孟賁,古之勇士也,水行不避蛟龍,陸行不避犲狼」
孟賁が、水を行くときは蛟龍を避けず、陸を行くときは犲狼を避けず 孟賁が勇猛な様の表現 後漢書 1件
「孟賁水行不避鮫龍,陸行不避虎狼」
注釈上の漢書の引用(上記)のみ
三国志 2件
「東南陸行 五百里,到伊都國」
「南至邪馬壹國,女王之所都,水行十日,陸行一月」
上記2件はおなじみの倭人伝部分 宋書 1件
「以表歸コ之誠,或泛海三年,陸行千日」
皇帝の徳に帰するを表するを以って(皇帝の徳が遠くまで届きそこから朝貢するのに)
あるいは海を三年かけ、陸行1000日の距離を超えて(朝貢に訪れる) (泛は浮かべる)
梁書 3件
「以表慕義之誠。或泛海三年,陸行千日」
上記宋書のコピペ
「又東南陸行五百里,至伊都國」
「又南水行十日,陸行一月日,至邪馬臺國,即倭王所居」
魏志倭人伝のコピペ2件
陸行が「一月日」になっていて九州派の陸行「一日」の間違いという説の心の拠り所 北史 3件
「初發其國,乘船溯難河西上,至太沵河,沈船於水。南出陸行,度洛孤水,從契丹西界達和龍」
勿吉国のことで、難河は今の嫩江(アムール川の支流、もちろん大河)、太沵河は今の洮児河で嫩江の支流、洛孤水は西遼河で渤海に至る遼河の支流(これも大河だね)、和龍は今の遼寧省朝陽市
川を遡る旅程だが、水行とは書いていない
また川の遡上は困難で、船が沈んでしまい、南に出て陸行し、洛孤水を渡る
「又東南陸行五百里,到伊都國」
「又南水行十日, 陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都」
魏志倭人伝のコピペ2件 旧唐書 1件
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
ここでは、「水陸行を通し」で水行と陸行とを一緒にしている
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、東に水行陸行を通して成都に至る如し
(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 実際には東南 新唐書 4件
「千里至鴨淥江唐恩浦口。乃東南陸行,七百里至新羅王城」
唐恩浦口は仁川付近、そこから東南陸行700里で新羅王城
「又泝流五百里,至丸都縣城,故高麗王都。又東北泝流二百里,至神州。
又陸行四百里,至顯州,天寶中王所都」
丸都縣城:吉林省通化市集安市丸都山にあった高麗王都の故地
神州:吉林省臨江市西南葫芦套村の対岸(北朝鮮側)
どちらも、中国、北朝鮮国境の鴨緑江沿い
顯州:吉林省延辺朝鮮族自治州和龍
天寶中王所都は、天宝年間仁王が都を置いたの意味
「又西一日行,至烏剌國,乃大食國之弗利剌河,南入于海。小舟泝流,
二日至末羅國,大食重鎮也。
又西北陸行千里,至茂門王所都縛達城」
烏剌國:クウェート、大食國:イスラム帝国、弗利剌河:ユーフラテス川、
末羅國:バスラ、縛達城:バクダッド
クウェートまで海、そこからユーフラテス川を小舟で遡り(泝流)、
二日でバスラに着き、陸行1000里でバクダッドに着く
「江淮水陸轉運使杜佑以秦、漢運路出浚儀十里入琵琶溝,絕蔡河,至陳州而合,
自隋鑿汴河,官漕不通,若導流培岸,功用甚寡;疏雞鳴岡首尾,可以通舟,
陸行纔四十里,則江、湖、黔中、嶺南、蜀、漢之粟可方舟而下,繇白沙趣東關,
歷潁、蔡,涉汴抵東都,無濁河泝淮之阻,減故道二千餘里」
これは、唐代の漕運(主に食料などの水運)の話
杜佑が江淮水陸轉運使となり、漕運路を浚渫などでほぼ全体が舟で通れるように
なったので、陸行はわずかに(纔)40里で、故道を二千餘里減らした、という話 こうして見て来ると、水行何日とか、陸行何里とかいう、地理・旅程記事での「水行」「陸行」の使い方は、
三国志(魏志倭人伝を含む)がおそらく最初であることが分かる
それ以前の漢書・後漢書には、禹や孟賁の活躍を記したり、人が大勢いる様子を表現する部分でしか、
陸行の語は使われていない
そして、そうした陸行は常に水行と対の言葉として使われている
これまで「地理・旅程記事の水行」という言い方をしてきたのは、
この陸行と対となる言葉としての水行を考えるべきだということ 三国志以降の「陸行」は「陸行何里」あるいは「陸行何日」の形のみが見られる
魏志倭人伝以降の「水行」もこうした「陸行」と同じ使い方の部分について考えないと意味がない
また、地理・旅程記事で陸行と合わせて「川」を移動している部分では、ほぼ水行の語は
見られず「泝流(流れを遡る)」の語が多く使われていることも分かる
旧唐書で1例、通水陸行と、水行と陸行を合わせた表現があるが、これは例のソンホン川流域を
通ってハノイ(安南)に至る経路で、川沿いの陸行だったり川を行ったりしたのだろう >>536
普通にヤマト国だろ?
川の水行はない
=博多湾沿岸から南へは水行できない
=南至投馬国水行二十日は南ではない方角 までは確実
陳寿の認識、「倭国は會稽、東冶之東まで南北に長くつづく洲島」と合わせて考えれば、
投馬国へは東に日本海沿岸を水行したと考えるのが蓋然性が高い
そしてそこに出雲があるのだから、問題ないだろ >>538
>南北なのに東に行く?
南北市糴は、対馬と壱岐だろ?
北部九州から投馬国へは水行二十日で行くが、
北部九州博多湾岸から南へは水行できない←川の水行がないから
まあ北や西へも行けるけれども、北や西には
五万戸の投馬国にあたる場所が想定できない
なので、消去法で東に向かうことになるというのが、最も蓋然性が高い >>540
>まさに詐欺師の論法w
どこが詐欺師なのか、「具体的に指摘」してくれww
川の水行を言い出す方がよほどバカだろ?
川の水行は「ない」
川の水行がなければ、博多湾岸から南への水行はできない もう訳わかんねえから
だれかまとめてくれ。
ジジイのオレが死んじまう前にw。 >>543
古墳時代には日本列島の広い範囲で前方後円墳を作るという合意が為されており、
それが事実上倭国の範囲そのものと見なせる
そして古墳時代の全期間を通じて各時期の最大の古墳は畿内に作られ続け、畿内に
前方後円墳体制の盟主があることは明白
ここまでは、「ごく一部の九州説(九州王朝説:古田史学の一派)」以外は認めること
邪馬台国論争は、邪馬台国の絶対年代が古墳時代に入っているかどうかに焦点がある
そして、学究畑では編年研究の成果から3世紀初頭には前方後円墳体制が成立していたと
考えられるようになっている
これが全てだよ
既に決着済み >>542
>方角詐欺
だから、どこが詐欺なのか「具体的に指摘」してくれ
川の水行がない以上、博多湾岸から南への水行はできない >>544
>そして、学究畑では編年研究の成果から3世紀初頭には前方後円墳体制が成立していたと
>考えられるようになっている
年代詐欺 >>546
>年代詐欺
だから、どこが詐欺なのか「具体的に指摘」してくれ
一人二人の考古学者が言ってるだけの仮説じゃなくて、
これまでの多くの研究成果を総合した多数説だぞ 「具体的に指摘」してくれ って書くと九州説は消えるね
まあ、そんなもんだw >>548
古代中華帝国の7役人が残した魏志倭人伝の存在が致命的だっね寄生中内説 畿内説の学者なんて真っ当な学者じゃないだろ
"布留0式土器と古式新羅伽耶陶質土器とは共伴して出土している。
朝鮮の三国時代の陶質土器は瓦質土器よりも高温での焼成が可能となったもので、
慶尚南北道、新羅・加耶地域のものが日本列島に流入した。
地域性が発現する前のほぼ4世紀の慶尚南北道の「古式陶質土器」
は馬韓や百済の土器とはかなり異なっているので、
馬韓・百済の土器と区別するために,
武末純一がこれを古式新羅加耶土器と呼ぶことを提唱した。
その後5世紀初頭ごろ、古式新羅加耶土器は地域性が明確になり、
新羅土器と加耶土器が分立するようになる。
従って、古式新羅伽耶陶質土器はほぼ4世紀のものを指すので、
石野博信らの布留0式土器が3世紀後半であるとの主張とは合わない。" 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>544
>そして古墳時代の全期間を通じて各時期の最大の古墳は畿内に作られ続け、畿内に
>前方後円墳体制の盟主があることは明白
前方後円墳体制の盟主は3世紀後半以降。
それ以前、ヒミコを含めた盟主は前方後円墳ではないし纏向にはいない。
葛城である。
そうするとすぐ「遺跡は?」と聞いてくるだろ。
卑弥呼の時代の王宮跡は式内・名神大社になっている、だから掘れない。
逆に言えば謂れのない所を掘って出て来た纏向の大型建物の遺跡は王宮ではない。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>552
>前方後円墳体制の盟主は3世紀後半以降。
>それ以前、ヒミコを含めた盟主は前方後円墳ではないし纏向にはいない。
この決めつけが既に間違い 平原遺跡の年代
・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている
・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。 これじゃね
「古代東アジアにおける耳?の流伝 高山 純」
(考古学研究 14巻2号) >>559
それ、読めるところある?
形のような主観的なものではなく、その耳璫の成分の化学分析の結果
耳璫の型式
この耳飾りとされている「背紺色透明なガラス連玉」の2000年の報告での分析結果
「平原遺跡出土ガラスの保存科学研究」(肥塚隆保 奈良文化財研究所 年報 2000)
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/2668/1/AN00181387_2000_%E2%85%A0_32_33.pdf
これによると、
「本試料を顕微鏡観察したところ、重層ガラスであることが明らかになった。」
「孔に平行する断面を観察したところ二層構造を有し、孔に近い内側は大小多量の
気泡を含むガラス層、その外側には気泡をほとんど含まないガラス層で形成していた。」
「このような構造を成すガラスは、古墳時代の遺跡から発見されている、いわゆる
「金層」ガラスである。金層ガラスの多くは金層を含むものは少なく、内側孔に近い
部分には、気泡が多量に含まれるガラスを使用して、その外層には褐色透明なガラスが
用いられており、構造や材質に多くの共通点があり、加工法も同様であると考えられた。」
これを素直に読むと、このガラス連玉は古墳時代に位置づけるのが、相応ということになる またその成分は
「本試料の材質は、基礎ガラス材としてはソーダ石灰ガラス(Na20-CaO-SiO2 system)で、
これにコバルトイオンによって着色したものと考えられた( 表2) 。
しかし、 MnO含有量の多い青紺色ソーダ石灰ガラスが、弥生時代の遺跡から出土したのは
初めてで、その多くは古墳時代の後期に見つかっているもの」
とあり、この耳飾りだけに頼って編年するのであれば、編年は埋葬主体の出土物で最も新しいものに
合わせるという原則に従って、平原1号墓はかなり新しく古墳時代後期でもおかしくないことになる
古墳時代後期というのは、例えば藤ノ木古墳から金層ガラスが出ている 現在のところ、平原1号墓の編年は出土鏡が国産であてにならないため、
周溝から出た土器の編年に頼っている
1号墓の周溝からは弥生後期前半と終末期の土器片が出土、2号墓南側から
庄内併行期と思われる土器の破片が出土しており、1号墓と2号墓が周溝を
共有しているため、同時代の築造と考えられている
で、現在は、この庄内平行期の土器の破片が平原1号墓の編年の理由になって
いるのだが、これと金層ガラスの関係をどう考えるかによって、編年が変わることになる 周溝の土器って公開されてなくて、柳田も現在は根拠にしてないんじゃないの 国産だから編年できないなんてことはないだろ。
2世紀末以降、つまり卑弥呼の治世になるから言いたくないだけだろ。 >>564
>国産だから編年できないなんてことはないだろ。
>2世紀末以降、つまり卑弥呼の治世になるから言いたくないだけだろ。
いや、むしろ周溝の土坑墓遺物から考えると、もっと古くなるのが相当
卑弥呼の治世にかかったところで、卑弥呼の死よりも前の墓は
卑弥呼の墓じゃないだろ? >>565
>いや、むしろ周溝の土坑墓遺物から考えると、もっと古くなるのが相当
一番新しい出土品に合わせないと。
>>565
>卑弥呼の治世にかかったところで、卑弥呼の死よりも前の墓は
>卑弥呼の墓じゃないだろ?
すり替えるな。
卑弥呼の死より前の時代の可能性がある副葬品だ。
卑弥呼の死後に副葬してもいい。
「卑弥呼の死よりも前の墓」という表現に根拠はない。
詐欺師め。
平原遺跡で一番新しい副葬品は、魏晋代の3世紀中頃以降の耳璫だ。
つまり平原遺跡の年代が3世紀中頃より遡ることはない。 倭人伝の起点になっているのは帯方郡(及び帯方太守)である。
其の帯方郡は、馬韓(のちの百済)の中心地であったソウル付近に置かれていたそうだ。
このことを考慮すれば、
帯方郡にとって、馬韓種族(百済種族)はかけがえのない人脈だったにちがいない。
其の貴重な人脈を表すのは「馬」。
倭の国名から探せば、斯馬国、邪馬国、投馬国、そして邪馬台国である。
これらの国々は後の肥国〜火国(日向国)を成すわけであるが、
これら勢力が、旧体制であった倭奴国に対抗する戦線を構築して卑弥呼共立に成功したのであろう。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>567
>一番新しい出土品に合わせないと。
平原1号墓の編年で、もうひとつ考えなければならないのが、周溝の土坑墓である
原田大六氏はこの土壙墓を殉死者の墓と考えておられたそうだが、現在では土壙墓は
周溝が埋没した後に造られたものと考えられている
周溝の土壙墓からは鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・鉄刀子・ノミ状鉄器が出土している
この土坑墓遺物の編年は、弥生時代終末(200年〜250年前後)で問題ないので、
先の2号墓周溝からの庄内併行期の土器片と時代が一致する
となると、本体である1号墓と土坑墓では「周溝が埋没」するほどの時間差があるので、
1号墓の編年は弥生時代終末よりもかなり古くしなければならない
耳璫の形がどうこう、というのを平原1号墓の編年にしたいようだけれど、
形が似ているというのは、主観による判断に頼らざるを得ない
より客観的に分析できる耳璫の「材質」が、金層ガラスでありその色がコバルトの青で
あることは九州説の人は、まったく考慮に入れない
耳璫が金層ガラスであることからはより新しく想定され、土坑墓遺物からはより古いほうが妥当性がある
肝心の副葬品は国産鏡で編年のあてにならない
まあ、周溝の土坑墓が殉葬に「見えた」のが、卑弥呼の墓候補にされたきっかけなんだから、
土坑墓が殉葬ではないことがはっきりした以上、卑弥呼の墓だと考える理由は既にないんだがな 平原1号墓が墳丘の平面プランで、同じ葬送文化の吉野ヶ里北墳丘墓の
10分の1以下って時点で、倭王の墓とかチャンチャラおかしいレベルなんだが、
他に候補すらないから仕方がないんだよなw
平原1号墓 12×8メートル 96平方メートル
吉野ヶ里北墳丘墓 40×27メートル 1080平方メートル
客観的な数字で見ると、歴然だろ? >>574
>より客観的に分析できる耳璫の「材質」が、金層ガラスでありその色がコバルトの青で
>あることは九州説の人は、まったく考慮に入れない
知っているよ。
だから一番古く見積もって、3世紀中頃なんだよ。 ・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から
多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から
四世紀と考えられている
・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から
出土したものと同型である。 >>578
>耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
前にも聞いたんだけれど、「どこがどう特徴的で特殊」なのか教えてよ 自分に不都合な考古学の編年研究に対しては
個人的な感想レベルに過ぎないと切って捨てたのに
都合のよい編年研究にはすがりつくという
伊都厨がクズっぷりをいかんなく発揮中 編年なら、畿内にも九州にも豊富に存在する鏡がいいだろう。 >>584
「キナイコシ」はお前で、考古学・編年を否定しているのは>>583の九州説の書き込みだろ?ww >>578
前にも聞いたんだけれど、「どこがどう特徴的で特殊」なのか教えてよ ここも古い偽スレだから、とっとと使い切って倉庫送りにすればいいと思うんだけどね >>578
前にも聞いたんだけれど、「どこがどう特徴的で特殊」なのか教えてよ
できれば、図で見られる典拠を示して欲しい
待ってるよ >>589
>ググレカス
つまり、えらそうなことを言って根拠一つ示せないゴミクズ、伊都クズが
内容も理解もできないまま書いてたってのが、FAだな
「晋代あたりの特徴的なタイプであろう」というのは
高山純が「古代東アジアにおける耳璫の流伝」の中で
「浙江省杭州老和山の漢末六朝初期に比定される搏室墓から出土した琥珀製耳璫」について書いていること
柳田は同書から引用して、平原遺跡の耳璫もわずかにくびれる形式なので
「後漢末が平原王墓の年代の弥生終末と符号している」と書いている
この「わずかなくびれ」だけが、平原1号墓が3世紀である根拠な訳だな?
大笑いもいいとこwwwww これが問題の耳璫の画像だが、くびれてるか?
https://pds.exblog.jp/pds/1/201308/12/45/a0237545_23314878.jpg
この上段左の赤いものが耳璫
割れてるからなんとも言えないというか、特徴的なくびれがあると
言えるような形状じゃないだろ?
平原1号墓が3世紀とかいう根拠はこんな程度のもの
土坑墓遺物等から2世紀とする編年の方が妥当だな >>592
>土坑墓遺物等から2世紀とする編年の方が妥当だな
典型的なコンタミ >>593
>典型的なコンタミ
土坑墓の土坑の外からも同様に出ていればそれも通るけれど、
土坑墓遺物という出土なんだから、それは通らない
結局、平原1号墓が3世紀の墓というのは、そういう見解を持った人もいるだけで
根拠はびっくりするほど薄弱だと分かったな
くびれていると言い張ればくびれているという程度の「くびれ」に全てが掛かっているだけ
これが「晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状」の根拠のすべてww
そりゃあ具体的には示せないよな
恥ずかしくてさw どこの学会?
邪馬台国の会は学会じゃないって知ってるかい? 平原1号墓は3世紀の根拠がまったくなくなってしまったねぇ
これで伊都国説も絶滅かな? 倭人伝の水行の距離は??
循海岸水行・・・・・七千餘里
始度一海・・・・・・千余里
又南渡一海・・・・・千餘里
又渡一海・・・・・・千餘里
ここから距離の表示が無い
南至投馬國 水行二十日
女王之所都 水行十日
すると南至投馬國 水行二十日 女王之所都 水行十日
計30日間は距離は?
循海岸水行・・・・・七千餘里が引っかかるのだが 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>599
水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい >>599
>倭人伝の水行の距離は??
>循海岸水行・・・・・七千餘里
>始度一海・・・・・・千余里
>又南渡一海・・・・・千餘里
>又渡一海・・・・・・千餘里
これは、
一日で漕ぎ渡れる渡海は一律で千里
倭国の本土に到着するまでを萬里にする
という二つだけで作った数字だよ
計測して出した数字じゃない >>266
>なんでドンとこいスレは番号が飛んでいるんですか?
>そもそもはここが本スレと聞いていましたが。
このスレの>>1を見れば、これがスレタイ騙りスレだって分かるだろうに 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 みんなでこのスレも使いつぶせばいいよ
どうせニセスレなんだし 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 大昔の神武東征以前のこと、新羅から、摂津国へ築城木工集団が渡来して、
その首領であった、久々智(くくち)が『新撰姓氏録』・摂津皇別に登場する。
(現在も、尼崎市に久々知の町名が残る)。
このくくちの最初のくが母音変化すると、きとなって、木口(きくち、口は集団一党を意味する)となり、
のちに佳字の菊池(きくち)を当てたとなる。
この氏が、九州方面にも移り、菊池一族を中心に繁栄したとすると、菊池さんの人口、15万にもなりうる。 摂津の開拓は九州の発展よりずっと遅いのだから、熊本のククチさんが大阪に進出したんだろう。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2Rivcaei8JbT38AGR4dOfx7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 熊本県掬智城
>続日本紀に、
>「大宰府をして大野(福岡県)、基肄(きい・佐賀県)、鞠智(くくち・熊本県)の三城を繕治せしむ」と、記載されている。
>大野城と基肄城は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、
大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いた古代山城である。665年(天智天皇4年)。
>二城の建設を担当したのは亡命百済人で、「兵法に閑(なら)う」と評された。
>そして、続日本紀の698年(文武天皇2年)には、 大野城・基肄城・鞠智城の三城の修復記事が記載されている。
九州に「久々知・くくち」の名が現れるのは、この698年が最初。
おそらく新羅渡来の久々知族が築城を担当したので鞠智城と呼んだのだろう。その建設もさほど古いことではあるまい。、 鞠智城は取り合えず7世紀よりもずっと古いらしいけどね。
魏志倭人伝の中に大野城、基肄城らしき地名もあるのだから、古代三城が3世紀には成立していたということでいいだろう。 いいか、悪いか、判断できないところが問題なんだよな。
ま、仮にいいとして、
久々知城の出自は新羅系、基肄城は百済系ってところだろ。
これが「卑弥呼と卑弥狗呼、素より不和・・・」の原因だろうな。 国としては未成立だったかもしれないが、
前もって、その母体となる種族の一定の広がりがあってこそ国・王朝は成立する。
曰く、「ローマは一日にして成らず」 また根拠のない年代の前倒しか。
本当にクズだな。
残念ながら、百済は扶余が侵入して成立したので、母体となる年代を想定する必要はないんだよ。 残念ながら、不耐城に亡命してきた扶余の王族には百済に侵入できるようなパワーは無いよ 百済成立は卑弥呼の100年も後だからね。
第二次世界大戦後の政治状況の母体がペリーの来航以前に成立していたと言っているのと変わらない。
はっきり言ってアホだろ。
畿内説そのものが同じようなくだらないレトリックの積み重ねにすぎない。 前後・上下関係の良くわからん理屈と文章がはびこってるな アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
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九州説は時系列を理解するのが苦手なんだよww 時系列をかき混ぜるのは、畿内説の得意とするところだろう。 >>625
>時系列をかき混ぜるのは、畿内説の得意とするところだろう。
だから具体性のない、文句が書きたいだけの書き込みは意味がないと何度言えば
まあ、九州説なんていいまだに支持しているくらいだから、論理性皆無で
意味のある具体的な指摘はできないんだろうけれど 時系列を具体的事例で示すことができない、といば伊都クズだな 三種の神器の話をするのに古墳時代の話を持ち出すアホですから。 伊都国を佐賀川上に比定すると、東行百里の不彌国は佐賀神崎になる。
このことは、すでに述べた。
そしてここから南至投馬国は、南南東に直線で約180qの宮崎県西都市(都万)になる。
同じく、南至の邪馬台国であるが、まず神崎市から南へ数kmで千代田町渡瀬に至る。
ここはかって蛇行した筑後川の河畔であった。
又このあたりは、潮の満ち引きを受けて、河水が上流へ逆流する地帯{いわゆる感潮域}である。
頃合いを見計らって漕ぎ出せば、大筑後川も労せずして対岸の城島へ渡れたであろう。
古代人は侮れぬ。うまいところに目を付けたものだ。(現在は「六五郎橋」になっている)
そして城島からは、微高地伝いに、東南の八女市福島へ向かう。
ここにも、もう一つの理由があった(続)。 7世紀の記紀に書かれた内容で弥生時代を語るバカがいるらしいぞw 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>630
歴史の意味がわからん考古バカは板違いだよ
なんで生きてんの? 記紀の神代の巻は弥生時代の歴史を記した記録だろうなあ。 歴史学の方法がわからん妄想バカは板違いだよ
なんで生き恥晒してんの? 七世紀の記紀・本記・風土記に書いてあるから、三世紀にもそうだった、と断言する者あり
また、七世紀の記紀・本記・風土記に書いてあっても、弥生時代にそんなことはなかったこのバカ、という者あり
この板は、左右とりどりだ。 纒向フォーラム(読売奈良支局 2018・10・15)
>渡辺義浩・早大教授(中国古代史)は、魏の文帝が「寿陵は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」などと定めたことを紹介し、
「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
>また「倭人伝」の記述が「卑弥呼、以すでに死し、大いに冢を作る」なら、死んでしばらくしてから墓を造ったという意味になり、
渡辺教授は「死んだために墓を造ったという意味の『死するを以もって』と読むべきだ」と指摘した。
>その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。
寺沢センセも、ついに箸墓撤退を明らかにしたのか・・・。
歴史学の方法に乗っ取ってると思い込んで
他人を中傷するのは人格に問題があるね。
脳に障害があるから病院行けば?死ななきゃ治らんと思うけど。 その分野の方法論を無視した世迷い言を
それが真実だと連呼してる方が頭に問題あるだろ >>639
そうよ?自分のことよくわかってるじゃない。 異なる方法論であれば、それは別の学問だなw
板違いだよw >>641
現行の方法論が正しくないとするのであれば、
正しいと思う方法論を引っ提げて、
学界に殴り込めばいい
こんな掲示板でウダウダ書き込んでいるのは
才能と時間の損失だとは思わないのか? そうだな方法論ぶって排中律もわからないキナイコシは学会に殴り込みに行くべきだな。一つも査読は通らないだろうけど。 >>644
>排中律
そのときの議論見てたけど、排中律が分かってないのは伊都くずの方だったぞww あれはキナイコシだと思ってたがいとくずという人だったのか
自作自演でご苦労なこった。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 佐賀県・神崎/吉野ヶ里の不彌国からは、南へ下って筑後川を渡り、対岸の城島へ至る。
ここからは陸行して10q余の八女市街(福島)へ向かうのだが、これは、南でなくて、東南へ行くことになる。
これには、よんどころない事情があった。実は次なる難所・矢部川を渡るためであった。
八女市街(福島)から南へ2qには柳瀬という集落があり、このあたりの矢部川には岩礁地帯が連なっている。
このおかげで、通常水位なら、飛び石伝い・丸木橋伝いに難所を渡れたのである。
ここを越えれば、あとは県道4号線沿いに熊本平野目指して南下する。
この上流の津江という集落の矢部川にも岩礁地帯があり、ここも同様にして渡れた。
この場合は、国道3号線伝いに南下する。
どちらも、30q足らずで邪馬嘉国の臺であった菊池市七城町臺に到る。ここに三世紀・邪馬台国の臺城があった。 >>648
>これは、南でなくて、東南へ行くことになる。
>これには、よんどころない事情があった。実は次なる難所・矢部川を渡るためであった。
よんどころない理由があれば、魏志倭人伝の記述を無視していいなら
よんどころない理由で南は東だから、畿内でOKだな >>649
うん、そうかもしれぬ。
ただし、ここは全行程約100q(千数百里)のうちの約10qほどだ。
畿内説にあっても、行程理由が明らかなら、10qくらい北東に進むのは差し支えないであろうもんな。 >>650
>ここは全行程約100q(千数百里)
これ、100キロじゃきかないよ?
まさか短里があるなんて言わないよね? >>652は>>650と同じ人?
魏代の1里は約435メートル
千数百里なら550キロ以上になるよ >>653
ほう、1里約435メートル。それが短里というものさしか。
ほい、わかったぞ。 278mの前方後円墳の円墳部分だけをみて径百余歩(約150m)などとは実に馬鹿馬鹿しい。
ヒミコの墓は大和にあるはずだ、そして探したらこの部分しかなかった。
だから強引に結びつけただけ。
そして放射性炭素測定で箸墓をAD240〜260年というトンデモないミスリードをしようとしている。
放射性炭素測定で20年幅なんて分るわけがない。
また箸墓をヒミコの墓だという論者は箸墓の瀬戸内の強い要素など全く説明できない、
せいぜい卑弥呼共立に瀬戸内勢力が中心となったなどの屁理屈で逃げる。
彼らは基本、神話というものを小バカにしている。
彼らは神話に耳を貸さない。
そういう自分が知的だと自惚れてさえいる。
江戸時代まで普通に高天原だと認識されていた場所に卑弥呼の墓はある。
何も難しくない、日本の原点かつ聖地に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢も埋葬されている。
奴婢とは土蜘蛛であり、ヒミコの時代に土蜘蛛を征したのは日向から来た男・神武である。
https://goo.gl/maps/DocFtPTq6VJ2 1里約435メートルは、短くない短里なのか。
まあいいや、それでいこう。 >>656
>江戸時代まで普通に高天原だと認識されていた場所に卑弥呼の墓はある。
これの根拠は? >>657
短里があると言わないよな?というのは、
短里を前提にした立論じゃないよな?という確認
1里=435メートルは短里じゃないよ 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰 >>659
なんじゃと、
まさか短里というから、短里とは何かと聞いたら、1里=435メートルと答えたのはオマイじゃないか。
はっきりしろ。短里とは何なのか???? 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
魏志倭人伝 普平陽侯相 陳寿撰 短里ってのは九州説を信じている連中の妄想上の架空の単位
捏造ともいう 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 それは倭国の朝貢を萬里の修交にするための数合わせ
それと渡海で1日で漕ぎ渡れる距離を一律千里にしているから
対馬海峡を渡るのに千里×3で三千里
これを一万里から引いたものが狗邪韓国まで七千里の内容 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>667
>そう思うしかないよね
>畿内説の立場ではね
そういうしかないよね?
九州説の立場ではww
周牌算経も短里の証拠にならないことも示されちゃったし
「魏志倭人伝は短里で書かれている、証拠は魏志倭人伝」と
いう循環論法を虚しく繰り返すしか九州説はやることがないw 魏志倭人伝を無視していたら、邪馬台国論争なんて成り立たなくなる
畿内説はおかしい >>672
>魏志倭人伝を無視していたら、邪馬台国論争なんて成り立たなくなる
そうだね!
魏志倭人伝に明記されている、水行20日+10日陸行1月を
九州説の人が無視するから、論争が成り立たないんだよね!
>畿内説はおかしい
おかしいのは九州説一択 魏志倭人伝の記述は短里
むしろ北部九州説の方が短里だと記述と全然合わない。短里で記述通り(現在の有力説ではない)に比定すれば大和と阿波は問題ないと言える。
豊前も12000里がどこ起点かによってはありうる。
筑紫や筑後は、倭人の言う事をそのまま書いた、あるいは報告者なり陳寿が嘘を書いたなら成り立つ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >魏志倭人伝の記述は短里
短里なんてないんだって
区間によって1里にあたる距離がバラバラ
記述される際に、倭国本土到達まで一萬里、女王国まで萬二千里って先に決められていて
この誇張された距離に合うように数字を作ってあるだけ >>676
1里≒77mで全部辻褄合うよ
想定してる比定地がおかしいだけ でも>>677のいう比定地には時代の合う遺跡がないんだぜ >>678
正しい比定地を教えてやろう
そりゃな、ヤマトのホケノで全部つじつまが合う >>676
弥生時代なんだから、少しくらいの測定誤差は大目に見ろよ。 >>680
宗像、田川、行橋は弥生遺跡多いよ
豊前、畿内は言うまでもない >>682
>弥生時代なんだから、少しくらいの測定誤差は大目に見ろよ。
ちょっとじゃないんだよ
区間によって1里の長さが4倍違う
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里 >>684
おお、大きな誤差を良く見つけたねえ。死ぬまで大事にしておけよ。
ま、誰も相手にゃせんけどな。 >>684
福岡市といっても広いからな。
早良区あたりだともっと短いから、誤差は小さくなるよ。 >>684
誤差は対馬〜壱岐を千里とした場合の
2箇所間の里程に対してであって、
その頓珍漢の2箇所の里程は誤差じゃなくて
場所が間違いって、考えるもんだぞw だから奴国が間違っているんだよ。
福岡市のどこで測っているんだよ。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>690
>そもそも末盧国の場所がおかしい
末盧国は福津(万津浦)辺り。 @阿波 >>692
>そもそも伊都国の場所が可笑しい
伊都国は(直方辺り。 @阿波 >>695
>そもそも三雲が可笑しい
三雲は関係なし。 @阿波 >>691
そうですね。上陸地点神湊説はたまに居るけどすぐ隣の福津市勝浦ですわな。
でも伊都国が直方じゃ近すぎるのと当時は大部分が古遠賀湾なので田川郡でしょ。
鉄器・青銅器の生産基地だったし。んで、行橋から船で沖に出て南の方へ…
そっから先の邪馬台国が畿内か阿波かはどっちでもいい。 伊都国を糸島にすると南へ水行に無理が出る。
100里で奴国なら早良区のどこかあたりで不弥国は海も川も北向きの地域になりますよ。
田川なら位登、伊田、糸田とか糸飛とか音が近い地名あるし東に抜ければ瀬戸内海。
糸島の方は筑後と同じ文化圏だから狗奴国と考えた方が自然です。東西の文化の違いは三郡山地が大体の境目。 卑弥呼も肥国出身であったというだけ。
倭の王都は伊都(糸島)で良いよ。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>700
魏志倭人伝の距離・方位等の記述はデタラメである。なら伊都国=糸島は問題無い。 >>703
>南に水行の起点は帯方郡。
最近それを言い出す九州説がチョロチョロいるけど、
それで投馬国はどこへ行くんだ?
それと南へ行くだけで邪馬台国に着いちゃうけど、それだと冒頭の帯方「東南」大海之中と矛盾するし
帯方郡から南に行くと東シナ海しかないよね? 概ね南だけれど、細かい里程を記載すると朝鮮半島の西岸を南下してから南岸を少し東に移動して、対馬海峡を南下した。 >>705
>概ね南だけれど、細かい里程を記載すると朝鮮半島の西岸を南下してから南岸を少し東に移動して、対馬海峡を南下した。
それなら既に書いてあるんだから、東南水行と書けばいいだろう
後付の無理な言い訳はみっともないぞww アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL6WAQsxbu3kAXBGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>707
>何が不満なんだ?
順次式に書いてきた旅程が何のことわりもなく
起点を帯方郡に戻すような読み方はおかしいってこと
九州説でも伊都国、奴国までは順次式で問題なく読めるんだろ?
そこまで来てどうして急に起点を帯方郡まで戻すんだ?
史書は判じ物でも暗号書でもないんだから、普通に読んで読めるとおりに読めばいいんだよ
「解読」したっていうものは、全部インチキだと思っていい 品川駅から名古屋駅まで何キロ、名古屋駅から新大阪駅まで何キロ
東京から大阪まではおよそ何時間かかります
現代でも普通の表現ですね >>711
>品川駅から名古屋駅まで何キロ、名古屋駅から新大阪駅まで何キロ
>東京から大阪まではおよそ何時間かかります
>
>現代でも普通の表現ですね
品川駅から名古屋駅まで何キロ、名古屋駅から新大阪駅まで何キロ
東京から大阪までおよそ何キロです。
とは言わないな。 駅から東に800メートル行くとコンビニがあって、
右に曲がって東に3分くらい歩くと図書館に着くよ
と書いてあるときに、
3分が駅から図書館に行くのにかかる時間で、
コンビニの位置に図書館がある
と主張しているのが九州説 駅から東に800メートル行くとコンビニがあって、
右に曲がって南に3分くらい歩くと図書館に着くよ
と書いてあるときに、
3分が駅から図書館に行くのにかかる時間で、
コンビニの位置に図書館がある
と主張しているのが九州説 駅から見て図書館は南東方向で
駅から東に800メートル行くとコンビニがあって、
右に曲がって南に3分くらい歩くと図書館に着くよ
と書いてあるときに、
3分が駅から図書館に行くのにかかる時間で、
コンビニの位置に図書館がある
と主張しているのが九州説
最初に南東と書いてあるのに、南に行けば着くと言い張ってるしw 駅から見て図書館は南東方向で
駅から南に800メートル行くとコンビニがあって、
左に曲がって東に300メートルくらい歩くと図書館に着くよ
歩きでおよそ15分くらいだよ
と書いてあるときに、
図書館からさらに東に15分歩いたところに図書館がある
と主張しているのが畿内説 さらにだってそこにはもっと大きい図書館があるからって言ってるのが畿内説
ただしそこは建設予定地 >>717
>歩きでおよそ15分くらいだよ
>と書いてあるときに
魏志倭人伝にはそうは書いてないなww
インチキアクロバット読みw >>720
>途中で単位が里から日に変わるわけないだろ。
日数も「道里」の表現として普通
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 水行=海上の沿岸航行では、里は測れないから、日数で道里を示しているだけ
しごく単純な話だ >>720
>途中で単位が里から日に変わるわけないだろ。
九州説はこういう「思い込み」でできている >>724
>全然反論になってないじゃん
あ、理解できない?
しょうがないなぁww
南至投馬國水行二十日
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳
と連続で書かれているから、水行二十日が「道里」の表現であることが確認できれば
投馬国は女王国(邪馬台国)以北の国(陳寿の認識において)で、奴国、伊都国と同じ扱いだってこと
そして、日数の表現も「道里」の通常の表し方であることが>>721で
具体的な典拠情報をつけて明確に示してある
「途中で単位が里から日に変わるわけ」は、単に船上からは里数が測れないからだよ
ここまで書けば分かるかな? 対馬海峡では船上でも里数を測っている。
日数しかないのは、倭人からの伝聞だから。 >>726
それは方角と距離がが目視でわかるからでは? 日本海や瀬戸内海を水行したとして、陸地からは離れないだろ?
言っていることが思いつきすぎる。
無理矢理に畿内にしようとしているだけ。 >>726
>対馬海峡では船上でも里数を測っている。
>日数しかないのは、倭人からの伝聞だから。
測ってないよ
測ってたら距離が倍近く違う区間を同じ千里とはしないだろう
一日で漕ぎ渡れる距離を一律「千余里」としたのだろうというのが通説 >>728
>日本海や瀬戸内海を水行したとして、陸地からは離れないだろ?
陸地が見えるところを航行するだろうけれど、200メートル離れているか
300メートル離れているかが分からなければ、見える陸地に対してどれほど
進んでいるのかも判断できない
公園の手漕ぎボートでも、自分が漕いだ距離が何メートルか「ボートから陸を見るだけ」で
分かるのかい? >>729の補足
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
こんな感じ 誤差はあってもおよそはわかる。
おまえの知能は3世紀の人間にも劣るわけだ。
魏志倭人伝にたくさん出てくる距離がどれもみな信用ならないのか? 違った、三国志に出てくる里数が全て信用ならないのか?
それらはどうやって測ったんだ? >>733
>違った、三国志に出てくる里数が全て信用ならないのか?
まず、短里を使う理由のある人がどこにもいないことを認めることから始めようか
漢代の里も魏晋代の里も、それほど変わらない(魏晋里の方が少し長い)が、
その里で測る距離と現実の距離がまったく対応していない
実際の測定値とみなすべき理由がない でも比率が正しいのだから、なんらかの単位で測ったのだよね。
それを、里という単位で表記してしまっただけ。
今日、それを便宜的に短里と呼んでいるに過ぎない。 比率が正しくないんだよ
区間で4倍違う
これも短里などはなく実測値ではない根拠になっている 4倍違うのを誤差とは言わない
短里と言い張ってるのが約80メートルだっけ?
それが4倍違ったら、320メートル
奴国までで萬六百里だから萬二千里まで残り千四百里
320に1400かけたら448キロになるから、福岡から畿内まで届くよ
4倍違うのを誤差だって言い張るのは無意味だって分かったかい? >>739
>比定が間違ってるだけだろ、強弁するなよ
對馬國 対馬
一大國 壱岐
末廬國 唐津(松浦川)
伊都國 糸島(怡土)
奴國 福岡平野(儺県、那津、那珂川)
不彌國 不詳(宇美説が多い)
投馬國 出雲
邪馬壹 大和
これはほぼ定説だぞ
特に、伊都国、奴国を動かすのは論外
出雲、大和に反論するならともかく >>740
>末廬國 唐津(松浦川)
>奴國 福岡平野(儺県、那津、那珂川)
唐津には異論が多い。
福岡平野はどこを取るかで全然違う。
そうすると、4倍云々の根拠はまるでないことがわかる。
短里を否定する根拠はない。 >>740
比率が正しくない比定地なのに、それをほぼ定説というのか。
比率が正しくなければ定説とはいえないだろう。ははは大矛盾。 「魏志倭人伝なんか信じられない」と言いたいだけで、結論が先にあるんだよ。
魏志倭人伝に沿った内容では、どうやっても九州から出られないからね。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>742
>唐津には異論が多い。
異論は、カルト化した九州説の人からしか出てこないよ
ひと頃は宇木汲田遺跡あたりを中心と考えることが多かったけれど、
最近は3世紀の卑弥呼の時代には、より内陸の千々賀遺跡のあたりが末廬国の中心と考えられている
いずれにしても、唐津平野の中
>福岡平野はどこを取るかで全然違う。
卑弥呼のころの中心は、王墓とされる須玖岡本遺跡よりも海に近い比恵那珂遺跡群が
奴国の中心集落とされている
>そうすると、4倍云々の根拠はまるでないことがわかる。
伊都国は三雲遺跡群でいいんだろ?
もう一度測り直そうか?
千々賀遺跡ー三雲遺跡間 29.7キロ
三雲遺跡ー比恵那珂遺跡間 18.1キロ だな
それぞれ、五百里と百里だから
59.4メートルと181メートル
4倍よりは縮まったな
でも、3倍は余裕で超える
>短里を否定する根拠はない。
こんないい加減な単位はないだろ
そして、短里の否定の一番の根拠は「短里を使う人がどこにもいない」ことだ
短里は捏造 >>743
>比率が正しくない比定地なのに、それをほぼ定説というのか。
そうだよ
定説レベルで魏志倭人伝の旅程距離は「正しくない」とみなされている
>比率が正しくなければ定説とはいえないだろう。ははは大矛盾。
逆だ
定説では「魏志倭人伝の記述はあてにならない」とされている >>747
>誤差だよ。
ということは>>735の
「でも比率が正しいのだから、なんらかの単位で測ったのだよね」は
引っ込めるってことだね?
「3倍を超える誤差(笑)」が含まれてたら、どうやっても正しい「比率」には
なりっこないだろ?
短里は捏造 3倍程度の誤差を持った測定方法しかなかったんだよ。
でも、魏の人間は、倭人と違って距離の単位を持っていることが自慢だったことが魏志倭人伝からうかがえるからね。
それを捏造とかあてにならないとか、都合が悪いから排除しようとしているだけだろ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 比率が正しくないのだから、定説とはいえないだろう。ははは・・・。 >>750
>3倍程度の誤差を持った測定方法しかなかったんだよ。
ご都合主義もここまで行くとすごいなww >>753
>比率が正しくないのだから、定説とはいえないだろう。ははは・・・。
まさかとは思うが、「比定地」って比率の定説だと思ってないか?
比率が正しくないのは魏志倭人伝の記述が不正確だからで、誰も疑問に思ってないんだが? 魏志倭人伝は正しい=末盧国〜奴国までの有力比定地は間違い
魏志倭人伝は嘘ばかり=現在の有力比定地は正しい
この部分はあってるとか、この部分は間違いとかで単純な地名当てはめだから新説・珍説が出るのよ。
実際、ここが末盧国とか伊都国って物はまったく出てないし。 魏志倭人伝の記述が短里で正しいならば、邪馬台国筑紫説は成り立たない。
逆に畿内説は成り立つ。現在の途中の比定地がおかしいだけ。 >>757
結局
× 魏志倭人伝は正しい=末盧国〜奴国までの有力比定地は間違い
○ 魏志倭人伝は不正確=現在の有力比定地は正しい
が定説ってだけ >>757
>単純な地名当てはめだから
そんな単純な話じゃないよ
考古学的遺物の出土状況を基礎に、地名の類似も見ながら判断している まあそれを言い出すと日本中どこにもイメージの合うところはないけどな
倭国にいるはずの獮猴も黒雉も日本にはいないし 末盧国の風景描写は福津〜芦屋にかけての地域ならバッチリなんだよね。
潜水漁盛んだったし勝浦潟、宗像湾、内面潟、黒山潟、古遠賀湾の辺りは弥生海退後は大葦原が岸辺に広がってたからね。
おまけに短里で壱岐から1000里余り。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 https://translate.google.com/translate?hl=ja&sl=zh-CN&tl=zh-TW&u=https%3A%2F%2Fzh.wikipedia.org%2Fwiki%2F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%8D%BC%E7%8C%B4 魏志倭人伝の記事は南方系だから九州っていう人がいるけれど、
ガチ南方系の情報が紛れ込んでるんだよ
陳寿が所有無與擔耳朱崖同と思ってたからだけれど 陳寿が倭国は南国って思い込んでたってのが大きいんだよな 報告書が短里で書かれていたから、九州が南北に長いと思い込んだ。 >>779
>報告書が短里で書かれていたから、九州が南北に長いと思い込んだ。
報告書を短里で書く人はどこにいるんだい?
建忠校尉の梯儁さんも、塞曹掾史の張政さんも、魏の役人だから魏皇帝による
公定度量衡以外の尺度を使うはずがない
公孫氏ももともと漢人であり最後の瞬間までは漢の官職に就いていたのだから
漢尺の度量衡で育っているし、漢尺の度量衡を使う
倭人は里を知らないと書いてある
どこに短里を使う人がいるんだい?
短里を知っている人も、使っている人もいないのに、
報告書が短里で書かれるってありえないだろ?
こういう基本を無視して論立てするから、九州説はトンデモになる 短里で書かれている、それは事実。
そこからその理由を考えないと。 短里で書かれてるというより韓伝と倭人伝だけ距離を盛ったと考えた方が良い
理由は司馬懿がらみって説を押す 邪馬台国が南にあるとしたのは
倭人にとって魏と結ぶには呉を牽制する位置に首都があったほうが都合がいいからだろ、常考
実際には邪馬台国が東にあって当然 地元民が短里使ってたから
それをそのまま記録したのかも。
倭は里を知らず日数で測るのみ、とか言って
不満タラタラっぽいんだが
里に換算せずに結局日数で書いてるからね。
地元単位系があればそれを尊重して記述する
ルールでもあるんだろ。 >>783
そんな理由で距離を盛ったら、書いた人間のクビが飛ぶよw 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>781
>倭人ではなく、帯方郡の人間だろうね。
帯方郡は本来漢の直轄地
帯方郡の人間が、漢の度量衡以外を使う理由がない >>785
>地元民が短里使ってたから
>それをそのまま記録したのかも。
「かも」ってなんだよ「かも」ってww
要するに、何一つ根拠がないから、憶測で「そうかも」って言ってるだけじゃん >>786
>そんな理由で距離を盛ったら、書いた人間のクビが飛ぶよw
誰が首を飛ばすんだい?
三国志は、陳寿がプライベートで書いた私撰史書
公的なところに提出するために書いたものではない
そして、書かれたのは西晋の時代
晋の高祖、司馬懿を持ち上げておけば、得をすることはあっても損をすることはない >>788
>こっちでは畿内説に人が距離はフィクションだって言ってるけど。
畿内説の人は大勢いるから。言葉の使い方も人によって違うさ
その人は、「実測値ではない机上の作った数字」をフィクションと呼んでるんじゃないの?
>♪邪馬台国ドンと来い!♪141
このスレが「♪邪馬台国ドンと来い!♪126」って時点で、ここがニセスレだって分かるよね?
もう少しだから、だらだらと使い潰せばいいよ 短里は捏造
晋の高祖、司馬懿の功績を称えるために、公孫地討伐で可能になった東夷の朝貢を、
より遠くのものとするために、誇張した机上の数字が書かれているだけ あと200ちょいだから使い潰そうよ
左側スロープ君とか来ないかな?w アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 https://www.youtube.com/watch?v=aljW2VJn7f8&feature=youtu.be
わたしの 球磨郡説 まー 真実が 目の前にあっても それを 理解できない よくあることだ
球磨郡 確実 絶対 100パー 邪馬台国は 球磨郡 にあった
あと 熊襲 だからちがう ってのは むしろ 熊襲だったから いまなくなってるんだろ かな漢字変換がおかしいし、単語の間を無駄な分かち書きするし、
日本人じゃないな Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している
これが今のおおよその意見。
でもこれはヒミコを見つけられない馬鹿たちの言い訳。
卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地が高天原。
その高天原最有力地・奈良県御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
http://goo.gl/maps/dojwZbNsi8q
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。 その説だと天孫降臨も国譲りも茶番にしかならないんだよな
まあ記紀の記事が正しいとは言わないが、神話の時代と歴史時代を
混同して時系列がぐちゃぐちゃになってる >>763
>末盧国の風景描写は福津〜芦屋にかけての地域ならバッチリなんだよね。
>潜水漁盛んだったし勝浦潟、宗像湾、内面潟、黒山潟、古遠賀湾の辺りは弥生海退後は大葦原が岸辺に広がってたからね。
>おまけに短里で壱岐から1000里余り。
だから、末盧国は福津市辺り(万津浦)と、何度言えばw @阿波
↓【東南】陸行500里 福津市→八木
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里
不弥国(千戸)(築上町辺り) >>763
>末盧国の風景描写は福津〜芦屋にかけての地域ならバッチリなんだよね。
>潜水漁盛んだったし勝浦潟、宗像湾、内面潟、黒山潟、古遠賀湾の辺りは弥生海退後は大葦原が岸辺に広がってたからね。
>おまけに短里で壱岐から1000里余り。
だから、末盧国は福津市辺り(万津浦)と、何度言えばw @阿波
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里
不弥国(千戸)(築上町辺り) 1世紀の伊都国遷都が天孫降臨、倭国大乱と同時に神武東征。
卑弥呼が王都である伊都で即位した。 >>803
そういうのは、もういいからw
いくら言っても無駄。 納得したくても、納得しようがない。 @阿波 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>805みたいな長文コピペ貼られると、
スクロールしないと読めなくなるから議論が切れちゃうんだよな 九州説の本は玉石混交って感じ
畿内説の本で読んで面白いものある?
畿内説は論文でなんてのは無しで 九州説の本で古いのは面白いけれど、
最近はもう惰性でやってる感がありありで面白くないだろ?
畿内説って訳じゃないけど、関 裕二氏あたりが、最近の
一般向けエンタメ古代史書いてる 今、九州説を唱えようとすると、あれもこれも否定しないとダメだから、
普通の恥の感覚のある人には無理だろうて 文献を片端から全て否定しないと成り立たない畿内説こそ無理がある。 >>810
>文献を片端から全て否定しないと成り立たない畿内説こそ無理がある。
どこが?
どの文献をどう否定した?
具体的にどうぞ
片端から全て、なんだからいくらでも指摘できるだろ?
さあ、どうぞ >>811
魏志倭人伝の
「(前略)從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國
七千里 始度一海千餘里 至對海國(中略)
又南渡一海千里名曰瀚海 至一大國(中略)
又渡一海千餘里 至末廬國(中略)
東南陸行五百里 到伊都國(中略)
東南至奴國百里(中略)
東行至不彌國百里(中略)
南至投馬國水行二十日(中略)
南至邪馬壹【臺】國(後略)」 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 その行程部分があてにならないのは常識だろ?
末盧国が松浦川の流れる唐津平野
伊都国が怡土郡
奴国は那珂川の流れる福岡平野
これが魏志倭人伝旅程記事と合わないのは常識 魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い
旅程記事は、中国の研究者の読み方でも、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を
総距離と見るのも、漢文の文法からいって明らかな誤読
北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか 単に三世紀末に畿内に比較的大きな国がありましたってだけ言っとけばいいよ
元々それだけなんだし そしてそれは邪馬台国との関係なさそう(関係するという証拠がない) 九州北部の博多は、広くはないけれど交易により栄えた国でした。 司馬懿の手柄にするため ウソにならない程度に
山田国を大国に見せかける記述をした 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>823
後漢が斃れ魏が立った時に周朝の短里を採用したことは中国の歴史研究者も文学者も認めてる確定事項
魏志30巻の内30巻目の東夷伝の倭人条だけが急に長里を使うわけがない >>818
>合わないなら比定地が間違っている。
そういう魏志倭人伝原理主義って意味ないからやめなよ
異国のことを適当に書いた文書が無謬な訳ないだろうに
「史料の限界」を一切無視した議論は、議論じゃないよ >>823
>纏向説の人は何で短里を否定するの?
そもそも短里が存在しないからだよ
当たり前
短里を使う人がどこにも居ない
公孫氏はもともと漢人
魏使は魏の度量衡に従う
倭人は里を知らない
どこに短里を使う人が居るんだい?
短里の存在価値は、短里だと九州説に有利そうに見えるからという
九州説の人だけに意味のあるものでしかない >>826
>後漢が斃れ魏が立った時に周朝の短里を採用したことは中国の歴史研究者も文学者も認めてる確定事項
これが大嘘
6尺=1歩、300歩=1里に変更がない
短里があるというなら、短歩、短尺があったことになるが、そんな不便なものは使いようがない >>828
魏が周朝の短里を採用したことは中国の歴史研究者も文学者も認めてる確定事項 >>829
中華思想では前政権を全否定するために貨幣を含めた単位を取り替えることは頻繁にある >>832
>中華思想では前政権を全否定するために貨幣を含めた単位を取り替えることは頻繁にある
貨幣を改鋳するのと、生活に密着した度量衡を代えるのではインパクトが違うんだが?
「魏が周朝の短里を採用したこと」
これを示す文献の原文を貼ってくれればそれでいいんだが?
出せないのかい? >>833
今どき古田史学の会のウェブページに信憑性があると思ってるのがすごいな >>833は東日流外三郡誌も偽書じゃないという立場なのかな? >>835
反論するなら古田史観の誤りを明示してみせてくれ。 王様が即位するたびに、王様の腕の長さで尺を変更していたのはエジプトだったっけ? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 邪馬台国論争がいつまでも続くのは
アカデミックの学者の怠慢だよ。
中世史の場合は、呉座先生みたいに
在野の歴史学者の陰謀論を明確に否定する学者さんが出てきたけど
考古学の場合はそれいがいない。 >>837
>反論するなら古田史観の誤りを明示してみせてくれ。
古田氏観の明確な誤り
つ「短里を前提にしている」
もう少し詳しいのは、既にあるから、そっちを見た方が早いよ
http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu.htm
古田史学はチェリーピッキングと史料曲解釈でできている >>838
>は日本語が理解できないバカ
どこが日本語が理解できていないのか「具体的に指摘」してみてくれますかね?ww >>841
>考古学の場合はそれいがいない。
まあ、方々で村おこしに使っちゃってるから、それを無碍に否定できないってのもあるし、
下手にはっきりしたことを言うと、>>838みたいなのを刺激することになるからww 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 邪馬台国論争は「邪馬台国の会」と「古田史学の会」の信者が
どっちが頭おかしいかを競う場になってるなw ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 具体的に指摘してって言われて消えるくらいなら最初から嘘を書かなきゃいいのに あと150くらいだからよく踊るオチ担当が一人来ればすぐに埋めるのになぁ 沖ノ島の祭祀を見てもわかるように、4世紀や5世紀にも筑紫は栄華を極めている。 >>854
>沖ノ島の祭祀を見てもわかるように、4世紀や5世紀にも筑紫は栄華を極めている。
4世紀や5世紀の沖ノ島祭祀は畿内系遺物ばかりで、ヤマト王権が主導してるんだが
それを「筑紫の栄華」というなら、九州の繁栄はそれ以前から畿内主導の栄華ってことでいいなw 畿内と加耶地域に共通する4世紀の出土品がある
こいつは北部九州からはほとんど出ない
4世紀には畿内と加耶の方が交流が強かった証拠 >>858
畿内系遺物とは具体的には何?
色眼鏡でしょ? >>864
>畿内系遺物とは具体的には何?
つ 三角縁神獣鏡
文句なく畿内系だろ?
これだけではなく、初期の祭祀跡の遺物は大雑把にいうと畿内古墳の副葬品と共通のものが多い >>877
そう思うなら>>877が仕切ればいいだろ?
誰も止めないよ?wwwwwwww
このスレの>>1を見れば、これが偽すれで長年放置されてたものだって分かるだろ?
さっさと使いつぶせばいいんだよ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 過疎スレの偽スレ? ワロタ・・・
でも、広鼻ブラック先生用に age とくか?
てか、梅
↓ 親魏倭王(女王)国は九州
親呉倭王(大王)国は奈良
邪馬台国=ヤマトの国=倭国&倭種=日本列島全体 また転写保存です。
454>>673
>そのうちの仮称「ヤマト国」を中心に、吉備、出雲、丹波、滋賀、おそらく東海、
北部九州の奴国が談合相乗りで共立したのが卑弥呼だよ<
「南≠東」などに拠って、スレ主は、×。 454>>674
>それで、どうやって奴国から邪馬台国まで水行、陸行で行くんだ?ww<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから×であり、
魏使らは奴國を通っていないから×だし、
末盧國から邪馬壹國女王之所都へは、水行しないから、×。 454>>681
大和説のやつらは、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者らの本しか読んでないから、
基本的な知識に欠けるわ 454>>685
>>畿内説を通すには文献ガン無視するしかないのかw <
>どの文献のどの部分をガン無視してると認識しているの?
その部分を「具体的に引用」してくれるかな?
>議論したかったら、その程度はできるよな? よほどの『無能』でもない限り? <
スレ主が「南→東」と嘘つき騙しをした「南」だよ。
その程度は見つかるよな?。よほどの『無能』でもない限り?。 454>>699
>どうらやソレは「九州説死亡のお知らせ」ですのよ
九州でソレがあるのは、どこ?<
確かどなたか?が、
朝倉付近の小地域國の「宮室樓觀、城柵嚴設」の例を書いておられたし、
吉野ケ里もあるし、
また、安徳台からもおそらく見つかる。 454>>702
>「宮室」が建物D、「樓觀」が建物B、「城柵」既出 はい、クリア<
建物Dの「居住生活痕跡」が全く不明だし、
建物Bの「高い建築」の石床などが見つからないから、× 454>>704
>>現実の地理と記載里数の比率が、有効数字1桁近似値程度できちんと一致しているし、<
>そうなる場所を探しただけだから 循環論法になって 九州説なペケ <
魏使らが「そうなる場所を探した」なんて、
有り得ない妄想詐欺論法になっているから、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、ペケ。 454>>706
>>(范曄の書き分け)帯方郡と楽浪郡の距離も近くにほぼ隣接している、
という程度の判断でしかなかった、<
>一つの郡を分割したのだから完全に隣接している はい、失格 <
「同じ事」を言っているだけで、反論になっていないから、
スレ主は、・・・・アホ詐欺師であり、×。 454>>707
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説って、
その記述の中の「自為王以来少有見者 以婢千人自侍」は絶対に引用しないよな
纏向の掘立式建築群では、あんな狭いとこに1000人の婢なんてどうやっても居場所がない 454>>708
>垣根か何かも分からん穴を見て城柵と妄想する畿内説ってwww<
ふーん。 454
>自分の書き込みに対して説明を求められて、それに返答することすらまともにできないなら
出てくるなよ <
自分の「南→東」などの嘘吐き騙しになる書き込みに対して説明を求められて、
それに返答することすらまともにできないなら
出てくるなよ また転写保存
458>>156
>倭王武=雄略<
「南≠東」や「唐会要倭國伝の正北抵新羅」などに拠って、×ね。 >>178
>○墓の築造には、奈良盆地の端から端まで人が並んで、手渡しで大阪山の石を運んだ。
これで十分でしょ。十分卑弥呼の痕跡が残っている。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>179
>『卑弥呼以死 大作冢』
と、卑弥呼の代になって巨大墳墓を造った記録が残る。
記紀にも、詳細な古墳築造記事が残るのは箸墓だけ。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>182
>いずれにせよ、最初の巨大古墳が卑弥呼の墓で、
それがある場所が邪馬台国の所在地だ。そしてそれは箸墓であり、纏向だ。 <
「南≠東」などに拠って、×。 また転写保存
458>>787
>普通の人はテンプレの九章算術の例を見れば、すぐに理解できる<
九章算術は、里数での記載と、日数での記載とを「混ぜた記載をしている」のであり、
陳寿のような「道程を里数だけで記載する=道程」という記載法を採っていない、
という事になり、
人間が違えば、「道程」という言葉の意味も違う可能性もあり、
だから、九章算術の記載は、陳寿の記載法の根拠にならない。 458>>794
>旧唐書において、
「日本国は、いにしえの邪馬臺国である」と書かれていない時点で、畿内説の根拠は失くなる。
また、隋書でも邪馬臺国という国は登場しない。
邪靡堆国という国が登場して、なお且ついにしえの邪馬臺国である、と書かれていれば3世紀から継続して畿内に存在していた可能性も出てくる。
しかし「古の」≠「所謂」。
所謂というのは「等価ではあるが、そのものでは無い」という意味。
文字表記を変更されているのもそれを意味する。<
ふーん、成程。 458>>797
>旧唐書で「倭國者,古倭奴國也。在新羅東南。居大海之中」と書かれていて、
旧唐書の出来が悪いっていうんで書き直した新唐書で<
新唐書は、旧唐書や唐会要と違って「倭國」伝を立てず、
倭國の存在や歴史を隠蔽しようとしたから、半分×史書だよ。
>「日本,古倭奴也。…直新羅東南,在海中」と書いてあるんだから、
古の奴国から、ずっと日本列島上にある国が倭国であり日本、つまり同じ国なんだよ<
倭国の存在や歴史を隠蔽したから、半分×であり、
倭國の存在の隠蔽部分は、根拠にならない。
何も難しくないのに、大和説者やスレ主は、
チェリーピッキングしてるから歴史が見えなくなる。 458>>821
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者らの、
過剰な郷土愛も、ここまで来たら病気だよ。 458>>827
>→そのままズバリの「ヤマト国」はなぜか無視<
大和説者は、
魏志には「ヤマト国」なんて、全く書かれていない、
という事を無視。
>→3世紀は日本列島全体で人やモノの移動が活発になる時期で、畿内系住人も北部九州に移住していて、
北部九州が初期ヤマト王権の傘下に入っていたことさえ知らないお粗末ぶり<
大和などは、九州倭国の「東征毛人五十五國」の国々であり、
九州倭国への献納や、文化の模倣があった事を知らないお粗末ぶり。
>→倭人一般の記述を邪馬台国にすり替え、しかも入れ墨は本州の風習だということを知らないお粗末ぶり<
魏の役人らは、東は足摺付近の侏儒國付近にまでしか行っていない、
という事も知らない、大和説者のお粗末ぶり。
また、末盧国から伊都国の方角が書かれていない、ということさえ知らないお粗末ぶり
>→道里を計ると書かれているのに、海流に流されるに歪曲する
しかも、当時は東シナ海横断はできなかったことも知らないお粗末ぶり<
陳寿は、「道里」と「所要日数」とを書き分けている、
という事も判らないような、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の大和お粗末ぶり。 458>>906
>正直に言って、あの番組に出た学者さんより、ここにいる畿内説の人の方が
多くの情報を知っているし、正しく読んでるよ
畿内説の主張は単なる想像ではないし、あの番組の主張はまったく正確性を欠いている<
ダメだ。
畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
大和説者は、全員、「南→東」などの嘘付き騙しの・・・・アホ詐欺師だ。 458>>907
>末盧国の記事は、地理の紹介であって、魏使の経路ではない<
「濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之」は、
明らかに、国内見聞移動があった事を示す文だな。 458>>920
>1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念<
引用説明では、「余」などを付けずに「簡単な数字だけ」での、説明語を選択するし、
史料事実は「余」があって、計測値からの近似的は説明文言になっている。
>2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程<
「余」があるから、魏使らの計測値の近似数値。
>3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程<
水行十日陸行一月は、「女王之所都」の数値説明であるから、
出発地の郡から女王之所都の所要日数説明。 他スレの、さらに前スレへのレスを連投するとか、マジで狂ってるな ザラコク、連続句読点、キウス、松傾、左側スロープ、吉井信号、泡バカ
邪馬台国論争は基地外ホイホイw >>978-9
スレ違い
あんな連中を呼び込むような書き込みは控えるべし
ザラコク、松傾は手遅れだけど >>981
モラルというか人として持つべき常識がいろいろと欠落してる このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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